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現行ログ検索結果 (投稿者)
9263 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/13 16:53:12 *1)
ぼくには、ぼくの作品に似ているとはまったく思えないのですが。語の選択に関しても雰囲気に関しても。
9263 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 00:11:21 *1)
5or6さんへ
5or6さんが似ていると思われれば似ているのですよ。ぼくが似ていないと思えば似ていないし。けっきょく、読者の数だけ、読み方、受け取り方、感じ方があるのですし、それって、とても基本的なことであり、健全なことだと思っています。9219 : 全行引用による自伝詩。 田中宏輔 ('16/11/01 00:00:11)
(…)物哀しげな空には雲一つなく、大地はまさにわれらが主イエス・キリストに倣って吐息をついているかに見えた。そのような陽光のみちあふれる、物哀しい朝には、わたしはいつも予感するのである。つまり自分が天国から締め出されてはいないという見込みがまだ存在し、わが心のうちの凍てついた泥や恐怖にもかかわらず、自分には救いが授けられるのかもしれないということを。頭を垂れたまま貧相なわが借家に向って砂利道を登っているとき、わたしは、あたかも詩人がわたしの肩辺に立って、少々耳の遠い人に対して声�發妨世Δ澆燭い法▲轡Дぅ匹寮爾�「今夜おいでなさい、チャーリー」と言うのを、至極はっきりと聞いたのである。わたしは畏怖と驚異に駆られて自分の周囲を見まわした。まったく一人きりだった。すぐさま電話してみた。シェイド夫妻は外出中ですと、小生意気な小間使(アンキルーラ)、つまり日曜日ごとに料理をしにやって来る、そして細君の留守中に自分を老詩人に抱かせることを明らかに夢想している、不愉快な女性ファンが言った。(…)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)
(…)シュタイナーによれば、われわれは生まれる前に自分で運命を選びとったのであるから、それを嘆くのは見当ちがいだという。
それでは、どうして人は美男子で金持ちで成功者であることを選びとろうとしないのだろうか。それは、霊の目的は自らの進化であり、幸運や成功はそれを阻む作用をするからなのである。霊的な進歩は、霊界においてではなく、地上においてのみ行われるのである。
『神智学』には「認識の小道」という最終章がある。ここでは、人間はどうしたら超感覚的認識を獲得することができるようになるかが説明されている。数学は、認識の小道のためのすぐれた準備段階であるが、それは論理、離脱、非物質的実在への集中を教えるからだとシュタイナーは言う。換言すれば、「見者」にとってまず必要なのは科学的態度であり、心は混沌から秩序を創り出すことができるという確信である。外的な力がどんなに強力で人をまごつかせるものであろうとも、人間はそうした力にもてあそばれるよるべない存在なのではない。最初の段階は、人間は利害などから離脱することができ、自分の心を、混乱の中を進むための羅針盤として使うことができる、という事実を認識することである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』7、中村保男・中村正明訳)
楽しみがほしければ、〈灯心草〉がいた。シロが草を食(は)み、ブロムが狩りか昼寝をしているあいだ、ぼくは、あのときブーツが教えてくれた〈灯心草〉の径を歩いて過ごした。ぼくは彼のことが好きだった。彼にははてしない数の内部があるみたいだった。そうした暗い隅や奇妙な場所で、〈灯心草〉は世界と、言葉と、ほかの人々と、知っているもの好きなもの嫌いなものと結びついていた。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)
「それに、そういう手袋にまつわる物語も知っている。たぶん、その手袋の話じゃないかな」ある場所──たったひとつの小さな場所、点とさえいえそうな場所──があって、そこで、ぼくの人生にあるものすべてが交錯した。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)
(…)駆け降りる前に、丘の上から僕に手を振るが、そんな彼女を音楽が包みこんでいる、そう、僕の目が生み出す音楽、ぼくの嗅覚が生み出す絵画、僕の聴覚が生み出す味覚、ぼくの触覚が生み出す匂い……僕の幻覚……(…)
(フエンテス『女王人形』木村榮一訳)
彼らの運命は耐えて進みつづけることであり、しかも最終的には人間的な、あらゆる事物への敬意のしるしとして、それを忘れないことだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・4、山高 昭訳)
人間の魂の中の何かが、ためらいを感じるのだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・2、山高 昭訳)
痛みには、痛みの記憶以上のものがある。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・3、山岸 真訳)
ポールは一瞬、相手に共感して心を痛めた。だが、共感から同一視まではあと一歩。ポールはその感情を押し殺した。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・6、山岸 真訳)
(…)投げられたあらゆる爆弾、あらゆる銃弾や矢や石はいまだに悲鳴をあげる標的をさがしているのか──(…)
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『けむりは永遠(とわ)に』小尾芙佐訳)
彼女たちはすべてをさらけ出しているが、何も明かしてはくれない。
(J・G・バラード『覗き見の視線』木原善彦訳)
(…)これらの作品は一体として見ると、第二次世界大戦の強力かつ感動的な記録であるのみならず、戦争がその場にいた芸術家たちに及ぼした影響をも同じように記録しているのである。
(J・G・バラード『戦場の画家』木原善彦訳)
今日、生まれ故郷の町にそのまま住んでいる人がどれくらいいるものか、わたしはよく知らない。だが、わたしがそうであるせいか知らないが、そうした町や市がしだいに衰退してゆく姿は、いうにいわれぬ悲しみを人の心に感じさせるものだ。それは友人の死よりもはるかに辛い。友人はほかにもいるし、他の友人に心を移すこともできるが、生まれ故郷はかけがえのないものだからだろうか。
(ジャック・フィニイ『盗まれた街』12、福島正実訳)
暖かい楽しい気分になってきた。人々と交って、いつもの考えごとを忘れてしゃべるというのはたしかに楽しいことだ。わたしは今、いったい何をしようとしているのだろう。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』3、井上一夫訳)
わたしは五番街に行った。わたしの歩きたい街だ。若さと希望にあふれて、それはわたしの世界、わたしの町、わたしのものというような気がした。歓喜の味を味わい、心は喜びに充ちて、順風に帆を上げたような気持だった。風の吹きぬける高いビルの間の道は色とりどりの美しい飾り窓がつらなり、女の人の美しいすました顔があり、すべての上に太陽が輝き、その太陽と風が……。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』5、井上一夫訳)
小鳥が雨樋のなかで夜明けを奪いあっていた。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)
(…)大儀そうに、彼女は各種の壜やチューブから、じっさいにはもはや二度と所有することはないと思われる生命と暖かみを、おのれの顔の上につくりだそうと骨折った。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)
(…)どこかで銃声が聞こえた。カウリー街、むかしのオクスフォードの中心を指してのびているこの長い、雑然とした商店街では、正面を板で囲ったり、破壊されたりしている建物がしばしば眼についた。舗道にはごみが堆(うずたか)く積もっていた。一、二の商店の店先には、買物の老婆たちが列をつくっていた。だれもみな無言で、てんでんばらばらで、上昇する気温にもかかわらず、スカーフで口もとをおおっていた。ウィンドラッシュの巻きあげた旋風が、彼女らの破れた靴のまわりで渦を巻いたが、女たちはまったく無関心だった。その姿には、零落のもたらす一種の威厳に似たものがあった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)
(…)一同は坐って食事にとりかかった。徐々に霧がうすれ、周囲の風物がしだいにはっきりしてきた。果てしない大空と、その大空の影を映して、世界は拡大していった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』7、深町真理子訳)
(…)そのうち徐々に、教室の雰囲気が変わってきていることがわかった。あの耐えがたい緊張は去り、あの無意識の抑圧、警戒心、油断のなさ、禁じられているものをほしがることへのうしろめたさ、などは消えていった。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)
彼女が、あまりにもせつなげな身ぶりをするので、かえって彼のほうがせつなくなった。彼は自分で思っている以上に、彼女を愛していた。なぜかというに、彼はこのときすでに自分のことは忘れていたほどだから。
(ケッセル『昼顔』九、堀口大學訳)
「でも、どうして子供たちが彼女をからかうのをほうっておおきになりますの?」わたしは発作的な憤怒がこみあげてくるのを感じた。
彼女はけわしい目でわたしを見た。「�爐曚Δ辰騰瓩�くわけじゃありません。子どもというのは、いつの場合も、毛色の変わっている人間にたいして残酷なものですよ。あなたはまだそんなことにも気づいていないの?」
「いいえ、気づいていますわ。ようくわかっていますとも!」わたしはかすれた声で言い、ふたたびあの、じわじわとした冷たい氷のような記憶にたいして、身をちぢこめた。
「感心したことじゃないけれど、世間にはありがちなことなのよ。すべてに正しいことが通用するわけじゃありませんからね。ときには、慣れて感じなくなることも必要だわ」
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)
「いやよ、マーク!! いや! いや! いや!」とメァリーは悲鳴をあげ、壇のほうへ引きずられながら恐怖のあまりに大小便をもらす。マークは使い捨てたコンドームの山の中の壇の上に、縛り上げたメァリーをほうり出したまま、部屋の向う側へ行ってロープの用意をする…… やがて輪なわを銀の盆にのせてもどってくる。彼は手荒くメァリーを引き起こし、輪なわを首にかけて締める。そして彼女を突き刺し、ワルツを踊るように壇上をまわってから、ロープにぶら下がって空中に飛び出し、大きなアーチを描く…… 「ひい━━」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。大きな波のうねりが彼女の全身を通り抜ける。ジョニーは四つんばいになって、若いけもののように柔軟な身のこなしで機敏に身がまえる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)
ナツメヤシは水不足で枯れた。井戸は乾いたうんこと何千もの新聞紙のモザイクであふれている。「ソ連は否定……国務大臣は悲痛に訴える……落とし板は十二時に落とされた。十二時三十分、医師は牡蠣(かき)を食べに外出し、二時に戻って絞首刑になった男の背中を陽気にたたく。『なんと! まだ死んどらんのかね? こりゃ脚をひっぱってやらんといかんようだな。ふぉっふぉっふぉっ。こんなふうにだらだらと窒息してもらうわけにはいかん。大統領に叱られてしまうわい。それに死体運搬車に、生きたままのきみを運び出させるなんてみっともないからね。恥ずかしくて睾丸が落ちてしまうよ。それにわしは経験豊かな牛のところで訓練を積んでおる。一、二の、三、それ引け!』」
