二〇一八年七月一日 「辻征夫詩集」
岩波文庫の『辻征夫詩集』を読んだ。実話なのか、創作なのかわからないものがあった。実話的なもののほうに魅かれた。大谷良太くんも、きっとそこに魅かれたのではないだろうか。寝るまえの読書は、きょう買った、岩波文庫の『草野心平詩集』ちゃんと読むのは、はじめて、とてもめずらしい題材だ。
無限に濃度があるのなら、永遠にも濃度があってもよい。ものすごい薄い永遠。一瞬の永遠。刹那の永遠。
二〇一八年七月二日 「草野心平詩集」
いま、岩波文庫の『草野心平詩集』を読んでいるのだが、「蛙」の詩は定番のものがやはりおもしろかった。また、後半に、いくつもおもしろい詩があった。メモ魔であることがわかる、自分が20年間に栽培してきた野菜の名前が3ページ以上にわたって書き込まれた「百姓といふ言葉」や、じっさいにかわされたとおぼしき「仮想招宴」や、「サッコ・ヴァンゼッチの手紙抄」の焼き鳥屋をしていたころの描写とかよかった。あと、ぼくの記憶ともつながる化石を見て書かれた「石の魚」とかもいいと思う。青年期と晩年によい詩を書いてたのだね。西脇順三郎の悪口を書いた「或る永遠」には微苦笑させられた。なぜかしら、詩集全篇が収録された「富士山」にはまったく共感できなかったけれど。やはり具体的な経験を詩にしたものはよかった。いま、中央公論社版の『日本の詩歌』第21巻におさめられている草野心平の詩を調べたら、岩波文庫の『草野心平詩集』には収められていないものが、いくつもあった。編者によって、詩の選択って、異なるんだよね。コーヒーでも淹れて、心平さんの中央公論社版のアンソロジーに入っているものを読もう。
二〇一八年七月三日 「石垣りん詩集」
近所のスーパー「ライフ」でお弁当でも買ってこよう。帰ってきたら、岩波文庫の『石垣りん』詩集を読もう。「喜び」という詩が入っていないことがさっきわかって残念だけれど、仕方ないね。編者の好みがアンソロジーには反映するものね。
岩波文庫の『石垣りん詩集』いま、半分くらいのところ、具体的な出来事を扱っていることが多いので、きわめて場面が想起されやすい。寝るまでの読書は、ひきつづき、岩波文庫の『石垣りん詩集』それにしても、これには、第四詩集の『やさしい言葉』に入っている「喜び」が収められていない。くやしい。
読んだものがあまり記憶に残らないというのに、読むというのは、読むこと自体が快感だからなのだと、このあいだ、気がついた。
二〇一八年七月四日 「まど・みちお詩集」
きょうは、岩波文庫の『まど・みちお詩集』を読んでいる。すいすい読める。
雨。
岩波文庫の『まど・みちお詩集』を読んだ。ああ、深く物事を考えてらっしゃるなあと思った。「リンゴ」という詩がやっぱり、いちばん好きだ。ちょっと休憩して、岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』を読む。思潮社から出てたアンソロジーで、読んだ記憶がある。リレーの詩とかおぼえてる。
そのリレーの詩がなかった。自選だそうだから、自分では入れたくなかったということだね。『石垣りん詩集』には「喜び」という、とびきりおもしろい詩が入ってなかったりとか、そんなん少なくないね。なんでだろう。編者の問題だろうね。
こんなん見つけたんだけど、まあ、詩って、技巧だよって、ぼくなら書きそうだけど、いまのぼくは技巧を捨てたいというところにいて、でも、このあいだユリイカに書いた「いま一度、いま千度、」なんて詩、技巧の塊だったし、むずかしいな。でも、ぼくのルーズリーフ作業、技巧の極みを書き写す作業も含んでいる、というか、ほとんどそればかりだから、やっぱり、詩は、技巧だと思っているところがあるのかもしれない。というか、思ってるか。きっぱり、そう言おうか。詩は技巧である。
岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』いま半分くらいのところだけれど、まえに読んだ岩波文庫の『金子光晴詩集』や『大手拓次詩集』に比べると、圧倒的にポエジーが低い。なんかふつうのひとがふつうのことを書いているって感じのものが多い。だから、読者も多いんだろうけれど。つまらない読書になってきた。
気分をかえるために、お風呂に入りながら、ディックの短篇集『悪夢機械』のつづきを読もうかな。
岩波文庫の『谷川俊太郎詩集』250ページあたり、まさに後半に入ったところで、大人の詩句だなあというものに、ようやく出合えた。ここからどうなるかは、きょう寝るまえの読書でわかる。あるいは、あしたの通勤時間の読書で。
二〇一八年七月五日 「谷川俊太郎詩集」
うううん。『谷川俊太郎詩集』いいのは、250ページからわずか270から385ページまでだった。奇跡の一枚ならぬ、奇蹟の詩篇「ふくらはぎ」と「夕焼け」と2、3の詩篇くらいだった。あしたから岩波文庫の『茨木のり子詩集』を読もう。
二〇一八年七月六日 「岡島弘子さん」
岡島弘子さんから、詩集『洋裁師の恋』を送っていただいた。詩句に、落ち着いた雰囲気、貫録のようなものを感じた。ぼくより年下であるかもしれないが、言葉の趣きは、ぼくよりずっと年上だ。題材もだが、詩句の繰り出し方に女性性を感じた。ぼくにはぜったい書けない詩句たち。真似もできないだろう。
二〇一八年七月七日 「岡島弘子さん」
きのう届いた岡島弘子さんの詩集『洋裁師の恋』をさいごまで読んだ。お兄さまが73歳で亡くなられたことから推測するに、やはり、ぼくよりお齢を召された方だと思った。言葉が、言葉と言葉をつなげる仕方が上品なのだ。表紙のカバーをとると美しい本の本体が見える。タイトルとかぶる装幀だと思った。
二〇一八年七月八日 「茨木のり子詩集」
きょうは、ディックの短篇集しか読んでないけど、ひさびさに見つけた言葉がある。ぼくがコレクションしている言葉だ。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『超能力世界』II、浅倉久志訳)ぼくのようなマイナー・ポエットには、小さな収穫だが、日々は小さな収穫の積み重ねでしかない。
岩波文庫の『茨木のり子詩集』のつづきを読みながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年七月九日 「山之口貘詩集」
ブックファーストから、岩波文庫の『山之口貘詩集』が届きましたとの電話があって、買いに行った。カヴァーのきれいな良品だった。ジュンク堂のは表紙にハゲがあって、丸善のはカヴァーに傷がついていたので買わなかったのだった。本はカヴァーが命と、つくづく思う。
郵便受けから郵便物を部屋に持ち込み、なかを見たら、高橋睦郎さんから、詩集『つい昨日のこと 私のギリシア』と、大木潤子さんから、詩集『私の知らない歌』と、尚 泰二郎さんから、詩集『街中で突然に』を送っていただいていた。いま読んでいる山之口貘さんの詩集をおいて、さきに読もう。
高橋睦郎さんの詩集『つい昨日のこと 私のギリシア』を読み終わった。「青空」というタイトルの詩に、「神神が失せても 人間が滅びても 青空は青空のまま」という詩句があって、いちばん。胸に吊り下がった。それにしても碩学の詩人の詩句はレトリカルであった。このうまさに達することはできない。
二〇一八年七月十日 「大木潤子さん」
大木潤子さんの詩集『私の知らない歌』を読み終わった。右のページがすべて余白で、左のページに書かれた詩句も、一文字であったり、一行であったり、多くても数行のものがほとんどで、空間がこんなにもうつくしかったのかと痛感した。もちろん、詩句があったればこその空間の、余白のうつくしさだが。
