文学極道 フォーラム一覧

文学極道

― 新たなる世界性を自らの手で創造せよ ―

検索 :: メンバーリスト :: グループ :: お気に入り :: RSS :: FAQ :: Mobile? :: 登録する
プロフィール :: ログイン

 こんな鑑賞ができたら面白いと思うのだけど 次のトピックを表示
前のトピックを表示
新しいトピックを投稿トピックに返信

投稿者 メッセージ
右肩
Member
Member


登録日: 2009.11.07
記事: 62

グループ: 
[Auths ]

記事日時: 2012.10.02 (Tue) 20:31 引用付きで返信トップに戻る

 投稿掲示板で、こちらに書くべき内容を書いてしまったので、こちらへ移転します。
 投稿掲示板の内容を削除すると、その後の他の方のコメントのつじつまが合わなくなってしまうのであちらの記述も残しますが、この内容についてのコメントは、今後こちらへお願いします。


 最近、なかなか他の人の作品にコメントできなくなってしまいました。ここに書かれている作品が以前のものに比べて特に面白くないと思っている訳ではありません。
原因は僕個人にあるようです。読み手としての僕が、精神的な逞しさに欠けている、と感じています。
 面白い詩、というのは、自己言及によって自己完結する、ということのない詩ではないか、と時々考えています。
たとえ、読み手に作者と同様の追体験を誘う物語がない場合でも、言葉は作者の表現手段であると同時に、作品世界に接した読者からの表現を促す契機になり得るはずです。
かなり無責任に、批評の歴史的経緯を無視した発言をするのだけれど(まあ、第一批評の歴史的経緯をよく知らないし)、これからの文学作品にとってはどれだけ良質な鑑賞を産むことができるか、が要点になると思います。
 作者が読者を特権的に作品を支配できないのは、文学の歴史がここまで進んでしまって、支配を正当化するための材料がなくなってしまったのだから当然ではないでしょうか。ケムリさんの言ではないですが、批評や鑑賞における国語教育的な「意図主義・作者主義」はまったくナンセンスです。批評者、鑑賞者が作者の意図という権威に寄りかかってものをいうのは、作者が作品の創造主として権威的に振る舞うこと以上に馬鹿げています。
 批評者、鑑賞者としての自覚を持たない読者も、ネットなどで容易に読んだ作品を巡って表現者として振る舞うことのできる時代です。ある意味で傍若無人な解釈が横行し、作者の意に沿った解釈のために頭の中を明け渡す必要などないと思っているようです。むしろ、彼らは自分の解釈を作者や他の読者に対して熱心に、積極的にアピールしようとし始めています。このこと自体は間違っているとは言えません。しかし、批評も、鑑賞も、もっと軽い感想も、また一個の表現として他者に晒されます。作品と同等の鑑賞対象になってしまうから、それらも作品の上に安穏と君臨できるはずがないのは自明です。
 いかに対象とする作品の魅力を開放し、読むものを楽しませ得るか。それを考えて批評し鑑賞することが、作品と読者のコラボレーションによる新たな世界の展開に繋がると思います。
 そういう観点から改めてここを見てみると、残念ながら「文学極道」には、僕のも含めて、魅力的なコメントは少ないのです。僕には、どうせ相対化されざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断、裁断は楽しめません。ケムリさんのようにそういう行為そのものが巧みな(あるいは「巧まざる」かな)エンターテインメントになっている場合は別として。
たとえば中田さんは(冷静にものを考えることができる方だと思うのであえて数名の方の名前を出させて頂きます)一、二行で「装飾過多」などとその作品を切って捨てますが、その是非、というか当否はともかくとして、その評言が、評言自体にも、もちろん対象となる作品にも、何らの魅力をもたらさない、という面でひたすら残念です。
 浅井さんの批評は大変情熱的で、精緻で、バックボーンにも信頼が置けて尊敬できるのですが、僕には評の面白さがなかなか作品の面白さに還元されてきません。
caseさんも、ヴィヴィットではあるけれど、どこかまだ徹底を欠くところがあるような……。
僕も含めた、その他の方々のコメントは、対象作品にかこつけた自分語りに終わってしまって、第三者には鼻持ちならないか、どうでもいいか、のようなものが多くなってしまっていると思います。
形として僕の理想的な鑑賞を実践なさっているのは「ほかけ」さん(色々変わっているのでどうお呼びして良いか迷いますが)なのですが、残念ながら僕にとって彼女のコメントの内容はまったく面白くありませんし、自分語り成分が濃厚に感じられています。「作品に即して鑑賞し、その鑑賞を表現として練ろうとする」という形式だけに賛成できます。根本的にセンスが違うのでしょうか。
 何よりも、他ならぬ僕が「楽しめる解釈」「胸躍る鑑賞」「独立した強度を持つ鑑賞文」を書く能力とエネルギー欠ける上に、他でそれをやってくれる人をなかなか見つけられない、というのが目下の不満であり、悩みです。誰かやってみて下さい。罵倒も相互教育も大事だし、それこそがこのサイトのポリシーかもしれませんが、純粋な鑑賞主体のコメントがあっても排除対象にはならないと思うんだけどな。
ユーザーのプロフィールを表示右肩 の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
コーリャ
Member
Member


登録日: 2012.06.20
記事: 32

グループ: なし

記事日時: 2012.10.03 (Wed) 15:45 引用付きで返信トップに戻る

昨晩飼い犬に手をかまれてちょっと泣きました、コーリャです!人間としてのヒエラルキーのいちばんひくいところからこんにちは!今回はその猫背をますます曲げて、この右肩さんの設定した高いハードルをいきなり低姿勢でくぐりにかかるという趣向で、思ったことなど、わりとポップに投げてみようとおもいます!

今から書くレスにはふたつのメタな狙いがあります。最初に言っちゃうとこがあざといでしょ?

1.アカデミックな主義とか主張とかよくわかんないし興味ないんだけど、ブンゴクにはいるよーっていうスタンスの意見を提出
(つまりそもそもこの議論に参加できるような素養がない人間としての意見)
なら黙ってりゃええやん。って思いました?僕もそう思います。でも、

2.このスレ(プロポーズ)に対してたくさんの意見(できれば喧嘩のないかんじで)をうながすこと
というのもあるんです。心あるひとからしてみればなにを無駄口をたたくかこの若造はと噛み砕いた苦虫の残骸と一緒にはき捨てられること請け合い!作家主義だとか意図主義の擁護はちょう大変そうなので、だれかに譲るとして、こういうふうにコーリャは右肩さんのレスを読みました、ということで。なにかのご参考になれば幸い。


さてまず僕が理解した右肩さんの主張を3つの要点に(勝手にサブタイトルをつけて)まとめると。
a.)「作家主義がウザイねん!」
>批評や鑑賞における国語教育的な「意図主義・作者主義」はまったくナンセンスです。批評者、鑑賞者が作者の意図という権威に寄りかかってものをいうのは、作者が作品の創造主として権威的に振る舞うこと以上に馬鹿げています。

