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2012年04月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


むちゃくちゃ抒情的でごじゃりますがな。

  田中宏輔



枯れ葉が、自分のいた場所を見上げていた。
木馬は、ぼくか、ぼくは、頭でないところで考えた。
切なくって、さびしくって、
わたしたちは、傷つくことでしか
深くなれないのかもしれない。
あれは、いつの日だったかしら、
岡崎の動物園で、片角の鹿を見たのは。
蹄の間を、小川が流れていた、
ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。
その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。
いつの日だったかしら、
樹が、葉っぱを振り落としたのは。
ぼくは、幼稚園には行かなかった。
保育園だったから。
ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。
落ち葉が、枯れ葉に変わるとき、
樹が、振り落とした葉っぱの行方をさがしていた。
ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。
顔が笑っているときは、顔の骨も笑っているのかしら。
言いたいこと、いっぱい。痛いこと、いっぱい。
ああ、神さま、ぼくは悪い子でした。
メエルシュトレエム。
天国には、お祖母ちゃんがいる。
いつの日か、わたしたち、ふたたび、出会うでしょう。
溜め息ひとつ分、ぼくたちは遠くなってしまった。
近い将来、宇宙を言葉で説明できるかもしれない。
でも、宇宙は言葉でできているわけじゃない。
ぼくに似た本を探しているのですか。
どうして、ここで待っているのですか。
ホヘンブエヘリア・ペタロイデスくんというのが、ぼくのあだ名だった。
母方の先祖は、寺守だと言ってたけど、よく知らない。
樹が、葉っぱの落ちる音に耳を澄ましていた。
いつの日だったかしら、
わたしがここで死んだのは。
わたしのこころは、まだ、どこかにつながれたままだ。
こわいぐらい、静かな家だった。
中庭の池には、毀れた噴水があった。
落ち葉は、自分がいつ落とされたのか忘れてしまった。
缶詰の中でなら、ぼくは思いっ切り泣ける。
樹の洞は、むかし、ぼくが捨てた祈りの声を唱えていた。
いつの日だったかしら、
少女が、栞の代わりに枯れ葉を挾んでおいたのは。
枯れ葉もまた、自分が挾まれる音に耳を澄ましていた。
わたしを読むのをやめよ!
一頭の牛に似た娘がしゃべりつづける。
山羊座のぼくは、どこまでも倫理的だった。
つくしを摘んで帰ったことがある。
ハンカチに包んで、
四日間、眠り込んでしまった。


道のはた拾遺 8.

  鈴屋


8.死んでいる男


野づらの一本道を歩いている
雲は低く、雨は
降るとみえて降らない

行く手の道のわき
枯れた草地になにか横たわっている
近づくにつれ
男が仰向けに倒れているのだとわかる

寝ているのかとおもいつつ
見下ろす
素足の片足を溝の水に浸けている
顔から首にかけて
皮膚は艶を失い土気色

反応など期待したわけではないが
頬骨のあたりを靴先で小突いてみる
首は揺れない、固まっている

「死んでいる」 と
私ではなく、男がいう

シャツがはだけ、凹んだ腹が晒されている
草と地を圧している相応の重量、死んだ肉体
顔を見る
赤黒い口腔、乾いた目玉、濁った瞳孔
まじまじ見詰める
死が関係を単純にする

ヒクヒクと笑いがこみ上げてくる
なにが可笑しいのか
笑いながら自分を怪しむ
十五秒ほどつづいたとおもう
あまりに広い空と地の狭間では
笑いは孤独にすぎ、すぐ醒める

耳朶に風が絡んでいるのがかすかにわかる
ひとしきり雲の動きを眺める

「はやく行け」 と
男がいう
「ひとり死んでいたい」 と
男がいう

踵をかえし、先をいそぐ
雨の最初の一粒が
私の額にあたる
最初の一粒は彼にもある


孵化、火学

  New order

神の暗闇が部屋に満ちて、
異国の言葉は、

「もし、孤独が一つの連続体の、
 総称として、私たちを、
 海へ、ラプラスの海へ、
 投げ込むとするなら」
「ええ、貴方は、そこで、火学、を、
 言うのね。あの古い忘れ去られた
 魔術と呼ばれるようなものを」
「失われた空間は、恐怖で満たされているのよ」
「そこに、火を、千切れた魂を燃やすようにして」
「そうね。そして、私は嘘をつくのよ」
「特異点として、私は偽りの、心を」
「今日、心から願う、か、あの彼、そして詩人であった、
 彼が、詠ったように、」
「私は限りなく演算された一つの値ではないわ。」
「むしろ、固有値を持った無限」
「それはおかしいわ」
「いいえ決しておかしくない」
「私の不安は無限であると同時に、私の孤独は有限性の中で
 値を振り切って、「止まっている」のだから」
「私は教科書ではないのよ。ましてや、方程式に満たされた
 世界の終わりの向こう側で、肌を晒しているの」
「傷口は、論理を破綻させる。」
「そうね、知性は初めから傷つけられているのよ。」
「火の値を探して、貴方は、その傷を観測したわけだ」
「瞳は孵化する、こんな詩的である表現が「科学的」であるわけがない」
「貴方は、ラジウムの洗礼を、あの放射性物質の持つ洗礼を受けなければならない」
「それは、失われた神の恩寵とでもいうのか?」
「いいえ違うわ。神は失われた恩寵そのものであるのよ」
「じゃ、定義しよう。そこで言われる神とは?」
「火と魂の物語が終焉へ近づくに連れて、無限に閉じられていく有様」
「あまりにも詩的すぎるね」
「そうね。私は今、貴方を煙に巻こうとしているの。」
「煙に巻いたところで、その煙は一体何がくべられた火から?」
「ミモザよ。ミモザの語源は、パントマイムの語源であるミモスからきてるのよ」
「なるほど。では、貴方のそれは、行為は一体何なんだろう」
「火学、負荷が始めにこの魂には持たされているの。いや、魂が負荷そのもの、
 私たちは、この魂の重力から逃れられない」
「孤独と恐怖にまつわる火の物語を、火学というのか?」
「それも違う。火に物語が、魂の負荷と同じように、初めから、
 孤独と恐怖を内在しているの。だから燃えているのよ。
 さぁやさしい数学の時間よ。方程式は永遠に閉じられて、私達の間では
 何の意味ももたない。どうする?」
「個つまりatomismを越えようと?」
「違うわね。原子論ではなくて、原始論なのよこれは」
「くだらない冗談にようにきこえるけど。」
「起源は常に覆い隠されている。私たちの歴史は、歴史それ自体その起源を
記憶していないのよ。だから、終局から、本当の終わりから、燃え始めていて、
遠い未来から私たちに向かってすでに火が私たちを追いかけているのよ。」
「遠い未来から「追いかけてくる?」。よくわからないな。」
「だから、私たちはここで、孵化しなければならない。私たちと火が衝突する前に、
 羽でも生やして、飛び立たなければならないのよ。」
「どうやって?」
「私の、そして貴方の、失われている起源、を、捨てて、私の起源は貴方、そして貴方の起源は私、
 私たちの起源は私達、と言う風に、魂を分け与えるのよ。その時、火に焼かれるように、お互いの
 魂が痛みを感じるだろうけど、そしてより深い孤独や恐怖に陥るだろうけど、それが、起源として
 刻み込まれるはずよ」
「つまり、それは 始めに言葉が、あったように、すでに、その言葉には火が内在されていたと」
「そうで、私たちは、言葉を吐くたびに、この唇を、この口内を焼け焦がしながら、そして、向かいあった
 相手すらも焼き尽くすようにあるのよ」
「まるで、それでは殺し合いじゃないか」
「そうよ。それは、すでに絶対的に決められている逃れることの出来ない「事」としてあるのよ」
「外は雨だね」
「雨の中で、私たちは火を噴く、まるで怪獣よ」
「小さな怪獣としてこの世界を火で包むと」
「それは私たちの魂が凍えてしまわないように、痛みは私たちを傷つけて破滅させるけど、燃え上がらすわ」
「じゃ、君と私は今から殺しあうわけだ」
「そもそも、私と君はこの会話では、同一性を保っていない。私そして貴方、いえ君、は誰と話しているのかしら」
「火とその物語の孵化のために」


