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--- かとり [ 未登録ユーザー ] @ 2015.01.18 (Sun) 00:25:

過去ログにある作品に対する批評や返信にお使いいただければと思います。

引用付きで返信   


--- かとり [ 未登録ユーザー ] @ 2015.01.18 (Sun) 03:13:

いただいた批評に対する返信ができないまま過去ログに格納されてしまったということがあり、返信のため勝手ながらトピックを作らせていただきました。
批評にも返信にも言葉の瞬発力や構成力など詩作に通じる基本的な言葉の扱いのちからが反映されると思いますので、ちからのなさのうみだす状況に対する逃げ道のようなトピックをつくることに逡巡がありました。(考え過ぎかもしれませんが)発足からいままでこういったコンセプトのトピックがなかったことは確かなので過去ログの作品に対するコメントをアクティベートすることについて少し考えました。
原則として今のしくみの要請する通り現行ログに素早く反応するかまえで臨むことは大切だと思いますしそれで自分もちからをつけていきたいとおもうのですが、
詩を読み込もうとするうちにコメントの機を逸して過去ログに格納されてしまったり、
過去の作品のアーカイブをよむうちに書きたいことが浮かんだりといったときに、
書き込めむためのスペースがあることは悪いことではないのではないかと考えました。
また1回性の水平的な視点になりがちなネット詩の批評に、振り返りというか、時間的に縦の軸での批評の要素が増えたらおもしろいのかもなどと考えトピックをつくるにいたりました。ご意見等ございましたらよろしくお願いします。
勝手な動機ですみませんがご利用していただけましたら幸いです。

引用付きで返信   


--- かとり [ 未登録ユーザー ] @ 2015.01.21 (Wed) 00:26:

http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/402.html#20140714_023_7542p
上の作の、右肩さん、すずらんさんへのご返信です。

ご返信が大変遅くなって申し訳ありません。
書いているときはずっとこの作品を最後にできればといった腹づもりでいたのですが、そんなふうな位置づけであったにもかかわらず、書いたものに対して私はなんら説明をつけることができないことをご返信する段になって思い知って唖然としました。自分にとって思い入れのある作品ですのでちゃんと返信したい気持ちが強いのですが、自分で書いたものを何度読んでも肝心なところにとっかかりがつかめないでいます。ですがおふたりのコメントを読んで考えることでわからないなりに整理がついていったところも大きいように思います。本当にありがとうございました。
これを書いているときの原動力のようになっていた印象は「書く」ということを眠らせることを通してしか、書き続けていくことができないんじゃないだろうかという印象でした。書くことを通して綴られていく物語と、書くことそのものを含んだ物語が互いに補強しあって固着されていくことが恐ろしく、書こうとしているものの物語性に捕らわれないように、と抜けのある展開を導こうとしたときに、書くことを一旦止める、眠らせるという方法論しか思いつかなかったということが実感としてあった詩のアウトラインでした。(すみません。続きます。)

引用付きで返信   


--- かとり [ 未登録ユーザー ] @ 2015.01.28 (Wed) 23:06:

今もじぶんの制作の経緯を編纂し、物語としてじぶんで物語り、発語することで通過させているそのただなかにいるということを、確認しつつ歪めようとしているのだというような気がしますが、人間にとっての物語と、それと一体になって演じているじぶんの役割とが機能し覚醒し、働きつづけることが、どのくらい未来に資するのだろうという疑問がありました。うまくいえませんが、程度とか、バランスの問題として、対象との関わり方の問題として、身体的なあるいは時間的な問題としての、私を取り巻く物語の覚醒と睡眠についての物語を、このとき書いてみたかったのだろうと思います。変な言い方かもしれませんが、覚醒し続けていたら眠くなる、ということを実感しておきたかったというか。あるいは書き方が行き詰まったのでより断片的で瞬間的な表現に移行するため物語を強引に完結させる必要があったということで寝落ちになったのかもしれません。

右肩さんへ
右肩さんにご批評で触れられている、”人の物語”という語について、
>寝床に、散らばって、
>動く、血液の、かなた、次々と、
>3人称が、瞑る、崖には、
>高い、音が鳴り、くぐもって、
>焼き付く、人間の物語。
という具合に投稿する少し前まで詩の中で使っていた語だったのでびっくりしました。
>物語の二つの型が両輪となって寝床で過去と未来を生産する。
>駆動する機関を停止するには眠ること。眠ることで兎も角終わる。それは既に語りのカタチとして当たり前にあるのだから。
といった言葉に大変示唆をいただきました。蛇に睨まれた蛙みたいに固まってしまった感じです。最初にコメントをくれた人は右肩さんで、ここで書くようになって、最後のつもりだったものにもコメントをいただけたのに自分はお返事ができなかった、ということが啓示めいて感じられています。おかげさまでもう少しよたよたとやってみたいと思うようになりました。
蟹と兄のご指摘については、一番言葉にならないところなのですが、カインとアベルとかカストルとポルックスとか兄弟が奪い合う、あるいは与え合う話となんとなく親和性を感じるなと思って調べていたら、ふたご座のことをガニノメ(蟹の目)と呼ぶ地方があるらしいことを知りました。蟹と兄弟のイメージがどういうつながり方をしているものなのか考えていきたいです。お読みいただきありがとうございました。

すずらんさんへ
評の中の配列、構造体といった言葉が印象深く、電子基板やプログラミングにおける構造体のようなものをイメージしました。目的があって造られ、通電によって起動し使用されるべき製品の電流がまだ流れていない状態、起動する前段階、作者の意志を描き出すという部分が弱い、と以前いっていただいたところと通じるようなご指摘なのかなと思いました。
たぶんすずらんさんの仰る意思は、個人的な思いや意見といったものというより、もう少しくりあげられたかたちの意思というか、Constellationやブリコラージュといったキーワードによってかろうじて共有される史的な兆候のようなものなのではないかと想像します。だとすれば私の作品はそのような意思を前提として書かれたものではありませんので、あるいは意思・電流が流れる前の機械のようなものかもしれない、というのは腑に落ちるところでした。ものごとには順番というものがあるのだろうとなんとなく思っていて、順番を飛ばして大きなところに足をかけるわけにはどうしてもいかず、手持ちの道具でやりくりしている感じがブリコラージュ的な印象を持っていただいたところとつながっているのかもしれない、とも思います。意思のようなものは例えばそれぞれの部品に関数を含めてある程度有機的にメッセージが格納されるオブジェクト指向のような考え方の延長で現れてくるものなのかもしれません。今はよくわかりませんが、ゆくゆく自覚的にかたちにしていけたらと思います。
お読みいただきありがとうございました。

本当に遅くなってすみません。失礼します。

引用付きで返信   


--- 未登録ユーザー [ ] @ 2016.03.24 (Thu) 02:55:

すいません、使わせていただきます。三代目さんに宛てて(下の引用URL意味ないっぽいんですが、一応付けておきます…付け方がわからないというか調べるのが怠かったのでお許し下さい)

決別2  三台目全自動洗濯機 '16/02/06 22:26:35*1
(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi)

 レス返すか大分迷ったのですが、返します。とか思ってる内に過去ログに落ちてしまいました。なので、フォーラムで個別に返そうと思います。かなりひどいレスをしてしまったので、謝罪の代わりのレスと、自己満足が為のレスをこれからします。

 といっても僕の中の結論は次の二文に集約されます。

・読んでて面白くない
・何が言いたいのか分からん。(何からわかればいいのか、感じればいいのか分からない)

 以上です。でもこれをどう説明すればいいのか分からなかったし(ないことを証明するのは大変です)ですから罵倒口調で適当に僕の中で合理化した物を前回までの二レスでぶつけてしまいました。ですから、まぁ、三代目さんのせいではなく僕のせいですね。皮肉だろうなーとは思いつつも愚直な言葉で返信したいと思います。僕の能力が足らなくて三代目さんに余計な迷惑を働いてしまいました。本当にすいません。ですから、そのお礼に可能な限り、僕に出来る本作品の読みを以下に置いていこうと思います。



 っていっても、うーん遼旅さんの返信で大体作品の趣旨について触れてんのかなぁ…ゼロ年代やら春樹らを意識して書いた…云々っていうのは、まぁ最後まで無視します。そういう区切りで作品を見る見方は僕あんまり好きじゃないからです。(それらを読んでない人にとってはどうでも話なので)ちなみにですが、これに対する返信はしなくて結構です。何度も言いますが僕の自己満足ですから。

 それから最初に断っておきますが、以降は僕の読みが当たっている風に書きます。何か反論などありましたら、個別に返していただければと思います。なにせ僕の本作における評価は「何言ってるか分かんない」ですからね。


>決別2


 「決別」とは、goo辞書に拠ると「いとまごいをして別れること。また、きっぱりと別れること。」とあり、「いとまごい」とは「別れを告げること。別れの言葉。」とあります。「2」とは前のレスからあるように、何かの二番目を意味しているのか。作品のレイアウトを俯瞰した時に見える「街」と「海」をもって「2」としているのでしょうか。

 取り敢えずタイトルから僕が掴むことの出来る情報は「何かときっぱり別れること」というものでした。


*


>○街

 >たしか雨が降っていたと思う。梅雨だっただろうか。ぼくは何度もこの空間に戻ってい
く。今だって大して無いけれど、もっとお金を持っていなくて誰にも会いたくない休日を、
その当時住んでいたアパートから二十分程度の、駅前にある街の図書館で本を読んでやり
過ごしていた。縦に並んだベンチの、後方の一つを選んで、その右端に鞄を置く。近くの
海外文学の棚から本を一冊取り出し、ベンチに腰を下ろしてそれを読む。チャールズ・ブ
コウスキーだったかもしれないし、リチャード・パワーズだったかもしれない。アンドレ・
ブルトンでは無かったことはたしかだと思う。それとも、もう少し歩いて雑誌コーナーま
で行きスポーツ雑誌でも読んでいたのだろうか。若い女性の声が聞こえてきて、ぼくは顔
をあげる。ベンチで横になり眠っているおばあさんに図書館員の女性が大丈夫ですか?と
声をかけている。彼女は仕事として声をかけているのだろうが、おばあさんはそれを無償
の善意として受け取る。ええ、大丈夫。ありがとう。そう言って、また眠りに就く。図書
館員の女性は諦めたのか、他の誰かに相談しに行ったのか、おばあさんの元から足早に離
れていく。ぼくはコンビニに寄って買っておいた週刊誌に視線を戻し、袋とじを音を出さ
ないよう静かに破って、そこに写った女性の裸体を眺めて落胆する。


*

 正直な事をいうと「空間」という言葉がどのように使われているのか今一よく分からなかったんです。調べれば分かるのかなと思って、色々空間という語彙について調べたら元々哲学的な語彙みたいなんですね。しかも幾つか意味があるみたいなんです。(Wikipediaを見て知ったので情報の正確性からすればかなり怪しいんですがね)三代目さんはどのような定義でここに空間という言葉をおいたのか、そこが僕にはとても気になります。まぁそこまでの意味はないんだよ馬鹿! みたいな返答が返ってくるかなぁと思うんですが良かったら教えてくれるとありがたいです。僕はいまいち本文から掴めませんでした。僕が馬鹿だからっていうのが一番しっくりくる理由なんだろうとは思っています。(ちなみにですが、返信の「予測」は「過去推量」ではないんですね?)

