●ring
青い花が好きだった赤い少女が白い文法の群生する野原を駆けていく夢を見たんだ、と、洩らした傍らの友人は墨のように真っ黒でなぜか直視できない、明け方の浜辺、打ちあげられた魚たちが至るところで力なく跳ねている、その上空を猛禽たちが鋭い目つきで旋回している、その光景を黒い影たちがゆらゆらと円状に取り囲んで眺めている、(そして、遠くからそのさまを観察する何組もの私と友人、)なぜ死は静寂として齎されないのだろう、と、友人は言う、波が嘲るように声をあげる、いきものはひたむきに躰をくねらせるのにどこまでも静寂だ、静寂に色彩を宛がうように、ぐるぐると幾重に俯瞰の渦を巻き、浜辺に打ち上げられた青い少女が昨夜食べた赤い花は文法の白い野原に群生しているんだよ、と、影たちは口々に言う、彼らもまた文法なのか、
●kasou
日記を書く、私が大切に育ててきた庭のくちなしに火を放つという架空の内容の今日、(炎に浮かぶオオスカシバの幼虫は痙攣しながら溶けていきましたまるで焼け焦げて歪む写真の像のように、)やがて炎は私の家をも呑みこみ爆ぜるのだろう、ばちばちと音を立てて炎上する私の家で生活していた私も炎上する、なんの比喩もそこに介在できない、かつてここに私の家があったころたしかに私はここで生活していました、していたことがあります、と、語るための、熱、(黒い父や黒い母が炎の中に揺らめいているのが見えました、知らない人たちでした、)インクで汚れていく日記帳、文字が咲き乱れている、ね、(ふいに羽音が聴こえて顔を上げると煙る空にたくさんのオオスカシバが舞っていました、)火の粉、空から降り注ぐひかりの鱗粉、透明の翅、色褪せる水の深淵から数えきれないほどの羽音が溢れ、色濃い静寂が炎の喧騒する輪郭を舐める、白昼のさなか、
●eyes
外人の青い瞳の中に指を入れてかき混ぜるとします、赤い語彙が溢れますか、そしてそれをあなたは読解できますか、と、教授は私に問う、外人のことなんてなにもわかりませんなぜなら私が殺した人々はもはや外人ではないから、私の黒い瞳のしじまの中に指を入れる私たち、かき混ぜる、あるいは混ぜられる、赤く染まる視界、射精、吐き出された私の血溜まりにはたくさんの外人の瞳が転がっているから、青や、赤、色彩の花畑、文法を摘んでいく少女は傍らで干からびている私の死体には目もくれない、あなたが外人だから、と、教授は言う、私は答えない、答えられない、(外人だから、)
氷晶、幾数の四角形、あざやかな指が延びていく、枝、野原はやがて森になるのさ、
●yagate
かつて、から
たくさんの水は溢れて、
それを血溜まりと呼ぶ外人は歩き去り、
文法が手を広げる色彩の森の中で、
比喩されたいきものたちの、
かつて、に、
相当する言葉もないまま、
黒く透けた母や、父が、
何度も、芽吹いたり、
刈られたりする、
やがて、
しらないひとのくにから、
たくさんの羽音が聴こえるだろう、
俯瞰が群生する水際の、
明度、影が語彙をもつ白昼のさなか、
外人でありたかった私たちの黒い瞳がこぼれ、
外人である私たちの青い瞳がこぼれ、
森の血溜まりのなかに転がる、
転がった、瞳が、
一斉に割れ、
青い瞳から黒い外人が孵り、
黒い瞳から青い外人が孵り、
その上空で
夥しい数の父や母が、
騒がしい羽音を立てる、
(なぜ静寂として齎されないのだろう、)
今朝、
青い花が好きだった赤い少女が白い文法の群生する野原を駆けていく夢を見たんだ、
と、傍らの友人に告げる私の体は真っ黒でなぜか直視できない、
空から淡くひかる鱗粉が降ってくる、
なにひとつ比喩ではない浜辺で、
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20140129_154_7262p
- 浅井康浩 :
傑作。
読み手は、この物語を死の物語として読むことなく、
実りあるテクストとして玩味することこそ、求められているのではないか。
時間がないので素材だけを。
