選出作品

作品 - 20200601_592_11921p

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詩の日めくり 二〇一八年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年五月一日 「迷惑メール」

迷惑メールが何通もくるのだけれど、いま見たら、「ワンナイトラブでかまいません。」と書いて、女の名前で書き込んであるの。笑っちゃった。こんなメールに返信するひとっているのかな。あと、お金を振り込みたいので、口座番号を教えてくださいっていうのも、よくくる。見ず知らずのひとから、笑。

二〇一八年五月二日 「The Wasteless Land.」

いま日知庵から帰った。帰りにセブイレで烏龍茶を買った。ちょっと、ほっこりしてから寝るかな。

Amazon で『The Wasteless Land.』が売れたみたい。うれしい。ぼくの第二詩集で、文体も、あれ以上のものは、その後、先駆形という『みんな、きみのことが好きだった。』の前半に収録したものしかないような気がする。あ、引用詩や『全行引用詩・五部作・上下巻』があったか。一冊ずつしか売れないというのは、いかにも、ぼくらしい。ほんとうに、一生のあいだ、無名の詩人として過ごすのだと思う。まあ、芸術家なんていうのは、無名の時代が長い方が、深い生き方ができるような気がするから、それでいいのだけれど。死ぬときに、人生を振り返って、ふふふと、笑えればいいかな。

二〇一八年五月三日 「無為」

いま日知庵から帰った。帰りにセブイレで買ったパンを二つと烏龍茶をいただいて寝る。きょうは、読書は無理かな。あした、上履き、洗濯しなきゃ。

二〇一八年五月四日 「マイケル・ムアコック」

きのう、マイケル・ムアコックの短篇を読んでて、あまりおもしろいものとは思えなかった。

きょうは数学の授業の予習をしようか。2時間の授業の予習に半日くらいかかるのだけれど、やはり齢をとったとしか言いようがないな。

二〇一八年五月五日 「玄こうさん」

いま、日知庵から帰ってきた。きょうは、玄こうさんがお客さまとして日知庵にきてくださった。吉増剛造さんと会って、直接、お話をなさったみたいで、ぼくも、ぼくのことをさいしょに認めてくださったのが、ユリイカで吉増さんが詩の投稿欄で選者をしてらっしゃったときだったので、なんか、つながりを感じてしまった。

ぼくは単行本を買ったけど、文庫本になってるんだ。おもしろかったよ。レイ・ヴクサヴィッチ。レイ・ヴクサヴィッチの文庫本は、単行本のものに1篇くわえてるんだって。そういうのやめてほしい。きょうの寝るまえの読書は、時間SFアンソロジーのつづきにしよう。ウィル・セルフの短篇、ちょっと、つまんなくなってきた。

二〇一八年五月六日 「時間こそ、もっともすぐれた比喩である。」

6月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品の仕様を、投稿用にし直していた。こんなことを20年まえのぼくは考えていたのかという思いがした。いまのぼくなら、ごく簡単に書いてしまうところを、みっちりときっちり書いているのだなあと思った。

きょうは一日をかけて数学の問題をつくる。きのう、寝るまえに時間SFの短篇集に収録されているさいごの作品を読んだ。結末がブラックで、現実的だった。いま話題の政治的な話に通じる暗い結末だった。明るい結末にもできたと思うのだが、あえて暗い結末にしたのだろうな。人間の欲望と愚かさ。

ちょっと休憩。

半分、終わった。コーヒーを淹れよう。BGMは70年代ソウル。

時間こそ、もっともすぐれた比喩である。

この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。

窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、あらかじめそのものであったことを、またこれから遭遇するであろうすべてのものそのものであることを理解した。

わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。

一科目だけだけど、数学の問題ができたので、印刷した。時間があまったので、7月に文学極道に投稿する作品も、文学極道の詩投稿掲示板に合わせた仕様にし直した。でもまだ、時間があまっているので、8月に投稿するものを、これから仕様変更しようと思う。きょうはパソコンにへばりつきだ。


