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右肩
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

グループ: 
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記事日時: 2012.10.02 (Tue) 20:31 引用付きで返信トップに戻る

 投稿掲示板で、こちらに書くべき内容を書いてしまったので、こちらへ移転します。
 投稿掲示板の内容を削除すると、その後の他の方のコメントのつじつまが合わなくなってしまうのであちらの記述も残しますが、この内容についてのコメントは、今後こちらへお願いします。


 最近、なかなか他の人の作品にコメントできなくなってしまいました。ここに書かれている作品が以前のものに比べて特に面白くないと思っている訳ではありません。
原因は僕個人にあるようです。読み手としての僕が、精神的な逞しさに欠けている、と感じています。
 面白い詩、というのは、自己言及によって自己完結する、ということのない詩ではないか、と時々考えています。
たとえ、読み手に作者と同様の追体験を誘う物語がない場合でも、言葉は作者の表現手段であると同時に、作品世界に接した読者からの表現を促す契機になり得るはずです。
かなり無責任に、批評の歴史的経緯を無視した発言をするのだけれど(まあ、第一批評の歴史的経緯をよく知らないし)、これからの文学作品にとってはどれだけ良質な鑑賞を産むことができるか、が要点になると思います。
 作者が読者を特権的に作品を支配できないのは、文学の歴史がここまで進んでしまって、支配を正当化するための材料がなくなってしまったのだから当然ではないでしょうか。ケムリさんの言ではないですが、批評や鑑賞における国語教育的な「意図主義・作者主義」はまったくナンセンスです。批評者、鑑賞者が作者の意図という権威に寄りかかってものをいうのは、作者が作品の創造主として権威的に振る舞うこと以上に馬鹿げています。
 批評者、鑑賞者としての自覚を持たない読者も、ネットなどで容易に読んだ作品を巡って表現者として振る舞うことのできる時代です。ある意味で傍若無人な解釈が横行し、作者の意に沿った解釈のために頭の中を明け渡す必要などないと思っているようです。むしろ、彼らは自分の解釈を作者や他の読者に対して熱心に、積極的にアピールしようとし始めています。このこと自体は間違っているとは言えません。しかし、批評も、鑑賞も、もっと軽い感想も、また一個の表現として他者に晒されます。作品と同等の鑑賞対象になってしまうから、それらも作品の上に安穏と君臨できるはずがないのは自明です。
 いかに対象とする作品の魅力を開放し、読むものを楽しませ得るか。それを考えて批評し鑑賞することが、作品と読者のコラボレーションによる新たな世界の展開に繋がると思います。
 そういう観点から改めてここを見てみると、残念ながら「文学極道」には、僕のも含めて、魅力的なコメントは少ないのです。僕には、どうせ相対化されざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断、裁断は楽しめません。ケムリさんのようにそういう行為そのものが巧みな(あるいは「巧まざる」かな)エンターテインメントになっている場合は別として。
たとえば中田さんは(冷静にものを考えることができる方だと思うのであえて数名の方の名前を出させて頂きます)一、二行で「装飾過多」などとその作品を切って捨てますが、その是非、というか当否はともかくとして、その評言が、評言自体にも、もちろん対象となる作品にも、何らの魅力をもたらさない、という面でひたすら残念です。
 浅井さんの批評は大変情熱的で、精緻で、バックボーンにも信頼が置けて尊敬できるのですが、僕には評の面白さがなかなか作品の面白さに還元されてきません。
caseさんも、ヴィヴィットではあるけれど、どこかまだ徹底を欠くところがあるような……。
僕も含めた、その他の方々のコメントは、対象作品にかこつけた自分語りに終わってしまって、第三者には鼻持ちならないか、どうでもいいか、のようなものが多くなってしまっていると思います。
形として僕の理想的な鑑賞を実践なさっているのは「ほかけ」さん(色々変わっているのでどうお呼びして良いか迷いますが)なのですが、残念ながら僕にとって彼女のコメントの内容はまったく面白くありませんし、自分語り成分が濃厚に感じられています。「作品に即して鑑賞し、その鑑賞を表現として練ろうとする」という形式だけに賛成できます。根本的にセンスが違うのでしょうか。
 何よりも、他ならぬ僕が「楽しめる解釈」「胸躍る鑑賞」「独立した強度を持つ鑑賞文」を書く能力とエネルギー欠ける上に、他でそれをやってくれる人をなかなか見つけられない、というのが目下の不満であり、悩みです。誰かやってみて下さい。罵倒も相互教育も大事だし、それこそがこのサイトのポリシーかもしれませんが、純粋な鑑賞主体のコメントがあっても排除対象にはならないと思うんだけどな。
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コーリャ
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登録日: 2012.06.20
記事: 32

グループ: なし

記事日時: 2012.10.03 (Wed) 15:45 引用付きで返信トップに戻る

昨晩飼い犬に手をかまれてちょっと泣きました、コーリャです!人間としてのヒエラルキーのいちばんひくいところからこんにちは!今回はその猫背をますます曲げて、この右肩さんの設定した高いハードルをいきなり低姿勢でくぐりにかかるという趣向で、思ったことなど、わりとポップに投げてみようとおもいます!

今から書くレスにはふたつのメタな狙いがあります。最初に言っちゃうとこがあざといでしょ?

1.アカデミックな主義とか主張とかよくわかんないし興味ないんだけど、ブンゴクにはいるよーっていうスタンスの意見を提出
(つまりそもそもこの議論に参加できるような素養がない人間としての意見)
なら黙ってりゃええやん。って思いました?僕もそう思います。でも、

2.このスレ(プロポーズ)に対してたくさんの意見(できれば喧嘩のないかんじで)をうながすこと
というのもあるんです。心あるひとからしてみればなにを無駄口をたたくかこの若造はと噛み砕いた苦虫の残骸と一緒にはき捨てられること請け合い!作家主義だとか意図主義の擁護はちょう大変そうなので、だれかに譲るとして、こういうふうにコーリャは右肩さんのレスを読みました、ということで。なにかのご参考になれば幸い。


さてまず僕が理解した右肩さんの主張を3つの要点に(勝手にサブタイトルをつけて)まとめると。
a.)「作家主義がウザイねん!」
>批評や鑑賞における国語教育的な「意図主義・作者主義」はまったくナンセンスです。批評者、鑑賞者が作者の意図という権威に寄りかかってものをいうのは、作者が作品の創造主として権威的に振る舞うこと以上に馬鹿げています。

作者がえらそうに振舞うのがウザイ。つまり読みに正解を設定するのがウザイ。それを探そうとするやつもウザイ。

b.)「お前のレスがそのまま作品になるねん!」
>批評も、鑑賞も、もっと軽い感想も、また一個の表現として他者に晒されます。

そしてどんなレスも作品として成り立ってしまう状況なのだから

c.) 「だからお前らおもしろいレスつけろよ!」
>いかに対象とする作品の魅力を開放し、読むものを楽しませ得るか。それを考えて批評し鑑賞する

のが、右肩さんの思い描く理想の批評(つまり現状ではそれがなされていないという問題提議でもあるところの主張)である。
というふうに理解しました。

さて議論の背景をさぐると、論点aの「作家主義はくだらない!」という言説は、みんなもご存知、葉月二兎さんの投稿された作品の議論(http://bungoku.jp/ebbs/edt.cgi?sel=20120929_571_6352r )の文脈を引いていて、そのケムリさんの言葉がこちら、

>「意図主義・作者主義」は現在は国語教育の分野だけに残るガラパゴスな読みですが、かつての日本では「主流」だったんですよ。現在でも義務教育〜高校レベルの国語教育では「作者は何をいいたいのでしょうか?」ってやるでしょ。これは国語における、「論理教育」の部分と「道徳・情操教育」の部分が切り離されなかった日本特有の現象で、現在でも多くの人たちは「作者は何を主張したかったのか」を考えることが「読み」だと思い込んでいます。

それに同調するわけではないが、と断りをいれて、右肩さんも、それはナンセンスであると一蹴。その理由は?とくに明記されているわけではないですが、一連の議論でこう解釈することは可能です、つまり、
>自己言及によって自己完結する、ということのない
>良質な鑑賞を産む
>作品と読者のコラボレーションによる新たな世界の展開
これが右肩さんの文学極道宣言なのですが、それの逆つまり、自分のことしか考えてなくて、文面がつまらなくて、閉鎖的なレス。つまりケムリさんが言うところの「貧しい」読みの提出を許す土壌に対しての警鐘ということになるのでしょうか。

そもそもこのケムリさんの議論も、葉月さんの最初のレス

>「分からない」というのは馬鹿。「教えてくれ」というのは無能です。
己の無知や不足を恥と知って下さい。

(http://bungoku.jp/ebbs/edt.cgi?sel=20120924_335_6352r)に端を発していて、つまり、わかんないとか、言うなよ、考えろ、説明しろ、教えてくれとかいうな、なぜなら、それを要求することは、作者の権威にすがることになるからであり、それを対処する方法として議論を発展させ、「良質な鑑賞を産むコラボレーション」つまり、他人を巻き込み、かつ楽しませろ、努めろ、という論点c「だからお前らおもしろいレスつけろよ!」に論理的に接続していきます。なぜそれができるか?それを補足するものとしての論点b「お前のレスがそのまま作品になるねん!」、お前の言葉ひとつひとつがそのまま作品になるという言説。だから、レスにも相応の努力を払え!ということですね。で、どうせならセッションする感じみんなで楽しみましょうよ。「作品の魅力を開放」しようと右肩さんは主張されます。

でもどないすりゃええねん、右肩先生。という質問にたいしては、何人かの読めるひとびとを名指しにディスることによって(これは疑いようもなくツンデレ方式の賞賛なので中田さんはそこまでタフガイにならないでください)逆説的に示唆されます。つまり、ほかけさん的な「作品に即して鑑賞し、その鑑賞を表現として練ろうとする」スタンスでありつつ「楽しめる解釈」「胸躍る鑑賞」「独立した強度を持つ鑑賞文」の要件を満たすレスということですね。それでもやっぱ具体的じゃないじゃん、やり方がわかんねーよ、ってひといますかー?それは甘えだよ!しかし右肩さんが示唆されてるとおり(つまりなぜ右肩さんがこれだけの人物をあえて名指しにしたかということ、意図主義ではないスタンスをとっているということを考えると見えてくる、と勝手にコーリャが思うことですが)、これだけがひとつの方法ではない、ということですね。豊かにいこう。楽しんでさ。頭使おうぜ。そういうふうな言説として理解しました。

さてコーリャの総評はこうなります。



        _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
     ,r'"           `ヽ.
 __,,::r'7" ::.              ヽ_
 ゙l  |  ::              ゙) 7
  | ヽ`l ::              /ノ )
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々にワロタ 
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう記事が沢山作られた
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔のブンゴクなんだよな 今の新参は昔の
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | ブンゴクを知らないから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________
   /ト、 :|. ゙l;:        ,i' ,l' ノト、
 / .| \ゝ、゙l;:      ,,/;;,ノ;r'" :| \
'"   |   `''-、`'ー--─'";;-'''"   ,|   \_



はい、すいません。ぼくも新参ですし、別に笑ったけど嘲笑じゃないです。むしろ頼もしさにワロタ。つまり、この右肩さんの辛党宣言のいいところって、すごく他に開かれてるじゃないですか(ちょっと生意気なトーンも戦略的に正しいきがする)。コールアンドレスポンスでいうところのSCREEEEEEAM!っていう煽りでしょこれ。ぜんぜん右肩さんのキャラじゃないじゃん(偏見)。でも逆にそこがかっこいいんすよ。やってることと言ってることが一貫してるっていうか一致してますよね。あとネット詩(ブンゴク)がどんどん沈んで行ってることは疑いようがなく、それに対する唯一の救済策であるのは、モーセに海を割ってもらって地面に着地することでなく、やっぱり詩人たちの交流が積み重ねることだと僕も信じますので、全面的に支持、とか言っちゃった、どうしよう。
ゼッケンさんが直近のレスで新しい文学概念を提唱しています、つまり多くの有識者が懸念するところであるものとしての、現代詩のガラパゴス化、「ガラ芸」、スマートなたたずまいをもつポエムの増加、「スマポ」の市場占拠、ポエムノベルいわゆる「ポエベル」の枯渇などでございます。ゼッケンさんにも久々にワロタことを謹んで申し上げ、そんな方向にもパイを投げ、これだろ、みんな、ゼッケンさんぐらいおもしろいの書いてよ、という突然のため口でもって終わりの言葉とさせていただき、乱文長文お目汚しご容赦なかんじで、またね
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新貝
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.03 (Wed) 22:18 引用付きで返信トップに戻る

「僕には、どうせ相対化せざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断〜」相対化とは何を指すのか?

「作者が読者を特権的に作品を支配できない〜」これは意味が通じているのだろうか?

