選出作品

作品 - 20200706_432_11993p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一八年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年八月一日 「どくろ杯」

いま日知庵から帰った。帰りに、セブイレで、きんつばと、玄米茶を買った。寝るまえの読書は、なんにしようかな。きょうのお昼には、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読んでいた。日本の作家ではめずらしく付箋をした。キーツ詩集も中途だし、スタージョンの短篇集の再読もまだだし、本が多いと悩む。

二〇一八年八月二日 「年収200万円」

ぼくは、年収200万円くらいですが、自費出版はしていますよ。簡単にお金なんて溜まります。気力があれば。すでに自費出版に、1500万円くらい使いました。

二〇一八年八月三日 「金子光晴と草野心平」

お昼に金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読んでいたのだが、草野心平のことが嫌いだったらしく、草野心平って、わりと詩人たちに嫌われていたのだなあと思った。西脇順三郎とも仲が悪かったんじゃなかったかな。

お昼から塾の夏期講習なんだけど、それまで時間があるから、金子光晴の『どくろ杯』のつづきを読もう。会話がほとんどなくて、字がびっしり詰まっているけど、読むのに苦労はしない。なによりも、おもしろいからだろうけれど。日本人の作家の作品で、こんなにおもしろいのは、大岡昇平の『野火』以来かな。

二〇一八年八月四日 「死の姉妹」

堀川五条のブックオフで、吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』を108円で買い直した。むかし読んだけど、だれかに譲ったみたいで、部屋の本棚にはない本だった。M・ジョン・ハリスンの作品が冒頭に置かれていたので、もう一度、買ったのだ。タイトルを見ても、一作も読んだ記憶にないものばかりだった。じっさい、冒頭のM・ジョン・ハリスンの作品「からっぽ」を読んでも記憶になかったものだった。また、再読したのだけど、M・ジョン・ハリスンの「からっぽ」は意味があまりわからない作品だった。長篇の『ライト』(国書刊行会)や『パステル都市』(サンリオSF文庫)はすばらしかったのだけれど。

日知庵の帰りに、きんつばと、麦茶を買ってきた。きょうは、これで終わりだな。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月五日 「うんこをもらしてしまった。」

日知庵からの帰り、阪急電車に乗るまえにきゅうにお腹が痛くなってトイレに入ったのだが、間に合わず、ちょっとうんこをもらしてしまった。うんこのついたパンツをクズかごにすてた。濡れたズボンのまま、帰りにセブイレで、きんつばと麦茶を買って帰った。笑。この時間ですけれど、いま洗濯しています。ズボンが濡れたのは、おしっこでだけだったのだけれどね。あーあ、57歳にして、駅のトイレで、おしっこを漏らすとは、笑。あと一秒はやく便座に坐れていたらよかったのだけれど。齢をとると、この、あと一秒というのが意外に多くなるのであった。年に一度は、うんこをもらすぼくであった。

二〇一八年八月六日 「小島きみ子さん」

小島きみ子さんから『エウメニデスIII』第56号を送っていただいた。よく名前の知られた詩人たちが12人もいらっしゃってて、なかのおひとり、杉中昌樹さんは、ご自分の詩とともに、小島きみ子さんの詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』についての論考も書いてらっしゃる。最新の現代詩!

きみやで、ファッション・カメラマンのジョンさんを紹介される。ジョンさんからは、西院のジェラート屋さんのカフェラッテを紹介される。人間のつながりって、ほんとに不思議。寝るまえの読書は、きょう、小島きみ子さんにいただいた、『エウメニデスIII』第56号のつづき、海埜今日子さんの作品から。

二〇一八年八月七日 「クーラー全開」

クーラー全開にしたら、熱力学的に、よけい熱が生じると思うのだが。

二〇一八年八月八日 「厭な物語」

ちょっとまえに日知庵から帰ってきた。きょうは、帰りのセブイレで、108円の水もちと、108円の麦茶を買った。あしたは、お昼の1時から塾の夏期講習だから、もう寝る。きのうの寝るまえの読書で、吸血鬼のアンソロジー『死の姉妹』を読んでいたのだが、ああ、こういう視点があるのかと思った。

『エウメニデス III』第56号に収められている詩で、いちばん共感したのは、小笠原鳥類さんの作品「「夜についての詩論」詩論」だった。これまでは、ぼくには苦手な詩人だったのだが、この作品はとても読みやすい、わかりやすい作品だった。ユリイカの5月号に掲載されたぼくの詩に似てるとも思った。

