獣と歩いている。なるべく遠くへ行く。鋭そうな長い爪、全身を覆う灰色の毛、感情表現のできない尻尾をもつ、獣と歩いている。
晴れた日に獣は踊る。雨のときは木陰で歌をうたう。獣のうたう歌はふしぎだった。踊りはもっとふしぎだった。そういう習性なのだろうか。雨の日も風の日も、獣は同じ回数だけ息つぎをし、同じ角度でポーズをとった。
獣が踊っている時、あるいはうたっている時、わたしは食べられそうな果物を探す。女はいつだって生産的なのだ。獣は、長い爪で器用に果物を食べる。皮と実のあいだがいちばん美味しいんだよ、と笑う。獣の口からしたたっているのが、果汁なのか唾液なのか、わたしには分からない。
獣は土を掘り、食べられない種を埋める。再生を願うその姿を、うつくしいと思った。獣の手によって、埋められた種のおおくは死んでしまうのだと、いつだったか教わったことがある。この種は、はたして発芽するのだろうか。たとえしたとしても、そのころにはわたしたちは、どこか遠いところにいる。
夜になると、獣はわたしをはだかにする。長い爪をたたんで、わたしの肌に泥がつかないよう、汚れた手のひらをなめる。わたしのはだかを見て、獣はああゆかいだと叫ぶ。はだかはゆかいなの?ああはだかはゆかいだ。わたしの乳房にふれてみる?ああ乳房はもっとゆかいだ。獣の唾液が、清潔なわたしの肌のうえで回転する。回転し、落下してゆくさまを、わたしは暗闇のなかで見る。
獣が寝つくまで、わたしが何かお話をしなければいけないというのは、金木犀の季節からの約束だった。獣は、悲しい話ばかりを聞きたがった。誰かが死ぬ話はとくに喜んだ。わたしは即興で話をつくる。母親が死ぬ話。赤ん坊が死ぬ話。子犬が死ぬ話。処女が死ぬ話。はなしながら、わたしは獣が寝返りをうつ回数をかぞえる。1回。2回。3回。4回。8回目に到達するころには、獣は眠りはじめる。つまりそういうしくみだった。
ときどき、獣は西に向かって吠える。何に威嚇しているのかは、わたしは知らない。林檎を与えても、葡萄を与えても、獣は吠えつづける。興奮し、わたしに牙をむきさえするとき、わたしははだかになる。暗闇の中に、突然ぼうとうかびあがった、わたしの白い肌。ひるんだ一瞬のすきをついて、獣のひたいを、両の乳房に押し付ける。そうしてそのままふたり倒れて、のどが渇ききるまで眠るのだ。
獣と歩いている。なるべく遠くへ行く。鋭そうな長い爪、全身を覆う灰色の毛、感情表現のできない尻尾をもつ、獣と歩いている。獣とわたしが、いったいどこへ、何をしに行くために歩いているのか、いまとなっては忘れてしまった。乳房のあいだにある頭を、力まかせに抱きしめると、獣は細い弱い声を出す。それが鳴き声なのか泣き声なのか、わたしには分からなかったが、あらゆる光が上昇するなかに、獣を怯えさせるようなものは、何一つ無いように思えた。もうすぐ朝になる。はだかのわたしは獣の頭を抱えたまま、西に向かって吠えた。
選出作品
作品 - 20070511_295_2060p
- [優] 獣をください - 中村かほり (2007-05)
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獣をください
中村かほり