大体が「僕を含めた、その他の方々のコメントは〜」などと、読む者に対して変に阿る書き方自体が曲折した文章に導いているように伺える。

結局何が言いたいのか、非常に解りづらい内容で書き込まれている。
詳しく推敲されているとも思えないが、本人には理解できているのだろうか。甚だ疑問に感じられる内容の文章である。
それとも、意味がよく理解できないのは、わたしがアホでマヌケだからだろうか? コーリャさん、本当に理解されているのだろか、ね?
大雑把にはわかる。しかし、真意はよく呑み込めなかったな、わたしには 。
新貝
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.03 (Wed) 22:44 引用付きで返信トップに戻る

※ 相対化とは価値観の何を指すのか 。 という事です 。
田中宏輔
Habitue
Habitue


登録日: 2011.03.28
記事: 1024

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 00:57 引用付きで返信トップに戻る

この書き込み、削除します。


最終編集者 田中宏輔 [ 2012.10.04 (Thu) 02:22 ], 編集回数 1 回
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評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 02:19 引用付きで返信トップに戻る

そりゃ、アホでマヌケだからだと思いますよ。

で、本題。まー。右肩さんのおっしゃることもその通りで。
本来は、「作品」と「批評」の間に線なんか引けないし、「批評」も作品同様に他者の目に晒され、批評・批判されて当たり前ではある。

>どうせ相対化されざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断、裁断は楽しめません。

うん。そうだろうと思う。
「〜はダメだ」とか「〜であるべきだ」なんてのは、基本的に個人における価値観の表明に過ぎないわけで。まー、こんなもん相対化されますよね。そんで並列化されますよね。所詮価値観の問題ですよね。

「あんたはそう思うかもしれないが、俺はそうは思わない」

で済んじゃう話なんですよ。つまるところ。
詩の批評なんて、大方がこの一言で終了ですよねー。疲れたし眠いし酔っぱらってるんでテキトーに書くんですけど。批評の技術ってのはざっくり5種類ありまして。

�^嫂渕腟繊�作者主義的解釈
作者の生い立ち、歴史的背景、主義主張などを踏まえて作品を「正しく」読む技術。国語っぽいやつ。

�▲侫�ルマリズム・ナラトロジー・構造主義的批評
作品自体に内在する構造を見つけ出し、他作品と比較・対照する手法。まぁ、「型」重視ですかね。この批評理論は何故か、レヴィ・ストロースやフーコー以後のものと考える人が多いけれど、実際はフォルマリストの流れの方が大事。プロップさんへの歴史的扱いの悪さは異常。実際、レヴィストロースと比較してもプロップさんの方がはるかに文学史的意義のある結果を出してんですよ!覚えて帰って。プロップさんマジエライ。それに引き替え、レヴィさんは「サルトルをシバキ殺した」くらいしか功績ねーだんよ!フォルマリスト舐めんな!俺はフォルマリストが大好きなんだ!ついでに、バフチンやルカーチも大事。

��イデオロギー批評
作品を何らかのイデオロギーに当てはめて解釈・価値判断する手法。ヒトラーがやったのはナチス主義批評。マルクス主義批評とかもある。たまに人も死ぬ。こうやって言うとアブナそうだけど、心理学の手法や社会学的手法、あとはジェンダーなんかでもやるよね。アカデミックでは一番よくやられるかも。作品を「何らかのイデオロギーによって判断する」みたいなやりかた。浅井さんの知識に照らした読み方はわりとこれに近い。

�と寝鮗�
僕が、文学極道とは関係なく自分の批評スタイルとして目指すもの。
スーザン・ソンダク「反解釈」より引用。

>今日要望されているのはどんな批評、いかなる作品論であろうか?芸術作品はとはいわく言いがたいもので、描写やパラフレーズは不可能である、と私は言っているのではない、描写やパラフレーズは可能である。問題はその方法である。作品を簒奪するのではなく、作品に奉仕しようとする批評は、どのようなものとなるのだろうか?
 >まず必要とされるのは、芸術の形式にもっと注目することである。内容に対する過度の関心がのぼせあがった解釈を呼び起こすとすれば、形式へのこれまでにない詳しい注目と徹底的な描写は少なくとものぼせあがりを冷やし、黙らせるだろう。必要なのは形式を描写するための語彙――かくあるべしと命令する用語ではなく、かくあると描写する用語だ。
 >最良の批評とは(まことに稀少なものだが、)内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評である。
われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけだすことではない。ましてすでそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。われわれのなすべきことは、ものを見ることができるように、内容を切りつめることである。
 >芸術についてあらゆる解釈と議論は、芸術作品を――そしてひろげて言えば、われわれ自身の経験を――われわれにとっても実在感のあるものにすることを目ざすべきである。作品と経験の確かな実在感を薄めてしまってはならない。批評の機能は、作品がいかにしてそのもであるかを、いや作品がまさにそんものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。

形式に着目することによって、結果的に内容を浮かび上がらせ、まーウィトゲンさんっぽく、作品が作品であることを浮上させる、みたいなやり方かな。現状、僕にはできない。やりたい。

�ゥ侫蝓璽好織ぅ覯鮗瓠|�構築 創作としての批評 燃焼系デリダ式
自分がその作品をいかに読み、またいかに「読まなかったか」あるいは、いかに「読めてしまったか」ないし、いかに「読み、創ったか」を目指す批評。多分、葉月さんや右肩さんが目指すのはこれ。
重要なのは、批評それ自体の「面白さ」「作品性」。まさに、読みのアクロバット。三回転半ひねりからムーンサルト。上手くハマると読んで非常に面白かったり、下手すると「作品より面白い」こともある。問題は、「書かれたものが本質的に作品と無関係」になってしまいがちなこと。僕がかつて葉月さんにした批判はこんな感じだった。
「あなたの批評は確かに面白い。しかし、この批評とぼくの作品は何ら関係性を持っていない。あなたなら、僕の作品ではなく家電の説明書からでも批評をやれてしまうよね」
要は、批評の面白さを追求すること、思考・論理・表現のアクロバットを目指すことは、結果的に、「批評が批評であることの放棄」に直結してしまう。批評が読みものとして面白いことを目指すっていうのは、僕の考える「作品が作品であることそれ自体に奉仕する」という批評の倫理と一致しない。だから、僕はこの手法を採用しない。このやり方は、作品の実在感を限りなくゼロへ向かわせる。

えー、この辺で一回書き込んで二つ目に続けよう。
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評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 02:39 引用付きで返信トップに戻る

というわけで、「作者主義・意図主義」を捨て去るとすれば。
我々が選び取りえる批評は、�↓��イ砲覆襦�

��は「この作品はフロイト理論に照らして読むと…」みたいな、いささか面白みに欠ける結果を生むし、読みを展開するための知識のバックボーンが極めて強く必要になるので、多くの人は選択肢として選べないだろうと思う。逆に言えば「もちネタ」がある人はやってみたらいいと思うけど。
実際、詩や文学を批評するからって「詩や文学を知っている必要がある」なんてこたーないんですよ。自分の知っている、あるいは使いこなせる思考の形式を作品に当てはめれば、それがすでに立派な批評です。

で。まー、特殊な「もちネタ」つまり「臨床心理士持ってるぜ!」とか、「MBA取ってきたから詩を経営学の観点から分析するわ!」みたいなネタのない普通の人にとって、選べる選択肢ってのは実質的に��or�イ覆鵑任垢茵�

で、みなさんご存じのとおり。
僕は�△鬚發里垢粥爾�スケールダウンした批評を、文学極道におけるメイン戦略としてます。なぜなら、僕はみなさんに「技術」を提供したいと思っているからです。「技術」という言い方がわかりにくければ「ツール」を提供したいわけです。みなさんが、明日詩を書くときに使える、ドライバーやペンチのようなツール。
詩作品を再現可能な技術論に還元し、単純化(矮小化と言ってもいいでしょうね)する。ポエム・テクニカルと名前をつけましたが。これは、株価の値動きを分析して投資判断に役立ててもらうような営為と似たようなものです。ストキャスとか移動平均線とかそーいうものです。もちろん、このツールの分析の通りに市場が、作品が動くとは限りません。でも、思考の一つの補助線にはなる。そういう狙いがあります。

「明日すぐ使える道具」
それこそが、僕が文学極道で提示しようとしているものです。
いや、実際ね。僕がブンゴクでやってる「批評」これが僕のやりたい批評ってわけじゃないんですよ。僕だって、自分の人生に課せられたテーマに向き合ったり、世界について考えたり、作品と自己の適切な距離の取り方について考えたり、日々グネグネ悩んでるんですよ。だから、僕は前職を辞して起業に打って出て、なんとか大学院に通う時間をねん出しようとしてるわけじゃないですか!頑張ってるんですよ、僕だって。僕はいつか自分の考えるもっとも正しい批評のあり方を完成させるつもりで生きてますよ。ああ、ええと何の話してたんだっけ。

ああ、そう現実の話。
で、僕はやっぱりなんだかんだ大量の作品に批評をつけます。するってーとですね、あるていど形式化・定型化した批評しかつけられないんですよ。一作品一作品に徹底的に自己を寄り添わせてそれをディスクリプションする、そんな批評はムリなんですよ。また、「批評それ自体を作品化する」っていうのも、ムリでしょ。だってあれ、大変なんですよ。葉月さんの書いた批評みたらわかるでしょ。一作品一作品にあの批評つけてたら、僕死にますよ。まー、それに僕はデリダがあまり好きじゃないんで、ああいうタイプの批評を書く訓練をそもそもしてないってのがあるんですが。僕はテリー・イーグルトンこそを批評の師と仰いでいるので。

というわけですね。
みなさん、自分の目指すべき批評のスタイルを目指していけばいいと思います!いやマジで!右肩さんも自分の目指す批評を実現すべき!まぁ、マッジめんどくせーんだけどな!なにせ、我々資本主義社会に生きてて、この社会で生きていくってことは常に「資本主義」っていうイデオロギーの批評を受け続けているわけで。残った時間で批評をきちんと書く、面白く書く、正しく書くってのはダッルいぜー!超ダッルイいぜー!

でも、書いたらいいと思います。
そういう誠実な営為を目指す人を、文学極道は絶対に排除しません。
それは約束します。
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右肩
Member
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

グループ: 
[Auths ]

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 02:47 引用付きで返信トップに戻る

 ええと、僕が言いたかったことは、コーリャさんがほんとうにきちんとまとめなおしてくれました。
涙が出るほどありがたいですね。
いや、こんなに好意的にとってくれていいのか、と不安になってしまうくらいです。
 新貝さんの言いたいことはわかりますよ。はい。そもそも夜中に変な頭の変なテンションで書いたのがことの始まりなのは間違いありません。
 前にも言ったけれど、油断したりいっぱいいっぱいになるとわかりにくい言葉で回りくどくなるのが僕の文章です。
意識してそうすることもあるけど。
 まず、最初にやるべきことを済ませておくと、

>「僕には、どうせ相対化せざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断〜」相対化とは何を指すのか?
 もうどんな価値観も、それが絶対、ということはないですよね。「この詩はもう全然ダメ、お子様のぽえむ!10点」といったって「ぽえむどこが悪い!100点」という人は必ず出てくるわけですよ。だからこの「文極」でもしつこいくらいに「ここのやり方では」ってことを強調して、ポーズとしてのコワモテってことを密かにはっきりさせてますよね。

>「作者が読者を特権的に作品を支配できない〜」これは意味が通じているのだろうか?
 ここ、書き間違い。正確には
「作者が読者に対して特権的な立場に立って、その立場から作品を自分のものとして支配することはできないのは〜」
となります。単に「読者を」を消しても良いですね。