無題

  zero

海はどこに隠れた? こんなにも空は涼しく、こんなにも山は遠慮しているのに。/それが教授と愛人との踏みならされた日々の果実のような疑問だった。/僕は居てはいけない人間なんです。あらゆる部屋、階段、交差点、肉体、それが僕を許してくれないのです。それは羞恥と言ってもいい。あるいは、執着、焦慮。/学生は低いソファーに居心地悪そうに座りながら、ふと天井のさらに上部の構造の、その隙間に圧倒されて転倒。/教授の研究室の本棚は金属製で、木製であることと決闘したかった夜に運び込まれた。本棚に次から次へと並べられる数学の本たちの体温に、蛍光灯の光はそっと思いを寄せた。/私、私の感情を見失ってしまったの。愛と憎しみだけではなくて、名前のない感情をいくつも貴方に抱いているわ。/愛人は少し汚れた窓のそばにそっと立って、そして船は? 貿易は? 風は?/教授は試験の採点に様々な定理との確執を詰め込んだ。答案用紙の罫線の上を滑る血の粒子たちの嗚咽、衝突。/私はねえ、生まれたときから革命を繰り返してきたのだよ。歩くという革命、しゃべるという革命、その他。え? それは滅亡だって? 君はなかなか優秀だ。/教授は短く刈り込んだ清潔な髪形をしていて、学生はそれと競うようにだらしなく長髪を鍛え続けた。/そして、やはり、海は? 海流は? 海溝は? 疑問のとばりは濃く三人を彩った。/僕が思うには、人生なんて一個のリンゴの実よりも柔らかい。人生なんて星明かりの残滓のような淡いものなんです。だがやけに鉄分を含んでいる。僕の中では砂利と化す鉄分です。/学生は愛人が自分にも好意を寄せていることを知っていた。だが学生から愛人へと向かう小道にはいくつもの放置自動車やがれきや廃墟や丘が据え付けられていた。学生には愛される資格もなければ適格もなかった。

三人は海へと向かった。海と言ってもむしろ講堂だった。むしろ市街地だった。むしろ衛星だった。むしろ山林だった。それらの存在が織りなす液体の集積、それが海だった。/潮風の匂いの中には、いくつもの輝き続ける死が整列しているようで、私は子供の頃の記憶に誘拐されてしまうわ。/コンクリートの崖の上で、微細な波が寄せては返すのを、教授はその力学に思いをはせながら、愛人はその光彩に思いをはせながら、学生はその下の深淵に思いをはせながら、/海に向かって修辞を投げてみようじゃないか。海が滝や湯気や川や氷や宇宙に変換される、その変換の速度を記述しようじゃないか。/僕は海に苛立つんです。まず大きさに嫉妬する。冷たさが怖くて腹が立つ。そして、何でいつまでも存在し続けるんだ。海よ、死ね!/遠くの空のふもとに固着されたかのような小さな船たちの抒情が、学生の眼鏡には降り積もっていた。/美佐ちゃん、昨日と今日と、一年前と、すべてが何でこんなに膨らんでいるんだろう。君と会ってから、私は一つの公理に追い抜かれた気がしている。/先生でも振り向くことがあるんですね。私はいつも先生の背中ばかり見ていた気がしていますよ。その背中にいくつもの地図を刺繍しました。悲しみとか絶望とかありとあらゆるものを。/先生と美佐さんは一つの行動だったと僕は思っています。いつも動き続けていて、僕みたいな静止してしまっている人間からすると、台風のようにかっこよかった。/三人とも海底に身を沈めたかった。教授はその意志の発狂ゆえに、愛人はその言葉の失踪ゆえに、学生はその存在の浅さゆえに。


海(うみ)に至る

  泉ムジ

(女のにおいがする指を口にふくむ
 おぼつかないまま
 手繰りながら書きはじめる)
言葉は目印だ。名前も、墓も。灰に寝かせた線香の煙り。同じ姓が並ぶ小さな墓地にある祖父の兄の特異な名前。
ペットボトルの風車(かざぐるま)が潮風にからから鳴った。
ここでは、
耕人を失った畑(はた)に墓を植えていくのだ。
年の瀬の
昼に
ひとはなく、
(牛の糞と灰のにおい)
農道から林に逸れる。

(ベッドの中で女がこちらを向いた
 顔が触れ合うと気持ちよかった
 性交の間ずっときもちいいきもちいいと
 女は言った私は無言で動いたり止まったりして
 腹の上に射精した)
深く根を張ったまま
樹(き)は折れ、
先は
あやふやに土へかえり、
裂け目は
かわいた黒の空洞で、
何も見えなかった。
(蛇は冬眠しているだろう)
宙吊りの手の先でやみくもに掻きまわしても何も見えなかった。

(女の部屋でシャワーを浴びた
 ときの石鹸のにおいかもしれない)
農道から続く排水溝を飛びおりる。
砂浜は靴が埋もれるほどの骨片(こっぺん)のようだ。貝殻と穴だらけの軽石(かるいし)。色褪せた白が波に押し寄せられ
累積して。
私が子供のころ、
潮溜(しおだま)りから拾ったウニをかち割って食った。
とろけた精巣卵巣は
すすると舌で
海の味がした。
温(ぬく)められ冷やされ、
絶え間なく掻きまぜられた
海の。

(ふたたび口にふくむ
 指は女のにおいと煙草のにおいがまざる
 わかれるときいつも忘れた何か
 かけるべき言葉があった
 が手遅れだ)
小枝と新聞紙の燃え滓(かす)を蹴る。
ラベルが読めない
壜(びん)と、錆と日焼けで茶白まだらの缶は
どこから流れ着いたか?
ふりかえると遠く沖合に漁船が止まっている。祖父ではない。こちらは見えないだろう。
祖先たちへ
緩慢(かんまん)にのばした手を振る。
(宙吊りで
 私が揺れている)

ぷつり、
切れて落ちた。
(あなたとの結婚は考えたことがない
 と女が言った
 ときに
 例えば
 殺してしまうべきだったのではないか?)
煙草を
ひと月吸ってない
代わりに、
おまえたちの高い鼻を
噛みちぎる
ゆるしを得た、
気が遠くなるほどの孤独
で狂った
地軸に。
おい。
覚悟は良いか?


