コラム

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[2008]

 コントラ

秋葉原の凶悪事件のあと、事件を起こした青年が「彼女ができない」ことを異常なまでに気にしていたということが明らかになった。社会学者の宮台真司によれば、女性にモテるかモテないか、という問題がひとつのパラメーターとして若い男性の気分を囲い始めたのは、1980年以降、彼の言う「郊外化」という現象が日本全土を覆いだした以降だという。日本全国、たとえば川越であれ米子であれ八戸であれ、郊外的景観はどこもファミレスの駐車場や規格化され造成地のような「第4空間」に侵食され、そこで人々は、人口甘味料が引き起こす依存症のように、光に満ちた部屋で「生」に関する福音を待ち続ける。宮台の言う、若者を差異化するメカニズムとしての、「コミュニケーション・スキル」という言葉は、この文脈において生物学的・突然変異的な意味を帯びてくる。歴史に根ざした文化規範やオーガニックな共同体性が破壊された2000年代の東京は、都市熱がビニールハウスの内部のごとく充満し、ほんらいは永続不活性の病原菌さえも、一触即発の惨事に簡単に持ち込んでしまう、そんな状況とも言えるかもしれない。

詩や文章を書くことは、究極的にはモノローグではなくダイアローグある。またジャック・デリダを持ち出すまでもなく、文章はつねにインターテクストであり、そこには無数の言葉と意味の「痕跡」が非現前的に現前している。文学極道に投稿される詩が、ワイヤードの内外を問わず、どのように読解・誤読されており、どのような文脈に接続され得るのか。これはきわめて真っ当な疑問である。しかしそのような形而上学的な問い以上に逼迫しているのは、上で描いたような、コミュニケーションの信憑性が破壊された被災地のような場所に、われわれは生きているという認識ではないだろうか。たとえば、美術批評家の椹木野衣は、戦後の日本が形作られてきた形跡を第二次世界大戦時のアメリカ軍による主要都市の空爆にまで遡行しつつ、戦後の日本を「悪い場所」として規定する。椹木によれば、アメリカによる日本本土の物理的破壊によって生じ、冷戦構造下で透明化されてきた歴史的空白は、そのまっさらな表層下に腐食しつづける歴史的トラウマ、つまり「グチャグチャ」な想像を覆い隠してきた。そして、その部分的な表出が、90年代以降、村上隆や会田誠といった美術家が作品に流用してきた「美少女」フィギュアなどのあからさまな「奇形」性だというわけである。

ポップ・アートは不気味である。アメリカ美術におけるポップは1960年代に脚光を浴びたが、ある美術史家は、クレス・オルデンバーグ(米)の、ザ・ストア(1961)という作品にその大きな転換点を見出している。そこで生じたのはそれまでのダダイスト的意匠である、汚さやノイズの徹底的な排除であり、美術作品の殺菌・清潔化であった。当然のことながら、ポップは消費文化の反映なわけだが、それ以上に身体的実存としての人間の不可視化という問題をはらんでいる。別の言葉で言えば、そこでは暴力は肉体的衝撃というわかりやすい形態をとらず、表層下で進行する―ゆえに抵抗もできない―プロセスとなる。この事実は、1960年代のジェームズ・ローゼンクイスト(米)によるF-111という巨大なパネル作品に分かり易く表現されている。ほんらいF-111 は、アメリカ軍のベトナムへの介入に対するプロテストという文脈で制作された作品である。しかしながら今日日本という場からこの作品と対峙するとき、そこで目を引くのは、広島・長崎のキノコ雲と、合成着色料で輝くオレンジに塗られたスパゲティ缶の中身との並置である。ローゼンクイストの作品は、1960年代にはすでに明らかになりつつあった、「暴力」の変容を視覚化している。広島・長崎の長期にわたった放射線被害も、工場製食品による健康被害も、水面下で進行していくのであり、それは通常の心理的反応では処理できない領域で、人体を蝕んでいくのである。

京浜工業地帯にほど近い住宅地で育った僕にとって、光化学スモッグだとか、有機水銀だとかの「恐ろしい」化学物質はつねに、身近な存在だった。それが環境を冒すのみではなく、食べるものや触れるものを通じて自分の身体を侵犯していくような、漠然とした不安を、長いあいだ僕は感じていた。そのころ、 1980年代の後半だったが、新しく改築された鉄筋の小学校で、僕は、道徳の時間に「ヒロシマ」の惨禍について習い、教科書ではサダコのことについて習った。広島生まれの「サダコ」こと佐々木貞子は、2歳のときに爆心地から2キロ弱の自宅で被爆したが、それ以降、体の不調を訴えることもなく、健康で元気な女の子として育った。ところが10歳のとき首のまわりにシコリができはじめ、やがて被爆による白血病と診断される。彼女は病気の回復を願い、いつか 1000羽に達したときに病気から回復すると信じて折り鶴を折りつづけるが、やがて11年の短い生涯を終える。健康で、しかも自分と同じ年頃の少女が突然の病に倒れ、それはどうやら彼女の身体を長年蝕んできた、放射能という科学物質が原因らしい、というとことは、おそらく僕は理解していた。しかし、その放射能というモノが一体どこからやってきて、「なぜ」彼女は突然死ななければならなかったのか。その答えは宙吊りになり、このことは数年のあいだ、僕のなかで不気味な存在感を放っていた気がする。