 さて、新貝さん。新貝さんの言いたいことはこうかな、って思うんですよ。
今回、僕、右肩の作品はずっとコメントがつかないでいました。そこで、僕はこう考えたわけです。
「みんなコメントをくれない。コメントをくれていい人たちも全然書いてくれないで、人の作品にばかりコメントしている。悔しい、この素晴らしい詩の良さがわからないとは何事だ。大体あいつらの評なんて大したことないだろ。おれ様がちょちょいとあいつらのダメさ加減を暴いてやろう。
でも、フォーラムでやって人の目につくとみんなうるさいからな、ここでコッソリやればわかる人はわかってくれるだろ!
あ、そうそうケムリさんはここの代表だし、恐いしうるさいからちょっと外しておこう。
他にもうるさい奴は多いから、ちょっとへりくだってご機嫌をとっておいて、と。あいつら馬鹿だからだまされるよな。
 ああ、おれ様は天才だなあ、おれ様を喜ばせない奴は出てきゃいいのに。」
 嫌な奴ですよね。本当に最低です。ひと言いってやりたくもなりますよ、この馬鹿野郎。
 これはまったく誤解だと思いたい。そもそもの出発点は確かに、「最近はコメントつかないな。でも、自分が人の作品にコメントつけられないから当たり前か。つけたいけど、ものすごく消耗するしな。簡単にコメントをつけてくる人もいるけど、どうも違うよな。何でこんなに面白くないんだろう。頑張って書いている人も多いのに。」というところだったと思います。
 でも、とことん自分を悪意で解釈すれば、最初の「おれ様」もまったくないとは言えないよな、と思います。認めたくないけど。
 新貝さんは、「阿る」ってところにこだわりがあるみたいで、僕が何か卑屈なまでに低姿勢でいるのは腹黒いからだ、と思っているんですね。う〜ん。そうかもしれないけど、そればかりじゃない。
 僕自身のこだわりだけど、ネットでの発言も本人を前にして言えることをいいたいなと思っています。
それから、いつも我が身を振り返れるようにしたいな、と。
道徳的、っていうよりも、匿名のネット上だけでおれ様ぶって人を馬鹿にするキャラクターって、かっこ悪いし。みじめだし。周りの人もいい気はしないだろうしね。まぁ、それですかっとしたり、すごい人だと思ってくれる人もいるかもしれないけれど。僕はいやだ。
 そう思っていても、どこかに傲慢や偏見はあるものです。文章に直接表れる場合もあるし、臭ってしまう場合もある。僕が未熟だからでしょう。
そういう意味で反省しています。
 反省ついでに言うと、コーリャさんの仰るとおり、名前を挙げた人たちは、みな僕が「頑張ってコメントを書いているな」と思っている人たちばかりです。「こんなこと書いてどうするの、やだねえ」と思えてしまう人の名前は挙げていません。そんなこと思う自分はやっぱり恥ずかしいし、人を辱めてケンカを売るのもいやだ。
 でも、頑張っている人にはあえて言わないと「極道」の名が廃るし、卑怯だと思います。良さを認めて、乗っていく評が書きたいし、書いてもらいたい。読みたい。わがままかな。
 言うなら自分がやらなきゃいけないこともわかっているけれど、頑張るのは本当に疲れるし、悔しいけどやっぱり僕は非才だと思う。バンバン書ける力、読める力はありません。変なひとことコメントになってしまうならしない方がまし。
 最後に、コーリャさん。コーリャさんの作品には、何度もコメントしようと思ったけれどできませんでした。面白いと思ったけれど、面白さをちゃんと表現できず、鬱屈してしまいました。そういうふうな理由でコメントできない作品は多いです。阿っていませんよ、いや、100%の自信はないけど。
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評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 02:51 引用付きで返信トップに戻る

で、で、で。

長くなったんですけど。
文学極道的にこれは大事。ブンゴクは、読み手の「主観」をスゴく大事にします。「読み手は書き手よりエラい」これが基本です。つまり、ブンゴクに作品に投稿した以上は、自作品に向けられた評に対して

「あんたはそう思うかもしれない。でも、俺はそう思わない」

ってのは、ナシです。
まして

「あんたは作品が読めていない」

もナシです。絶対許しません。僕、キレます。3秒で発火します。
ブンゴクは、読者から返ってきた率直な主観の表明。「つまらない」「おもしろくない」そういうのを受け容れて、前に進むための場として、ダーザインが作りました。僕は、ダーのおっさんのこの考え方の下で育ちました。これは、変えません。絶対に変えません。ダーさんが戻ってきて「やっぱやめるわ」っていうまで変えません。

ちなみに、ダーさんが「やっぱやめるわ」って言ったら僕は文学極道を捨てて自分の詩投稿サイトを作ります。しかし、僕は根本的に「読み手重視主義」あるいは「読み手にとって面白い作品を書く」っていうダーザインの主義からこの場所に居ついた人間です。そこは譲れません。

読み手に求めるのは、自分の主観を純粋に主観として、つまりは「面白くない」ないし「面白い」というような一語を、可能であれば親切に表現することです。
「〜の理由で面白くない」と言っても、本質的にはそれは単なる主観の表明で、批評としての価値は無いです。言い切っちゃいますが、ブンゴクで行われる「評」の行為は95%批評的価値のないものです。でも、その純粋なる主観の表明、そしてそれを言語化する行為にこそ、敢えて価値を置こうとするのがブンゴクです。それが大事、なんです。

投稿者は、読み手の主観を受け容れ、読み手の主観の中で「面白い」作品を目指す。少なくとも、その建前は受け容れてもらう。それは、絶対です。譲りません。
しかし、それは一方で文学極道における批評のあり方を決定づけるものではありません。各人が、それぞれの目指す「批評」を追求してもらってまったく構いません。それは、大歓迎です。
これだけザクっと言い切って挑発した右肩さんがこれからどんな批評を書いていくのか、僕はとても楽しみです。イジワルな言い方ですが、本当に楽しみです。

また、多くの人がブンゴクのあり方に囚われない「批評」を考え、それぞれ切磋琢磨していくことは、ブンゴク本来のポリシーとはあまり関係のないことですが、素晴らしいことです。

それをする権利は、僕が必ず守ります。
それは、約束いたします。

今後とも、文学極道をよろしくお願いいたします。
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右肩
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 03:10 引用付きで返信トップに戻る

上のコメントはケムリさんのコメントを読む前に書きました。
まったくおっしゃるとおり。何か尖ったことを言い返すのも面白いかも知れないけれど、読み終わった時点で思いつかないですね。
ひと言コメント。主観に基づく断言。僕は面白くないと思うし、間違っていると思う。
でも、直接的な嫌がらせでない限り排除する理由はありません。
いわゆる「ポエム」もそう。
僕には排除の権限もないけど。
まったくそういうものがなくなったらコメントのハードルが高すぎるし、開かれたサイトとしての存在の意味もなくなってしまう。
みんながそんな評や作品ばかりになったら、嫌だな、と思って僕は離れるだけです。
どうもケムリさんと似たことばかり言っていて、それもいかがかと思うけど、しょうがない。
ケムリさんが実際どんな人かはよくわからないし、とんでもないヤンキーだったらアレだけど、ここで主張していることには賛同するしかないです。

批評スタイルの総括、勉強になります。
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新貝
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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 03:28 引用付きで返信トップに戻る

ケムリくんの意見は乱暴だな 。のたうち廻っている趣だ 。何?理論家の名前持ち出してわかったようにご託を述べているが、全部自分勝手な決めつけじゃないか、お話にならんよ。まだまだ青い印象 。君たちのコメント読めば共通して感じられるのは悪意だけ。
それで、右肩さん。あなたは 少し休みなさい 。精神的に破綻の兆候がみられますが、 まぁ好きにすればいいさ 。
新貝
未登録ユーザー





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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 04:37 引用付きで返信トップに戻る

大体さ、投稿作品に付いた批評の云々を持ち出すまえにもっといい作品を書けよ おまえら って言うのが先だろ? 違うのかい 。
右肩さんも何が気にいらないのだろうか。
其々各自の主観で読みにかかっている批評に、当然いい加減なレスが付くのは覚悟の上ではないのか?それが嫌なら他スレで書くような姑息な真似はしないで、自分に付いたレスではっきり言えばいいことだ。いままでそうではなかったのか。だからこうしてフォーラムで上げればいいのさ 。それを指摘しないで最初から擁護にかかるケムリくん。これも外部からみて代表の立場を考えると、筋違いな依怙贔屓には取れるが、君はここじゃ帝王なんだからな。まぁ好きにすればいい(笑)俺は投稿をしないんだからさ 。 では 。
泪
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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 12:02 引用付きで返信トップに戻る

批評で大事なのは、簡潔に自分の考えを伝えることだと思っています。

伝わらないコメントは糞だと思っています。

批評が作品なら、伝わらない言葉でも良いのか
評者に合わせた批評を行わず
唯々独りで突っ走る批評
それって確かに作品にはなりうるかもしれないけれど
批評の目的が変わってきてしまっていますよね

それともそういった感じ方こそが間違えで

批評は初めから作品で
筆者に伝わらずとも問題はないというのが正しい感じ方なのでしょうか

とても疑問に感じている点です。

m(__)m
泪
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グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 12:04 引用付きで返信トップに戻る

、すみません、上記は評者にではなく、筆者にです。m(__)m
評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 14:04 引用付きで返信トップに戻る

え、俺新貝さんdisったけど
田中さんに暴言吐いた記憶はないけれど。新貝さんの他人の文章をよく読みもしない、理解しようともしない姿勢、そのくせご意見番を気取ってこの場所にへばりつき続けるうざったさにいい加減飽き飽きしただけですよ。

田中さんは「自分は人間を理解したいと思っている」というような旨の短文レスをつけてたよね。それに対して、僕は何らコメントしていないけれど。

申し訳ないが、僕も殴っていない人間に「殴られた」と言われたらそれはカン違いだと答える。他の場所で明確に僕への敵意を示した以上、田中さんそこだけ説明してから消えてくれないか。

僕は田中さんをバカよばわりした覚えはない。
僕のコメントのどのような部分が問題だったのか、正確な指摘をお願いしたい。繰り返すが、僕は田中さんに何一つコメントをした覚えがない。
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浅井康浩
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登録日: 2009.11.10
記事: 268

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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 22:17 引用付きで返信トップに戻る

なんか、ケムリさんが、論点は出してくれたので、補足するつもりで書きます。

補足なんで、流れがズタズタです。
上記の流れを一度確認してください。
あと時間ないので、引用に頼り切ります。


まずケムリさんのこの文章。

読み手に求めるのは、自分の主観を純粋に主観として、つまりは「面白くない」ないし「面白い」というような一語を、可能であれば親切に表現することです。

これを補足するならば、以下の文章になると思う。



批評とは何より意見陳述であるべきです。文章のうまさをひけらかす場所ではありません
作品についてのあなたの考えをはっきいりつたえるために、全エネルギーを集中してください。作品についての知識や情報を得るために、限界まで時間と労力を費やして調査・分析してください。そうしてあなたならではの考えをしっかり固めてください。そうすれば、自然とあなた固有の批評のスタイルが生まれてくるはずです

ダメな文章とはどんな文章でしょうか

論旨が不明解
展開の無理、論理性の欠如
文章表現の未熟
新鮮味の欠如

おおよそ以上のような問題点があると、わたしたちはその文章について感動を覚えるどころか「読むだけ無駄だった、なにも得るものがなく、たんなる時間つぶしにしかならなかった」という印象をうけてしまいます            (杉原賢彦)





あと、なんでアカデミックは批評が大切なのか、という基本的なことについては、以下の文章を参考にしてほしい。


文学を読むのに理論はいらない、という考え方がある。自らの感性を頼りに素手で作品にたち向かえばよい、というわけだ。一見もっともらしい意見であるかにみえる。しかし、何よりも注意を要するのは、まさしくこの「感性」とか「素手」いった言葉である。私たちは、自らの言語的、心理的条件、あるいは私たちをとりまく文化的、社会的、政治的などの論状況が複雑に絡み合うコンテクストにおいて読むほかはなく、そもそも感性なるもの自体がそうしたコンテクストの産物にはかならないからである。たとえばフェミニスト批評が明らかにしたことの一つは、私たちの文学活動そのものが男性中心の文化に支配されており、そこにあっては女性自身も男性文化の消費者たることを強いられているということであった。そうだとすれば、いかなるコンテクストをも捨象して、素手で作品を読むなどということは、それこそ理論的抽象としてしかありえないと言うべきであろう。
 今日の批評が〈読む〉ことそれ自体を問題視するようになったのも、読むことが孕む制度性が避けがたい条件として認識されるようになったからにほかならない。もちろん〈読み〉への注視は、アメリカにおけるかつてのニュー・クリティシズムが「精密な読み」を標榜していたことからもわかるように、何も今にはじまったことではない。ある意味で、〈読み〉は文学においてつねに何らかの形で問題にされてきたと言える。文学テクストの研究が必然的に読むという行為に依存しているのは自明のことであるし、テクストについて語るためには、そのテクストを、たとえその一部であれ、読まなければならないと言ってみたところでそれはトートロジーにすぎないだろう。しかし、今日の批評は読むという行為に対してはるかに自覚的な注意を向けている。読むことは、もはや作品を解明するためのたんなる手段、あるいは技術と考えられるのではなく、およそあらゆる批評的営みに介在するはずのもっとも基本的な行為として、それ自体が意識的に省察されるべき問題となってきたのだ                   (武田悠一「読みの抗争」)





あと右肩さんの

主観に基づく断言。僕は面白くないと思うし、間違っていると思う。

ということについては、読みのスタイルの問題。
主観に基づく断言について、その意義についてかかれた文章は、(美術批評になるけど)以下のようなもの。


優れた美術批評はいきなり結論を明示するスタイルで書かれている場合が意外に多いのである。なぜこのような支離滅裂な構成が可能なのか。それはやはり、美術批評というジャンル特有の性質が大きい。ことは美術に限った話ではないが、批評とは個人の主張を前面に押し出した言説であり、しかも多くの場合その主観は客観的な根拠に乏しく、個人の勝手な思い込みに由来している。例えば、藤枝晃雄がデビューして間もないアーティスト・川俣正の作品を「川俣のインスタレーションは、吹き抜けの会場空間をわがものにし変容させる時空構造を作り上げていた」と賞賛した一節はその典型であろう。藤枝は川俣を高く評価していたが、当時の川俣にはまだこれといったキャリアがなく、その評価にはたぶんに思い込み、感情移入といった側面が強かった。こんなとき、逐一自分の主観に基づく理由を挙げて、最後に「ゆえに川俣は優れたアーティストである」などと結論づけていたのではおよそ説得力に乏しい。それならばいっそのこと、冒頭からいきなり一川俣は優れたアーティストだ」と自分の見解を明示し、その後でそのように判断した根拠を挙げていったほうが、読者に対して与えるインパクトは明らかに強い。まだ評価の定まっていない現代美術を主な対象とし、また著者の独断に基づく価値判断が客観的な根拠に優先する美術批評ならではの文章作法とでも言うことができる