作者がえらそうに振舞うのがウザイ。つまり読みに正解を設定するのがウザイ。それを探そうとするやつもウザイ。

b.)「お前のレスがそのまま作品になるねん!」
>批評も、鑑賞も、もっと軽い感想も、また一個の表現として他者に晒されます。

そしてどんなレスも作品として成り立ってしまう状況なのだから

c.) 「だからお前らおもしろいレスつけろよ!」
>いかに対象とする作品の魅力を開放し、読むものを楽しませ得るか。それを考えて批評し鑑賞する

のが、右肩さんの思い描く理想の批評(つまり現状ではそれがなされていないという問題提議でもあるところの主張)である。
というふうに理解しました。

さて議論の背景をさぐると、論点aの「作家主義はくだらない!」という言説は、みんなもご存知、葉月二兎さんの投稿された作品の議論(http://bungoku.jp/ebbs/edt.cgi?sel=20120929_571_6352r )の文脈を引いていて、そのケムリさんの言葉がこちら、

>「意図主義・作者主義」は現在は国語教育の分野だけに残るガラパゴスな読みですが、かつての日本では「主流」だったんですよ。現在でも義務教育〜高校レベルの国語教育では「作者は何をいいたいのでしょうか?」ってやるでしょ。これは国語における、「論理教育」の部分と「道徳・情操教育」の部分が切り離されなかった日本特有の現象で、現在でも多くの人たちは「作者は何を主張したかったのか」を考えることが「読み」だと思い込んでいます。

それに同調するわけではないが、と断りをいれて、右肩さんも、それはナンセンスであると一蹴。その理由は?とくに明記されているわけではないですが、一連の議論でこう解釈することは可能です、つまり、
>自己言及によって自己完結する、ということのない
>良質な鑑賞を産む
>作品と読者のコラボレーションによる新たな世界の展開
これが右肩さんの文学極道宣言なのですが、それの逆つまり、自分のことしか考えてなくて、文面がつまらなくて、閉鎖的なレス。つまりケムリさんが言うところの「貧しい」読みの提出を許す土壌に対しての警鐘ということになるのでしょうか。

そもそもこのケムリさんの議論も、葉月さんの最初のレス

>「分からない」というのは馬鹿。「教えてくれ」というのは無能です。
己の無知や不足を恥と知って下さい。

(http://bungoku.jp/ebbs/edt.cgi?sel=20120924_335_6352r)に端を発していて、つまり、わかんないとか、言うなよ、考えろ、説明しろ、教えてくれとかいうな、なぜなら、それを要求することは、作者の権威にすがることになるからであり、それを対処する方法として議論を発展させ、「良質な鑑賞を産むコラボレーション」つまり、他人を巻き込み、かつ楽しませろ、努めろ、という論点c「だからお前らおもしろいレスつけろよ!」に論理的に接続していきます。なぜそれができるか?それを補足するものとしての論点b「お前のレスがそのまま作品になるねん!」、お前の言葉ひとつひとつがそのまま作品になるという言説。だから、レスにも相応の努力を払え!ということですね。で、どうせならセッションする感じみんなで楽しみましょうよ。「作品の魅力を開放」しようと右肩さんは主張されます。

でもどないすりゃええねん、右肩先生。という質問にたいしては、何人かの読めるひとびとを名指しにディスることによって(これは疑いようもなくツンデレ方式の賞賛なので中田さんはそこまでタフガイにならないでください)逆説的に示唆されます。つまり、ほかけさん的な「作品に即して鑑賞し、その鑑賞を表現として練ろうとする」スタンスでありつつ「楽しめる解釈」「胸躍る鑑賞」「独立した強度を持つ鑑賞文」の要件を満たすレスということですね。それでもやっぱ具体的じゃないじゃん、やり方がわかんねーよ、ってひといますかー?それは甘えだよ!しかし右肩さんが示唆されてるとおり(つまりなぜ右肩さんがこれだけの人物をあえて名指しにしたかということ、意図主義ではないスタンスをとっているということを考えると見えてくる、と勝手にコーリャが思うことですが)、これだけがひとつの方法ではない、ということですね。豊かにいこう。楽しんでさ。頭使おうぜ。そういうふうな言説として理解しました。

さてコーリャの総評はこうなります。



        _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
     ,r'"           `ヽ.
 __,,::r'7" ::.              ヽ_
 ゙l  |  ::              ゙) 7
  | ヽ`l ::              /ノ )
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々にワロタ 
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう記事が沢山作られた
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔のブンゴクなんだよな 今の新参は昔の
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | ブンゴクを知らないから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________
   /ト、 :|. ゙l;:        ,i' ,l' ノト、
 / .| \ゝ、゙l;:      ,,/;;,ノ;r'" :| \
'"   |   `''-、`'ー--─'";;-'''"   ,|   \_



はい、すいません。ぼくも新参ですし、別に笑ったけど嘲笑じゃないです。むしろ頼もしさにワロタ。つまり、この右肩さんの辛党宣言のいいところって、すごく他に開かれてるじゃないですか(ちょっと生意気なトーンも戦略的に正しいきがする)。コールアンドレスポンスでいうところのSCREEEEEEAM!っていう煽りでしょこれ。ぜんぜん右肩さんのキャラじゃないじゃん(偏見)。でも逆にそこがかっこいいんすよ。やってることと言ってることが一貫してるっていうか一致してますよね。あとネット詩(ブンゴク)がどんどん沈んで行ってることは疑いようがなく、それに対する唯一の救済策であるのは、モーセに海を割ってもらって地面に着地することでなく、やっぱり詩人たちの交流が積み重ねることだと僕も信じますので、全面的に支持、とか言っちゃった、どうしよう。
ゼッケンさんが直近のレスで新しい文学概念を提唱しています、つまり多くの有識者が懸念するところであるものとしての、現代詩のガラパゴス化、「ガラ芸」、スマートなたたずまいをもつポエムの増加、「スマポ」の市場占拠、ポエムノベルいわゆる「ポエベル」の枯渇などでございます。ゼッケンさんにも久々にワロタことを謹んで申し上げ、そんな方向にもパイを投げ、これだろ、みんな、ゼッケンさんぐらいおもしろいの書いてよ、という突然のため口でもって終わりの言葉とさせていただき、乱文長文お目汚しご容赦なかんじで、またね
ユーザーのプロフィールを表示コーリャ の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
新貝
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.03 (Wed) 22:18 引用付きで返信トップに戻る

「僕には、どうせ相対化せざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断〜」相対化とは何を指すのか?

「作者が読者を特権的に作品を支配できない〜」これは意味が通じているのだろうか?

大体が「僕を含めた、その他の方々のコメントは〜」などと、読む者に対して変に阿る書き方自体が曲折した文章に導いているように伺える。

結局何が言いたいのか、非常に解りづらい内容で書き込まれている。
詳しく推敲されているとも思えないが、本人には理解できているのだろうか。甚だ疑問に感じられる内容の文章である。
それとも、意味がよく理解できないのは、わたしがアホでマヌケだからだろうか? コーリャさん、本当に理解されているのだろか、ね?
大雑把にはわかる。しかし、真意はよく呑み込めなかったな、わたしには 。
新貝
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.03 (Wed) 22:44 引用付きで返信トップに戻る

※ 相対化とは価値観の何を指すのか 。 という事です 。
田中宏輔
Habitue
Habitue


登録日: 2011.03.28
記事: 1024

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 00:57 引用付きで返信トップに戻る

この書き込み、削除します。


最終編集者 田中宏輔 [ 2012.10.04 (Thu) 02:22 ], 編集回数 1 回
ユーザーのプロフィールを表示田中宏輔 の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
評者(ケムリ)
Privileged
Privileged