いま再読したけれど、似ていないや。どこが似ていると思わせたのだろう。言葉をリフレインさせているところかな。でも、ぼくのは作品の一部だけリフレインさせているだけだからな。言葉の置き方だろうか。いや違うな。どこだろう。読んでるときのここちよさかな。こんな言葉くらいでしか表現できない。

ぼくには、詩がわからないというひとがわかりません。ただ自分の好みの詩に出合ったことがないだけなのでしょうけれど、また詩が芸術として、いかにすばらしいものか、いかにひとの人生を左右するものなのかということを知るひとが少ないということが、日本の国語という教科の問題でもあると思います。アメリカ人の同僚の先生に訊くと、アメリカでは、現代詩は教養として、当然教えられるものらしいです。ふつうの英語の先生ですが、エズラ・パウンドのことなども詳しく知っておられました。日本の教養人と呼ばれるひとたちは現代詩を読んでいるのでしょうか? むかしは読んでいたような気がしますが。

2時間くらいしか寝てない。もう寝られないや。午後一時から塾なんだけど、それまで吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』のつづきでも読もうかなとおもっている。むかし読んだけど、例のごとく、いっさい記憶にないのであった。

譲った本がまた欲しくなった。『厭な物語』というアンソロジーだ。ただ一作フラナリー・オコナーの作品が再読したかったからだが、このフラナリー・オコナーの全短篇集の上下巻も手放してしまったのであった。まあ、読み直したいのは、『厭な物語』に入っている「善人はなかなかいない」だけだけれど。

二〇一八年八月九日 「ソーリー。」

けさは6時すぎに起きた。隣人が大きな音でテレビをつけてて、その音で目が覚めたのだった。2時間くらいの睡眠だが、もう眠くない。お昼から夜の9時半まで仕事だから、もう起きたまま、これからマクドナルドに行って吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』のつづきを読む。

いま日知庵から帰ってきた。帰りに、河原町のストリートで、二十歳くらいの男の子がゴミ袋を友だちに向けて蹴ったのが、ぼくの右足の爪先にあたったので、その子が「ソーリー。」と言って握手を求めてきたのだけれど、ぼくは笑顔を向けて笑って通り過ぎるだけだった。白人によく間違えられるのだった。

日知庵に行くまえは、お昼から塾で夏期講習のお仕事をしていたのだけれど、塾に行くまえに、五条堀川のブックオフの108円のコーナーに、むかし読んで友人に譲った、文春文庫の、恐怖とエロスの物語IIの短篇集『筋肉男のハロウィーン』の背表紙を見て、なかをパラパラ見て買うことにして買い直した。

さいきん、手放した本の買い直しが多い。ブックオフのせいだ。

きょうは、塾の授業の合間に、吸血鬼のアンソロジー『死の姉妹』のつづきを3篇ほど読んでいたのだが、よかった。とくに、いま、あと数ページで読み終わるという、ジョージ・アレック・エフィンジャーの「マリードと血の臭跡」がよい。エフィンジャーの電脳シリーズ三作は手放してなくて、本棚にある。

二〇一八年八月十日 「コードウェイナー・スミス」

けさの5時くらいに寝たのに、6時過ぎに起こされた。隣人が窓を開けっぱなしにして、大音量でテレビを観だしたからだ。ぼくも洗濯をして対抗してやってる。きょうはお昼から塾の夏期講習だけど、お昼からだから、このまま二度寝せずに、起きて仕事に行くかもしれない。ちきしょう。なんつう隣人だ。

いまコードウェイナー・スミスの全短篇集の三巻本の第三部、さいごの短篇集が出ている。西院のブックファーストに買いに行く。全短篇集が出るまえのものもスミスの作品はすべて持っていて、いまも本棚にある。ひとに譲らなかったのだ。初訳の作品が4篇も入っているらしい。

売っていなかった。訊くと、そもそも入荷していなかったという。トールサイズの長篇の『ノーストリリア』や、全短篇集の第一巻や第二巻はあったのだけれど。売れなかったから、新しいのは入荷しなかったんだな。昼から夕方の塾の夏期講習が終わって、夜に日知庵に行くまえに、ジュンク堂で買おうっと。

いま、日知庵から帰った。行きしなに、ジュンク堂ではなくて、丸善で、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』を買った。1冊しか置いてなかった。

きょうも、せいいっぱい生きた。寝るまえの読書は、吸血鬼アンソロジーの『死の姉妹』のつづきを。ブックオフの108円コーナーは、バカにできないのだ。古本市場では、105円で、単行本の『エミリ・ディキンスン評伝』を手に入れたことがある。いまでも宝物だ。

ノブユキが自転車のカゴのなかから、ぼくのからだを持ち上げると、ぼくはシッポをプルンプルンと振り回した。ノブユキが、「かわいいな、おまえは。」と言ってくれたので、ぼくは4つに割れた唇をのばして、ノブユキの唇にチュッとキッスをした。ノブユキもそれにこたえてチュッとキッスをしてくれた。

二〇一八年八月十一日 「ケビン・シモンズさん」

ケビン・シモンズさんへ、ぼくの友人が出版をしていまして、Collective Brightness の全訳を出版したいと言っているのですが、ケビン・シモンズさんのメールアドレスを教えてもよいでしょうか?

