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作品 - 20060207_663_953p

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雨の庭

  fiorina

雨が降ってきた。
やや強い降りになると、雨よけの庇は役に立たず、錆びた鉄の階段は濡れて滑った。手すりを伝いながら彼は一段ずつ慎重に足を運ぶ。古い木造アパートの、二階のとっつきの引き戸が細く開いて、女の顔が覗いた。
女は時折、窓辺の花をすっかり入れ替えた。30センチほどの奥行きの半間のバルコニーで、今雨に打たれているのは、7、8株の丈の高い白と紫のアヤメである。しどけなく開いた大輪の花びらに、雨は容赦なく沁みていき、深い緑の葉を光の雫が間断なく流れる。その窓から、ひと間の和室は深い沼へと沈み、降り続く雨音を遠く追いながら、彼らはひっそりと触れ合い、互いの魂の底に落ちていった。

     * * *

老人は枝折り戸を押して細い道にはいって行く。両側の竹垣から山吹の葉が小道に向かってつんつん伸びている。既に開いた一重の黄色い花びらの間から、無数の固い蕾もまた、先端に蛍のように黄を点している。こうして花々は無言に、次の朝を、季節を、老いの命にも約束する。道の突き当たりに格子窓があり、どこか不釣合いな古びたレエスのカーテンが、中ほどまで垂れている。その下に置かれた青い縁取りのランプが、レエスの複雑な編み模様を浮かび上がらせている。夕闇が迫るにつれ、ランプの芯はオレンジを濃くし、傘のブルーを深くし、白いレエスの影を妖しくしていった。その窓に向かってゆっくりと歩を進める瞬間を、一日のうちで彼は最も愛おしんだ。こうして帰ってくるために、午後の散策を欠かさないのだというようにーー

食卓には、質素だが明るい手の届いた夕食が整えられ、既に食べ物を与えられた老猫が、目を細めて板の間に丸まっている。手伝いの女は、必要な家事を済ませ、食事の支度を終えると、決して彼と顔をあわせることなく帰っていった。その女が来るようになって、庭の景色が少しずつ変わって来た。(雨の庭に欲しいのは・・・)ふいに声がする。



雨の庭に欲しいものは・・紫陽花 芙蓉 ・・ボケ アヤメ ・・・・
     睡蓮 山吹 ・・竹に苔  ・・・・・
  下野 白バラ・・・・秋海棠 と 藤袴



まだ若い、身の定まらない日々に暮らした女がいた。
女は、ある日忽然と彼の元から姿を消し、それが置手紙とでもいうように、窓に吊るした一枚のレエスと青いランプだけを残した。彼は驚き、愁傷し、手を尽くして探索したが、やがて捜すことをあきらめてみると、女の去ったことが至極自然であるのを感じた。ランプの明かりのように、ボウと霞んだ女との日々が、彼の中に喪われていないことも。女は白い一塊の雲で、その頃彼を苛み、滅ぼそうとしていた黒い太陽をつかの間さえぎってくれたのだった。女が去ったとき、再び現れた太陽は、幼年期の白いまぶしい輝きを取り戻していた。彼の耳の奥で、絶えず鳴っていた蝉の羽音は静かな雨の音に変わっていた。



幾人かの女を愛し、生死の離別を重ねた間にも、彼はあの女が思いついては歌うように呟いていた雨の庭の花を、彼の中に降る雨に咲かせていた。(でも、雨の庭に一番欲しいのは・・・)女が言い終わらないうちに抱き寄せた夜に、聞き逃したただひとつの花の名を除いて。

     * * *

暮れ残った庭に向かってひとり箸を動かしていると、また声が聞こえる。彼は耳を澄ます。いつの間にかまた雨が降り始め、猫が目を開いて彼を見ている。(お前も聞いたのかい?あの声を)彼は問いかけ、自らうなづいたが、老猫はむしろ彼の心を聴いているのかもしれなかった。
その一夜を雨は降り続け、明け方になって止んだ。子どもがわっと泣いた後の眼に映す世界の美しさが庭に満ち渡っている。いつの間にか、群生する青い竹と竹の間に、新たに一元の水引草が植えられていた。丸い水滴を宿した尖った竹の葉を縫って、朝の光が水引草の赤い点々を浮かび上がらせている。一度雨に沈み、光によってふたたび蘇ったそのあまりにも鮮やかな朱は、彼岸とし岸をつなぐきづなのように、懐かしい痛みを、彼の瞳に滲ませた。

文学極道

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