登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 02:19 引用付きで返信トップに戻る

そりゃ、アホでマヌケだからだと思いますよ。

で、本題。まー。右肩さんのおっしゃることもその通りで。
本来は、「作品」と「批評」の間に線なんか引けないし、「批評」も作品同様に他者の目に晒され、批評・批判されて当たり前ではある。

>どうせ相対化されざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断、裁断は楽しめません。

うん。そうだろうと思う。
「〜はダメだ」とか「〜であるべきだ」なんてのは、基本的に個人における価値観の表明に過ぎないわけで。まー、こんなもん相対化されますよね。そんで並列化されますよね。所詮価値観の問題ですよね。

「あんたはそう思うかもしれないが、俺はそうは思わない」

で済んじゃう話なんですよ。つまるところ。
詩の批評なんて、大方がこの一言で終了ですよねー。疲れたし眠いし酔っぱらってるんでテキトーに書くんですけど。批評の技術ってのはざっくり5種類ありまして。

�^嫂渕腟繊�作者主義的解釈
作者の生い立ち、歴史的背景、主義主張などを踏まえて作品を「正しく」読む技術。国語っぽいやつ。

�▲侫�ルマリズム・ナラトロジー・構造主義的批評
作品自体に内在する構造を見つけ出し、他作品と比較・対照する手法。まぁ、「型」重視ですかね。この批評理論は何故か、レヴィ・ストロースやフーコー以後のものと考える人が多いけれど、実際はフォルマリストの流れの方が大事。プロップさんへの歴史的扱いの悪さは異常。実際、レヴィストロースと比較してもプロップさんの方がはるかに文学史的意義のある結果を出してんですよ!覚えて帰って。プロップさんマジエライ。それに引き替え、レヴィさんは「サルトルをシバキ殺した」くらいしか功績ねーだんよ!フォルマリスト舐めんな!俺はフォルマリストが大好きなんだ!ついでに、バフチンやルカーチも大事。

��イデオロギー批評
作品を何らかのイデオロギーに当てはめて解釈・価値判断する手法。ヒトラーがやったのはナチス主義批評。マルクス主義批評とかもある。たまに人も死ぬ。こうやって言うとアブナそうだけど、心理学の手法や社会学的手法、あとはジェンダーなんかでもやるよね。アカデミックでは一番よくやられるかも。作品を「何らかのイデオロギーによって判断する」みたいなやりかた。浅井さんの知識に照らした読み方はわりとこれに近い。

�と寝鮗�
僕が、文学極道とは関係なく自分の批評スタイルとして目指すもの。
スーザン・ソンダク「反解釈」より引用。

>今日要望されているのはどんな批評、いかなる作品論であろうか?芸術作品はとはいわく言いがたいもので、描写やパラフレーズは不可能である、と私は言っているのではない、描写やパラフレーズは可能である。問題はその方法である。作品を簒奪するのではなく、作品に奉仕しようとする批評は、どのようなものとなるのだろうか?
 >まず必要とされるのは、芸術の形式にもっと注目することである。内容に対する過度の関心がのぼせあがった解釈を呼び起こすとすれば、形式へのこれまでにない詳しい注目と徹底的な描写は少なくとものぼせあがりを冷やし、黙らせるだろう。必要なのは形式を描写するための語彙――かくあるべしと命令する用語ではなく、かくあると描写する用語だ。
 >最良の批評とは(まことに稀少なものだが、)内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評である。
われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけだすことではない。ましてすでそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。われわれのなすべきことは、ものを見ることができるように、内容を切りつめることである。
 >芸術についてあらゆる解釈と議論は、芸術作品を――そしてひろげて言えば、われわれ自身の経験を――われわれにとっても実在感のあるものにすることを目ざすべきである。作品と経験の確かな実在感を薄めてしまってはならない。批評の機能は、作品がいかにしてそのもであるかを、いや作品がまさにそんものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。

形式に着目することによって、結果的に内容を浮かび上がらせ、まーウィトゲンさんっぽく、作品が作品であることを浮上させる、みたいなやり方かな。現状、僕にはできない。やりたい。

�ゥ侫蝓璽好織ぅ覯鮗瓠|�構築 創作としての批評 燃焼系デリダ式
自分がその作品をいかに読み、またいかに「読まなかったか」あるいは、いかに「読めてしまったか」ないし、いかに「読み、創ったか」を目指す批評。多分、葉月さんや右肩さんが目指すのはこれ。
重要なのは、批評それ自体の「面白さ」「作品性」。まさに、読みのアクロバット。三回転半ひねりからムーンサルト。上手くハマると読んで非常に面白かったり、下手すると「作品より面白い」こともある。問題は、「書かれたものが本質的に作品と無関係」になってしまいがちなこと。僕がかつて葉月さんにした批判はこんな感じだった。
「あなたの批評は確かに面白い。しかし、この批評とぼくの作品は何ら関係性を持っていない。あなたなら、僕の作品ではなく家電の説明書からでも批評をやれてしまうよね」
要は、批評の面白さを追求すること、思考・論理・表現のアクロバットを目指すことは、結果的に、「批評が批評であることの放棄」に直結してしまう。批評が読みものとして面白いことを目指すっていうのは、僕の考える「作品が作品であることそれ自体に奉仕する」という批評の倫理と一致しない。だから、僕はこの手法を採用しない。このやり方は、作品の実在感を限りなくゼロへ向かわせる。

えー、この辺で一回書き込んで二つ目に続けよう。
ユーザーのプロフィールを表示評者(ケムリ) の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
評者(ケムリ)
Privileged
Privileged


登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 02:39 引用付きで返信トップに戻る

というわけで、「作者主義・意図主義」を捨て去るとすれば。
我々が選び取りえる批評は、�↓��イ砲覆襦�

��は「この作品はフロイト理論に照らして読むと…」みたいな、いささか面白みに欠ける結果を生むし、読みを展開するための知識のバックボーンが極めて強く必要になるので、多くの人は選択肢として選べないだろうと思う。逆に言えば「もちネタ」がある人はやってみたらいいと思うけど。
実際、詩や文学を批評するからって「詩や文学を知っている必要がある」なんてこたーないんですよ。自分の知っている、あるいは使いこなせる思考の形式を作品に当てはめれば、それがすでに立派な批評です。

で。まー、特殊な「もちネタ」つまり「臨床心理士持ってるぜ!」とか、「MBA取ってきたから詩を経営学の観点から分析するわ!」みたいなネタのない普通の人にとって、選べる選択肢ってのは実質的に��or�イ覆鵑任垢茵�

で、みなさんご存じのとおり。
僕は�△鬚發里垢粥爾�スケールダウンした批評を、文学極道におけるメイン戦略としてます。なぜなら、僕はみなさんに「技術」を提供したいと思っているからです。「技術」という言い方がわかりにくければ「ツール」を提供したいわけです。みなさんが、明日詩を書くときに使える、ドライバーやペンチのようなツール。
詩作品を再現可能な技術論に還元し、単純化(矮小化と言ってもいいでしょうね)する。ポエム・テクニカルと名前をつけましたが。これは、株価の値動きを分析して投資判断に役立ててもらうような営為と似たようなものです。ストキャスとか移動平均線とかそーいうものです。もちろん、このツールの分析の通りに市場が、作品が動くとは限りません。でも、思考の一つの補助線にはなる。そういう狙いがあります。

