| 投稿者 |
メッセージ |
レフ
未登録ユーザー

グループ: なし
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日時:
2012.10.06 (Sat) 00:49 |
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はじめまして。
問題を解決するための提案をさせてください。
それはこういうことです。
右肩さんが「理想的だなあ」と思われるような、
「詩作品(および芸術作品)に対する批評文」を、
具体的に列挙してください。
たしかに、
「近代日本における文芸批評とは何か?」
「近代におけるエッセ・クリティックの歴史の類型には
どのようなものがあるか?」
などの議論をすることはとても大事だし、興味深くもあると思います。
ですが、いちばん簡単なのは、
右肩さんが、具体的に、
「○○という人物の書いた、○○に対する批評文が優れている」
という言い方をし、
それらの批評文を、
ひとつ、ふたつではなく、具体的にたくさん挙げることです。
そうすることによって、
各人が「批評とは何か?」という「原理論」のまわりを
各様にぐるぐると旋回して徒労することなく、
右肩さんを中心にして、
「共通のコンセンサス」としての「暫定的な解決」
に至ることができるのではないかな、
と思うのです。
いかがでしょうか?
(※このサイトに深く関わってもいない者が、生意気なことを言って大変に申し訳ありません。心外に思われないことを願います) |
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鈴屋
Newcomer


登録日: 2009.11.08
記事: 3
グループ:
[ Auths
]
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日時:
2012.10.07 (Sun) 03:25 |
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なにやら騒がしい事態に至った右肩さんのレスがわたしへの私信であったということなので、わたしの方からなにか返しておくのが礼儀というものだろう。一言でいえば「鑑賞」という批評のありかたを提唱している。それがいかなるものかということで、例とか批判をいくつかあげながら説明しているけれども、わたしにはその輪郭とか方法が判然としてこなかったな。思うに、西欧のことは知らないが日本の詩文学に伝統的にあった鑑賞の態度みたいなものを導入してはどうか、ということかと少し思った。右肩さんは俳句に通じていて、実作もするし句会にも参加する。そこで行われる互いの句への評議のようなものを想定しているのではないか、と少しおもった。
ケムリさんが酔っぱらいながらテキトーに列挙した批評の方法(わたしは夜は多かれ少なかれアルコールが回っているのだが、とてもじゃないが読むことも書くこともできない。その点たいしたものだ)、これはあいまい模糊としているわたしの頭を整理するのに非常に役立つ。こんなことはいいとして、で、右肩さんのいう「鑑賞」というのはこの五つの批評の方法を明確に区分けするのでなく、適時使っていく。おそらく「鑑賞」は明確な理論立てはされてなくとも日本の詩文学ではある程度なされてきたことではないか、とひかえめに主張しているようにみえる。
やっと酒が醒めてきたというのにサッポロ黒生を開けてしまった。一服。
ここからは右肩さんの「鑑賞」が批評の五つの分類にどう絡んでいくのかわたしなりに思うところを言ってみます。
�,魯吋爛蠅気鵑�もっとも排斥したいところのものだろう。作品イコール作者への批評ということで、そのことがどれだけ一つの作品から導き出される豊かさを損なっているか、大切なのは作者ではなく作者を装置として吐き出された歴史の無意識、それを顕在化しなくちゃいけない。まあこんなふうに言ってみるんだけどいいのかどうか。
日本には短い詩文学がある。短歌とか俳句。ちょっと亜流だけど山頭火とか尾崎放哉はどう考えれば良いのか、彼らの放浪、苦節の人生と作品をワンセットにしなければ、なんのこっちゃという作品ばかりだし、菅原道真の短歌は都落ちを知らなければよくわからないのもある。大学の先生には彼らの足跡を追って一生を棒にふる者もいるだろう。西行や芭蕉の旅をわざわざ追体験するものもいる。なによりも古来よりの素養、教養として扱われてきたという伝統がある。「鑑賞」はそれを含む、と右肩さんは言っている。と思う。
