2010年1月分選評(阿部嘉昭)
4112 : 消える WHM ('10/01/26 00:30:24 *1)
すごくすっきり読めた。長さも寓喩の質もよい。カラフルで魔術的。
僕の読みでは、性愛(妄想)詩だとおもう。性愛行為とは人体のシャッフルであり、
性愛の一回一回の認識も「並べ替え」から生じる。
「君」がそのまま性愛対象だとして、なぜ主体は「僕ら」と表現されているのか。
分裂から複数性に変じつつ、
その僕(ら)は同時に「54枚」の全体性とも認められているのではないか。
妄想の消え行く流れによってこの畸想詩が純然詩へと自己変性してゆく。
単純な書法であるだけ詩行の流れが素晴らしい
(一行字数の減ってゆく効果が狙われ、それで実際に詩文全体が「消える」)。以下――
●
裏返しのトランプが
ケースへと戻っていく
その順番で
ポケットに
消える
*
4111 : une fille une feuille はなび ('10/01/25 16:15:33)
すばらしい。文字を書くことはそのままに紡績的なのだが、
真の少女性(夢想性)は書記において「紡ぎ(形成)」と逆の動作をおこなう。
この結果、紡ぎと二重化された書記は「ひつじ」へと原点回帰する。
これがまた夢想性の対象として台座に上るが、
その正体が自己再帰性でしかないという苦い結末も秘められている。
なにしろ少女は「実体」を書けなかったという不可能性から解放されていない。
これだけの少女性分析をこれほどのやわらかい言葉で書き、
そこには上品な古典美まで付帯している。唸った。選評はやってみるものだ。
バシュラール的想像力の詞華集にこそ列聖されるべき詩篇だろう。短いのも良い。
全篇を引用しておこう。
●
ひとりのむすめ
いちまいの紙
ボールペンで綴られる
つらなる螺旋のような文字群で
それらは毛糸のように
セーターを形成せず
ほつれたまま
ひつじへと
逆行している
*
4121 : 初夏をどこまでも 浅井康浩 ('10/01/29 10:23:59)
自己模倣の気配がつよいけど、やはり浅井さんの極上の語法にやられてしまう。
出てくる語彙のうつくしさが、たゆたいたわむ構文のなかで間歇的なビーズとなる。
たわみは自己抑制だ。抒情は間接的に描いてこそ抒情、という確信があるだろう。
同時に、このたわみから、呼びかける対象への不可能性も哀しく滲んでくる。
主体は対象のためにデザートをつくる。会話も試みる。
そのさきのないことのさみしさが第三聯、自己への祈りのような規則作成
(「------でいたい」の連祷)へとさらに転位されてきて、
そうか、ここでは「生のエステティック」が綴られている、とも気づく。
現代詩壇で浅井さんの作風に似るのは杉本徹だとおもうが、
最近の杉本さんは苦しみを盛ることで自らの狂言綺語を磨いている。
浅井さんはその点、あくまでも(形容矛盾だが)「明晰なくもり」に付く。
そういう個性なのだ。そしてその個性が僕の感性に合う。
何度もいうが詩集編纂がかんがえられるべきだろう。第二聯を引く――
●
いつだってそう、はなす物語はいつだって誰かのはなしと似ているけれど、それでいて弱火で煮始めるあんずのシロップのそのどれもが甘い香りをひろ げてくれることを、わたしはとても、ありふれた時間とはおもうことができないでいる。晴れた日の午後の、とろとろとながれるような陽ざしのやわらかさを、 このジャムのなかにこめられますようにと、焦げ付かないよう、時折、おもいかえしたようにホウロウの鍋をゆすりながら、わたしがこしらえるひとさらのデ ザートも、あなたがはなしてくれる可笑しな童話も、せめて、心をこめてつくられるものであってほしい。
*
4108 : ワイルドの部屋 びんじょうかもめ ('10/01/23 16:45:24)
平滑な文体。乾いていて良い。寓意詩とも生の断片を切り取ったものとも読める。
古書に埋もれそれだけを考え、弟子の実際をみない「先生」。
アカデミックな師弟関係の宿命ともいえるのだが、
それを瞳の色にだけ集約させ、詩篇の実際と別次元に「海」までみさせるのが手柄だ。
「ワイルド先生」にオスカー・ワイルドを連想し、一瞬戸惑った。
彼は惑溺的なゲイだったはずだから。
ワイルド先生の添削案の箇所を引いておこう。評言そのものの残酷が活写されている。
●
「例えばここの表現、海はとても青かった。
とてもシンプルだ。
でもシンプルすぎる。
こんなのはどうだろう?
海はまるで瞳のように青かった。
ね?どうだろう」
*
4087 : Sun In An Empty Room ヒダ・リテ ('10/01/16 20:00:18)
出だしが圧倒的に良い。たとえば構文をつくり
そこに入っている名詞を乱数表などで入れ替えてゆくと
みたこともない詩脈が出現する。これは俳句では摂津幸彦などの技法だ。
《ことにはるかに傘差し開くアジアかな》。
これが凄みを帯びると以下のようにもになる。
《葱二本楕円の思惟はくづれたり》《千年とひと春かけて鳥堕ちぬ》。
あまり成功しないと以下のようにもなる。
《黄金の蓮〔はちす〕に帰る野球かな》。
当然、摂津にあったのは一句性(短さ)だが、ヒダ・リテさんの場合は
それを詩行の理路においても展開を続ける苦しさが出たかもしれない。
端的にいって長く、息切れも生じてそれまでになかった語彙体系、
「毛沢東」とか「個性的な 自殺」とかが混ざって詩篇純度も減ってくるのだ。
全体を半分程度に圧縮すべきだったかもしれない。
それでもこの詩篇のポップ感は素晴らしい(一字空白は不要だった?)。
冒頭二聯を引こう――
●
大型犬の 散策する
優しい 午後の マヨネーズ
黄色く 伸びた 煙突から
はみ出した
無口な暮らし
「黄色いね」
幼い君と 幼い僕が
樽の係と 風の係で 遊んだ庭に
今は 四足歩行の 毛むくじゃら
眺める 君の 腕の中
幸福の王子は
「居眠りばかり」
と君が言う
*
4118 : キネマコンプレックス りす ('10/01/28 00:03:39)
「映画を観ること」をたとえばドゥルーズのように原理的に追い詰めて、
それを詩の別の言葉に置換する――これは僕もたまにやる発想で、
映画を原理的に観ている、という自負がないと詩は腰砕けになってしまう。
この点、りすさんはすごく原理的に数多くの映画をみているとおもった。
「見世物」「偽物」「似せ者」の音韻転換も愉しいが、
映画とはたんにアナロジーにすぎないのに、
そこに物質が運動・接合されていると気づくと恐怖感覚に陥る。大和屋竺の視座だ。
映画においては「似せ」こそが「本物」の証なのだ。よって中心性がない。
もうひとつ、映画はそれ自体が中枢性をもって内部系をつくりあげてもいる。