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)
目の前に銀の粒が湧き出る。今から何百年もたったあとの廃墟と化した中庭に私は立っている。何物の、何人の匂いも嗅げない死の都を訪れる悲しい亡霊のようなものだ。
少年達は記憶の中で揺れ動いている影で、遙か昔に塵となった肉体を喚起している。使うべき喉もなく舌もなく私は呼ぶ、幾世期をも越えた彼方へ向かって呼び続けるのだ、「パーコ……ジョセリート……エンリケ」と。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)
私は丸い小さな箱をもっている。中には羊皮紙に似た紙に数多くの光景が描かれ、折りこまれている。紙をめくるとそれが生き生きと動きだす。前髪のところまでコンクリートの中にはまりこんでいる雄牛が数頭いる。今度は十八世紀の衣装をまとった二人の少年と二人の少女が金色の馬車からおりてきて裸になり、オルゴールの調べに合せて踊り、つま先でくるっと回転する。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)
私は傾斜の険しい木の段々を昇り、かつての玄関ポーチへ行く。金網はすっかりさびていて、網戸の蝶番ははずれている。南京錠をはずし、玄関のドアを押し開ける。廃屋のかび臭さが鼻を打ち、冷気が肌に感じられる。熱い空気が私の後ろから中へ入りこむ。外の空気と中の空気が混じり合う空間に熱波らしき霧状のものが目に映る。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)
よく考えてみると、こういう羨望混じりの感嘆の念は前にも味わったことがある。だが、あれは気が弱くなっている時に、異性愛者に対して抱いた感情だった。そうだ、おれはある時期、異性愛者が自分の生まれた社会と見事に適合しているのに感動したことがあった。異性愛社会には、まるで揺り籠の足元に置いてあるおもちゃのように、いろんな物が揃っている。まずは性教育、感情教育をしてくれる絵本に始まって、童貞を捨てに行く売春宿の住所、初めての情婦の写真、それから結婚式の日取りが書かれた未来の婚約者の写真、夫婦の財産契約書に、結婚式の歌の歌詞……。異性愛者はただこれらの既製服を次々に着換えていればよいのだ。それは彼によく似合うが、なぜかと言うと、それが彼個人のために作られているというよりは、「彼ら」のために作られているからだ。それに比べて、若い同性愛者は棘だらけの植物に覆われた砂漠の中で目覚める……。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)
(…)どこへ行くのやら見当がつかない。だが状況は常に自ら新しい状況を作り出す。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について──このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現われたものである──(…)
(ヨハネの第一の手紙一・一─二)
わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(ヨハネの第一の手紙一・五─七)
(…)シュタイナーが書いたり語ったりしたことで、彼を二十世紀の他のあらゆる思想家と区別していることは何であるのか。
これへの答えは、本書の第1章でかなり詳しく論じたあの認識のうちにひそんでいる。あの認識とは、「霊界」というものは実は人間の内面世界にほかならぬ、という認識である。シュタイナーは事実上こう言っていたにひとしい。鳥は空の生き物であり、魚は水の生き物、蚯蚓(みみず)は地の生き物だが、人間は本質的に心の生き物であり、人間の真の故郷は自分の内部にある世界なのだ。なるほど、人間でも外面世界に生きなくてはならぬというのは事実だが、第1章で見たごとく、この外面世界を把握するには私たちは自分自身の内部に退く必要があるのだ。
この内面世界の奥深くまで「退く」ことは、私たちのほとんどにとって難しいことであり、外面世界とそれがつきつけるさまざまな問題がうしろから私たちを引っぱって内面世界に入ろうとするのを妨げる。シュタイナーはどうやら、自分の内面世界に降りて行く非凡な能力を有していたらしい。さらにシュタイナー哲学の中心的な主張は、この内面の領域こそ「霊界」にほかならず、ひとたびこの領域に入ることをおぼえれば、この内域が外面世界の単なる想像的反映ではなく、それ自体独立した実在性を有している世界であることを人間は実感する、という考え方なのである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』9、中村保男・中村正明訳)
男の眼差しはすでに、よく描かれてきた。この眼差しは、まるで女の背丈を測り、体重を量り、値打ちを定め、女を選ぶ、言い換えればまるで女を物に変えるように、冷たく女のうえに止まるものらしい。
あまり知られていなのは、女がその眼差しにたいしてまったく無防備だというわけではないということだ。もし女が物に変えられるなら、それは女が物の眼で男を見るということにほかならない。それはまるで金槌(かなづち)が突然眼をもち、自分を使って釘を打ち込んでいる石工をじっと見つめるようなものだ。石工には金槌の不愉快な眼差しが見えて自信を失い、自分の親指を一撃してしまう。
(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』第七部・8、西永良成訳)
小説の精神は連続性の精神です。つまり、それぞれの作品は、先行する作品への回答であり、それぞれの作品には、小説の過去の経験がすでに含まれているということです。しかし、私たちの時代精神は今日性(アクチユアリテ)の上に固定されています。今日性は、あまりに拡散的で広いひろがりをもつものですから、それは私たちの地平の過去を拒否し、そして時間をもっぱら現在の瞬間に還元するものです。このような体系のなかに封じ込められた小説は、もはや作品(持続を、過去を未来に継ぐことを運命づけられたもの)ではなく、他の事件とかわらぬ現在(アクチユアリテ)の事件であり、はかない行為です。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第一部・9、金井 裕・浅野敏夫訳)
(…)すると不満を抱く者たち、いくぶん盲目的で、どこか狂っているような者たちが神秘と血を通して、あの失われた調和をしゃにむに取り戻そうとして、自分たちを取りまく現実とは違う現実を、たいていの場合幻想的であり狂的である現実を描いたり書いたりするが、奇妙なことにその現実こそ結局は日常的な現実より深遠なもの、真実なものであることになる。そうして、こうした傷つきやすい存在はある意味であらゆる者たちのために夢を見つつ、自らの個人的な不幸の上に立ちうるようになる、また集団の運命の解説者に、そして、(苦しめを受ける)救済者にさえなる。
(サバト『英雄たちと墓』第�孤堯Γ魁�安藤哲行訳)
しかし、わたしの不幸は常に二重のものだった、というのも、わたしの弱さ、傍観的な精神、優柔不断さ、無気力、こういったものがいつもあの新しい規律を、芸術作品という新しい宇宙を獲得する妨げとなり、わたしを救ってくれそうなあの思いこがれた建造物の足場からいつも足を踏みはぜさせる。そして落ちるたびに傷つき、二重に哀しくなり急いで単純な人間を探し求めることになる。
(サバト『英雄たちと墓』第�孤堯Γ魁�安藤哲行訳)
子供の頃、就寝前にときおりある声が、眠りの中へ誘うようにお話を聞かせてくれて、夜になるとこの世界がどんなに宏大に伸び拡がるか、教えてくれたものである。「昔々あるところに」の文句で始まることもあった。こうして目覚めたまま寝そべっていて眠ることができないなんて、私一人が、過ぎ去ることを知らない時そのものなのだ。
四方の壁も、ベッドや床も、箪笥だって、鏡や絵だって眠る。寝具や絨毯、椅子や机や窓、カーテンに、衣服に、その他まわりを取り巻くありとあらゆるものが、外の霧だって、雪片だって、樹木も地面も水中の魚も、霧のかげや雪の彼方にいる人々も、それどころか鳩の巣でさえ眠るのだ。同じように、凍えている人も独りぼっちでだれも友達のいない人も、希望を求めて思い煩っている人や、恋という名のもとに屋根裏部屋や連れこみ宿で徐々に憔悴してゆく人も眠る。子供たちも、願いごとを唱えながら眠りにつく。黄泉(よみ)のヴェールにおおわれた死人の開かれた眼も眠る。盲人の光を失った顔も、蒼ざめた産婦も、涙さえも眠る。じゃじゃ馬娘の髪の毛にさした櫛やその髪に吹き込む風も眠る。テーブルの酒瓶も、その脇にある飲み残しのグラスも、錠前に差し込まれた鍵も、時計やランプも眠る。配膳台の上の散らしや新聞、部屋履きやソックス、ズボン、ワイシャツ、チョッキ、暖炉の火、窓の鎧板にかかった雪、家や庭、茂み、小経や舗石、垣根や杭、大小の町、列車や河川や港の小舟にいたるまで。空高く飛ぶ飛行機も、渡り鳥のように大陸をまたにかけて眠る。薬剤師の天秤も眠る。露店のひさしも、犬や猫も眠る。そして、人里離れた森の奥では(…)
ただ私、この私だけが眠れない。(…)
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二章、園田みどり訳)
(…)目的もなくブエノスアイレスの町を歩きまわり、人々を眺め、コンスティトゥシオン広場のベンチに腰をおろして考えた。そのあと部屋に戻ったが、いつになく孤独感を味わっていた。本に没頭しているときだけはふたたび現実を見出すようだった、逆に、通りにいる人々はまるで催眠術にかかった人間たちの大きな夢に思えた。多くの歳月が流れて分ったことは、ブエノスアイレスの通り、広場、そして商店、事務所にはそのときわたしが感じたことと同じようなことを感じ、考えている人間が無数にいるということだ、孤独で苦しんでいる人々、人生の意味、無意味を考えている人々、自分のまわりで眠った世界、催眠術をかけられたりロボットになってしまった人間の世界を見ているような気がしている人々がいるのだ。
その孤立した角面堡の中でわたしは短篇を書きはじめた。いま思うと、不幸になるたびに、一人ぽっちだ、生を与えてくれた世界としっくりいかない、そう感じるたびに書いてきたみたいだ。それが普通ではないだろうか、現代の芸術、引き裂かれた緊張した芸術は常にわたしたちの不調和、苦悩、不満から生まれてくるものではないか。人間という傷つきやすい、落ちつかない、欲深な生き物の種族が世界と和解する試みのようなものではないだろうか。なぜなら、動物は芸術を必要としない、彼らは生きるだけだ。彼らの生は本能の必要性と調和を保ちながら滑っていくからだ。鳥には少しの種か虫、巣をかけるための樹、飛びまわるための広い空間があればいい、そして、その一生は生まれてから死ぬまで、形而上的な絶望感や狂気に引き裂かれることのない幸福なリズムの中で流れていく。ところが人間は(…)
(サバト『英雄たちと墓』第�孤堯Γ魁�安藤哲行訳)
そして、一つを除くほかのあらゆる思い出が彼女の心に浮かびはじめたのも、やはりそのときのことだった。すべての思い出が押し寄せたが、彼女は、なぜかわからないながらも、ただ何かあることだけによって、ある思い出がまだ欠けており、ほかのすべての思い出が起きたのも、もっぱらこの一つの思い出のせいにほかならないと感じたのだ。そこで彼女の心に、そのためにはヨハネスが自分の役に立ってくれるかもしれないし、また自分の全生活は、この一つの思い出を手に入れるかいなかにかかっている、という観念がつくりあげられた。さらにまた彼女は、自分がそのように感じているものは、力ではなくて、彼の静けさ、つまり彼の弱さであることも知っていた。この静かで不死身の弱さは、広々とした場所のように彼の後ろにひろがっていて、そのなかで彼は、自分の身に起きたあらゆることと、ひとりで向かいあっているのだ。しかし彼女はそれを、もっとそれ以上に探り出すことができなかったので、不安な気がした。そして、自分がすでにその近くにいると思ったときにはいつも、またまえもって動物を思い浮かべるので、彼女は苦しかった。
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)
これは愛だろうか?