ひとつの視点として、「文法」との「未知」との言語の出会いにより引き起こされた言語活動として読むこと。
>外人の青い瞳の中に指を入れてかき混ぜるとします、赤い語彙が溢れますか、そしてそれをあなたは読解できますか
国語には安定した意味とレフェランスがあり、事物は言葉によって支えられ、意味と目的の安定したシーニュとして存在する。しかし、未知の新しい世界に足を踏み入れると、この安定したシーニュの世界は崩れる。出来事に意味を保証するコードがなくなるので、現象、事物は、方向性のない、無目的な記号となる。(略)新しい世界では、一度、全て意味が宙吊りである無目的な記号に囲まれるが、これをシーニュに対して、アンディス(徴候、手がかり)の世界と呼んでみよう。この世界の意味を知ろうと、彼女は合理的で整然とした言葉で問い掛け、自らの状況を説明していく。しかし、それは通常の国語の使用とは全く異なる。意味が宙づりのままの言語の使用であり、国語から離れた、相対的なロゴスの使い方である。
(高根沢紀子「多和田葉子 現代女性作家読本 」)
あるいは
>日記を書く、私が大切に育ててきた庭のくちなしに火を放つという架空の内容
なぜ、架空の物語とならざるをえないか、という視点から。
かれらは異国の身振りを注意深く見つめ、それを模倣することを学ぶ。正確に、しかもひっきりなしに模倣すべき身振りがつけ加えられ、反復されていく。このような時間刻み、分刻みの身振りの模倣、その積み重ねと反復は、とてつもなく人を消耗させる。なぜなら、かれらの従事する仕事が、このような身振りを学習する時間を奪ってしまうのだ。身振りの模倣に追われるなかで、身体からは意識が失せていく。そして、言葉の模倣はさらに思うにまかせぬものとなる。……かれにとってまったく知らない異国の言葉は、耳にすれども沈黙となんら変らぬものであった。その状態を打破すべく、かれは十二個の単語を学んだ。しかし、なんと言っても驚かされたのは、かれがその単語を目にすると、言葉の意味が変わってしまうことであった。かれはコーヒーを注文してみる。しかし、その言葉はバーのウェイターには、トルコ人がコーヒーを注文すべきでない場所で注文しているような不遜な意味にとられた。また、かれは「女の子」という言葉を覚えた。だが、かれがこの言葉を使うと、それは自分がさかりのついた犬だということになってしまった。どのようにしたら、このような言葉の障壁を乗り越えていくことができるのだろうか。
思うにまかせない言葉が翻訳を挫折させ、かれらに強要された沈黙を突破することに蹟かせる。そのとき、「身体からは意識が失せていくのだ」。
(ホミ・K・バーバ 「ナラティブの権利」)
あるいは正常な言語活動はなぜ挫折しつつも、最後まで「私」をしばりつけるのであろうか、という視点から。
>(なぜ死は静寂として齎されないのだろう、と、私は、言う、)
いや、だがここではあえて、最後にささやくことになる言葉が、
>夥しい数の父や母が、
という、かつての私が所属し、かつ帰属しえた「世界」への郷愁を帯びつつもなぜそのような「かつて/現在」の「私」の交差が起こった際に「在地性のはらむ汲み尽くせない歴史の意味を明るみに出し、歴史的時間を空間的なものへと変質させ、「地球上の一部分に過ぎない空間を国民の生きる歴史的な場に変えていく在地性の創造性に満ちた人間化」を惹起する」ささやきでなかったのか、ということだろう
『イタリア紀行』では、ゲーテの表現のもつ現実主義的な要素が、ロマン主義的な要素に打ち克っていくさまが見てとれる。ゲーテの現実主義的なナラティヴがもたらすのはネイションの歴史的時間である。そこにおいて、まさしくイタリア的な日常が、具体的な時間経過のなかへと可視化されて現れ出でることになる。「教会の鐘が鳴り、念仏が唱えられはじめる。すると、女中が灯のついたランプを持って部屋にやってきて、『こんばんは』という。もし、そんな時間を生きるイタリア人にドイツ的な時間感覚が押しつけられたとしたら、途方に暮れてしまうことだろう」。バフチンにとって、このようにゲーテが描写した、イタリアの日常生活の時間を区切る細やかで根本的で、しかもいくぶんか不規則な鐘の音こそが、在地性のはらむ汲み尽くせない歴史の意味を明るみに出し、歴史的時間を空間的なものへと変質させ、「地球上の一部分に過ぎない空間を国民の生きる歴史的な場に変えていく在地性の創造性に満ちた人間化」を惹起するものなのである。