二〇一八年七月十一日 「尚 泰二郎さん」
尚 泰二郎さんの詩集『街中で突然に』を読み終わった。さいしょのほうの詩篇は批評的な、皮肉とも言えるユーモアのある詩が収められてあったけれど、途中からお父さまがなくなられたことを題材にされた詩がつづき、終わりのほうに、エッセイのような散文詩が収められていた。おいくつだろうと思って、奥付を見たら、ぼくと同い年か、おひとつ上の方だった。言葉はなめらかで、達者な方だと思った。
二〇一八年七月十二日 「日本の詩歌」
きょうは、一日中、岩波文庫の『茨木のり子詩集』を読んでいた。ずいぶん整った詩句を書くひとだなあと思った。年代的にはずいぶん離れたものもあったと思うのだけれど、言葉があまり違っていないので、素で書いてらっしゃったのだなあと思った。ちょっと休憩してコーヒーを淹れて飲もう。
ダメもとで、ヤフオクに入札した。中央公論新社の『日本の詩歌』全巻揃いで、2000円で入札した。こりゃダメもとでしょうな。9冊すでに欲しいものを持っているのだが、山村暮鳥の詩をもっと読みたくなって入札した。2000円以上は出す気がないので、当然、落札できないだろうけれど、万一、笑。
二〇一八年七月十三日 「山之口貘詩集」
きょうは、一日じゅう、岩波文庫の『山之口貘詩集』を読んでた。
二〇一八年七月十四日 「入眠時幻覚」
いま入眠時幻覚の夢をさぐっていた。薄い青い部屋で、寝転がっていた。じっさいの手を伸ばすと半透明になった。10分くらいつづいた。子どもの声が後ろでした。ポオと言っていた。絵が出現して子どもたちが動いていた。目が覚めた、というよりか、自分で起きようと思い、目をきっと開いて目が覚めた。
二〇一八年七月十五日 「夏になるまえの夏バテ」
自分の意志で入眠時幻覚を見た。喫茶店にいた。透明のゼリーを食べたらオレンジの味がして、目が覚めた。2つめは、さっきと同じ喫茶店でマスターらしきひとに名前を聞かれて名乗ったら目が覚めた。3つめは浅い川のなかを歩いているひとがいっぱい通ってた。
夏になるまえの夏バテだろうか。さっきまで眠っていた。
二〇一八年七月十六日 「山之口貘詩集」
いま、きみやから帰った。きょうは、通勤電車のなかで、仕事の合間に、岩波文庫の『山之口貘詩集』を読んでいた。「何々なのだ」の連発で、バカボンパパの口調を思い出していたのだ。おもしろかったのだ。赤塚さんが口調をぱくったのではないかと思われたのだ。こんなことを思うのは、ぼくだけなのだ。
持ってたんだけど、お風呂場で読んで捨てちゃったので、買い直したのだ。
現代日本文学大系〈41〉千家元麿,山村暮鳥,福士幸次郎,佐藤惣之助,野口米次郎,堀口大学,吉 (1972年)
ヤフオクのオークションで、『日本の詩歌』全31巻を入手できなかったのは、痛かったけれど、よく考えれば、ほしいものはすでに買っていたのだった。それに、31巻もの本を入れる棚がないのだった。そのかわりに、一冊だけ、さっき書き込んだものを買ったのだった。これでよしとするかな。
山村暮鳥の「いちめんのなのはな」のリフレインがすごい、「風景」という詩が読みたかっただけなのだ。ぼくがさっき買ったアンソロジーに入っていたかどうかの記憶はない。なにしろ、お風呂場で読んだのが数年まえだからな、記憶にないのだった。神さま。入っていますように。千家元麿の詩もよかった。
「風景」という詩が入っている『聖三稜玻璃』って、いま調べたら、ネットで60000円くらいで売られていたけど、ヤフオクじゃ、10000円でも、だれも落札してなかったみたい。10000円か。ぼくも買わないなあ。
もっとディープに調べたら、全詩集が1600円でネット古書店で売られていた。「風景」って詩、きょう注文したアンソロジーに入ってなかったら、全詩集を買おう。