アカデミズムの対比でもわかるとおり、文章作法の基本を無視して、最初から結論を述べることが許される美術批評とは著者の自由度の高い言説である
だがこの自由さは厳しさの裏返しである
美術批評は個人の主観や思い込みに依拠する部分が大きいのだが、その主張がただ垂れ流されているだけでは単なる妄言に過ぎない
批評家が作家を高く評価しても、ただそれだけでは何の意味もない
この場合、作者がその後頭角を現し、社会的な評価を得るようになってはじめて、その才能をいち早く見出した先見性が評価され、社会性を獲得するのである
客観的な根拠に乏しい美術批評が、何らかの社会性を持ちえるとすれば、それはその批評家の価値判断が読者から支持を得て、社会的に認知されたときをおいてほかないだろう

結論とは、著者の主張、価値判断が凝縮された部分である
その意味では、美術批評の核心はやはり結論にあると言うべきだろう
現にここに書かれている文章を通じて、自分は何を言いたいのか
客観的な根拠を明示できるのであればそれでよし、なければないで、自分の主観に基づく価値判断にいかにして説得力をあたえ、読者の支持を得るか
結論をいかに展開するのかは、その批評の命運を左右することになるだろう
結論を冒頭に置くのか、お約束通り最後に置くのは作者の自由である
その文章が批評として有意味なのかどうかを最終的に決定するのは、その主張の内容や質であって、文章の形式ではないのだから   (暮沢剛巳)





c.) 「だからお前らおもしろいレスつけろよ!」
>いかに対象とする作品の魅力を開放し、読むものを楽しませ得るか。それを考えて批評し鑑賞する

というのも「主観の断言」と同じように読みのスタイルの問題。
効果をどこにおくかだけの違いだと思う。

受容理論あたりが、その源流になるのかな。受容理論については以下のような考え方。




受容美学が打ち出した考え方によれば、読むことはテクストの内に隠された意味を探し出すことではなく、テクストと読者の相互作用によって、意味を生成する過程そのものを経験することである。
こうした批評の立場は「読者論」として拡大され、現代の文学批評において〈読者〉が占める位置の重要性がますます強調されるようになった。たとえばフェミニズム批評は、読者のジェンダーを問題にし、人間として(ということは、男として)ではなく、女として読むというところから出発している。
 文学作品の本質は、たんにその生産過程を検討するだけでは解明できない。文学は、むしろ生産および受容からなる、作者と読者の弁証法的な関係の過程として捉えなければならない。ヤウスが目指しだのは、この弁証法的な関係を明らかにする文学史の構築であった。作家や作品を年代順に取り上げ、時代的傾向や流派に分類して整理したり、影響関係を探ったりするだけの文学史ではなく、文学作品が歴史的コンテクストのなかでどのように「受容」されていくのかを記述する文学史である。そして、こうした試みから生まれてきたのが「期待の地平」という考え方だ。
 「期待の地平」という概念は、ハンス=ゲオルグ・ガダマーの解釈学的理論を受け継いだものであり、ヤウスによれば、どのような経験においてもそうであるように、作品をはじめて知るという文学的経験にも、必ず何らかの予備知識や先人見あるいは偏見がある。「文学作品は、たとえ新刊であっても、情報の真空状態でまったく新しいものとしてあらわれることはない。(……)その作品はすでに読んだものの記憶を呼び覚まし、読者に一定の情緒を起こさせ、すでにその始まりから「中間と終わり」への期待を作り出している」。この期待は、読み進むうちに、そのまま保たれるか、方向を変えられるか、場合によっては解消させられることもあるのだが、いずれにせよ、このような「期待の地平」、すなわちテクストを前にした読者が前もって持っている美的知覚の枠組みがあってはじめて、テクストの読み取りが可能になるというのである。   (武田悠一「読みの抗争」)



で、実際に問題となってくるのは、コーリャさんのいう

ほかけさん的な「作品に即して鑑賞し、その鑑賞を表現として練ろうとする」スタンスでありつつ「楽しめる解釈」「胸躍る鑑賞」「独立した強度を持つ鑑賞文」の要件を満たすレスということですね。それでもやっぱ具体的じゃないじゃん、やり方がわかんねーよ、ってひといますかー?

ってことなんだけど、吉田秀和の批評、って読んだことある?
楽しめる解釈、ってことで一番に名前が挙がるのは、彼なんだけど彼の批評の特色をあげると、以下のようなものになる。


 その文章は、一見するとエッセイと批評の中間をいくようなスタイルをとりながらも、最終的に個々の作品批評や演奏家論を超え、広い意味での音楽のあり方や、ひいては文明批評に結びつくことが多い
 まず書き出し。「寺田悦子の独奏会をはじめてきいた。良かった」。「元日はNHK教育テレビで能とオペラをみた」。「先日のゼルキンにはほとほと感服した」。一歩間違えば小学生の作文かと見紛うばかりの、直球ぶりである。だが、この一点の曇りのないストレートさが、読み手をズバッと引き込むばかりか、文章全体に独特のリズムを与えていることは否めない。著者の豊富な文学体験の蓄積(中原中也にフランス語を習い、大岡昇平や小林秀雄と親交を持った)とそれに裏づけられた自信がなければ、こうもはっきりと書き出すことは不可能だろう。
 次いで、著者の個人的な生活体験を色濃くにじませ、読み手が批評文に対して抱きがちな警戒心を解除する、巧みな話術。ブルーノ・ヅァルターの指揮ぶりを論じた文章では、なんと最初にNHKのラジオ体操に話題を振っている。「いかにも健康そうな若い女性がでてきて、のびのびと身体を動かす」。いったい何か始まるかと思ったら、今度は来客のヨガの話が続き、そうして「それを見ているうち、急に目の前にブルーノ・ヴァルターの指揮姿が鮮かに浮かんできたので、びっくりしてしまった」とくる。びっくりするのは、こっちのほうである。
 結局、著者が述べたかったのは「音楽と呼吸の深い関係を、彼くらい自然に、全面的に示す人はなかったからではなかろうか」というヅァルターの指揮の特徴である。この間、著者はいっさい音楽用語を用いず、ラジオ体操をはじめとする視覚的なモチーフだけで、読者を見事に説得してしまう(著者が視覚的なモチーフを偏愛するのは、文章修行のために相撲の一番を日々ノートし続けたという逸話とも、深い関係があると思われる)。
ここ十年ほど、吉田は音楽専門誌に寄稿する際、曲の譜例を文章中に併記するようになったが譜例はおろか、専門用語すら用いず論旨を展開していく力技こそ、やはりこの人の文章の真骨頂だと思われる。
例えば「メングルベルクばりのべたべた主義とは逆にすっきりした行き方だが、それでいて適度な哀歌的味わいや強い憧れを秘めた清新な叙情性が、心に感じたままを正直に音にする演奏となって、流れ出してくるといった調子だった」(ワールト指揮ロッテルダム・フィルのマーラー演奏の批評)というように。かつて吉田は、音楽用語をまったく用いずに音楽の本質をえぐり出したボードレールを賞賛する文章を書いたことがあるが、おそらく吉田が理想とする批評の在り処も、そこなのではないかと思われる。(前島秀国)




専門用語すら用いず論旨を展開していく力技、ってところがすごいんだけど、これも文学に置き換えて書けば、「楽しめる解釈」「胸躍る鑑賞」「独立した強度を持つ鑑賞文」の要件を満たすレスになるのじゃないのかな、と思う。



でも、吉田秀和は、楽しめる解釈だけでなく、自分が良くないと思ったことをはっきり伝える批評もしている。世界的なピアニストを「ひび割れた骨董品」と言い切った批評が以下のもので、



私は人間をものにたとえるのは、インヒューマンなので好きでない。しかし、今はほかにいいようがないので使わせていただくが、今私たちの目の前にいるのは、骨董としてのホロヴィッツにほかならない。骨董である以上、その価値は、つきつめたところ、人の好みによるほかない。ある人は万金を投じても侮いないかもしれないし、ある人は一顧だに値しないと思うかもしれない。それはそれでいい。
 だが、残念ながら、私はもう一つつけ加えなければならない。なるほど、この芸術は、がっては無類の名品だったろうが、今は―最も控えめにいっても―ひびが入ってる。それも一つやニつのひびではない。
 彼の演奏では、音楽が続かなくなった。少し進んだかと思うと、ひびの割れ目におちて、音楽がとぎれてしまう。忌憚なくいえば、この珍品には欠落があって、完全な形を残していない。
 それは特に、ピアニストが絹糸のような繊細で強靭な弱音で、陰影の濃い音の生地を織り続けようと努力しているとき、特に際立ってみえてくる。それは、もう、音の出来事というより、心の中の出来事と呼ぶにふさわしい。そこにある種の感動を誘う力がないわけではない。ピアニストは、音が全く消えたわけではないことを証明するかのように、思いがけぬ力強さでバスを鳴らしたりする。それは必ずしも、いつも、前後との論理のつながりが明らかでないので、聴衆を驚かす効果に終ってしまうことが多い。個々の音の輪郭が
はっきりしない場合もよくある。それは子音の発音が明確でないので、意味の通じにくい、この人の話し方を連想させずにおかぬ。(吉田秀和「言葉のフーガ 自由に、精緻に」)


自分の価値観のモノサシを信じて批評することの典型的な文章だと思っているのだが、どうだろうか。
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右肩
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 22:23 引用付きで返信トップに戻る

新貝さん。
 何を怒っているのかまったく理解できません。
まさか僕のコメントの、

> 嫌な奴ですよね。本当に最低です。ひと言いってやりたくもなりますよ、この馬鹿野郎。

というのを新貝さんに向けたものだと思っているわけではないでしょうね?それは明らかに違うでしょう。
 それから、「阿る」という言葉を何回か使っている点。
これも悪意ではなく、全体の調子が反省を主調としているので、それを曲解されたくないというので使っています。

>精神的に破綻の兆候がみられますが、 まぁ好きにすればいいさ 。

これは悪意ですか?そうではないですか?
「精神的に」が「兆候がみられます」という述部にかかるのは意図的なのかな。「精神に」とどう違うのか。よくわかりません。
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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 22:37 引用付きで返信トップに戻る

右肩さん、GENKOUです。

スレッドの立ち上げ、大変勇気のいったことだと思う。きっと今も、苦しんでいらっしゃるだろう、と思う。当然に私も、今日1日、日常業務はほとんど放棄した状態、記事について悩んだ、先ず送ろうか、送るまいか、(文学極道に参加し、レスや投稿のたびに、私などたびたび起こり得る話しだが、しかしそれでもそのリスクを負ってでも…やはりそれだけ魅力、やはりそれだけに詩を求めている、のは私も右肩さんと同じように、技術レベルは違うが)そして、右肩さんのこの書かれたメッセージ、該当するのは、ほかでもなく、私にも宛ててくださった。と思い、読ませてもらった。自分の心痛極まる内で貴方の人間味を感じた、人間性ではなくて人間味である。自分の身の振り方を今即決できないが、いずれ決めなくてはいけないだろう、と考えている。この件の発端の第一人者と理解している、、、

ただ私は、罵倒や酷評の幾多は、一人と一人。(面と出会った人は、一人二人でも、たとえ嫌われようが、考えが違おうが、第三者にも目の敵にされようが、相克していける、(お互いが創作してる二者間の、参加者、パブリック、(同志という言い方は少し変であるが、)

接触の(コンタクトの)レスの仕方が、作品性についての言及を超えてしまっていたのだから。右肩さんのサイトの望むビジョン、はっきり提言くださったこと、大変有意義なスレの立ち上げをされた、

a-rimbaud2patti3genkou@docomo.ne.jp

無理かもしれないが、もしコンタクト、くださったなら、募る想いもあります。個人的繋がりは依怙贔屓になってしまうから、サイトアクセスは、自身は今後控えるとしても、もし、何でも、一言でもくださったなら、私は救われる。

今迄も、これからも、尊敬する方の一人として、私は遠くからでも読みにきます。


評者さん、私のようなホントに困り者の一人だったが、いろんなことを教わったし、読ませてもらった。批評についての、このあるべき姿、ありたい姿、をはっきり明示してくれた。確かに私は、作者主義の読みに片寄っていたのだ、と思う。評者さんが投稿してくれた作品でコメントして、返してくれた、この言葉を思い出す。自分には、その時、よくわからなかった。なんでそんなにショックなのか?、と。しかし、その後のいろんなコメント内容を読み、、一点だけ、そうした作者主義的詩よみが、どうして文学極道の詩の評として、いけないのか?不都合なのか?教えてくれたら?