(ホミ・K・バーバ 「ナラティブの権利」) ('14/01/29 11:10:50 *2)
- すずらん :
私がいま秘かに望んでいる実現可能な詩創作のイノベイションの方向が幾つかあるのですが、この作品にその方向の1つmesoscopic領域(私だけが注目している領域でもありませんのでご存知かもしれませんが)の描写を見ることができて嬉しく思いました。●kasou、うまく創作し直されましたね。偶々他サイトでこの改稿前の作品を拝読したことがあって、そのときより立ち位置をぐっと読者のほうに近づけて書かれていて、一読者の私としてはとても面白く感じました。 この作品を超えてゆくことについて書き忘れたので、少し追記。私は作者の作品をほとんど知らないけれど、ここまで1つのaspectで書けるのなら複合的なaspectsで書くという方向に進んでもよいのではないかと思います。それには自己打破という精神的苦痛を伴うけれど創作とはそういうものではないでしょうか。 ('14/01/29 14:44:22 *4)
- WHM :
一連の渦を巻くような叙述の仕方とか、昔の浅井さんの書き方に似てて好きそうですよね。私は、どこまでいってもこれは日本語だから、ヨーロッパと比較して多言語経験持ち出すのは当たらないとは思いますけど。むしろ、視覚が強調されて言葉の軽重が混乱する感じ(音とか運動に回帰しようとする感じ)は、日本語っぽいと思った。花は桜木、みたいな。技巧が凝らされてるのは結構なことだけど、ちょっと窮屈かな。 ('14/01/29 21:03:31)
- case :
凄い作品だな、というのはわかる。わかる、けど、んー、どうだろ。わたしはうまく潜れないかなあ。列挙される色(青・赤・白・黒)にはじかれる。それをそのまま置いたら記号じゃねえかよ!というのを逆手にとった、所詮記号に過ぎないよね全部文法の結果だよね、みたいなんが、なんというか、そういうものに面白味を見いだせないというか。
○ring
黒は直視できない色として、友人や影たちが設定される。友人の夢で見た少女と花の色が反転した形で影たちが口にしている。「打ちあげられた」という同じ状況から魚たちと青い少女がイコールで結ばれ、つまり騒がしい死として青い少女を見直すと、友人の夢で見た赤い少女は静寂の生であるのだろうか。
○kasou
この聯だけは飛びぬけて好き。架空の日記を書くよ、と宣言しつつ、括弧内で炎に包まれるイメージをしっかり置いているのがいい。これで、続く私の家の炎上も炎の中で揺らめいている黒い父母も煙る空も具体的な映像として読み進められる。こうした視覚的な強調を冒頭で置いておくと、「なんの比喩もそこに介在できない」って言葉が映えるんだなあっておもいました。煙、灰、火の粉からの降り注ぐ鱗粉のイメージまでは追いかけられたんだけど、最後の羽音だけが少し唐突だったかな。燃え盛る炎の音、それと対比的な炎の静寂さがすでに際立ってしまっているからなのかな。
○eyes
外人ってのは文法の異なる存在ってことだとおもふんだけど、正直この聯は読んでいてたのしくない。静寂をしじまと言い変え、白は白昼から射精へ、赤は炎から血だまりへと変わっていく。わたしの死体とは文法から外れてしまった者=外人ということだろうか。
○yagate
羽音のイメージがここにやってくる。「かつて」とは過去ではなく、かつてとしか表記できない何かであり、生まれて生きて死んでいくことを何らかの言葉で説明=比喩されてしまうものたちの、言葉に出来ない領域。と捉えてみると、色を記号として扱い続けること(つまり、説明=描写を避けること)も納得できるんだ。