アインシュタイン読点

アインシュタインの言葉をもじって
文章で格闘しているひとたちが
みんな感服するような作品が書かれてしまったら
あとはもう棍棒のかわりに
読点を手にもって
殴り合いをするしかない
っちゅうたりしてね。


まだ9時30分。文学極道に投稿する作品を、10月に投稿するものまで決めてしまおうか。あと4作品、過去作品をいじればいいだけだけど。自分の作品を読みながら、作品の順番を考えるのって、けっこう好きな作業かもしれない。数学の問題を除くと、いや除けないか、自分のつくったものばかり見てる。

作業終了。10月までの投稿作品を決めた。仕様変更も終了。寝るまえの読書は、レイ・ラッセルの『インキュバス』 おおむかしに読んだことのあるものだが、一年以上もまえかな、ブックオフで108円できれいな状態で売っていたので買っておいたのだった。ウィル・セルフは、ちょっと中断しようかな。

大粒の雨だ。雨の音にはイライラさせられる。という詩句を、ユリイカの5月号に書いてた。雨の音を聞くと死にたくなるのは、ぼくだけだろうか。

自分の作品が頭に引っかかっていて、読書に専念できなかったので、文学極道に投稿する作品を11月までの分を決めて仕様変更してた。8月まで引用の洪水である。とりわけ、8月の2回目の投稿作品は、怒涛のように引用している。もちろん、以後の作品にも引喩は用いている。

二〇一八年五月七日 「Ommadawn」

文学極道の詩投稿掲示板に、新しい引用詩を投稿しました。よろしければ、ごらんください。タイトルの「Ommadawn」はアイルランド語で、愚か者という意味らしいです。

仕事帰りに、王将で餃子定食と瓶ビール1本食べ飲みしてきた。きょうは、残りの時間は、読書に費やす。ウィル・セルフの短篇集のつづきを読む予定だけど、夏くらいからは、持ってる詩集の再読にかかろうかな。なんといっても、詩の刺激に比べたら、小説とはまったく違ったものだからね。

わ〜。考えただけで、ぞわぞわっとしちゃう。去年、蔵書の半分は、友人たちに譲ったけれど、詩集は一冊も譲らなかった。ひゃ〜。ジェイムズ・メリルとか読み直したら、また霊感がめきめきつくんじゃなかろうか。楽しみ。ぼくの詩ももっと刺激的なものになるかも。どれから読むかって考えただけで感激。

ウィル・セルフの短篇集、あまりに退屈で、読んでて途中、居眠りしてた。車の話がえんえんとつづくなか、女性とのやりとりに出てくる比喩表現があまりに出来が悪いと思った。収録作さいごの作品を読みはじめて、もう11時を過ぎているのに気がついて、あわててお風呂に湯を入れはじめた。風呂に入ろ。

レイ・ラッセルの『インキュバス』は、さいしょのページを読んで、げんなりしたので読むのをやめたのであった。お風呂に入って、あがったら、ウィル・セルフを読みながら寝よう。麻薬の話だ。バロウズより具体的な感じはする。時代性かな。まあ、じっさいのところは、ぼくはぜんぜん知らないのだけど。

二〇一八年五月八日 「ウィル・セルフ」

ウィル・セルフの短篇集『元気なぼくらの元気なおもちゃ』を読み終わった。連作が2組入っていて、さいごに収録されていたものが、冒頭に収められていた話の続篇だったのだけれど、とても出来がよくって、おとつい読んだものがよい出来だと思えなかったのだけれど、読み直すと、悪い出来ではなかった。

きょうから再読する奇想コレクションの1冊は、コニー・ウィリスの短篇集『最後のウィネベーゴ』 これまた、ちっとも物語を憶えていない。彼女の『航路』は下巻に入ると、上巻にふりまかれていた断片がきゅうに集まり出したのに驚かされたけど、この短篇集は、どれくらいこのぼくを、楽しませてくれるかな。