いま日知庵から帰った。あしたも日知庵だけど、ぼくのアルバイトの時間は5時から。

二〇一八年八月十二日 「ジェイムズ・メリル」

ジェイムズ・メリルの「サンドーヴァーの光」三部作がおもしろかったですよ。とりわけ、第二部の『ミラベルの数の書』が、おもしろかったです。あと、英語で読まれるのでしたら、キングズリー・エイミスが編んだアンソロジー「LIGHT VERSE」(Oxford Paperbacks)が笑えるような詩を多く収めています。

いま、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』を読んでいるのだが、なつかしい言葉を見つけた。44ページの5行目の「(…)若さっていうのは、すぐ治る病気なんだ。ちがうかい?」(『宝石の惑星』4、伊藤典夫訳)読んだ記憶のない作品だ。解説を読むと、SFマガジンには訳されている。SFマガジンも、むかしはときどき読んでたから、そこでかな。一九九三年八月号らしい。読んでた時期かもしれない。全短篇集発行以前の本にはなかったと思う。きょうは、ここらでクスリをのもうかな。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月十三日 「コードウェイナー・スミス」

きょうも寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを。あしたは、夕方に塾。塾の帰りに、日知庵で飲む。そろそろ、つぎに出す詩論集と詩集の準備をしようと思うのだが、こう暑くては精神集中ができない。秋になって、涼しくなってから、と思っている。

コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを読んでいるのだが、ところどころに出てくる人間への観察の行き届いたまなざしが、すてきに表現されている。付箋だらけだ。やはり読む価値のある作家だ。再読する短篇もあるだろうけれど、それもまた楽しみだ。なによりも忘れているからね。

二〇一八年八月十四日 「藤井晴美さんと倉石信乃さん」

いま日知庵から帰った。きょうは、塾のあと、帰りに日知庵に寄って、お酒をのんでいたのであった。帰ってきたら、郵便受けに、3冊の本が届いていた。2冊は、Amazon で、ぼくが買ったデュ・モーリアの短篇集『鳥』、もう一冊は文春文庫のホラーとエロスの短篇集『レベッカ・ポールソンのお告げ』だ。古書なのに、デュ・モーリアの短篇集『鳥』が新刊本のようにきれいなので、いま、ぼくの顔は満面の笑みだと思う。ヤケがまったくないのだ。390円だった。送料は257円だった。一方、そんなに傷んでいないけれど、ヤケのある『レベッカ・ポールソーンのお告げ』は51円で、送料が300円だった。あと1冊は、藤井晴美さんから、詩集『大顎』を送っていただいた。たいへん美しい装丁なので、どこからなのだろうと思って、見たら、七月堂からだった。さっそく読みはじめると、そこらじゅうに、ぼくの目をひく詩句があったのだった。

フランク・ハーバートの『砂丘の大聖堂』三部作や、『砂丘の子供たち』三部作、また、ポール・アンダースンの『百万年の船』三部作のように、3冊の表紙を合わせて、一枚の絵になるようなものが、むかしは、ハヤカワSF文庫から出ていたのであった。

ぼくの好きな表紙の本たちは、クリアファイルを細工して箱型にして閉じ込め、本棚の前部に飾れるようにしてあるのだ。ぼくの本棚は、ぼくの好きな本の好きな表紙でいっぱいなのだった。きょう寝るまえの読書は、きょう、送っていただいた藤井晴美さんの詩集『大顎』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!