だけど、うーん。わたしはこの作品を傑作とは呼びたくないかなあ。すごく考えて作られてるし、読者へのくすぐりも工夫しているようにおもうんだけど、なんというか、カタイ。もっとトベるだとう、と。 ('14/01/30 01:48:36)
- にゅーおーだ :
どこかでみたことあるような まぁそれはいいや ただ先にいっとく この書き方じゃ絶対に越えられないものがあってそれに気付いたらこういう作品にうんざりしちゃうかもね このことは書き手として気付いてない読み手には絶対わからない ('14/01/30 09:01:24)
- 印象派 :
反転する様々な色の記号。冒頭からして表裏一体二項対立の図式がみられる相対的な描き方は、これが表層に描かれながら言語記号の意味作用を体系的な軸に置かれているのは誰がみてもわかる様子に書かれています。が、●kasouには美しさを感じますね。火葬または仮想や仮装ともとれる。この聯で意識下に於ける内面の破綻が自己表出にみてとれます。(なんの比喩もそこに介在できない)わたしが描くなかのわたしがみる幻想に於いて、この二重性を意味する言説行為は現存的に何を意味していると云えるのだろうか。この見解は同じく(真っ黒で直視できない)と連続して、意味の統合をひとつの解釈として置き換えることをこの詩のなかで否定的に捉えています(赤と青を混ぜ合わせれば黒になりますからね)。
筆者は共同幻想の夢でもみたのだろうか?
文法、語彙、、それにしても一目瞭然と提示された表記が少しみえすいてはいないか。読者に対して指示された表示がテクストとして圧迫感を強いられて読めてくる。外人なんて表記が客体的に使用されたのは、つまりテクストとしての枠を越えられなかったせいだろう。観念的にみれば、拡げられた幾つもの境界の線がひとつの狭められた輪郭の中に無理やり押し込まれた様子に読めてくる。 ('14/01/30 13:02:16 *11)
- エルク :
作者自身が持つ強烈な憧れの対象を色っていう記号に置き換えて展開させてるのかなと感じた。意識的に混在させてるけど循環(円環)する死生観だったり、自分が持っていないものを持つ他者(外人)への羨望とか。俯瞰って言葉が出てきてはいるけれど視覚化しようとしてる場面では見上げてる視点が多いのはきっと、憧れからくる作者の無意識的な姿勢のあらわれかなと。
黒は死のような避けて通れない運命のことと捉えたけど、作者には夥しい生と死は蓄積して(自分自身の死さえも)未来の礎になると考えてるところがあるようだから、作中では死というものを嫌でも想起させる羽音を「静寂として齎されない」もの、つまりは死が完全な無(静寂)ではなくて全てのものへ還っていくその時のためのきっかけとして、または読者に知覚させやすくするためのキーガジェットとして羽音を使ってるんだと思った。ただ羽音を騒がしいって書いてるから、自分が死んだらもう全部関係ないから静かに眠らせてくれよ、みたいな思いはあるかもしれないけどね。
解釈する分には自由度が低いせいなのか窮屈だと感じる人もいたみたいだけれど、個人的には作者の繊細な語彙の使い回しが心地良かったから読んでてとても楽しかった。
比喩、比喩、比喩、と重ねてからその最後に
>なにひとつ比喩ではない浜辺で、
すべてをひっくり返すようなフレーズが恐ろしく繊細で強烈だった。
注文をつけるとしたらイメージの飛ばし方が予定調和だから羽虫の視点の如くもっと飛ばして欲しかった。うまく飛ばせたら繊細さと力強さを併せ持ったより良い作品になると思う。 ('14/01/30 20:50:45 *6)
- 感想くん :
夢をみているみたいだなと思いました。よくわからないけどもはやおめでとうございます。 ('14/01/31 11:31:13)
- 感想くん :
二回読んでもかっこいい。 ('14/01/31 11:44:57)
- 明日花ちゃん :
初書きの時の方が好き。
これ告白?もうすぐバレンタインだなんて!