で、わたしはといえば、啄木は女好きで金にルーズだったとか、ドストエフスキーは才を鼻にかけた嫌な奴だったとか少女強姦しただとか、アート・ペッパーは薬物で刑務所出たり入ったりしているうちに、ハリウッドスターにしたいような美貌が見るも無惨になり、そのせいで彼のサックスは明るい曲でも悲しげというような話が好きです。
�△砲弔い討六蹐鮟颪�人なら、腐心するところだろう。構造というなら右肩さんは自分の詩にもほかの作品にもとても敏感だ。内容なんかどうでもよいということなら、実は彼の詩はなんにもなくて内容は便宜上の借り物というスタンス。彼の「鑑賞」は内容を求めない。自動化とか異化とか聞いたことあるけど使い分ければいい、私見だけども、詩において自動化の効用というのもあるとおもう。たいくつが大事な時もある。もちろん「鑑賞」の主要なテーマだ。
注意しなければいけないのは、批評ではなく創作の方法として意識的に取り入れるとややもすると、見え見えであざとさばかりになる。書いているときは方法はさっぱりと忘れるべきだとおもう。
��はわかり易い。「鑑賞」はイデオロギー批評からもっとも遠いところにあるだろう。と言った上で注意しなければいけないのは、われわれは恣意性の海の中を泳いでいる、イデオロギー的でないときに最もイデオロギー的である場合がある。「鑑賞」という中庸のイメージの危険。
浅井さんの方法がこれに当たるというのはピンとこないな。
�ぐ聞澆六澆瓩襦H茲譴燭渓欧燭い靴錣�らないしどうでもよくなってきた。�い覆鵑�右肩氏のレスがいつもやってきたことのようにもおもえる。�イ榔Ω�さんが目指しているものとなっているけど、はてそうなのかともおもう。脱構築なんてね。「鑑賞」には似合わない。
結局、「鑑賞」という批評はこの�,�ら�イ泙任諒�法を適時使い分けて、また渾然と一体化させて行う批評なのです。自覚的であるならば�,發いぁC耆任鯀�いつつ、実は過激に刺激的にということかな。一般論になってしまった。ケムリ氏があげた西欧の人々については、その名を知っている者もそうでない者もいるけれど一冊も読んだことがない。はなはだ稚拙な言説になっていることだろうし、右肩氏が言うところの「鑑賞」とはほど遠いものかもしれない |
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右肩
Member


登録日: 2009.11.07
記事: 62
グループ:
[ Auths
]
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日時:
2012.10.07 (Sun) 09:01 |
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レフさん。
僕はそんなに「批評文」を読んでいないし、そもそも批評よりも鑑賞をもっと重視して良いんじゃないかと思っています。批評的な観点を意識した鑑賞ですね。
批評家の名前を一々挙げずとも、今のネットの本に対するレビューの質の高さは(もちろん総てではありませんよ)、驚異的ですね。その辺の新聞の書評欄よりもよほど質の高いレビューがブログやアマゾンの評価欄にゴロゴロしています。もっともこれは量にも内容にもなんの制約もないという理由もあると思いますが。
理想的な批評を探す読書もしてみたいけれど、エネルギーを使うし、良質だけど退屈なものが多いからな。批評、っていうと未だに小林秀雄を思い出しますもの。
鈴屋さん。
いや、律儀な方です!本当に迷惑を掛けました。
論議が批評の本質に進んでいくのはまったく好ましいことですけど、僕が当初言いたかったのは単純なこと。「もっと面白いコメントが読みたい。一言コメントも詩のランク付けも馴れ合いの挨拶もいいけど、そればかりでは僕は面白くないな、ということぐらいです。
本当は自分がやってみせなきゃいけないことなのにね。
それともう一つ。お前は馬鹿で俺は偉い、というのはもうんざり。いいじゃん、馬鹿で。本当に利口で偉い人はとことん利口で偉いよ。僕の半生は自分が利口でも偉くもない、ということを思い知らされるためにあったようなものですもん。まったく並以下。はるかに。僕が謙虚だとか言ってくれる人がいるのは有り難いけど、とても威張れるような中身じゃないから。まあ、それでもたまに、「おっ、こりゃいいこと思いついたぞ」とか「よしよし、こりゃ天才かも」なんて興奮に酔いしれることもないわけではないし、押さえきれない自己顕示欲も否定できないのはつらいことです。褒められ、おだてられたら久米の仙人みたいにすぐ落ちちゃいます。たぶん。上手にセルフプロジュースすれば有名になれるのかな、なんて思うこともないわけではないし。知能もそうだけど、人間的にも十分馬鹿ですね。