 あと、確かに読み辛いっていうよりまどろっこしいという方が合ってるかと思います。僕もそっちの方がしっくり来る。ここも僕の選語が甘かったと思います。「この」ってきたら前に普通来るもんじゃないの? って思ってた節はあります。強調の概念を持ってくれば後にくる物を指して「この」を使うことはありえますね。色々適当な事を言ってしまいすいませんでした。


*


>チャールズ・ブコウスキーだったかもしれないし、リチャード・パワーズだったかもしれない。アンドレ・ブルトンでは無かったことはたしかだと思う。それとも、もう少し歩いて雑誌コーナーまで行きスポーツ雑誌でも読んでいたのだろうか。


*


 チャールズ・ブコウスキーは墓標の「DON'T TRY」リチャード・パワーズは名前だけ聞いたことがある程度、アンドレ・ブルトンはwikiの情報で見知ってることだけしか知りません。(自動筆記とかシュルレアリスムとかぐらいですね…)ですから僕は読む必要があるのですが、今漸くパワーズの『幸福な遺伝子』を読み始めたばかりで、多分読んでる内に僕はレスを付けるのがどうでも良くなってしまいそうになったので、少しここは飛ばそうと思います。(ここら辺の背景が掴めてる読者を狙いに書かれた作品ならば僕はもうこの作品から見放される訳ですが…)
 そんな何も文学を知らない僕に掴める手がかりは「名のある作家が(ということにしておきますね)適当にあしらわれている」ような感じを受けるということでしょうか。


>それとも、もう少し歩いて雑誌コーナーまで行きスポーツ雑誌でも読んでいたのだろうか。


 適当に読んでいたような、つまり印象に残ってない感じがこの一文からも伺えます。


>若い女性の声が聞こえてきて、ぼくは顔をあげる。ベンチで横になり眠っているおばあさんに図書館員の女性が大丈夫ですか?と声をかけている。彼女は仕事として声をかけているのだろうが、おばあさんはそれを無償の善意として受け取る。ええ、大丈夫。ありがとう。そう言って、また眠りに就く。図書館員の女性は諦めたのか、他の誰かに相談しに行ったのか、おばあさんの元から足早に離れていく。


 ここの文のポイントは


�仝譴蠎蠅呂�ばあさんの気持ちは分かる。(おばあさんはそれを無償の善意として受け取る。)
��語り手は若い女性の気持ちはどっちか分からない。(図書館員の女性は諦めたのか、他の誰かに相談しに行ったのか)
��つまり、ここには語り手の判断しか書いておらず、その判断の基準となる描写が一切なされていない。


 何故僕はおばあさんの気持ちがわかるんでしょうかね。ここが謎です。何から判断したのか全く書いていないので描写をサボっているようにも取れます。若い女性についても二択しか書いてないので同様の事が言えます。語り手の決めつけだけがここにあるわけですね。これは意図的な物なのでしょうか。ならば、語り手の判断を押し付けられた読者はそこから何を受け取ればいいのでしょうか。
 僕が導きだした結論は一つです。
 語り手は若い女性の判断だけ上手く見抜けなかった。
 で、そこから導きだされるのは次のこの文章。


>ぼくはコンビニに寄って買っておいた週刊誌に視線を戻し、袋とじを音を出さ
ないよう静かに破って、そこに写った女性の裸体を眺めて落胆する。


 三代目さんのレスによると、これは 「最初に提示したのは、雨、梅雨かもしれないという予測、過去の断片を空間に置いて語るという単純なことだけですよ。勿論、提示出来ていないと言われればそれまでですが。本の変わりようもそれで説明できると思うのですが。」という所から、おそらく場面が変わったのでしょうかね。
 なんでここで急に場面が変わったのか、正直謎です。映画とかだったら適当に場面の感じが変われば一発でわかるんですが、この切り替えは文章でするんだったら下手くそだと思います。勿論そのデメリットを覆す意図がなければの話です。
 多分頭の中の改装だからコロコロ変わるんでしょうかね。
 本来ならば連続的ではない事件、事柄を記憶の中で繋げてしまうわけです。
 コンビニで買った週刊誌の袋とじの女性に落胆する。つまり女性が不細工だった。しっかりと定義しようとするならば、語り手の好みではなかった訳です。
 
 さて、ここで少し話を整理してみましょうか。もうめんどくさいので、簡単にまとめます。

 「おばあさん」の印象を決めつけたのは、ババアで且つ週刊誌に載っていたような不細工で迷惑な人だったから。「若い女性」の考えが二つに割れたのは週刊誌のグラビアに載りそうなくらいの美人でその表情からはなんとも判断が伺えなかったから。(美人を前にして男は頭がくらくらしてしまうものです)
 そこから少し発展して、若い図書館の女性の方が語り手の記憶に残ったっていうことでしょうかね。
 違ったらごめんなさい。だってまじで描写がないんだもの。これだって結構頑張って僕なりに導き出したので、これ以上の強い読みがあるなら教えて欲しいです。雰囲気で満足できるほどのリーダビリティなんざ本読まない素人な僕が思うに無いです。だって作家の名前が置き去りにされてるだけだし、女の描写はないわ、判断しかない、決めつけしかない、それに加えて文はまどろっこしいし。何から何を読めばいいのか探すのがとても苦行です。上に上げた作家の著作全部読まないと本作が読めないっていうなら、僕はこの作品から馬鹿にされた読者だって事で話
はおしまいですけどね。それはそれで構いません。


*


 >そして現在のぼく。書きたくなるような事柄は少ない。なにもしていないのと変わらな
いような仕事をこなしながら、その合間に文章を書いている。詩ではない。小説でもない
かもしれない、と考えるとぼくは空から街を眺める一羽の鳥になる。鳥はぼくの書いてい
る文章の枝で羽を休める。女の子ともおばさんとも呼べないような女性が話者で、彼女は
あらゆる物事に両面価値感情を抱いている。日の光は彼女の体を暖めながら彼女の影を深
く暗く引き伸ばしていく。月はこれから姿を現そうとしているのと同時に消え去ろうとし
ている。彼女は自分のことを小型の飛行機に喩える。わたしは街を眺めながら墜ちていっ
て崩壊した、と彼女は語る。それなのに生き延びた、と。ぼくにとって彼女は女性であり、
街でもある。彼女が崩壊したとは街が崩壊したということであり、彼女がなにも無くなっ
たと言うのは、ぼくにとって街にはなにも無くなったということだ。彼女は仕事を辞めて
都会を離れ、地方の住宅街にある実家へと戻る。彼女は生まれ育った道をぶらぶらと歩き
ながら、ある男の子のことを思い出す。気取り屋の本ばかり読んでいる彼。彼は作家にな
ったのだろうか。ならなかったんじゃないかなと彼女は想像してみる。彼女は彼について
なにか書いてみたいと思う。でも彼そのものは無理だ、彼にはもう十年以上会っていない。
彼女は彼ではない彼を作り出す。名前を決めなくてはならない。Kというアルファベット
は文学的なんだ、と彼が言っていたことを思い出す。カフカの『城』だっただろうか、『変
態』だっただろうか、思い出せない。カフカですらなかったかもしれない。わたしは文学
についてなにも知らないからKは使えない、と彼女は考える。ぼくだってよく知らない。
なんとなく彼に形が似ているから、と彼女は男の名前にSと付ける。結末はまだ決まって
いない。Sと彼女は彼女の書いている文章の中で出会う。墜ちてしまったのよ、と彼女は
語る。小さいといっても飛行機は飛行機よ。鳥だったら良かったのにね、とSは答える。
そうしたら街を壊すことも無かったし、地に墜ちたところで誰も気付かない。ええ、そう
かもね。そろそろ行こうかな、鳥は空へと飛び立っていく。眺めていた街はもう無くなっ
ている。遠くに海が見える。

*

 最初、僕は二項対立って言ったんですが、まぁそうとも言い切れないですね。最初に感じた印象で最後まで突っ走ろうとしてコケた感じはあります。そこん所は申し訳なく思います。


>そして現在のぼく。書きたくなるような事柄は少ない。


「書きたくなるような事柄」これを僕は本作品にずっと求めているんですが、それがなんなのか分かんないんですね。もしかして無いんでしょうか。タイトルから聯想するに「別れの言葉をもってきっぱり別れること」という、主題らしき物は窺えます。ですが、そこからどう潜っていけばよいのか、ということになるわけです。その潜り方の端緒が掴めません、さっきの作家名から典拠となっている本を探り当ててこの作品に戻ってくれば読めるんでしょうかね。でもさっきから言っているように僕は上の三人の作家の著作まだ読めてないので何も言えません。不勉強なのは認めます。


>なにもしていないのと変わらないような仕事(=基本的には誰かの役に立つこと)
>詩ではない。小説でもない


とても曖昧な立ち位置。
ここでも愚直に聞いてみたいんですが。三代目さんの思う「詩」や「小説」ってなんですか? 「これは詩じゃない」みたいな言葉でよく使われる一般的なイメージ上の「詩」を指して使っているのでしょうか。


>と考えるとぼくは空から街を眺める一羽の鳥になる。


から飛躍してぼくは空から「街」を眺める「鳥」になる。
さてここで色々と問題になるであろう、「街」と「鳥」が登場しました。そこから、二連に関して何を思うのかというと、多分、一連の「過去の断片」をモチーフにしながらこの語り手は文章を書いてるということです。


>鳥はぼくの書いている文章の枝で羽を休める。女の子ともおばさんとも呼べないような女性が話者で、彼女はあらゆる物事に両面価値感情を抱いている。日の光は彼女の体を暖めながら彼女の影を深く暗く引き伸ばしていく。


「女性職員」の容姿を上手く思い出せないんでしょうかね。色々な両面的な感情を抱いている彼女は、色々と両面的な価値を持った存在であると。


*


対比1「日の光は彼女の体を暖めながら彼女の影を深く暗く引き伸ばしていく。」
対比2「月はこれから姿を現そうとしているのと同時に消え去ろうとしている。」
対比3「・ぼくは空から街を眺める一羽の鳥になる。鳥はぼくの書いている文章の枝で羽を休める。
・彼女は自分のことを小型の飛行機に喩える。わたしは街を眺めながら墜ちていって崩壊した、と彼女は語る。」
対比4「・わたしは街を眺めながら墜ちていって崩壊した、と彼女は語る。
・それなのに生き延びた、と。(彼女は語る)」


*


日が当たれば影ができます。日が沈んだら月が出てきますが、その月も出いつも出ている訳ではなくて月の満ち欠けがあったりします。(新月と満月=光と影)つまりどちらもその存在に陰陽を司っていることがここで多分書かれているのでしょうか。生と死っぽいのも含んでるのかなぁ…なんか中二っぽいですね。(とかいうと決めつけになってしまいますが)まぁ取り敢えず両面的な価値というものが繰り返し取り沙汰されていることは確かです。


>それなのに生き延びた、と。


「生き延びた」ということは、どういう状態を示すのでしょうか。


>ぼくにとって彼女は女性であり、街でもある。彼女が崩壊したとは街が崩壊したということであり、彼女がなにも無くなったと言うのは、ぼくにとって街にはなにも無くなったということだ。


「女性」であり「街」でもある。ふむぅ。
 ここでいう「女性」ってなんでしょかね? 三代目さんにこれも聞いてみたい。三代目さんにとっての「女性」は何を指しますか? 「彼女は女性」これにどういう意味がありますか? 女性って何?まんこ付いてるから。おっぱいが付いてるから女性? 遺伝子が男とちょっとずれてるから女性? 僕が男性だから彼女は女性ってことですか? 性欲の対象という意味で? 
「街」って何? 女性がなんで街なの? 小さな主題にもなっている街、これは一体何を指すのか。なんで女性なのか。
 「彼女が崩壊した」=「街が崩壊した」=「鳥(ぼく)が眺めていた街の崩壊」=「文章の崩壊。描きたい事の喪失」ということでしょうかね。
 で、もうこっから「女性職員とおばあさんのやり取り」って何だったのか訳わかんないです。何を僕は読めばいいのか全然わからん。(こんなこと言いたくない)


>彼女は仕事を辞めて都会を離れ、地方の住宅街にある実家へと戻る。


ここから「彼女」を主体にした三人称的な語り(俯瞰的な目線による語り、つまり僕は鳥として彼女を見ているのか)が始まります。中半端な仕事をしている「ぼく」に対し、仕事をやめちゃった「彼女」は


>ある男の子のことを思い出す。気取り屋の本ばかり読んでいる彼。彼は作家になったのだろうか。ならなかったんじゃないかなと彼女は想像してみる。


彼を思い出します。「気取り屋の本」って例えば春樹とか読んでるってことですかねぇ。ここら辺具体的に書いてくれるといいんですが、何も書いてないのでスルーすることにします。そして、彼は作家になりたかったのでしょうか。気取ってるって書いてあるので、見た目とか口先とか服装だとか、そういう見てくれな部分だけが、読書家だったり、作家っぽい奴って所でしょうか。


