二〇一九年二月一日 「現代詩集」
集英社から出た『世界の文学』のシリーズ、第37巻の『現代詩集』は、まず学校の図書館で借りて読みました。のちのち、ネットの古書店で買いました。ウィドブロの『赤道儀』など、すばらしい詩篇がどっさり収録されていました。500円で買ったかと思います。送料別で。
二〇一九年二月二日 「Amazon」
これを嗅いだひとは、こんなものも嗅いでいます。
これを噛んだひとは、こんなものも噛んでいます。
これを感じたひとは、こんなものも感じています。
二〇一九年二月三日 「波と彼」
「波のように打ち寄せる。」というところを
「彼のように打ち寄せる。」と読んでしまった。
寄せては返し、返しては寄せる彼。
二〇一九年二月四日 「作品」
今月、文学極道に投稿した2作品が、じっさいの体験をもとにしたものだということに気づくひとはいないかもしれない。ぼくの実体験じゃなくて、ぼくの恋人や友だちやワンナイトラバーの実体験をもとにしたものである。人間とはなんと奇怪な生きものなのであろうか。じゃくじゃくと、そう思いいたる。
二〇一九年二月五日 「俗だけれど」
ジャン・マレーの自伝をブックオフで108円で買う。ジャン・コクトーの詩集未収録詩篇が巻末に数十篇掲載されていて、読んだ記憶がなかったので、買うことに決めた。まだパラ読みだけれど、ジャン・マレー自身の記述の細やかなことに驚く。よい買い物だった。古書店めぐりをしていて、はじめて目にした本なので、その点でも、手に入れられて、うれしかった。
二〇一九年二月六日 「詩は言語の科学である。」
「詩は言語の化学である。」としたら、だめだね。あからさま過ぎるもの。
二〇一九年二月七日 「若美老醜」
若い頃は、年上の人間が、大嫌いだった。齢をとっているということは、醜いことだと思っていた。でも、いまでは、齢をとっていても美しいひとを見ることができるようになった。というか、だれを見ても、ものすごく精密につくられた「もの」、まさしく造物主につくられた「もの」という感じがして、ホームレスのひとがバス停のベンチの上に横になっている姿を見ても、ある種の美的感動を覚えるようになった。朔太郎だったかな、老婆が美しいとか、だんだん美しくなると書いてたと思うけど、むかしは、グロテスクなブラック・ジョークだと思ってた。
二〇一九年二月八日 「あっちゃ〜ん!」
「あっちゃ〜ん!」ときには、「あっちゃ〜ん! あっちゃ〜ん!」と二度呼ぶ声。父親がぼくになにか用事を言いつけるときに、二階の自分の部屋から三階にいるぼくの名前を呼ぶときの声。ずっといやだった。ぞっとした。気ちがいじみた大声。ヒステリックでかん高い声。
二〇一九年二月九日 「ジキルとハイジ」
クスリを飲んだら
ジキル博士がアルプスの少女ハイジになるってのは、どうよ!
スイスにあるアルプスのパン工場でのお話よ
ジャムジャムおじさんが作り変えてくれるのよ
首から上だけハイジで
首から下はイギリス紳士で
首から上は
田舎者の
山娘
ぶっさいくな
女の子なのよ
プフッ
さあ、首をとって
つぎの首を
力を抜いて
さあ、首をとって
つぎの首を
首のドミノ倒しよ
いや
首を抜いて
力のダルマ落としよ
受けは、いまひとつね
プフッ
ジミーちゃん曰く
「それは、ボキャブラリーの垂れ流しなだけや」
ひとはコンポーズされなければならないものだと思います
だって
まあね
ミューズって言われているんですもの
薬用石鹸
ミューウーズゥ〜
きょうの、恋人からのメール
「昨日の京都は暑かったみたいですね。
今は長野県にいます。
こっちは昼でも肌寒いです。
天気は良くて夕焼けがすごく綺麗でした。
あつすけさんも身体に気をつけて
お仕事頑張って下さいね。」
でも、ほんまもんの詩はな
コンポーズしなくてもよいものなんや
宇宙に、はじめからあるものなんやから
そう、マハーバーラタに書いてあるわ
二〇一九年二月十日 「実感」
あ、背中のにきび
つぶしてしもた
ささいな事柄を書きつける時間が
一日には必要だ
二〇一九年二月十一日 「彼女は」
彼女は波になってしまった。
彼女は彼になってしまった。