きょう寝るまえの読書は、もちろん、岩波文庫の『山之口貘詩集』 薄いのだ。もっと分厚くしても売れるのにね。詩集を読んでて、ゲラゲラ笑ったの、ひさしぶり。ぼくの頭もすっかりバカボンパパなのだ。
二〇一八年七月十七日 「廿楽順治さん」
郵便受けを見に行ったら、廿楽順治さんから、同人詩誌『Down Beat』第12号を送っていただいていた。さきに、こっちを読もう。廿楽順治さんはじめ、お会いしたことのある小川三郎さんや、よく名前の知られた金井雄二さんや柴田千晶さんや中島悦子さんたちが書いてらっしゃる。まさに現代詩である。
金井雄二さんの「食通」読んでると、おなかがすいてくる詩だけど、冒頭一行目にある漢字が読めなかった。魚へんに、有るという漢字が右についているのだが、なんだろう。わからないまま寝るのがイヤだから、ひさしぶりに辞書でもひこうか。日本語の辞書をひくのは10年ぶりくらいである。
マグロだった。辞書を引くのもめんどいと思って、ネットで、魚へんに有る、で検索したら、即、出てきた。フォロワーさんにも教えていただきました。身近な魚なのに、読めないって、ちょっと悲しいね。
また漢字が読めないよ。草かんむりに浦って書いて、どう読むのだろう。柴田千晶さんの詩「ユウレイグモ」のさいごから2行目の詩句にあるんだけど。これもネットで調べてみようかな。IMPパッドで調べたら、蒲は、ブ、ホ、かま、がまの読みがあると出てきたのだけど、「蒲の穂」って、どう読むのかな。
こんどは、言葉自体がわからない。ランブルスコ。谷口鳥子さんの詩「桜」に出てくるのだけど。文脈からお酒だと思うけれど、聞いたことがないものだ。ぼくって、こんなにバカだっけ?
ぼくの知識が少ないのか。今鹿 仙さんの詩「草の中」に「歴人」という言葉が出てくるのだけれど、57歳のぼくがはじめて遭遇する言葉だ。意味もわからないが、こんな言葉、見たことがない。ぼくの知識が少ないのだろうか。うううん。送っていただいた現代詩、ぜんぶ読んだけれど、言葉がむずかしい。
だけど、いままで、漢字が読めなかったり、言葉がわからなかったりすることなんて、ほとんどなかったぞ。どうしたんだろう。ボケかな。
ありゃ、岩波文庫の『山之口貘詩集』の解説を読んでいたら、「鮪の刺身を食いたくなったと」という詩句があることがわかった。貘さん、『鮪に鰯』という詩集を出してて、そのタイトル・ポエムの冒頭の詩句だった。いい加減に読んでるのだな。読めない漢字を調べもせずに。自分の頭を叩いておこう。
二〇一八年七月十八日 「鹿又夏実さん」
きょうから、岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読んでいる。大岡さんには、1991年度のユリイカの新人に選んでいただいて、何度かじっさいにお会いして、言葉を交わしたことがあるけれど、まっすぐに見つめる目をもたれた、器の大きなひとだったという印象が強い。詩もまっすぐで、器が大きい。
鹿又夏実さんから、詩集『リフレイン』を送っていただいた。暗い色の表紙と同様に、暗い色調の詩がつづく。ぼくよりお若い方なのかなって思って奥付を見ると、20才くらいお若い方だった。若いときの詩は、たいていグロテスクに赴く。
いま日知庵から帰ってきた。郵便受けに、一色真理さんから同人詩誌『モノクローム』創刊号を送っていただいていた。一色真理さんはじめ、草野理恵子さんや、葉山美玖さんや、きょうお昼に送っていただいてた、鹿又夏実さんら、15名の詩人の詩が収められている。現代詩だ。楽しんで読ませてもらおう。
寝るまえの読書は、一色真理さんからいただいた詩誌『モノクローム』創刊号。どんな情景を思い浮かべることができるのだろうか。楽しみ。おやすみ。