これから日知庵へ。

二〇一八年五月九日 「ボロボロ」

ぼくは3か所で働いています。きついですね。身体がボロボロです。

二〇一八年五月十日 「コニー・ウィルス」

いま日知庵から帰ってきた。セブイレで買ったパンと烏龍茶を食べ飲みして眠ろうと思う。寝るまえの読書は、コニー・ウィルスの短篇集のつづき。やっぱり、おもしろい、コニー・ウィルス。

二〇一八年五月十一日 「コニー・ウィリス」

コニー・ウィリスの短篇集の会話部分が、ほんとうに巧み。よい文章を読んだら、ぼくの文章がよくなるというわけではないけれど、そうであってほしいという気持ちはある。いま、ようやく半分くらいのところ。もうちょっとしたら、コンビニにパンと烏龍茶を買いに行こうっと。お昼は王将でランチ(肉みそラーメン+天津飯)を食べたけど、あした早朝から仕事なので、きょうは早めに晩ご飯を、しかも軽めに食べてお風呂に入って寝ようと思う。睡眠薬が重い食事だと効かない。

二〇一八年五月十二日 「コニー・ウィリス」

きょうは、一日中、コニー・ウィリスの短篇集の読み直しをしていた。どの話もちっとも記憶してなかった。さいきん、短篇集の読み直しをしているのだが、憶えている話は、1冊につき、0から3話くらいである。たいてい0話なのだから、まるで、新刊本を買って読んでいるような気分である。あと数十頁。

コニー・ウィリスの短篇集、よかった。今晩から、再読する奇想コレクションの1冊は、パトリック・マグラアの『失われた探検家』 これまた1つも話を憶えていないのだけれど、めっちゃおもしろかったことだけは憶えている。考えれば、不思議なことだけれど。

二〇一八年五月十三日 「数学エディタ」

数学エディタが使えなくなっている。マイクロソフト社が数学3.0を削除したらしい。知らなかった。きょう、はじめて知って、超あわてている。どなたか解決策を教えてください。

テスト問題が手書きの時代がなつかしい。手書きだと数学の問題は1時間で書き終えられるけれど、ワードだと3時間近くかかってしまう。さきほど、お電話をくださった数学の先生に、こんどスタディーエイドという数学ソフトの使い方を教えていただけることになった。うれしい。いまより速く書けるかな。

詩の原稿と同じように、数学の問題も、何度も見直している。見落としがあってはならないからだ。9時半から、もう何回も見直したけれど、もう一度、見直して印刷しよう。

きょうが、もう終わる。一日中、ワードとの格闘だった。そろそろお風呂に入ろう。

二〇一八年五月十四日 「ペペロンチーノ」

ペペロンチーノにした。大盛りだったけど。ひゃ〜、血糖値315だった。

二〇一八年五月十五日 「パトリック・マグラア」

パトリック・マグラア、おもしろい。じっくり、ゆっくり楽しみたい作家。これからお風呂に。寝るまえの読書は、マグラアの短篇集のつづき。

二〇一八年五月十六日 「毎日がジェットコースターのように過ぎていく。」

毎日がジェットコースターのように過ぎていく。寝るまえの読書は、きょうも、パトリック・マグラアの短篇集。むかし読んだときもおもしろいと思ったと思うけれど、57歳になったいま読み返してよかったと思う。齢をとってからの読書もいいものだなあ。若いときには感じられなかった感覚もあるのだね。

二〇一八年五月十七日 「無感想」

いま日知庵から帰ってきた。きょうは客として。あしたはアルバイトとして入ります。京都におこしの方は、焼き鳥屋の日知庵(ぼくは、にちあんと呼んでいるけれど、正式には、にっちあんというらしい。)にぜひ、足をお運びになってください。