その僕から見ても馬鹿だなあ、という人はいくらでもいるけど、僕も馬鹿なんだし、そんなこと言ってもしょうがないよな。ただ、そういう不毛なやりとりと、利口で偉い人の「勝利の舞」みたいなのをコメントでみせられるのはもういいね。もっと馬鹿なりに本質を語って楽しもうよ、ということです。この「本質を語る」ということこそ、日常生活で最も行われていないことですね。僕が詩人でもないのに詩らしいものを書いたり、こういうところに出入りするのはその癒やしがたいフラストレーションがあるからです。
でも、そのフラストレーションを生のままぶつけても、ただただ人さまに迷惑を掛けるだけですよね。 |
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み かえる
未登録ユーザー

グループ: なし
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日時:
2012.10.07 (Sun) 13:39 |
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いいんですよ 。非常識でも馬鹿でも良い詩さえ書き上げるなら 。それによって判断を誤らせてはいけないと、警戒する汎論も必要でしょう 。
右肩さんには自己弁明をするより、もう少しジョークを理解してほしいな 。いや、あなたも理解はできる方でしょう。しかし文面には決して表せない、なぜかこころとこころが通じ合う冗談は確かに存在するのです 。
わたしがアタマにきたのは、あなたはレスでcaseさんの批評に対して物足りなさを指摘しておきながら、平気で後から批評依頼をしていること。
こころから信頼の持てない相手に何故批評依頼ができるのか?その無神経さにです。依頼とは、相手に対し尊敬の念がないとできないことでしょう?違いますかね。
caseさんは多分によくできたお人柄なので文句も言われなかったのでしょうが、内心はいい気持ちはされなかったことでしょう。あなたへの批評文を読めばなにかしらとそれが滲み出ている。書き方のひとつだけでも人間の捉え方は変わりますよ 。
つまらない冗談は確かにつまらないでしょう。当然質は問われるでしょうが、批評にもいろんな仕方があってもよいのではないか 。そんなこころのゆとりも欲しいと、わたしは思っています 。 |
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レフ
未登録ユーザー

グループ: なし
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日時:
2012.10.08 (Mon) 21:39 |
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右肩さんが、
自分の詩作品にたいして、
「批評文」ではなく、
「鑑賞文」を書いて欲しいというところまでは大変よくわかりました。
それでは、
「批評」と「鑑賞」のあいだにはどのような違いがあると思うのか、
右肩さんご自身のお考えを、
具体的に(できれば箇条書きで)教えていただけますか?
ーーーーーーーー↓以下はむずかしい話が好きな人向けです↓ーーー
「批評」(クリティーク)の語源は
古代ギリシャ語の「クリネイン」です。
古い文献を漁ってみれば、
古代ギリシャの医学の祖、ヒポクラテスの著作に見つかります。
ヒポクラテスはこの「クリネイン」を
「この地点を越えてしまえば、もはや治癒することが難しくなる段階」
という意味で使いました。
(日本語では「分利」と訳されたりします。)
だから、「クリティーク」という語は、
「批評・批判」のみならず、
「危機・危険」とも訳されているわけですね。
ですので、
「純粋理性の危機」(『純粋理性批判』)を書いたカントにせよ、
ロラン・バルト以後のヌーヴェル・クリティークにせよ、
小林秀雄のあとに続く我が国の批評家たちにせよ、
原理原則として、
「批評」ということばは、
「区別すること」、
「差異を見分けること」、
「境界を画定すること」
「クリティカル・ポイントを指摘すること」、
「凡庸な点と、特異な点を見分けて指摘すること」、
といった意味の理解を前提にしています。
ケムリさんによる批評文のパターン分けの元ネタは
蓮實重彦だと思いますが、、
(ある対談本で蓮實はほとんど同じことを言っていましたよね)
そのような「批評のテクニックとパターン」とは関係なしに、
「わたしは、
ここが大事だと思う
ここが問題だと思う、
ここがポイントだと思う、
ここがひっかかった、
ここがダメだと思う」
などの指摘は、「批評の動機」としては、
実はきわめてまっとうですし、
非難されるべきではありません。
(ベンヤミン、ブランショ、バルトといった20世紀を代表するような批評家の思想と照らしても、間違っているとは言い切れません。
