選出作品

作品 - 20070222_415_1863p

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赤い櫛 

  袴田

  あたしに痛んだ赤い櫛を 誰も近寄らない路地に捨て 誰にも拾われないために髪をからませ 青草などぱらぱらとまぶしておくと 見あげる細長い青い空は 色見本の短冊のように美しすぎて 眼差しで色をはじいてしまえば ぺらぺらと軽々しく剥がれて 私の首に落ちて絡まってきそう あたしその無色を支えようと いつまでもあたし たった一度の瞬きができないでいた、

  生まれたからには生まれた時より 少しでもましな人間になって死にたい だって てめー そうは言うけどよ 考えてもみろ この現場で足場組んでる奴ら みんな堅気の人間じゃねえよ さっき飯場で汗拭ってる時 背中に彫り物があってよ 龍がこう 首を持ち上げてよ 赤い舌出してよ オレのこと こう睨みやがってよ 奴らの背中 血が通ってねえよ 奴らがまともに板組めると思うか 奴らに命預けてるんだぜ 前の現場でよ 落ちた奴いてよ ボルト何本か抜いてあってよ 死んじまったよ まったく ひでえ話もあったもんだって そんなんでよ ましな人間になる余裕なんて あるわけねーべ オレのコレに赤んぼできてよ オレだって今 大変だけどよ、

  子供と視線の高さを合わせることが必要でしょうね 怯え という膜が 子供の心の表面を覆っていまして 何かに触れた時にそれが震えてしまう 破れてしまうことがあります いや コーヒーはもう結構ですから 胃を悪くしますのでね それで 視線の高さを合わせるというのは 別に意識の問題だけではなく 実際に姿勢を低くして 中腰とか片膝をつくなどして 子供とあなたの眼球の位置を水平に保つようにすることです この力の均衡が先程の膜を 穏やかな状態に保つのですね 静かな湖のように像を結ぶのですね 子供はあなたが考えている以上に 瞳の暗闇をよく見ています 暗闇に映る自分の姿を見ています ああ お茶を頂くことにしますよ どうかあまりお気遣いなく しかし暑いですね毎日 やっと五月だっていうのに、

  膝を折って光を避け 首を折って湿った苔を爪で削り パンプスの先端に擦りつけると 青臭いだけの気流が生まれて 無遠慮に首筋へ滑り込む気配がして しばらくあたし たった一回の呼吸ができないでいた 無計画に並んだ室外機がビル風でカラカラと回り 回りそうで回らない羽根があってもどかしいので 唇を尖らせて息を吹きかけると キャベツの葉っぱのように重たくて このまま今日は回らないつもりなのだろうと諦めていたら 突然勢いよく回転し始めるので 青臭い匂いは千切れて消えて あたしの爪の中にだけ深い緑となって残った、

  そういえばよ あのマンション 全然買い手がつかないらしいんだ そうそ あの横長の 白い建物さ 珍しいべ 東京23区でよ 駅から近くてよ まだガラガラなんだって 気持ちわりーな スカスカのマンションて なんか気持ちわりーな たまにあるんだってよ エアポケット っつーのかな よくわかんない理由で人が住みたがらないマンションがあるんだってよ てめー どうよ あそこ絶対お買い得だぜ 辛気臭い顔してないでマンション買っちまったらどうよ 今のアパートよりましだべ かみさん喜ぶべ なあ 今よりましだべ オレが? オレは駄目さ オレ コーショ キョーフ ショー だから 駄目なんだオレは コーショ キョーフ ショー だからよ、

  放熱するモーターの唸りが聞こえてくると ここはもうあたしの領域ではなく それは赤い櫛にふさわしい騒々しい情動のはしくれで 切り取っておくべき余計な部分として存在して どこかに寄せ集めて放っておくより手立てがないみたいで ああ なんだ あたし息してる 寄せ集めたら息してる でも瞬きができない、

  ところでご主人は銀行にお勤めでしょう いえね 本棚に金融関係の専門書を見かけたものですから たぶんそうだろうと では ご帰宅はいつも遅いでしょう お子さんと顔を合わせる機会があまりないでしょうね 私だってそうですよ 平日は子供の顔なんて見たことがない 土曜日に一週間ぶりに再会しては お互いの安否を確認しあうといった感じでして 勿論そうですね その時も 目線を合わせてお互いがお互いの瞳に映っているかどうか きれいに映っているかどうか 確認するわけです いえね 実は妻とは死別しましてね 早いものでこの五月で もう七年になりますが まだ赤ん坊だった息子を残して 逝ってしまいましてね、

  いや 奴が落ちたのはあのマンションじゃねーよ 別んとこでさ そこはちゃんと全部売れたってさ 結構死ぬんだぜ現場でさ そんなんは隠すにきまってっからよ みんな知らねーで買うわけだけどよ だからって関係ねーよ そんなんは気持ち悪かねーよ たくさん人間住んでんだから さっきもいったけどよ スカスカのマンションが 気持ちわりーのよ そんなの建てちまったらオレ この商売やんなるね なんかでっかい墓でも建てたみたいでね あ ほら見てみろ あいつの背中に龍がいるんだぜ 雲の上に長い首だしてよ 赤い舌べろんと出してよ 汗かいても冷たいんだぜ あの背中は ほんと気持ちわりーよな、     

  ちょっとそこまで と言い置いて部屋を出たわりには あたしはとてもきちんとした身なりをしていて どこに出しても恥ずかしくないから どこまでも行くつもりでいたのに 案外近くであたしは諦め 髪をほどいてばっさりと背中に落としたら急に 広い道は歩けなくなって何だか 整えたいものがあるような気がして 体ひとつぶんくらいの路地に嵌まり込んでみたのだけれど 薄い胸が空間を持て余してするすると あたしするすると入り込んでしまい ああやっぱりどこまでも行けるのだ思っていたら ここから先 私有地です という看板に遮られて ああやっぱりあたしそのへんまでしか行けないんだと諦め そういえば整えたいものがあったんだと 手鏡を鞄から出して襟元を直して 手櫛で重たい髪をとかしていたら あたし何であの赤い櫛を使わないんだろうと思い出して 暗い場所で冷たい胸元に手を突っ込んで長い時間 赤い櫛を探していたんだっけ。」」