「詩」という言葉は、ゆですぎたソーメンのように弱々しく、はかなく見える。一般的な解釈においては、詩はセンチメンタルなものであり、いわば繊細な感性の弱々しい発露に過ぎない、と言えるかもしれない。詩には転覆がない。いくら繊細な感性を研ぎ澄ませようと、それはどこまでいっても現状の肯定と追認であり、個人が対峙する現実、または世界のあり方について異議を申し立てることはなく、またそのダイナミックな組成プロセスに介入することがない。あとで詳しく述べることになるが、「芸術」といえば、少しニュアンスが異なる。それはより、介入的であり、現実と個人のせめぎあいを、より可視的なかたちで、現前させるなかで、より多様で、包括的なアプローチが選択可能となる。とはいえ、このようおおまかな定義はあまり、説得的とはいえないし、かなり概念的に見えるかもしれない。一方で、文学極道の「芸術としての詩」というサイトコンセプトは、実際、予想以上に大きな波及効果を持っていると筆者は考えている。以下、このコラムでは、文学極道の屋台骨をなす「芸術としての詩」というコンセプトについて、いくつかの角度から検討してみたい。先回りして言っておけば、筆者にとって「芸術」+「詩」という組み合わせは、「詩」を、それをこれまでスポイルしてきた複雑な意味の網の目から自由にしようとする意志と試みによって貫かれている。「芸術」は自由であり、「詩」は不自由である。
「詩」の不自由さ、それは、現代日本という固有の場において詩を書くとき、目下取り沙汰されている現実を、いかに深遠さと明晰さを見失わずに描き出すことができるか、という問いに関連する。筆者にとって、日本人が詩的文章を書くときの最大の弱点は、極度に耽美的、別の言い方をすれば、「うっとり」することに満足してしまうことであり、ここに日本の人文諸科学にはびこるディレッタンティズムの本源がある。フランス現代思想でも、ポストコロニアル理論、マルクス主義理論等、なんでもよいのだが、多くの日本の知識人がおかしてしまっている過ちは、これら諸理論の目の覚めるようなコントラストやシステマティックな美学にうっとりさせられるあまり、不用な知識を土嚢のように蓄積することをもって第一としている点にある。日本の趣味人や知識人の99パーセントが日々励んでいるのは、彼らが建前上擁護する「批判的思考」や「詩的実践」などではなく、まったく別の何かである。残念なことに、彼らは、すべてのクリティカルな思想の根幹において決定的な役割を果たす弁証法的プロセスを、自己に深く根ざした道具として使いこなすことができていない。誰もはっきり指摘しないことだが、彼らが日々従事しているのは、世界から見たら非常に破廉恥というほかはないような、耽溺と馴れ合いとパラフレーズのオンパレードであり、それゆえに、この国には真の意味での定立や反定立などあったためしはないし、ゆえに、芸術も反芸術もありえない。
実のところ、大多数の日本人は、詩に関心がない。それは極度にセンチメンタルであり、情緒的であり、萎れた草花のように生気がないと考えられており、ときに「イタい」ものでさえある。なぜイタいのかといえば、第一に「詩」というのは、困惑や葛藤を個人の内面でいじくりまわす手段としか捉えられていないためである。しかし目下の状況では、これらの作品はむしろ一部のネット掲示板をのぞき、文学極道ではすでに少数派であり、より有害なのはむしろ、これらの作品への反省から生じたように見える、雑記・エッセイ風の文章や、言語遊戯でしかない一群の作品なのかもしれない。自己憐憫におぼれているのが醜いからといって、作者の生の強度も見えず、世界についても中途半端にしか語らない文章を書けばいいのではないし、ポスト構造主義などを盾にしてとりあえずテキストなら何でも正当化すればいいということは有り得ない。それらは既存の制度や枠組みにたいして、ほんの一瞬だけラディカルな批判を投げかけるように見えたことがあったが、現下の状況においてはすでに役目を終えている。現在、詩の書き手に求められているのは、自己について語ることが、なぜ自己憐憫を超え出ていくことができないのか、それにはどのような文化、歴史、社会的、そして個人的な関わりが介入しているのか、それらの問題系と向き合っていくことでしかない。これらは決して安易な手段によっては回避できず、文学極道の「芸術としての詩」はこれらすべてを前提としたうえでのコンセプトである。