パトリック・マグラアの短篇集、翻訳もいいのだろうね。じっくり味わっています。いま、半分くらいのところ。すごい作家って、まだまだいるのだろうけれど、再読で、これだけ感心したのは、はじめてかもしれない。

いま書店にある、ユリイカの2018年の5月号に詩を書いているのだが、だれひとりとして、感想を聞かせてくれていない。だれひとりとして読んでくれていないのだろうかとか思ってしまう。悲しいが、現実を受け入れるしかなさそうだ。57歳。詩を書くことしかない人生だが、むなしい、かなしい人生である。ううん。

二〇一八年五月十八日 「網野杏子さん」

網野杏子さんから、フリーペーパー「NEXT」を送っていただいた。ゲスト詩人として迎えてくださり、たいへん光栄に思っております。網野杏子さん、竹中優子さん、葩汀李礫さんのお3人ではじめられたようです。ぼくは4頁の作品を書かせていただき、「田中宏輔から田中宏輔への五つの質問」に答えています。

いま日知庵から帰った。寝る。

二〇一八年五月十九日 「睡眠薬が効かないので」

睡眠薬が効かないので、もう一日分、のんだ。寝たい。

二〇一八年五月二十日 「廿楽順治さん」

廿楽順治さんから、同人誌『八景』四号を送っていただいた。廿楽さんの作品「巡景」は、12ページにも及ぶ大作で、つながりがなさそうな短詩の集積のような感じである。西脇順三郎を思い出した。小説と違って、論理整合性とかと、いかに詩が遠くはるかな場所にいってるのか、よくわかる詩篇だと思う。

いま洗濯ちゅうで、干して、まだ元気だったら、ジュンク堂へ行こう。買いたい詩集が3冊と、小説1冊があるのだった。近くの書店には、買いたい詩集が1冊あったのだけれど、カヴァーの背が折れていたので買わなかった。

ジュンク堂へ。

ジャック・プレヴェールの詩集を買ってきて、いっしょうけんめいに、「自由」ってタイトルの詩を探したけれど、なかったので、講談社版・世界文学全集・48『世界詩集』にあたったら、載ってたー。これ、ポール・エリュアールの詩だったのね。記憶違いもはなはだしいね。ちょっと、しゅんとなったわ。

きょう、ジュンク堂で買ったのは、『プレヴェール詩集』、フアン・ルルフォの『燃える平原』、『ウンガレッティ全詩集』、『クァジーモド全詩集』の4冊。ぜんぶで4300円弱だった。ルルフォのは短篇集なのかな。楽しみ。ふつうは、詩は小説と違って、読むのに時間がかからなくていいな。短篇集も。

ジュンク堂の帰りに日知庵に寄ってきた。あしたは学校があるので、ビール2杯で帰ってきた。帰ってきたら、岩波文庫の新刊4冊を目のまえにしてニタニタ、ああ、ほんとに本が好きなんだな、ぼくは、と再認識した。「自由」という詩がエリュアールの詩だって気がついて、顔から火が出るほど恥ずかしかった。

パトリック・マグラアの短篇集『失われた探検家』を読み終わった。おもしろかった。きょうから再読する奇想コレクションのシリーズは、タニス・リーの『悪魔の薔薇』 タニス・リーの長篇はいくつかファンタジーを読んだけど、そうおもしろくはなかったと記憶しているけど、この短篇集はよかったかな。

ひさびさに「きみの名前は?」を発見したのだが、これは、詩篇『HELLO IT'S ME。』に加えるのは控えよう。岩波文庫『ウンガレッティ全詩集』の解説(534ページ)にある言葉だからだ。残念。いま、『ウンガレッティ全詩集』の解説を読んでいる。ぼくは詩集や小説を解説から読むことが多いのだった。