私は、、詩へ求めていくベクトルが、サイトのポリシーと全く相容れなかったし、相容れる部分もあった。

その二者択一のウェイトも天秤に計れないでいるのだが、私は私なりにこの詩のサイトを、自分でできるやり方で盛り上げようと努めてきたのだけれども、なかなか上手くいかなかった。
でも、これからも、応援してる。東京に行ったなら、もしもその店を教えてくれたら、いつか出逢い。必ず熱く握手を握る。

今私が言えることは、これくらいです。

日本の文学の詩(ネットでも)その先端部を一人一人でも、その手で紡いでください。

ありがとう。
右肩
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 22:56 引用付きで返信トップに戻る

浅井さん。
 言葉が足りませんでした。最初の言葉の足りなさが論の展開を歪めた。自分の論も、レスポンスも。

>主観に基づく断言。僕は面白くないと思うし、間違っていると思う。

の部分です。正確には、「主観に基づく断言だけで終わってしまい、他に何もない文章。僕はそれは面白くないし、それだけを他人にぶつけて去って行くという態度は間違っていると思う」となるべきでした。
 主観だろうがなんだろうが、それが読み手を驚かすほどの強度を得て、ぬぐい難い存在感を残すのなら立派な批評文であり、鑑賞文と言えるでしょう。
仮に例に挙げられた吉田秀和さんのような調子で罵倒されたら、悔しいかも知れないけれど、十分納得できるに違いありません。木戸銭を払ってもいい。
 「評言は作者の望んだかたちでばかり与えられるものではない、甘受せよ」と言われればその通りです。甘受します。でも、それとは別に「作者の望むかたち」を表明するのはそんなに悪いことではないと思うんだけどな。
 電車で足を踏まれたマゾヒストが、「どうせ踏むならピンヒールのかかとでこの辺を踏めよ!」と怒るのとは違います。違うと思うけれど。同じ?ちなみに僕はマゾヒストではないので「この辺」をどの辺にしたらいいのか、まったくわかっていません。
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右肩
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 23:27 引用付きで返信トップに戻る

泪さん。

>批評で大事なのは、簡潔に自分の考えを伝えることだと思っています。

「自分の考えを伝えること」は大事だけれど、それが「簡潔」でなければならない理由は何でしょうか。「簡潔」の反対語は「煩瑣」ですが、これはそれぞれ「潔」、「煩」、「瑣」という価値判断を含んでいます。「丁寧に、字数を惜しまず自分の考えを伝えること」は大事ではないのですか?

>伝わらないコメントは糞だと思っています。

誰に対しても絶対に伝わらないコメントは、それは無価値でしょう。無価値であるという価値はあるかもしれませんが。でも、伝わらない対象がその作品の作者に限定された場合、伝わらない原因は相手にあるかも知れませんから、一方的にダメと言い切るのも早計でしょう。

>批評が作品なら、伝わらない言葉でも良いのか
>筆者に合わせた批評を行わず
>唯々独りで突っ走る批評

それはおかしな批評ですね。僕はどこでそんな批評をしたいとか、読みたいとか言っているでしょうか?あなたは何と戦っているんですか?
あなたの言うところの「批評は初めから作品で 」という前提すら、それが必ず「筆者に伝わらずとも問題はない」という結論に結びつくとは思えないのですが。
「(相手が正しい受容の態勢を整えているにも関わらず、批評が)筆者に伝わらずとも問題はないというのが正しい感じ方なのでしょうか」
と言われれば、それは僕だってとても疑問に感じますが、その前に泪さんの文章と論理の在り方について、疑問を感じています。
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評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 23:49 引用付きで返信トップに戻る

右肩さんの言うとおり「つまらない」の一言をたたきつける批評は、ある視点から見れば、価値のない文章だと断言して差し支えないと思うし、またその文章が読み物として面白いってこともまずないですよね。

でも、その一方で。
読者にとって作品が「つまらなかった」ことは事実で、その事実が言語化されて書き手に伝わるというのも、大事なことだと思うんですよ。
だから、「可能であれば親切に伝える」という抽象的な言葉で濁したわけなんですが。つまらない時間をもたらした作品に向かって「親切であれ」というのもまた、乱暴な話に他ならないわけで。

そういうわけで、文学極道では純粋な主観の表明。「つまらなかった」はアリとしています。僕からのお願いとしては、そこに「親切さ」を付け加え「〜の部分がつまらなかった」「〜という理由でつまらなかった」といった、原因探しを加えて欲しい、ロジックを持たせて欲しいとは思いますが。

でも、ロジックを付け加えるとですね。
主観の表明(読者の主観として絶対的に正しい)―ロジック(正しいとは限らない)という事態になってしまいまして。読者にとっての負担が著しく増大するんですよ。これを読み手全員に強いるのは、「読まれる作品」を目指す文学極道のポリシーとちょっとずれてしまう。

たとえばここが「善い作品と善い批評を目指して高めあう場」だったらいいと思うんですけどね。

だから、「つまらない」という一言のコメントも「文学極道としては読み手の主観が提示されたこと自体に価値を見出す」という理屈で「アリ」とします。
右肩さんの言っていることはもちろんわかるんですけどね。批評それ自体にも評価・価値判断が介在して当たり前だ、本質的に批評が作品より上ということはないわけですから。

でも、ブンゴクでは 評>作品 読者>作者 
という便宜的なルールを採用しています。場の運営管理上の問題で。

ただ、それがブンゴクにおける批評の在り方を規定するものではもちろんないです。
なんか同じような内容の言葉を繰り返していて申し訳ない。

ただねー・・。みんながみんな一言で「つまらん」って言い捨てて行く場になったらやっぱりつまらないのも事実で。葉月さんの挑発と同様、痛し痒しなんですよね。おっしゃる通りだなー、って面が多々ある。

だから、「ブンゴクでは右肩さんのような考えで行われる批評も歓迎しています。というか、いてくれないと困ります」辺りが落としどころかなー、と。批評って手間も時間も知識も経験も要るものだし、書き手全員に求めるにはヘヴィなんですよねー。


最終編集者 評者(ケムリ) [ 2012.10.04 (Thu) 23:52 ], 編集回数 1 回
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右肩
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

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記事日時: 2012.10.04 (Thu) 23:50 引用付きで返信トップに戻る

GENKOUさん。
 僕は今回の文を書いたとき、まったくGENKOUさんのことは意識していませんでした。
それに、一言コメントをしている人たちにコメントを控えろとか、文極を去れ、とか言った覚えもありません。
「言ったも同然だろう!」という人もいるかもしれませんが、それは言いがかりです。前にもそんなことがあったな。
もうそのことは散々書いています。
だからGENKOUさん、そんな変に思い詰めないで下さい。
落ち着いて自分の書きたい文に静かに向き合って下さいね。
 GENKOUさんはセルフコントロールを欠いた状態ではないですか?文章があまりに乱れています。
 GENKOUさんには色々とコメントを頂き励まされたり、考えさせられたりしてきました。
だからというわけではないけれど、こんな急に去ってもらいたくありません。
いや、他の誰にも去ってもらいたいとは思っていません。
これは本心です。
 個人的立場とは関係なく、詩を楽しむために何が必要か、考えてみましょう。

 上でのコメントは泪さんに対してちょっと辛辣な感じになっていますが、泪さんにも去るべきだなどとは思っていません。誤解なさらないで下さい。
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右肩
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登録日: 2009.11.07
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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 00:07 引用付きで返信トップに戻る

ケムリさん。
 まったくその通りです。
僕は最初から、「主観の表明を投げかけるだけのコメントが僕は嫌いだ。」とは言いましたが「だから、もっと詩を楽しむコメントを書きたいけど自分にはなかなか書けない。みなさん、書いてみませんか」と言っただけで、「主観の表明をするな」とは言っていません。
 それがいつの間にかすり替えられて、とんでもない理不尽な問題発言をしたかのようになってしまっています。そりゃ、ちょっと危ない内角のコーナーを狙ったかも知れないけれど。明らかに体を寄せてボールに当たっておきながらデッドボールだと怒った打者から飛びかかられたピッチャーのような気分です。
 今日一日、ここを書いていて疲れました。みなさん、罵倒してくれた方も含めて、丁寧に対応して下さったことには感謝します。激しく消耗したので、このスレッドでのコメントは休んで、投稿掲示板で本来の楽しみに戻りたいと思います。
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評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 00:23 引用付きで返信トップに戻る

いやー、右肩さんの表明はもっと危険球でもよかったと思う(笑)
だって、文学極道のサイトポリシーの問題を抜きにすれば、右肩さんの言ってることの方が正しいんですから。

僕は(多分浅井さんも)右肩さんの発言が問題とは思ってないですよ。
「おっしゃる通りなんだけど、サイトポリシーの兼ね合いもあるし、うーんでも面白い批評は必要だしうーん…」って感じです。

葉月さんから一連の流れは非常に良かったと思う。
どさくさで僕の批評ポリシーも公表できたし、ちょっと論の流れとして無理はあったけど、批評の技術的大枠についても考えられて、大変ありがたかった。ベロベロに酔って書いた部分、右肩さんの提言と無関係にも程がありますね。ごめんなさい。
皆さん、ありがとうございます。本当に。

文学極道のサイトポリシーの問題はまた別として。
それぞれが目指す創作と批評を深めていってくれれば、本当にうれしいところです。


最終編集者 評者(ケムリ) [ 2012.10.05 (Fri) 00:26 ], 編集回数 1 回
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新貝
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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 00:25 引用付きで返信トップに戻る

筋違いな理不尽さに意見したまでですよ右肩さん 。貴方に怒っても仕方ないでしょ 。大丈夫ならそれでいいだけです 。
それよりも、新貝は「この場所にへばりつき続けるうざったさにいい加減飽き飽きした 」とか 「田中さんはそこだけ説明して消えてくれないか 」なんて、本末転倒な言を発してる代表の方がなぜか暴虐無人に怒ってるようにみえない?
べつにきみのスレにへばりついたこともなければ迷惑をかけてるわけでもないじゃん 。こんなとこでもただ気にくわなければ出ていけー! なんて子供みたいに差別してものをおっしゃるのかねこのひと 。 もうちょい代表としての立場でものが言えないのだろうか。そのうち誰も寄り付かなくなるよ 。それを言えばまた屁理屈を捏ねるんだろうな 。そんな奴らはいらん出てけー か。(笑) いいんでしょ? いくら書いても。そういえば皆あまり書き込まないけど、自由な場なんでしょここフォーラムは?違うの?
評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 00:33 引用付きで返信トップに戻る

新貝さんに僕を批判する権利があるように。
僕にも「うざってえ」と表明する権利はありますな。
今まさに新貝さんがそこに書き込めていることが、このフォーラムが自由であることの証左じゃないですかね。僕は、新貝さんの文章を読む気もなく、誠実さもまったく見えない書き込み自体がうっぜえ!と本気で思ってますが。特に、今回の右肩さんへの中傷はヒドかった。でも、だからって、フォーラムに書き込むなとは言いませんよ?仰る通り、ここは自由に書いてもらって構わない場所です。公序良俗の範囲で、ね。
ただ、僕は最近本人訴訟をたくさん経験しました。「趣味は本人訴訟」と呼べるレベルだと思います。つーわけで、マジ厄介な話は速攻司法に持ってくつもりでいます。だから、誰もが「公序良俗」と「良識」「常識」は大事にして欲しいもんです。お互いのために。

田中さんに関しては。
どうやら、僕の発言してもいない何かに対して猛烈な怒りを表明しているようだけれど。それが筋違いなものならきちんと説明をして行ってくださいよ、以上のことは言ってませんよ。
消えるなら消えるで結構だし、それを引き留める権利は僕にはないけれど、最低限筋違いは訂正して欲しいものです。

で、そのうち文学極道に誰も寄り付かなくなることはありえますが。
それは、新貝さんが心配することでもないですね。新貝さんはブンゴクのポリシーを一切認めず、僕に三下り半を突きつけた人ですので。

なんでこの人あんだけ人を批判しといてここに居座るんだよ?
そう思います。いやマジで。「恥知らず」と思ってます。よくそうも見苦しくあれるものだ、と。しかしこれは新貝さんの問題で、僕の問題ではないですね。どうぞ、自由にフォーラムに書き込みください。僕も自由にやりますので。
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新貝
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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 00:55 引用付きで返信トップに戻る

きみはアレかね ?もしかして右肩さんとできてる? 一線を越えてるの? まぁ いい。嫌みを言うのもかまわない。好きにしたまえ 。俺も 好きにする 。
新貝
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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 01:09 引用付きで返信トップに戻る

それからな、読みもしない文ならいちいちケチを付けないで 二人の邪魔をしないでくれたまえよ 。 もちろん田中アツスケ 様のことよ〜ん 。
評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 01:10 引用付きで返信トップに戻る