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)
家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
これは主のなされた事で
われらの目には驚くべき事である。
(詩篇一一八・二二─二三)
愛のおのずから起こるときまでは、
ことさらに呼び起すことも、
さますこともしないように。
(雅歌三・五)
声に出して考えていた。
(エドモンド・ハミルトン『審判のあとで』中村 融訳)
どうしてそのことを書かないの?
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)
悲しみはまず無言でなければならない、あんたはそう思っている。痛みを感じたあとで、初めてその痛みについて語ることができる……たとえそれが、偶然見つけた死体のように、小さな痛みであっても、癌に当たったような、大きな痛みでも……
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)
「あなたはあたしの手を握りしめたわ。そして、その死んだ男は、究極的に、生きているのだと言った。死者たちはみんな生きているんだって」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)
だれも話しかけてくれなかったわ。あたしのことをだれも知らなかった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)
いったいどこから来る? どこからでもなく、虚無からやってくる──だれの声でもない声
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)
声には実体があるとでもいうのか?
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)
それだけで独立の実体を持っている。
(モンテーニュ『エセー』第�挟�・第10章、荒木昭太郎訳)
見る主体を見ることはできないし、心が考える主体を把握することもできない。見る主体、考える主体が〈わたし〉──すなわち、魂なのだ。
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』13、大森 望訳)
かれらがそうなりえたかもしれないものが永久に失われたことを、ウルフは悲しんでいるのであった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『異世界の門』16、浅倉久志訳)
目を開くと、頭上に薄青い空が広がり、ちらほら雲が見えた。周囲は牧草地だった。みつばちたちが、いや多少ともみつばちのように見える昆虫の群れが、茎が長く皿ほどもある白い花のあいだをぶんぶん飛びまわっていた。空気には甘い香りがただよっていた。さながら無数の花々が大気そのものを妊娠させているかのように。
(フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』4、冬川 亘訳)
精子も自分をひとかどのものと思うだろうか?
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』4、友枝康子訳)
彼の目は、少女の白いシャツからのぞく喉もとを楽しんでいる。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)
「でもね、どこか気味がわるいの」彼女は満身の力をこめて箱を河に投げる。箱は二十フィート飛ぶ。「すごい! でもね、あなたの一部分があなたの愛したものに執着して永久についてまわる、そんなことを想像してみて!」彼女は柳の木によりかかり、流れていく箱を眺める。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)
少年の生活というのは同じようなもので、彼の場合も例外ではない。違うと言えば、ブロンドの女がしきりに話しかけていることだが、そのせいで少年は今ひとりぼっちの人間になっている(雲の話はもううんざりだが、今ふわふわした細長い雲が通り過ぎていった。あの日の朝は、一度も見上げなかったはずだ。二人に何か起こりそうな予感がしたので、これからどうなるのか様子を見ることにした……)。不安そうな少年を見れば、少し前、せいぜい三十分前に何があったか容易に想像がつく。つまり、少年は先ほど島の端(はな)にやってきて、そこですてきな女を見かけたのだ。女は最初からそのつもりで網を張っていた。ひょっとすると、バルコニーか車の中から少年を見かけたのかもしれない。そこで、少年のそばへ行くと、話しかける。少年は不安に駆られたものの、逃げ出すきっかけがつかめずそのまま居残る。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)
(…)画家の中には好んで椅子を描く人がいるが、やっとぼくにもその理由がのみこめた。急に、フロールの椅子がどれもこれも花や香水のようにすばらしいものに思えはじめた。あれはこの町に住む人たちの秩序と誠実さを表わす申し分のない道具なのだ。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)
民衆はしあわせだ。しあわせでなければならないのだ。もし悲しんでいるところを見つかれば、なだめられ、薬をあてがわれ、しあわせな人間に改造されるのだから。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』1、伊藤典夫訳)
とつぜん大立て者は少年の体を宙に突き飛ばして自分のコックから解放する。そして両手を少年の座骨に当てて揺れないように押さえ、象形文字のような動きをする手を首に当て、首の骨を折る。戦慄が少年の全身を駆け抜ける。彼のコックは骨盤を上に向けて、大きく三度ぴくぴくとはね上がり、たちまち射出する。
彼の目の奥で緑色の火花が散る。甘美な歯痛が首筋を矢のように流れて背骨から鼠(そ)蹊(けい)部まで達し、歓喜の発作で身体を収縮させる。彼の全身はコックによって締めつけられる。最後の発作が起こり、多量の精液が赤いスクリーンの向う側まで流星のように噴出する。
少年はやわらかく吸い込まれるように、ゲームセンターとエロ写真の迷路を抜けて落下する。
堅いくそが勢いよくすぽんと尻からとび出す。放屁がきゃしゃな身体を震わせる。大きな川の向うの緑の茂みの中からのろしが上がる。薄暗いジャングルの中にモーターボートの音がかすかに聞える…… マラリア蚊の沈黙の羽の下で。
大立て者は少年を自分のコックの上に引きもどす。少年はやすに突き刺された魚のように身もだえする。大立て者は少年の背中で身体をゆすり、少年の身体はくねくねと波を打ってちぢこまる。少年の死の色に包まれて愛らしくすねたような感じの半分開いた口からあごを伝わって血が流れ落ちる。大立て者はすっかり満足してぱたっと倒れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ハッサンの娯楽室、鮎川信夫訳)9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/01 07:35:43)
空転さんへ
お読みくださり、ありがとうございました。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/05 11:54:40)
山田太郎さんへ
お読みくださり、ありがとうございました。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/09 21:40:35)
こひもともひこさんへ
お読みくださり、ありがとうございました。なぜ、こういった「全行引用詩」を『全行引用による自伝詩。』と名付けているのか、こひもともひこさんになら、わかっていただけると思っていました。あと何年、あるいは、十何年書きつづけるかわかりませんが、ライフワークになりそうです。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/09 23:46:14)
祝儀敷さんへ
お読みくださり、ありがとうございました。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/13 01:25:52)
そんなに売れていないこともないみたいです。せまい範囲かもしれませんが、売り上げの1位と2位に、ぼくの詩集がなっています。→http://www.ailight.jp/Amazon/Search/All/%E6%80%9D%E6%BD%AE%E7%A4%BE%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/13 01:42:37)
amazon でも、そこそこ、『詩の日めくり』は売れているようです。→https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/e/B004LA45K6/ref=dp_byline_cont_book_1
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/13 01:48:35)
うえのアドレスを辿られて、順位が違ってたら、ごめんなさいね。ころころ変わるから。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/13 02:06:01)
ちなみに、『全行引用詩』は10位ですが、きのう、おとといは、もうちょっと上でした。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/13 02:33:43)
祝儀敷さんの「あからさまな引用の偏りが読む人を減らしている節はあると思う」という言説に対してうえのコメントをしたのでした。そうかなあ。そんなことないんじゃないかなあと思って。偏りはあっても、読んでくださる方はいらっしゃるし、詩集まで買ってくださる方はいらっしゃるのだけれど、と思って。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/13 23:36:29)
たしかにハゲてるけどね。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 14:58:38)
自称ではなくて、もう「引用詩」として詩壇の詩人たちの何人からかは呼ばれています。
自称って、どっからなの、情報源?
山田太郎って、そんなに情報源が狭いの?
あ、詩壇とは付き合いがないか。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 18:55:03)
山田太郎さんへ
ぼくが引用詩や日記詩以外にも書いているのは、山田太郎さんもご存じでしょうに、なぜ「しか書けない」という表現になるのか。
それと、この一連の引用詩は、ぼくの文学的表現のもとになったものとして、いわゆる栄養源として、こういうのがあったと書いている記録文学としての意味と、その栄養源をどう消化したのかを、引用の糊付けで示したものなのですよ。
糊付けが大事なのですよ。
もう少し精緻にお読みください。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 18:58:25)
こひもともひこさんへ
おっしゃる通り、引用詩も日記詩も、ぼくの作品群のなかでは少ない方ですが、それを山田太郎さんは、ご記憶じゃないのかもしれません。そういうと、逆に、それくらい、ぼくの引用詩や日記詩の印象が強いということになるのかもしれませんね。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:25:48)
山田太郎さんへ
「じつは、ここにあるのは、つなぎの「糊」(のり)だけなのに」
と、あなたは書いたばかりなのに、ご自分の言葉を記憶されていないのですか?9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:27:24)
野良猫ニャンコさんに認められないのは残念ですが、仕方ないですね。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:32:53)
著作権をクリアできるための配慮はしてあります。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:35:23)
山田太郎さんへ
引用元が書いてあるのだから、だれも、ぼくが書いたものと思わないでしょう? タイトルもタイトルだしね。
でも、山田太郎さんは錯覚したんだ。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:39:45)