>彼女は彼についてなにか書いてみたいと思う。でも彼そのものは無理だ、彼にはもう十年以上会っていない。彼女は彼ではない彼を作り出す。


 「彼女」は「彼」の十年前の一部分しか知らない。ので彼そのものを書くことはできない。それは当たり前といえば当たり前です。「彼」そのものでない以上「彼」そのものを書く事は土台無理な話です。(外側から見た時に分かる彼の一面というのはあるかもしれません。そういう意味だと、「彼そのもの」という描写はいつでも破綻することになるし、同時にどこでも成立することになりますがね)
 彼女が飛行機となって墜落しなければいけなかった理由っていうのはここにあるのでしょうか。ぼく、はそのままの彼女を書こうとしたけどそれが出来なかったから街を歪ませる(崩壊させる)必要があった。彼女にとって、過去の「断片の一つ」(一部分でしかない不完全な)である彼を文章の中で動かすには、どこかしら覚えていない所を、適当な(「デタラメな」よりは「適切な」に近い距離ぐらいのニュアンスで)設定で埋める必要があった。
 ということなのではないでしょうか。その証拠として、


>名前を決めなくてはならない。


これが次に来る訳です。「彼」の名前忘れてしまったのか、それとも「別のキャラクターとして割り切る為」なのかわかりませんが、彼の名前を付けなければいけなくなったのです。


>Kというアルファベットは文学的なんだ、と彼が言っていたことを思い出す。カフカの『城』だっただろうか、『変態』だっただろうか、思い出せない。カフカですらなかったかもしれない。わたしは文学についてなにも知らないからKは使えない、と彼女は考える。


 取り敢えず『城』から取ってるんですかね。漱石の『こころ』からは取ってないのかなぁ…僕、ここら辺読むのサボってるのでこの中で読んだことあるの『変身』だけです。そして、確か翻訳云々の話で『変身』は『変態』と翻訳すべきだ云々というような話を高校生の時に聞いたことがあるんですが…それは関係ないのかなぁ。悪ふざけってことは無視していいんですかね。まぁ「一般に流布されているイメージとずれている、あまりにも有名な小説のタイトル」というのは、何かしらの手がかりにはなりそうです。
 『城』という作品はwikiによるとカフカの遺作であるようです。(つまり『城』という作品は完成しなかった。)あらすじは至って簡単。「いつまでたっても城につけない」カフカも書いていて色々と苦しかったみたいな事もwikiには書いてありますね。
 ここでK繋がりの『こころ』のKはなぜKというイニシャルが使われたのか、については、ネット上で興味深い見解を一つ見つけたので一つ引用してみたいとおもいます。


>漱石よりずいぶん時代は下るのですが、フランスの作家であり評論家であるナタリー・サロートは「読者は…長い間の修練の結果として、日常の生活の便利さから、かれ自身それと気づかずに類型化する。…どうしても作中人物に持ってもらわなければならない名前でさえも、小説家にとっては困惑の種子なのである」(『不信の時代』)と言っているように、「名前」ただそれだけによってイメージが生まれてしまう。あらかじめ読者がその名前からくる連想で何らかのイメージを抱いてしまうことを避けたいとき、作家は、登場人物から名前をとりあげたり、イニシャルで呼んだり、あるいはガルシア=マルケスのように、そっくりの名前で呼んだり、意図的に誰かと同じ名前をつけたりします。


>「私」「先生」「奥さん」「お嬢さん」「叔父」…出てくる登場人物はみな、関係の名前です。
「私」という一人称が成立するためには、「私」以外の人が必要です。
「先生」と呼ばれる人は、生徒の位置にくる人が不可欠です。
「奥さん」「お嬢さん」いずれの名称も、ほかの人との関係によって成立する人なのです
(ただ、血縁による関係と「先生−私」の関係はまったくちがう性格のものですが)。


>このようななかにあって、Kというイニシャルは、それをなり立たせるだれも必要としません。
>もうひとり、「静」と呼ばれる奥さん(お嬢さん)の存在がありますが、これは地の文、というか、あくまでも地の文に準ずる扱いのカッコのなかで、「(奥さんの名は静といった)。」と記述される箇所が一箇所、あとはすべて「先生」の呼びかけです。つまり、「静」と呼ばれる女性も、「奥さん」であり「お嬢さん」であり、自律していない女性、「先生」の呼びかけによって「静」という名を与えられる存在である、つまりは、Kのように、いついかなる場合も、だれの助けも必要ない登場人物は、ほかにはいません。


(「夏目漱石の「こころ」の「K」はなぜ「K」なのでしょうか? No.2」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3130969.html)


 というように、学術的な根拠としては乏しかもしれませんが、アルファベットで態々表記することの必要性というのは、一つはこの引用で指摘しているような効用があるわけですね。登場人物の関係性を分断する為にアルファベットの記号に置き換えることで様々な連想を断ち切ろうとする。が、しかし、それは現代では通用しません。なぜなら同様の手段が『こころ』や『城』の中で行われている以上、Kを用いたら、そこに読者の連想が働いてしまうからです。で、さらにここに彼女のこの言葉がぶっこまれます。


>わたしは文学についてなにも知らないからKは使えない、と彼女は考える。


>なんとなく彼に形が似ているから、と彼女は男の名前にSと付ける。


 彼女は文学について何も知らない訳です。だから適当にKというアルファベットを使用して作品の読まれ方が自分の手の届かない所で『変態』してしまうのはやめたかった。そこで、彼女は、彼のことを形が似ているから、という理由から「S」と名付けます。「S」という形から連想されるのは「首の曲がって腹の出た男」っていう所でしょうかね。
で、更なる問題というのが「Sってだれだよ」ってことで、それは次の対話の中で明らかになります。文学かぶれっていう所と今迄の記述から連想されるのは「ぼく」ではないか、っていう予想は前から立てることが可能ではありましたが、確証はどこにもありませんでした。そこにきて


>そろそろ行こうかな、鳥は空へと飛び立っていく。


 この一文がぶっこまれることによって「S」=「ぼく」という図式が成り立つ訳です。

 「ぼく」と「彼女」という関係性を「S」と「彼女」という形でもう一度構築されたものの、結果的に「ぼく」と「彼女」の関係に戻っていく。街は消え去ってあとには海だけが残る。



*


>墜ちてしまったのよ、と彼女は語る。
>小さいといっても飛行機は飛行機よ。


>鳥だったら良かったのにね、とSは答える。
>そうしたら街を壊すことも無かったし、地に墜ちたところで誰も気付かない。


>ええ、そうかもね。


>そろそろ行こうかな、鳥は空へと飛び立っていく。
>眺めていた街はもう無くなっている。遠くに海が見える。


*


 ここが結構込み入ってますね。うーんここは正直訳わかんないです。取り敢えず迫れるところまで迫ってみます。
 それではまず、「飛行機」と「鳥」について整理してみます。


*


「飛行機」(彼女)
・堕ちると街を壊してしまう
・どんなに小さい飛行機でも飛行機は街を壊してしまう(操縦を誤ったせいで墜落しちゃうって所ですかねぇ)

「鳥」(ぼく)
・堕ちても街は壊さない。
・堕ちても誰も気がつかないに矮小な存在。(精々眺めるくらいで精一杯)


*


 で、更に問題なのは「街」が何を指しているのか。今迄の記述から察するに、街とはぼくが書いている「文章」そのものを指しているかとおもいます。で、「彼女」は僕の曖昧な図書館の記憶から浮かび上がる文章のモチーフ。そのモチーフが文章そのものを破壊してしまうけれど(書くべき物がなくなってしまう)、けれどモチーフはなんとなく生き残っていて、また厄介なことに、どうにかもう一度文章になろうと足掻く。でも出来ない。そこで新しく「S」という「ぼく」を引っ張り出す。自分を形成した宿主である所の「ぼく」を「モチーフであるところの「ぼく」が利用しようとする。しかし、ぼくは今三人称であるところの「鳥」であって、「S」でもある。
 で、次に問題なのは「墜ちてしまった」という過去の事実が何度も繰り返されることが、どのような意味を持つものなのかということです。つまり文芸作品になる前に、文章が崩れてしまう。「堕ちてしまう」ということではないでしょうか。ああ、やっと答えが見えてきたような気がします。だからこんなに色々二転、三転するんでしょうかね。


詩でもなく小説でもない→出来たものがなんなのか自分でも良くわからない
街が崩壊する→作品が完成しない。
何度も作品の構造が変化したり戻ったりする→作品を完成させようと色々展開させてみるがどうにもならない。


 みたいなことなんでしょうか。
 つまり書いては失敗する、書いては失敗する、の繰り返しがここにあるってことなんでしょうかね。
 それで作品化に失敗したぼくは、別のモチーフを探しにまた図書館に戻っていくんでしょうか。


*


>ぼくは図書館の中に戻っていく。ある男の姿が目に入ってくる。身長はぼくとそう変わ
らず、百七十センチ程度。季節はずれのダウンコートを着ている。坊主頭で三日か四日分
の無精髭を生やしている。体格は良く、格闘技でもやっていたのだろうかとぼくは考える。
彼は彼にしか聞こえない声でぶつぶつと言葉を呟きながら館内を歩き回っている。なにか
探しているのだろうが。歩くとは片足を過去に残しながら進んでいくことだ、と彼女の想
像したSは言っていた。


*


 あーでもここを読むとまた訳分かんないですね。彼女の想像したSはぼくじゃないんですかね。それともSを通して彼女に言っているのか。じゃぁ彼女ってなんだ女性か、作品のモチーフか、モチーフってなんだ。だって書きたいことなんて何もないんだもんなぁ…
まぁ、取り敢えず「次はこの坊主頭の男をモチーフに作品を書き始める。足跡を付けた過去を思い出したりしなかったりしながら書いていく」っていうことにしておこうと思います。

(以下もうちょっと続きます)

引用付きで返信   


--- 未登録ユーザー [ ] @ 2016.03.24 (Thu) 03:00:

*


>○海
>
>男は海岸沿いを歩いている
>太陽の位置を確認することで
>向かうべき場所の
>おおよその方角は理解出来る
>あくまで昼の
>陽の出ている間に限られるが
>砂浜を、波止場を、
>街中を、波の上を、
>男は歩いていく
>
>女は男の後を歩いていく
>気付かれぬよう
>距離をとって
>声をかけてくる欲望を断りながら
>たまに受け止めながら
>遠くから、あくまで遠くから、
>泣き声が聞こえている
>
>夜の間
>男は教室で暴行を受け
>仕事場で脳みそを焼かれ
>レトルトのコーンスープのように音をたてずに啜られる
>銃で撃たれ、耳と鼻を削がれ、
>目を刳り貫かれ、頭に頭巾を被せられ、
>首をはねられる
>血が流れて
>海へ混ざっていく
>
>女の屋根は爆撃され
>髪は刈り取られ
>強姦される
>暗闇が女の中に入り込んでくる
>壁も天井も清潔に塗られた
>五人部屋の端のベットに
>女は拘束される
>どうせ目は見えないからと
>花は無い
>雲に隠れたからと
>月は無い
>
>男と女はどこかで出会わなければならない
>どこだろう?
>教えてほしいが声は聞こえない
>花屋に寄る
>女の子は可愛い
>そうだろう?
>色だけ決めて後は任せる
>盲だからねえ
>香りはどう?
>花を近づける
>わかるよ、良い匂いだ
>場所を変え
>筆箱の男に会いに行く
>謝る
>何度も祈るように
>
>陽はまだ出てこない
>男は海の上で立ち止まり
>(時間というものが存在し)
>振り返って
>(前へと流れを進めているのなら)
>波に腰掛けて待つ
>(きっといつか現れるのだろう)
>時間の端を両手で掴み引っ張る
>背負うように左肩に掛けて歩く
>追いつくように
>追いつかないように
>
>
>・決別
>
> まだ海は青いのね、と彼女は受け止めるように手を差し出す。彼は愛しあうかのように
>その手を掴む。簡単なことさ、と彼は彼女に言う。ええ、そうかもね。


*


正直ここはもう良くわからないというかめんどくさくて読みたくないです。まだあるのかって死にそうです。印象だけでいうと、本当に描写がなく「月」とか「雲」「花」とかっていう滅茶苦茶沢山の文脈を背負った語彙が散乱しているので、語彙のイメージが三代目さんとずれていると、そこでぼくは何もつかめなくなるわけですよ。宮廷和歌みたいに決められたコードがあるなら読めますが、ぼくは三代目さんの近くで育った人間じゃないので分かんないわけです。


*

>男は海岸沿いを歩いている
>太陽の位置を確認することで
>向かうべき場所の
>おおよその方角は理解出来る
>あくまで昼の
>陽の出ている間に限られるが
>砂浜を、波止場を、
>街中を、波の上を、
>男は歩いていく


*


 詩っていうのは僕は突っ込みの連続だと思ってる所がありますけど(突っ込みに耐えうるだけの飛躍があるから面白いと感じる訳で)で、ここの行訳ってなんで行訳したんでしょうか。ただの描写だし、分ける必要性がないと思います。僕なりの行訳の美学は端的にいうとこれです

「短い文章で見られるということは、それだけ読者一つ一つの文章を細かくみることができる。故につまらない文が並ぶと途端に行訳が薄っぺらく感じられるようになる。その行訳詩は途端に行訳されていることで詩文の強靭さを失う」

 この行訳を散文に戻してみましょうか?