その内部系をゲーデル的な問題意識から切り崩すと、これも壊滅的な混乱に通じる。
りすさんは、その手前で、フィルムの巻物性を
寓話的に「一反木綿」に主体化・中枢化してみせたのだとおもうが、
このくだりからは別詩篇として独立させたほうがよかったかもしれない。
いずれにせよ意欲的なポップ詩。大好きな二つの聯を抜いておく。
●
似せ者の女に恋する男の
終わらない眩暈をめぐる
映画を観ていた
●
キャメラの定まらない視線が
抜き差しならない光ばかり
拾っては 患っている
*
4113 : 警察に通報します snowworks ('10/01/26 01:47:31)
悪夢のような詩篇。各聯冒頭に「警察に通報します」が頭韻のようにかぶせられ、
それが各聯それぞれの律動をつくっている。達者だ。
屋根裏に潜む蛇とは悪運なのだろう。悪運であってもそれは「運」なのだ。
それをすべて詩の主体は殺害しきり、卵も割ったとおもいこむ。
そのとき逆転が二重にくる。
「警察に通報」する内容は、屋根裏の蛇の専横についてのはずだったのが、
自らの蛇殺しの告白へと変化するのだった。これが一重め。
しかし蛇は実際にはまだ生き残って、屋根裏に脈動している。
だから主体もまた生きていて、警察通報の動作がとれるのだ。
無論これでは「告白し損」になる――そういう「気配」で詩篇が終わる。
この中断性が、蛇の物質性同様にグロテスクで、見事だ。
最も気味悪く嬉しくなった第二聯(殺戮対象が何か実はわからない)を貼っておこう。
●
警察に通報します
蛇は暗闇に絡みついて11匹はいました
とっさのことでした
光る包丁を振り回して血液が飛び散って
だけど
誰の血液かなんてどうでもよかったのです
これまでどれだけの時間を失ったんだろう
どれだけの私を失ったんだろう
そんな疑問符が宙を横切っていました
*
4110 : 韓国人のキムさん debaser ('10/01/25 12:22:36 *3)
厳密な論理性によって書かれているようにみえながら
一種、論理の自己再帰性によって論理性からズレてゆく。
山田亮太『ジャイアントフィールド』のような書法で、
僕は最近、この手の詩がこのみだ。詩語の廃棄を簡単に実現できるためだろう。
第一聯、「キム」と「金」を入れ替え表記するときのタイミングも抜群だし、
「小学生の一斉下血」のくだりのあと、またキムさんに話が戻って、
現在2LDKの彼の居宅がもともとは2LDKでなかったという奇異のつくりかたも良く、
二主題(AメロBメロ)交錯のようにみえた詩の構造に
融合が起こる箇所も見事だ。ポップ詩といっていい。
最後の二個聯が不要だったとおもう。ただこの作者の今後には期待している。
第一聯をペーストしておこう。
●
韓国人のキムさんがくれる
キムさんのキムチは
毎年味が違う
キムさんの家では
キムさんがプラスティックの容器に保管され
保管されたキムさんをキムさんの知り合いが毎日食べる
今年のキムさんの味は
去年のキムチに似ていて
来年のキムチの味は
今年のキムさんに似ている
来年のキムさんは
きっと祖国へ帰っているだろう
それで
なんとなく近くの銀行に行って
ありったけのおキムを金さん宛てに振り込んだ
封筒に感謝の気持ちを
さりげなく記して
それから発作的に
ぼくは飲み屋で発作した
*
4084 : THE GATES OF DELIRIUM。 田中宏輔 ('10/01/15 07:49:41 *27)
Ghostは非実体であり、だから実体にひそみ、実体の転位にかかわる。
Ghostは遍在であり、多数を攪拌し、すべての卑小な差異の、差異創造を司る。
だからGhostは無限変形であり、それ自身の展開であり、わたしたちを超える。
わたしたちはGhostによって限定的に組成され、彼方に全的なGhostのゆらめきをみる。
詩魂にとってGhostは演算命令であり、わたしたちは自身のなかの虚無を演算し、
Ghostの圏域に近づいてゆくしかない。Ghostは合一だ、分離だ。
Ghostは草陰にいて、草を草じしんにみせる。仮象こそがGhostであれば
わたしたちの耳に生まれたときからある韻きの残存も、
愛する者の面影も、今日が今日であることもすべてGhostだろう。
○
この詩篇におけるGhostはさまざまに展開する。
定義不能性を崇高化したとき、それ自体が哲学的なGhostとなるといってもいい。
ならばそのGhostとは作者・田中宏輔の実体=非実体でもあるのだった。
この詩篇は書き出しが魅惑的だ。
●
間違って、鳥の巣のなかで目を覚ますこともあった。間違って? あなたが間違うことはない。Ghost、あなたは間違わない。転位につぐ転位。 さまざまな時間と場所と出来事のあいだを。結合につぐ結合。さまざまな時間と場所と出来事の。Ghost、あなたは仮定の存在である。
●
たぶん詩篇において具体語は「鳥の巣」しか存在しない
(のち「橋」と「ビルディング」は出てくる)。
托卵された異種鳥、その雛の孵化の慨嘆をおもわせるこの冒頭から
《Ghost、あなたは仮定の存在である。》へと辿りついたとき
宏輔詩学は堰を切るようにGhostの定義と説明を乱打しはじめる。途中にはこうある。
●
Ghost、あなたは仮定の存在である。かつて詩人が、あなたについて、こういっていた。あなたは、わたしたちが眠っているときにも存在してい る。わたしたちの夢のなかにもいる。そうして、わたしたちの夢のなかで、さまざまな時間と場所と出来事を結びつけたり、ほどいたりしているのだ、と。 Ghost、二つの夜が一つの夜となる。いくつもの夜が、ただ一つの夜となる。いくつもの情景が、ただ一つの情景となる。何人もの恋人たちの顔が、ただ一 人の恋人の顔となる。
●
なんて美しい展開とリズムだろうと嘆息するしかないが、
夢の奥底にあるものをみようとして発狂した詩人がたとえばネルヴァルだった。
そのネルヴァルの「シルヴィ」を見ると、そこでは過去の女・現在の仮象の女たちが
ネルヴァルの狂気によってひとつの面影に収斂してゆく圧倒的なくだりがある。
「夢」を今生の奥底に見据えればこれは必然で、
そうして逢着させらせたネルヴァルの愛の対象は大地母神的であるとよくいわれるが
実際はこの田中宏輔の規定する(規定しようとしてできない)Ghostのようなものだろう。
《しかし、Ghost、あなたは夢ではない。あなたは夢をつくりだすものである》
については、逆の書き方もできて、それはニール・ヤングの歌詞にある。
I was just a dreamer, and you were just a dream(「ライク・ア・ハリケーン」)
ここでのyouもこの宏輔詩からするとGhostだ。
「下天は夢」という信長の辞世もおもいだす。