倉石信乃さんから、詩集『使い』を送っていただいた。倉石さんの詩は、もう30年近くむかし、ユリイカの投稿欄で毎月のように目にしていて、おもしろい書き方をされる方だなあと思っていた。1989年のころのことだと記憶している。詩集の奥付に「一九八九年 ユリイカの新人」と書いてあったが、それでは、ぼくの記憶と一年ずれる。ぼくが一九九一年のユリイカの新人に選ばれる一年前のことだから、一九九〇年の新人だと思うのだけれど、まあ、そんなことはいいか、倉石さんの詩集『使い』を読んでいるあいだ、つねにガートルード・スタインの文体を思い出していた。対句的なフレーズの反復とずれの手法が似ていると思ったのだった。倉石さんの実生活がどのようなものであるのかは、この詩集『使い』からは、いっさいわからない。というか、じつは、何を書いてらっしゃるのかもわからないのだが、魅力的なフレーズが随所に出てくるので、読んでいて、ハラハラさせられ通しだったのである。とりわけ、つぎの箇所に、こころひかれた。9ページの4〜7行目、34ページの4行目、63ページのうしろから2行目、71ページの4行目、89ページの3〜5行目、94ページの10行目、96ページの5行目、101ページのうしろから1行目〜102ページ2行目まで、106ページの3、4行目。以上の文章は、クリアファイルのなかにあった、きょう、ふと見つけたメモから書き起こしたものである。もしかしたら、以前にも、倉石信乃さんの詩集『使い』について書いたかもしれない。だとしたら、ごめんなさい。

藤井晴美さんの詩集『大顎』(七月堂)怪物的なおもしろさだった。部分引用をしようと思ったのだけれど、後半部にいたり、全文引用しなければならなくなってしまうほどのおもしろさだったのだ。藤井さん、男性かもしれず。そのような記述もあるのだが、現代のロートレアモン伯爵といった印象を受けた。いずれなんらかの賞を受賞されるだろう。完璧な出来だと思われる。すばらしい詩集である。橘 上さんと同様に、詩壇で重きを置かれる立場になられるだろう。それとも、すでに有名な方で、ぼくが知らなかっただけなのかもしれない。この詩集は確実に最高の評価をされるだろう。後半部分は全文引用しなければならないほど完璧な出来だったので引用しない。前半部分もすばらしい出来だったのだが、まだ部分引用できる気配があったので、詩集の前半部分から、ぼくが感銘を受けた場所を引用してみよう。8ページ「あなたの外部とは、ぼくより軽い、しかも同心の過去なんだ。だから外部さ。」13ページ「神は神ができないこともする。」15ページ「住宅地をゆっくりと、立ち止まりながら犬の散歩をさせる宇宙人あるいは武士または泥棒ではないかもしれない猿のように、原因のない世界が広がっているとしたら、ぼくは法外な電波に煽られて。うずくまる扇風機のような男だった。」同じく15ページ「何もないところから泥仕合の場に持ってきた。ぼくは生まれたのだ。植物として。背中に。」22ページ「こちらも重労働ではなかった。軽いんだよ。量子的私。それでもたどたどしいんだよ。」32ページ「呼び止められて思わぬ濡れ衣を着せられる。はがれていく場面のつぎはぎ。」後半部および前半部のいくつもの詩は、部分引用ができない。完璧な詩句がつづくからだ。数年まえに、橘 上さんというすばらしい詩人を知ったのだが、また新たにものすごくすごい詩人に出合うことができて、うれしい。よくぞ、ぼくのような無名の詩人にご傑作を送っていただいたものだ。実に光栄に思う。

二〇一八年八月十五日 「藤井晴美さん」

クスリのんだ。寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!

めっちゃすばらしい詩集『大顎』(七月堂)を出された藤井晴美さんのお名前をグーグルで検索したら、たくさんの詩集が出てきた。ベテランの方だったんですね。ぼくが世間知らず、いや、詩壇知らずでした。

二〇一八年八月十六日 「大谷良太くん」

いま日知庵から帰ってきた。大谷良太くんと、ばったりあった。寝るまえの読書は、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第3巻『三惑星の探究』のつづきを。

二〇一八年八月十七日 「太陽パンツ」

いま日知庵から帰ってきた。あしたは、月に一度の、神経科医院に。処方箋だけだから、電話で予約すればよいだけ。クスリがなくなった。これからのむ分で終わり。もう少しきついクスリをとも思うが、クスリをかえて、異変が起こったら怖いし、同じクスリを処方してもらおう。寝るまえの読書は、スミス。

日知庵からの帰り道、河原町通りを歩いていると、男女のカップルの男の子のほうが「太陽パンツが……」という言葉を口にしたのを、ぼくの耳がキャッチした。いまグーグルで検索したら、出てきた。ちょっと、ふんどしテイストのある男性用下着のことだったんだね。まるで詩語のような響きのある言葉だ。

二〇一八年八月十八日 「コードウェイナー・スミス」

いま起きて、病院に電話した。病院に行くまで、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のつづきを読もう。今で、半分くらい。

二〇一八年八月十九日 「翻訳プロジェクト」

2、30分まえに、日知庵から帰ってきた。イレギュラーで、あしたも日知庵でアルバイト。がんばろう。あした昼間に時間があったら、西院で岩波文庫から出てるロバート・フロストの詩集を買おう。フロストの訳は、いくつか持っているんだけど、かぶらないものもあるだろうからって、期待は大きいのだ。