「明日すぐ使える道具」
それこそが、僕が文学極道で提示しようとしているものです。
いや、実際ね。僕がブンゴクでやってる「批評」これが僕のやりたい批評ってわけじゃないんですよ。僕だって、自分の人生に課せられたテーマに向き合ったり、世界について考えたり、作品と自己の適切な距離の取り方について考えたり、日々グネグネ悩んでるんですよ。だから、僕は前職を辞して起業に打って出て、なんとか大学院に通う時間をねん出しようとしてるわけじゃないですか!頑張ってるんですよ、僕だって。僕はいつか自分の考えるもっとも正しい批評のあり方を完成させるつもりで生きてますよ。ああ、ええと何の話してたんだっけ。

ああ、そう現実の話。
で、僕はやっぱりなんだかんだ大量の作品に批評をつけます。するってーとですね、あるていど形式化・定型化した批評しかつけられないんですよ。一作品一作品に徹底的に自己を寄り添わせてそれをディスクリプションする、そんな批評はムリなんですよ。また、「批評それ自体を作品化する」っていうのも、ムリでしょ。だってあれ、大変なんですよ。葉月さんの書いた批評みたらわかるでしょ。一作品一作品にあの批評つけてたら、僕死にますよ。まー、それに僕はデリダがあまり好きじゃないんで、ああいうタイプの批評を書く訓練をそもそもしてないってのがあるんですが。僕はテリー・イーグルトンこそを批評の師と仰いでいるので。

というわけですね。
みなさん、自分の目指すべき批評のスタイルを目指していけばいいと思います!いやマジで!右肩さんも自分の目指す批評を実現すべき!まぁ、マッジめんどくせーんだけどな!なにせ、我々資本主義社会に生きてて、この社会で生きていくってことは常に「資本主義」っていうイデオロギーの批評を受け続けているわけで。残った時間で批評をきちんと書く、面白く書く、正しく書くってのはダッルいぜー!超ダッルイいぜー!

でも、書いたらいいと思います。
そういう誠実な営為を目指す人を、文学極道は絶対に排除しません。
それは約束します。
ユーザーのプロフィールを表示評者(ケムリ) の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
右肩
Member
Member


登録日: 2009.11.07
記事: 62

グループ: 
[Auths ]

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 02:47 引用付きで返信トップに戻る

 ええと、僕が言いたかったことは、コーリャさんがほんとうにきちんとまとめなおしてくれました。
涙が出るほどありがたいですね。
いや、こんなに好意的にとってくれていいのか、と不安になってしまうくらいです。
 新貝さんの言いたいことはわかりますよ。はい。そもそも夜中に変な頭の変なテンションで書いたのがことの始まりなのは間違いありません。
 前にも言ったけれど、油断したりいっぱいいっぱいになるとわかりにくい言葉で回りくどくなるのが僕の文章です。
意識してそうすることもあるけど。
 まず、最初にやるべきことを済ませておくと、

>「僕には、どうせ相対化せざるを得ない価値観に基づく詩の価値の処断〜」相対化とは何を指すのか?
 もうどんな価値観も、それが絶対、ということはないですよね。「この詩はもう全然ダメ、お子様のぽえむ!10点」といったって「ぽえむどこが悪い!100点」という人は必ず出てくるわけですよ。だからこの「文極」でもしつこいくらいに「ここのやり方では」ってことを強調して、ポーズとしてのコワモテってことを密かにはっきりさせてますよね。

>「作者が読者を特権的に作品を支配できない〜」これは意味が通じているのだろうか?
 ここ、書き間違い。正確には
「作者が読者に対して特権的な立場に立って、その立場から作品を自分のものとして支配することはできないのは〜」
となります。単に「読者を」を消しても良いですね。

 さて、新貝さん。新貝さんの言いたいことはこうかな、って思うんですよ。
今回、僕、右肩の作品はずっとコメントがつかないでいました。そこで、僕はこう考えたわけです。
「みんなコメントをくれない。コメントをくれていい人たちも全然書いてくれないで、人の作品にばかりコメントしている。悔しい、この素晴らしい詩の良さがわからないとは何事だ。大体あいつらの評なんて大したことないだろ。おれ様がちょちょいとあいつらのダメさ加減を暴いてやろう。
でも、フォーラムでやって人の目につくとみんなうるさいからな、ここでコッソリやればわかる人はわかってくれるだろ!
あ、そうそうケムリさんはここの代表だし、恐いしうるさいからちょっと外しておこう。
他にもうるさい奴は多いから、ちょっとへりくだってご機嫌をとっておいて、と。あいつら馬鹿だからだまされるよな。
 ああ、おれ様は天才だなあ、おれ様を喜ばせない奴は出てきゃいいのに。」
 嫌な奴ですよね。本当に最低です。ひと言いってやりたくもなりますよ、この馬鹿野郎。
 これはまったく誤解だと思いたい。そもそもの出発点は確かに、「最近はコメントつかないな。でも、自分が人の作品にコメントつけられないから当たり前か。つけたいけど、ものすごく消耗するしな。簡単にコメントをつけてくる人もいるけど、どうも違うよな。何でこんなに面白くないんだろう。頑張って書いている人も多いのに。」というところだったと思います。
 でも、とことん自分を悪意で解釈すれば、最初の「おれ様」もまったくないとは言えないよな、と思います。認めたくないけど。
 新貝さんは、「阿る」ってところにこだわりがあるみたいで、僕が何か卑屈なまでに低姿勢でいるのは腹黒いからだ、と思っているんですね。う〜ん。そうかもしれないけど、そればかりじゃない。
 僕自身のこだわりだけど、ネットでの発言も本人を前にして言えることをいいたいなと思っています。
それから、いつも我が身を振り返れるようにしたいな、と。
道徳的、っていうよりも、匿名のネット上だけでおれ様ぶって人を馬鹿にするキャラクターって、かっこ悪いし。みじめだし。周りの人もいい気はしないだろうしね。まぁ、それですかっとしたり、すごい人だと思ってくれる人もいるかもしれないけれど。僕はいやだ。
 そう思っていても、どこかに傲慢や偏見はあるものです。文章に直接表れる場合もあるし、臭ってしまう場合もある。僕が未熟だからでしょう。
そういう意味で反省しています。
 反省ついでに言うと、コーリャさんの仰るとおり、名前を挙げた人たちは、みな僕が「頑張ってコメントを書いているな」と思っている人たちばかりです。「こんなこと書いてどうするの、やだねえ」と思えてしまう人の名前は挙げていません。そんなこと思う自分はやっぱり恥ずかしいし、人を辱めてケンカを売るのもいやだ。
 でも、頑張っている人にはあえて言わないと「極道」の名が廃るし、卑怯だと思います。良さを認めて、乗っていく評が書きたいし、書いてもらいたい。読みたい。わがままかな。
 言うなら自分がやらなきゃいけないこともわかっているけれど、頑張るのは本当に疲れるし、悔しいけどやっぱり僕は非才だと思う。バンバン書ける力、読める力はありません。変なひとことコメントになってしまうならしない方がまし。
 最後に、コーリャさん。コーリャさんの作品には、何度もコメントしようと思ったけれどできませんでした。面白いと思ったけれど、面白さをちゃんと表現できず、鬱屈してしまいました。そういうふうな理由でコメントできない作品は多いです。阿っていませんよ、いや、100%の自信はないけど。
ユーザーのプロフィールを表示右肩 の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
評者(ケムリ)
Privileged
Privileged