結局のところ、彼らの批評文もそれを主眼にしていたからです)
そしてそのような前提を踏まえてもなお、
「批評」と「鑑賞」は違うのだ、
「鑑賞」とは、これこれこういうもので、
わたしの作品についても、
「批評の文」ではなく、「鑑賞の文」を書いて欲しい、
と右肩さんが仰るのなら、
それはもっと、
「具体的に説明」しなければ、「通じない」ものです。
「具体的に教え」なければ、「わからない」ものなのです。
ですので、、
「批評」とは異なる「鑑賞」の本質・神髄・定義・概念というものを、
もっと「通じる」かたちで提起していただきたいと思うのです。
日本の現代詩の世界では、1970年代から、
「詩人は、詩を書くと同時に
(自己弁明の)批評もしなければならない」
という厳しすぎる状況が続いているのが実情です。
それは「手帳プロバー」であっても、
「文学極道」であっても、
今なお、共通しているように思えます。
そんな中で、「批評」とは異なる、
右肩さんの「鑑賞」という「コンセプト」は
注目に値するものです。
ですので、
精神分析学における「対象a」をめぐるような、
もんだいの解決をダラダラ延々と拒否し、
あいまいに否認をし続けるようなやりとりではなく、
もんだいの解決を大前提にしたうえで、
もっと明確に、
ご自身の理想と主張を提起していただきたいのです。
前世紀以前の
シュールレアリズム宣言や
未来派宣言や
ダダイズム宣言や、
共産党宣言でさえも、
「はったりとしか思えない言い方」で、
しかし明確に、
「もんだいの解決」を前提にとなえられています。
そうでなければ、ただの、ネットの、ふきだまりの、無名人の、
仲間内の、「才能のない人」の、
よくあるグチになってしまうからですね。
そういう愚かさを切って捨てる明晰さこそが、
この21世紀という時代における、
「文学極道」の本懐ではないのか、とわたしは思うのですが、
どうでしょうか……? |
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評者(ケムリ)
Privileged


登録日: 2011.07.26
記事: 148
グループ: なし
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日時:
2012.10.09 (Tue) 02:44 |
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実もフタもないこと言いますと。
ぶっちゃけ、右肩さんの問題意識って
「テクスト戯れ」とか「読みの快楽」、つまり作者の死・読者の誕生を前提にした読みを、更なる読者に対して提示するところに価値をおく「俺のテクストとの戯れっぷりを見せてやるぜ!」みたいな批評の1ジャンルだよね。批評もあくまで創作として、そこに価値を見出すやり方。一つの批評作法として定着してる感さえある。デリさんとか超好きじゃん。僕は、脱構築なんかも「戯れ」の1ジャンルだと思ってるけど、わりとよくある。
>残念ながら「文学極道」には、僕のも含めて、魅力的なコメントは少ないのです。僕には、どうせ相対化されざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断、裁断は楽しめません。
ってとこから始まってるわけで。
普通に「ああいいたいことはわかる」じゃない?まぁ、「批評が作品の面白さに還元される」ことも求めてるから100%イコールってわけでもないけど。僕としては、その辺の理解を深めてもらいたくてあの長ったらしい文章を書いたわけで。
レフさんほど問い詰める意味がいまいちわかんない。
「それはそれでアリだよねー」って感じ以上にはならない。文学極道で僕がやってる批評の目的意識とは違うし、また僕自身が目指す批評のゴールとは違うけど、それはそれで既に大いに「有る」批評の1ジャンルだよねー、と。やりたい人がいて当たり前だし、そういう風に読まれたいと思う人がいても当たり前だと思うけど、
ただ、全員がこの流儀で批評やって「面白い批評」を求めるのは、流石にムリだと思うのね、ぶっちゃけ。それなりの経験値が必要なやり方だし、求められる能力もどっちかと言えば創作能力だよね。
難しいんですよ、それ。そもそも普段詩なんか読まない人の「面白くなかったです」って素朴なコメントを、文学極道では大事にしたいわけだし。
だから、僕としては
「右肩さんのおっしゃることはわかるけれど、文学極道における評の価値観はそれと必ずしも一致しないよ。でも、個人個人が目指す批評の形は色々あっていいし、排除するつもりもないし、むしろそういう価値観の『面白い批評』を書く人はいてくれないと困るよ」
ってとこに落ち着くわけですよ。