こざかなさんへ
ごらんくださり、ありがとうございました。きょう、一日、パソコンをまえにして、来月、投稿する予定の新しい『全行引用による自伝詩。』の打ち込みをしていました。休日、ゆっくり打ち込んで、だいたい2、3日かかります。きょうは、本来は休日ではないのですが、たまたま仕事がなくなって休日になりました。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:44:20)
ルールは大事でしょう。気持ちの問題といえば、ぼくは、ぼくに影響を与えてくれた作品をひじょうに愛しているし、その愛情が、この作品にもあふれていると思っていますよ。もちろん、作者や翻訳者に感謝しています。ぼくのいまの感性を培ってくださったんですからね。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:47:19)
山田太郎さん以外の方から、そんなことを言われたことがありません。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:51:27)
困る必要はないでしょう。感性は、ひとりひとり異なるものですから。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:52:59)
野良猫ニャンコさんへ
ご自分で考えてください。ぼくは大事だと「思っています」。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 19:59:50)
山田太郎さんへ
ぼくは「全行引用詩」を30年近く書いてきましたし、そのあいだに、何度も雑誌で批評されていますが、山田太郎さんのような見解を目にしたのは、はじめてです。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 20:01:43)
野良猫ニャンコさんにとって、この作品は気持ち悪いのですね。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 20:17:06)
こざかなさんへ
「引用元の作者に対する最大限の敬意じゃん」
ぼくも、まったくその通りだと思うのですが、そう思っていただけないひともいるようです。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 20:22:36)
引用だけで作品をつくることに、これほど強い反発をされるとは思ってもいませんでした。これからも書きつづけます。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 20:27:08)
野良猫ニャンコさんには、ゆるせない作風なんだろうなあ。でも、ぼくはこれからも書きつづけるけれど。『詩の日めくり』とともに、ぼくのライフワークになると思う。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 20:31:58)
こひもともひこさんへ
ぼくの『全行引用による自伝詩。』は、このように多難な道を歩んでいるようですけれど、それでもよいと思っています。たとえ数少ない読み手でも、楽しんでもらえるのならば。これからも、生きて、書くことができるかぎり、書きつづけていくつもりです。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 20:34:28)
野良猫ニャンコさんへ
あなたが書いてらっしゃること、ぼくにはまったくわからないのですが。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 20:42:06)
1999年でしたね。『The Westeless Land.』の初版が出たのは。ことし復刻版を出しましたが、そこそこ売れたようです。年末に出る詩の雑誌にも全行引用詩を掲載していただく予定ですが、これだけ強い反発があるのですから、いまから反応が楽しみです。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/14 20:44:33)
野良猫ニャンコさんへ
「ケツ掘られながら詩を書けばいいと思います。」
両方同時には、むずかしいと思います。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 06:40:05)
数式の庭は、いい作品だと自分でも思っています。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 06:45:31)
数式の庭は、他の詩人からの評価も高かったと記憶しているんだけどね。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 06:50:53)
引用詩はお気に召さないのは、わかっているから、なにも書かないけれどね。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 07:16:07)
ただ、パクリ詩というのは不適切な言葉だよね。パクるって、だまって自分のものにしちゃうことでしょ。ぼくのは歴然とした「引用」なんだから、「引用詩」がもっとも適切な名称だと思うよ。間違った言葉遣いをわざとしなくてもいいんじゃないかな。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 16:49:18)
べつに、どうぞご勝手にお呼びくだされ。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 17:03:56)
この「全行引用による自伝詩。」は、これからも、毎月、投稿していくつもりなので、毎月、これくらい反響があればいいかな。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 22:01:23)
きのう、12月に投稿する『全行引用による自伝詩。』の打ち込みをしていて、この掲示板の書き込みと同時並行してつくっていたのですが、たくさん書き込んでくださっておられるので、貴重な時間を割いて、ぼくの作品のためにコメントくださっているのだなあと思って、きのうから元気が出ました。ここ一年くらい体調が悪かったのですが、貴重な時間をいただいていると思うと、もっとよい作品を書けと励まされていると思って、きょうも元気でした。昼の授業時間の空き時間にも読書がすいすいできて気分がよかったです。この調子で、1月に投稿する『全行引用による自伝詩。』の構想を練りますね。楽しみにしていてください。12月に投稿するほうのものは、もう出来上がっています。きのう書き上げて、引用したものの打ち込み間違いがないか、印刷してチェックもすませました。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 22:23:36)
カルフォルニア・ブルーさんへ
ぼくのこの作品は、読んでくださっているの?9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/15 23:25:50)
アラメルモさんへ
お読みくださり、ありがとうございます。ぼくはここ数日で、一年くらいつづいた不調から回復しました。アラメルモさんも、きっとご回復なさると思います。くれぐれもご自愛くださいませ。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 00:06:13)
コテさんへ
お読みくださり、ありがとうございました。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 06:35:12)
きのうは、一睡もできなかった。暗い部屋でずっと横になって起きていた。脳機能が覚醒したのだと思う。非難の言葉を励ましの言葉、あるいは、賛辞として受けとめるという意識改革を脳機能が果たしたからであると思われる。詩人として、これはうれしいことである。これからも非難されるだろうけれども、それを非難と思わないで励ましの言葉、あるいは讃辞として受けとめるということだもの。人間として強くなったとも言えるわけで、一歩、成長したのかなと思われるのである。それが無意識の意識改革だったので、なおさら心強いのである。ほんものだろうからである。人間、長いあいだ生きていると、こういうこともあるのだなと思った。すばらしいことだ。一睡もしていないのに、気力が充実している。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 14:06:58)
野良猫ニャンコさんへ
続篇だよ。ぼくの『詩の日めくり』と同様に、一篇一篇が独立しつつ、連携し合っているという見事な仕掛けなのである。映画と同じだよ。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 14:15:00)
山田太郎さんへ
あ、前後しちゃった。ごめんなさい。ぼくの『引用詩』は、たとえば、ここ、文学極道にも数多く投稿して、優良作品に選ばれているから見ていただきたいのだけれど、一篇一篇、構造が違うのです。ぼく自身が飽き性だからか、同じものは一つとしてつくっていないのです。それはたとえば、書肆山田から出した『The Wasteless Land.VII』(引用詩集という副題をつけてます)や、2015年の11月に思潮社オンデマンドから出した『全行引用詩・五部作』の上下巻を見ていただいたら明らかに、一作一作が違う構造をしているのが、おわかりいただけるかと思うのですが、まあ、ぼくの「引用詩」も進化の途上にあるもので、これこれとまだ説明できるものではないですね。そもそも、ぼくは、自分の作品を書くことはできても、自分の作品を説明することはできないというタイプの書き手のようです。実物をごらんになった方が考えてくださるほうがよいでしょうね。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 14:20:14)
野良猫ニャンコさんへ
ぼくは東京に行くことはあっても、新宿二丁目に行くことはないのですよ。といっても、行ったことは2度ほどありますが。わかいころのことです。20代か30代のことだったかな。もう2、30年ほどもむかしのことです。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 14:28:04)
野良猫ニャンコさんへ
映画の続篇のように捉えられたらいいのではないでしょうか。じっさい、ぼくは詩集をつくるときも、続けて同じタイトルにして、�供↓掘↓検◆帖弔箸垢襪海箸�ありますが、作品単位でも、同じタイトルで、いくつも作品をつくって、重層的な構造になるようにしています。たとえば、ぼくの代表作として、その筆頭に、『陽の埋葬』シリーズがありますね。あれもまた50作品くらいつくっていますが、1作1作、まったく異なる構造をもたせています。文学極道に、いくつか優良作品としても選んでいただいてると思うのですが。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 14:35:44)
コテさんへ
だいじょうぶですよ。何日かまえに、見えるようになったのです。いままで見えてこなかったことが。ここになされた、すべてのコメントは、ぼくのためにご自分の貴重な時間を使われてなされたものですから、ぼくもそれを栄養というか、糧として、自分のものにしなければならないし、じっさい、栄養として、糧としているなあと思ったのでした。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 14:48:57)
モナリザである必要はないのですよ。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 14:51:57)
コテさんへ
それもまた作品の味わいのひとつなのだろうかなあと思います。違ったあじわいのものも、ぜひおためしください。9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 15:12:49)
さっき学校から帰ったばかりなのですが、これから食事をして塾に行きますので、返信は夜9時過ぎになります。
9219 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/16 20:59:01)
ありゃ。
9246 : 詩の日めくり 二〇一六年十月一日─三十一日 田中宏輔 ('16/11/07 06:57:47 *9)
二〇一六年十月一日 「至福の二日間」
きのうと、きょうと、ずっと横になって寝てた。お茶をひと缶のんだだけ。いっさい食事せず。ただ眠っていただけ。しかし、まだ眠い。睡眠導入剤が強くなって、しじゅう、あくびが出るようになった。眠いということがここ10年くらいなかったので、至福の2日間であった。もうじきクスリのんで、また寝る。