49 ‘til Infinity

  澤 あづさ

 エルニーニョは神の子だから、その呼応が悪魔であっては事であるからラニーニャと呼ばれた、少女は誰でもない。なんでもない、
 エルドラドのラスドラダス。ケンタッキーへ行くと言いつづけて結局行かず三十年の蔵で、バーボンふうに内側を焼き焦がされたオークの樽に、まだ溜めこんでいるウィスキーが、南のトウモロコシのせいなのか黄色すぎて売れない。時おり某のスコットランド人が、内側の焦げ目の黄ばんだ古樽だけ買いつけに来るが、やつのスコッチも売れてはいないスラーンチェ・ヴァーアンナンバー、レピンチレアンマシェドホレ、

“Hey, miss, who’s there? I'm through there.” *

 某のスコッツ氏が放つ th は時おり、強すぎる息で舌のわきから t を跳ね飛ばしいっそ gale 語。西へ至った貿易風が東へ帰ると、町はずれのりんご園の、春にはあかない直売所のわきの、日本の「ふじ」の木からのぼる、ひらききった中心花の白い香り。どうせ間引かれる側花どもは、まだ赤らんでつぼみのまま。
 どうせ用がなくとも、やりもしないブレンドのためのテイスティンググラスへ、十二年の熟成を注ぎだすと、
「How mellow my yellows are!」
 立ちのぼる黄ばみ。あから頬の小さな鼻に年を埋めて童顔を、蜜のいろの (O Fuji apple!) もやから剥きだし (my fair bananas!) 足はない。地につかない、
「Too pissy truly,」
 つぶやくと黄ばみが、
「YOSEMITE am I,」
 名のるので、こいつはミウォクに違いないと決めこんだ。ほかのアメリカインディアンを知らなかったからだ。ミウォクのことももちろん、知らなかったからだ、

“Time to get prolific with the whiz kid.” *
「Nip Nip’s Nipple lol」

 町はずれのりんご園にもハングタウンの坑道にも、つらなる森の脈はもう白けたんだと亡霊がささやく。少女の震えを駆る西でうねる風へと跨れば、黄ばみすらブリトルブッシュが打つ砂漠の一点でしかない。点でしかない。49年、だったか45年だったか、それからずっとこんな感じさ。



<*付きの英文は、Souls Of Mischief "93 'til Infinity" の歌詞から引用しました>


夢のなかに生きる

  天才詩人



僕には出会うべき人々がいる。暗がりのマンションの一室を通り過ぎると、光がさんさんと差してくる。そこには道がある。砂利で未舗装の、木製の電信柱がポツポツと連なる、細い道。水溜りが、雨上がりのススキ野を映しだす、人里離れた村の農道。いや、それは郊外の原っぱに建設中の、建売住宅の用地から見た、田園風景なのかもしれない。とにかく、僕はその道を進む。空から光がさし、それはたったいま過ぎてきたマンションの一室の、子供部屋にも、たぶん届いている。場所は1970年代、北米の大都市の郊外にある、ショッピングモールに移る。そこには高速エレベータを模したフリーフォールという絶叫マシーンがあり、地上45メートルから降下する。階段を一歩一歩登ったとき、一段を踏みしめるのが毎時0.8秒だとすれば、このフリーフォールは170倍ほどのスピードということになる。しかし、このマシンは、降りることはできても、昇ることはできない。この州では、折からの経済政策の失敗で、人々は多忙になり家族に背を向けはじめた。町外れの、洪水制御用のトンネルにはホームレスシェルターから放り出された家族の家財道具が、運び込まれる。僕はモールから直接、南西へ向かうハイウエイに1990年代製のトヨタ車を乗り入れる。午後の日差しは雨水をかぶった稲穂の群れを、きらきら反射する。農家が、農道が、農村が、半開きになった助手席の窓から見える景色のなかを飛び去る。

これらの景色はすべて、僕が3歳のころ、乳白色に染まった午後の舗道を母に手をひかれて歩いたときに、見たものだ。母は私鉄線で一つ先の、駅前にあるデパートの洋品店へ向かっていたのだろうか。あるいは、昼食後の散歩だったのかもしれないし、デパート屋上のレストランで、外食に出かける途中だったのかもしれない。しかし、母親が、「体を鍛えるため」という新聞の謳い文句につられて、僕を週3回のスイミングスクールに入れたころから、僕は無口な少年になった。無口な少年はいつも床を這いまわることを好み、注意はモノ(object)に注がれた。そのころ僕はビキニ島核実験のあと雨に混じって降り注ぐ放射性物質のフォールアウトを、微細な注意をはらいつつ、分別するようになった。指先についた放射性物質の粒子ひとつひとつを、注意深くピンセットで取り除き、水で洗い流した。あのころの記憶は、いまでも「僕」という人間の奥底に、薄暗いトンネルのごとく、息をひそめている。車はハイウェイを出て、再び金色の稲穂が揺れる州道を走り始め、僕は窓を開けた。地平線の消失点へ向かい、頭上をゆっくりと南中する太陽と先行・前後しながらアクセルを踏み続ける。このイメージを幾度となく夢のなかで見た。だが、僕は、この終わりなく続くかに見える道路が消え果てるその先に、どんな景色や人々が見えるのか、考えたことは決してなかった。

時は再び、1970年代の、雨上がりの東京郊外へ戻る。その場所は、文学的な意味での「武蔵野」とは少し違っていた。この地域へ、都心から伸びるコミューター鉄道路線は戦後、5番目に開業したが、新興の私鉄線のなかでは利用者がいちばんすくなく、1970年代までは1時間に4本ほどの運行しかなく、通勤客を見込んだ快速電車も朝晩にそれぞれ2、3本ずつ通るにすぎなかった。1980年代、東西冷戦末期のバブル景気に乗り、この地区の高台に瀟洒な住宅地や高級マンションが建てられ、外国人が多く住むことになるなど、誰が想像しただろう。僕の生がその土地に書き込まれていたころは、そこは、まだ空無だった。住宅はすべて建売の看板が架かっていたし、住む人はなかった。道はほとんど砂利道で、蛙や、陽炎や、みみずくが、雨上がりの草地を、湿潤させていた。政治家たちは、この土地に無関心だった。彼らはマルクス=レーニン主義闘争路線の継続がが頭打ちになったことの悔恨を忘れるために、「指導者」のポーズをとったロダンの彫刻を、自らの身体に規律+訓練することで、この国の出自を忘れようとした。「切腹」や『豊穣の海』に関するデッサンは、すべて破壊された。柳田國男にあこがれた僕は毎年、1986年の夏になると、上野駅から電気機関車に引かれた長距離列車に乗って、東北地方へ向かった。だがそこで僕が魅せられたのは、国鉄型最新鋭気動車のまばゆいばかりの赤色だった。そのため、僕は再建法で建設中止になったローカル線を選んでは、縦に横に、車窓から、稲穂が金色の日差しに揺れる田園地帯を眺め、「東北」を発見していていったのだ。

宮沢賢治の「イーハトーヴ」という言葉の由来については、諸説あるらしい。僕は扇風機が淡い風を送る八月の夜、蛍光灯に照らされた畳の部屋で、白いタオルケットにくるまれながら、母が耳元でささやく、カンパネルラが灯篭を流す日に、空に大きな星の隧道が架かっていた情景や、『注文の多い料理店』の小さな鍵穴から猫の目が覗いている表紙の話を、まどろみのなかで聞いた。だが大正時代のロマンチックな雰囲気を考えたとしても、「イーハトーヴ」は首肯しがたい。イトーヨーカドーじゃないんだぜ(笑)と揶揄したくなるくらい。この記憶は、父と母の、週ごとに頻度を増す、毎週日曜日の私鉄線デパートへの外出と、軌を一つにしていた。沿線は、のどかな郊外から、保守派の政治家の大号令のもとで、高学歴、高収入を目指す核家族の殺到をさばききれず、コールセンターの回線が破裂するほど人気の、現代思想の用語で言う「郊外」へと変貌をとげていた。これら、すなわち「新武蔵野」の駅では、プラットフォームで、自動販売機のカルピスを買おうとした会社員が、ふと、電車が『到着する』ことの空無に耐えきれず、投身自殺し、朝の白い真綿のような郊外が血の海になる、という事故が頻発した。首都圏から同心円状に都心へ向かう私鉄各線は、都心に近づくほど倍加する身投げ事故のために、毎駅数分の遅れが累積したが、日本経済の勢いに、水をさすことはなかった。1980年代を通じて、タオルケットにくるまれていた僕は、無垢なまま、凪いだ海を行く船団のなかのとりわけ大きな一艘のいちばん奥の船室で、広い海に浮かんでいたのだ。