二〇一九年二月十二日 「ウォルター・テヴィス」
ウォルター・テヴィスの短篇「ふるさと遠く」がSFアンソロジー『三分間の宇宙』に含まれていた。わずか3ページ半だ。最新の訳を数か月まえに読んだのだが、40年まえの翻訳で、また読もう。もう、5度目くらいだ。味わい深い傑作だから、よい。それにしても短い。短いヴァージョンだったりしてね。
二〇一九年二月十三日 「ヴァン・ヴォクト」
ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』を堀川五条のブックオフで、82円で買った。持ってたはずなのだけど、あらためて自分の部屋の本棚を見てなかったからだ。82円というのは、2月17日で店じまいでということで、80%引きということでだった。一部は読んだ記憶はある。ジュブナイルもので。
二〇一九年二月十四日 「バレンタインチョコ」
きよちゃん、きょうこさん、藤村さんからバレンタインチョコ。
二〇一九年二月十五日 「B級ばっかり」
よく行くレンタルビデオ屋がつぶれたので、山ほどDVDをもらってきた。さきに、若い子たちが、若い男の子たちが有名なものを持って行ったあとなので、ぼくは、あまりもののなかから、ジャケットで選んでいった。ラックとか、椅子とか、カゴとかも持って行っていいよというのでカゴを渡されて、ま、それで、DVDを運んだんだけどね。でも、見るかなあ。ぼくがもらったのはサンプルが多くて、何ていうタイトルか忘れたけど、一枚手にとって見てたら、店員さんが、それ、掘り出し物ですよって、なんでって訊くと、まだレンタルしちゃいけないことになってますからね、だって。ううううん。そんなのわかんないけど、ぜったい、これ、B級じゃんってのが多くて、見たら、笑っちゃうかも。でも、ほんとに怖かったら、やだな。ホラー系のジャケットのもの、たくさんもらったんだけど、怖いから、一人では見れないかも。ヒロくん、近くだったら、いっしょに見れたね。あ、店員さん、「アダルトはいらないんですか?」「SMとかこっちにありますけど」だって。けっきょく、SMも、アダルトももらってない。もらってもよかったのだけれど、どうせ見ないしね。そしたら、若い男の子が、ここ、きょうで店じまいですから、何枚でも持って帰っていいみたいですよって言ってくれて。その男の子、ぼくがゆっくりジャケット見て選んでるのに興味を持ったらしく「みんな、がばっとかごごと持って帰るのに珍しいですね」と言って、さらに、近くにお住まいですかとか、一人暮らしですかとか、笑顔で訊いてくるので、ちょっとドキドキした。前に日知庵で日系オーストラリア人の男の子にひざをぐいぐい押し付けられたときは、うれしかったけど、困った。恋人がいたので。で、きょうの子も、明日はお仕事ですか、とか、早いんですか、とか訊いてきたので、あ、もう帰らなきゃって言って、逃げるようにして帰った。いま、ぼくには、大事な恋人がいるからね。間違いがあっちゃ、いけないもの、笑。あってもいいかなあ。ま、人間のことだもの。あってもいいかな。でも、怖くて帰ってきちゃった。うん。ひさびさに若い男の子から迫られた。違うかな。単にかわったおっさんだから興味を示したのかな。ま、いっか。
二〇一九年二月十六日 「Close To You。」
「おれ、あしたも、きてるかもしれないっす」
「あっちゃん、おれのこと、心配やったん? 」
ごらん
約束をまもったものも
約束をやぶったものも
悲しむことができる。
「おれ、あしたも、きてるかもしれないっす」
「あっちゃん、おれのこと、心配やったん?」
ジュンちゃん
きょうは
むかしのきみと
楽しかったころのこと
思い出して寝るね。
ぼくと同じ山羊座のO型。
きみの誕生日は18日で
ビートたけしといっしょだったね。
きみが
ぼくの部屋のチャイムを鳴らすところから
思い出すね。
ピンポーンって。
ぼくの部屋は二階だったから
きみは
階段をあがってきて
ただそれだけなのに
ひろいオデコに汗かいて
ニコって笑って
うひゃひゃ。
十九歳なのに
頭頂はもうハゲかけてて
ハゲ、メガネ、デブ、ブサイクという
ぼくの理想のタイプやった。
おやすみ。