昇華され過ぎて逆にくどくなったね ('14/01/31 14:47:55)
- 紅月 :
返信が遅くなってしまって申し訳ありません。
●浅井さん
お久しぶりです。
>ひとつの視点として、「文法」との「未知」との言語の出会いにより引き起こされた言語活動として読むこと。
私は毎朝バイクで通勤しているのですが、信号待ちをしているときなどふと空を見上げて、空が青いなー、なんて思ったりするんですけど。空ではない空や青ではない青を私はイメージできないし、たとえば青い空とblue skyは私のなかでは違う概念なんですよね(私が単に英語が苦手なだけかもしれませんけれど)。あるいは、語彙をまだ獲得していない赤子にはこの世界はどのように定義されるんでしょうか。その頃の記憶が未だ私たちに残っていれば世界はまた違った見え方をしたのかもしれません。
>あるいは正常な言語活動はなぜ挫折しつつも、最後まで「私」をしばりつけるのであろうか、という視点から。
>>(なぜ死は静寂として齎されないのだろう、と、私は、言う、)
すみません、投稿してみてなんとなく不恰好のように思えたので当該部分を改訂してしまいました。この場で一言お詫びさせてください。
余談ですが、無題の詩と聞くとなんとなくいつも浅井さんの詩を連想してしまう自分がいます。そんな浅井さんに賛辞をいただけたのは僥倖です。
以前、某所で浅井さんに言われた言葉は今でも覚えています。
>報いる、では弱いです。
>「あなた達」を「滅ぼす」ぐらいにならなければ、書いている意味はありません
滅ぼしてやろうという気持ちはまだ枯れていません。書けるうちは書き続けようと思います。
●すずらんさん
こんにちは。
まさかすずらんさんだったとは。 向こうでは返信できなくて申し訳ありませんでした。
改稿にあたってどこまで書いてよいのか、書きすぎてはいないか、という思いがあったので少し安心しています。
>私は作者の作品をほとんど知らないけれど、ここまで1つのaspectで書けるのなら複合的なaspectsで書くという方向に進んでもよいのではないかと思います。それにはという精神的苦痛を伴うけれど創作とはそういうものではないでしょうか。
私に終始しつつも複合的に書いているつもりだったのですが、そうは読めないようでちょっと反省しています。自己打破、というのは私のなかでは常に課題のひとつです。コメントありがとうございました。
●WHMさん
こんにちは。なんだかんだでWHMさんも私もbungoku歴が長いような気がするんですが、あんまりお話しする機会がありませんでしたね。レスをいただけて嬉しいです。
>むしろ、視覚が強調されて言葉の軽重が混乱する感じ(音とか運動に回帰しようとする感じ)は、日本語っぽいと思った。花は桜木、みたいな。
ここはすごく共感できます。日本語で書かれた詩はやはり日本語から逃れることができないので、多言語性への言及がどこまで有効なのかというのは考えるべきことのひとつであろうと思います。
>技巧が凝らされてるのは結構なことだけど、ちょっと窮屈かな。
窮屈さを解消できなければ読み物としては欠陥なので、猛省したいと思います。ありがとうございました。
●caseさん
こんにちは。今回はご無理を言ってしまってすみませんでした。