白雨

  紅月



(dear L,)

 
西窓から
こがね色の蜂蜜があふれ
あけわたされた廊下を
遊び風が濯ぐ
木目の数だけ鈍くきしむ床に
罅割れた指を這わせて
(鳴いている?)
やまない久遠の
練乳のような午睡のうえ


文法的には
あやまちなどない
細身のあなたが横たわる
あわく宿る偽りの水のうえに
おおよそ嘘という語意の
あえかな名前が呼ばれ
遺品のために列をつくる亡霊たちの
さいごのひとりに加わる


寡黙な西日に浸された
青く茂りつづける畳の
ささくれを摘む
軟らかな風の抜けていくのに
ひとつも萎みはしない午後に
いつしか緩みきっていた廊下を
ひたひたと伝う蜂蜜
(鳴いている、)
かたくなに硬い
いやはての骨すらつらぬいてゆく
甘くながく滴る午睡の糸を
指でもてあまして
 
 


目覚まし時計はまだ鳴らない

  ズー



きみのオデコはとがっている、おやすみと言うたびに、やだやだされて、それはちょうど夏の虫だったから、掛け違えたボタンが蝉のように、ポックリ病だ、ぼくはきみを目覚まし時計と間違えていた。
縞模様のパジャマだった、水墨画のようにきみをおもい描けば、薄くひかれた瞼が、ヒダリ耳までのび、そのまま赤道と交差して、光を帯びた、旅客機のかたちで、光のさきに、旅仕度はいらないけど、先ずは皺くちゃになった星空に手を伸ばす。きみの足をポークビッツだとばかりおもっていた、ぼくはかに座です。


海岸堤防の階段‐蹴込みの両隅は黒ずみ‐時々白く濁る‐ぐんぐん駆け登ると‐まだ誰も走ったことのない‐空まで続く巨大なハイウェイが現れる‐振り返ると‐せり上がった家並みに浮かぶ‐エンジンの搭載されていない‐六畳一間の小船の船底で‐大波に遭難したきみは眠っている‐今夜も夜通し救難信号を送っていた‐ぼくはひるがえり‐波打際まで一気に降りる‐砂のひとつも色を帯びずに‐でも、今はハイウェイを横切る玩具の漁船が‐どこかの釣り人に釣り上げられ‐岬の手前からふいっときえた‐しらみはじめた空で解体された‐星座群がその後を追う‐夜が溶け、墨汁のような海原に‐ぼくは飛び込んだ。


ずぶ濡れで帰る、未亡人の大家さんに見つかる、ぼくはブリーフ一枚、指先にひっかけたハイカットから点々と海岸まで続く海のにおい、きみのポークビッツをかじるイメージで、大家さん、おはよう、歯ざわりのよさに、振り返っていた、きみのオデコと息き絶えたボタンに触れる、EDWINと砂のついたTシャツを流し台にほうり込んだ、どこにも飛び立たない旅客機は疲れきっている、小船に溢れた七月に、息もできないかにが泡をふいて、船底をうろついていた。


風習

  泉ムジ

 漂う部屋
 底に 横たわり
 行き着く先から曳かれ
 つめたい母の
 息が 透きとおるようになる

 瞼のそとは かぞえ尽くせない
 岸は火事
 カーテンを閉じても
 まだ 結露に濡れた窓の向こうで
 燃える

 +

 幾重にも
 折られ
 重なったしわをさすり
 丹念に おし開く
 若返らせようとして
 いるのか
 不明のまま 手はやめず
 一心にまじない
 めくれば不意に裂傷があり
 とび出した 舌が
 極楽、と
 よだれを吐く
 すでに
 母の目に 満月は移っている

 決められたとおり
 底をなくした舟の
 はらを蹴って 泳ぎ出した
 する筈がない声がしても
 聞き返さなかった

 +

 あけ方 庭へ
 灰ではなく 雪が
 ずっとふり続いている
 ぬれた裸足で 何を書いても
 自分では感じない熱が
 かたちを溶かして
 溺れてしまう
 としても
 ふたたび積もった位置へと
 つま先をのばす
 先から
 泥が垂れる

 +

 母と また亡父と
 血の繋がるものたちが
 寄せあう身を かざす火に
 細い白髪のひと房を
 放る
 かすかな音で
 水気が煙るなかから
 枝わかれを継いで 天に
 上ってゆく無数の腕
 仰いだまま
 遠くなる
 もう声がとどかないところ
 と、誰かがいう
 背中に
 かたい地面がぶつかり
 思わず 瞼を閉じると
 よく知った
 懐かしいものばかりが見えて
 このまま 開けかたを
 忘れてしまいそうだ


なにか

  こひもともひこ


私はできるだけそっと触れようと思う
いつか抱いたことのある赤子のように
そのものに慈しみをもって対面する
夜毎悩ます
  恨みなど忘れて

丸くもあり角ばりや尖った鋭さもあり
触れると凍てついた氷の温度に驚かされ
反射的に手を離そうとする指先を今
熱い温度を持つ
  液体が流れていく

脈を打っているのか命を持つものなのか
それとも触れた私に感化されたのか
影響が状況を変化させて
血を流させる 
  あるいはそれは涙か

本能に従ってそれを味わってみたく感じて
爪を立て傷口を開き侵入する私の利き手が
内部に潜む本質というものを掴み出そうとすると
激しい悲鳴が
   聞き覚えのある激しい悲鳴が聞こえる


チタニウムホワイト

  久石ソナ

身体の皮膚のほてりから

  窓ガラスには結露の芽生え
  ゆりかごに乗せられた重力の
  素足のまとうおぼつかなさ、冷たさ、

(この部屋には私がくぐれそうなドアはない

私は指先を結露に添わせて
途切れ途切れの放物線を描かせる
指先に気孔の明るみ
熱に包まれた切なさが
蒸散するころ

  ほつらほつらと小さな虫の舞い、雪の
  音に隠れ呼応する
  忘れ去られたものたちの

(鼓動を私はいまだに
(鼓膜へ触れ合わせたことがない

  この部屋の外側に
  その生きた呼吸が
  実り熟しているとは知らず

(世界はここで完成してしまった

  遠くから、呼び人の痺れた声に
  記憶はすべてを奪われた

ただ雪の底に眠るなにものかへの欲求に
窓ガラスを割り未成の部屋へ
破片に結露の反射はない

私は元素の振動となって夜へ、
              夜に、



人のひづめの跡を探して、酸素の

  道には雪の重なり
  沈みゆくたびに足音の速達便は
  私に届き、目を通わせる

(結び目のふくらみを
(眺めながらする空気浴

今に、確かな過去が
地面から溢れ、生き続けて遠い

  たゆたう寒さに
  なにものかの痕跡の
  喘ぎを垣間見る

(枯槁の気配のような匂いに風

  私は手のひらを広げる
  そこへ落ちてくる雪の
  結晶の溶けゆく速さを
  私は目に音もなく焼きつける

その温度は私には高すぎて
すべての記憶が押し寄せる

  何千年も前から
  こうして雪は時間とともに
  町を造り上げていたのだろうか

(私から離れた息はしだいに湿り、色をなす、

ふらふらと時間の先端に口づけを

    白い夜になにもかも溶け合っている
         雪層の途切れた熱の色彩
           地面からはじけて、


(無題)