ジュンちゃんは
見かけは、まるっきりオタクで
俳優の六角精児みたいだったけれど
高校時代はそうとう悪かったみたい。
付き合ってるあいだ
その片鱗が
端々にでてた。
ひとは
見かけと違って
わからないんだよねえ。
二〇一九年二月十七日 「Close To You。」
水にぬらした指で
きみの背中をなぞっていると
電灯の光が反射して
光っていた
たなやん
おれが欲しいのは、言葉やないんや
好きやったら、抱けや
おれ、たなやんのこと
好きやで
うそじゃ
たなやんなんか、好きやない
いっしょにいるとおもろいだけや
一生、いっしょにいたいってわけやないけどな
テーブルの上に
冷たいグラスの露が
こぼれている
何度も
きみの背中に
水にぬらした指で文字を書いていく
首筋がよわかった
ときどき
きみは
噛んでくれって言ってた
ぼくは
きみを後ろから抱きしめて
きみの肩を噛んだ
ヘッセなら
それを存在の秘密と言うだろう
ぼくの指は
けっして書かなかった
愛していると
グラスの氷がぜんぶ溶けて
テーブルの上は水びたしになってしまった
いま、どうしてるんやろか
ぼくが30代で
エイジくんが京大の学生だったときのこと
どうして、人間は
わかれることができるんやろう
つらいのに
それとも
いっしょにいると
つらかったのかな
そうみたいやな
エイジくんの言動をいま振り返ると
ぼくも彼も
ぜんぜん子どもやった
ガキやった
やりなおしができないことが
ぼくたちを
生きた人間にする
そう思うけど
ちと、つらすぎる
二〇一九年二月十八日 「名前を覚えるのが仕事」
日知庵で、お隣になったひと、お名前は竹内満代さん。
二〇一九年二月十九日 「カヴァー」
本は持ってたら、カヴァーをじっくり見れるから好き。これからより齢をとって、どれだけ読み直せるかわからないけれど、持っているというだけで、こころがなごむ。初版のカヴァーがいちばんいいと思う。創元も、ハヤカワも。
二〇一九年二月二十日 「きみや」
いま、きみやから帰ってきた。かわいらしいカップル、長野くんと荒木さんと出会い、イタリア語がしゃべれる遠山さんご夫妻と出会った。人生はめぐり合いだなあと、つくづく思ったきょうだった。遠山さんがイタリア語ができることを知ったのは、たまたま、きみやにイタリア人のカップルが来ていて、遠山さんがイタリア語をしゃべって応対されていたからだ。遠山さん、若いころにイタリアで仕事をなさっていたらしい。流ちょうなイタリア語だった。
二〇一九年二月二十一日 「忘我」
電車のなかで数学の問題を解いていたら、降りるべき駅をとっくに通り過ぎていた。いつも、授業の4、50分前に学校につくようにしているので、なんとか折り返して間に合ったけれど、ぎりぎりだった。ぼくは、問題を解いている間、自分自身が角や辺になって、図形上を動いていたような気がする。このとき、ぼくは、もう人間のぼくではなくて、角そのもの、辺そのものになっていたのだと思う。全行引用詩をつくっているときにも、この忘我の状態は、しばしば訪れる。ところで、ぼくが、ぼくの作品で、ぼくのことを描いているのが、ぼくのことをひとに理解されたいと思っているからだという意見がある。とんでもない誤解である。たくさんの「ぼく」を通して、「ぼく」というもののいわば「ぼく」というもののイデアについて考察しているつもりなのだけれど、そして、その「ぼく」というのは、ぼくの作品の『マールボロ。』のように、「ぼく以外の体験を通したぼく」、「ぼくではないぼく」というものも含めてのさまざまな「ぼく」を通して、イデアとしての「ぼく」を追求しているのに、引用というレトリックも、その有効な文学技法の一つであり、そのことについて、何度も書いているのだけれど、だれひとり、そのことについて言及してくれるひとがいないのには、がっくりしてしまう。それだから、ぼくの作品について、ぼく自身が語らなければならないのだけれど、ぼくの視点からではなく、異なる視点から言及してほしいとも思うのだけれど、そんなに難しいことなんだろうか。
二〇一九年二月二十二日 「ガラ携」