>凄い作品だな、というのはわかる。わかる、けど、んー、どうだろ。わたしはうまく潜れないかなあ。列挙される色(青・赤・白・黒)にはじかれる。それをそのまま置いたら記号じゃねえかよ!というのを逆手にとった、所詮記号に過ぎないよね全部文法の結果だよね、みたいなんが、なんというか、そういうものに面白味を見いだせないというか。
わかります。もともとこの詩はオオスカシバの聯を軸にしてもっと写実的な詩として書きあげる予定だったのですが、だんだんこういう方向性へシフトしていってしまいました。なんとなく今は自分の興味がメタ的な作風に向いているのですが、結局こういう方向で突き詰めていけば結果として筆者である自分の首を絞めることにしかならないのだろうし、確かに書き進めるうちに強くなっていく空虚感は否めないのですが、その先に何を書けるのか、何が書けるのか試してみたいという思いがあります。
ただ、caseさんに面白みを感じさせられなかったのは単に私の筆力の問題だと思うのでその点は猛省したいです。申し訳ありません。
>列挙される色(青・赤・白・黒)にはじかれる。
一聯目の色の列挙が苦しいという評をいくつかいただきましたが、私自身引っかかっている部分ではあります。改稿の段階で丸々削ってしまうことも考えたのですが、自分のなかでこの詩の核となるコードのひとつだったので残しました。もう少し別の表現を考えるべきだったかもしれませんね。
>煙、灰、火の粉からの降り注ぐ鱗粉のイメージまでは追いかけられたんだけど、最後の羽音だけが少し唐突だったかな。燃え盛る炎の音、それと対比的な炎の静寂さがすでに際立ってしまっているからなのかな。
その部分は改稿時に加筆した部分ですので、やはり書き手のテンションがやや異なっているのかもしれません。いま読み返してみると確かに唐突かなという印象はありますね。炎の静寂さと喧騒さを羽音と同調させながらここで一度強調しておきたい、というねらいはありました。
>正直この聯は読んでいてたのしくない。
三聯目は他よりも概念的というか、視覚的ではないからでしょうか。以前から感じていたのですが、私の詩はcaseさんのような読み筋に弱いのかもしれません。描写力に欠けるというのは私の課題だなと改めて認識しました。ことにbungokuにおいては描写が要ですからね。精進します。
>すごく考えて作られてるし、読者へのくすぐりも工夫しているようにおもうんだけど、なんというか、カタイ。もっとトベるだとう、と。
やはり窮屈ということですね。自分自身の課題が浮き彫りになった気がします。批評ありがとうございました。糧にします。
●いかさん
こんにちは。
昔のいかさんの作品の影響を多分に受けていることは否定しません。それこそ舐めるように読んできたので。
>この書き方じゃ絶対に越えられないものがあってそれに気付いたらこういう作品にうんざりしちゃうかもね
昨今のいかさんはずっとそのことを仰ってますが、わたしはまだその見地に到達していません。書けるものを書いていくしかないと思っています。その先で失意に暮れることがあったとしても仕方ないかな、と。書きたくないものを書くことのほうがよっぽど苦痛なので。
まあ、兎にも角にも、まずはその位置まで追いすがりたいと思っていますよ。
コメントありがとうございました。
●印象派さん
こんにちは。
>筆者は共同幻想の夢でもみたのだろうか?