ともあれGhostの語を押井アニメに依拠する風潮のなかで田中宏輔は異彩を放った。
「放った」と過去形で書いたが、
彼の詩業をみればGhostがずっと一貫的主題になっているともすぐに気づくはずだ。
宏輔詩集を読め。「文極」だけでは人生が勿体ない。
○
なお、もう一篇、田中宏輔からアップされた「walls and bridges。」は
論評を控えることにする。
理由は物理的に長すぎること、それでも「前篇」という留保がついていて
全体像が把握できないうちの論評がためらわれることだ。
物理的に長すぎるということは、クリックしても僕のパソコン画面では進行が遅く、
そのせいもあって正しい読解ができないということでもあった。
画面の下がりが遅く焦燥するうち、宏輔さんの用意してくれた「詩脈」も飛んでしまった。
正常な状態で読めた自信がまったくない。
あの長さなら論評に際しては俯瞰的に見渡しての検証も必要となるが
パソコン画面ではそれもできない(ウチのプリンターは女房ならつなげるが海外出張中、
また宏輔詩だけプリントアウトすると公平性の点で問題も出る)。
論評者にかかる負担ももう少し想像してくれたらなあ。
英文もついても、わからない単語を辞書で調べる時間的余裕がなかった。
また論評の際にペーストを試みて画面がフリーズしてしまう経験もこれまで何度もした。
ともあれ果敢な詩集大の長さのアップで、心底の敬意に値するのだが、
そういうものを他の詩篇と同列で論評するのはもはや不可能、という気もする。
「文学極道」という詩篇応募サイトがもとめる基準も怪物的に超えているとおもう。
こういう詩篇は単独の詩集サイトをつくり、別のかたちでアップされるべきかもしれない。
一言、申し添えておいた。今後も長大なアップを試みられているようなので。
*
4067 : 鰐 右肩 ('10/01/05 00:10:51 *1)
うまい文だなあ。散文詩もこのような安定的な文で書かれると
いくら散文詩ぎらいの僕でも快哉を叫びたくなる。
言葉の意味をめぐる託宣も、説教くさくなる手前で、
地上性の永続のなさに結ばれて、逆に眼が潤んでくる。
ロートレアモン『マルドロールの歌』では
主人公と鮫が抱き合って遠い海中にもつれあう破滅的な純愛が唄われていたけど
ここでの「食うか食われるか」ではじまった鰐との峻厳な愛は、
城壁ののこる春の草原での鰐との同道、という情況設定によって
どこか牧歌的なリズムを奏ではじめる。頬が自然にゆるむのだ。
主人公が哲学者であれば、鰐にもそれが反射して、相愛者同士の孤独も際立ってゆく。
ミシシッピには鰐料理もあるのでしょう。いかつい体皮にたいし肉は淡白と聞いた。
「言葉の意味」についての一連を引いておこう。
●
鰐よ、意味は言葉によってもたらされるものだ。しかし、言葉は発せられた時既に固有の意味を背負っている。意味によって意味を語ることは堂々巡り に他ならない。僕たちが人生に苦しむのは、この堂々巡りが未来から光となって僕たちを照射するからなのだ。過去に注意を向けるといい。この春先、この花野 に降っていた最後の雪にだ。生きることの意味は日の当たる土地に降り注ぎ、たちまち消えていく雪片だ。百億千億の意味があり、等しく光の中で輝いている。 総て言葉ではなく、総て正しく、総て瞬時に消えていく。僕たちに与えられた生きる意味がそこにあった。今それは一面の花として、冥界からの残光に喜び輝い ている。
*
4079 : 人の名 荒木時彦 ('10/01/11 17:42:35)
四行詩(題名と併せれば五行詩)なので、論述のためまずは全篇引用をする。
●
スレートの下で
見捨てられたあなたは
見知らぬものの
記憶の中にいる
●
「スレート」はslateだろう。茅葺きなどの「葺き」の部分や薄板のこと。
額縁などのガラス板をかんがえてもよい。
デュシャンをおもいおこせば、デュシャン美学=アンフラマンス(極薄)を製造する
人為的装置/素材ということもできるかもしれない。
その下に何かが置かれ放置されることで、忘却に向かう距離までもが開始される。
間近にあってもそうなのだ。むろん世界の隙間は遍在的だから、
ひとつの間接性によって忘却に近づいた者(あなた)は
非知の領域では逆に「記憶」されるものの実体に近づく、と作者は歌っている。
この場合、「スレートの下で見捨てられ」ることは死に短絡しない。
むしろ詩の言い回しは、「半分の死」とか「死のような普遍」こそをもとめていて、
それでこの短詩が「非知」の非実体的な厚みに逢着させることで
読み手を戦慄される機微をそなえているとも理解されるだろう。
そう、奇異ともとれる「スレート」の効果が重大なのだった。
まだある。となって、「人の名」という詩篇タイトルへの再考もはじまる。
「人の名」は存在のメダルだが、
同時に存在の動勢を「見捨て」つつ、「記憶」化する――
そのことで間接化する(スレートの下に入れる)よすがなのだった。
名は記号の森を形成する。死物の競演。
ただし、それは水中花のように水を得れば動勢をも呼び覚ます。
記憶(心情)の間歇作用が恣意的にそのうごきを司るのだった。
――とまあ、意図的にプルーストの用語を交えてみた。
「人の名、物の名」は大作『失われた時を求めて』中の間奏ともいえる詩的短章で、
しかも名の動力で小説自体がうごいているとしめすメタ部分だった。
荒木さんの詩はそういうプルーストへの知見に突き刺さってもいる。お見事。
*
4058 : 太古の秘密 ナツイロ ('10/01/01 00:53:10)
若さの客気がつよい筆致、肯定性で歌われ、
そこにエジプト的なものが見事に結ばれている。
嘘言は世界(星座)発見を導くとすれば
詩作の効果は嘘言の効果とおなじだともいうこと。
感銘に値するのは、聯が衝突性をもって並べられてスパークを放ち、
同時に聯の理路が繊細につくられているということだ。
妙に肩肘張った詩語・言い回しがないぶんだけ、詩行展開に速度感もおぼえる。
これは全篇引用しないと分析も難しい詩篇だが、
無理やり第一聯・第三聯をつなげて引いてみる。
●
大嘘を並べて
小さな嘘からドミノ倒し
汚れのない嘘だけが
浮上していく喜びを知る
●
流れ星みたいな現在だけを
自信を持って肯定して
ぶちまけたペンキは宇宙色
だから僕たちは
学校中の壁に星座を見つけ
それらを正確に結ぶことができる
●
どうだろう、力が健康・幸福に拡散拡大してゆくような措辞だけで
詩行がつくられている。詩行がそれ自身でみちている、といってもいい。
プレヴェールの最上の詩篇と似たようなものを感じた。
*
4123 : 骨の王 右肩 ('10/01/30 19:19:57 *1)