一色真理さんからいただいた詩誌『モノクローム』を読み終わった。自伝詩から物語詩、はては思想詩まで幅広い書き手たちだった。クスリをのんだ。二度目のおやすみ。寝るまえの読書は、岩波文庫の『自選 大岡信詩集』だ。
二〇一八年七月十九日 「自選 大岡信詩集」
現代日本文學大系・第41巻が届いた。山村暮鳥の「いちめんのなのはな」の詩「風景」が収録されていた。ほっとしている。
まだ岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読んでいるのだが、まだ半分くらい。付箋の数が半端ない。若いときにも読んだ詩が多いのだが、付箋する箇所が違う。ぼくが齢をとって、感じるところが違っているのだろうね。
つい、いましがた(という言葉を、ぼくは生まれてはじめて書いたような気がする)日知庵から帰ってきて、2ちゃんねるのぼくのスレッドを覗いたら、ユリイカの5月号にのっけてもらった、ぼくの詩を読んでくださったという方がいらっしゃって、とてもうれしい。あの作品、ほとんど反応がなかったので。
いま岩波文庫の『自選 大岡信詩集』を読み終わった。つぎは、岩波文庫の『西脇順三郎詩集』だ。すでに別のアンソロジーでほとんど読んだのだか、もう一度読んでも、ポエジーを吸収できるだろうから、買って損はなかったと思う。ほかのアンソロジーには含まれていない作品も数作あったと記憶している。
二〇一八年七月二十日 「西脇順三郎詩集」
やっと詩集が読めるこころがまえができた、というか、いま大野ラーメンで、冷やし担担麺と焼き飯を食べておなかいっぱいになって、部屋に戻ってきたところ。岩波文庫の『西脇順三郎詩集』のつづきを読もうと思っている。やっぱり、おもしろいわ、西脇順三郎さん。やっぱ日本でいちばん好きな詩人かな。
またコレクションが増えた。詩集の読書と並行に、ディックの短篇集も読んでいたのだ。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『輪廻の車』浅倉久志訳、247ページ)
ようやく岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を読み終わった。なつかしく読む詩が多かったが、はじめて目にする作品もあったような気がする。この数週間、岩波文庫の日本の詩人たちの詩集を読んでいた。楽しい経験だった。そうだ。キーツの詩集も買ったのだった。きょうから『キーツ詩集』を読んでいこう。
二〇一八年七月二十一日 「キーツ詩集」
岩波文庫の『キーツ詩集』を読んでいるけれど、情景描写が繊細なことはわかるが、情景描写が連続するのは、ちょっと退屈かな。しょっちゅう休憩を入れないと読めない。そう思うと、現代詩は、そうとう違う道をゆき、異なる多様な手法を開発してよかったなあと思う。つくづく思う。でも、まあ、読もう。
4、5年前に、三条京阪のブックオフで見かけたときに買いそびれたもの。
次の商品を購入しました:現代日本文学大系〈93〉現代詩集 (1973年) via @amazonJP https://www.amazon.co.jp/dp/B000J99CSS/ref=cm_sw_r_tw_asp_W.VHP.ZC23MP5…
死んだ水も生き返る。
生き返った水は二度とふたたび死ぬことはない。
みんなの足を引っ張っているひとがいる。
まあ、そのひとだって
太陽のまんなかにいるひとに
足を引っ張られているのだけど。
二〇一八年七月二十二日 「うつくしいだけでは、退屈なのだな。」
いま日知庵から帰ってきた。きょうは一行の詩句も読んでいなかった。寝るまえに、岩波文庫の『キーツ詩集』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!