結論から言えば、自己は、不可避的に世界に根ざしており、そしてその世界は具体的に彩られた空間と時間のなかにある。だとすれば、ただ「悲しい」とか「嬉しい」という感情をそれ自体エッセンスとして分離することは事実上できない。それらは地上に充填された特定の光加減や色彩配置を持つ空気であり、ヴィジョンにほかならず、世界性そのものと不可分である。つまり、感情について書くと同時に、あるいははそれ以上に、どれだけ世界について書くことができるかどうかに、成否の分かれ目がある。それは「何かが起こったから悲しい」とか、単純な因果関係について書くこととではまったくなく、むしろ、その悲しみや、喜び自体がちっぽけな人間の主体性を超えて自生する世界の在り方であり、そのような象徴形式の発現に感性を照準させていくことを意味する。そして、これが自己表現としての言語芸術にいたる唯一の方法だと主張したい。すでに述べたように自己表現と自己憐憫は、まったくの別物であるが、残念ながら、現在、多くの日本人が、詩と聞いて連想するのは、間違いなく憐憫のほうではないだろうか。弁証法的比喩を持ち出せば、芸術たる詩は、自己と世界性のせめぎあいの、突き詰めていったぎりぎりの地点で生じてくると、すくなくとも理論的には言える。世界と対峙しつつ自己の表現に展開していくか、憐憫に内閉していくか、それはもちろん個人の自由だが、もし自己表現を、しかも世界に根ざした存在としての自己表現を得ようと望むならば、すでに述べたように日本の学問や芸術が内閉傾向にあることを考慮して、それは二重の障害と対峙しなければならないことを意味する。そして、われわれ日本人は曇りのない目線で、「詩」とは本当は何なのかを疑ってかからねばならない歴史的局面にずいぶん前から足を踏み入れている。これらすべての困難を踏まえたうえで、文学極道は、自己に深く根ざしていながら、一方で世界性の根底を深く問い詰めるような自己表現に向かう作品群を、最も価値ある成果として評価する。
ここで、「芸術」という言葉を限定するために、モダニズム芸術を擁護しておきたい。簡単に言えば、モダニズム芸術を考えるとき、そこで鍵になるのは、第一に、ジャンルの独立という議論であり、この議論が核とするのは、「芸術」とはひとつの領域であり、芸術は、芸術のためにしか存在し得ないという前提である。たとえば、西欧の「芸術」は19世紀半ばくらいを境にして、たとえば肖像画に特化された宮廷画家のように、なんらかの目的や、特定の社会的「場」をよりどころとする―それゆえに作品の成否や優劣を決定する「基準」が明白に存在する―存在とは、袂を分かつ。かくして登場するのが、芸術のための芸術(前衛芸術)。つまり芸術がなぜ芸術であるのかも、芸術によってしか定義できず、それが、よい芸術か、悪い芸術か、というのも、まさに芸術によってしか判断できないという立場であり、こうして果てしなく自己言及を繰り返し、みずからを純化していくのが、いわばポストモダン到来以前の、モダニズム芸術という運動体の核心とされている。