大がかりな翻訳プロジェクトが始動しそうだ。ぼくも翻訳家として参加する。というか、ぼくと、ある詩人の方とで翻訳するので、共同訳ということになる。数年はかかると思うけれど、がんばろう。また英語づけの日々がやってくると思うと、ちょっと、へた〜ってなるけれど、笑。翻訳って、しんどいしね。

二〇一八年八月二十日 「対訳 フロスト詩集」

西院のブックファーストに行ったら、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』がなかった。これから河原町のジュンク堂に行って買ってくる。

河原町のジュンク堂で、『対訳 フロスト詩集』(岩波文庫)を買ってきた。840円ちょっと。ポイントを使ったので、正確にわからず。名作と呼ばれるものは、だいたい入っているようだ。ぼくも訳したことのある2つの詩、「After Apple-Picking」と「Birches」も入っていたが、ぼくの訳のほうがよい。この詩集は、岩波文庫の対訳詩集にありがちな直訳である。やはり、詩人的な気質をもった翻訳者か、詩人が翻訳者でないと、詩としては、訳が不満足なものになるのだろう。「After Apple-Picking」なんて、どう読んでも、それはあかんやろうという訳出部分があった。と、こう他人を批判したのだから、ぼくが翻訳するときには、神経を研ぎ澄ませて翻訳に取りかかろう。

きのう、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』を読み終わったので、これから岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読む。そのまえに、吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』とスミスの『三惑星の探究』のルーズリーフ作業をしようっと。夕方から日知庵でアルバイトだから、その時間まで作業かも。

吸血鬼アンソロジー『死の姉妹』と、コードウェイナー・スミスの短篇集『三惑星の探究』のルーズリーフ作業が終わった。30分くらい時間があるので、麦茶でも飲みながら、きょうジュンク堂で買った岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』の序文でも読もうかな。この分、翻訳に回せと思う。9ページもある。

さきほど日知庵から帰った。帰り道、虎とか鹿とかのコスチュームを着た外国人がカラオケ屋のまえで、おどけてた。日本の、京都の繁華街である、河原町通りでのことである。国際色は豊かだが、なんだか下品に感じた。京都は静かな方が似合っているような気がするのだった。ぼくの偏見かな〜。どうだろ。

きょうから寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『鳥』である。創元推理文庫の評判のよい短篇集なので、ひじょうに楽しみ。

ジャンプ台から本のなかに跳び込む。行と行のあいだを泳ぐ。ページの端に行き着くとターンして、つぎの行間に身をひるがえさせる。そうして、ページのなかをスイスイと泳ぎ渡って行く。なにが書かれているのかは、水が教えてくれる。言葉を浮かべているページのなかの水だ。水がほんとうは言葉なのだ。

二〇一八年八月二十一日 「デュ・モーリア」

創元推理文庫のデュ・モーリアの短篇集『鳥』の冒頭の「恋人」がとてもおもしろかったので、西院に行き、ブックファーストで、デュ・モーリアの短篇集『人形』を買ってきた。新刊本はやっぱりいいな。とてもきれい。『鳥』は古書で買ったけれど、新刊本のようにきれいだった。きれいな本は大好き。で、デュ・モーリアの短篇集をそろえたいと思ったので、きょうブックファーストには置いてなかったデュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』を予約した。近くのブックファーストに置いてあるのでってことで、22日には届くそう。これもまた楽しみ。

ブックファーストの文春文庫のコーナーに、以前、持ってた短篇集『厭な物語』が置いてあったので、ついでに買った。友人に譲ったのだけれど、収録されている、フラナリー・オコナーの「善人はそういない」が再読したかったからだ。きょうは、財布のひもがゆるかったみたいだ。こころがゆるかったのか。西院のブックファーストはビルの2階にあって、その一階に、ぼくがよく行くブレッズプラスがある。そこでチーズハムサンドイッチとアイスダージリンティーを注文して食べた。50円引きの券付きのチラシをもらったのだけれど、喫茶コーナーのことをイートインスペースって言うんだね、はじめて知った。

帰りに、セブイレで、きんつばを買ってきたので、おやつにこれを食べてから、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読む。翻訳が直訳なので、どうしても批判的に見てしまうぼくがいる。ぼくって、意地が悪いのかな。うううん。ぼく自身が英詩の翻訳をやってなければ、そうでもなかったかもしれないなあ。

岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読んでいるのだけれど、いま半分くらいのとこ、「After Apple-Picking」の訳のとこで、この訳の一部分に不満だったのだけれど、それまでのところの訳はよかった。二度ほど眠気に催されたが、それはロバート・フロストの原作のせいだし、時代のせいだとも思われる。