小説的叙述体。主語が分散している。少年に、母親に、タクシー運転手に。
したがって「作者」はそれらを見渡せる位置にいるという擬制ができる。
あるいは小説的な「判明」のつけかたも作者は利用している。
犬の屍骸じつは毛布、からはじまって、少年の心臓疾病、毛布、
父親の現状、タクシーの進行過程など。
その「父親の現状」を綴る字下げ部分はもう明らかに「詩」から離れている。
小説としては許されるが、詩はたぶんこういう客観性から書かれない。以下――
●
この子の父親は三年前に失踪した。
二年前、元気ですと手紙が着いた。
二年前は元気であった。
三カ月前に死んだ。
●
簡潔な文体によって救われているようにみえるが、詩としては完全な瑕疵だ。
叙述は小説的特権性以外の何ものでもない。この瞬間に書き手身体への信頼が崩れる。
書き手は何の責任も負わなくなる。
自覚的なのだろうか。どうにもこのような「詩的散文」の横行に気が滅入る。
そのような「小説的なもの」に出会いたくて面倒な選考をやっているわけではない。
右肩さんが信頼する書き手のひとりであるだけに残念だ。
ところで一箇所、完全に詩的書記が挿入されている。
このときの文の運びの美しさ・奔放さを忘れないため以下に抜いておこう。
●
夢の坂を下り、夢の坂を上る。
夢の交差点を右折し、夢の架橋をくぐる。
夢の車輪は四つとも燃えている。
夢の匂いが焦げ、夢の電話線が走り、夢の木造建築が三棟、地上から浮き上がり夢の炎を纏っている。
夢の窓に覗く夢のひと影を確かめる間もなく、夢のタクシーは夢のような速度で首をもたげ、夢の天頂でああと鳴く。
夢の鴉になる。
*
4101 : 月 はかいし ('10/01/21 07:32:30)
『竹取物語』を下敷きに詩篇が開始されたとおもったらどうもちがう。
こちらの読み線が乱れてゆく。平易な言葉しかつかわれていないのに。
「マンホール」は具体的なマンホールではない。
もっと抽象的に「人穴」と解すべきなのではないか。
人体はもともと一個の穴、通過可能性とよぶべきで、
それが「お前」にはある。その人体はだから帰属場所を超越域にもとめる。
「わたし」は「お前」を眼前にしてその帰属運動の気配を探す。
そうすると月への帰属をもとめる「お前」が、そのまま月になってしまう。
書き手は「お前」の肌の輝かしい平滑性にじれてもいる。
表面であることが、「お前」の隠しもつ「人穴性」に離反しているからだ。
そのように読んで、この詩篇は一性愛の端緒から大団円を歌ったものだ
という気もしてくる。ちがうかもしれない。このことは逆にいうと
作者が寓喩のもつ逸脱性をだらしなく信頼しすぎているということにもなる。
用語「つるてか」も惜しい。
*
4115 : 折檻夫妻 ゼッケン ('10/01/26 18:32:19)
僕は「アンパンマン」世代ではないのでわからないのですが、
「アンパンマン」って「正義の味方」なんですよね?
ただそのキャラは安直でイメージ的に正しくなく、
ゆるキャラのように想像力を忍び込ませて笑う余地もない。
なにかすごく遮断的なキャラで、印象だけでいうとすごく苦手。
よく知らないけど、「バイキンマン」とかの周辺キャラにも想像力の貧困を感じる。
おおよそ、やなせたかし的なものの商魂が苦手で、それはゼッケンさんも同じなのだろう。
そう、アンパンマンを金科玉条とするひとは、繊細な神経の持ち主や弱者にたいしては
ファシスト的な傾向ももつだろう。イメージの盲者だからだ。
そういうひとからの受難劇として、詩篇前半はスルッと読める。
弱者是正の恐怖が、均衡感覚あるユーモアで書かれていて
だから実際は社会性批判の詩がポップなオブラートにくるまれているといえる。
「ジャムおじさん」の登場が転調部分。
着ぐるみの頭部分以外を裸にされ緊縛された主人公(恐ろしい無名性の付与だ)に
「ジャムおじさん」が何をしたのかが一見わかりにくい。
着ぐるみごと主人公の頭部分を斬首したのだ。それで生じた頭の空白部分に
今度は「まんま」のアンパンを乗せ、新たなアンパンマンとすることで
作者の喫煙癖を断ち切ったのだった。残酷の上乗せ、そういうファンタジー。
ただ転調後の叙述が乱れている。推敲の余地もあったのではないか。
僕がバカだからか、詩篇タイトルの意味がわからない。
*
4102 : 梅 リリィ ('10/01/21 22:38:47)
確信的な喩法がもちいられている。想像妊娠をも導き出せる女体の神秘性に、
梅の実、酸っぱさといった女性的湿潤が重畳し、そこに性愛妄想も一瞬接木される。
●
陽炎の日を過ぎると
どうしようもなく匂う
薄い腹を押さえ
ふやけた実を
男が一つ食んでゆく
すっぺえなぁ、すっぺえなぁ
また一つ、また一つ
●
いま引いた箇所はすごくいい。ただし喩法の自己確信が牢固で
そのつよさにはじかれてしまう箇所が多々あった。
ラストの《紅い種が割れ/オギャアと一声/腹の音が鳴る》は
詩篇の「オチ」ともいえるが、オチっぽすぎて興ざめともなる。
*
4095 : 水たまりに 荒木時彦 ('10/01/19 20:43:41)
一聯、二聯はすごく喚起力がある。以下、ペースト。
●
夏につまずき
空を歌った
いくつもの光が
アスファルトの水たまりに
反射していた
●
夏という季節の膠着性を「アスファルトの水たまり」に代表させ、
詩の主体はそれに「つまず」いている。
そのとき眼路の脱出口として「空」があるはずだが、
「アスファルトの水たまり」は「光」と形容されても
「空」を「いくつも」映しているはずで、
つまりそこから、脱出口によってこそ主体が膠着されているという構図が浮かび上がる。
結果、夏の多重性が読み手のなかを席捲しはじめる。
静かで清潔な語法なのに、しめされている抒情的身体が危うく、
その危うさが読み手に「反射」するといってもよい。
この魅惑的な書き出しを第三聯が受け止められなかった。これはペーストしない。
・・・惜しいなあ。冬の季節に夏を「歌った」ための過誤ではないだろうか。
そういえばシェーンベルクのつくった十二音階リュートで
「夏に疲れて」という佳品があった。
*
4097 : 傘を捨てに行く 藤村と四季 ('10/01/20 01:04:51)
雨ばかりの世界なのに傘を捨てにゆく主体の「決意」が語られる。
けれどもその決意にいたる理路が詩的な意味での混乱を孕んでいる。
そのことと、話し言葉の調子が全体に溶け合い、
たしかに「やさしさ」の全体印象がかもされる。
傘にたいして最も良いくだりはやはり冒頭だろう。
●
僕は今日、いよいよ傘を捨てに行く。
これはずっと前から決めていたことなんだ。仕方がない。
薄い桃色のような、淡い白のようなその平面に、
一枚の葉っぱが描かれているのが見えるだろ?
