水で満たされたタンクを抱え少年は走る。道の両脇に立ち並ぶ小屋からひとすじ、またひ
とすじ、炊煙が立ち昇りはじめる。雑音交じりのテレビはイングランド訛りの英語を喋っ
ている。蒸し暑い小屋の中で男達は遥か北の、かつての宗主国の首都から届けられるフッ
トボール中継に見入っている。
ハイバリーのスタンドでは、白人の少年が頬にホームチームの赤いフラッグをペイントし
ている。敵ゴール前にぬっと立つ、長身でやや細身、背番号4番の黒人FW。彼はロンド
ンの空模様に慣れない。薄寒いし、雨ばかりだ。それに背中がやけに重い。ボールが自陣
にある間くらい、ハイドパークを散歩するような気持ちでいなければ、こんなところには
いられない。
風が吹いても、ここではシャツが、男達の背中にはりついたままだ。少し離れた幹線道路
は今夕もひどく渋滞している。苛立つタクシーのバックミラーで揺れる、“4”を象った
白地の、緑で縁取られたキーホルダー。FWはときに厄介な荷を背負いこまなければなら
ない。炊煙がラゴス島の方に棚引いていく。
ゴールを決めるたび、故郷が遠ざかっていくような、そんな気がしている、もう何年も。
それでもこの島で点を取らなければならない。数本のロングパスがイングランドの曇天を
渡る。空を見ているのはボールが落ちてくるからじゃない。ヘディングは得意じゃないし
、ボールはいつだって、彼の足元に吸い寄せられる。厚い雲の向こうはきっと夕焼けだろ
う。ママのキャッサバが茹で上がる頃だ。
アルー アルー アナウンサーがひときわ訛りの強い英語で叫ぶ。赤に染まったバックス
タンドがうねる。ボリュームが増して、テレビの雑音がひどくなる。男達が一斉に息を飲
む。4番の足元で、時間が伸びて、縮む。
アルー 小屋の入り口に立ち尽くして、少年は小さく呟く。足元で倒れたタンクから水が
流れ出し、少しずつ、踏み固められた大地の色を変えていく。けたたましいクラクション
が聞こえてくる。沸騰する鍋からキャッサバが引き上げられる。少年の背中に、色あせた
4番がはりついている。
選出作品
作品 - 20070329_250_1956p
- [優] Million miles away - 宮下倉庫 (2007-03) ~ ☆
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Million miles away
宮下倉庫