タニス・リー、ほっぽり出して、あしたから詩集づけになることにした。

二〇一八年五月二十一日 「ウンガレッティ全詩集」

『ウンガレッティ全詩集』まだ70ページほどしか読んでいないけど、超つまんないの。ぼくがモダニズム系の詩人やシュールレアリスムの詩人が好きだからかな。めっちゃ平凡な詩句がえんえんとつづいていて、びっくり。ぼくの目がおかしいいのかな。ぼくの解釈力が劣っているのかな。とっても退屈。

そいえば、ぼく、むかし、ウンガレッティの詩をなんかの詩人たちの双書みたいなシリーズで読んだ記憶がよみがえってきた。学校の図書館で借りて読んだ。買おうとは思わなかったんだ。岩波文庫のは買ったし、さいごまで読むけど。

いま170ページまで読んだけど、メモするところ、3カ所だけだった。詩集にしては、きわめて少ない。パウンドやエリオットやD・H・ロレンスやディラン・トマスやジェイムズ・メリルと大違い。でも、メモした3カ所は大いに活用できるところだった。

メモの数が増えてきた。ウンガレッティ、悪くないかな。よい、とまでまだ言えないけれど、ぼくのことだから、メモばかりしてたら、そのうち、よい詩人だなあと思うようになるような気がする。ジェイムズ・メリルのような霊的な感じはまったくない。メモしているのはレトリックの参考になるところだけ。

これからお風呂に、それから学校に。きょうは通勤電車のなかでも、ウンガレッティを持って行って読む。霊的なところはまったくないのだけれど、レトリックに見るべきところがあるので、さいごまで、きっちり読むことにした。

なぜ髪や爪は伸びるんだろう。いま頭の毛を刈ったし、足の爪を切った。あ、手の指の爪を切るのを忘れてた。

ウンガレッティ、通勤電車のなかで、さいしょのページから読み直してたら、突然、ランボオと結びついちゃって、そこから急にページに吸いつけられたようになって読み直した。すごくおもしろい。ぼくの最初の認識は間違いだった。

メモしまくり。これから寝るまで、ウンガレッティの詩の翻訳を読む。翻訳もいいんだよね。ぼくの大好きな河島英昭さん。

ここ数年、火傷とか傷跡がきれいに治らなくなって、手の甲についたままになってしまうことに気がついた。友だちに、「齢をとるって、こういうことなんだよね。」って話したことがある。突然、思い出した。

隣に住んでいる男性二人(話を聞いてると、二人ともゲイではなさそう)、いつも2時間もののドラマや名探偵コナンを見てるみたい。音声が聞こえてくる。隣のひとには、ぼくの部屋でかけてるプログレやジャズやソウルやファンクの音楽か、韓国ポップスや、ウルトラQの音声が聞こえているのだろうけれど。

言葉にも光があたると影ができる。

言葉のなかに意味以上のものは与えないでほしい。まあ、音はあってほしいけれど。

二〇一八年五月二十二日 「ノブユキ」

言葉に意味と音のほかには、なにも与えないでほしい。というか、言葉に、意味と音のほかに、なにかを与えることができるとは思わないでほしい。これは、言い換えると、言葉に、意味と音のほかに、なにかほかのものを求めることはやめてほしいってことでもあるのだけれど。とはいっても、ジェイムズ・メリルの『ミラベルの数の書』のように、言葉に霊性がある場合があって、ぼくの希求も破綻しているのだけれど。

『ウンガレッティ全詩集』を読み終わった。引用を含めて、膨大なメモは、のちにルーズリーフに書くとして、つぎには、『クァジーモド全詩集』を読もう。ああ、もう日知庵に行く時間だ。きょう、思いついた詩句を書いて出かけよう。


ノブユキ。きみは二十歳だった。
いや二十一歳だった。
ぼくは二十七歳か、二十八歳だった。
きみは、たくみに罠を仕掛けた。
ぼくはいま五十七歳だけれど
いまだに、きみの罠から逃れられないでいる。
出会って別れるまで
二年ほどのあいだのことだったけれど。
忘れては思い出される永劫の罠だった。