あさ、4時に目がさめて、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日』をつくってた。これからマクドナルドに。
二〇一六年十月二日 「至福の引き伸ばし」
投稿はあしたにして、PC消して、クスリのんで寝る。睡眠導入剤が強いものになって、睡眠が10年ぶりくらいに心地よいので、睡眠を第一優先にしたいため。きのう読んだコードウェイナー・スミスの「老いた大地の底で」の終わりの方を読み直そう。記憶に残っていなかった。つぎに収められている「酔いどれ船」を読んでる途中だけど。まあ、あと10ページほどなので、寝るまでに「酔いどれ船」も読み切れるだろうけれど。おやすみ、グッジョブ!
二〇一六年十月三日 「黄色い木馬/レタス」
10月1日に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』、もともと11月に投稿する『全行引用による自伝詩。』とくっつけたもので、あまりにも長くて、モチーフが分散し過ぎている印象があったので、もとのように分離した。すっきりした感じになった。これでひと月分、余裕ができたわけでもある
12月に投稿する分から考えればいいので、急ぐ必要がなくなって、ほっとしている。しかし、仕事との関係で、あまり余裕がないかもしれないので、ワードの打ち込みは、こまめにしなければならない。
きょうは夜に塾がないので、寝るまで本を読もう。そうだった。ぼくは本を読むために生まれてきたのであった。とりあえず、コードウェイナー・スミスの短篇「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」のつづきから読んでいこう。しかし、それにしても、コードウェイナー・スミスは偉大なSF作家だった。
「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」を読み終わった。大筋を憶えていたのだけど、狂的な部分を憶えていなかった。あらためて、コードウェイナー・スミスのすごさに思いを馳せた。散文のSFで、強烈な詩を書いていたのだなと思う。つぎは、「アルファ・ラルファ大通り」短篇集タイトル作である。
郵便受けに何か入ってるかなと思って、マンションの玄関口に行くと、草野理恵子さんという方から、『黄色い木馬/レタス』という詩集を送っていただいていた。手に取って、ぱらっとめくったページが16ページ、17ページで、詩のタイトルが見えた瞬間、えっと思って、笑ってしまった。だって、「おじさん/入れ歯」というタイトルだったからだけど、笑いながら読んでいたら、グロテスクな描写に変容していって、なに、この詩? となって、目次を見たら、すべての作品がスラッシュで区切られていて、つながりがあるのかないのか、たぶんないよなというような名詞が接続されていて、「おじさん/入れ歯」のつぎに収録されている20ページからはじまる「カサカサ/プレゼント」という作品の第一行がこんなの。「たとえば僕のおばさんはとても孤独に生きたので何でも喜んだ」ぎょえー、なに、この詩は? ってなって、奥付を見たら、ぼくと齢があまり変わらない方だったので、なぜかしらん、ほっとした。ぱらぱらとめくりながら、詩句に目を走らせると、抒情的な部分もたくさんあるのだけれど、基本は、狂気のようなものだと感じられた。でも、ご卒業された学校の名前を見て、たぶん、とても見た目、まじめな方なんだろうなあと思って、書くものとのギャップが大きそうに思った。それだけに、怖い。56ページからはじまる「頭巾/虫」の第一行目は、こう。「ひとりで話しているうちに真っ暗になってしまった」 怖いでしょう? 102ページからはじまる「皿/スイッチ」という作品の第一連なんか、こうよ。
あるパーティの日
百人の瞳の大きな人間が選ばれ
皿を配られる
そして鳥にされることになる
怖いもの見たさにページをめくる。24ページからはじまる「水飴/雨」の冒頭部分
ところで君は何でお金を稼いでいたのだろうか
水飴も売っていたかもしれない
だけど僕たちは君見たさに集まっていたのだ
こぶなのだろうか
頭の一部が妙に大きく膨らんでいた
なんだか、江戸川乱歩が詩を書いたら、こんな感じかなっていう雰囲気のものが多くて、著者の草野理恵子さんが、ぼくに詩集を送ってくださったのが、よく理解できる。好みです。いま読んでる、コードウェイナー・スミスのグロテスクさにも通じるような気がする。
草野理恵子さんの詩集『黄色い木馬/レタス』土曜美術社から9月31日に出たばかりらしい。装丁もきれいなので、画像を撮って、貼り付けておくね。https://pic.twitter.com/TJYlk4wefc
もう30年くらいはむかしの話になるけれど、梅田の北欧館に行ったとき、階段に入れ歯があって、びっくりしたことがある。置き忘れた方がいらっしゃったのだろうけれど、なんか、グロテスクなアートって感じもしたけど、いまでも思い出せる、その輝きを。暗い階段に、白い入れ歯が上向きに落ちてるの。メガネをしているひとのメガネがない状態と似ているような気がするのだけれど、入れ歯がないってことに気がつかないものなのかしらん? 父親が、ぼくのいまの齢で、総入れ歯だったのだけれど、父親が「歯が痛い」と言うのを聞いた記憶がない。基本、総入れ歯だと、歯痛はないのかもしれないね。でも、入れ歯を、なんかのクスリにつけてたから、メンテナンスは必要なんだろうけど。ぼくもそのうち、総入れ歯になるのかなあ。どだろ。そいえば、むかし勤めていた学校で、目のまえに坐ってらっしゃった先生が総入れ歯で、よくコップのなかに入れ歯を入れてらっしゃったなあ。カパッて音がするので、見たら、口から入れ歯を出してコップに入れてらっしゃったのだけれど、それが透明のコップで気持ち悪かったから見て見ないふりをしてた。高校一年生のとき、好きだった竹内くんとバスケットしてて、竹内くんの口にボールをあててしまったら、そこに前歯がなくなっちゃった竹内くんの顔があったから、びっくりしたら、「差し歯やから」と言われて、差し歯って言われても、それがなにか知らなかったから、ほんとにびっくりした。そいえば、ぼくがさいしょに付き合ったノブチンは、笑うと歯茎が見えるからって言って、笑うときに、よく女子がするような感じで口元に手をやってたなあ。そのしぐさがかわいかったけど、まあ、ノブチンも21才やったからね。いまじゃ、おっさんになってるから、もうそんなことしてないだろうけど。
収められたさいごの短篇「ショイヨルという名の星」を読んでいる。もう3、4回は読んでいる作品だが、よくこんなSF小説が書けたなあと思うし、発表できたなあと思う。究極の地獄を描いた作品だと思うけれど、まあ、さいごに救いがあるところが、スミスらしいけれど、それともそれ編集者の意向かな。
二〇一六年十月四日 「チェンジ・ザ・ネーム」
きょうから、アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読むことにした。なかば、自分に対する強制だ。昼には、読みの途中でほっぽり出してたミエヴィルの『言語都市』にしようかなと思ったのだけれど、カヴァンの未読の本が2冊、目のまえの本棚にあったので。ああ、どうせ絶望的なんだろうなあ。
二〇一六年十月五日 「邪眼」
悪意を持って眺めると
相手を不幸にならしめることができる
対抗するには
淫らな思念を相手のこころに投射すること
あるいは残虐な刑罰による死の場面を投射すること
って
書いてると
ミスター・ジミーから電話があって
老子の
うらみに対しては徳をもって報いよ
といわれた
まあねえ
笑
ファレル
百枚の葉が耳を澄まして
ぼくを見ている
グリム童話のなかで
森の木々が見てる
といったような描写があったような
ぼくの思考が
川のなかの鳥のくちばしのように
夜の
水草のなかを
何度もつついている
そこにおめあてのものがあるとでも思っているのだろうか
ファレル
ぼくの思考は
ぼくのからだを包む百枚の葉のように
つめたくあたたかい
わかくて老いているころから
わかっていた
流れながらとどまり
とどまりながら流れていた
ファレル
ぼくのにごった水の上を走り去る鋼鉄の雲よ
ぼくの手は
アクアポリスの背景をなぞる
なぜなぞるのだろう
百枚の葉はじつは百羽の鳥だった
百羽の鳥の喉を通して
ぼくは考えていたのだ
ファレル
きみも気がつくべきだった
ぼくにやさしくつめたい
どうしたのかしら
そんなところで
ゴミ箱が隠れてた
ぼくにはわからないんだけど
いっしょうけんめい知識を深めることに専念していると
ふつうのゴミ箱のことがわからなくなるのかもしれない
ゴミ箱が人間の形をしてた
にょきにょきと手足を生やして
ぼくのところにきた
ぼくは
ぽこんとゴミ箱をたたいた
ゴミ箱は痛がらなかった
比喩じゃない
比喩は痛くない
人間じゃないから
人間かも
人間なら蹴ったら痛いかも
蹴ってみたら
ぼくはまだ人間を蹴ったことがない
人間以外のものも蹴ったことがない
蹴る勇気をもつことは大切だ
手で殴るということもしたことがない
ものも殴ったことがない
勇気のない者は永遠に報われない
ま
それもいいかもにょ
苦痛がやってきて
ぼくの鼻から入ってくる
苦痛がぼくを呼吸し
やがてぼくの神経に根を下ろす
鈴の音が鳴る
財布につけた鈴の大きさに
月が鳴っている
ゼノサイド
月を血まみれの両の手がつかんでいる
月の大きさの眼球が
地球の海を見つめている
海は縛りつけられた従兄弟のように
干からびていく
宇治茶もいいね
宇治茶もおいしいね
ジミーちゃんと話してるとホットするよ
そてつ
そうでつ
お母さんを冷凍してゆしゅつすることを考える
緊急輸出
脊髄はちゃんと除去してからでないと輸出してはいけません
冷凍怪獣バルゴンっていたな
人間の死体を冷凍して輸出することは法に違反しているのかしら
冷凍ママ
冷凍パパ
なんてスカンジナヴィアで売っていそう
アイスキャンディーになったママやパパもおいしそうだし
ペロペロペロッチ
冷凍パパは生きてたときとおなじように固いし
体以上に固い
体も硬いけどね
冷凍パパが飛行機で到着
到着うんちが便器のへりを駆け巡る
飛行うんちが飛び交う男子用トイレで
マグロフレークが
未消化のレタスと千切り大根の
指令書がファックスで送られてくる
そてつ
そうでつ
冷凍パパと記念写真
携帯でパシャ
パシャ
冷凍ママも
パシャ
パシャ
ハロゲンヒーターのハロゲン
行くのね
ゼノサイド
ちゃうちゃう
おとついジミーちゃんに
ホロコーストの語源って知ってる
って訊かれた
覚えてなかった
うかつだった
焼き殺す
うううん
焼き殺しつくすのね
ぼくの直線にならんだ数珠つなぎの目ん玉
螺旋にくるくるくるくる舞ってるのね
新体操のリボンのように
笑
二〇一六年十月六日 「Fくん」
いま日知庵から帰った。Fくんに合って、帰りは、方向がいっしょだったので、タクシーに乗せてもらって、西院駅まで送ってもらって。きょうも、いっぱい仕事した。今日、一日のうち、いちばん、うれしかったのは、Fくんと日知庵でばったり合ったことかな。で、話して。でへっ。おやすみ、グッジョブ!
二〇一六年十月七日 「脱字」
カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』3分の1くらい読めた。会話がとても少なくて、情景描写ばかりで、P・D・ジェイムズもそうだけど、ぼくの好きな英国女性作家の作品は読みにくい。だけど、その情景描写が繊細で、かつ的確なので、楽しめて読めるものになっている。内容は神経症的な世界だけど。
アンナ・カヴァン『チェンジ・ザ・ネーム』 脱字 95ページ3行目「鋼砥(はがめと)の上で」 ルビに「ぎ」が抜けている。
二〇一六年十月八日 「られぐろ」
拷問を受けているような感じで、きょうもカヴァンを読む。
郵便受けから入っていた封筒を取り、部屋に戻って、袋を開けると、武田 肇さんから、詩集『られぐろ』を送っていただいていた。高名な方で、ぼくが雑誌に書いてた時期に何度もお名前を拝見したことはあったが、その御作品を目にするのは、はじめて。帯に書かれた言葉とまったく異なる印象の本文だった。数多くの短い断章の連なりに見えるのだが、作者は、それらを2つに分けて、長篇詩としているのだ。それも、プロローグとエピローグの2つに。短詩を組詩にして長篇化することは、ぼくもよくする手法であるが、ぼくのような作品の印象ではなくて、まるで、いくつもの短歌的な構成物を物語風に散文化したものを目にするかのような印象だった。これは作者が短歌に造詣が深いことを、ぼくが知っていることからくる先入観かもしれない。しかし、いくつか断章を目にする限り、その印象は間違っていないように思う。カヴァンの『チャンジ・ザ・ネーム』をほっぽいて、先に、武田 肇さんから頂戴したほうを読もう。どの断章も三行で、改行詩のようになっていたり、散文詩のようになっていたりと、読みやすい。ひとつ、ふたつ、採り上げてみよう。みっつよっつになったりして。
森の。 雪で遊ぶ人人