>男は海岸沿いを歩いている。太陽の位置を確認することで、向かうべき場所のおおよその方角は理解出来る。あくまで昼の、陽の出ている間に限られるが、砂浜を、波止場を、街中を、波の上を、男は歩いていく。

 これでいいんじゃないでしょうか。って僕は思ったので、なんとも薄っぺらい行訳だなぁと思いました。ただの地の文が行訳されているだけじゃぁないでしょうか。貧弱すぎる行訳は陳腐そのものだと僕は思います。


*


>女は男の後を歩いていく
>気付かれぬよう
>距離をとって
>声をかけてくる欲望を断りながら
>たまに受け止めながら
>遠くから、あくまで遠くから、
>泣き声が聞こえている


*


>>「声をかけてくる欲望」を「断る」?欲望って断れるのか。

>断れるんじゃないですか。

 分かりました。確かに僕の言い方も大分おざなりすぎましたね。だったらトコトン細かく言ってあげましょう。

>声をかけてくる欲望を断りながら
>たまに受け止めながら
>遠くから、あくまで遠くから、
>泣き声が聞こえている


 「声をかけてくる欲望を断りながら」なにこのへった糞な言い方っていうのが先にくるんですが。「声をかけてくるホストを断りながら」みたいなニュアンスで理解すればいいんですかね。っていうかそもそも欲望ってなんだよ三代目さんの思う欲望なんて知らないよ。欲望君がどんな欲望を頭の中で訴えてるのかなんて知らないよ。書いてください。


>遠くから、あくまで遠くから、
>泣き声が聞こえている


 でなんで次にこれがくるんだ。僕もこういう書き方しますよ。前後の文脈からわけわかんない帰結が来る。みたいなの。でもこれはなんでやねんですよ。欲望の訴えを断り、たまに受け取りながら、からの、遠くから? あくまで遠くから(煽りが入っている)鳴き声が聞こえてくる?? 鳴き声ってなんですか。砂漠の野辺のどこかで、うさぎさんでも泣いているんですか。それとも頭の中の片隅に泣いている何かしらの概念がシクシクメソメソ泣いているんですか。レスが落ちても誰も僕に教えてくれないので、良かったら三代目さんに教えてもらいたいです。勿論、最初に言ったように返信は強要しません。


*


>夜の間
>男は教室で暴行を受け
>仕事場で脳みそを焼かれ
>レトルトのコーンスープのように音をたてずに啜られる
>銃で撃たれ、耳と鼻を削がれ、
>目を刳り貫かれ、頭に頭巾を被せられ、
>首をはねられる
>血が流れて
>海へ混ざっていく
>
>女の屋根は爆撃され
>髪は刈り取られ
>強姦される
>暗闇が女の中に入り込んでくる
>壁も天井も清潔に塗られた
>五人部屋の端のベットに
>女は拘束される
>どうせ目は見えないからと
>花は無い
>雲に隠れたからと
>月は無い


*


 なんで殺されるんですかねぇ。あっさり殺されるなぁと思いましたじゃないですよ。適当に殺したんですかねぇ。全く掴みどころがない。コーンスープはすいません。ちょっともうめんどくさくなって嫌味のひとつくらい言いたかったんですが、ゆっくり読んでみると男の脳みそをおいしそうにゴクゴク飲んでいる描写がありありと僕の脳内で再生されてきました。
 この暴行の受け方は何かしらの比喩なのでしょうか?何を手がかりに読めばいいんでしょうか。なんで脳みそを飲む描写だけ鮮やかな比喩(ってことにしておきますが)に描くんです?


>>聞いてみて下さい。


誰も返してくれなかったので、できれば教えてくれるとありがたいです。わかんない僕が馬鹿だっていうのは認めますので。


>どうせ目は見えないからと
>花は無い
>雲に隠れたからと
>月は無い


ここは好きです。行訳の意味があると思います。


>男と女はどこかで出会わなければならない
>どこだろう?
>教えてほしいが声は聞こえない
>花屋に寄る
>女の子は可愛い
>そうだろう?
>色だけ決めて後は任せる
>盲だからねえ
>香りはどう?
>花を近づける
>わかるよ、良い匂いだ
>場所を変え
>筆箱の男に会いに行く
>謝る
>何度も祈るように


 ここが色々な手がかりになりそうな気がしなくもないのですが、、、まぁどこから調べればいいんでしょうかね。もしかして聖書ですかね…単にイメージで言っちゃいましたが、僕はなんにも読んでないので特定の本の文脈を引っ張ってこられると何も読めないです。明示してくれれば読めますが、僕は知識を持ってないのでもうどうしようもない。
 一応読んでみます。


>男と女はどこかで出会わなければならない
>どこだろう?
>教えてほしいが声は聞こえない


これはそのまま文面通りに読んでいいのかな。


>花屋に寄る
>女の子は可愛い
>そうだろう?


 決めつけっぽいのがまた登場してきます。そうだろう? と言われるとそうだなぁと思います。ここら辺「〇街」と何か匂わせてるんでしょうか。


>色だけ決めて後は任せる
>盲だからねえ
>香りはどう?
>花を近づける
>わかるよ、良い匂いだ


 盲なのに色は決めるんですね。うーん、なんでずらしたんでしょうか。
 「筆箱の男」Googleで調べてもなんも出てこなかったので、想像ですが「お金を恵んでくれっていう人」の事ですかね。つまりは物乞いであると。後はあれですか、街灯とかに立ってお経みたいなのを唱えてる仏教っぽい人のことでしょうか。ギターケース開けてるミュージシャンのことでしょうか。ここら辺教えてくれるとありがたいです。金額ってなんのこっちゃって感じです。知らないものは知りません。僕だって物乞いされた事ありますが、その時は直接真摯に交通費が欲しいと説得されたのです。そんときゃ怖くて2千円渡しましたが。


>そしてぼくに出来ることは謝るか、祈るか、それぐらいしかないかなと。


 「頑張ってください!」みたいな心のエールってことですかね。教えてくれるとありがたいです。ここの見てる方で知ってる人がいたら教えて欲しいです。


*


>陽はまだ出てこない
>男は海の上で立ち止まり
>(時間というものが存在し)
>振り返って
>(前へと流れを進めているのなら)
>波に腰掛けて待つ
>(きっといつか現れるのだろう)
>時間の端を両手で掴み引っ張る
>背負うように左肩に掛けて歩く
>追いつくように
>追いつかないように
>
>
>・決別
>
> まだ海は青いのね、と彼女は受け止めるように手を差し出す。彼は愛しあうかのように
>その手を掴む。簡単なことさ、と彼は彼女に言う。ええ、そうかもね。


*


>>もう一生追いかけっこしてろよって感じです。


>ここはちょっと面白いです。
 

 ということですので、ここにヒントか何かがあるんですかね。まぁ僕が今迄長々と書いてきて思うのは「永久に自分は何も書けない」みたいなものですかね。違ったらすいません。そうじゃないっていうなら是非教えて欲しいです。なんでこれをかいたのか。


*


>読んだことの無い架空のゼロ年代を想定して、それに似せようとしてこの作品を書き始めました。だからセカイ系と言われてしまうのはしょうがないのかなと思います。悲しめばいいのか、泣けばいいのか、分かりませんが。


*


もしかしてですが、レスの中で言及されてるこれでおしまいなんですかね。本当にそうなのかなぁ。僕が作品読んで似てるって改めて思うんだけどな。


・自分が何書きたいのか分かってない
・で分かってないのに色々書いてみたらハルキとおんなじだ、と言われて、決め付けんなよって切れて書いてみたけど、結局何言いたいのか自分でも訳わかんなくなった
・物に「決別」ってタイトルつけたらそれっぽくなったじゃん。投稿してみよう。


 みたいな感じです。最後の決別なんか取って付けた感すごいじゃないですか。とってつけてなくて、このラストに向かってかいたんだ!っていう感じが僕はしなかったですよ。これは決めつけですけど、決め付ける以外どうやったって読めないんだもの読みの根拠になる所がどこにもないのに、何をどう楽しめっていうのか。それこそ雰囲気で楽しめってことですかね。雰囲気そのもので楽しめってことか。まぁだったら僕の趣味に合わなかったってだけですね。僕はさいしょからこう言えばよかったんだ。「下手くそって」「全部まどろっこしいだけだ」って。それで三代目さんが悲しんだりかなしまなかったり、すればよかったんですね。三代目さんが勝手に。
 もし返信してくださるというのなら、三代目さんのこの作品の読みを置いて行って欲しいです。それ以外いりません。ってかもうこれで打ち切ります。僕の読みが甘かったっていうなら三代目さんの読みをここにおいていってくれると助かります。それで僕の無知蒙昧を破って頂けるという展開が本望の限りです。過去ログに落ちたので、もういいでしょう。
 といいつつ、勿論返信はなさらなくて結構です。他意はありません。僕の自己満足ですから。ただ、一応この文字数分だけ僕は三代目さんの作品を読んだのです。それを示したかっただけっていうのと、まぁちょっと前二回のレスはトチ狂ってたので、、それでは。

引用付きで返信   


--- 澤あづさ [ Member ] @ 2016.04.05 (Tue) 15:35:

▼三台目全自動洗濯機さん『決別2』
http://bungoku.jp/ebbs/20160206_543_8607p

上にある赤青黄さんのコメントを読み(作品でなく赤青黄さんに)関心を持ったので、わたしも上記作品を読みました。
そして下記のブログを書いたのでした。ちなみにそのブログは、Googleの検索にも引っかからないような離れ小島です。

http://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-12.html#AKAAOKI

そしたら「徹底討論会場」が、下記引用のような展開と相成りました。

Quote:
俺はあんたら全員っていうふうに主語を拡大した上であんたらの読みに喧嘩ふっかけた後にだよ、このフォーラムに書いた三代目さんへの二万字の罵倒全部糞だったった事が発覚して全面真っ赤っかだったよ。恥ずかしかったよ。俺は作品の読み方がわからないからいつも探してどんな手でも使って作品を読みたい人間なのに、本当になにも読めてないのに、読めたようにカッコつけてゴミって三代目さんに何度も言った事がとても恥ずかしいよ。作品が読めなかった自分が恥ずかしいよ。 //中略// 三代目さんの見方を変えてくれるブログを書いてくれた方がいたのは俺なりに真剣に読んだからだと少しは思っているよ。恥ずかしかったけど俺はとても嬉しかったぞ。俺は俺の認識を変えてくれる人達がいる文学極道が好きだよ。
http://bungoku.jp/fbbs/viewtopic.php?p=17030#17030


わたしは心底驚きましたよ。自分の罵倒を反省するために、離れ小島まで異論を探しに来たなんて圧倒的に勤勉な人を、5年のネット詩歴で初めて目撃したんですから、驚くに決まっています。