レフさんの要求は、「批評の新しいゴールを打ち出してみろ!」ってなもんだよね。でも、仮に右肩さんがそれを打ち出したとしても、文学極道ってそもそもが「不完全な批評でもそれを受け入れ糧にしよう」ってのを前提にしてるわけで。
そりゃ、僕としては丸っと受け入れるのはムリ。何度も書くけど、「そういうのもアリだね」ってくらい。
色んな人が批評について思索を深め意見を交換するのは、とっても有意義なことだと思うけど。文学極道の本懐は、わりとそこじゃないんだよな。もちろん、そこもとても大事なことだと思うんだけど。
「仮にもんだいの解決が提示されても、僕がそれを受け入れることは不可能」
っていう、厳然たる現実がそこにあるわけで。ここで「〜宣言」やられても、「お、おうがんばれ」としか言いようがないんですよ、わりと。
いや、やるなとは言わないしガンガンやって欲しいんだけど。僕自身がそれに強く共感したとしても、立場じょう文学極道の運営ベースで乗っかれるかって言われると、ムリっすねーとしか。
あと、僕の批評分類の底本はハスミーって割と落ち込んだ。え、まじで、ハスミー先生そんなこと言ってんの?
実はハスミ先生ほとんど読んでないんですよね。読んだ方がいいですかね。なんか「難解な言葉コネくり回してんじゃねえよ、シンプルにわかりやすく書けオラ」って思っちゃって。
僕、国内では大橋先生とか好きだなー。わかりやすくて、使いやすくて、便利で。「理論なんざ所詮ツールよ、使い勝手が悪けりゃ捨てろ」ってとこあるんですよねー。よくないなー、とは思うんだけど。ハスミー先生ちょっと読んだんだけど、すんげー使いにくそうで。
僕、現実の上での思想はローティとの親和性がものすごい高いんですよ。ほら、ブランショさんにしてもローティさんにしてもウィトゲンさんにしてもバルトさんにしても、「作者なんていない」って叫んだというよりは「作者なんていないってことにしとけば理論的に超キレーに片付くぜ!ブラックボックスなんて始めからなかったんや!」って理論じゃないですか。あーいうの、ものすごい好き。
ほら、結局八百屋で大根を一本買うのに必要なのは値札であって、「大根を脱構築してみますた」って言われても、俺はおでんを食えないわけじゃないですか。批評ってそーいうとこありますよねー。
ただ、僕は実存主義から哲学を学び始めた人間なんで、「主体の再回復」をものすごい大事なテーマとして考えてて、「理論として超スッキリや!これでいいのだ!」ってところと、「でも、理論でスッキリすりゃいいってもんでもないだろ」の間で悩んでたりするんですよね。だから、ソンタグの「反解釈」を持ち出したりする。スッゲエ怒られそうなこと言うと、あんなもん、理論的にはゼロも同然じゃないですか。ソンタグさんなんて。超カッコいいし美人だし文章ウマいから、みんなスゴイと思ってるし、俺もスゴイと思ってるけど。でも、「そんで、オバちゃん結局コレどういうこと?」って感じじゃないですか。かなり、というか相当アレでアレな発言も大量にしてるし。それはあんたの信仰告白だろおばちゃん…。ってとこあるじゃないですか。でも、そういう意味不明さや信仰に根差したものを残しておかないと、世の中理論だけで進んじゃいますからねー。それはそれでねー。目標も大事ですよねー。
雑談が長くなってごめんなさい。
ところで、再び僕の発言についてですが。鈴屋さんがさらりと実地に適用して、若干の批判を与えてくれてますが、それを見ればわかるとおり実地で批評やってると大体の人には自然に頭に入ってる内容に過ぎないと思います。言語化はされてなくても。理論としては「文学とは何か」の範囲を一歩も越えてないし。そういう意味で、底本が要るようなものではないかなー、と。いや、これは僕がハスミーが嫌いだってわけじゃないですよ!ハスミー先生ともあろう日本思想界の大巨人が今更こんな基本的な話をしてたのかー、とちょっと驚いただけですよ。別に、大学に入学した頃ハスミ門下の東大クソ野郎に論戦でベッコベコに負けたから東大生とハスミは死ねと思ってるとか、そんな理由があるわけじゃないですよ。そんなコンプレックス丸出しの理由があるわけもないです。 |
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右肩
Member


登録日: 2009.11.07
記事: 62
グループ:
[ Auths
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日時:
2012.10.13 (Sat) 13:20 |
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色々御意見を頂きましたが、僕は「批評論」を突き詰めようとしたわけではないのです。
