選出作品

作品 - 20071212_160_2496p

  • [優]  器II - りす  (2007-12)

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器II

  りす

みなもに鮎が跳ねて 手鏡のように光り それが何かの合図であるかのように ふと背景が居なくなってしまう初夏の岸辺や シティホテルの最上階で 冷えたプールを眺め 陽射しもないのにサングラスが欲しくなる 第4コースの深い揺らめきが 容積にしておよそ1リットルの器の中に身を寄せ おそらく忘れ物でもしたのだろう プールサイドでは少年がランドセルの中身をあらためながら 筆箱の収め場所に悩んでいる プールの底には教室があるのだろうか(水色の黒板の上、立ち泳ぎで方程式を解いたり?)そのような疑いに 私が少し首を傾けるだけで 少年の黄色い学童帽はバランスをなくして みなもに落ちてまずは やわらかく浮くだろう 浮いたらゆっくり水を吸いとり 沈むまでの清潔な待ち時間に 傾けた首をそっと元に戻しておくこともできる とっさに手を伸ばせば繕ってしまう綻びのはじまりに 少年は塩ビ製の筆箱の角を潰して ランドセルの空間の造形に余念がない 乾いた黄色から濡れた黄色へ ゆるやかな布地の変色にも気づかず 学童帽に留まっていた少年の小さな頭の名残も とっさに手を伸ばさなかった という理由で失われていくとすれば 首を傾げる前に忘れ物を手渡すことを 忘れ物はありません そうひとこと云い添えることを あの朝に忘れていたのではないかと 親でもないのに少年のことを気遣っていることが とくに不自然な心持ちでもない冬のはじまりだった 初霜が平等に降りて もの思いに招かれる朝の 半歩手前の暗がりには それとわかるように 藁のような乾草が盛られた あたたかい膨らみがある 今日の暖をとるために その狭い温もりを掻き分け 冬支度に忙しい真面目な地虫たちを掘り出し いちいち名前を尋ねて きちんと整列させるわけにもいかず 踏みしめても身を硬くして生き延びる 強い生命への気安さから 固い靴底で膨らみに踏みこんでしまう私は 器にわずかばかり残ったコーヒーを 電子レンジで温め直す儀式を 家人に疎ましがられても やめることができない 少量を適度に加温することは難しく 目盛のついたスチールのツマミに 秒の単位まで分け入っていく はりきった指先と視線の 愚かさと自愛を量る天秤が チンッという音と同時につりあってしまう瞬間に つとめて無関心でいることで 残り少ないコーヒーを 美味しく頂くことができた 空の器を覗いていると 対岸の町が見えてくる そこはかつての学区外で 知らない人ばかりが暮らしている 石を遠投して様子をうかがうと ときどき届いたという合図が送られてくる 合図があった日には おろしたての新しい器に手をかけて 冷たい縁を円にそってなぞりながら 最初に口をつける場所を 決めることにしている