その世界ではいつも雨が降っているんだ。
彼女の思い出も、そこには揺れていたし
雨の匂いも、薄暗い、遠くの空から、だんだんと濃くなっていく青も
僕をたおやかに、くすぐっている。
●
ただし話し言葉の甘さが出て、上の引用箇所のラスト、とくに「たおやか」では
用語の崩れが明らかだ。惜しい。
この作者はときどきハッとさせる認識も披露する。哲学詩向きなのかもしれない。
●
でも、嗅覚だけでさ、空の色は判断できないし、
聴覚だけで、人の美しさは判断できない。
*
4099 : マルタおばさんは言った 岩尾忍 ('10/01/20 21:47:49)
寓喩と散文性への鞍替え。どんな種類の詩が書かれてもいいのだが、
岩尾さんの才能からすると後退と映ってしまう。安定的な書法で、
マルタおばさんが箪笥の抽斗から次々に展開する布の描写などには
明らかな文才も揺曳しているのだけども。
一年分の布があり、裁たれておらず着用できない――しかしそれは絶望なのだろうか。
通常は希望と映る。そして布をまとう躯のほうが、
あるいは布と躯の摩擦や湛える熱や着心地のほうが、本当の問題のはずだ。
そういえば安永蕗子には次の秀吟がある。
《朝に麻夕には木綿〔ゆふ〕と逆はず生きて夜ごとの湯浴み寂しゑ》
*
4088 : 冬の散歩 鈴屋 ('10/01/18 00:20:12 *1)
日常の断片。小さな圏域での散策。どこかの庭の犬。寂寥。
構文中、主体「私」は日本語特性により差っ引かれる。
それで「私」の織り成す動詞だけが、私の行路を跡付けるよう林立してゆく。
これもまた寂しさだ。一行字数の多い行が圧縮不足の感があって惜しい。
ところで「私」が行路で見、また「私」が夢想する「妻」には、幻の気配があって不穏だ。
そう、字下げの聯にはすべて不穏当な不在感がつきまとっている。
また妻の言葉として切り取られた語りにもすべて尋常でない寂しさがつきまとう。
泣けてくる気配なのだった。死後回想なのか、死が先取られているのか。
それでも詩篇は一見、最終的に妻の実在性に向け着地するようだ。
●
居間に入ると、妻が庭にしゃがみこんで、パンくずを雀に投げ与えている
「ただいま」をいう
唇に人さし指をおいて、ゆっくりふり向く
「キジバトもくるのよ」と小声でいうのをタバコに火を点けながら聞く
●
「像が像であることの懐かしさ」が「キジバトもくるのよ」と幼女のように言う。
ここで世界像そのものが哀しくゆがむとかんがえた。
ガラスの向こうの妻は死んでいる。
*
4085 : 蒲公英の咲く散歩道 はなび ('10/01/15 21:08:01)
「花江」=詩中の「わたし」だとしても詩中の人物が意図的に錯綜している。
自らを「ぼく」と呼ぶ少年(?)、「キリストの様な」「男」、
「ポルトガル語の教授」――あるいはそれらを一人物と捉えることも可能かもしれない。
ただそうした人称の未整理によって
詩行の流れに一種のノンシャランさが出て、
ラストにいたるくだりのしつこさがなければ好きな「少女性の詩」と呼べただろう。
ルフランに類する箇所が良い。最初のほうを引こう――
●
腐りかけた林檎から漂う独特の香り
わたしは 冬の日射しに
ふらふらになって
フラン フラン 腐乱 と
ハミングする
*
4077 : 冬の果実 藤本T ('10/01/11 09:38:44)
詩的修辞が屈折し、適度な緊張感が保たれている。
冬の外景と作者の内面が連絡し、分光器にかけられ、隠喩が連続出現する。
それでも全体は「不可能な」抒情詩なのだった。
散文形部分が終わったのち一行字数の少ない行分け部分に移行してゆく。
これが蛇足だとおもう。それさえなければ「月間優秀賞候補」だった。部分を抜く。
●
梢のきっさき
に刺さってしまったきみの額と 白い欲望と
のあいだで港に埋められた地図がいま燃えは
じめ 暗がりのなかで齧られた衝動は行く先
もなく砂の奥で鳴っているのだ 撓まないで。
そこかしこで固い指とポプラが順番に手折ら
れていく さかしまになった海辺に流れ着い
たきみの尺骨のなかではちいさくなった火種
がいまだ息をしており崩れ落ちた倉庫からわ
たしは解読できない手紙の束を拾い集め、ひ
とつひとつ冬の果実で燃していく
*
4072 : 塩小路 津島ことこ ('10/01/07 22:12:53)
なかなか企まれている。「化石」「氷菓」「流木」三篇の短詩集成だとおもっていると
「塩小路」という造語的総題があたえられ、
結晶的でかつ脆いものについての詩的想像が連続したという見立てになる。
「電話」−「受話器」によって冒頭回帰も起こる。
《薄切りのきゅうりを/しおもみする/あなたの手なれたてつきは/迷いひとつなく》
の表現弛緩がなければ完璧に近かった。隠喩の質は初期の平出隆に通じるものがある。
掲出部分と最後の一行を抜いて第二部分の「氷菓」をしめすとそれがわかるはずだ。
●
たて波の断面のように
歯こぼれしていた、
底冷えのあさ
(ちそうをてさぐる
(はりめぐらされた地下鉄
(ぼうぜんとしながら、とおりすぎてゆく
(息つぎの しろい
(雑踏
おどろくほどかるい
すかすかの骨を並べて
路線図を模すと
せいぜんとした、標本のように
●
そう、推敲の余地がある、ということだ。
ただ第三の「流木」にみられるように、この作者の資質の良さは安定的。
大量に書いて自分を研ぎ澄ます時期が来ているのではないか。
*
4075 : 瞳の奥10センチメートル snowworks ('10/01/11 07:39:20)
これはポエムのようにみえて、ポエムじゃないね。非常に巧緻に企まれている。
運命的な対象と出会ったのか自分自身と出会ったのかが意図的に攪拌されているのだった。
相手の「瞳の奥10センチメートル」を見る、とは
田中宏輔がコメント欄でいみじくも見抜いたとおり、
両耳をつなぐ箇所を見るということで、その視線なら狂気に陥る。
あるいは自他の弁別のない無差異をみることにもなる。
人の瞳の奥にそのようなものを探り当てるのはヤバイことなのではないか。
加うるにトポロジー。JR御茶ノ水駅(聖橋ではなく御茶ノ水橋のほう)の洗面所なら
僕も利用したことがあるが、どんな鏡がかかっていたか記憶にない。ゾッとしてくる。
改札前はスクランブル交差点、歩行者で平日の昼間はごったがえしてもいる。
問題はその間近の「御茶ノ水橋」が、
後藤明生の迷宮型ユーモア傑作小説『挟み撃ち』の冒頭舞台となっていたこと。
その主人公は、「聖橋」の名称をおもいだすが、
「御茶ノ水橋」の名称がわからず、混乱にいたる。
それがこの詩篇の自他の混乱と掛けられているのではないかともおもったのだった。
*
4119 : 帰り道 如月 ('10/01/28 11:24:59 *3)
日常詩。虚構ではないだろう。心に馴染む光景が歌われているし叙述にも澱がない。
ただそうであれば90年前後のころの福間健二のようなひねりもほしかった。
詩的衝撃が不足している。以下が良い運びだとおもう。
●