うつくしいだけでは、退屈なのだな。『キーツ詩集』を読んでいると、そんなことを思った。
二〇一八年七月二十三日 「ルーズリーフ作業」
ここ数週間に読み終えた岩波文庫の日本の詩人たちの詩集のルーズリーフ作業をしている。今回は自分のメモがなく、すべて詩句の引用である。すばらしいと思った詩句を書き写すことは、たいへん楽しい作業である。
岩波文庫の日本の詩人の詩集のルーズリーフ作業が終わったので、これから飲みに出る。
二〇一八年七月二十四日 「現代詩集」
きょうから寝るまえの読書は、筑摩書房の現代日本文學大系の第93巻『現代詩集』 むかし読んだものもあるだろうけれど、この本に載っている詩、どれだけ、ぼくを驚かせてくれるだろう。楽しみ。
二〇一八年七月二十五日 「笠井嗣夫さん」
きょうから塾の夏期講習。帰りに、きみやによって、帰って郵便受けを見たら、笠井嗣夫さんから『デュラスのいた風景』というデュラス論ともいうべき大著を送っていただいていた。デュラスはぼくも全作品集めて読んだくらい好きな作家だったので、送っていただいて、たいへんうれしい。きょうから読む。
いつの間にか政治色が強いツイートが増えてしまっていたので、お笑いの芸人さんたちをバカスカ、フォローした。すこし景色が変わってうれしい。もうすこしお笑い芸人さんたちをフォローしようと思う。
二〇一八年七月二十六日 「きみの名前は?」
読むつもりの本が多すぎて、筑摩書房の現代日本文學大系の第93巻の『現代詩集』ははずしておこうと思った。字が小さくて、漢字がちょっと画数が多いものだと拡大鏡を使わないと読めないからだ。参考文献用に置いておくことにした。タニス・リーの短篇集も途中だし。
またディックだけど、見つけた。「きみの名前は?」(フィリップ・K・ディック『出口はどこかへの入り口』浅倉久志訳、『悪夢機械』372ページ)
二〇一八年七月二十七日 「どくろ杯」
いま日知庵から帰った。2日前に日知庵で文学の、詩の話をディープにさせていただいた方が、金子光晴の自伝『どくろ杯』がおもしろかったですよと勧めてくださったので、帰ってからすぐに Amazon で買ったのだった。きょう到着したのだ。きょうから読むのだ。もうちょびっと読んだのだ。すごくいい。
ぼくはSFやファンタジーやミステリーやホラーも大好きだけど、というかマニアくらいに好きなんだけど、じつは自伝も大好きなのだった。それが金子光晴というのだから楽しみだ。きょう、タニス・リーの短篇集『悪魔の薔薇』のつづき、ちょこっと読んだ。約一か月前の読書のつづきから。まあまあかな。
二〇一八年七月二十八日 「3人の方」
これから髪の毛を刈って、日知庵に飲みに行く。
いま日知庵から帰ってきた。ポケットに、金曜日に日知庵に行ったときのメモが入っていて、3人の方のお名前が書かれてあった。深道省吾さん、細井啓生くん、栗田裕章さん。名前をおぼえるのが、ぼくの仕事だ。(いちおう、SNSに、お名前をあげる許可はとってます。)きんつば食べて麦茶飲んで寝よ。
二〇一八年七月二十九日 「タニス・リー」
タニス・リーの短篇集『悪魔の薔薇』を読み終わった。退屈な読書であった。読み終えるのに、一か月以上かかった。形容語が多くて、修飾語が多くて、読みづらかった。ときにファンタジーやホラーの多くは、このようなものになりがちだ。資質がそうさせるのか、ジャンルがそうさせるのかわからないが。
きょうから再読する奇想コレクションは、シオドア・スタージョンの『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』スタージョンは、ぼくの大好きなSF作家のひとりで、短篇では、コードウェイナー・スミスくらい好きなんだけど、ジェラルド・カーシュもいい短篇を書いてたなあ。いい作家っていっぱいいるな。
二〇一八年七月三十日 「断章」
煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと I』6、田中 勇・銀林 浩訳)
具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)
形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)
きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)
二〇一八年七月三十一日 「断章」
自分自身のものではない記憶と感情 (…) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)
突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)
それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)
ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)
すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)
すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)
それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)
選出作品
作品 - 20200701_296_11982p
- [優] 詩の日めくり 二〇一八年七月一日─三十一日 - 田中宏輔 (2020-07)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
詩の日めくり 二〇一八年七月一日─三十一日
田中宏輔