そこまで勤勉な人が、ここまで謙虚なのでは、そのうち詐欺師に騙されるんじゃないかと心配になったほどですが、下記のお話を伺い杞憂だったとわかって安心しました。

Quote:
 作品の善し悪しっていうのはつまりは以下の事に対して書き手が判断するために必要な要素であると思います「てめぇの技術は読み手の俺にとって失敗に終わった/終わってない」「通用した/通用しない」「この技術は既にある/ない」…などなど。ここが批評における読解の必要性そのものを示していると僕は思うんですよ。簡単にいうと読み手っていうのは作品にとって常に「傲慢な実験体」であるという事です。そこから得た実験結果を書き手は分析して、そこから「批評性」を抽出して自分の肥やしにしていくのではないでしょうか。だから、僕は読解が批評のド基本であると確信しています。だからどんな読みも承諾されるべきだと思っているし、と同時に否定される可能性や、肯定される可能性を持つと思います。だから、「良い悪い」っていうのは便宜的な判断であると言うことが可能だと思っています。(便宜的っていうのは、読み手は作品を読んだ時に、自身の持つ文脈にアクセスして、その作品を自分の中にある文脈に一旦位置付けた時の(語弊がありますが) 「一瞬」程度の意味です)
 その便宜的な判断を知る為にとっても有効なマークが「良い悪い」だと僕は思います。ですが、この判断っていうのは個人の中で不変的な物ではないと思います。常に変わる可能性を秘めていると思います。というか、この変わる瞬間っていうのが大事なんですよ。変える為に芸術ってあるんですよ。だから芸術っていう言葉は僕使いたくないんですよね。全部ひっくるめたニュアンスを持ってる「作品」っていう言葉を、だから僕は意図的に使っています。
 だから書き手も読み手に対して「傲慢」で構わないと僕は思っています。なぜなら、読み手の傲慢さを変える為に書き手もまた傲慢になる必要があるからです。
 でも、そうなると、結果的にまぁ読み手や書き手は多分どっちか必ず馬鹿にされる事になると。(理解されたり、した気になると言ってもいいです。簡単に共感されてしまうとも言えます)いい悪いにかかわらずに。で、そこで大体の諍いというのは発生すると思っています。でもこれは仕方のないことだから僕は全部飲み込む事にきめたんです。
http://bungoku.jp/fbbs/viewtopic.php?p=17101#17101


いやはやまったく。文学極道の参加者が全員、赤青黄さんのように勤勉におのれの罵倒を疑うという保証があるのなら、そりゃもちろん全員「傲慢な実験体」で上等だろうと思いますけど。わたしはそんなモンになる資格を、到底得られないと自覚しますね。いっぺん築いた読解を覆すって、けっこう大変なことですし、なにより「間違っている蓋然性が高いとわかりきっている読解(恥)を、あえてさらす」なんてそんな。

赤青黄さんにできたことが、なぜわたしにはできない。きっとわたしの脳みそがぬるすぎるのだ。
認識を改めるため、新代表のブログを拝読し、文学極道の歴史を復習したりしています。

Quote:
文極を改革したい気持ちもあり、すこしずつより良い方向にしていくつもりである。新しいスタッフたちが協力をしてくれているので、これからも戦う力のある文極でありたい。そのつもりで、なれ合いではない、志をもって詩を書いていただきたい。それだけがいまのわたしに言えることである。
http://bungoku.jp/blog/20160403-488.html


どなたかわたしにご意見を聞かせてください/(・x・)\ 

引用付きで返信   


--- すずらん [ Member ] @ 2016.04.06 (Wed) 20:34:

かとりさん、1年以上前にこちらのスレを立てて、丁寧なお返事をくださっていたんですね。
ありがとうございます。
最近はとんと無沙汰で、かとりさんの作品に毎回ワクワクがあったなんてことも今頃コクる(笑。
スレ、利用させていただきますね。





   決別2  三台目全自動洗濯機
   http://bungoku.jp/ebbs/20160206_543_8607p


このクソッタレの時代に、あらん限り【詩】をつづけている今や絶滅危惧種と噂される【詩人】の
渾身の一篇といえるほどなのか?!、というと、圏外の作品
なのに、こんなにも真摯な青年、赤青黄さんが真正面から喰らいつきたくなるものがあるってとこが
案外ミソだったりするのかな、と思いながら読みました。

文極の最近作は、特定の作品のURLを直接クリックして読んでいただけなので
澤あづささんがブログ別館で一般向けに紹介していなければクリックすることもなかった作品でした。
その記事 http://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-12.html のコメント欄に
寸観を入れていたのですが、
そのブログ別館自体が、「【詩】の読者層を広げる」という目的には不向きなようで
澤さんから今回こちらへのアツ〜イ(笑)誘導がありましたし、
私の「(文極の)苦しい台所?」に文極運営の方からウィンクが入っちゃった(笑)こともあって、
こちらにもその寸観を貼らせていただくことにしました。


   執筆すること/したものが相互修習の機能をする、創造的ポリフォニーという見方もできて
   「S」に埒をイメージしたりと面白いところもあったのだけれど
   作品は、レゴ数が不足しているせいで、全体に惹き込みが弱いからフツーだと感じたかな。。
   統語がしっかりしているから精度は上がってるんだけど
   こういうシンプルな語彙をオーソゴナルに慣用的につなげていくやり方で、
   レゴ数が不足していると、作品を貧弱に感じさせるから。
   
   と言っても、批評対象にはなる作品だと思ったよ。


赤青黄さんは、冒頭の雨のシーンを
井村朔早「奴のサナトロジー」の冒頭の5行を引用して比較しておられました。

  >誰も来ないような廃工場の裏の
  >誰も落ちてねーだろってくらい小さい用水路で、

これは、そのうちの2行。
文章の方は、強い構文のジャンプ力を視覚的な遠近法に変換していて
そのうえ、絵が小さな目標への俯瞰図ときたら
ホント見事です。

でも、この世界観は『決別2』のものとは違います。

『決別2』は、
(構文が遣われていてもジャンプは小さく)
いわゆる1+1=2の統語の世界です。

それが、人間の集団の暴力により破壊され
ラストでは壊された統語の世界が描かれ、新たな結合の仕方に希望を感じさせるシーンが描かれていると
思いました。


冒頭に立ち返ると

> たしか雨が降っていたと思う。

「たしか」というコトバの在り処を自問してみると、[確か]というほどの認識をもたずに手触りのように
してあると気づきます。
そこに「雨が降って」雫にくぐもらされた光景は不明瞭で、
「いた」という過去の出来事は
「思う」という記憶のなかにあります。

> 梅雨だっただろうか。

短い時間の流れに一句の切りをつけて、少し長い時間の流れに立つと、
それはランダムな雨ではなく、「梅雨」とい季節の湿度にぼやかされた景色の中の雨が見えてきます。
「だった」という過去の出来事は
「だろう」と定かではなく、
さらに「か」と終われアイマイな記憶です。

> ぼくは何度もこの空間に戻ってい
  く。

それまでの時間の流れにさらに一句の切りをつけて、
記憶の主体である「ぼく」が登場しますが、[僕]ほどには凝縮せずにぼややんとした感触体です。
「何度」も特定されない曖昧な数です。じつは、ここ凄くウマイ!
この語彙1つで、それまでの時間の流れを空間の中に取り込む準備(伏線)をやってのけています。
何度、という言葉は、時間と空間の両方の意識を、限定と曖昧の両方の意識を、同時にサラウことのできる
(書き手にとっては)オイシイ魔法ですね。
そうして、「何度も」とゆる〜く(統語に近い度合いで)構文を飛ばして、ドウナルノ?
と顛末をワクワクさせておいて、行尾でパターンを壊して新しい意識の獲得を読み手に求めています。
「この」も限定的でありながら曖昧です。
そして、いよいよ「空間」が登場し読み手の認識を(具象的にも抽象的にも)束ねてしまいます。
「に」で方向性が打たれ、作者はまんまと時間の流れを空間に取り込むことに成功します。
次に来た「戻って」も
この「何度も」「この」「空間に」のトリプル連結にノリ読み手は[くる]の軌道を想定しますが
「いく」です。

冒頭のこの部分、
私なんぞは、日々の時間の流れの中にいたはずなのに宇宙旅行をさせられた感覚を覚えたのですが、
数珠つなぎのような秩序の中で感触を確かめながら生きている「ぼく」の意識のメタモルフォーゼ物語の
予告にもなっていて
意識を言葉に写し取る精度の高さに、作者の技術力を見た気がします。


けれど、【読ませる】作品を強く求める(赤青黄さんのような)読者の目に晒されると
途端に凡庸な作品と評付けされてしまいます。
読者に主体的に読んでもらうための表現努力をするというところまでいっていないせいではないでは?
以前ケムリさんが、読者に赤子をあやすようにして読んでもらって漸くに読めるというような作品では
レベルに達しない、といった旨のことを作品レス欄に書いておられたのを思い出します。

せっかくここまで書けるのなら、作品の方から読者をつかみにくる
そんな詩を書いてほしいと思うのは、私だけではないのでは?

赤青黄さんのあげた比較例を、技術の抜き取りに使おうとすればツカエネエとなると思いますが
場面で読者を惹き込む姿勢を参考にするには、わかりやすい例だと思いました。


  作者を差し置き好き勝手書きましたが
  どうか悪しからず。


運営の方、新体制スタートおめでとうございます!
(このコメントでもってウィンク返しでっす^^)


     あづにゃん(澤あづささん)、あつ〜い人材たちを見出して
     ここまで話をもってきた熱意と手腕にもうもう脱帽だお(^^

            すずらん拝

引用付きで返信   


--- かとり [ Member ] @ 2016.04.06 (Wed) 22:10:

この場を使っていただいて何か嬉しく思います。
>どなたかわたしにご意見を聞かせてください/(・x・)\
批評のスタンスについて、でしょうか。(すいませんログ全体一度目を通したんですが入り組んでて理解が難しくちゃんと頭に入ってないかもしれないですが)
自分にとっては悩みどころです。沢山の方にコメントをいただいて、いただくたびに自分の中に何かが立ち上がり、読み返すたびに発見があったりと、
影響を受けてきたところが大きいので、(今自分が書くモノと切り離して考えられないところがあります)
自分もそんなコメントをつけられたら、と思うのですが不十分な自覚があります。

なるべく言い切ることは大切なことだとは思いますが、罵倒という言葉に関しては、正直いって苦手意識があります。「活発な合評」と「罵倒」には必ずしも必要十分条件的な関係があるとはいえないのではないかと思ってます。「批評性」と「罵倒」に必ずしも相関関係があるとは言えないように。むしろ活発な合評を押し止める力学は結構簡単に働くぽくて難しいなと思います。
批評というか言葉による人の認識のプロセスには限界があると感じていて、「詩の批評」っていうフレーズの時点で深い矛盾を抱えてしまうところがあるのではないかと思っているのですが、よほどの確信、あるいは信念のうちになされる物でないかぎり、そういった意味で罵倒の言葉には擬制のうちに、ポーズとして、という側面が入ってくると思う。もちろん「あえて」で、そんなことは当たり前でネタ精神のもとに、みたいな留保はあると思うのですが、留保なく行っている人も多いのではないかと思います。そしてログとして半永久的に残りうる言葉ということもあって、やはり「重い」のではないかと思うんです。葛藤を押してきつい言葉を発していると、そもそもリテラシーがあるから、ネタだから大丈夫、みたいな人だとしても案外知らないあいだにシャレにならないダメージを負ってしまうということが起こりうるのではないかとおもいます。そこのところが危険というか、やはり強い言葉はそれなりに慎重に扱うべきで、きつい言葉をあずけるだけの根拠や動機がないと危険なところがあるのではないかと感じるんです。詩の言葉を扱う人にとって同じ言葉で罵倒を発するということがそれだけ危ういところがあるのではないかと。ぶっちゃけたところコメントを押しとどめるようなバイアスがあるとすればそんなところからも来ていると思います。あとこれも上手く言えないんですが酷評から建設的な何かが立ち上がる、ということと、十分な根拠なく罵倒するということはまったく別のレベルにある、質の違う問題であるようにも思います。そこを混同する傾向を感じることがあるのですが、そこは変な感じがあります。、、と色々一気に書いてしまったのですが、それでも、文学極道のスタンスには魅力があるとは思っています。私は2009年に初めて投稿したのでみつとみさんが言及されている初期の頃のことは経験していませんが、ここの他であまり発表をしてきておらず、ここだから書いてこれたところがあると思っています。だけど貢献はできていないと思うし、否定するようなことを書くのは気が引けるんですが、こんな意見も書いておきたいと思いました。このへんの塩梅が伝わってほしいです。どんどん話が大きくなるようで小っ恥ずかしいですが、例えば帝国主義とか連合赤軍とかオウム真理教とかの流れが日本にはあると思うんですけど、理念があって最初は志を持って動いていたものが、その理念によってこそ内側から崩壊していくパターンというか、そのような兆候のようなものが文学極道のなかに見て取れるのであれば、そのまま突き進む方向だけではなくて、バランスを回復していく思考の方向性も必要なことではないかと思います。みつとみさんの「文学極道の火は点滅する荒野の街と暗い海の彼方を越えて」という文章を拝見して、そういう方向性の部分で総括されているようなところもあるのかもしれないと少し感じて個人的に期待しています。