いつも手を繋いで帰る
帰り道には
サビついた鉄塔と
給水塔があってそれらが
夕焼けに照らされて
いっそう美しくサビついて見えるのは
どこか僕らに似ていて
息子が何故いつも泣き叫ぶのか
という事について考えている
*
4096 : リミット・オブ・コントロール ぱぱぱ・ららら ('10/01/20 00:49:18)
「わたしたち」のロボット化(不感無覚化)が主題。
とりあえず四章にわけられた章ごとの理路が飛躍している。
そこに詩を感じてほしいという方策は、半分成功し半分失敗しているのではないか。
繰り返される「――するつもりはない」という言い回しが
悪い意味で効果を発揮しているのだ。第三章が良い。以下にペースト。
●
わたしたちはわたしたちを変換させる。わたしたちはわたしたちの顔を整形し、体を長く細くする。わたしたちはわたしたちの論理を明瞭化し、思考 を形式化する。わたしたちはわたしたちの性格を穏やかにし、生活を統一する。わたしたちはわたしたちのことをロボットと呼ぶことになる。
*
4091 : SENAKA debaser ('10/01/18 14:57:57)
話者Aと話者Bのテンポ良い会話が一行ずつ。
で、最初はAからBへの一方的な決め付けで話がかみ合わず、
それでも展開がぽんぽん進んでゆく――ということならば
ダウンタウンが80年代末期、
「クイズ」などで先鞭をつけたディスコミュニケーション漫才だが、
「田中」「鈴木」「猪木」「八時」などという言い換えがあっても
致命的なのは笑えないことだ。何かがしつこい。
新機軸は、話者Aが自分の父親に電話をかけて、
無理やり話をさせられる羽目になるBの会話のみを綴る第二展開部。
ここでは論理が脱論理を呼び込んで、事態がおもわぬ方向に進む機微も綴られるが
やはり「しつこさ」の病が癒えなかった。
橘上『複雑骨折』中「花子」のような話術がもっと学ばれるべきだろう。
「それが詩であるかどうか」はどうでもいい。おもしろければいいのだとおもう。
*
4106 : 大阪ミックスジュース 津島ことこ ('10/01/22 17:13:02)
Jポップの歌詞的なものと、藤井貞和的な融通無碍。
ふたつの調合なら実は好みで、それで大阪繁華街の夜が猥雑に活写されれば文句なかった。
ただし実際は行加算に無駄が多く、中心着想も見当たらない。リズムは良い。
ルフラン的に出てくる《わたし(たち)は/ひとつではなく/ひとりひとりだった》
には魅力がない。
一度目が「わたしたち」、二度目が「わたし」なのだが、
その言い換えで何がもたらされているかがちゃんと計測されていないのではないだろうか。
入沢康夫の旧い詩句に似た言い回しがあったのも難点だろう
(入沢詩の場合はちゃんと「ダブル幻想」に結びついていた)。
*
4082 : 地のいろの空から、風がふく。 みつとみ ('10/01/12 22:30:11)
短いインターバルで句点がくる。それによって律動がつくられる簡潔な文体。
「あたし」は草原で「鉄の馬」を追う(自ら別の馬に乗っているのかはしめされない)。
そのうち人間どもの縄張りを犯す。人間どもは醜い。
しかし「鉄の馬」に拘泥して「あたし」を見失う。「あたし」は再びの平穏を得る。
「鉄の馬」が何を寓意しているのかはしめされない。
しかしその恐怖と無敵についてはもっと詩的修辞がつむがれるべきだったかもしれない。
「あたし」が人間どもにつかまれば犯される――という設定には、
この作者の人間不信と自意識が透けてもみえる。
コメント欄にもあったが、この詩のヒロインに「もののけ姫」を重ねるのは自然だろう。
ちなみに、「鉄の処女」といえば身の毛もよだつ拷問具となる。
*
4090 : 風邪予防に使われる生地 プリーター ('10/01/18 13:05:46)
異国風景中の自ら(の見たもの)を切り取ったのか。
モダニズム詩ならありえる手法だ。
この詩を生かす方法はひとつだけ、
ディランの「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」のように
猛スピード、しゃがれた声で余剰なしに叫ばれることだ。
*
4065 : ベンチ びんじょうかもめ ('10/01/04 17:07:17 *2)
助詞の省略によってカタコト的なリズムの生じている箇所が多い。
「ライフ」−「ナイフ」の安直な韻もふくめJポップ的なものが狙われている。
ストーンズの「悲しみのアンジー」も懐かしかった。
三篇とも整理すればインディロックの歌詞につかえるだろう。そういう理解をした。
《レ点をおつけください 神様》というフレーズ、良いなあ
*
4124 : 雪 ER.誠 ('10/01/30 21:38:19)
雪と鳥の飛翔にかこつけた叙景詩だろうが、無駄な言葉が多すぎもたもたしている。
「記憶」はこんな精度では語れない。おもわせぶりも厭だ。
最後の一聯で詩の主体が外に出たとわかるが
玄関ドアから出たのか窓から出たのか、といった「状況変化」こそが
詩的言語で書かれるべきだろう。
*
4117 : つーつーつー イモコ ('10/01/27 17:33:38)
小指が電波を受信する、そのことを主体はもとめている。
大切なひとからの電話か、あるいはもっと神秘的な報せか。
してみると主体の躯は一個の携帯電話機に如かないのだろう。
そういう哀しみはわかるし、
実は詩の内実と呼応していない「つーつーつー」のタイトルも
何か大切な神どうしが通話中、という気配を出している。
そのような発想は結構なのだが、なにしろ修辞が幼すぎる。
知的に稚拙というのでなければカマトト、ということになるが
どちらにせよ気分が悪くなってしまう。
行の渡りにも展開変化はあるが、詩的驚愕が何もない。
*
4120 : I Need It Now. ヒダリテ ('10/01/29 00:25:57)
過剰で狂っている形容詞、一文の意図的な長さと錯綜、理路の狂い、
卑小なものをもちいての、さかしまのカーニバル感覚がやがて国家大にも拡がってゆく。
そのあいだに食べ物や生き物への侮蔑・冒涜の気分も気味悪く滲んでくる。
端的にいえば作者が面白がっているものが笑えない。読み進めるのも辛い。
ユーモアを盛ったはずの詩が空転するときの無残さには気をつけたほうがいい。
北川透の詩を我慢して読んでいるときの悪寒をおもいだした。
あ、井の頭公園でバラバラ死体が発見された往年の事件は
被害者は判明したけど犯人がわからずじまい、迷宮入りが近づいているんだろうなあ。
*
4125 : われ目 草野大悟 ('10/01/30 23:23:53)
「空を産んだ」「(地の)われ目」が泣いていて
詩の主体がそれに語りかけているという点では畸想詩だが、
最初の「われ目」の登場に驚愕を仕掛けるためか
俗に言う「ポエム」に近い文体が用いられている。
意図はいい。しかし結果が出ていない。「ポエム」をやりすぎたのだ。
語の繰り返しがしつこい。行アキのファジーもだらしない。