めいめいに内心を抱えながら、花めきながら、
じつはただ一人が居るだけなのだが。
(武田 肇 られぐろ・エピローグ「森の。 雪で遊ぶ人人」)
この世のすべての顔━━良いかほも悪いかほも━━を足すと
おびんずるさまになるのかもしれない
この世のすべての土地━━良い土地も悪い土地も━━足すと
(武田 肇 られぐろ・エピローグ『この世のすべての顔」旧漢字をいまの漢字に改めまて引用した。)
午前九時十五分 短針が僅かに上昇をはじめる
こんなときだ
ぼくから他のぼくがぞろぞろ遊離してゆくのは。
(武田 肇 られぐろ・エピローグ「午前九時十五分」)
なぜギリシアが在り日本が在るのだろう 異なる偶然な二つの地形が
アブ ダビでしぜんに泛んだ二つの微笑みが
なぜアフリカが在りローマが在るのだろう 異なる偶然な二つの暗黒が
(武田 肇 られぐろ・エピローグ「なぜ義理合会が在り日本が」)
とてもシンプルな表紙なのだが、魅力的だ。画像に撮ってみた。私家版だそうだ。貴重な1冊をいただいた。
https://pic.twitter.com/TaT5WRaIDK
ありゃ。武田 肇さんの詩集『られぐろ』に収録されている断章、すべて3行の、改行詩だった。ストーリーを追って読んだものが、ぼくに散文詩のような印象を与えたのだろう。すべて改行詩の3行詩だった。カヴァンよりはるかに読みやすいし、興味深い詩句が見られる。ひゃっ。いま裏表紙みて、びっくりした。200部限定の私家版だった。送り先に、ぼくのような者を入れてくださったことに、改めて深い感謝の念が生じた。とても貴重な1冊。いまも、武田 肇さんの詩集『られぐろ』を読んでいて思ったのだけれど、詩のほうが読みやすいのに、なぜ世間では、小説ばかりが読まれるんだろう。T・S・エリオットとか、エズラ・パウンドとか、ウォレス・スティヴンズとか、笑い転げて読んじゃうんだけど。ぼくが翻訳したLGBTIQの詩人たちの英詩のなかにも、笑い転げるようなものもあったと思うんだけど。日本の詩人では、モダニズム時代の詩人のものなんか読んだら、もう小説どころじゃなくなると思うんだけど、日本の国語教育はモダニズム系の詩人を除外している。そいえば、ゲーテの『ファウスト』も読まれていないらしい。あんなにおもしろい詩なのに。どんなにおもしろいかは、ぼくは、『The Wasteless Land.』でパスティーシュを書いてるくらいだけど、『ファウスト』にも、ぼくは大いに笑わせられた。
二〇一六年十月九日 「頭のよいひとは説明を求めない。」
頭のよいひとは説明を求めない。自分で考えるからだ。発言者の頭のなかで、なにがどうなっているのかを。
文学極道の詩投稿掲示板のコメントを見て、いちばんびっくりするのは、作者に説明を求めることである。
毎日のように、amazon で自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、『詩の日めくり』第一巻が、きょうか、きのう、1冊売れたみたいだ。うれしい。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788621/ref=la_B004LA45K6_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1475919453&sr=1-5…
11月に、ハヤカワから、バリントン・J・ベイリーの短篇集が出るらしい。買いたくなるような本を出さないでほしい。未読の本が、ぼくが死ぬまで待ってるんだから。
マーク・ボラン、永遠に若くてかっこいいままなんて、なんだか卑怯だ。
11月に書肆ブンから出る、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の表紙は、35歳のときのぼくの写真だ。そのくらいのときに死んでいたら、ぼくの半分以上の詩集はなかったことになる。それは、それで、よかったのかもしれないけれど。
https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8…
アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読み終わった。英国女性作家のえげつない作品を読んだ。自己愛しか持たない女性が主人公なのだけれど、他の登場人物も、それなりに自己愛の塊で、まあ、それが人間なのだろうけれど、言葉で表現されると、本当に、人間というものがえげつないと思われる。読むのが苦痛に近いけれど、これから、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読む。飽きたら、すぐにやめるけれど。いまなら、少しは読めるような気がする。
二〇一六年十月十日 「奇蹟という名の蜜」
加藤思何理(かとうしかり)さんという方から、『奇蹟という名の蜜』(土曜美術社)という詩集を送っていただいていた。奇想・奇譚の部類の詩篇が並んでいる。グロテスクなものも多く、作者の好みが、ぼくの好みと一致している。部分引用がきわめて難しい緻密な構成をしている詩篇が多い。一部だけ引用してみよう。
さらに歩けば、奇妙な名称の部屋が視野に現われはじめる。
たとえば、受難室。
逃避室。
遡行室。
転調室。
反復室。
分岐室。
寓意室。
逆説室。
あるいは蛹化室。
(加藤思何理「赤いスパナの謎」)
一度読んだら忘れられないような悪夢のような描写の連続である。詩集の表紙はポップなのだけれど。
https://pic.twitter.com/9jxrhdMero
もう30年ほどもむかしの話。20才を出てたかな、仕事で右手の親指をなくした男の子が言った言葉がずっと耳に残っている。人生って、不思議だね。何気ない一言なのに。「友だちのために何かできるなんて、そんなにうれしいことはないと思う。」忘れられない一言だった。
カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んで寝よう。暗くて、会話がほとんどなくて、字が詰まっている紙面で、ほんとうに読みにくい。しかし、ほんものの作家だけが持っている描写力はひしひしと感じられる。でなければ、読まないけれど。
二〇一六年十月十一日 「ぽっくり死ぬ方法」
きょうは、一行もカヴァンを読んでいない。これからクスリのんで横になって、ちょっとは読もう。カヴァンを読んでいると、P・D・ジェイムズを思い出す。読むのに難渋したけど、さいごのほうで、すべてが結びつく快感というのか、そう、快感だな。そこに至るまでが、かなりきついんだけどね。まあね。
このあいだ、「ぽっくり死ぬ方法」っていうので検索したら、「健康で長生きしたらぽっくり死にます」って書いてあって、ぼくはそういう答えを期待したわけじゃないけど、へんに納得してしまった。
いま塾から帰った。塾の空き時間に、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んでいた。だいたい半分くらいのところだ。それにしても読みにくい。P・D・ジェイムズも相当に読みにくい作家だったけれど、ヴァージニア・ウルフを入れて、「読みにくいイギリス女性作家三人組」と名付けることにした。
アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読み終わった。カフカを読んでいるような感じだった。『チェンジ・ザ・ネーム』のほうが、独自性に富んでいたように思う。誤字・脱字はなかった。
二〇一六年十月十二日 「ぼくはひとりで帰った」
楽天のフリマで
高い本って
どんなのがあるのかしらと思って
さがしていたら
10万円のがあったのよ
マニアスイゼンノマトね
って思った
そのときふとした疑問がわきおこった
日本語って難しい
スイゼンってどう書くのかしら
スイはわかる
垂れるって漢字
でもゼンはわからない
辞書で見てみたら
涎
よだれとも読むのね
そういえば
あったわ
バナナの涎
そうよ
バナナよ
バナナ
バナナなのよねー
バナナの涎なのよ
口から垂れたわ
バナナの涎が
バナナ味の涎なのよ
子供のころ
朝
歯を磨いてるときに
口から垂れたのよ
バナナ味の練り歯磨きの涎が
自分の傷口に溺れて
アップアップ
電話のシャワーを浴びて
シャワーを電話に向ける
新しい電話だと思ってたら
昔の電話だった
電話から離れる
フンフン
それでも返事だけはあって
離れられない
ススメ学問
福澤アナ
きょうカキツバタを太田神社に行って
見てきた
なんてことはなかった
帰りに
アイスコーヒーを飲んだ
ネットカフェに寄ると
犬をつれた婦人が
そばを通った
よく見ると
どの席にも
犬がたたずんでいた
ぼくはひとりで帰った
二〇一六年十月十三日 「きょう、母さん、死んだのよ」
帰ってすぐに
実母から電話があった
「きょう
母さん
死んだのよ」
「えっ」
「きょう
母さん
車にぶつかって死んでしまったのよ」
気の狂った母親の言葉を耳にしながら
お茶をゴクリ
「また何度でも死にますよ」
「そうよね」
「またきっと車にぶつかりますよ」
「そうかしらね」
母親の沈黙が一分ほどつづいたので
受話器を置きました
母親も病気なのですが
ぼくよりもずっと性質が悪くて
悪意のない悪意に満ちていて
ぼくのこころを曇らせます
まあ
こんな話はどうでもよくて
郵便受けのなかには
手紙もあって
文面に
「雨なので……」
とあって
からっと晴れた
きょう一日のなかで
雨の日の
遠い記憶をいくつか
頭のなかで並べたりして
読書をさぼってしまいました
キリンはりんごで
グレープはあしかだった
二〇一六年十月十四日 「ボブ・ディラン」
いま日知庵から帰った。日知庵で、ノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したこと知って、めっちゃうれしかった。Fくんといっしょに祝したんだけど、Fくんといっしょに飲んでることくらいに、うれしかった。ぼくの大好きなFくんですから。いや〜、ディラン、Fくん、大好き。明日から景色が変わる。
いま、じぶんのブログのアクセス数を見たんだけど、楽天ブログのきのうの13日のアクセス数が147もあって、これまでの最高記録だったので、びっくり。だれか、ぼくのこと、どこかで書いてくれてたのかもね。かもね〜。
ジーン・ウルフ『ナイト』�機|�字 79ページ15行目「(…)わたしよりも高いぐらいで、しかも せていました」 これは「や」が抜けているのだなと思う。
ジーン・ウルフにしては、つまらない。全4巻買っちゃったので、読むと思うけど、ああ、寝るまえの読書は違うものにしよう。ひさしぶりに、アンソロジー『恐怖の愉しみ』のつづきを読もうかな。
二〇一六年十月十五日 「右肘の激痛」
きょうは、右肘の関節の痛みで夜中の2時過ぎに目がさめてから寝ていないので、ちょっと昼寝をしようと思う。
二〇一六年十月十六日 「キッス」
青年が老女にキッスした。老女は若い美しい女性へと変身した。青年は老人になっていた。彼女が老人にキッスした。すると老人は若い美しい青年と変身した。彼女は老女に戻った。二人がキッスを繰り返すたびに、このことが繰り返された。
あした、大谷良太くんちに行って、詩集『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・2016年12月刊行予定)のさいごのチェックをする。きょうは、なにも読みもしなかったし、書きもしなかった。でも、体調がよくないので、このままはやめに寝る。
二〇一六年十月十七日 「きょうは、鳩がよく死ぬ日だった。」
きょうは、鳩がよく死ぬ日だったのかもしれない。大谷良太くんと向島駅で待ち合わせて、良太くんちに行く途中、道の上で鳩の死骸があって、また、いま、きみやの帰りに、セブイレに寄ったんだけど、帰り道で、鳩の死骸が落ちてるのを見たんだけど、一日のうちに鳩の死骸を2回も見るのは、はじめて。
きみやに寄る前にジュンク堂で詩集のコーナーで、いろいろ詩集を手にして読んでたんだけど、ああ、そうだ、ハル・クレメントの『20億の針』を買おうかなと思って4階に行ったら、『一千億の針』しかなくって、ああ、売れてんだなと思って帰ったら、amazon で買おうと思ったのだけれど、帰りに西院の「あおい書店」に寄ったら、『20億の針』もあったので、『一千億の針』といっしょに買った。さいきん読んでる本がおそろしくつまんないのだけれど、1カ月か2か月前に書店でチラ読みした『20億の針』の冒頭がめちゃくちゃおもしろいことを思い出して買ったのだった。さて、買ったものの、読んだつづきも、おもしろいだろうか。ふううむ。ひゃ〜、いまページをめくったら、『20億の針』の原作の出版が、1950年だって。SFがいちばんおもしろかったころだね。そりゃ、おもしろいはず。創元も復刊するはずだわ。