スーパーで、そうめんを買って、そばつゆを買ってきて、食べよう。そうめんは、水でときほぐすだけのものがよい。もう十年くらい、調理をしていないので、包丁もさわれない。湯を沸かすのも面倒だ。文学では面倒な作品をつくったり、面倒な翻訳はするのだけれど。それでは、スーパーに行ってきま〜す。

そとに出たら歩いてみたくなって、西大路四条のあがったところにある「天下一品」に入って、チャーハン定食880円を食べて、また歩いて帰った。はじめは近所のスーパー「ライフ」に行くつもりだったのだけれど。気まぐれなのである。さて、これからまた、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読もう。

寝っころがって、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読んでいるのだが、右の肩甲骨のあたりに小さな火山ほどの大きさのできものができて、それがつぶれて、着ているものが汚れるうえに、痛くて痛くてたまらないのだけども、これも神さまが、ぼくに与えてくださった試練のひとつかもしれないとも思う。

ぼくも楽天のブログにフロストの詩を翻訳しているけれど、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』の翻訳者の川本皓嗣さんは「Berches」に出てくる ice-storms の訳語を「凍る雨嵐」とされて「アイス・ストーム」というルビを振ってらっしゃるのだけれど、「雪嵐」という訳語のほうが適切ではないだろうか。

なぜ、その訳語に、ぼくがこだわるかというと、ぼく自身が、その訳語に悩んだからだ。親しい先生に相談したら、ice-storms の訳語はありますよ。「雪嵐」ですよと教えてくれたのだった。

いま、岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』を読み終わった。読んだことがあるなと思った詩がいくつもあったが、それはぼくが、つぎに紹介する、ぼくのブログに訳したものだった。それにしても、この「対訳 フロスト詩集」に収められた「Fire and Ice」 の訳はへたくそだった。

https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703300000/

いちじくの絵を見て、いちじくが食べたくなった。

二〇一八年八月二十二日 「柴田 望さん」

さっき日知庵から帰ってきた。シャワーを浴び、横になって、デュ・モーリアの短篇集『鳥』のつづきを読んで寝よう。いま、タイトル作品を読んでいるところ。デュ・モーリアは、P・D・ジェイムズばりに描写力が圧倒的で、なおかつ、P・D・ジェイムズほど読むのが苦痛ではない、すばらしい作家である。

ありゃ、ま。デュ・モーリアの作品、すでに読んでたことがわかった。早川書房の異色作家短篇集・第10巻の『破局』である。ことし読み直したシリーズなんだけど、記憶にまったくない。なにが入っていたのかの記憶もない。なにを読んだのかの記憶がまったくない。なんという忘却力。57歳。ジジイだ。

柴田 望さんから、詩誌『フラジャイル』第3号を送っていただいた。柴田 望さんはじめ、10名の方が詩を書いてらっしゃる。吉増剛造さんの詩集『火ノ刺繍』の特集というか、詩集評と、これは、ぼくが漢字が読めないのだが、なんとか談が掲載されている。IPパッドで調べても出てこない漢字だった。

たしか、「けん」と読む漢字だったと思うのだけれど、それでは出てこなかった。ところで、いま、デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでたところなのだが、さきに、きょう柴田 望さんに送っていただいた詩誌『フラジャイル』第3号を読もう。最新の現代詩が読めるのかと思うと、こころドキドキである。

二〇一八年八月二十三日 「デュ・モーリア」

いま、西院のブックファーストで、注文していたデュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』を買ってきた。帰りに、ブレッズプラスで、チーズハムサンドイッチとアイスダージリンティーをいただいた。帰りに、セブイレで、きんつばと、麦茶を買った。ああ、なんて単調な生活なこと。きょうは休みだ。

デュ・モーリアの『いま見てはいけない』の表紙をよく見ると、折れて曲がっていた。キーっとなった。もう二度とブックファーストで新刊本を買わないぞと思った。めちゃくちゃ、腹が立つ。ほんとうに、本は、表紙が命なんだぞと思う。うう、ほんとに腹が立つ

いまさっき、日知庵から帰ってきた。きょうは、お客さまに、「ツボ専」という言葉を教わった。「オケ専」という言葉は、棺桶に片足を突っ込んだようなジジイを好む若者のことで、ぼくも目の当たりにしたことがあるのだけれど、「骨壺」に入ったようなジジイを好む若者がいるらしい。90歳越えだよね。