国家が共同の幻想ならば国語だって共同の幻想であるから、空が青いのもきっと共同の幻想なのでしょう。なんの比喩も介在できないのではなく、むしろあらゆる事象はすべて比喩なのかもしれませんし、幻想なのかもしれません。
>文法、語彙、、それにしても一目瞭然と提示された表記が少しみえすいてはいないか。読者に対して指示された表示がテクストとして圧迫感を強いられて読めてくる。外人なんて表記が客体的に使用されたのは、つまりテクストとしての枠を越えられなかったせいだろう。観念的にみれば、拡げられた幾つもの境界の線がひとつの狭められた輪郭の中に無理やり押し込まれた様子に読めてくる。
テクストをメタ的に俯瞰する作品がテクストの枠の中に押し込められて窮屈だというのはちょっと笑えないので、その圧迫感を解消するためのガジェットを配する必要があるのだろうと思います。ありがとうございました。
●エルクさん
こんにちは。
>作者自身が持つ強烈な憧れの対象を色っていう記号に置き換えて展開させてるのかなと感じた。意識的に混在させてるけど循環(円環)する死生観だったり、自分が持っていないものを持つ他者(外人)への羨望とか。俯瞰って言葉が出てきてはいるけれど視覚化しようとしてる場面では見上げてる視点が多いのはきっと、憧れからくる作者の無意識的な姿勢のあらわれかなと。
カウンセリングをされているようでなんだかちょっと恥ずかしいですね。そういう視点はなかったですが、言われてみるとそうなのかもしれないと思いました。無意識的な姿勢のあらわれかぁ。
>黒は死のような避けて通れない運命のことと捉えたけど、作者には夥しい生と死は蓄積して(自分自身の死さえも)未来の礎になると考えてるところがあるようだから、作中では死というものを嫌でも想起させる羽音を「静寂として齎されない」もの、つまりは死が完全な無(静寂)ではなくて全てのものへ還っていくその時のためのきっかけとして、または読者に知覚させやすくするためのキーガジェットとして羽音を使ってるんだと思った。ただ羽音を騒がしいって書いてるから、自分が死んだらもう全部関係ないから静かに眠らせてくれよ、みたいな思いはあるかもしれないけどね。
円環的である、というのは筆者として意識していたかもしれません。羽音→静寂として齎されないもの、という流れは今考えると陳腐だったのかなとも思いますが、読み手の解釈の入り口になったのならば幸いです。
>注文をつけるとしたらイメージの飛ばし方が予定調和だから羽虫の視点の如くもっと飛ばして欲しかった。うまく飛ばせたら繊細さと力強さを併せ持ったより良い作品になると思う。
繊細さと力強さの複合というのは書き手としても読み手としても重要視していることなので、よく考えてみようと思っています。ありがとうございました。
●感想くんさん
こんにちは。感想さんとお呼びすればよいのか感想くんさんとお呼びすればよいのかいまいち分からないのですが、二度もコメントをいただけて嬉しいです。
どうもありがとうございます。精進します。
●明日花ちゃんさん
こんにちは。明日花さんとお呼びすればよいのか明日花ちゃんさんとお呼びすればよいのかいまいち分からないのですが、コメントありがとうございます。あちらでは返信できずに申し訳ありません。
>初書きの時の方が好き。
>これ告白?もうすぐバレンタインだなんて!
>昇華され過ぎて逆にくどくなったね
うーん。確かにくどくなったかもしれませんね。過不足なく書くことが目標だったのですが、やや書きすぎてしまったのでしょうか。甘すぎるチョコレートはあまり好みではないので、もう少し考えてみます。ありがとうございました。 ('14/02/01 09:16:28 *2)
- hakaishi :
Ohisashiburi yapparikimiha tensaidane kitintobungokude hyoukasaresounamonowo kaiteiru
Shinshigakuno houha doudesuka
Romajide moushiwakenai
Douyattara sonnamonogakakerunoka kondooshietekudasai
Soredeha, ('14/02/04 10:55:02)
- 紅月 :
●hakaishiさん
hakaishikun komentoarigatou ogenkidesuka
hyoukasarerumonoka soudenaika imanowatashiniha handangatsukanainodesu
tashaha konoshiwo douyomunoka
watashiha konoshiwo douyondeirunoka
nanimowakaranai
arigatou ('14/02/05 06:47:26)
- 田中宏輔 :