きょうは、大谷良太くんちで、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の最終校正をしたのだけれど、振り返ると、ぼくは、しじゅう、自分の詩に手を入れてるので、「反射光」だけでも、詩集でバリエーションが4種類ある。最終的に収録した詩集のものが決定版になるのだと思うのだけれど、いまのところ、ことしの12月に書肆ブンから出る、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した詩が決定版になると思う。もう、「反射光」には、手を入れるつもりはないし、ほかの詩も、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した分については、これ以上、手を入れるつもりはない。きょうは、ハル・クレメントの『20億の針』のつづきを読みながら寝よう。そだ。CDが1枚、届いた。韓国のきれいなお嬢さんのCDだ。韓国語が読めないから、名前が出てこないけれど、このあいだ、ツイートしたアーティストのものだ。いまかけたのだけれど、言葉はわからないけれど、雰囲気はすごくよい。ポスターがついてたけれど、容姿には興味がないので、ポスターは捨てるけど、曲の雰囲気は、いま2曲目にうつったところだけど、いい。ジャジーで、だるい感じだ。
こんな曲を歌ってらっしゃる方だ。
https://www.youtube.com/watch?v=XrPxksvrB2g&feature=share…
というか、創元、バラードの『ハイーライズ』も復刊してたし。ハヤカワのラインアップは10月までに関してはぜんぜんいいのがなかったけれど、この秋は創元のほうがいいね。11月にハヤカワがバリントン・J・ベイリーの短篇集を出すというので、それだけが救いかな。
ちなみに、きょう、大谷良太くんちで、最終校正した、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』です。表紙は、35歳のときのぼくです。20年まえの写真です。
https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8…
ひゃ〜。いま創元のHPを見たら、アン・レッキーの三部作の完結篇・第三部『星群艦隊』が10月28日に出るっていうじゃないか。創元、すごい。第一部でぶっ飛び、第二部で堪能したラドキ戦記(だったかな?)。第三部がどうなるのか、たいへん、ひじょうに楽しみ。いまネットで調べたら、「ラドチ」だった。本棚の本で調べるよりも、ネットでさぐるってのが、めんどくさがりやのぼくらしい。そうだ。「ラドチ」だった。どうして、「ラドキ」って思ったのだろう。
そだ。韓国から届いたCD、ポスターだけじゃなくて、キャンディーも2個はいってて、サービス満点だった。
二〇一六年十月十八日 「20億の針」
ハル・クレメントの『20億の針』が、読んでて、すいすい読み進める。そりゃ、創元も再版するわな。新訳でだけど、ちょっと残念なのがカヴァー・デザイン。やっぱり、続篇の『一千億の針』とのダブル・カヴァーでなくっちゃ、よろしくなかったと思うのだけれど、まあ、いいか。
二〇一六年十月十九日 「一千億の針」
『20億の針』5分の4は読み終わった。きょう寝るまでに読み切れないかもしれないけれど、ひじょうにわかりやすいし、おもしろいSFだ。やっぱり読むものは、おもしくなくちゃね。
『20億の針』読み終わった。犯人は、3分の2くらい読んだときに、この人物かなっと思った人物だった。犯人というか、宿主は。これから続篇の『一千億の針』の解説を読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一六年十月二十日 「久しぶりに、吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った」
吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った
吉田くんとは一週間前ほど前に話をしたのだけれど
話の途中で少し待ってもらうことにしたのだ
むかしは電話というものがあって
すこしの間の沈黙が不快な感じを与えたものであるが
冷凍庫が普及するにつれて
みな沈黙する間
そこに自分が入るか
相手に入ってもらうかして
沈黙にお時間をやりすごすことにして
コミュニケーションが以前より円滑に行くようになったのである
冷凍庫から出てすぐには
頭がはたらかないので
コーヒーを二杯飲んでから話をすることにしている
吉田くんの前にコーヒーを置いて
完全解凍するのを待った
三時間ほどして
吉田くんの意識がはっきりしてから
ぼくたちは一週間前に中断していた話の続きをはじめた
アフガニスタンの青年のペニスは
ユリのめしべにそっくりだった
トイレで爆発
ホモフォビアの連中の仕業
スカンクのからだを
けりつづける
骨が砕けて
水枕のようにやわらかくなった
スカンク
ヤンキー風の青年は
といっても二十歳にはまだなっていない
少年は
はじめてのセックスは犬とだった
まじめな顔をして言う青年に唖然とする
ドラッグブルーとドラッグレッドのために
キッズがドクターを襲う
トイレに凍結地雷を仕掛けるホモフォビアの青年
「どうでもいいじゃないか
あいつらのことなんて
なんで
おれがこんなことをしなきゃやならないんだ
それに
いくらゲイだからといって
こんなものを仕掛けられなければならないってことはないだろうし
ああ……」
その青年の意識から叙述する
犬人間に小便を引っ掛けるキッズたち
ゴーストの意識から叙述する
ゴーストには違って見える
一枚一枚の葉っぱが人間の目に
藪のなかの暗闇が無数の人間の唇に
テロ
トイレで爆発
すぐにニュースが流れる
ハンカチが新聞になる
新聞が語る
そうだ
凍結地雷が
トイレのなかに仕掛けられていた
凍りついた人間犬
犬のように四つんばいになっている奴隷人間
その奴隷人間にしがみついている主人
奴隷人間の首からぶら下がったプラカード
「こいつは犬です
犬野郎です
虐げてやってください
辱めてやってください
小便を飲ませてやってください」
能の舞をする貴族
真剣の刀を振り回す九条家の御曹司
ホモフォビアのテロ攻撃
ドクター
ちんぴらキッズ
テロの爆発のすぐあとに
対話型ニュースペーパーで
犬奴隷が凍結地雷で
凍りついた姿で
トイレの前にいるのを知る
凍りついた犬奴隷に
小便をかけるキッズたち
小便のぬくもりで凍りついた犬奴隷が
じょじょに解凍されていく
ニュースペーパーで
その画像をみる青年
二〇一六年十月二十一日 「きょうは一日じゅう」
疲れがたまっていたのか、きょうはずっと寝ていた。まだ眠い。
二〇一六年十月二十二日 「筋肉の硬化」
ネットで調べてたら、筋肉の硬化は45才くらいからはじまるらしい。関節も動かさないでいると、動かなくなるらしい。やっぱり運動しなくてはいけないみたいだ。運動をまったくしないで生きてきたので、ここ1年ばかり、関節や筋肉が痛いのだな。
「苦痛こそ神である」という詩句を書いたことがあるけど、いまこうむっている関節と筋肉の痛みは半端なくて、睡眠薬をのんでいても、苦痛で夜中に目がさめるのだけれど、これが生きているということかもしれないとも思った。
でもまあ、いいか。身体はきつくなってきたけれど、この年齢でしか書けなかったものもあるのだし、と考えると、若くて亡くなった友人たちのことが頭に思い浮かぶ。彼らはみな、15歳のまま、二十歳すぎのまま、永遠に若くて、うつくしい。
とにかく、毎日、生きていくのがやっとという状態で生きているけれど、神さまも、そう残酷ではいらっしゃらないだろうから、そんなに長く、ぼくを苦痛の下に置いておかれることはないと思うのだけれど、わからない。
FBで、笑ける動画があったのでシェアした。5回連続再生して、5回とも声を出して笑ってしまった。まだ笑える自分がいることを、ひさしぶりに知った。ここ最近、笑った記憶がなかった。
ユーミンのアルバムを3つ買った。1枚も持っていなかったのだ。LP時代に持ってた2枚と3枚組のベスト。2枚のアルバムは、「時のないホテル」と「REINCARNATION」。ちょっと感傷的になってるのかなあ。さっき、「守ってあげたい」をチューブで聴いて、フトシくんのこと思い出したし。
チューリップのアルバムも買った。タイトルは、「Someday Somewhere」。LP時代には2枚組だったけど、CDじゃ、どうなんだろ。あ、2枚組だ。
クスリのんで寝よう。ついつい、懐かしくって、LP時代に持ってたものを買ってしまった。ユーミンの3枚組ベストは別だけど。ちょうど10000円くらいの買い物だったんじゃないかな。さいきん、本代にお金をあまり使ってないから、いいか。
あ、10000円超えてた。粗い計算してるなあ。それでも、まあ、55年、生きてきたのだし。あと数か月で、56才になるんだし。部屋にあるもの、好きなものばっかしだし。本に、CDに、DVDに、怪獣のソフビ人形に、って、これだけか。単純な人生だわ。いつ死んでもよい。おやすみ、グッジョブ!
二〇一六年十月二十三日 「全行引用詩」
言葉とは何か、自我とは何か、という命題をもっとも簡潔に表現できる対象として、哲学があげられるが、ぼくには、哲学は、新プラトン主義で目いっぱいなので、詩を通して考えることにしているのだが、ぼくの方法がしばしば拒絶的な反応を引き起こすことが、ぼくには不思議で仕方ないのだが、どうだろ。引用だけで作品をつくって、30年くらいになるのだが、いまだに批判されているのだが、ぼくには批判されている理由がまったくわからない。著作権法に関して引用の項目をクリアできるように、引用元を逐一、本文に掲載しているにもかかわらずである。ひとりの作者からの引用は違法性が高いので、なるべくたくさんの作者からの引用で構成しているのだが。まあ、ぼくのつくる「全行引用詩」が、容易につくれると思って批判している様子も見受けられるが、つくるのが容易でないのは、つくってみれば明らかなのだが、しかし、もしも容易ならば、ぼくは容易に作品がつくれるような方法を提示したことになる。ぼくのつくったものに、個々のピースに関連性がないものがあると指摘する者がいたが、必ず詩句には関連性がなければならないと主張することは、ぼくには意味がないと思われるのだが、そんな基本的な事柄においてでさえ、見解が異なるのだが、ぼくは、ぼくの信念によって、作品をつくりつづけるしかないと思っているのだが、あまりにも批判的な見解が多いので、ほんとうにびっくりしている。引用において個性が発現するという見解さえ持ち合わせていない御仁もいらっしゃるのだ。関連性のないように思われるものを、関連性のあるもののあいだに置くと、言葉がどのような影響を受けるのかとかいった実験もかねているのだが、ぼくの「全行引用詩」における実験性にはまったく言及がないというのが現状である。30年近く、「全行引用詩」を書いているのだが、ぼくが生きているあいだに、ぼくの「全行引用詩」は、ごく少数の方たちからしか理解されないのかもしれない。まあ、それでもいいのだけれど。ぼくの人生は、ぼくが歩んでいくもので、その途中でへんな邪魔さえされなければいいかなと思っている。
きのうのうちに、『詩の日めくり』の第二巻が1冊売れてたみたいだ。うれしい。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/499078863X/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477214789&sr=1-8…
ハル・クレメントの『一千億の針』 予想ができない展開で、いまちょうど半分くらいのページまで読めた。きょうは、寝るまでつづきを読もう。
いま思い出したのだが、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」について、とてもおもしろくて、有益な見解を示してくださったゼッケンさんという方がいらっしゃった。また、ネットのなかで、ぼくの「全行引用詩」のおもしろい解析をされた、こひもともひこさんがいらっしゃった。また、澤あづささんは、ぼくの「全行引用詩」を評価してくださって、『全行引用詩・五部作』上下巻の序詩をネット上で紹介してくださった。あまつさえ、澤あづささんは、すずらんさんとともに、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」を擁護してくださった。すずらんさんは、また、ぼくの「全行引用詩・五部作」をご自身のブログに転載くださったのだった。ありがたいことだと思う。ついつい、ひとり孤立しているかのように錯覚してしまっていた。批判ばかり目にしてしまって、冷静さを失っていたようだ。
ひさびさに、 VERY BAD POETRY と The World's WORST POETRY のページをめくった。日本には、こういった類の詩のアンソロジーがないのだね。あったら、ぼくなら、すぐ買っちゃうけどな。こういうものがないっていうのは、日本の国民の気質によるのかな。ユーモアという部分だけど、たとえば、紫 式部の持っていたユーモアって、ちょっと、ぼくの抱いているユーモアより皮肉に近い感じだしね。ああ、もうこんな時間だ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!