引用付きで返信   


--- かとり [ Member ] @ 2016.04.06 (Wed) 23:27:

書き始めてから投稿するまでにすずらんさんがコメントくださるとは…!
不思議なこともあるもんです。ありがとうございます(笑)
この勢いで書いてしまおう。今現行ログにある作品とこれから3日後くらいまでに投稿される作品にコメントをしてみようと思います。今少し忙しいのともともと書くのが遅いので時間がかかるかもしれませんが、このフォーラムを活用したりして何とかひっそりとやってみたいと思います。何度かそういうことをしてみたいと過ったことがあるけど踏み出せなかったことです。薄いコメントになるかもしれませんが、よろしくお願いします。

上のコメント含めスレ違いでしたね。失礼しました。

引用付きで返信   


--- 澤あづさ [ Member ] @ 2016.04.07 (Thu) 04:26:

いすちゃんへ。(すずらんさんとは、なんとなく呼びたくない)

ごきげんよう待ってた!
あっ(・∀・;)

Quote:
このクソッタレの時代に、あらん限り【詩】をつづけている今や絶滅危惧種と噂される【詩人】の
渾身の一篇といえるほどなのか?!、というと、圏外の作品
なのに、こんなにも真摯な青年、赤青黄さんが真正面から喰らいつきたくなるものがあるってとこが
案外ミソだったりするのかな、と思いながら読みました。


率直に言って、赤青黄さんが取り上げなかったら、あたしが『決別2』に言及することはなかった。初見、最悪の意味合いでハルキストな感じ(雰囲気のある語り、精度の高い比喩、合理的で印象的な構成など、本来なら美点である知的な文体が、白けた気取った無責任な態度を強烈に際立たせてしまうタイプ)が、鼻についてしょうがなかった。「なるほど赤青黄さんのような好青年には、こうした白けた気取りが理解に難いのだな。」という一点にのみ関心を持って読んだわりには、発見があり悪印象も払拭でき、いすちゃんの読解も聞けて大いに得した。

あたしがそこまで生理的に嫌いだったってことは、逆に生理的に好む人もいるかもしれないのよね。好悪なんて機会さえあれば簡単に覆る。物書きにとって最悪の事態は、「どうでもいい」で片付けられることで、悪感情を持たれることではない。原則的に。

────ただ、「好悪なんてのは機会さえあれば簡単に覆る」というのは、その感情を公言せず自分一人で処理してた場合の話で。罵倒は話がまったく別だ。罵倒家がみんな赤青黄さんのように善良なはずだなんて、信じられる道理もない。その理由は、いすちゃんもRTしてた、あの英語の問題集にぜんぶ書いてあったよね。

Quote:
「否定的な批評を行うことは容易である。なぜならば、どんなものでも、じっくりとよく見れば欠点を見つけることは常に可能だからである。もっぱら欠点に注意を向け、価値あることを無視することはしごく容易なことである。しかし批評の主たる魅力は、批評されているものよりも批評している者のほうが偉く見えることである。批評することはきわめて容易なので、それはしばしば、他のいかなる方法によっても人の興味を引くことができない凡庸な輩の避難所となる。」(中原道喜『新英文読解法』聖文新社)
https://twitter.com/IheukoRafaeluuu/status/716434849611927552

引用付きで返信   


--- 澤あづさ [ Member ] @ 2016.04.07 (Thu) 04:32:

かとりさんへ。

Quote:
この勢いで書いてしまおう。今現行ログにある作品とこれから3日後くらいまでに投稿される作品にコメントをしてみようと思います。今少し忙しいのともともと書くのが遅いので時間がかかるかもしれませんが、このフォーラムを活用したりして何とかひっそりとやってみたいと思います。何度かそういうことをしてみたいと過ったことがあるけど踏み出せなかったことです。薄いコメントになるかもしれませんが、よろしくお願いします。
http://bungoku.jp/fbbs/viewtopic.php?p=17123#17123


わたしの望みは、赤青黄さんと同じで、合評活性化だけです!
ちょうど徹底討論会場で「過去スレ作品読解大会」をやりましょうと、赤青黄さんを誘ったところですが、大会の会場はかとりさんのこのスレにします。(※わたしが勝手に決定。(※かとりさんの作品が、わたしに読まれるおそれもあるので、予めご了承ください。

***

わたしは原則的に罵倒が嫌いで、しかし赤青黄さんのような勤勉な人は例外だ、ただし赤青黄さんほど勤勉な人を見たことない、というスタンスですが、かとりさんのおっしゃること(特に罵倒の潜在的な危険性について)に概ね合点しました。すずらんさん推しの詩人のご意見を伺えて、とてもうれしいです。

Quote:
どんどん話が大きくなるようで小っ恥ずかしいですが、例えば帝国主義とか連合赤軍とかオウム真理教とかの流れが日本にはあると思うんですけど、理念があって最初は志を持って動いていたものが、その理念によってこそ内側から崩壊していくパターンというか、そのような兆候のようなものが文学極道のなかに見て取れるのであれば、そのまま突き進む方向だけではなくて、バランスを回復していく思考の方向性も必要なことではないかと思います。みつとみさんの「文学極道の火は点滅する荒野の街と暗い海の彼方を越えて」という文章を拝見して、そういう方向性の部分で総括されているようなところもあるのかもしれないと少し感じて個人的に期待しています。
http://bungoku.jp/fbbs/viewtopic.php?p=17118#17118


わたしははかいしさんの企画で文学極道の歴史について調べたことがあるので、「初期の文学極道は荒れていなかった」ということを聞き知っています。事例として調べた最果タヒさんのスレッドも、いかにも「軽々しい罵倒などできそうにない雰囲気」でした。それが文学極道にとって理想的な状況なのか否かは、わたし自身が「文学極道に望みたい理想」を持っているわけではないので、なんとも言えませんが。

わたしはいままで文学極道の外部で活動してきて、「文学極道に悪い方向で感化されたと思しいネット詩人たち」を見てきました。かれらは「馴れ合い」を嫌い、楽しく詩作し交流したいという意向の人たちを侮辱し、ひどい場合には追い出しをかけます。わたしに言わせれば、かれらの罵倒ごっここそは「馴れ合い」でした。自分を正当化するために、自分を否定しそうな作風を攻撃し、自分を支持しそうな作者だけを評価している、としか思えないような言動を取っているという意味で。

そういう風潮が、当の文学極道に、なかったらいいなと思います。

引用付きで返信   


--- かとり [ Member ] @ 2016.04.12 (Tue) 01:40:

住に従う自由
遼旅さん
http://bungoku.jp/ebbs/20160307_093_8673p

音も形も内容も一体になったようなところで制作されているのではないだろうかという感があって、オリジナリティや表現の強靭さを感じていいと思ったのですが、同時に名詞の連発などひとりよがりな感のある形態に難を感じ非常に読みにくさを覚えました。惹かれる部分がそのまましんどいと思ったところとつながっていて、切り分けられるものではない、という感触です。これは自分の読み方の限界でもあると思います。難しい、というのが正直な感想ですが、感覚を拡張してくれるようなところのある作品はやはりすごいのだと思います。これからも読ませていただきたいと思いました。

写真
ねむのきさん
http://bungoku.jp/ebbs/20160309_113_8676p

アニマとの邂逅の物語、のように読みました。何気なく、あっさり半身のような存在と出会って写真を一方的に撮りまくる、という風景を思うととても興味深いです。何かそういうものなのかもしれないなと思わせられました。
カメラを媒介して、少女の「変態」が描かれますが、「写真を撮る」ということに、性的なつながりが暗示されているようにも思います。捉えて、光で焼き付けること。これは詩の源のようなところにあるイメージを発見する、といったこととつながっているような気もする。
ふと「わらしべ長者」を思い出したのですが、描かれていることが、「変態」の端緒のプロセスだとして、名まえのわからない魚からさらに変態を繰り返していく、といったことが、描かれていないけど「含まれている」詩なのかも知れないな、と思いました。いい詩だと思います。

引用付きで返信   


--- かとり [ Member ] @ 2016.04.12 (Tue) 19:13:

月と犬と
シロさん
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20160311_142_8680p

構図がいい、というか、フレームに対するイメージの切り取り方がすごくうまいと思いました。
ドイツやロシアの構成主義のグラフィック群や枯山水がふと過ったのですが、
設定された枠組みの中での、モチーフの面積や色、幾何学的な配置や余白との関係などのバランスがうまくはまっているように感じ、空間の構成に豊かなものを感じました。変な見方かもしれないけど。

ただ細部を拡大して見ていくとパラパラして見えるところがあるというか
犬は、犬は、と重複が気になったり
>濡れた鼻をしながら
とか「?」な表現が散見されたりもっと切り詰めていけるように思います
拡大しても縮小しても空間がいい感じになるようにされていったら
すごく良い作品になりそうだと思いました。

引用付きで返信   


--- かとり [ Member ] @ 2016.04.18 (Mon) 20:09:

毒を編む
泥棒さん
http://bungoku.jp/ebbs/20160229_975_8658p

構造の、閉じたふるまいの、微妙なさじ加減でチューニングされた「閉じかた」によって異化する、フックをつくって受け渡す、といった方法論みたいなのが効いてるように感じたのですが
松本人志に代表される芸人のボケの話芸に共通するものを感じたりします。読者に託されている「先生」がツッコミ役なんだろうな、みたいな。作品の出口の部分、見られ方みたいな部分をコントロールすることに重心がかかっている印象で、読まれるものを、という他者との接点のところで文体を模索していらっしゃる感じがすごいなと思います。それはいいとおもうのですが、
見られ方を想定し、そこにチューニングを加えていく、というプロセスがあるんじゃないだろうかと思うのですが、落ち、落とし所のようなところへ向かっていく感じというか、作品構造が、描写より少し先行しているんじゃないかといった印象があって、コントロールされてしまうところが私にとっては楽しめないところでもあるように思います。後半のまとめすぎで窮屈な感じがするのかも知れません。
表現の中で、新しい表現をしたい、ということは表現自体がその前段階にあるという表明になるところがあると思うので
新しい表現を見たい読み手としてはまどるっこしさを感じてしまうというのも要因としてありそう。

引用付きで返信   


--- かとり [ Member ] @ 2016.04.19 (Tue) 11:42:

@MIZU
湯煙さん
http://bungoku.jp/ebbs/20160312_165_8687p

所属の形態は色々だと思うけど、NHKの「電波」を受信するというところで強制的に「徴収」の対象としてカウントされるという所属のかたちは独特の帰属の感覚が伴うものではないかと思います。
NHKに帰属し、スーツを着込んで別の形の帰属先であるおそらく会社に向けて出かけて行くまでのあいだに”女は完璧な水とな”る。
>ふと見上げれば
>細い月がかかっていた
>明け方に台所で
>女は完璧な水となった
すごく興味深い表現でした。
詩に帰属先としての男性が不在である点や、「同居人」が主人公の分身として読めたりもして
「食べる」ことと帰属することの関係など考えていると、別腹という表現もとてもおもしろく感じました。

引用付きで返信   


--- かとり [ Member ] @ 2016.04.21 (Thu) 04:25:

碧空
月うさぎさん
http://bungoku.jp/ebbs/20160312_162_8686p

>空の彼方
>記憶の海へと
>溺れていく
タイトル碧空で全体に空にまつわる描写だけど、ここだけ海が出てきて、ちょっと浮いている気がしました。
目の前に空があると思って読んでいて、想像を膨らませて読んでいるところでイメージが少しぶれてしまった感じがしたので「記憶の海」が安易な感じがしたんですが、でも海の深さとか潮のイメージなどが直感的なところで雰囲気を作り出していて活きているとも思いました。なので読者としては、例えば空との対比みたいな感じでもう少し海の描写があったらとか、海とつながる記憶の描写が膨らませられていたりしたら唐突な感じにならずにより詩に惹きこまれていったかもと思いました。
とはいえ自分のなかにある遠い空のイメージを喚起させてもらえたので、読ませていただけてありがたく思いました。