登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 02:51 引用付きで返信トップに戻る

で、で、で。

長くなったんですけど。
文学極道的にこれは大事。ブンゴクは、読み手の「主観」をスゴく大事にします。「読み手は書き手よりエラい」これが基本です。つまり、ブンゴクに作品に投稿した以上は、自作品に向けられた評に対して

「あんたはそう思うかもしれない。でも、俺はそう思わない」

ってのは、ナシです。
まして

「あんたは作品が読めていない」

もナシです。絶対許しません。僕、キレます。3秒で発火します。
ブンゴクは、読者から返ってきた率直な主観の表明。「つまらない」「おもしろくない」そういうのを受け容れて、前に進むための場として、ダーザインが作りました。僕は、ダーのおっさんのこの考え方の下で育ちました。これは、変えません。絶対に変えません。ダーさんが戻ってきて「やっぱやめるわ」っていうまで変えません。

ちなみに、ダーさんが「やっぱやめるわ」って言ったら僕は文学極道を捨てて自分の詩投稿サイトを作ります。しかし、僕は根本的に「読み手重視主義」あるいは「読み手にとって面白い作品を書く」っていうダーザインの主義からこの場所に居ついた人間です。そこは譲れません。

読み手に求めるのは、自分の主観を純粋に主観として、つまりは「面白くない」ないし「面白い」というような一語を、可能であれば親切に表現することです。
「〜の理由で面白くない」と言っても、本質的にはそれは単なる主観の表明で、批評としての価値は無いです。言い切っちゃいますが、ブンゴクで行われる「評」の行為は95%批評的価値のないものです。でも、その純粋なる主観の表明、そしてそれを言語化する行為にこそ、敢えて価値を置こうとするのがブンゴクです。それが大事、なんです。

投稿者は、読み手の主観を受け容れ、読み手の主観の中で「面白い」作品を目指す。少なくとも、その建前は受け容れてもらう。それは、絶対です。譲りません。
しかし、それは一方で文学極道における批評のあり方を決定づけるものではありません。各人が、それぞれの目指す「批評」を追求してもらってまったく構いません。それは、大歓迎です。
これだけザクっと言い切って挑発した右肩さんがこれからどんな批評を書いていくのか、僕はとても楽しみです。イジワルな言い方ですが、本当に楽しみです。

また、多くの人がブンゴクのあり方に囚われない「批評」を考え、それぞれ切磋琢磨していくことは、ブンゴク本来のポリシーとはあまり関係のないことですが、素晴らしいことです。

それをする権利は、僕が必ず守ります。
それは、約束いたします。

今後とも、文学極道をよろしくお願いいたします。
ユーザーのプロフィールを表示評者(ケムリ) の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
右肩
Member
Member


登録日: 2009.11.07
記事: 62

グループ: 
[Auths ]

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 03:10 引用付きで返信トップに戻る

上のコメントはケムリさんのコメントを読む前に書きました。
まったくおっしゃるとおり。何か尖ったことを言い返すのも面白いかも知れないけれど、読み終わった時点で思いつかないですね。
ひと言コメント。主観に基づく断言。僕は面白くないと思うし、間違っていると思う。
でも、直接的な嫌がらせでない限り排除する理由はありません。
いわゆる「ポエム」もそう。
僕には排除の権限もないけど。
まったくそういうものがなくなったらコメントのハードルが高すぎるし、開かれたサイトとしての存在の意味もなくなってしまう。
みんながそんな評や作品ばかりになったら、嫌だな、と思って僕は離れるだけです。
どうもケムリさんと似たことばかり言っていて、それもいかがかと思うけど、しょうがない。
ケムリさんが実際どんな人かはよくわからないし、とんでもないヤンキーだったらアレだけど、ここで主張していることには賛同するしかないです。

批評スタイルの総括、勉強になります。
ユーザーのプロフィールを表示右肩 の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
新貝
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 03:28 引用付きで返信トップに戻る

ケムリくんの意見は乱暴だな 。のたうち廻っている趣だ 。何?理論家の名前持ち出してわかったようにご託を述べているが、全部自分勝手な決めつけじゃないか、お話にならんよ。まだまだ青い印象 。君たちのコメント読めば共通して感じられるのは悪意だけ。
それで、右肩さん。あなたは 少し休みなさい 。精神的に破綻の兆候がみられますが、 まぁ好きにすればいいさ 。
新貝
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 04:37 引用付きで返信トップに戻る

大体さ、投稿作品に付いた批評の云々を持ち出すまえにもっといい作品を書けよ おまえら って言うのが先だろ? 違うのかい 。
右肩さんも何が気にいらないのだろうか。
其々各自の主観で読みにかかっている批評に、当然いい加減なレスが付くのは覚悟の上ではないのか?それが嫌なら他スレで書くような姑息な真似はしないで、自分に付いたレスではっきり言えばいいことだ。いままでそうではなかったのか。だからこうしてフォーラムで上げればいいのさ 。それを指摘しないで最初から擁護にかかるケムリくん。これも外部からみて代表の立場を考えると、筋違いな依怙贔屓には取れるが、君はここじゃ帝王なんだからな。まぁ好きにすればいい(笑)俺は投稿をしないんだからさ 。 では 。
泪
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 12:02 引用付きで返信トップに戻る

批評で大事なのは、簡潔に自分の考えを伝えることだと思っています。

伝わらないコメントは糞だと思っています。

批評が作品なら、伝わらない言葉でも良いのか
評者に合わせた批評を行わず
唯々独りで突っ走る批評
それって確かに作品にはなりうるかもしれないけれど
批評の目的が変わってきてしまっていますよね

それともそういった感じ方こそが間違えで

批評は初めから作品で
筆者に伝わらずとも問題はないというのが正しい感じ方なのでしょうか

とても疑問に感じている点です。

m(__)m
泪
未登録ユーザー





グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 12:04 引用付きで返信トップに戻る

、すみません、上記は評者にではなく、筆者にです。m(__)m
評者(ケムリ)
Privileged
Privileged


登録日: 2011.07.26
記事: 148

グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 14:04 引用付きで返信トップに戻る

え、俺新貝さんdisったけど
田中さんに暴言吐いた記憶はないけれど。新貝さんの他人の文章をよく読みもしない、理解しようともしない姿勢、そのくせご意見番を気取ってこの場所にへばりつき続けるうざったさにいい加減飽き飽きしただけですよ。

田中さんは「自分は人間を理解したいと思っている」というような旨の短文レスをつけてたよね。それに対して、僕は何らコメントしていないけれど。

申し訳ないが、僕も殴っていない人間に「殴られた」と言われたらそれはカン違いだと答える。他の場所で明確に僕への敵意を示した以上、田中さんそこだけ説明してから消えてくれないか。

僕は田中さんをバカよばわりした覚えはない。
僕のコメントのどのような部分が問題だったのか、正確な指摘をお願いしたい。繰り返すが、僕は田中さんに何一つコメントをした覚えがない。
ユーザーのプロフィールを表示評者(ケムリ) の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
浅井康浩
Privileged
Privileged


登録日: 2009.11.10
記事: 268

グループ: 
[Auths ]
[Execs ]