各連が第1連、第2連のような形のほうが、見た目がうつくしいと思いました。「外人」は、いまは「外国人」と書くほうがよいようです。「外人」に「異人」のニュアンスを持たせていらっしゃるようなので、この作品では、「外人」のままでなければならないと思いますが。 ('14/02/05 09:04:27)
- にねこ :
紅月 さん
戀にも似た想いをあなたの詩に対していつも持ってしまうので無駄にあなたの作品を高評価してしまう傾向がわたしにはあります。しかし、それでもこの詩は良いです。読み終わったあと、溜め息が(もしくは呻き声 笑)がでました。
初稿も拝読致しましたが、その際にわたしが疑問を抱いた部分があらかた払拭され、あらたな問題を(わたしへと)提起してくださいました。(でもそれはナイショです笑)
構造が掴みやすい章立ての妙、また、散文体で築いたイメージの繭から、みごとに行替詩へと飛躍していく様は、オオスカシバの変態のそれに見事になぞらえられており、非常にに勉強になりました。
本当に、あなたの文体は、行替詩になると一気に加速して、世界の色を変えてしまう。
個人的には語り過ぎな部分があるな、とも思うのですが、普通の読者に対しての配慮と考える事も出来ます。
ファンだからなんでしょうね、悔しさもものすごくあるのですが、褒めてしまいます。やっぱり悔しいですが。
最終行は紅月ファンなら「にや」っとしてしまう結びで、ずるいなぁと思いました。
きっと誰かがいつか多層的な解釈、読解を行ってくださると思うので、それも楽しみにしたいと思っております。
久しぶりに読めて、嬉しかったです。 ('14/02/05 21:47:04 *1)
- レイ :
傑作だとおもいます。 ('14/02/06 03:18:46)
- 紅月 :
●田中さん
こんにちは。
>各連が第1連、第2連のような形のほうが、見た目がうつくしいと思いました。
そうですね。なんとなく自分には一聯や二聯のような書き筋に苦手意識があって、少しでも気を抜けばすぐに詩文がハイテンションで歌いだしてしまうという悪癖があります。筆のコントロールが利かなくなるというか。ただ、往々にしてそういうノイズ交じりの箇所に私の表現したい核のようなものが滲んでいたりするので困りものです。書きたいものをスマートに書くことは私の目標のひとつです。
>「外人」は、いまは「外国人」と書くほうがよいようです。
私は「外人」という言葉にどこか引っかかるものを感じるのですが、それこそが私自身「日本人」というバックボーンに寄りかかっていることのなによりの証左かもしれません。コメントありがとうございました。
●にねこさん
こんにちは。いつもありがとうございます。
>戀にも似た想いをあなたの詩に対していつも持ってしまうので無駄にあなたの作品を高評価してしまう傾向がわたしにはあります。しかし、それでもこの詩は良いです。読み終わったあと、溜め息が(もしくは呻き声 笑)がでました。
単純に、私とにねこさんの中にある詩のコードが合うのでしょうね。私もにねこさんの詩を読むとき、自分の根底に横たわる詩情と同質のものをそこに感じることがあります。ただ、そういう見地から齎される評価というのは基本的に客観的評価でないことが多いので常に注意しなければならないとは思っています。
>初稿も拝読致しましたが、その際にわたしが疑問を抱いた部分があらかた払拭され、あらたな問題を(わたしへと)提起してくださいました。(でもそれはナイショです笑)
某所でにねこさんにいただいた評を基に推敲してみました。悪い点が払拭されたならば無駄ではなかったということで、ひとまずは安心しています。
>個人的には語り過ぎな部分があるな、とも思うのですが、普通の読者に対しての配慮と考える事も出来ます。
私の悪癖ですね。配慮というよりも、他者にどこまで、どのように読まれてしまうのかよくわからないのだと思います。そのあたりが読み手に開かれているというよりもむしろ閉鎖的であるように読まれてしまう原因でしょうか。逆にこういう書き筋は読み手にとってはストレスフルであるように思うので、もっと読み手への負担の軽い書き方をしていきたいです。もっとも、それが難しいのですが。
●レイさん
こんにちは。コメントありがとうございました。 ('14/02/06 11:21:49 *2)
- すずらん :
紅月さんへ
お返事の中で少し気になっていたので補足させてください。
>私に終始しつつも複合的に書いているつもりだったのですが、
紅月さんは複合的に書いておられると思いますよ。そこはちゃんと読み取れています。私がお話していたのは、もっとスケールアップしたところでのことだったんです。たとえばオオスカシバ側からも描くというような複合視座の話。この詩自体はそういう作りではないので将来的になのですが。 ('14/02/06 15:37:18 *1)