いま日知庵から帰ってきました。きょうも、日知庵におこしくださり、ありがとうございました。ぼくのガラ携には、きていませんでした。機械のことに、うといので、ぼくにはさっぱり理由がわかりませんが、機種によって違うのかもしれませんね。
二〇一九年二月二十三日 「突然、死んだ父が」
突然、死んだ父が、ぼくの布団のなかに入ってきて
添い寝してきたので、びっくりして飛び起きてしまった。
二〇一九年二月二十四日 「水道の蛇口をひねると」
水道の蛇口をひねると
痛いって言うから
ぼくは痛くもないのに
痛くなってくる
ぼくは静けさを
フリーザーに入れて
水道の蛇口をひねって
痛いって言うから
ぼくは痛くもないのに
痛くなってくる
できた沈黙に
ぼくの声を混ぜて
水道の蛇口をひねって
痛いって言うから
ぼくは痛くもないのに
痛くなってくる
水道の蛇口をひねるだけで
ぼくは痛い
沈黙のなかにさえ
ピキッとした音を聞いてしまう
山羊座は地獄耳なのだ
本人が地獄になる耳なのだけど
水道の蛇口をひねると
痛いって言うから
ぼくは痛くもないのに
痛くなってくる
二〇一九年二月二十五日 「確定申告」
確定申告が終わった。ことしは支払わなくてはならないかなと思っていたら、還付金が出た。税金のからくりが、さっぱりわからないで生きている。
二〇一九年二月二十六日 「文学」
文学作品は、いったん読み手が頭のなかで、自分の声にして読んでいるので、どの登場人物の声も読み手の声だと言える。複数の話者がいても、すべて読み手の声だと言えるので、文学鑑賞とはまことに倒錯的な行為だと言えよう。
二〇一九年二月二十七日 「がりがり」
チャイムが鳴っている
がりがりと、薬を噛み砕いて飲み込むと
教室に入った
生徒たちのなかには
まだ薬を飲み込んでいない者もいた
口に放り込んでいる者や
カバンのなかの薬入れの袋を開けている者もいた
「さあ、はやく薬を飲んで、授業を受ける気分になりましょう」
電車に乗る前でさえ、薬を飲まなければ不安で
電車に乗ることもできない時代なのだ
さまざまな状況に合わせた薬があって
それさえ服用してれば、みんな安心して生きていける
とても便利な時代なのだ
二〇一九年二月二十八日 「この人間という場所」
胸の奥で
とうに死んだ虫たちが啼きつづける
この人間という場所
傘をさしても
いつでもいつだって濡れてしまう
この人間という場所
われとわれが争い、勝ちも負けも
みんな負けになってしまう
この人間という場所
二〇一九年二月二十九日 「何十年ぶりかに」
きょう、待ち合わせの場所に
行ってたのだけど
ぜんぜん来なくって
何十年ぶりかに
すっぽかされてしまった
付き合わない?
って、きょう言おうと思ってたのだけれど
縁がなかったってことなのかな
好きだったのだけれど
そんなに若くない
頭、ハゲてて
めがねデブで
典型的なサラリーマンタイプの
30代後半で
このクソバカって思ったけど
バカは、ぼくのほうだね
二〇一九年二月三十日 「蛙」
ピチャンッ
って音がしたので振り返ると
一番前の席の子の頭から
蛙が床に落っこちて
ピョコンピョコンと跳ねて
教室から出て行った
その子の頭は
池になっていて
ゲコゲコ
蛙がたくさん鳴いていた
ほかの生徒の顔を見ると
ぼくの目をじっと見つめ返す子が何人かいたので
その子たちのそばに行って
缶切りで
頭を
ギコギコ
あけていってあげた
そしたら
たくさんの蛙たちが
ピョコン、ピョコン
ピョコン、ピョコンと跳ねて
教室じゅうで
ゲコゲコ鳴いて
あんまりうるさいので
授業がつづけてできなかった
と思ってたら
すぐにチャイムが鳴ったので
黒板に書いた式をさっと消して
ぼくもひざを曲げて
ピョコンピョコンと跳ねて
職員室に戻った
二〇一九年二月三十一日 「箴言」
才能はそれを有する人を幸福にするものとは限らない。
選出作品
作品 - 20201102_223_12189p
- [優] 詩の日めくり 二〇一九年二月一日─三十一日 - 田中宏輔 (2020-11)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
詩の日めくり 二〇一九年二月一日─三十一日
田中宏輔