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 22:17 引用付きで返信トップに戻る

なんか、ケムリさんが、論点は出してくれたので、補足するつもりで書きます。

補足なんで、流れがズタズタです。
上記の流れを一度確認してください。
あと時間ないので、引用に頼り切ります。


まずケムリさんのこの文章。

読み手に求めるのは、自分の主観を純粋に主観として、つまりは「面白くない」ないし「面白い」というような一語を、可能であれば親切に表現することです。

これを補足するならば、以下の文章になると思う。



批評とは何より意見陳述であるべきです。文章のうまさをひけらかす場所ではありません
作品についてのあなたの考えをはっきいりつたえるために、全エネルギーを集中してください。作品についての知識や情報を得るために、限界まで時間と労力を費やして調査・分析してください。そうしてあなたならではの考えをしっかり固めてください。そうすれば、自然とあなた固有の批評のスタイルが生まれてくるはずです

ダメな文章とはどんな文章でしょうか

論旨が不明解
展開の無理、論理性の欠如
文章表現の未熟
新鮮味の欠如

おおよそ以上のような問題点があると、わたしたちはその文章について感動を覚えるどころか「読むだけ無駄だった、なにも得るものがなく、たんなる時間つぶしにしかならなかった」という印象をうけてしまいます            (杉原賢彦)





あと、なんでアカデミックは批評が大切なのか、という基本的なことについては、以下の文章を参考にしてほしい。


文学を読むのに理論はいらない、という考え方がある。自らの感性を頼りに素手で作品にたち向かえばよい、というわけだ。一見もっともらしい意見であるかにみえる。しかし、何よりも注意を要するのは、まさしくこの「感性」とか「素手」いった言葉である。私たちは、自らの言語的、心理的条件、あるいは私たちをとりまく文化的、社会的、政治的などの論状況が複雑に絡み合うコンテクストにおいて読むほかはなく、そもそも感性なるもの自体がそうしたコンテクストの産物にはかならないからである。たとえばフェミニスト批評が明らかにしたことの一つは、私たちの文学活動そのものが男性中心の文化に支配されており、そこにあっては女性自身も男性文化の消費者たることを強いられているということであった。そうだとすれば、いかなるコンテクストをも捨象して、素手で作品を読むなどということは、それこそ理論的抽象としてしかありえないと言うべきであろう。
 今日の批評が〈読む〉ことそれ自体を問題視するようになったのも、読むことが孕む制度性が避けがたい条件として認識されるようになったからにほかならない。もちろん〈読み〉への注視は、アメリカにおけるかつてのニュー・クリティシズムが「精密な読み」を標榜していたことからもわかるように、何も今にはじまったことではない。ある意味で、〈読み〉は文学においてつねに何らかの形で問題にされてきたと言える。文学テクストの研究が必然的に読むという行為に依存しているのは自明のことであるし、テクストについて語るためには、そのテクストを、たとえその一部であれ、読まなければならないと言ってみたところでそれはトートロジーにすぎないだろう。しかし、今日の批評は読むという行為に対してはるかに自覚的な注意を向けている。読むことは、もはや作品を解明するためのたんなる手段、あるいは技術と考えられるのではなく、およそあらゆる批評的営みに介在するはずのもっとも基本的な行為として、それ自体が意識的に省察されるべき問題となってきたのだ                   (武田悠一「読みの抗争」)





あと右肩さんの

主観に基づく断言。僕は面白くないと思うし、間違っていると思う。

ということについては、読みのスタイルの問題。
主観に基づく断言について、その意義についてかかれた文章は、(美術批評になるけど)以下のようなもの。


優れた美術批評はいきなり結論を明示するスタイルで書かれている場合が意外に多いのである。なぜこのような支離滅裂な構成が可能なのか。それはやはり、美術批評というジャンル特有の性質が大きい。ことは美術に限った話ではないが、批評とは個人の主張を前面に押し出した言説であり、しかも多くの場合その主観は客観的な根拠に乏しく、個人の勝手な思い込みに由来している。例えば、藤枝晃雄がデビューして間もないアーティスト・川俣正の作品を「川俣のインスタレーションは、吹き抜けの会場空間をわがものにし変容させる時空構造を作り上げていた」と賞賛した一節はその典型であろう。藤枝は川俣を高く評価していたが、当時の川俣にはまだこれといったキャリアがなく、その評価にはたぶんに思い込み、感情移入といった側面が強かった。こんなとき、逐一自分の主観に基づく理由を挙げて、最後に「ゆえに川俣は優れたアーティストである」などと結論づけていたのではおよそ説得力に乏しい。それならばいっそのこと、冒頭からいきなり一川俣は優れたアーティストだ」と自分の見解を明示し、その後でそのように判断した根拠を挙げていったほうが、読者に対して与えるインパクトは明らかに強い。まだ評価の定まっていない現代美術を主な対象とし、また著者の独断に基づく価値判断が客観的な根拠に優先する美術批評ならではの文章作法とでも言うことができる

アカデミズムの対比でもわかるとおり、文章作法の基本を無視して、最初から結論を述べることが許される美術批評とは著者の自由度の高い言説である
だがこの自由さは厳しさの裏返しである
美術批評は個人の主観や思い込みに依拠する部分が大きいのだが、その主張がただ垂れ流されているだけでは単なる妄言に過ぎない
批評家が作家を高く評価しても、ただそれだけでは何の意味もない
この場合、作者がその後頭角を現し、社会的な評価を得るようになってはじめて、その才能をいち早く見出した先見性が評価され、社会性を獲得するのである
客観的な根拠に乏しい美術批評が、何らかの社会性を持ちえるとすれば、それはその批評家の価値判断が読者から支持を得て、社会的に認知されたときをおいてほかないだろう

結論とは、著者の主張、価値判断が凝縮された部分である
その意味では、美術批評の核心はやはり結論にあると言うべきだろう
現にここに書かれている文章を通じて、自分は何を言いたいのか
客観的な根拠を明示できるのであればそれでよし、なければないで、自分の主観に基づく価値判断にいかにして説得力をあたえ、読者の支持を得るか
結論をいかに展開するのかは、その批評の命運を左右することになるだろう
結論を冒頭に置くのか、お約束通り最後に置くのは作者の自由である
その文章が批評として有意味なのかどうかを最終的に決定するのは、その主張の内容や質であって、文章の形式ではないのだから   (暮沢剛巳)