一言コメントがいけない、ということは言い続けてきたのですが、それは自分の印象を生で提示することをやめろ、と言っているのではありません。僕は楽しめないし、こういうコメントがだらだら続いていくのではこの場が盛り上がらないのではないか、と考えたから一個人として「楽しいコメント」を提案したに過ぎないのです。「いや、そうじゃないよ、こういうやりとりから自省して作品を向上させることも必要だし、褒め合いだって罵り合いだってやって楽しい見て楽しい、ヒューヒューだよ」と言う人がいたらそれはそれでその通り。構いません。
「批評」と「鑑賞」を対峙させたのは、「批評」は物の価値を論ずるものだ、という辞書的な解釈に拠っています。ランク付け、というのは価値を決めるものの立場を対象よりも上に置くことでもあります。どうもネットの批評はそういう慢心を誘いやすく、またそれに対する反発を招きやすい。「いい加減なことを偉そうに言うな!」という糾弾ですね。これは見ていて面白い面もあるかもしれないけれど、作品をより面白くすることには結びつきません。僕個人としては嫌でした。根拠のあるエキサイティングな、前向きな罵倒ならともかく、作品も離れ、揚げ足取りになり、論拠はコロコロ変わり、結局の所「オレはお前より偉いんだ」という主張しか残らない。当事者はどう思っているか知らないけれど、僕は嫌だ、ということです。
じゃ、具体的にどう書けばいいのか、ということで、泪さんの作品を舞台に試みてみました。作品の弱点はあげつらわず、作者の意図を受け入れながら鑑賞に徹するつもりで。で、結果はどうかというと、作者にも受け入れられなかったみたいだし、自分の文章をひけらかしに来たように捉える人も居たし(考えようによっては確かにそんなところもあったかもしれない、と反省させられ、非常に嫌な気持ちになりました)、好意的に捉えてくれた方もいらっしゃったようですが、新たな「鑑賞」は現れず、作品のスレッドはまさに僕が一番嫌だと思う雰囲気で進行してしまいました。
何なんでしょうね、これは。雑誌の投稿欄や、管理されたサイトや誌面では起こりえないことが起こってしまう。僕は一方的な雑誌の編集や、有無を言わさず臭い物に蓋をする管理が嫌いでこのサイトに来ているのに、結局スタッフに(というかケムリさん一人がやってるんだろうか)頼らなければ収拾できない混乱が持ち上がるんですね。詩のオープンな投稿サイトがあらかた消えていくのもわかるような気がします。あるいは、こういう過程で栄枯盛衰を繰り返し、消費されていくのがネットの詩のサイトで、「消費者」はその旬だけを楽しんで食いつぶしていけばいいのか……。
名ばかりですが、一応僕も「サポートメンバー」になっていることもあって、そんなことまで考えてしまいました。 |
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評者(ケムリ)
Privileged


登録日: 2011.07.26
記事: 148
グループ: なし
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日時:
2012.10.13 (Sat) 13:57 |
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逆に言えば、騒動が起きるから面白いわけで。
淡々と進行してるウチのサイトって多分お客さん来ないと思うんですよ。議論が巻き起こるのは大事。
右肩さんの提案は面白かったし、一つの契機になった。
右肩さん自身も最後まで誠実にふるまった。
僕も色々言語化してみるいい機会だった。
とてもいいことじゃないですか。 |
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かせ
未登録ユーザー

グループ: なし
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日時:
2012.10.14 (Sun) 12:20 |
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名前を出されたのに距離を置いてましたcaseです、右肩さんのご提案、楽しく拝見しました。
ああいう風にばしっと言っていただけるのは個人的には有難いです。
んで、ただ距離を置いていただけでは芸がないので宣伝です。
右肩さんの今回のご提案に応える形というと大げさですが、
現代詩フォーラムの名物行事、批評祭をcaseが主催します。
そんなわけで、右肩さん、そして今回の右肩さんのご提案にちょっと心揺さぶられた皆さま、
そろいもそろって各々の「批評観」をぶつだけでなく、それに則った「批評」をぶつけてくださればと思います。
ほら、いかさんが良く言ってるでしょ?