いやーもう。
新貝さん、なにしたいんですかいったい。
そんな嫌いな場所の嫌いな管理人が運営してるところに
ムリにいなくていいじゃないですか。

他にもそういう人いるけどさー。
ホント、わけがわからん。

俺もさ、わかるよ。「管理人の考え方が気に入らない」とかよくある。
でも、管理人の運営方針に異議を申し立てても、
結局変わるもんと変わらないものがあるわけじゃないですか。
傍から見て、僕がそれなりのポリシーとロジックで、批判されるのも
覚悟の上で管理やってるのくらいは理解してほしいもんです。

そこは譲れない一線なわけですよ。
新貝さんはそこを徹底批判して、僕を散々悪しざまに罵って今に至るわけじゃないですか。未だってホモ野郎と罵ってる。(個人的に、その罵倒の仕方は色々アレじゃねえの?と思いますが)
そりゃもう、妥協できないラインなんだから終わりにして欲しいもんです。あるいは、妥協してこの場所を使うかの二択。ウッゼエ管理人はいるけど、まぁその辺は妥協して使うか、みたいなね。それはそれでいいと思うんですよ。

目的も論旨もなにもなく、ただひたすらに絡みついてくる。
自分が全否定した場所に居座り続ける。
意味が分からない。

もーめんどくせえから「フォーラムは自由」を撤回するかなぁ。
「文学極道批判トピック」とか建てて、そこだけ限定的に自由にするか。要は、文学極道に対する批判をキッチリ受け止めればいいわけで。俺もこの場を全否定する人間に遊び場を提供する義務はないわけで。こんだけ罵られて、その人のために場とリソースを提供し続けるのにいい加減腹が立ってきた。
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ゼッケン
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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 01:13 引用付きで返信トップに戻る

なんだかひさびさにおおごとになっちゃたなー感があって、うきうきと湧いてきたゼッケンです。こんちは。ケムちゃんとかの心労いかばかりか。そんなことにはお構いはしないぜ、葉月さんからの流れとか言って始まりを振り返るポーズで終わりを意識させ、事態は収拾に向かってます的な雰囲気を漂わせてますけど、なんですか、このけっきょく誰も悪くないみたいな感じ。あたしゃあね、この際だからハッキリもの言わせてもらいますよ、ケムリさんはいつになったら年間総評書くのか、と。ブンゴクが六月ぐらいから漂流始めたのはそのせいである、断言。因果関係は証明できないけども。なんかメリハリのない感じ? 批評がどうのと言ってますけど、その形式か内容かの以前にやね、それが置かれる環境の演出、場の緊張感じゃないですか、マネージメントの仕事は。ケムリが火消しじゃ様になんねえ、おあとがよろしいようで。
評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 01:16 引用付きで返信トップに戻る

年間総評は今書いてますよー。
結構大変なんですよ。だからこうして「マネジメントもやってますよ。火消もやってますよ」ってポーズを必死に続けてるわけじゃないですか。

ご容赦ください。
いやマジで。かけねーのよ。なんかもう、書けない。スランプ。通り一遍のもの書いて「年間総評でござい」ったらおまえらまた俺を叩くだろ。じゃあ、遅れてもきちんとしたモン書かねえとヤベエと思うわけで。
わかった。エンド切る。あと一週間見とけ。な?10月の12日には出す。というか、そこまで出さないとお店の開業スケジュールやら他の仕事の山場的に永遠に書けなくなる目算が大きい。

ただ、今回の葉月さんからの批評騒動は非常に重要な論点だったと思ってますよ。まぁ、葉月さんに若干のイジワルさはあった、あるいは親切さ・優しさが不足していたとは思うけれど、重要な論点だったことに違いはない。誰もが「悪い」とは言えない。そういう風に発展的に終わらせたいと心底思います。

まー、ね。
皆さんケムリは大暴れして「誰が悪い!」とバチバチ意見言って、シバイてシバかれてって展開を期待してるのはわかるんですよ。でもさ、俺も社会人で仕事抱えてるねん、と。家賃を二年滞納してるクズを訴えたり、お店のデザインを考えたりカード会社と契約したり不動産利回りを計算したり料理長とフードメニューを詰めたり、職人出身で「原価計算?収益率?シラネ」って野郎と罵りあったり色々あるわけですよ。今日も水道管から漏水してる、って住人から電話があって水道管のパッキン締めなおしてきたわけですよ。今夜中に訴状も書かなきゃいけないしさー。住人の「家賃払えません…生活できません」って爺さんを生活保護にブチこむお仕事も残ってるしさー…。宅建と行政書士も来年まで取らないとクビだし、もーもーもーもーもー!だから白トリュフは諦めてくれ!そりゃ確かにトリュフパスタはうまい。でも、原価率70%越えは売れば売るほど赤字なんだよ!一皿3000のパスタがウチで売れるかよ!

これくらいで許せ!
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新貝
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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 01:33 引用付きで返信トップに戻る

おまえ(ケムリ)が勝手に悪くとって腹立ててるだけじゃん 。何言ってんの。余計なことは放っといていい詩が上がるように努力すればいいのよ 。そうでしょ? 。わしはここに好きなひとが居るから来てるだけやんか 。来なくなったら自然と消えるわいな。こんな嫌な奴らも居るとこ 。それだけ。阿呆にあんたがいちいち首を突っ込まなくてもいいの 。
ゼッケン
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.05 (Fri) 01:33 引用付きで返信トップに戻る

そば屋の出前じゃないんだから、、、。経営は機をとらえること、少なくとも逃さないことだって言ってますよ、孫子が。兵は拙速を尊ぶ。喧嘩の最中に割り込んでバツがわるいんですけど、あわわ、じゃーね。
評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 01:40 引用付きで返信トップに戻る

わかる。申し訳ない。
僕が年間総評出せてないのは、完全に失態。
謹んで謝罪するしかない。他の発起人諸氏からもお叱りを受けているんだけど、正にその通り。

本当に申し訳ありません。
言い訳するんだけど、昔は批評文を書くのにこんなに苦しんだことなかったんだよなー。サクっとかけたから、気安く「やる」と言ったんだけど。こんなに行き詰るとは思わなかった。もう、きちんとエンド組んで書かないと終わらない気がする。

というわけで、やります。
すいませんでした。ちゃかして書いてしまったけど、これ重いですよね。すいません。
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未登録ユーザー






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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 05:35 引用付きで返信トップに戻る

ぼくのコメントの下に

「そりゃ、アホでマヌケだからだと思いますよ。 」

というのが冒頭にあったら

ぼくの言葉に対して書いたと思います。

なにをごまかしてるんだろう。

悪意があって書き込んだくせに。

ぼくには、投稿掲示板で、コメントをつめて書くように強要したくせに

他の者が一行あけのコメントをしていても注意もしない

この明らかな差別にも、完全な悪意を感じさせられていた。

まあ、それはガマンしていたけれども

ぼくのコメントのすぐあとに

「そりゃ、アホでマヌケだからだと思いますよ。」

と書いておいて、いまさら、ぼくに

「バカ」とは書いてなどと書く無恥ぶりに驚かされる。

あなたの書いたように

この場からは、これで去ります。

ぼくの説明におかしなところがあれば

ぼくのfacebookにでも貼り付けてくださって結構ですよ。

ぼくは、あなたの

「そりゃ、アホでマヌケだからだと思いますよ。」に驚きあきれたのですよ。

他人にそんなことを書かれて、腹が立たないひとがいますか。

あなたがそう言われても、なにも感じませんか。

人間的な感情をもってますか。

ぼくはもっています。

それだけのことです。
森田拓也
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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 05:55 引用付きで返信トップに戻る

宏輔さん^^

おれは、一応一通りやり取りを読んでみたんですけど、
ケムリさんが、宏輔さんに対して言葉を投げかけたとは、
おれは、ぜんぜん、感じない。
ケムリさんは、特定の人を否定する場合、きちんと、
名指しで、言葉を投げかける人だと思う。

宏輔さんは、とても、繊細な感受性の人だから、
勘違いしてしまったことは、ぜんぜん、気にすることないし、
これからも、文学極道に、宏輔さんは、いるべき。
宏輔さんは、文学極道に、必要な存在だと、おれは思う。

 *

ひとつ、文学極道さんに対して、おれが、気になる点は、
発起人の人達も、ご自分の人生で、それぞれの人が、
ご多忙だと思うし、もっと、文学極道の運営に、
アバウトで、適当でいいと、おれは思う。

 *

常さん^^

常さんも文学極道に、とても、必要な大切な人なので、
いて下さい。
未登録ユーザー






グループ: なし

記事日時: 2012.10.05 (Fri) 06:15 引用付きで返信トップに戻る

消えてくれと書かれているのですよ。

このサイトへの書き込みは、これで終わります。

閲覧も二度としません。
評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 07:19 引用付きで返信トップに戻る

いや、その、もういいや…。
俺もわりと疲れた。

必要なだけの弁明はしたし、後は読み手が判断してくれ。
それで僕が悪意にまみれたクソ野郎なら、それはそれでいいや。

怒りにまかせて「二度と来るな」と叫びたい衝動はこらえきったので
田中さんは誤解が解けたらまたいらしてください、と言い添えとく。
読んでないかもしんないけど、俺なりにはこの辺が最大限。

歩み寄りは頑張ったつもり。
これ以上はどこを絞っても出てこない。この辺で勘弁してほしい。
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新貝
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.05 (Fri) 11:48 引用付きで返信トップに戻る

田中さん 「アホでマヌケだと思う」と切り返しやがったのは俺に対してよ、 あなたに言ったのではないしー 。機嫌直してまたフォーラムに上げてね 。待ってますから 。そう、読みたくて待っているひとがいっぱいいるのよ 。それだけで報われるじゃない 。
泪
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記事日時: 2012.10.05 (Fri) 19:57 引用付きで返信トップに戻る

右肩さん
私の解りづらい言葉に丁寧に返信をして下さり有り難うございます。

簡潔でなければならないのは、評を独り善がりの作品にしてしまわない為です。

言葉を尽くせば尽くす程、簡潔な文章が難解になり、その評を行った本人しか理解出来ない代物になるのではないでしょうか?

伝わらない文章でも作品として強度があれば、それはそれで評価されるのでしょう。

作品とは離れた所で評の独り歩きが起きる。

それがとても疑問でした。

以上です。
レフ
未登録ユーザー





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記事日時: 2012.10.06 (Sat) 00:49 引用付きで返信トップに戻る

はじめまして。

問題を解決するための提案をさせてください。

それはこういうことです。

右肩さんが「理想的だなあ」と思われるような、
「詩作品(および芸術作品)に対する批評文」を、
具体的に列挙してください。

たしかに、
「近代日本における文芸批評とは何か?」
「近代におけるエッセ・クリティックの歴史の類型には
どのようなものがあるか?」
などの議論をすることはとても大事だし、興味深くもあると思います。

ですが、いちばん簡単なのは、
右肩さんが、具体的に、
「○○という人物の書いた、○○に対する批評文が優れている」
という言い方をし、
それらの批評文を、
ひとつ、ふたつではなく、具体的にたくさん挙げることです。

そうすることによって、
各人が「批評とは何か?」という「原理論」のまわりを
各様にぐるぐると旋回して徒労することなく、
右肩さんを中心にして、
「共通のコンセンサス」としての「暫定的な解決」
に至ることができるのではないかな、
と思うのです。

いかがでしょうか?