c.) 「だからお前らおもしろいレスつけろよ!」
>いかに対象とする作品の魅力を開放し、読むものを楽しませ得るか。それを考えて批評し鑑賞する

というのも「主観の断言」と同じように読みのスタイルの問題。
効果をどこにおくかだけの違いだと思う。

受容理論あたりが、その源流になるのかな。受容理論については以下のような考え方。




受容美学が打ち出した考え方によれば、読むことはテクストの内に隠された意味を探し出すことではなく、テクストと読者の相互作用によって、意味を生成する過程そのものを経験することである。
こうした批評の立場は「読者論」として拡大され、現代の文学批評において〈読者〉が占める位置の重要性がますます強調されるようになった。たとえばフェミニズム批評は、読者のジェンダーを問題にし、人間として(ということは、男として)ではなく、女として読むというところから出発している。
 文学作品の本質は、たんにその生産過程を検討するだけでは解明できない。文学は、むしろ生産および受容からなる、作者と読者の弁証法的な関係の過程として捉えなければならない。ヤウスが目指しだのは、この弁証法的な関係を明らかにする文学史の構築であった。作家や作品を年代順に取り上げ、時代的傾向や流派に分類して整理したり、影響関係を探ったりするだけの文学史ではなく、文学作品が歴史的コンテクストのなかでどのように「受容」されていくのかを記述する文学史である。そして、こうした試みから生まれてきたのが「期待の地平」という考え方だ。
 「期待の地平」という概念は、ハンス=ゲオルグ・ガダマーの解釈学的理論を受け継いだものであり、ヤウスによれば、どのような経験においてもそうであるように、作品をはじめて知るという文学的経験にも、必ず何らかの予備知識や先人見あるいは偏見がある。「文学作品は、たとえ新刊であっても、情報の真空状態でまったく新しいものとしてあらわれることはない。(……)その作品はすでに読んだものの記憶を呼び覚まし、読者に一定の情緒を起こさせ、すでにその始まりから「中間と終わり」への期待を作り出している」。この期待は、読み進むうちに、そのまま保たれるか、方向を変えられるか、場合によっては解消させられることもあるのだが、いずれにせよ、このような「期待の地平」、すなわちテクストを前にした読者が前もって持っている美的知覚の枠組みがあってはじめて、テクストの読み取りが可能になるというのである。   (武田悠一「読みの抗争」)



で、実際に問題となってくるのは、コーリャさんのいう

ほかけさん的な「作品に即して鑑賞し、その鑑賞を表現として練ろうとする」スタンスでありつつ「楽しめる解釈」「胸躍る鑑賞」「独立した強度を持つ鑑賞文」の要件を満たすレスということですね。それでもやっぱ具体的じゃないじゃん、やり方がわかんねーよ、ってひといますかー?

ってことなんだけど、吉田秀和の批評、って読んだことある?
楽しめる解釈、ってことで一番に名前が挙がるのは、彼なんだけど彼の批評の特色をあげると、以下のようなものになる。


 その文章は、一見するとエッセイと批評の中間をいくようなスタイルをとりながらも、最終的に個々の作品批評や演奏家論を超え、広い意味での音楽のあり方や、ひいては文明批評に結びつくことが多い
 まず書き出し。「寺田悦子の独奏会をはじめてきいた。良かった」。「元日はNHK教育テレビで能とオペラをみた」。「先日のゼルキンにはほとほと感服した」。一歩間違えば小学生の作文かと見紛うばかりの、直球ぶりである。だが、この一点の曇りのないストレートさが、読み手をズバッと引き込むばかりか、文章全体に独特のリズムを与えていることは否めない。著者の豊富な文学体験の蓄積(中原中也にフランス語を習い、大岡昇平や小林秀雄と親交を持った)とそれに裏づけられた自信がなければ、こうもはっきりと書き出すことは不可能だろう。
 次いで、著者の個人的な生活体験を色濃くにじませ、読み手が批評文に対して抱きがちな警戒心を解除する、巧みな話術。ブルーノ・ヅァルターの指揮ぶりを論じた文章では、なんと最初にNHKのラジオ体操に話題を振っている。「いかにも健康そうな若い女性がでてきて、のびのびと身体を動かす」。いったい何か始まるかと思ったら、今度は来客のヨガの話が続き、そうして「それを見ているうち、急に目の前にブルーノ・ヴァルターの指揮姿が鮮かに浮かんできたので、びっくりしてしまった」とくる。びっくりするのは、こっちのほうである。
 結局、著者が述べたかったのは「音楽と呼吸の深い関係を、彼くらい自然に、全面的に示す人はなかったからではなかろうか」というヅァルターの指揮の特徴である。この間、著者はいっさい音楽用語を用いず、ラジオ体操をはじめとする視覚的なモチーフだけで、読者を見事に説得してしまう(著者が視覚的なモチーフを偏愛するのは、文章修行のために相撲の一番を日々ノートし続けたという逸話とも、深い関係があると思われる)。
ここ十年ほど、吉田は音楽専門誌に寄稿する際、曲の譜例を文章中に併記するようになったが譜例はおろか、専門用語すら用いず論旨を展開していく力技こそ、やはりこの人の文章の真骨頂だと思われる。
例えば「メングルベルクばりのべたべた主義とは逆にすっきりした行き方だが、それでいて適度な哀歌的味わいや強い憧れを秘めた清新な叙情性が、心に感じたままを正直に音にする演奏となって、流れ出してくるといった調子だった」(ワールト指揮ロッテルダム・フィルのマーラー演奏の批評)というように。かつて吉田は、音楽用語をまったく用いずに音楽の本質をえぐり出したボードレールを賞賛する文章を書いたことがあるが、おそらく吉田が理想とする批評の在り処も、そこなのではないかと思われる。(前島秀国)




専門用語すら用いず論旨を展開していく力技、ってところがすごいんだけど、これも文学に置き換えて書けば、「楽しめる解釈」「胸躍る鑑賞」「独立した強度を持つ鑑賞文」の要件を満たすレスになるのじゃないのかな、と思う。



でも、吉田秀和は、楽しめる解釈だけでなく、自分が良くないと思ったことをはっきり伝える批評もしている。世界的なピアニストを「ひび割れた骨董品」と言い切った批評が以下のもので、



私は人間をものにたとえるのは、インヒューマンなので好きでない。しかし、今はほかにいいようがないので使わせていただくが、今私たちの目の前にいるのは、骨董としてのホロヴィッツにほかならない。骨董である以上、その価値は、つきつめたところ、人の好みによるほかない。ある人は万金を投じても侮いないかもしれないし、ある人は一顧だに値しないと思うかもしれない。それはそれでいい。
 だが、残念ながら、私はもう一つつけ加えなければならない。なるほど、この芸術は、がっては無類の名品だったろうが、今は―最も控えめにいっても―ひびが入ってる。それも一つやニつのひびではない。
 彼の演奏では、音楽が続かなくなった。少し進んだかと思うと、ひびの割れ目におちて、音楽がとぎれてしまう。忌憚なくいえば、この珍品には欠落があって、完全な形を残していない。
 それは特に、ピアニストが絹糸のような繊細で強靭な弱音で、陰影の濃い音の生地を織り続けようと努力しているとき、特に際立ってみえてくる。それは、もう、音の出来事というより、心の中の出来事と呼ぶにふさわしい。そこにある種の感動を誘う力がないわけではない。ピアニストは、音が全く消えたわけではないことを証明するかのように、思いがけぬ力強さでバスを鳴らしたりする。それは必ずしも、いつも、前後との論理のつながりが明らかでないので、聴衆を驚かす効果に終ってしまうことが多い。個々の音の輪郭が
はっきりしない場合もよくある。それは子音の発音が明確でないので、意味の通じにくい、この人の話し方を連想させずにおかぬ。(吉田秀和「言葉のフーガ 自由に、精緻に」)


自分の価値観のモノサシを信じて批評することの典型的な文章だと思っているのだが、どうだろうか。
ユーザーのプロフィールを表示浅井康浩 の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
右肩
Member
Member


登録日: 2009.11.07
記事: 62

グループ: 
[Auths ]

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 22:23 引用付きで返信トップに戻る

新貝さん。
 何を怒っているのかまったく理解できません。
まさか僕のコメントの、

> 嫌な奴ですよね。本当に最低です。ひと言いってやりたくもなりますよ、この馬鹿野郎。

というのを新貝さんに向けたものだと思っているわけではないでしょうね?それは明らかに違うでしょう。
 それから、「阿る」という言葉を何回か使っている点。
これも悪意ではなく、全体の調子が反省を主調としているので、それを曲解されたくないというので使っています。