「とりあえず作品出せよ、話はそれからだ」的な(てきとー
詳細が確定次第改めてアナウンスさせていただきたく思いますが、
とまれ、右肩さんに感謝の言葉を。ありがとうございました。
ちゃお! |
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コーリャ
Member


登録日: 2012.06.20
記事: 32
グループ: なし
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日時:
2012.11.09 (Fri) 16:11 |
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香瀬
未登録ユーザー

グループ: なし
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日時:
2012.11.09 (Fri) 17:38 |
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そんなわけで遅ればせながら。
HHM要項(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=263799&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D7764)
です。
来年の1月の下旬に間に合うように。
さあ皆様、ダンスの時間だ。
| かせ wrote: | 名前を出されたのに距離を置いてましたcaseです、右肩さんのご提案、楽しく拝見しました。
ああいう風にばしっと言っていただけるのは個人的には有難いです。
んで、ただ距離を置いていただけでは芸がないので宣伝です。
右肩さんの今回のご提案に応える形というと大げさですが、
現代詩フォーラムの名物行事、批評祭をcaseが主催します。
そんなわけで、右肩さん、そして今回の右肩さんのご提案にちょっと心揺さぶられた皆さま、
そろいもそろって各々の「批評観」をぶつだけでなく、それに則った「批評」をぶつけてくださればと思います。
ほら、いかさんが良く言ってるでしょ?
「とりあえず作品出せよ、話はそれからだ」的な(てきとー
詳細が確定次第改めてアナウンスさせていただきたく思いますが、
とまれ、右肩さんに感謝の言葉を。ありがとうございました。
ちゃお! |
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かず
Regular


登録日: 2011.01.04
記事: 136
グループ: なし
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日時:
2012.11.10 (Sat) 10:44 |
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どのレスポンスを見てもアジテーションに無自覚ですね。私自身はアジテーションそれ自体に反対というわけではないですし、反対しようにも、それ自体もアジテーションとして回収されてしまいますから、こうした場面では何を言っても仕方が無い。とはいえ、どんな形の主張であっても「こういう投稿をすべきだ」「こういうレスポンスをしてはいけない」というメッセージを持っているように読めてしまう、というその事実に対して、何の関心ももっていない人が非常に多い(困ったことに私は、それに自覚的「であるべき」だ、と言うこともできない)。まあこれは、批評というものの宿命だとも言えるのですが。
果たして方法などというものは存在するのでしょうかね。文学極道は方法を提供するんだと上で言っていましたが、幾つかある方法のうち自分に合ったものを選べばよい、というようなスタンス自体、方法の提示に対して全くと言っていいほど無自覚な態度から来ている。方法を選ぶ、というのは、読み方を選ぶ、ということであって、いわばそれは、精神を選ぶ、ということに相当する。結局、作品に対する態度そのものを選択させている。もちろん、心変わりするように、作品に対する見方を変える、そんなことはできるはずもない。読み手の主観を大切にすると言いつつ、この点では読み手を全く殺している。
「読める」ということは、ある意味では既に『そう読むべきだ』という規則に従っている、ということの証でもあるわけです。何故ならそもそも、そのような規則を前提しなければ、たとえば、言語の使用そのものができない、とも言えてしまうから。とはいえ、こんな身も蓋もないことを言ってしまうと、すべての発言はそれまで読んできたものの集積だ、というとんでもない理屈が言えてしまう。私が言いたいのは、それまでしてきた読み方をいきなり変えるなんてのは、土台無理な話なんだってことですよ。「読み方を変える」ということは、究極的には「書き方を変える」ことでもあるから。精神を変貌せしめるしかない。
多分こういう文章は、「文学的営為ってのは結局宗教なんじゃないか」「あんたは文学極道を教育機関だと思ってるのか」みたいなあらぬ誤解を産むかもしれないんですが、何かしら反応があるかもしれないので、投稿しておきます。 |
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