文学極道ではあらゆる作品が歓迎されるから、作品の成否に関するスタンダードは常に、状況的に交渉される。だがそれとは別に、私がモダニズムの話を持ち出したのは、詩書き個人個人が、自らの生きざまを肯定することの自由さに気づくことが、自己表現へのプロセスにいたる起点であるということを言うためである。話を判りやすくするために言うと、私は文学極道においては、「才能」という言葉は徹底的に排除したいと願っている。たとえば、「君は才能がある」だとか、「文学極道には才能のある書き手がいない」とか、たびたび耳にするこれらのフレーズは、これもだいぶ前にその役目を終えている。なぜなら、才能という言葉はきわめて状況順応的な意味合いを持っており、もうすこし単純にいえば、文学極道はそのような才能を才能として無菌室で培養するような偏狭な世界性をひとたび克服することを目指しているからである。文学極道が必要としているのは、才能ではなく、「天才」である。天才は才能と違い、限定的な意味合いを含まず、その在り方は才能の場合よりもずっと突き抜けた、シンプルな素晴らしさを持っている。「天才」の全貌ついて論じることなど、筆者の手のおよぶところではないが、自身の経験から、かろうじてここで率直に助言することができるのは、詩を書いていくことの意味を、自己の内部で深く了解していること、であり、また今すぐには無理でも、一歩ずつ、了解しようとつとめることである。それはエドワード・サイードが「内側へ向かう旅」と表現したように、それぞれの原風景へと深く浸水していく過程であると考えられ、このプロセスを経ていない、自称他称問わず、「実力のある書き手」については、その評価は大幅に割り引かれるべきだと考える。また、技術的な問題について言えば、あらゆる表現上の技巧はあとからついてくる二次的なものだから、拘泥する必要はないし、完全に拒否する必要もない。天才たる書き手にとっては、すべての表現は必然かつ、有意味であるべきであり、また、それはあらゆる旧弊な権威への信仰・畏怖や、かかる盲目さに伴う自己表現への怠慢を超越しており、したがって不要な自意識の蔓延や、他作の表層的な模倣におちいる必要がない。文学極道が求めているのは、巧みに他者の評価に擦りよっていく「才能」ではなく、むしろ現況を洗いざらい問い直す意志に貫かれた「天才」である。
最後に、西欧の弁証法と芸術をとりあげたので、断っておきたいのだが、私は日本的な耽美主義美学を根底から捨て去り、西欧思想の合理的なロジックに全身を傾倒しろ、と言いたいのではない。それは終着点ではなく、むしろ現下の状況における戦略的な選択であり、自らの過去を問い直すためのステップにほかならない。標的は日本ではなく、あくまで世界であり、そのような世界の中で生きるためには、通行許可書をいつも首にさげていることを意味し、そこには不可避的に「日本」と書きこまれているだろうから。好もうが嫌おうが、欧米の知的流行を鏡像のように内部適応させていくことだけでは、ますます加速する引きこもりを食い止めることは出来ない。日本の真の脅威は北朝鮮の核弾頭や中国の経済的軍事的肥大化ではなく、萎え衰え内閉していく感受性の側にあり、ここでは敢えて特定化を避けるが、その起源は歴史的に実証可能な範囲に入る。逆説的になるが、日本的な耽美的美学―広く言えば東洋的な一元的な思考形式、が遺伝学的に劣勢ではないことを世界において明るみに出すためにこそ、馴れ合いや迎合ではなく、むしろ、とてつもない差異やコントラストの二重、三重衝突を許容しうるコミュニティを立ち上げてゆくことが必要となる。「開かれたコミュニティ」などという安易な言葉はむしろ有害である。開くにしても、閉じるにしても、すべて過去のことであり、むしろ肝心な認識は、われわれはすでに出発し、出発し続けているのだ、という事実である。別の言い方をすれば、このムーヴメントはすでに始まっており、どの瞬間においてもいくつもの始まりが始まりを定義しつつあり、それは完成させるものというよりは、文学極道の参加者自身が、新たな始まりをもたらすことが要求されている。だが、これには条件がある。つまり、文学極道で求められているのは、ゆですぎたソーメンのような「詩」ではなく、斬新かつ安定した構造を持つ、「言語芸術」のみである。