  益子



二面鏡の隅に目がある
穴から出ると夜
森には残された息だけが息づいている
細切れの海岸
前日の帰路
煌々と
息もなく 帰宅

二面鏡の
繰り反しの音
隅から
暁に
離陸する偽り
嵐の六月
奇しき一つの石
 
 
 


ここてて

  便所虫

 今日だって俺は、情緒的な隣人に適当な同情を寄せながら、横目で株価の値動きばかり気にしている。
「どういった物をお求めで?」
 俺は、並んだ品の一から十までを念入りにチェックし、物に溢れた世界の端から端を値踏みしながら歩く。そうやって、『価格.com』で性能と価格を比較し、検討に検討を重ねる、標準化団体で策定されたカレンダー通りの日々を送っていた。

 俺はお前のことが大好きで、思わずモーターが稼働するんだ。触れ合っていたくて、ふと規格からはみ出るんだ。それがはがゆいんだ。
 しかし、来る日来る日も、互いの期待する答えは返ってこない。読み取れない唇から、やがて催促の声が飛ぶ。
「どういった物をお求めで?」
 これを推し量るバロメーターを、俺は持たない。絶えず売り子にめくばせしながら、執拗に求めるのだけれど、どうも出力がうまくいかないらしい。文字にしても、これはJIS規格で定められていないらしく、エラーになるばかりだ。意思が溢れるほどに文字化けするのだ。UTF-8にしてみても同じだ。
「どういった物をお求めで?」
 お前に伝えたいこと、望みのすべては音にしかならなくて、各量販店をはしごするも肝心の内容がすっとんで、店内に不細工な騒音となって放たれるだけだっだ。

“ここに来て、口付けをしてよ”
 たったこれだけのことなんだ。なんてことない簡単な話だったんだ。
「あんた、家電を探しにきたわけ?」
 また今日もお前を怒らせてしまう。そして、いつもお前は呆れたように去っていく。当然だろう。いつも俺は、導入後にランニングコストで回収することしか考えていなかった。
 心はまるで掃除機だ。吸い込んだ空気を本体内部で旋回し、感情と理性を遠心力で分離するサイクロン集塵式だよ。やや騒音が大きいのがデメリットさ。
 俺はことあるごとに、感情にまかせて喋るお前に対し、「何が望みか」と説明を促していたけれど、今まさに、俺はそれと同じ課題を突き付けられているわけだ。

 日ごと加速しながら遠ざかっていく背中に、俺は、しだいに強弱コントロールが効かなくなる。『待って、違うんだよ。まてちう、ここにきて、テュッテュして、まてちうよ、ここにててし、ここててし…』

「ここてて!」

 そこで俺はようやく気付いたんだ。上手に喋れないのは俺だったんだと。そう、俺こそが情緒にめっぽう弱い生き物だったんだとね。


Never Ending Story

  ズー



叔父が息をひきとり、ちょっとだけかける。
バスケットコートにうみがたまり、1999年の、夏のあいだじゅう、ひどく早口の母とぼくは、スコアラーとして過ごしていた。あの黒人選手はスラムダンクをきめ、叔父の骨壷をかかえている父はハンズアップができないままピボットをしているように。ずっと浅瀬だった。
夏が終わる、優勝を逃したのは父だけじゃない。黒人は干からびた珊瑚のリングをゆらしている、そうだ。そのまま父の届かないところにいればいい。母とぼくでおしだしつづけた、うみの上、海上に。少しずつ消滅していく浅瀬は。1999年、骨壷のなかで臭くなっていた叔父をばらまいた。波打際の父がはじめて泣いた、カモメなんかいない年だった。
コートを駆けまわる丸刈りの彼。くろい塊の着地点ですべてが吹き飛んだ。きれいな選手だった。決定的なゲームをあきらめなかった父と同じくらいに尊敬できる男だった。母とぼくは最後の一滴までうみを消滅させて、スコアラーとして過ごしている。
Never Ending Story?
骨壷から叔父の臭い灰が、ずっと向こうの彼方まで、風になった。
一度だけ、叔父と話さなかった。ぼくの、なかで二つ以上の口が、それを赦さなかった。永遠に、ここにはまるいものしかない。
永遠、じゃなく、ただまるめるだけの、夏に、叔父とかわした言葉がなくなっただけだ。バスケットコートから、はじかれた、選手たちの手は、輝かしい未来なんてないと。誰がささやく、そんな奴はみんな、いいところでおわれなかった物語の。いや、本音を言えば、これも、その類なの?


蒸発

  ゼッケン

おれと彼は
おれが身代金の引渡し場所に指定した地下駐車場で
まだ名前の知られていない団体に拉致された
おれは彼の3歳になる息子をさらった誘拐犯で
彼はおれの嫉妬の対象となった父親だった
おれは後ろ手に縛られ、布の袋をかぶらされると数人がかりで車の後部に押し込まれた
おれは男たちを彼の手下だと誤解し、移動の最中ずっと
彼の復讐を恐れて過ごしていた
硬い木の椅子に縛り付けられてから頭部の袋を外されたとき、隣の木の椅子に縛られた彼と目があった
彼はおれを見ていた
彼もおれの仲間にさらわれたのだと思っていたようだった
おれと彼はコンクリートの小部屋に監禁される
先生に導かれてきみが目の前の扉から入ってくる
きみはまだ幼い
今年の春から小学生になる
それから、きみはおれと彼のどちらを殺すかと問われる
きみは孤児で
生まれてすぐに病院に投函されていた
きみを引き取った孤児院を運営する団体の名前をおれは知らないが
その存在は予感していたものだった
孤児院で生活することになったきみは同時に兵士として育てられている
きみの傍に寄り添った先生が
きみに拳銃を握らせながら言った

どちらが悪い大人でしょう?

おれと彼は黙っていた
何を喋るべきかまだ見当がつかなかったからだ
悪い大人は
あなたたちの将来をあなたたちより先に
消費してしまう害虫です
だから、あなたたちが大人を選べることを
悪い大人たちに教えるのです
彼らを恐れさせ、従えるのです

きみの瞳がおれと彼の間を往復し始める
おれは覚えた安堵を表情に漏らすまいとこらえた
おれは勝利を確信している
おれはおれが誘拐した彼の息子の居場所をまだ彼に教えていなかったので
おれが死ねば彼の息子もどこかで衰弱死するしかない
彼が彼の息子を守るためには彼はおれをきみに撃たせてはならない
彼は彼自身をきみに撃たせなくてはならない
彼ならできるだろう、美しい父親なのだから