むろん峻厳な推敲がなされるべきだった。
*
4104 : 雪夜 凪葉 ('10/01/22 00:30:11)
行わけ詩から散文形への宗旨替え。
ただし自己疎外の主題を手前勝手な抒情性に結びつける悪癖は変わらず。
何度も同じ不可能性をめぐり、この作者は旋回している。
これみよがしな文体が気持ち悪い。ところどころ修辞に甘さ、ほころびもある。
《いつの間にか首筋は感覚を失い、今わたしはどのくらい埋もれているのだろう》の部分、
「埋もれる」の不用意さは何だろう。
「わたし」は雪原に文字通り「埋もれた」と錯覚してしまった。
じっさいはちがう。その後をみれば「わたし」は依然雪のなかを歩いている。
誰かのつけた足跡を追って。
してみると「埋もれた」とは「わたし」の気分の描写なのだった。ありえない。
どこかで高村光太郎「道程」に似た説教臭もある。
*
4122 : 平原 糞と尿瓶 ('10/01/29 11:57:34)
詩篇タイトルはなぜ「平原」なのか。素直に「盆地」でいいとおもう
(そういえば、モールスに「盆地の夏」という佳曲がある)。
盆地の厳寒に閉じ込められた主体。つまりモールスと同じ地方閉塞が歌われていて、
自分のありうべき脱出路には飛行機の航路が夢想的に「重ね」られる。
プリミティヴな着想だ。一聯、出てくる「子供」に主体も「重ね」られ、
つまりはこの作者の詩想は「重ね」を主軸にしているともわかるのだが・・・
駄目な修辞の例を出しておこう。
《姿形も流れて消えた静かな夜の三千世界の雪景色》。
使いたい言葉だったのだろうが、「三千世界」(元来は仏教語)がミスマッチだ。
作者がこの語を覚えたのは例の物騒な小唄によってだろう(僕はそうだ)。
《三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい》。
そうだね、つまりは「物騒さ」をないものねだりしてみたくなる詩篇だった。
掲出一行、「雪景色」にのしかかる過剰形容は、雪世界の重みを表現しているとはいえ、
多くの読者は「もたつき」と捉えるだろう。そういう判断をおこなう自己客観視がほしい。
*
4116 : 微熱 秒読み タートルネック 永島大輔 ('10/01/27 15:29:39)
書かれていることが「わからない」。たぶん修辞法則がつかめず
簡単な詩篇と映るのに、終始、隔靴掻痒感から離れられなかった。
不正確、ということだろう。とくに第一聯。語法も甘すぎて気持ち悪い。
独善的に「愛の生活」が歌われているのだけど。
それと、ところどころに舞い込んでくる硬い語彙がすごくカッコ悪い。
*
4109 : 砂抄‥ 或いは冬浜の枯れ木 常悟郎 ('10/01/23 17:36:27 *3)
言葉が硬い。それと作者が詩法と信じているもの、それ自体が気持悪い。
何もいう気がしないのだが、僕が悪い意味で鳥肌の立った修辞を適当に列挙してみよう。
《‥命はすべて/冬の海へ/帰依してゆく‥》
《俺は冷めたアタマのなかから白いオムツをひとつ取り出して/海へ流してやる‥》
《‥幸せは零れゆく》
《たとえば老衰で死にかけた父の額に、真っ白なブラジャーをかけてやる》
《こころの歳磁器》。
こういう修辞を読まされることが拷問になる、とこの作者は考えないのか・・・
*
4100 : おいてけぼりのスニーカー はるらん ('10/01/21 05:00:44 *3)
ちょっと手の込んだJポップの歌詞かポエムとしか受け取れなかった。
どうもこういう語調が駄目だ。一箇所だけ、「胡蝶の夢」に通じる箇所のみ引いておく。
●
若い娘の腕に止まる
迷い込んだアゲハ蝶
生まれる前の春の中で
君は何を思っていましたか
*
4114 : 風船のある風景 藤村と四季 ('10/01/26 02:41:40)
社会への義憤だけでは詩は形成されないとおもう。
詩の言語が何か、その考察のほうが先験的なはずだ。
それと。老人の言葉が反語的にみえて説教臭い。
冒頭は久保田早紀「異邦人」の引用。明記すべきだ。
*
4103 : その時は薔薇の苗を一緒に埋めてください 無花果真雪 ('10/01/22 00:17:44)
高校生レベルのポエム。その評言だけでいいだろう。
詩篇タイトルは「千の風にのって」の悪夢をおもわせる。
*
4098 : 白野 藤本T ('10/01/20 02:52:53 *1)
現代(詩壇)詩の悪癖をそのまま写したような詩篇。
こんなものは「文極」で読みたくない。
精度もすごく低い。「詩手帖」に投稿しても掲載されないだろう。
*
4094 : 機械の心音 ぷう ('10/01/19 13:27:03)
句読点、約物の使用、リズムなどに若手現代詩作者からの影響もみてとれるが、
詩想自体はひねりがなくプリミティヴ。奇怪なアマルガムを見る心地だ。
*
4086 : (無題) スターバック ('10/01/15 23:02:28)
言葉の配置や、行の進展から理路を奪っただけの「だらしない産物」。
ただ意外性の美が訪れることもある。それがラスト。
●
ハチミツだらけの
木目に
「火」が暮れる。
*
4093 : 春を迎える 睡蓮 ('10/01/19 00:50:32)
春が近づいてゆく様子を天文・人事あわせ
手の込んだ修辞でつくりあげようとするが破綻している。
言葉に刈り込みが足らない。極小から極大への階梯がない。
俳句を勉強なさってはいかがだろうか。そうすると詩想に「あなた」を加える癖もとれる。
*
4105 : セルシウス しりかげる ('10/01/22 16:51:38)
ラストに意外性を盛ったのだろうが、全体はポエムにすぎない。
*
4080 : 手 坂口香野 ('10/01/11 18:11:07 *1)
詩想バラバラ。展開不明。ここでの「聖痕」の語も詩的想像力にとっては誤用だ。
とくに冒頭のポエム調が壊滅的だとおもう。
*
4081 : ダンス ぱぱぱ・ららら ('10/01/11 23:55:29)
これもポエム。どうしたのだろう、今月はポエムが多い。。。。
*
4083 : (無題) マキヤマ ('10/01/13 02:43:38)
それらしい修辞をつかった「詩のようなもの」というべきだろう。
夏を迎える海が叙景されているようだが、伏流する「情」がなく
書かれた言葉も実際は残骸だ。二聯が少し良いような気がしたが錯覚だった。
この作者は修辞が不正確。
鴎に乳房なんかない。象徴表現を意図しているのだとしたら何にも結びついていない。
*
4089 : 愛の日々(愛のメモリー) 石川順一 ('10/01/18 02:18:21)
理路を崩すだけで詩が成立すると考えるのは誤解だ。
言葉は「その言葉以外」の何かを電荷しなければならないのに、
それがすべて作者の手前勝手のなかで死んでいる。笑えるわけもない。
半角スラッシュも約物として汚い。何のつもりなんだろう。
一箇所だけ、眼を引いた。