写真家、土門拳のもっともよく知られた作品である写真集「ヒロシマ」にはこのような新たな暴力の形状がなまなましく写し取られている。「ヒロシマ」(1958年)は、戦後10年以上たった時点での、広島の被爆者の現状を明るみに出した最初の写真集であり、収録された写真のうち、その半分くらいは広島原爆病院が舞台である。つまり、入院している「患者」としての被爆者の生活を取材したものであり、その合間合間に、彼らの家や家庭でのシーンが差しはさまれる構成になっている。「ヒロシマ」においては、病院と日常世界の対比は、土門が意図したかどうかに関わらず、そのまま「原爆後」と「原爆以前」の対比につらなっている。つまり病院の白いベッドで包帯を巻かれたり点滴を打たれたりするのは、原爆投下後に発生した新しい現実であり、ちゃぶ台や箪笥にかこまれた木造家屋のなかで、畳の上で生活するのは、戦前、戦中から続く日常風景の断片である。病院の無機質な白い壁と、貧困のなかで傷んだ畳。土門の作品は、原爆という科学的攻撃によって生じた一種の病理学的現実を過去の風景とのコントラストに投げ入れ、1945年を境にした時間性の分裂をなまなましく読者につきつけてくる。

それにしても、「ヒロシマ」が、アメリカ政府によって設立されたABCC(原爆被害調査委員会)が被爆者の遺体の解剖をデータ収集を理由に一手に引き受けているという、原爆のあからさまな「科学実験」としての意図を明るみに出している反面、土門や他の作家によるエッセイでは、これら水面下で進行する暴力を、科学の進歩やそれに伴う人間存在の疎外といった形而上学的理解に還元しており、ここに決定的な視点の甘さを感じる。なぜなら、それでは佐々木禎子の死の意味が、もっとも切実なレベルで理解できないからである。原爆は歴史的、文明的な文化観の問題である。原爆が落とされたのは科学の進歩のせいでも、その進歩が人間に手が負えないほど膨れ上がったせいでもなく、また人類にとりついた悪魔の過ちのせいでもない。それはただ一重に、1945年時点におけるアメリカ合衆国政府の政治的な決定のためにほかならない。

小林よしのりの「戦争論」は、日本の人文科学系メディアのなかでは時代錯誤のナショナリズムとして非難される傾向にあるが、時代錯誤なのは多くの場合、非難している論者のほうである。ここで読むのをやめないで欲しいのだが、たとえば、特攻隊で死んでいった若者たちへの賛美や、日本的なあり方への回帰という主張。どんなものであれ、なぜわれわれは異端な見方や意見が出てきたときに、それを躍起になって排除しようとするのだろうか。なぜ、それを受け止め、内包しつつ拮抗するという、弁証法的思考に真摯な努力をささげようとしないのだろうか。おそらくそれは、論理的思考ができないというよりは、自らの立ち位置が根本的刷新を迫られることの潜在的な恐れであり、保身主義のせいにほかならない。

言うまでもなく、歴史的に見て極端な立場決定は、つねに戦略的でありえてきたし、これからもありうる。ヘーゲルを持ち出すまでもなく、このままでは「出る杭は打たれる」という昔のやり口からまったく進歩がない。真の問題は小林の「危険さ」ではなく、彼を非難する論者のヒステリーが正当に見えてしまう、日本の学問や芸術の現状である。ビニールハウス文学・芸術の内部から出たがらない学者たちは、彼らが言うところの「ポストコロニアル」であり「ポストモダン」である現在、グローバルな局面において、そして日本という「悪い場所」に立ちつつ、立場決定+発信を遂行していくことの困難さについて再考して欲しい。そこでは「日本」という問題系を俯瞰し直すことは避けられないはずである。

文学極道は、ワイヤードという深い闇のなかのほんの小さな発光に過ぎないかもしれしれないし、おそらくそうだと思う。しかし、僕らはこの場所をすでに共有しているのだし、ここから少しでも、何がしかの「芸術」を、想像されたものであれ、現実のものであれ、文極の標榜する「世界性」に向けて投げていくしかない。そう思ってこのコラムを書いてみた。


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