>精神的に破綻の兆候がみられますが、 まぁ好きにすればいいさ 。

これは悪意ですか?そうではないですか?
「精神的に」が「兆候がみられます」という述部にかかるのは意図的なのかな。「精神に」とどう違うのか。よくわかりません。
ユーザーのプロフィールを表示右肩 の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
未登録ユーザー






グループ: なし

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 22:37 引用付きで返信トップに戻る

右肩さん、GENKOUです。

スレッドの立ち上げ、大変勇気のいったことだと思う。きっと今も、苦しんでいらっしゃるだろう、と思う。当然に私も、今日1日、日常業務はほとんど放棄した状態、記事について悩んだ、先ず送ろうか、送るまいか、(文学極道に参加し、レスや投稿のたびに、私などたびたび起こり得る話しだが、しかしそれでもそのリスクを負ってでも…やはりそれだけ魅力、やはりそれだけに詩を求めている、のは私も右肩さんと同じように、技術レベルは違うが)そして、右肩さんのこの書かれたメッセージ、該当するのは、ほかでもなく、私にも宛ててくださった。と思い、読ませてもらった。自分の心痛極まる内で貴方の人間味を感じた、人間性ではなくて人間味である。自分の身の振り方を今即決できないが、いずれ決めなくてはいけないだろう、と考えている。この件の発端の第一人者と理解している、、、

ただ私は、罵倒や酷評の幾多は、一人と一人。(面と出会った人は、一人二人でも、たとえ嫌われようが、考えが違おうが、第三者にも目の敵にされようが、相克していける、(お互いが創作してる二者間の、参加者、パブリック、(同志という言い方は少し変であるが、)

接触の(コンタクトの)レスの仕方が、作品性についての言及を超えてしまっていたのだから。右肩さんのサイトの望むビジョン、はっきり提言くださったこと、大変有意義なスレの立ち上げをされた、

a-rimbaud2patti3genkou@docomo.ne.jp

無理かもしれないが、もしコンタクト、くださったなら、募る想いもあります。個人的繋がりは依怙贔屓になってしまうから、サイトアクセスは、自身は今後控えるとしても、もし、何でも、一言でもくださったなら、私は救われる。

今迄も、これからも、尊敬する方の一人として、私は遠くからでも読みにきます。


評者さん、私のようなホントに困り者の一人だったが、いろんなことを教わったし、読ませてもらった。批評についての、このあるべき姿、ありたい姿、をはっきり明示してくれた。確かに私は、作者主義の読みに片寄っていたのだ、と思う。評者さんが投稿してくれた作品でコメントして、返してくれた、この言葉を思い出す。自分には、その時、よくわからなかった。なんでそんなにショックなのか?、と。しかし、その後のいろんなコメント内容を読み、、一点だけ、そうした作者主義的詩よみが、どうして文学極道の詩の評として、いけないのか?不都合なのか?教えてくれたら?

私は、、詩へ求めていくベクトルが、サイトのポリシーと全く相容れなかったし、相容れる部分もあった。

その二者択一のウェイトも天秤に計れないでいるのだが、私は私なりにこの詩のサイトを、自分でできるやり方で盛り上げようと努めてきたのだけれども、なかなか上手くいかなかった。
でも、これからも、応援してる。東京に行ったなら、もしもその店を教えてくれたら、いつか出逢い。必ず熱く握手を握る。

今私が言えることは、これくらいです。

日本の文学の詩(ネットでも)その先端部を一人一人でも、その手で紡いでください。

ありがとう。
右肩
Member
Member


登録日: 2009.11.07
記事: 62

グループ: 
[Auths ]

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 22:56 引用付きで返信トップに戻る

浅井さん。
 言葉が足りませんでした。最初の言葉の足りなさが論の展開を歪めた。自分の論も、レスポンスも。

>主観に基づく断言。僕は面白くないと思うし、間違っていると思う。

の部分です。正確には、「主観に基づく断言だけで終わってしまい、他に何もない文章。僕はそれは面白くないし、それだけを他人にぶつけて去って行くという態度は間違っていると思う」となるべきでした。
 主観だろうがなんだろうが、それが読み手を驚かすほどの強度を得て、ぬぐい難い存在感を残すのなら立派な批評文であり、鑑賞文と言えるでしょう。
仮に例に挙げられた吉田秀和さんのような調子で罵倒されたら、悔しいかも知れないけれど、十分納得できるに違いありません。木戸銭を払ってもいい。
 「評言は作者の望んだかたちでばかり与えられるものではない、甘受せよ」と言われればその通りです。甘受します。でも、それとは別に「作者の望むかたち」を表明するのはそんなに悪いことではないと思うんだけどな。
 電車で足を踏まれたマゾヒストが、「どうせ踏むならピンヒールのかかとでこの辺を踏めよ!」と怒るのとは違います。違うと思うけれど。同じ?ちなみに僕はマゾヒストではないので「この辺」をどの辺にしたらいいのか、まったくわかっていません。
ユーザーのプロフィールを表示右肩 の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
右肩
Member
Member


登録日: 2009.11.07
記事: 62

グループ: 
[Auths ]

記事日時: 2012.10.04 (Thu) 23:27 引用付きで返信トップに戻る

泪さん。

>批評で大事なのは、簡潔に自分の考えを伝えることだと思っています。

「自分の考えを伝えること」は大事だけれど、それが「簡潔」でなければならない理由は何でしょうか。「簡潔」の反対語は「煩瑣」ですが、これはそれぞれ「潔」、「煩」、「瑣」という価値判断を含んでいます。「丁寧に、字数を惜しまず自分の考えを伝えること」は大事ではないのですか?

>伝わらないコメントは糞だと思っています。

誰に対しても絶対に伝わらないコメントは、それは無価値でしょう。無価値であるという価値はあるかもしれませんが。でも、伝わらない対象がその作品の作者に限定された場合、伝わらない原因は相手にあるかも知れませんから、一方的にダメと言い切るのも早計でしょう。

>批評が作品なら、伝わらない言葉でも良いのか
>筆者に合わせた批評を行わず
>唯々独りで突っ走る批評

それはおかしな批評ですね。僕はどこでそんな批評をしたいとか、読みたいとか言っているでしょうか?あなたは何と戦っているんですか?
あなたの言うところの「批評は初めから作品で 」という前提すら、それが必ず「筆者に伝わらずとも問題はない」という結論に結びつくとは思えないのですが。
「(相手が正しい受容の態勢を整えているにも関わらず、批評が)筆者に伝わらずとも問題はないというのが正しい感じ方なのでしょうか」
と言われれば、それは僕だってとても疑問に感じますが、その前に泪さんの文章と論理の在り方について、疑問を感じています。
ユーザーのプロフィールを表示右肩 の記事をすべて検索プライベートメッセージは無効です 
特定期間内の記事を表示:      

新しいトピックを投稿トピックに返信


 移動先:   



次のトピックを表示
前のトピックを表示
新規投稿: 不可
返信投稿: 不可
記事編集: 不可
記事削除: 不可
投票参加: 不可


Copyright © BUNGAKU GOKUDOU
Powered by phpBB © phpBB Group :: FI Theme :: All times are GMT + 9 Hours
Traduction par : PHPBB JAPAN :: BUNGAKU GOKUDOU