さあ、お手並み拝見といこうじゃないか

隣から女々しい嗚咽が聞こえ始め、彼が震える声で命乞いをする
お願いだよ、撃たないでくれよ、そうだそうだ、撃つなら隣の男にしてよ、そうしたら飴あげる
ひどい大根役者だ、彼にも役者の才能だけはないことを知っておれの気分は爽快だ
なぜ彼が若くして親切と経済的成功を両立させえたのかおれには理解できないだろうが
もう、いまはいいんだ
おれは彼を赦せる気がする、このまま
彼がぶざまに死ねば
きみの焦点が徐々に彼の眉間に合う回数が増えていくのをおれは数えていた
実験では
被験者が意志を決定したとする認識の時点より先に
意志というものの身体的な決定はなされているそうだ
たぶん、おれの口元がわずかに歪んで
笑いの存在を暗示したのもそのせいだろう
見逃さなかったきみの焦点がおれの眉間に固定された
彼は叫んだ
殺すな!
おれは吹き出した、いや、失敬、
どちらを? おれをだろうか? 彼の息子をだろうか?
おれは山奥の廃校になった小学校の名前を言った
アスベストの埃が降り積もりつづける教室の教卓の下で彼の息子は丸くなっているのだが
はたして、銃声で彼に聞き取れただろうか?
発射された銃弾がおれの眉間を通って、しかし、きみはまだ銃を撃つには小さく、
見上げるような角度で発射された銃弾は眉間から入って脳幹ではなく前頭部を抉るように抜けた
おれは思考を失ったがしばらく生きているだろう、失血死するまで2、3分だが
ピュウ、と頭のてっぺんから血の筋を噴いた
きみが本当は彼を撃ちたがっていたのは知っている
間違ったことをしたい、おれと同じように
なのにきみは正解を選んで
おれを撃った

あほう

気休めにもならない手向けの言葉とする


高野川

  田中宏輔



底浅の透き通った水の流れが
昨日の雨で嵩を増して随分と濁っていた
川端に立ってバスを待ちながら
ぼくは水面に映った岸辺の草を見ていた
それはゆらゆらと揺れながら
黄土色の画布に黒く染みていた
流れる水は瀬岩にあたって畝となり
棚曇る空がそっくり動いていった
朽ちた木切れは波間を走り
枯れ草は舵を失い沈んでいった

こうしてバスを待っていると
それほど遠くもないきみの下宿が
とても遠く離れたところのように思われて
いろいろ考えてしまう
きみを思えば思うほど
自分に自信が持てなくなって
いつかはすべてが裏目に出る日がやってくると

堰堤の澱みに逆巻く渦が
ぼくの煙草の喫い止しを捕らえた
しばらく円を描いて舞っていたそれは
徐々にほぐれて身を落とし
ただ吸い口のフィルターだけがまわりまわりながら
いつまでも浮標のように浮き沈みしていた


ピエロノーム

  紅草

 
重力にまかせた指先の行方では
あなたの眼球が串刺しになり
春うららの中で一番の開花を宣言した

遠慮深い花見鳥は空高く飛翔していく
ああした振る舞いは私には到底できない
私にできるとすれば飛翔とは真逆
この植え込まれた手指を伝い
あなたの水晶体へと生まれ落ちることしか

中身のないこの身体はからっぽだから
抜け落ちた羽のように落ちるに違いない
私はそのためにからっぽに生まれたのだから

そうした私の期待は軽やかに逃亡して
早すぎる自由落下に全身の皮膚が翻る
ボロ切れのような乳房が剥き出しになり
はたはたと上下させる
相対する情けしらずの突風

衝撃を迎えた私が壊れることはなかった
そもそもの話として
からっぽな私には壊せるものがなかった
せいぜいベロベロに延長する乳房ぐらいしか

ああ、どうやら
わたしは水晶体を突き抜けてしまったらしい
ああ、ただの一本でさえ
視神経は奥行きをもって息づいている
わたしとは別世界のそれらが妬ましかった
妬ましくてだから幾束かを引きちぎった

感じるのは未だに脈動する手振れ
焼け焦げるような嫉妬にかられてだから
みすぼらしいピエロは首を吊った
右へ左へ〜前へ後ろへ〜
とまらない振り子は私を愉快にさせる
いくつかの時が経つと
ピエロの胴体は腐り落ちてしまった
頭部だけになる
振り子の周期は変わらずのまま
右へ左へ〜前へ後ろへ〜
ふと足元に目をやると
飛び立ったはずの花見鳥の死骸が踊っている

ここで私は一つのことに
はた、と気が付いた
満たされることがないように
生まれ落ちた私のまわりが
常に絶妙な音楽で満たされていることに


偽の植物園

  水野 温



蒼穹ということばのなかにきえてゆく鳥の声が
とりかえしようのないあえかな記憶の
みずみずしいうそを
傷つけている 

そしてわたしはきみにはもうあたえることができない

いうよりはあたえるものさえも思いだせないままに秋の
蒼穹のなかにきえて
ゆくのである 鳥の声は。 (あざやかな
黄金状の死のなかで倒れふす男の夢が
反復され)水の気配がしずかにひろがってゆく。

    ありふれた風景がひろがる秋の植物園のまぼろしが
            陽射しのうちがわにおりこまれ

思いだせないもののおもさが
枯れ葉いろの空白ににじみながらしずんでゆくいたみを
すこしづつずらしながら
鳥の声をきいている

きいているのはだれだろうか
わたしではない。


  便所虫

 女子ソフトボール部顧問を務める六角は、中学校技術科の講師である。

 くたびれた袖でキュッキュと磨かれるボールが、スムースな回転で螺旋スロープを駆け、校舎中央円形コートへと伸びやかなアプローチを投げ渡す。ほころんだ蕾のポーズでひねり出す卓越した妙技。薄ら青みがかった未完の調べを称えながら、今、女子体操着前胸部の見事な球形のフォルムの先に、花壇を跳ねるブロンズ像とほどく――春。

 六角はリンゴを剥く。疼きを孕んだ眼球運動が、折り目正しく充血させた短刀の、嗄れたアンバーにしたたり落ちる。シュンと抜けた床で生徒達を飛散させ、自由電子の湿度が研ぐ几帳面な美を、しかるべく念写するスキャナの手つきでその眼前に展開。
 せん孔された中庭は押し黙ったままワニス臭い教室内を覗き込む。気孔のような口をぱっくりと開けた、木目の繊維パターンが机上でしゃりりと鳴く。次いで、舌なめずりの六角がフリーズ――六角の手にかけられた瞬間からリンゴ、リンゴ、それはもうただのリンゴではなく、どこが皮か実かの区別さえつかない“六角のリンゴ”と化し、六角の皺ばんだ手のひらでリズミカルな回転運動を続けるリンゴ、六角のリンゴ、それは、その原形を留めなくなるまで一定ポーズを貫く、貫いているだけのブロンズ像のように、所作に一寸の乱れなくリンゴ、リンゴ、リンゴをむいている六角の右手はレンチの動きで、リンゴに添えられた左手、左手は、グラウンド上に引かれたワッシャー型ラインのしなやかさで――フリーズ。すべてはただ、はなからそうあるかのごとく存在し、六角と共に美しく連動していた。

 六角が歩けば廊下はたちまち、第二次性徴期のよろめきのなか、欝屈したビリジアンで校舎を呑んだ。あわてた生徒達は皆そろって、真ん中の白線にぶら下がる形を呈す。ぐらりと塗り込められた物憂い香りの巨大フルーツ、そこへ直立姿勢の六角がぶっきらぼうに突き刺さる。

 鳥肌立つ非常階段を、とんがりメガネの宿直員が駆け上がる。焼けた炉からまろいボールを取り出すべく、あえかなセンサを震わせてまた。

 六角は、技術の授業で設計から製造までの“ものづくり”を、生徒達に工具を用いて教える中学校教員である。
 果皮の気だるげな春めきを、冷却ファンのかざぐるまが淡々と削る。六角は今日も歩く。吹きさらしの渡り廊下をさっくりと。果肉の抜け落ちた果実を如実にばらしながら。