(※このサイトに深く関わってもいない者が、生意気なことを言って大変に申し訳ありません。心外に思われないことを願います)
鈴屋
Newcomer
Newcomer


登録日: 2009.11.08
記事: 3

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記事日時: 2012.10.07 (Sun) 03:25 引用付きで返信トップに戻る

なにやら騒がしい事態に至った右肩さんのレスがわたしへの私信であったということなので、わたしの方からなにか返しておくのが礼儀というものだろう。一言でいえば「鑑賞」という批評のありかたを提唱している。それがいかなるものかということで、例とか批判をいくつかあげながら説明しているけれども、わたしにはその輪郭とか方法が判然としてこなかったな。思うに、西欧のことは知らないが日本の詩文学に伝統的にあった鑑賞の態度みたいなものを導入してはどうか、ということかと少し思った。右肩さんは俳句に通じていて、実作もするし句会にも参加する。そこで行われる互いの句への評議のようなものを想定しているのではないか、と少しおもった。
 ケムリさんが酔っぱらいながらテキトーに列挙した批評の方法(わたしは夜は多かれ少なかれアルコールが回っているのだが、とてもじゃないが読むことも書くこともできない。その点たいしたものだ)、これはあいまい模糊としているわたしの頭を整理するのに非常に役立つ。こんなことはいいとして、で、右肩さんのいう「鑑賞」というのはこの五つの批評の方法を明確に区分けするのでなく、適時使っていく。おそらく「鑑賞」は明確な理論立てはされてなくとも日本の詩文学ではある程度なされてきたことではないか、とひかえめに主張しているようにみえる。

 やっと酒が醒めてきたというのにサッポロ黒生を開けてしまった。一服。
ここからは右肩さんの「鑑賞」が批評の五つの分類にどう絡んでいくのかわたしなりに思うところを言ってみます。
 �,魯吋爛蠅気鵑�もっとも排斥したいところのものだろう。作品イコール作者への批評ということで、そのことがどれだけ一つの作品から導き出される豊かさを損なっているか、大切なのは作者ではなく作者を装置として吐き出された歴史の無意識、それを顕在化しなくちゃいけない。まあこんなふうに言ってみるんだけどいいのかどうか。 
 日本には短い詩文学がある。短歌とか俳句。ちょっと亜流だけど山頭火とか尾崎放哉はどう考えれば良いのか、彼らの放浪、苦節の人生と作品をワンセットにしなければ、なんのこっちゃという作品ばかりだし、菅原道真の短歌は都落ちを知らなければよくわからないのもある。大学の先生には彼らの足跡を追って一生を棒にふる者もいるだろう。西行や芭蕉の旅をわざわざ追体験するものもいる。なによりも古来よりの素養、教養として扱われてきたという伝統がある。「鑑賞」はそれを含む、と右肩さんは言っている。と思う。  
 で、わたしはといえば、啄木は女好きで金にルーズだったとか、ドストエフスキーは才を鼻にかけた嫌な奴だったとか少女強姦しただとか、アート・ペッパーは薬物で刑務所出たり入ったりしているうちに、ハリウッドスターにしたいような美貌が見るも無惨になり、そのせいで彼のサックスは明るい曲でも悲しげというような話が好きです。
 
 �△砲弔い討六蹐鮟颪�人なら、腐心するところだろう。構造というなら右肩さんは自分の詩にもほかの作品にもとても敏感だ。内容なんかどうでもよいということなら、実は彼の詩はなんにもなくて内容は便宜上の借り物というスタンス。彼の「鑑賞」は内容を求めない。自動化とか異化とか聞いたことあるけど使い分ければいい、私見だけども、詩において自動化の効用というのもあるとおもう。たいくつが大事な時もある。もちろん「鑑賞」の主要なテーマだ。
 注意しなければいけないのは、批評ではなく創作の方法として意識的に取り入れるとややもすると、見え見えであざとさばかりになる。書いているときは方法はさっぱりと忘れるべきだとおもう。
 
 ��はわかり易い。「鑑賞」はイデオロギー批評からもっとも遠いところにあるだろう。と言った上で注意しなければいけないのは、われわれは恣意性の海の中を泳いでいる、イデオロギー的でないときに最もイデオロギー的である場合がある。「鑑賞」という中庸のイメージの危険。
 浅井さんの方法がこれに当たるというのはピンとこないな。

 �ぐ聞澆六澆瓩襦H茲譴燭渓欧燭い靴錣�らないしどうでもよくなってきた。�い覆鵑�右肩氏のレスがいつもやってきたことのようにもおもえる。�イ榔Ω�さんが目指しているものとなっているけど、はてそうなのかともおもう。脱構築なんてね。「鑑賞」には似合わない。
結局、「鑑賞」という批評はこの�,�ら�イ泙任諒�法を適時使い分けて、また渾然と一体化させて行う批評なのです。自覚的であるならば�,發いぁC耆任鯀�いつつ、実は過激に刺激的にということかな。一般論になってしまった。ケムリ氏があげた西欧の人々については、その名を知っている者もそうでない者もいるけれど一冊も読んだことがない。はなはだ稚拙な言説になっていることだろうし、右肩氏が言うところの「鑑賞」とはほど遠いものかもしれない
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右肩
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

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記事日時: 2012.10.07 (Sun) 09:01 引用付きで返信トップに戻る

レフさん。
 僕はそんなに「批評文」を読んでいないし、そもそも批評よりも鑑賞をもっと重視して良いんじゃないかと思っています。批評的な観点を意識した鑑賞ですね。
批評家の名前を一々挙げずとも、今のネットの本に対するレビューの質の高さは(もちろん総てではありませんよ)、驚異的ですね。その辺の新聞の書評欄よりもよほど質の高いレビューがブログやアマゾンの評価欄にゴロゴロしています。もっともこれは量にも内容にもなんの制約もないという理由もあると思いますが。
 理想的な批評を探す読書もしてみたいけれど、エネルギーを使うし、良質だけど退屈なものが多いからな。批評、っていうと未だに小林秀雄を思い出しますもの。

鈴屋さん。
 いや、律儀な方です!本当に迷惑を掛けました。
論議が批評の本質に進んでいくのはまったく好ましいことですけど、僕が当初言いたかったのは単純なこと。「もっと面白いコメントが読みたい。一言コメントも詩のランク付けも馴れ合いの挨拶もいいけど、そればかりでは僕は面白くないな、ということぐらいです。
 本当は自分がやってみせなきゃいけないことなのにね。
 それともう一つ。お前は馬鹿で俺は偉い、というのはもうんざり。いいじゃん、馬鹿で。本当に利口で偉い人はとことん利口で偉いよ。僕の半生は自分が利口でも偉くもない、ということを思い知らされるためにあったようなものですもん。まったく並以下。はるかに。僕が謙虚だとか言ってくれる人がいるのは有り難いけど、とても威張れるような中身じゃないから。まあ、それでもたまに、「おっ、こりゃいいこと思いついたぞ」とか「よしよし、こりゃ天才かも」なんて興奮に酔いしれることもないわけではないし、押さえきれない自己顕示欲も否定できないのはつらいことです。褒められ、おだてられたら久米の仙人みたいにすぐ落ちちゃいます。たぶん。上手にセルフプロジュースすれば有名になれるのかな、なんて思うこともないわけではないし。知能もそうだけど、人間的にも十分馬鹿ですね。
 その僕から見ても馬鹿だなあ、という人はいくらでもいるけど、僕も馬鹿なんだし、そんなこと言ってもしょうがないよな。ただ、そういう不毛なやりとりと、利口で偉い人の「勝利の舞」みたいなのをコメントでみせられるのはもういいね。もっと馬鹿なりに本質を語って楽しもうよ、ということです。この「本質を語る」ということこそ、日常生活で最も行われていないことですね。僕が詩人でもないのに詩らしいものを書いたり、こういうところに出入りするのはその癒やしがたいフラストレーションがあるからです。
 でも、そのフラストレーションを生のままぶつけても、ただただ人さまに迷惑を掛けるだけですよね。
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み かえる
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記事日時: 2012.10.07 (Sun) 13:39 引用付きで返信トップに戻る

いいんですよ 。非常識でも馬鹿でも良い詩さえ書き上げるなら 。それによって判断を誤らせてはいけないと、警戒する汎論も必要でしょう 。
右肩さんには自己弁明をするより、もう少しジョークを理解してほしいな 。いや、あなたも理解はできる方でしょう。しかし文面には決して表せない、なぜかこころとこころが通じ合う冗談は確かに存在するのです 。
わたしがアタマにきたのは、あなたはレスでcaseさんの批評に対して物足りなさを指摘しておきながら、平気で後から批評依頼をしていること。
こころから信頼の持てない相手に何故批評依頼ができるのか?その無神経さにです。依頼とは、相手に対し尊敬の念がないとできないことでしょう?違いますかね。
caseさんは多分によくできたお人柄なので文句も言われなかったのでしょうが、内心はいい気持ちはされなかったことでしょう。あなたへの批評文を読めばなにかしらとそれが滲み出ている。書き方のひとつだけでも人間の捉え方は変わりますよ 。
つまらない冗談は確かにつまらないでしょう。当然質は問われるでしょうが、批評にもいろんな仕方があってもよいのではないか 。そんなこころのゆとりも欲しいと、わたしは思っています 。
レフ
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.08 (Mon) 21:39 引用付きで返信トップに戻る

右肩さんが、
自分の詩作品にたいして、
「批評文」ではなく、
「鑑賞文」を書いて欲しいというところまでは大変よくわかりました。

それでは、
「批評」と「鑑賞」のあいだにはどのような違いがあると思うのか、
右肩さんご自身のお考えを、
具体的に(できれば箇条書きで)教えていただけますか?

ーーーーーーーー↓以下はむずかしい話が好きな人向けです↓ーーー

「批評」(クリティーク)の語源は
古代ギリシャ語の「クリネイン」です。
古い文献を漁ってみれば、
古代ギリシャの医学の祖、ヒポクラテスの著作に見つかります。
ヒポクラテスはこの「クリネイン」を
「この地点を越えてしまえば、もはや治癒することが難しくなる段階」
という意味で使いました。
(日本語では「分利」と訳されたりします。)
だから、「クリティーク」という語は、
「批評・批判」のみならず、
「危機・危険」とも訳されているわけですね。

ですので、

「純粋理性の危機」(『純粋理性批判』)を書いたカントにせよ、
ロラン・バルト以後のヌーヴェル・クリティークにせよ、
小林秀雄のあとに続く我が国の批評家たちにせよ、

原理原則として、
「批評」ということばは、
「区別すること」、
「差異を見分けること」、
「境界を画定すること」
「クリティカル・ポイントを指摘すること」、
「凡庸な点と、特異な点を見分けて指摘すること」、
といった意味の理解を前提にしています。

ケムリさんによる批評文のパターン分けの元ネタは
蓮實重彦だと思いますが、、
(ある対談本で蓮實はほとんど同じことを言っていましたよね)
そのような「批評のテクニックとパターン」とは関係なしに、

「わたしは、
ここが大事だと思う
ここが問題だと思う、
ここがポイントだと思う、
ここがひっかかった、
ここがダメだと思う」
などの指摘は、「批評の動機」としては、
実はきわめてまっとうですし、
非難されるべきではありません。
(ベンヤミン、ブランショ、バルトといった20世紀を代表するような批評家の思想と照らしても、間違っているとは言い切れません。
結局のところ、彼らの批評文もそれを主眼にしていたからです)

そしてそのような前提を踏まえてもなお、
「批評」と「鑑賞」は違うのだ、
「鑑賞」とは、これこれこういうもので、
わたしの作品についても、
「批評の文」ではなく、「鑑賞の文」を書いて欲しい、
と右肩さんが仰るのなら、
それはもっと、
「具体的に説明」しなければ、「通じない」ものです。
「具体的に教え」なければ、「わからない」ものなのです。

ですので、、
「批評」とは異なる「鑑賞」の本質・神髄・定義・概念というものを、
もっと「通じる」かたちで提起していただきたいと思うのです。

日本の現代詩の世界では、1970年代から、
「詩人は、詩を書くと同時に
(自己弁明の)批評もしなければならない」
という厳しすぎる状況が続いているのが実情です。
それは「手帳プロバー」であっても、
「文学極道」であっても、
今なお、共通しているように思えます。

そんな中で、「批評」とは異なる、
右肩さんの「鑑賞」という「コンセプト」は
注目に値するものです。

ですので、
精神分析学における「対象a」をめぐるような、
もんだいの解決をダラダラ延々と拒否し、
あいまいに否認をし続けるようなやりとりではなく、
もんだいの解決を大前提にしたうえで、
もっと明確に、
ご自身の理想と主張を提起していただきたいのです。

前世紀以前の
シュールレアリズム宣言や
未来派宣言や
ダダイズム宣言や、
共産党宣言でさえも、

「はったりとしか思えない言い方」で、
しかし明確に、
「もんだいの解決」を前提にとなえられています。

そうでなければ、ただの、ネットの、ふきだまりの、無名人の、
仲間内の、「才能のない人」の、
よくあるグチになってしまうからですね。

そういう愚かさを切って捨てる明晰さこそが、
この21世紀という時代における、
「文学極道」の本懐ではないのか、とわたしは思うのですが、
どうでしょうか……?
評者(ケムリ)
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.09 (Tue) 02:44 引用付きで返信トップに戻る

実もフタもないこと言いますと。

ぶっちゃけ、右肩さんの問題意識って
「テクスト戯れ」とか「読みの快楽」、つまり作者の死・読者の誕生を前提にした読みを、更なる読者に対して提示するところに価値をおく「俺のテクストとの戯れっぷりを見せてやるぜ!」みたいな批評の1ジャンルだよね。批評もあくまで創作として、そこに価値を見出すやり方。一つの批評作法として定着してる感さえある。デリさんとか超好きじゃん。僕は、脱構築なんかも「戯れ」の1ジャンルだと思ってるけど、わりとよくある。

>残念ながら「文学極道」には、僕のも含めて、魅力的なコメントは少ないのです。僕には、どうせ相対化されざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断、裁断は楽しめません。

ってとこから始まってるわけで。
普通に「ああいいたいことはわかる」じゃない?まぁ、「批評が作品の面白さに還元される」ことも求めてるから100%イコールってわけでもないけど。僕としては、その辺の理解を深めてもらいたくてあの長ったらしい文章を書いたわけで。

レフさんほど問い詰める意味がいまいちわかんない。
「それはそれでアリだよねー」って感じ以上にはならない。文学極道で僕がやってる批評の目的意識とは違うし、また僕自身が目指す批評のゴールとは違うけど、それはそれで既に大いに「有る」批評の1ジャンルだよねー、と。やりたい人がいて当たり前だし、そういう風に読まれたいと思う人がいても当たり前だと思うけど、