柴田 望さんから送っていただいた詩誌『フラジャイル』第3号を読ませていただいた。林 高辞さんの「詩集だけが残った」がおもしろかった。ぼくも、トイレをしているときや、湯舟に浸かりながら、本とか詩集とかを読むので、トイレをして、うんこを出してるときに、重要なところを読んでることがある。

きょうも寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『鳥』のつづきを。いま200ページだけど、537ページまであるから、5分の2である。デュ・モーリア、優れた描写力だ。イギリスの女性作家、たとえば、P・D・ジェイムズ、アンナ・カヴァン、ヴァージニア・ウルフのようによい作家たちが多い。

二〇一八年八月二十四日 「デュ・モーリア」

デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでて思ったのだけれど、ぼくって、なにかを食べているかのように、本を味わって読んでいるような気がする。デュ・モーリアの翻訳がいいというのもあるだろう。まことにおいしい食べ物を食べているような気がする。読書において、ぼくはグルメだろうか。どうだろう。

徹夜で、いままで、デュ・モーリアの短篇集『鳥』を読んでた。読み終わった。おもしろかった。ひきつづいて、デュ・モーリアの短篇集『人形』を読む。

不覚にも眠ってしまった。4時間弱。いまから日知庵に飲みに行く。デュ・モーリアの短篇集『人形』の読書は日知庵から帰ってからにする。

二〇一八年八月二十五日 「和田まさ子さん」

和田まさ子さんから、詩集『軸足をずらす』(思潮社)を送っていただいた。第2篇目に収められている「突入する」のなかの詩句に「それだけの理由で脱げすにいるバンプス」という詩句があったのだが、これは、「脱げずにいるバンプス」のまちがいだろう。作者の過ちとともに、編集者の劣化をも感じる。自分の詩句をよく見直しもせずにいる詩人の詩集など、もう読む気は失せたので、デュ・モーリアの短篇集『人形』のつづきを読みながら、床に就こう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月二十六日 「野田順子さん」

野田順子さんから、詩集『ただし、物体の大きさは無視できるものとする』を送っていただいた。詩句の運びは、ぼく好みのなめらかさがあって、詩句も何の抵抗もなく、するすると飲み込めるものだった。詩自体のアイデアは学校ネタがほとんどで、ああ、こういうところに目をつけられたのだなと感心した。せっかく送っていただいたのだから、さいごまで読まなくては申し訳がないと思って、和田まさ子さんの詩集『軸足をずらす』をさいごまで読ませていただいた。うまい。すばらしい詩句の展開。見事な詩集だ。たいへんな技巧家だと思った。それだけに、18ページの「脱げすにいる」の誤植が惜しい。

デュ・モーリアの傑作集『人形』を読んでいるのだが、作者の初期の短篇集らしい。叙述も、短篇集『鳥』(創元推理文庫)に比べると、ベテラン作家の初期の作品なんだなと思ってしまう。ちょっと休憩して、また読もう。

なんとも言えない陳腐なタイトルと、下品な表紙絵に魅かれて、五条堀川のブックオフで、16作品収録の短篇集『ラブストーリー、アメリカン』(新潮文庫・柳瀬尚紀訳)108円を買った。キャシー・アッカーマンが入ってなかったら買わなかっただろう。でも、見知らぬよい作家に遭遇するかもしれない。

いま日知庵から帰った。きょうも、お酒と、これから読むデュ・モーリアのすてきな短篇集『人形』で一日が終わる。文学、あってよかった芸術分野だな。ぼくは不器用だから楽器もへただったし、絵もへただったし、詩以外にできることなんて、ひとつもない。その詩も、ぼくが無名のせいで、しゅんとしてる。

二〇一八年八月二十七日 「弟」

うとうとして昼寝をしてしまった。弟の夢を見ていた。弟がかわいらしい子どものときの夢だ。大人になって、発狂して、精神病になってしまって、顔も醜くなってしまったけれど、子どものときは天使のようにかわいらしかったのだ。父と母が甘やかして育てたせいである。ぼくは父母を憎む。もう死んだけれど。

きょうは、うとうとしながら、ずっと、デュ・モーリアの傑作集『人形』のつづきを読んでた。寝るまえの読書もつづきを。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年八月二十八日 「「笠貝」または「あおがい」」

さいきん、お昼ご飯は、イオンのフードコートで、冷たいうどんと、鶏ご飯とのセットを食べている。590円なので、手ごろな価格で、おなかがいっぱいになる。

ケンタッキー・フライド・チキンに行った。680円のセットメニューを食べた。ドリンクはコーラ。糖尿病にとっては毒物である。まあ、うどん屋に行列ができてて、並ぶのが嫌で、だれも並んでいないところに行っただけなのだが。