引用付きで返信   


--- 澤あづさ [ Member ] @ 2016.04.24 (Sun) 18:00:

▼NORANEKOさん『四月三十日』
http://bungoku.jp/ebbs/20130723_549_6965p
http://bungoku.jp/monthly/201307.html#b09

どうやらこの詩の特徴は、全体的に詩句の「意味がずらされている」ところにありそうです。わたしには第四段以降をうまく読めないのですが、それも語り手とわたしの「感覚がずれている」ことの証明になるでしょう。

題名は「五月祭前夜」四月三十日。下敷きはゲーテ『ファウスト 第一部』3835-4222行「ワルプルギスの夜」と思われます。はしばしにあのすっ飛んだ話と似ているような、似ても似つかないような着眼が散見します。

冒頭に引用された道長『望月の歌』は、おそらく「臨月の歌」と、あさっての方向へ曲解されています。第二段に引用された達治『雪』は、さらにとんでもない曲解によって、カイーナ(ダンテ『神曲』に登場する、弟アベルを殺した兄カインの名に因む氷漬けの地獄)などを想像させる始末です。おそらくそのように、全詩句が「ずらされている」のだと思います。

***

さて「四月三十日」は、古代にケルトやノースが祭っていた「五月祭前夜」の日付です。その概要は、ウィキペディア「ヴァルプルギスの夜」の項で充分つかめると思いますので、ご参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A4%9C
「五月祭前夜」の由来はケルトとノースで異なりますが、どちらにせよ日本の彼岸や盆のように「生死」への意識の強い風習です。そのためドイツの一部では、その風習の一部が、キリスト教のイースター(復活祭)と習合しています。逆に悪魔崇拝の象徴やら、魔女がサバトを催す日やらとも言われます、奇しくもヒトラーの命日でもあったりします。

NORANEKOさんの詩『四月三十日』には、そのような【歴史】の断片がすし詰めにされています。たくさんの原義がありますが、どれも【歴史】の文脈から引き剥がされているので「意義」を持てません。そのため、どの文脈におけるどの原義とも異なる、まったく別の「ずれた意味」が、否応なく発生してしまいます。『ファウスト』には、そういった齟齬こそ見どころと言えるような部分がたくさんありますね。

たとえば『ファウスト 第一部』2337-2604行「魔女の厨」では、「魔女」という概念が下記引用のような「馬鹿者」へずらされています。

Quote:
魔女(大仰な語調で、書物の一箇所を朗読し始める)
     会得すべし、
     一を十とせよ。
     二は去らしむべし。
     ただちに三を作れ。
     しからば汝、富むべし。
     四は手放せ、
     五と六とより、
     七と八とを作れ。
     これ魔女の勧めなり。
     それにて成就疑いなし。
     九は一にして、
     十は無、
     これぞ魔女の九々。
ファウスト 熱にうかされてしゃべっているようだな。
メフィストーフェレス まだまだ続くのです。
 よく知っていますが、あの本は全体がこの調子でね。
 この本では私も大分暇潰しをさせられた。
 つまり完全な矛盾は、賢者にも愚者にも、
 等しく神秘的に聞えますからね。
 学術の道は新しいようで古い。
 三位一体だの、一体にして三位だのと、
 真理の代りに迷妄を流布せしめる、
 これは時の古今を問わずして同じことだった。
 いい気になってそんなおしゃべりを続けている。
 こんな馬鹿者に構っちゃいられませんや。
 人間というやつは言葉をきいただけで、
 そこには何か思索に値するものがあるに違いないと思い込むようですな。


以上、高橋義孝訳『ファウスト(一)』新潮文庫p190〜191より
『ファウスト 第一部』2540〜2566行


【言葉を聞いただけで、そこには何か思索に値するものがあるに違いないと思い込む】人間に対して、【いい気になってそんな(賢者にも愚者にも等しく神秘的に聞える完全な矛盾や、真理の代りに流布される迷妄などの)おしゃべりを続けている】人間を、『ファウスト』の詩中でメフィストフェレスが【魔女】と呼びました。(ちなみに、【三位一体だの、一体にして三位だのと、真理の代りに迷妄を流布せしめ】たのはカトリックの教義ですけどね。。。)現代日本に生きるわたしの個人的な感性からすると、そのような人間の比喩には【魔女】(あるいはカトリック)よりも、「詩人」や「言語芸術家」のほうが的確であるように思われます。

そういった「感覚のずれ」が、NORANEKOさん『四月三十日』の趣旨である、という前提をここでは採ります。第四段以降は、わたしの感性では読解できないので、まず第三段までから受けた印象を概要として集約します。それに基いて第三段までを読解し、読解できない第四段以降は鑑賞します。「わたしから見て意味がずれている」詩を「わたしが思う本義に戻す」という作業ですから、もちろん「さらにずれる」という結果で終わると、予め明言します。



▼NORANEKOさん『四月三十日』鑑賞概要

わたしが思うに、『四月三十日』の語り手は「卵子」です。詩は復活祭のイースターエッグと、クリスマス(降誕祭)のジンジャーブレッドハウス(お菓子の家)を習合させて、奇怪な「卵巣」を示唆しています。それと『ヘンゼルとグレーテル』の魔女の家とを重ねて、『ファウスト』の「ワルプルギスの夜」に結びつけています。この曲解の過程で、「誕生」と「復活」の差異を、完全に無意味にしています。

胎内回帰願望と言いますが、この詩中で語り手が回帰するのは、自身の生家たる子宮ではなく【集合住宅】の卵巣です。受精卵を飛び越し「受精する前の卵子」まで回帰して、【僕】と自称される自身の生命を「生まれなどしなかった」ことにし根本から否定します。

否定される【僕】は、精子の性染色体によって決定されるはずの「男性」です。それは「神」に対する「僕(しもべ)」の象りでもあります。詩は【僕】の否定を介して【君】の否定にかかります。【君】とは君主、「父なる主なる神」の象りです。

***

「しもべ」との対立なしに、「あるじ」なる概念が成立するでしょうか。善悪などの二項対立は、片方を欠かせば両方が意味を失います。神を信じないなら悪魔を信じる理由はありませんし、天国に憧れないなら地獄に怯える理由はありません。「優位に立つべき神/父/男」という概念がなければ、「劣位に甘んじるべき悪魔/母/女」という概念も成立しません。

だから、「君(神)も僕(しもべ)も生まれなどしなかった」と仮定されるこの詩中では、神と「対立させられた」仮想敵としての「魔女」が、悪魔でも母でも「男の家畜としての女」でもない、「ふつうの人間」として語られているのかもしれません。曲解だらけのずれた抒情でありながら、実は「一周回ってふつう」なのかもしれません。



▼第三段まで(わたしにとってわかりやすい部分)の読解

Quote:
『この世をば
 わが世とぞ想う
 望月の
 欠けたることも
 なしとおもえば』*1

*1 藤原道長『望月の歌』。全文引用。


冒頭に引用された『望月の歌』が、ワルプルギスの夜らしい悪ふざけとして、「臨月の歌」と読み替えられます。月が満ち、出産の日が近づいて、身体が欠損なく完成した、胎児の姿がここに曲解されます。

胎児にとって母胎は全世界。まさに【わが世】ですが、子宮は母の身体であって子の所有物ではありません。なので胎児は、月が満ちれば母から突き放され、【この世】へと追放されます。そのようにして生まれたということを、語り手がここで回想します。

Quote:
 下手な歌を諳んじる、坂の上で湿る夜。遠くに茂る緑の並木。靄みたいに立ち込める精液の匂い。老婆の浮腫んだ尻肉のような黄桃が空の穴に嵌まってる。
 こんな夜に生まれたのだと思うと、気持ち悪い。
鳥肌が頬まで上る早さよりも遅く、坂を登る。やがて、彼方の道の奥に、あなたの待つ集合住宅がみえる。


「望月」に掛けて描写した「臨月」を、【気持ち悪い】と述べながら、語り手は【坂を登る】つまり「遡る」という道程を辿ります。父の男根が通った精子まみれの膣を通り、老いさらばえ死ななければならない受精卵の宿命を目撃し、それらを否定してその先の【彼方】、【あなたの待つ集合住宅】を目指します。

そこは卵巣、卵子たちの【集合住宅】。受精卵が着床する以前の、「男=父=神によって生まれていない者の世界」です。『ファウスト』が最後の最後に語る「永遠に女性なるもの」から、ほど遠いにもほどのある概念です。

その奇天烈な概念が「魔女の家」と喩えられ、『ヘンゼルとグレーテル』でおなじみ「お菓子の家」に象られて、そして曲解されます。

Quote:
 記念日の白い卓子に載る、お菓子の家を切り分けるあなた。
 ハッピーバースデーの歌が裏返り、弾ける林檎酒の笑い。
扉の金箔の花を、君と、半分こ。
蝋燭の灯る部屋の暗がりに垂れる、屋根にとける雪は甘くて、薔薇の香りがする。


【記念日の白い卓子に載る、お菓子の家】は、クリスマス(キリストのバースデイ)の御用達ジンジャーブレッドハウス。【弾ける林檎酒】は、人類に死をもたらした「善悪の知識の実」の成れの果て。卵巣で催されるこの祭典では、キリストの【ハッピーバースデー】が裏返り、「善悪」や「幸不幸」が転覆しています。そして悪の権化であるはずの「魔女」が、生とともに定められる死を祭っています。

部屋の扉には、仏壇の金蓮華(キリスト教から見て邪教の偶像)が飾られて、仏教の成仏(それは死によってしか成就しません、そして女には成就できないと言われます)を暗示します。屋根には、子宮へ射精された精液という現実が【雪】として降り積もり、くすしき薔薇(聖母マリア)つまり「処女懐胎」の夢想と【融けて】習合しています。男の精液も、男が捏造した「永遠の処女」なる夢想も、屋根によって部屋(卵巣)への侵入を禁じられています。

金蓮華を【半分こ】する【君】は、【僕】の半身です。「卵子」へ回帰した【僕】が、受精卵であった自身から排斥した「精子」の象り、それは【僕】(しもべ)に対する「君主=父なる神」の暗示でもあります。ここで語り手は、自身の男性性ごと「父」を、引いては父権社会における「出自」を、否定することで自身の「誕生/復活」を否定します。

Quote:
『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。』*2

*2 三好達治『雪』。全文引用。


この引用は、詩中で【君の歌】と呼ばれ、「君主=神=男の歌」と読み替えられます。【雪】を先述の通り「精液=父の遺伝子」の象りと読めば、太郎と次郎すなわち「長男と次男」の屋根にそれが降り積もるという描写から、以下のようなことを想像できます。

・創世記5章やマタイ福音書1章のような「男が男を生む父権社会の系図」
・アダムとイヴの長男カインが次男アベルを殺したため落ちたとされ、ダンテ『神曲』でカイーナと名付けられている、「肉親殺しの罪人が落ちる永遠の氷漬けの地獄」

男性性=父性=神性を否定し、男(神の僕)を生産する家畜小屋としての子宮すら否定し、純正の女性性のみを象る「魔女の卵巣」は、聖書信仰の立場から見れば「背信=地獄」に相違ないでしょう。『ファウスト』でも、キリスト教以前の女神たちの住まいが「永遠に空虚な遠いところ」として忌み嫌われています。

Quote:
むかしの、君の歌のように。切り分けられ、食べられた家の、つぐむ糸のらせん、二重。その、ふたつの時制を思うとき。あなたの谷間に光る、冷たい聖ペテロ十字が、緋色に染まって見えた。
あなたの背中に咲く、ホオベニエニシダの色うつりだろうか。


ホオベニエニシダは観賞用の美しい花ですが、西欧でエニシダはホウキの材料です。この部屋「魔女の卵巣」のあるじである【あなた】は、背中に「魔女のホウキの材料になる前の花」を生やし、「魔女として男に裁かれる前の女」を装っています。そしてその華々しい、美しいと呼ばれても不思議はない色で、聖ペテロ十字(謙虚、劣性、悪魔崇拝の象徴)を染め、緋文字(罪人のしるし)に象ってその身に刻んでいます。