《私がシルクロードで卵を割る生業に従事して居ると次々と英詞が送られて来た》。
しかし「居る」の表記が駄目。「英詞」も「英詩」だろう。一事が万事。
推敲し、自分の書くものが他人にとっても正当性をもつか吟味してもらいたいものだ。
*
4070 : 「ジオラマ」 校舎 常悟郎 ('10/01/06 17:17:15)
学生時代の回顧。とりわけその空間性の回顧。
ただし記憶は紛い物にすぎず、呼び出される光景の真偽も判明しない
――ということでこの詩篇タイトルもあるのだろうが、
それだけか、という感がつよい。
ジオラマとパノラマの対比なんて、大衆文化史的な考察まで上り詰めるべきだ。
ジョナサン・クレイリー『観察者の系譜』をどうぞ。
眼そのものの水位が先験的に上昇していたことで、
どのように映画が起こったかがこの本で分類学的にわかる。
そういえばこの作者も言葉が「手の内」のままで何も批判的にはもちいられていない。
詩的修辞のようなものが不正確に目指されているだけだ。たとえば、
●
あの娘/を、意識した道化たボクたちの接着剤‥
忘れた痛みがくすぐったいのは、大時計に交差する上履きの蝋足
‥そんな気がする
●
などは、造語もふくめ良いフレーズに発展する萌芽ならある。
ところが意味のない半角分スラッシュや三点リーダーによって
字面が台無しになってしまっている。
作者はそういう約物で詩的偏差値があがると考えているのだろうが
こういうのは「惜しい」という気もしない。
*
4076 : 部屋で釣り 石川順一 ('10/01/11 08:51:42)
作者が自註するように「支離滅裂」。
「泉鏡花」を「和泉橋花」とズラした最初の一行からして最低だ。
詩が詩となる要件が、個々の言葉の発動から真摯にかんがえられるべきだ。
全体構想について云々する必要は感じない、あしからず。
*
4092 : 野のすみれに 草野大悟 ('10/01/18 15:26:07)
最低のポエム。ポエムというのはオリジナリティのないものだが、
そのなかでも最低に「ない」。何かの剽窃かもしれない。寒気がした。
こんな抽象的なことを書かずに、実体験を精査してみてはどうか。
*
4071 : 射光 凪葉 ('10/01/06 22:58:37 *6)
「月のうち、三十五日は雨。」という説明でわかるように舞台は屋久島。
屋久島の急厳な斜面を妻と登る「僕」が描かれている。
ところがただの(出来の悪い)紀行文と選ぶところが何もない。
この作者はいつもそうだが、何が詩性を形成するかを書く前に測定しないのだ。
よってすべてが駄文の堆積にしかならない。
陽光に当たる緑の美しさ? それが詩のための何だろう。
それは実際は、屋久島行という、体験の優位性しか現象しない。
紀行詩、散歩詩に必要なのは普遍的真実を驚愕に変え、
同時に移動する身体の淋しさをえぐることではないだろうか。
「のんびりといこう」――ヤバイなあ。
往年のかまやつひろしが唄ったTVCMソングとほぼフレーズが同じだった。
屋久島の緑の猛烈な繁茂に近づきたいのだから散文形使用は理解できる。
むろん散歩詩であれば、詩行の推移と空間推移が並列するから
行分け形を選択するのが賢明だろう。
*
4078 : 終わりに── 蘇る君から(幻の第2詩集 「Yours」より) 丸山雅史 ('10/01/11 17:29:05)
最も詩的な素材「桜」が、安直にもまた(君の)「死」と結び付けられた。
それだけの「ポエム」。桜への冒涜。
書いている本人は気づかないのかもしれないが、
(幻の第2詩集 「Yours」より)の註記は自意識過剰で、一般的には「笑える」。
このごてごてした桜にたいし、簡明な桜の例として一首だけ書いておくか。
《うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在処おもほゆ》(葛原妙子『薔薇窓』)
*
4069 : 島雲 破片 ('10/01/05 23:24:53)
途中、山脈を覆って流れる雲について
よくこれだけの「文」が続くなあと感嘆したが、
散文の描写精度を高めれば詩に近づくと考えるのは
散文形の詩にありがちだけど、大きな誤解だ。
とっておきの「省略」と暗喩は主人公の崖からの落下時の描写だろうが
それも「夢オチ」となると予想がついてしまった。
雲と島のアナロジーはそれ自体陳腐だ。
ところで今年は雪が多いはずだが・・・(想像の詩篇?)
*
4062 : ほんのり苦い言葉の味 Rei ('10/01/02 00:09:28)
手の込んだ修辞が尽くされているが、これも「ポエム」。
繰り返すが、今回はポエムをたくさん読まされて憔悴している。
「文学極道」の媒体性格が誤解されつつある?
*
4066 : クロニクル ぷう ('10/01/04 21:36:43 *1)
こちらは出来損ないの現代詩ふう詩篇。修辞がゴテゴテして眼も当てられない。
途中に幾つか挿入される英語表記もすごく「恥しい」。
もういちどいう、「文学極道」の媒体性格が誤解されつつある?
*
4073 : one love 白い黒髪 ('10/01/08 11:25:39)
何か、「まったくつかめない詩」。
花火を回顧しての叙景詩かとおもうと、花火といじめに喩的関係が結ばれたりする。
とうてい、整理のうえで作者が書いているとはおもえない。
こんな詩を公表して後悔しないというのならば、
やはりハンドルネームを通じての匿名発表という
制度そのものが誤っているとしかいえない。キツイなあ。。。。
●
弱さはこねくり回す内に強さを分泌していく、私の持つ優しさ。
一人の男として、
金や女や名声やセックスや、そう換言されてしまうわたしの心の中にさえ、
ほほえむ神が立っていた
●
って何? 「換言」は「還元」の誤記? 文法いろいろ間違っているぞ。
でも詩的な言語破壊とも程遠いぞ。
なんで前提なしで「金や女や名声やセックスや」って
生臭い語彙が列挙的に出せるの? 読者をナメてるおまえはだれだ?
*
4064 : エンターティナー 梓ゆい ('10/01/02 22:20:51 *2)
処世訓を備忘録的に書き留めているのかなあ。自戒集、ってやつ。
それにしても一個目のご託宣、文章がゴタついているぞ。
これでは託宣にもなりゃしない。題名も意味不明。
*
4068 : 動物園 丸山雅史 ('10/01/05 02:40:24)
《動物園は罪を犯した動物達の公開刑務所だ》という冒頭からしてアウト。
動物園が哀しみとカーニヴァルとの不可思議な混淆だという実質が
まるで捉えられていない。あれほど人間的でおもしろい訓育施設などないのに。
とおもったら、人間が檻に入れられていて、「僕」はその飼育係といった
手垢のついたような「逆転」まで用意される。詩的修辞なし。詩がナメられている。
*
4059 : 無知の星 白い黒髪 ('10/01/01 09:47:11 *1)
今度の素材は「星」。一部手の込んだ修辞は混在しているが、やはり「ポエム」にすぎない。