水晶

  yuko

さて、正面には
丸い机
中央の
銀皿にもられた
艶やかな葡萄と
止まったままの砂時計
どこからか
聞こえてくる通奏低音が
生きものたちの
瞼に影を落として、

りりり、と
電話がなって
振り返る
ここは人形の家で
(影のない、)
電話線の向こう側から
話しかけてくる誰か?(知らない)
誰もいない
食卓で音をたてる金属
うす暗い、
玄関から
蛇が入ってくる、
(床が落ちる、)


「父親と母親は双子で、
「地球儀を模る番い
「虹色の鱗粉を撒き散らす毒蛾
「産卵する、
「定点観測隊
「なにひとつ微分なんてしない、


歌う
唇を連れ去ったのは
ある
ひとりの幽霊
赤い
夕暮れを啜って
死んだ青魚、
テーブルクロスを引き抜いて、
君は
世界の
球形をけして
許さないといって
、消えた

屹立する電波塔
都市の抜け殻を
支える
平面
(ほどけて、)
しゅるしゅると
伸びていく尾を
呑み込む!


「生まれたときの記憶がない、
「転移した眼は見えない
「吃音
「色相環を指して、
「水面に飛び込んでいく
「離陸した心臓


窓際に
垂直に射しこむ影
泡立つ檸檬の午睡
視界の外れ
円卓が
ふくらんで
くらく、
同調していく旋律
(揺らいだ、)
休符
を求めては
絡まり合う足、
(電波!)

手を伸ばし
皮ごと
口に放り込んだ葡萄が
ぷちん
とはじけて、
食卓に並んだ
人形たちはみな
ぽかんと口を開けている
(逃げ出した、
(色とりどりの、
(たましい。
ひかりを追いかけて
伸びる蔦が
(帰って、
いつしか脊髄まで覆っていく
(おいで!

目の端を通りすぎる
彗星を追いかけて
気が
付けば葡萄畑の真ん中で
(燃えてる?
その
ひと粒ひと粒が
浮遊する
(ゆうれい、)
君のなみだで、
見えない、
なにもかもが
見えない
眼球に舌を這わせ
(しょっぱい、)
広がり続ける
きみの暗闇を舐めとって、
(だれ?)
(ぼくは、)
球体のなかに閉じ込められた。
(ゆうれい、)
なにもない!
朝、
(ぼくたちは、)
世界を
つつむやわらかな

どこにもたどりつかない光
(さよなら、)


失われた、母の、

  New order

ここは第三層の、
母の平原、
そして、父の焼かれたままの、
湿地帯の中で、
蠢いているのは、
かわいそうだった、
私たちの残滓、
と呼ばれたままの、
砂浜に打ち付けるような、
浅い幸福、

父と母の、
結び目に、
赤く伸ばされた、
目の中で、
翻ったままの、
娘という、
私たちが、立ち現れて、
あらためて、
こんにちわ

湿地帯が、禁止された、
言葉なら、それを、
優しく、描写すればいい?

留まった、水の中に、
手を差し入れるように、
泥の中で、多くの、
鳥達が、たち現れては、
飛び去っていくような、
もっと具体的に?
19世紀の、血みどろの、
戦争の中で、
取り囲まれた、地図上で、
滑り続ける、指の、
感覚だけが、
海を広げていくように、

「歴史は癒されることを、待っているのよ」
「ずっと遠い未来から、ずっと近い過去まで、
 あらゆるすべての、罪と祝福が書き込まれては
 投げ捨てられていった、記述の、間に、
 私たちは繋ぎとめられたまま」
「死者は僕らの父でなかった、母でもなかった。僕達の子供でも娘でも息子でもなかった」
「生者も同じように、私たちも同じよう」
「この都市は、死者たちの記憶で作られている。どこもかしこも、すで死んだ者達か、
 今、死に行くものの思想や空想で作られているのだから」
「死者が見た夢、または死者が見続けている夢に住む私達も、死者達の夢なのかもしれないわね」
「では、生者が見る夢は?」
「生者っていうのはなし!生きる者にしましょう」
「そこに意味があるとは思えない」
「意味があるとは思えないことがすでに、私たちが生きていることへの、乾いた欲求」
「歴史を癒すことで、私たちが癒される?」
「屋根に登る時に、はしごが必要なように、そして登った後、誰かに手を振っている間に、
 梯子は取り外されて、もう降りられないように」

土曜日に見る夢は、日曜日のための夢ではなく、
すでに過ぎ去った日々のために見る夢でありますように、
そう願うために、手の中で、皺が蠢いて、
体中を這い回る、
体を構成する、すべての、
原子が、私たちを通して、
衝突するような、席を、
石段を、

陽の当たる部屋には、枯れていく、植物達が、
眠れるように、台所に、置かれた、
花瓶には、茶色の、水が入っていて、
その中に手を突っ込む、
のは、私ではなく、昨夜、帰ってきた、
戦いを終えた人達、

「じゃ、凍えるような一言を
原発事故の比喩は、すべて死んでいる」
「お前や、私に関する、比喩も、すべて死んでいる」
「突然、何を言っているの」
「突然何を言っているの、と、言っている、貴方もすでに、
 死んでいる」
「オウムもフクシマも死んでいる」
「カタカナになったものは皆しんでるのかもね」
「記憶にとどめておこうとするればすルほど、忘れ去れて行く」
「バカ、も死んでいるの?」
「バカって言葉は、死んでいる奴に使われる言葉なのさ!」

動物を苦しめる父の、姿の、
記憶が、母の、苦しめた父の、
姿の、間で、私の、
始めての出産を、邪魔するように、
「貴方は知っているかしら?今は失われたふるい風習を」
「どんなの?」
「新生児が生まれる、くしゃみをするたびにその数だけ糸を結んでいった風習を。これは明治の頃まで行われていたのよ」
「なんのために?」
「タマ結いのために。私たちはタマ結いをする母の手つきをもう失ってしまったのよ。それは失われてしまった母。タマを結びとめ、魂が出て行ってしまう
 ことを防ぐために、母親が、結ぶ手つき。魂を繋ぎとめる手は、もう失われてしまったのよ。そして、魂を呼び止める手を持った母も失われた」
「なるほど。」
「そして、この死者の記憶でできた都市で、私たちは踊り続けるってわけ。そうしないと、私たちの魂は出て行ってしまう。」
「鎮魂祭だね。」
「そうね、私たちが、踊り続ける。ここが、世界の中心になるように。」
「とはいえ、この会話はここまでよ。私たちをしゃべらせている作者が考えている小説のネタの一部でもあるからね。秘密ってわけよ。」
「作者のトランス状態も少しずつ落ち着いてきたみたいね」
「そうね。こうやって会話させている私たちについては一切描かないのだけど。」
「描く必要性がないと思っているんじゃないの。」
「どうなのかしらね。」

私たちは、生き続けて、
あらゆるものに転移して、


郷愁

  sample

春へ
迷いこんだ赤とんぼに
音信を宛てる
なんとなく
くち淋しくて
見知らぬ子どもの
懐かしい
薄荷の味する
はなうたをぬすむ
ぐらつく
奥歯のように
母音を舌で
ころがしていると
しっぺ返しに
ひどく疼いた口内炎
頬をおさえて
手放した、はなうたは
母親の手に、拾われて
抱き上げた
子どもに恵む
子守唄へと
移ろいで行った