ただ、全員がこの流儀で批評やって「面白い批評」を求めるのは、流石にムリだと思うのね、ぶっちゃけ。それなりの経験値が必要なやり方だし、求められる能力もどっちかと言えば創作能力だよね。
難しいんですよ、それ。そもそも普段詩なんか読まない人の「面白くなかったです」って素朴なコメントを、文学極道では大事にしたいわけだし。

だから、僕としては
「右肩さんのおっしゃることはわかるけれど、文学極道における評の価値観はそれと必ずしも一致しないよ。でも、個人個人が目指す批評の形は色々あっていいし、排除するつもりもないし、むしろそういう価値観の『面白い批評』を書く人はいてくれないと困るよ」
ってとこに落ち着くわけですよ。

レフさんの要求は、「批評の新しいゴールを打ち出してみろ!」ってなもんだよね。でも、仮に右肩さんがそれを打ち出したとしても、文学極道ってそもそもが「不完全な批評でもそれを受け入れ糧にしよう」ってのを前提にしてるわけで。
そりゃ、僕としては丸っと受け入れるのはムリ。何度も書くけど、「そういうのもアリだね」ってくらい。

色んな人が批評について思索を深め意見を交換するのは、とっても有意義なことだと思うけど。文学極道の本懐は、わりとそこじゃないんだよな。もちろん、そこもとても大事なことだと思うんだけど。

「仮にもんだいの解決が提示されても、僕がそれを受け入れることは不可能」

っていう、厳然たる現実がそこにあるわけで。ここで「〜宣言」やられても、「お、おうがんばれ」としか言いようがないんですよ、わりと。
いや、やるなとは言わないしガンガンやって欲しいんだけど。僕自身がそれに強く共感したとしても、立場じょう文学極道の運営ベースで乗っかれるかって言われると、ムリっすねーとしか。


あと、僕の批評分類の底本はハスミーって割と落ち込んだ。え、まじで、ハスミー先生そんなこと言ってんの?
実はハスミ先生ほとんど読んでないんですよね。読んだ方がいいですかね。なんか「難解な言葉コネくり回してんじゃねえよ、シンプルにわかりやすく書けオラ」って思っちゃって。
僕、国内では大橋先生とか好きだなー。わかりやすくて、使いやすくて、便利で。「理論なんざ所詮ツールよ、使い勝手が悪けりゃ捨てろ」ってとこあるんですよねー。よくないなー、とは思うんだけど。ハスミー先生ちょっと読んだんだけど、すんげー使いにくそうで。
僕、現実の上での思想はローティとの親和性がものすごい高いんですよ。ほら、ブランショさんにしてもローティさんにしてもウィトゲンさんにしてもバルトさんにしても、「作者なんていない」って叫んだというよりは「作者なんていないってことにしとけば理論的に超キレーに片付くぜ!ブラックボックスなんて始めからなかったんや!」って理論じゃないですか。あーいうの、ものすごい好き。
ほら、結局八百屋で大根を一本買うのに必要なのは値札であって、「大根を脱構築してみますた」って言われても、俺はおでんを食えないわけじゃないですか。批評ってそーいうとこありますよねー。

ただ、僕は実存主義から哲学を学び始めた人間なんで、「主体の再回復」をものすごい大事なテーマとして考えてて、「理論として超スッキリや!これでいいのだ!」ってところと、「でも、理論でスッキリすりゃいいってもんでもないだろ」の間で悩んでたりするんですよね。だから、ソンタグの「反解釈」を持ち出したりする。スッゲエ怒られそうなこと言うと、あんなもん、理論的にはゼロも同然じゃないですか。ソンタグさんなんて。超カッコいいし美人だし文章ウマいから、みんなスゴイと思ってるし、俺もスゴイと思ってるけど。でも、「そんで、オバちゃん結局コレどういうこと?」って感じじゃないですか。かなり、というか相当アレでアレな発言も大量にしてるし。それはあんたの信仰告白だろおばちゃん…。ってとこあるじゃないですか。でも、そういう意味不明さや信仰に根差したものを残しておかないと、世の中理論だけで進んじゃいますからねー。それはそれでねー。目標も大事ですよねー。

雑談が長くなってごめんなさい。
ところで、再び僕の発言についてですが。鈴屋さんがさらりと実地に適用して、若干の批判を与えてくれてますが、それを見ればわかるとおり実地で批評やってると大体の人には自然に頭に入ってる内容に過ぎないと思います。言語化はされてなくても。理論としては「文学とは何か」の範囲を一歩も越えてないし。そういう意味で、底本が要るようなものではないかなー、と。いや、これは僕がハスミーが嫌いだってわけじゃないですよ!ハスミー先生ともあろう日本思想界の大巨人が今更こんな基本的な話をしてたのかー、とちょっと驚いただけですよ。別に、大学に入学した頃ハスミ門下の東大クソ野郎に論戦でベッコベコに負けたから東大生とハスミは死ねと思ってるとか、そんな理由があるわけじゃないですよ。そんなコンプレックス丸出しの理由があるわけもないです。
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右肩
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登録日: 2009.11.07
記事: 62

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記事日時: 2012.10.13 (Sat) 13:20 引用付きで返信トップに戻る

 色々御意見を頂きましたが、僕は「批評論」を突き詰めようとしたわけではないのです。
一言コメントがいけない、ということは言い続けてきたのですが、それは自分の印象を生で提示することをやめろ、と言っているのではありません。僕は楽しめないし、こういうコメントがだらだら続いていくのではこの場が盛り上がらないのではないか、と考えたから一個人として「楽しいコメント」を提案したに過ぎないのです。「いや、そうじゃないよ、こういうやりとりから自省して作品を向上させることも必要だし、褒め合いだって罵り合いだってやって楽しい見て楽しい、ヒューヒューだよ」と言う人がいたらそれはそれでその通り。構いません。
 「批評」と「鑑賞」を対峙させたのは、「批評」は物の価値を論ずるものだ、という辞書的な解釈に拠っています。ランク付け、というのは価値を決めるものの立場を対象よりも上に置くことでもあります。どうもネットの批評はそういう慢心を誘いやすく、またそれに対する反発を招きやすい。「いい加減なことを偉そうに言うな!」という糾弾ですね。これは見ていて面白い面もあるかもしれないけれど、作品をより面白くすることには結びつきません。僕個人としては嫌でした。根拠のあるエキサイティングな、前向きな罵倒ならともかく、作品も離れ、揚げ足取りになり、論拠はコロコロ変わり、結局の所「オレはお前より偉いんだ」という主張しか残らない。当事者はどう思っているか知らないけれど、僕は嫌だ、ということです。
 じゃ、具体的にどう書けばいいのか、ということで、泪さんの作品を舞台に試みてみました。作品の弱点はあげつらわず、作者の意図を受け入れながら鑑賞に徹するつもりで。で、結果はどうかというと、作者にも受け入れられなかったみたいだし、自分の文章をひけらかしに来たように捉える人も居たし(考えようによっては確かにそんなところもあったかもしれない、と反省させられ、非常に嫌な気持ちになりました)、好意的に捉えてくれた方もいらっしゃったようですが、新たな「鑑賞」は現れず、作品のスレッドはまさに僕が一番嫌だと思う雰囲気で進行してしまいました。
 何なんでしょうね、これは。雑誌の投稿欄や、管理されたサイトや誌面では起こりえないことが起こってしまう。僕は一方的な雑誌の編集や、有無を言わさず臭い物に蓋をする管理が嫌いでこのサイトに来ているのに、結局スタッフに(というかケムリさん一人がやってるんだろうか)頼らなければ収拾できない混乱が持ち上がるんですね。詩のオープンな投稿サイトがあらかた消えていくのもわかるような気がします。あるいは、こういう過程で栄枯盛衰を繰り返し、消費されていくのがネットの詩のサイトで、「消費者」はその旬だけを楽しんで食いつぶしていけばいいのか……。
 名ばかりですが、一応僕も「サポートメンバー」になっていることもあって、そんなことまで考えてしまいました。
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評者(ケムリ)
Privileged
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登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.13 (Sat) 13:57 引用付きで返信トップに戻る

逆に言えば、騒動が起きるから面白いわけで。
淡々と進行してるウチのサイトって多分お客さん来ないと思うんですよ。議論が巻き起こるのは大事。

右肩さんの提案は面白かったし、一つの契機になった。
右肩さん自身も最後まで誠実にふるまった。
僕も色々言語化してみるいい機会だった。

とてもいいことじゃないですか。
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かせ
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.14 (Sun) 12:20 引用付きで返信トップに戻る

名前を出されたのに距離を置いてましたcaseです、右肩さんのご提案、楽しく拝見しました。
ああいう風にばしっと言っていただけるのは個人的には有難いです。

んで、ただ距離を置いていただけでは芸がないので宣伝です。
右肩さんの今回のご提案に応える形というと大げさですが、
現代詩フォーラムの名物行事、批評祭をcaseが主催します。

そんなわけで、右肩さん、そして今回の右肩さんのご提案にちょっと心揺さぶられた皆さま、
そろいもそろって各々の「批評観」をぶつだけでなく、それに則った「批評」をぶつけてくださればと思います。

ほら、いかさんが良く言ってるでしょ?
「とりあえず作品出せよ、話はそれからだ」的な(てきとー

詳細が確定次第改めてアナウンスさせていただきたく思いますが、
とまれ、右肩さんに感謝の言葉を。ありがとうございました。


ちゃお!
コーリャ
Member
Member


登録日: 2012.06.20
記事: 32

グループ: なし

記事日時: 2012.11.09 (Fri) 16:11 引用付きで返信トップに戻る

右肩さんにラブレター書きました。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=263750

乱文のうえに長文ですが。よかったら読んでみてください。
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香瀬
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.11.09 (Fri) 17:38 引用付きで返信トップに戻る

そんなわけで遅ればせながら。
HHM要項(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=263799&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D7764)
です。

来年の1月の下旬に間に合うように。
さあ皆様、ダンスの時間だ。



かせ wrote:
名前を出されたのに距離を置いてましたcaseです、右肩さんのご提案、楽しく拝見しました。
ああいう風にばしっと言っていただけるのは個人的には有難いです。

んで、ただ距離を置いていただけでは芸がないので宣伝です。
右肩さんの今回のご提案に応える形というと大げさですが、
現代詩フォーラムの名物行事、批評祭をcaseが主催します。

そんなわけで、右肩さん、そして今回の右肩さんのご提案にちょっと心揺さぶられた皆さま、
そろいもそろって各々の「批評観」をぶつだけでなく、それに則った「批評」をぶつけてくださればと思います。

ほら、いかさんが良く言ってるでしょ?
「とりあえず作品出せよ、話はそれからだ」的な(てきとー

詳細が確定次第改めてアナウンスさせていただきたく思いますが、
とまれ、右肩さんに感謝の言葉を。ありがとうございました。


ちゃお!
かず
Regular
Regular


登録日: 2011.01.04
記事: 136

グループ: なし

記事日時: 2012.11.10 (Sat) 10:44 引用付きで返信トップに戻る

どのレスポンスを見てもアジテーションに無自覚ですね。私自身はアジテーションそれ自体に反対というわけではないですし、反対しようにも、それ自体もアジテーションとして回収されてしまいますから、こうした場面では何を言っても仕方が無い。とはいえ、どんな形の主張であっても「こういう投稿をすべきだ」「こういうレスポンスをしてはいけない」というメッセージを持っているように読めてしまう、というその事実に対して、何の関心ももっていない人が非常に多い(困ったことに私は、それに自覚的「であるべき」だ、と言うこともできない)。まあこれは、批評というものの宿命だとも言えるのですが。

果たして方法などというものは存在するのでしょうかね。文学極道は方法を提供するんだと上で言っていましたが、幾つかある方法のうち自分に合ったものを選べばよい、というようなスタンス自体、方法の提示に対して全くと言っていいほど無自覚な態度から来ている。方法を選ぶ、というのは、読み方を選ぶ、ということであって、いわばそれは、精神を選ぶ、ということに相当する。結局、作品に対する態度そのものを選択させている。もちろん、心変わりするように、作品に対する見方を変える、そんなことはできるはずもない。読み手の主観を大切にすると言いつつ、この点では読み手を全く殺している。

「読める」ということは、ある意味では既に『そう読むべきだ』という規則に従っている、ということの証でもあるわけです。何故ならそもそも、そのような規則を前提しなければ、たとえば、言語の使用そのものができない、とも言えてしまうから。とはいえ、こんな身も蓋もないことを言ってしまうと、すべての発言はそれまで読んできたものの集積だ、というとんでもない理屈が言えてしまう。私が言いたいのは、それまでしてきた読み方をいきなり変えるなんてのは、土台無理な話なんだってことですよ。「読み方を変える」ということは、究極的には「書き方を変える」ことでもあるから。精神を変貌せしめるしかない。

多分こういう文章は、「文学的営為ってのは結局宗教なんじゃないか」「あんたは文学極道を教育機関だと思ってるのか」みたいなあらぬ誤解を産むかもしれないんですが、何かしら反応があるかもしれないので、投稿しておきます。
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