二〇一六年十月二十四日 「騙る」
ジーン・ウルフ 『ナイト �機戞|�字 179ページ終わりから3行目「騎士の名を る連中が」 「名乗」が抜けている。それに加えて、この部分の「を」の文字の上に「1」という数字が重なっている。いったい、どういう校正家をやとっているのだろう、国書刊行会。この本、これで2か所の脱字だ。
国書さんからメッセージがあって、正誤表を見せていただいたら、ぼくが指摘したところ、「名乗」じゃなくて、「騙」だった。たしかに「騙る」しかないな。ぼくの詰めが甘いというか、言葉について、まだまだだなってことだな。ああ、恥ずかしい。詩を書いて約30年。
ユーミンのベスト『日本の恋とユーミンと。』が到着。さっきからかけてるんだけど、3枚目のCDの選曲、ぼくにはよろしくない。しかし、まあ、1枚目と2枚目のCDには、なつかしいものがつまっていてよい。「守ってあげたい」で、フトシくんの記憶がよみがえる。ぼくが23才で、彼が21才だった。フトシくんが、ときどき、ぼくの目を見つめながら、マイクを握って、カラオケで「守ってあげたい」を歌ってくれたのだけれど、フトシくんのことはまだちゃんと書いてなかったから、そのうち書こう。フトシくんはイラストを描くのが趣味だった。やさしい男の子だった。
きょう届いたユーミンのベストに、「瞳を閉じて」が入ってなかったので、amazon で、『MISSLIM』を買った。
あとすこしで、ジーン・ウルフの『ナイト �機戮鯑匹濬�わる。
ユーミンの「海を見ていた午後」を10回連続くらいで聴いている。ひさしぶりに日本語の曲を耳にして、日本語の歌詞に耳を傾けている。
ユーミンの曲の影響だろう。きょうは、しじゅう、フトシくんのことを思い出していた。失ったのではなく、築くことができなかった時間について考えていたのだった。もしも、もしも、もしも、……。やっぱり、ぼくたちは、百億の嘘と千億のもしもからできているような気がする。
現実の生活では、いっさいユーモアのない生き方をしている。書くものは、ユーモアを第一に考えているというのに。矛盾しているのだろうか。
二〇一六年十月二十五日 「フトシくん」
ユーミンの『時のないホテル』と『REINCARNATION』が到着。何十年ぶりに聴くのだろう。『時のないホテル』から聴いている。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思いながら聴いている。
野菜でできた羊。野菜でできた棺。野菜でできた執事。野菜でできた7時。
ジーン・ウルフ 『ナイト �供戞仝躬� 38ページ 6行目「どんな感じが確かめようと」 これは「が」じゃなくて「か」ですね。脱字だけではなくて、誤字もあったのですね。なんだかなあ。国書刊行会の校正家はぜったいにほかの人に替えてほしいなあと思う。読んでて興ざめる。
2枚のアルバムが届いても、ベストに入ってた「海を見ていた午後」を繰り返し聴いている。この曲が思い起こさせるイメージが、強烈にフトシくんとのことを思い出させるのだ。『ブレードランナー』の映画にでてくるレプリカントのひとりのセリフが木霊していた。「おれの目はあらゆる美しいものをみた」だったかな。フトシくんとは短いあいだしか付き合ってなかったけれど。そうだ。フトシくんとは、その後、一度も会っていないのだけれど、これまでの経験で、10年とか20年とか会っていないと、別人のように変貌してしまっていることが多くて、ぼくは、塾からの帰り道、「そうだ。ぼくの目もたくさんのうつくしい者たちの姿を見てきたけれど、そのうつくしい姿がうつくしくなくなるのまで見てきたのだ。」と思ったのだった。2週間ほどまえ、むかし、かわいいなあと思ってたひとと河原町ですれ違った。いまはもう微塵もかわいらしいとは思えなかった。ぼくの目は表面しか見えないようだ。これまで付き合ってきた男の子たちとは、いちばんうつくしいときに出合って、別れたのだと思う。ぼくの作品は、そのうつくしさを写し取っているだろうか。「高野川」、「夏の思い出」といったものが、それだけど、「どこからも同じくらい遠い場所」や「陽の埋葬」のいくつかも、その類のものだった。そういえば、思潮社オンデマンドから出た『ゲイ・ポエムズ』のさいごに収載した作品にもうつくしい青年が出てくる。ぼくの性格からくるものだろうけれど、自分のほうから相手の名前を聞くことができなかった青年のひとりだった。そういえば、「月に一度くらいやけど、女よりも男のほうがいいと思えるねん。」と言っていた中国人の青年の名前もわからない。
「海を見ていた午後」が入っているオリジナル・アルバムは、あしたくらいに到着するだろう。「うつくしくなくなるのまで見てきた」なんと浅はかで、薄っぺらい目をしているのだろう、ぼくの目は。でも、この目でしか、ぼくには見えないのだから、仕方ないな。
ほんものの詩人って、どんな目をしているのだろう。
二〇一六年十月二十六日 「チューリップは失敗だった。」
これから塾へ。きょうも学校から帰って、到着したユーミンの『MISSLIM』を聴いていた。なかでも、「海を見ていた午後」を何回も聴いていた。どうしても、フトシくんのことが思い出される。
塾から帰ったら郵便受けに、チューリップの『Someday Somewhere』が到着してた。さっそく聴いてる。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思い出してる。出来のバラバラの楽曲たち。こんなへんてこな2枚組のアルバムだったんだと思ってる。四人囃子の出来とは愕然と異なる。アルバム評価が高い理由がわからない。懐かしくてよい曲はあるのだが、数曲だった。買わなきゃよかった。ついでに買おうと思ったのが間違いか。なんか聴きつづけてて、気持ち悪くなった。いい曲だけ聴くことにするけど、なんか、めっちゃ損した気分。出来は1枚目よりも2枚目のほうがいいと思うけれど、財津和夫の声って、こんな気持ち悪かったっけ、と思うほど。なんだろう。高校生のときはよく聴いてたのに。
四人囃子のもので1枚欲しいと思っていたのがあって、amazon 見たら、森園勝敏のアルバムが2014年に再発売されていたので、3枚買った。1枚900円ほどで、いま2000円を超えたら送料無料になってたので、3枚のアルバムを買っても2700円台だった。これは、ミスなしによいと思う。
いや、チューリップ、ほんとダメだわ。こんなんやったんやって感じ。聴けば聴くほど、財津和夫の声が気持ち悪い。だからか、ほかのボーカリストの曲がいいと思うのか、財津和夫じゃないボーカルの曲を選んで聴いている。例外は、1曲だけ。「8億光年の彼方へ」 これは許せる。これとタイトル曲くらいかな。「哀別の日」のようないい曲が、あと何曲かあればいいのに。「まだ闇の内」は好きな曲だった。チューリップは期待し過ぎだったのだなあと思う。いま、四人囃子の『ゴールデン・ピクニックス』を聴いてる。あ〜あ、なにしてるんだろう。まあ、いいか。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一六年十月二十七日 「脱字」
ジーン・ウルフ 『ナイト �供戞|�字 317ページ 最終行 「あたかくてやわらかい」 「た」が抜けている。「あたたかくてやわらかい」だろう。
二〇一六年十月二十八日 「インスピレーションの枯渇」
いま日知庵から帰ってきた。竹上さんに、さいきん、ぼく、インスピレーションがわかなくって悩んでるの、と言うと、「映画でも見ましょう」ということで、11月3日にいっしょに映画を見ることになった。女性とふたりで映画を見るのは、ぼくの人生ではじめてのことなので、自分でもびっくりしている。
あしたはCD聴きまくって、ジーン・ウルフを読もう。『ナイト �供戮△箸發Δ舛腓辰箸能�わり。だんだんおもしろく、というか、かなしみのまじった、おもしろさに突入。時間の操り方が超絶なのだな、ジーン・ウルフは。ぼくも見習おう。
竹上さんを見習って、ぼくも小説を書こう。という話を、日知庵でしていた。というか、ぼくは、もともと、小説家になりたくて、家を出たのだった。小説はけっきょく、2作書くのに数年かかってしまったので、見切りをつけて、詩に移行したのだった。そのへんの事情は、「陽の埋葬」に書いているのだが。書いた小説のうち、SFは、『負の光輪』というタイトルで、ネットで検索してくだされば出てくると思うけれど、もう1作の自伝的な小説は一時期公開していたのだけれど、いまは読めないようにしてもらっている。『マインド・コンドーム』というタイトルのものだけれど。
二〇一六年十月二十九日 「森園勝敏」
森園勝敏のアルバム3枚到着。『JUST NOW & THEN』から聴いている。『クール・アレイ』、『スピリッツ』の順番に聴こうかな。逆でもいいけど。ここさいきん買ってる20枚くらいのアルバムのなかで、いちばんゴキゲンなナンバーばっかし。ベストアルバムに近いアルバムで、新曲は2曲だけなのだが、ほかの曲はリテイクらしい。ぼくに確実にわかるのは「レディ・バイオレット」だけだったけれど。聴き込めば、もっと違いがわかるかもしれない。
いま日知庵から帰った。はまちゃんに、ぜんぶ、ごちそうになった。ありがとうね。はまちゃん。いつか、ぼくが、お金持ちになったら、おごり返すからね。あっ、ぼくが、お金持ちになることはないか。でも、そういう気持ちはあるからね。はまちゃん。おやすみ、グッジョブ!
毎日、自分の詩集の売り上げチェックしてるんだけど、きょう、『詩の日めくり』第3巻が1冊、売れたようだ。うれしい。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788648/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477758192&sr=1-8…
二〇一六年十月三十日 「竹田先生」
きょう日知庵で、竹田先生に、「直販で買いますから、詩集を持ってきてください。」と言われた。書店流通じゃない詩集ね。書店で出たのはぜんぶ買ってくださってるから。これから、日知庵に行くときは、さいきん出た詩集を持って行かなくてはならない。10冊くらいあるんですけど〜。ことしだけで7冊出している。
二〇一六年十月三十一日 「誤字」
今月が31日まであることに、いま気がついた。おやすみ、グッジョブ!
ジーン・ウルフ 『ウィザード �供戞仝躬� 238ページ 3行目 「見あげた心がけた。」 ここは、「心がけだ。」のはず。 このあいだ、国書さんから正誤表が郵送されてたけれど、まだまだありそうだな。 ほんと、国書の校正家は替えてほしい。安くない本なのだから。しかも4巻もの。9246 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/07 15:42:40)
山田太郎さんへ
お読みくださり、ありがとうございました。9246 : [返信] 田中宏輔 ('16/11/10 17:03:19)
こひもともひこさんへ
お読みくださり、ありがとうございました。
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