送電線に
からまった西日
明るいうちに
割愛された句読点が
砂場で灰になり
夜泣きしている
木陰はえんぴつのように
とがりつづけて
突端が軌条に
現在時刻を書き連ねる
北上する、夜行列車
車窓から
火の、手に
包まれた鳥たちが逃亡し
越境をあきらめた
羽根を焦がして
運河へ身を、投じて行く

燃えのこりが
舞い散る川端
水をなめる老犬は
落命を嗅ぎつける
緑青する、前肢
追憶に敷きつめられた
楓の葉を掻く、後肢
(すでに、私の尾は
 軸の折れた、筆、でしかない、のか。)
老犬は
焼けつくような爪の渇きに
牙を剥き、鉄橋を駆ける
鼻の位置を
一等、高くして
嗅覚の奥、微かに残る
薄荷の匂いと
幼い声紋を、頼りに

水面の
熟れた光が射し
老犬の目に
桑の実が赤く、色づく
心音が
ひとつ鳴るたびに
投函される
一通の、手紙
明白になる
あの、はなうた


落日

  紅月

鋭いふじつぼが覆う
防波堤に腰掛けては
水に平行に浮かぶ灯台と
水を垂直に貫く灯台の
交差点を横切ってゆく
ちいさな鴎の残響を聴いていた
坦々とつづく白砂のうえに
残しておいたはずの足形も
ひとつのこらず剥ぎおとされて
(硬い珊瑚だけが堆積してゆく、)


うねる波は朱色
風に遊ばれる
薄いカーテンのようだ
ね? と、
錆色をした明喩を拾っては
飛沫の先へ投げる
(押し返されては
ひとりでに戻ってきて、)


翡翠の原を砕きながら
いっせいに
対岸へと駆けていった子どもたち
彼らのいうとおり
ささめきながらゆれる鏡面から
顔を覗かせる幾つもの
にぶい岩礁の影は
尖った指先のようにも見えた
まさぐっているのは
こちらではなくあちらなのか、
問答の乾かないうちに
誰もいなくなった
あがる飛沫はやがて発火して、


あわいまどろみばかりが
白砂に打ちあげられては
代わりに浚われてゆく影を
追う影もなく、
熱のない炎上をはじめた島が
しだいに焼け焦げてゆく空へ落下する


やがてさかしまとなって
そそぐ夜雨のつめたさを、
いったいどんな比喩で語ればいいのか
この島に人は住んでいないが
それでも詩は書けた
(潮騒に埋もれた鴎のこえ、
それがもし
うつくしいメタファであったとしても
わたしには永遠に理解できない)
 


私はトカゲ

  右肩

 三錠分の言葉を呑み込もうとしていた。言葉の内実がそっくりえぐり取られて、喉を下っていく気配がある。言葉の内実をそっくりえぐり取って、喉を下していったので。
 まず一錠、のど仏のあたりがコクン。
 食道を下るものの、食道を下る様子をよく見ようとしたら、山崎さんの手を握ったまま、私の視界は内側へ反転し、山崎さんに、
「あら、三白眼。ん?白目。白目剥いてるよ、八重ちゃん面白い」と笑われてしまった。
 二錠め。三錠め。
 そんなことを言われたって、山崎さん、山崎理恵さん、あなたの内側だって、わたしが見ているものとおんなじ。こんなふうにピンクでねとねとして、うんと不愉快にしめってる。
 わかる?
 何かが身体に入る、それは頭を貫通する銃弾のようにはスマートに入り込まない。ダン、パパッ、プシューッとはいかないの。

 三白眼をくいっと渋谷の白昼に戻す。
 視界を取り戻すと物や現象を束ねる意識の箍が緩む。緩んで動く。
 くいくい。くくいくい。
 つまり、巨大な掌で揺すられるような感じで、街の構図も比喩的に振動したってわけ。うん。
 だからね、私ね、山崎さん、あなたに縋り付くようにしてずるずる崩れ落ちてるでしょ。いやん。何か色っぽい。あなたの柔らかいお腹に顔を押し当てて、下腹に向かってずるずるっといくと、股間から微かにあなたの尿の匂いもして。私は気持ちよくきもちよく内と外の刺激を反転し、やや攻撃的にそれを受容して山崎さん、あなたとあなたの渋谷を、ピンクでねとねとして生暖かい暗闇へ力任せに突っ込んだんだ。と。ゴトン。アスファルトに頭が落ちました。柔らかくありません。あいたた。
 とても赤みがかって、そして真っ暗。
「八重ちゃん、ヒトしてないよ。ヒトと言えないぞ、今。あの、もしもし。死ぬの?あなた死ぬことにしたの?」
 違うな、山崎さん。主観に死はありません。自分自身の死は神話的に創作されたもので、個人の中で不断に再創造されなきゃなんないから、つまり概念として存在するにすぎないんだ。知らないでしょ?理恵さん。
 死なないよ、私。死ぬつもりありませんから。

 身体を置いたまま、理恵さん、山崎理恵さん。あなたを残して私は渋谷の匂いを歩いてます。
 カレーの匂い、鶏肉を焼く匂い。それから麺を茹でるふわっとした湯気、その匂い。まだある。牛革のバッグの皺の寄った匂い。真っ新な衣服の匂い。もちろん人間やそうでない生き物の皮膚と様々な分泌物、排泄物の匂いも濃厚だ。都市の下水網、そのさらに地下にある水脈、地殻の下にもやもやと予感されるマントルの灼熱も。みな匂う。
 それらがまるで水彩の染みのように滲んで入り混じっている。聴覚もない視覚もない、肌触りすらない世界だけれど、私は確かに地表にいるし、私は確かに数万メートルの気圏の果てにいる。わかった。広大な出来事の総体が私でありました。
 改めまして、こんにちは。みなさん。

 私はトカゲです。目を閉じたトカゲ。目を閉じたトカゲの魂。目を閉じたトカゲの魂の、そのしっぽにあたる部分。
 私はこんなにわかりやすい神話として生まれたんだ。
 イザナギは今、天の御柱にじょうろで水をやっています。はしけやしまだきも小さき御柱に雨は降りつぎ風やまず陽はそそぎつつかげりつつ春の真ひるとなりにけるかも。
 空の高みまで湧き上がった砂塵。砂粒が水蒸気の凝結を身に纏い、地へ向かって鎮められていく。鎮まっていく。時間はトカゲの背に乗って、無明の湿地を進んでいます。
 泥の中に浅く浸るしっぽ。S字形に曲がったしっぽ。振り上げられてすぐ落ちてちゃぽといいしなまた動く。
 私の性欲は造山活動で隆起し、低粘度の熔岩を吹き上げながら愛している愛していますと泣いています。山崎理恵さん、あなたを。あなたのことを。
 愛していると。
「八重ちゃん、八重ちゃん。あなたここにいるじゃない。よかった。よかったよ。八重ちゃん、もうここにいないかと思ったよ」
 山崎さんは泣いている。
 私の頭を膝にのせて、体を深く折り曲げている。幾筋もの長い髪の毛が夜の扇状地に広がり、鼻をすするあなたの表情は歴史の彼方、朧に紛れて見えない。
 いいんだよ、泣かなくて。

 でも私はトカゲのしっぽ。
 渋谷は緩やかな谷間に身を潜めた極ささやかな建築物の時間的不連続帯でしかありません。
 理恵さん。あなたも私も。

文学極道

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