【つぐむ糸のらせん、二重。その、ふたつの時制】は遺伝子の暗示。その【ふたつの時制】の一端を担う卵子には、近代にいたって顕微鏡が発達するまで発見されなかったという歴史があります。それと女性蔑視とが相成って、聖書信仰の文化土壌では、長らく「人間の魂/霊/本質は、父側からしか遺伝しない」と信じられていました。「キリストはマリア(人間)から生まれたが神である」という概念も、「悪魔と交わった魔女の生む子は、人間でなく悪魔である」という空想も、その無知から生じたのです。

論理は前提を失えば結論を失います、そして創造「論」は論理です。「遺伝において父母は平等である」という生物学的事実には、悪魔もろともキリストを失墜させる可能性があるわけです。だから「卵子」たち、「母」たちは、「父なる神=君」の権威を保持するために、口を噤まなければならなかったのかもしれません。そのような空想、前時代の実態への感慨が、下記引用の第三段に焚き染められています。

Quote:
君(※君主=神)の家は雪の上に建っていたんだ。朽ちて、その旧い家が雪に埋まるころ、僕(※しもべ)らの家は、きっと、建つだろう。



▼第四段以降(わたしにとって難解な部分)の鑑賞

Quote:
僕らが口に運ぶ、骨まで柔らかい仔牛のシチューの油分で会話は滑らかにすすむ。それは卓子の隅に転がる茹で海老とか、床に落ちてる梟の羽根や、ひっくり返った蜘蛛のこととか。部屋のなかにあるものについてばかりだけど、時折あなたが脚を組んで見せる黒いハイソックスとか、悪戯にちらつく舌の先とかのおかげで、あまり飽きなかった。


この【部屋】はおそらく、「キリスト教にとって母胎であると同時に、異教/邪教でもあるユダヤ教」のイメージで描写されています。この解釈の根拠として挙げられるのは、レビ記に戒められたカシュルート(食事規定)です。

・【海老】【梟】【蜘蛛】はいずれも、カシュルートで食用を禁じられています。
・【仔牛のシチュー】は、ビーフシチューのようなものであるなら、ユダヤのおなじみのごちそうです。クリームシチューであるなら、「仔を母の乳と一緒に煮てはならない」というカシュルートに反します。

【仔牛】について付記しますと、まず中世の異端審問全盛期には、魔女がサバトで幼児を食うという迷信が流布していました。『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家で、魔女がヘンゼルを飼育した背景にも、その迷信が窺えます。仔牛もヘンゼル同様の「幼児」には違いありません。

また仔牛肉(ヴィール)は、不健康な環境と食餌で貧血にされた仔牛の肉なので、現代においても悪食として糾弾されやすい食品です。ヴィールの飼育環境は、まさに『ヘンゼルとグレーテル』で、魔女がヘンゼルを押し込んだ檻さながらです。

そして詩中に、かくもヘンゼル似のヴィールが、【骨まで柔らかい仔牛のシチュー】という思わせぶりな料理名で登場します。これは、常識的に考えて、「骨が煮くずれるまで煮込まれた、骨髄ゼラチン質ぷるんぷるんシチュー」でしょうか。「骨ごと食べられるほど柔らかい仔牛」とは書かれていませんし、そんな仔牛はいるとしたら胎児くらいしかいないような気がしますし、胎児肉の料理なんて(イタリアには実在しますが)日本人には気持ち悪すぎますし、きっとそんな話ではないでしょう。

***

第四段は全面的に、そのような一種の「引っ掛け」なんじゃないかとわたしは思います、というよりそれくらいしか考えが及びません。下記の細部表現が、なにかの比喩なのだとしたら、わたしにはそれを読解できません。

・【卓子の隅に転がる茹で海老とか、床に落ちてる梟の羽根や、ひっくり返った蜘蛛】という光景を想像しても、「ふつうに(重力が【裏返った】などの特異な状況も窺えない)不衛生な部屋だ。」としか思いません。蜘蛛に関しては「益虫に【ひっくり返った】」のかもしれませんが、茹で海老と梟の羽の描写はなんなのでしょうか。
・【時折あなたが脚を組んで見せる黒いハイソックスとか、悪戯にちらつく舌の先とか】を想像しても、「語り手にとっては、こういう汚部屋のそういう汚ギャルが、『小悪魔』(ひいては魔女)なのかなあ。。。」といったことしか思いつきません。マリア崇敬カトリックによれば、女の足は穢れているので、それ見せるのが禁忌なのは確かです。

ですので以上第四段を、わたしはこのように感受しました。「魔女のサバトは現代日本でも、大げさなエログロとして取り沙汰されやすいが、その光景を冷静に思い描いてみるとこのように、特にどうってこともないんじゃなかろうか。」つまり「一周回ってふつう」ということです。もっとまともな読解があるなら、どなたか見せていただけないでしょうか。

***

続く第五段の、【比喩】と明言されている細部表現も、わたしにはよくわかりません。

Quote:
蝋燭の火を吹き消して、その先は、語らなくていいだろう。青ざめた果物を鑿で割ったり、起伏の稜線に爪を立てたり。幾重にも襞をなす、青白い死者の乳が寄せては返す岸辺で、白く泡立つ裾の歯列につま先からあまく噛まれて、僕らは波紋になったり、螺旋になったり。そんな比喩のほか、語るべきこともない。歴史のいっさいは波のごときものだという、ただ、それ以外には。


【青ざめた果物を鑿で割ったり、起伏の稜線に爪を立てたり。】とはなんの【比喩】なのか。事実わたしに読解できないのだから、「語り手の感覚が、わたしのとずれている」ことだけは確実に指摘できましょう。わからない部分を除外したうえで、第五段の文脈からわたしに感受される印象は、下記のような具合です。

「本当は二重螺旋であった遺伝子を、平面的にしか『見てはならない』と戒められていた時代もあったし、そのような環境はいまだ存在している。現代日本に生きるわれわれとて、山積みの歴史から前時代の諸概念を、都合のよいとき都合のものばかり都合よく引っ張り出しているじゃないか────そんな感慨のほか、語るべきこともない。」

こうしてわたしの鑑賞は、第三段までの読解とは、ほとんど関係ないような結論へ「ずれて」しまいました。どうもなにかがずれているが、どこでどうずれたからこうなったのか、当のわたしにはわかりません。これが「感覚のずれ」というものです。ですからどなたか、わたしとは違う前提で、この詩を読解してくださらないでしょうか。

***

つまり、こんな長文を書き人様の読解に期待したくなるくらいには、おもしろい詩でした。
そんな報告のほか、語るべきこともない。

引用付きで返信   


--- かとり [ Member ] @ 2016.04.29 (Fri) 00:56:

四月三十日
NORANEKOさん

Quote:
語り手は「卵子」
自身の生家たる子宮ではなく【集合住宅】の卵巣

など澤さんの読解がおもしろく読んでみました。

私が引っかかったのは冒頭の
Quote:
坂の上で湿る夜

というところで、ここがすんなりとイメージできず、全体の前提というか土台のようになっているところだとも思うので気になったところでした。ふつう湿る場所というのは水の近く、坂の下の方だと思うのですが、道長の歌(坂の上の歌)が絡められていることで成長した上で湿るということ、現代の批評みたいなもののひとつの切り口になるようなテーマが確信的に置かれているのだろうと思いました。ここで提示された反転した構造というか、言葉の歴史のようなものに対するある種の裏切りに、作品全体としてみたときに説得力が生まれているかどうかが鍵になる作品だと思ったんですが、私は普通に弾かれてしまったように思います。気持ち悪いといいながらセックスをして(繰り返して)それを語るべくもないものとして断じてしまう、結局全体にニヒリズムというかふつうに乾いた印象の作品になっていて、湿っているように感じられず、作品が提示するテーマを作品が全うできていないのではないかと思ってしまった。導入から2連、3連などは、浅井さんがコメントで仰ってるような「神話的な無時間的世界」へ分け入っていくような印象があって楽しめたのですが、いきなり無常観のようなところに接続されてしまうのがいろいろすっ飛ばしすぎているようで興ざめな感じがして、どうも細部に踏み込む気になれませんでした。そういうところから自分としてはぶっちゃけ澤さんの読解のほうが面白く感じられました。
批評ってつくづく難しく、私の読みはどうもつまらない読み方だと思います。ぜひ他の人の読みも聞いてみたいです。

澤さんへ
徹底討論会場でのご返信遅れてすみません。ありがとうございました!よろしくお願いします。
ダーザインさんを呼び捨てにしているのに気づいて恥ずかしい。ダーザインさんすみません!
抒情詩賞次点は実感みたいなものがまだなく、、もろもろ何するにも時間がかかる性分をどうにかしたいです。

引用付きで返信   


--- 澤あづさ [ Member ] @ 2016.04.30 (Sat) 10:58:

▼かとりさんへ。

ダーザイン氏は呼び捨てを気にするようなケツの穴の小さい男ではたぶんないので、誤字のことはきっと大丈夫です! もっともわたしは「ぬをっかとりさんはダーザイン氏と呼び捨ての関係なのか、シバン派かすげえ!」と一瞬思ったし、若干の誤解は招いたかもしれません。わたしも遅筆なので、【もろもろ何するにも時間がかかる】のは共感します。。。

さて『四月三十日』をかとりさんと合評できてうれしいです! 気づきについては後述しますが、ちなみにわたしには、詩人の読解を見てその詩人の作風を探りがちな悪癖があります。つまりもはやかとりさんが、いつわたしに読解されても不思議ありません。

Quote:
ふつう湿る場所というのは水の近く、坂の下の方だと思うのですが、道長の歌(坂の上の歌)が絡められていることで成長した上で湿るということ、現代の批評みたいなもののひとつの切り口になるようなテーマが確信的に置かれているのだろうと思いました。(かとりさんの読解)


そういえばわたしは、【坂を登る】には注目したが、【坂の上で湿る夜】には注目しなかった。読解は「どこに注目するか」と同じほど「どこを無視するか」も重要ですが、かとりさんにはこのような集約の手腕があるのですね。それが詩作に反映しているのですね、なるほどなるほどなるほど。(勝手な納得。)以上余談でした。



▼続・NORANEKOさん『四月三十日』

Quote:
気持ち悪いといいながらセックスをして(繰り返して)それを語るべくもないものとして断じてしまう(かとりさんの読解)


あっ(・∀・;)

Quote:
青ざめた果物を鑿で割ったり、起伏の稜線に爪を立てたり。(【四月三十日】第五段)


わたしが読解しかねた上記の【比喩】は、つまりセックスの描写だったんですね! 言われてみれば確かに、蝋燭を吹き消したあと言うまでもなくやることったら、セックスくらいしかありません。いまその意味に完全開眼し、それ以外の読解はできない状態にやっとなりました!

そんなことすら人の話を聞かなければ気づかないのが、感覚のずれというものですが、

「第五段で【僕】は蝋燭を吹き消したのち、黒いハイソックスの【あなた】とセックスする。(関係ないけど最近は、小学校の保護者会から「女の子のニーハイは変態を刺激するのでやめましょう」といった警告が出てるんだそうですね。)第四段はその伏線である。(変態のニヒルな靴下萌えなんか、人妻のわたしに読解できるわけねーだろふざけんな。)」

この詩を上記のような展開と仮定すると、「じゃあ【君】はだれだよ。」という疑問が沸騰しますね。わたしの読解では【僕】が卵子で【君】が精子ですが、【僕】が精子で【あなた】が卵子なんですかね、「じゃあ【君】はだれなんだよ。まさかの3Pか。」────このように、「登場人物の整理」から始まった読解は、その登場人物の定義が覆った時点で、全文破棄の憂き目を見るのでした。なぜなら読解は論理だから。

ですから詩人の皆様、(NORANEKOさんへの苦情ではなく、全員に言ってんですよ、)思わせぶりな人称をてきとーに扱い、読者を混乱させる悪癖をやめてください。「登場人物」はストーリーの核心、読解に不可欠の情報なので、そこを読み取りにくい散文詩は「わからない」というストレスを読者に強います。「散文の」基本を押さえていない、無駄に難解な「芸術」は、一般人に敬遠されます。以上一般社会人の意見でした。

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