いま、デュ・モーリアの傑作集『人形』のさいごに収録されている「笠貝」を読んでいるのだが、読んだことのあるような記憶がある。似た設定の小説を読んだのかもしれないけれど。きょうは日知庵にアルバイトだ。行くまでの時間に読み切れると思う。300ページちょっとの本にけっこう時間をとられた。

デュ・モーリアの傑作集『人形』を読み終わった。さいごに収録されてあった「笠貝」は、やはり、以前に読んだものだった。ネットで、なにで読んだのか調べたけれど、傑作集『人形』にしか収められていないようだったので、不思議だ。たしかに以前に読んだ作品だった。もう少し調べてみるかな。

ネットで調べても、ぼくの本棚にある、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇集』上下巻、エラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』を見ても、デュ・モーリアの「笠貝」は目次になかった。おかしい。たしかに読んだはずなのに。日知庵に行くまでの時間、さらに調べてみよう。

原題の「The Limpet」で検索した。早川書房の異色作家短篇集の第10巻、ダフネ・デュ・モーリアの短篇集『破局』のさいごに収録されていた、邦題「あおがい」が、そうだった。まったく異なる邦題なので、すぐに探せなかったのである。読んだことがあると思った通りだった。これでひとまず、ひと安心。

肝心の作品「笠貝」または「あおがい」という邦題の短篇だが、サマセット・モームの作品にも似た、にやにやと読んでる途中でも笑けるブラック・ユーモアに満ちたもので、人間のもついやらしさというかあさましさを表していた。

もちろん、こんなにこだわったのは、傑作だと思ったからである。

二〇一八年八月二十九日 「カレッジ・クラウン英和辞典」

ぼくのもっとも信頼している英和辞典、カレッジ・クラウン英和辞典で、limpet を引くと、アオガイ・アミガイの類(海岸の岩石や棒ぐいなどに付着している小さな編みがき状の貝がらを持った節足動物;肉は魚釣のえさになったり中には食用になるものもある)語源は古代英語のlempedu, lamprey とあった。

きょうから寝るまえの読書は、デュ・モーリアの短篇集『いま見てはいけない』だ。西院のブックファーストで買ったのだけれど、部屋に帰ってよく見たら、表紙が曲がっていて、キーって精神状態がもろに悪くなったシロモノだ。交換しろと迫ってもよかったのだけれど、レシートを捨ててたからあきらめた。


そこにも、ここにも、田中がいる。
豊のなかにも、田中がいる。
理のなかにも、田中がいる。
囀りのなかにも、田中がいる。
種のなかにも、田中がいる。
束縛のなかにも、田中がいる。
お重のなかにも、田中がいる。
東のなかにも、田中がいる。
光輪のなかにも、田中がいる。
軸のなかにも、田中がいる。
竹輪のなかにも、田中がいる。
甲虫のなかにも、田中がいる。
横軸のなかにも、田中がいる。 
触のなかにも、田中がいる。


きょう、大谷良太くんと会って、collective BRIGHTNESS の全訳の話をした。ぼくと、もうひとりの詩人との共同の大掛かりな翻訳になるのだけれど、ぼくが訳す詩があと40篇くらいあって、1年から2年はかかると思う。翻訳作業に入ったら、通勤時も寝るまえも翻訳のことで、頭がいっぱいになるだろう。

もう、アメリカの出版社と編集者の許可は取り付けてある。残っているのは、翻訳の実行と日本語全訳の詩集の出版だけである。

出版社は、書肆ブン。

二〇一八年八月三十日 「デュ・モーリア」

デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』を読んでたら、おもしろくて眠れず。うううん。おもしろいのにも、ほどがあると思う。眠れなくさせるのは、完全な行き過ぎ。いま2篇目の小説だけど。(5篇収録の短篇集)デュ・モーリアの短篇集『鳥』も、けっきょく、徹夜するくらい、すごくおもしろかったものね。

二〇一八年八月三十一日 「きみの名前は?」

きょうは、夕方からイレギュラーの塾だ。塾が終わったら、日知庵に飲みに行く。塾に行くまで、デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』のつづきを読んでいよう。字が詰まっている。読みにくい。ブランチを、西院のブレッズプラスで食べよう。ハムチーズサンドイッチとアイスダージリンティーだ。

ブレッズプラスで、食事後、デュ・モーリアの傑作集『いま見てはいけない』の三作目「ボーダーライン」を読んでいると、ひきつづき捜しつづけていた詩句「きみの名前は?」(ダフネ・デュ・モーリア『ボーダーライン』務台夏子訳、203ページ)と遭遇した。さっそく「HELLO IT'S ME。」に加えよう。