あしたテストで朝が早いので、日知庵では、はやあがりをさせてもらった。9時30分くらいに帰ってきた。これからお風呂に入って寝る。寝るまえの読書は、岩波文庫の『クァジーモド全詩集』。解説から読む。ノーベル文学賞受賞詩人なんだね。ウンガレッティは、クァジーモドのことを模倣者と呼んでたらしい。

二〇一八年五月二十三日 「クァジーモド全詩集」

そろそろ仕事に。通勤電車のなかで、『クァジーモド全詩集』を持って行こう。『ウンガレッティ全詩集』ほどに興奮するだろうか。

二〇一八年五月二十四日 「クァジーモド全詩集」

いま日知庵から帰ってきた。朝から夕方まで学校で仕事、夜は塾の仕事と忙しかったけれど、帰りに日知庵に寄って、ゆったりとした気分にひたれてよかった。『クァジーモド全詩集』いま120ページくらいのところ、メモとりまくり。さすがノーベル賞受賞詩人って感じ。修辞がすごい。すごく勉強になる。

二〇一八年五月二十五日 「携帯」

なんか携帯を替えなければならないみたいだ。2020年の7月までに。そんなメールがきて、びっくりした。ソフトバンクからだ。ガラケーはもうダメってことか。来年、替えよう。パソコンもセブンが2020年1月までだから来年、買い替えよう。なんなんだろ。買い替えろ、買い替えろってこの様態は。

『クァジーモド全詩集』を読み終わった。詩人には、その詩人がよく使う言葉(彼の場合、谺や影や、ぼくのものではない、といった言葉)があるのだなと思った。レトリックも似通っている場合が少なくない。これをぼくは自分の詩論のなかで「思考傾向」と呼んでいるが。ウンガレッティとともによかった。

詩人固有の好きな言葉、言い回し、こういったものはやはり、詩人の思考傾向の一部なのだろう。(じつは、全部と言いたい。)きょうから、読書は岩波文庫の『プレヴェール詩集』これは、薄いのですぐよめるかな。どだろ。

いま、ぼくが携帯を買った店に電話した。いまから、その店に行って、機種変更しようと思う。ぼくはちょっと変わってるのかもしれない。しようと思っていたことをしなかったり。しないと思っていたことをすぐにしたり。

携帯の機種変更をしてきたけど、形はガラケーのものにした。色はピンクというか、桜色。この色しか、きょうはありませんということだったので、仕方なく、この色のものにした。もともと携帯をほとんど使わないひとなので、色はどうでもよかったのだ。とはいっても、ひとまえで使うのは恥ずかしいかな。

思潮社オンデマンドから2014年に出した『ゲイ・ポエムズ』っていう、ぼくの詩集に誤植が見つかった。『陽の埋葬』の一つ。中国人青年が出てくるやつだけど、「スクリーン」にしなければならないところ、「ク」が抜けて、「スリーン」になっていた。いつの日か、ベスト版の詩集をつくったときには、といっても、『ゲイ・ポエムズ』も前半は、よりすぐりの作品を再掲したものだけど、『ゲイ・ポエムズ』には、じつはゲイものは少なくって、ゲイネタのものだけを集めたものをふたたび編集して出したいと思っている。でも、タイトル、どうするかな。困る。

人生に吐き気を催しているのか、自分に吐き気を催しているのか、はっきり区別がつかない。ああ、両方なのかも。生きているのが、若いときにもつらかったが、齢をとってもつらい。なんのための人生なのだろう。あしたも朝がはやいので、『プレヴェール詩集』を読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!

ぼくにはジョークがわからない。

二〇一八年五月二十六日 「プレヴェール詩集」

『プレヴェール詩集』を読み終わった。ぼくには味わいがあまり伝わらなかった。ユーモアが、好みではなかったからだと思う。若いときと違って、ブラックジョークは、好きではなくなったというのが根本的な問題なのかな。きょうから、フアン・ルルフォの『燃える平原』を読む。これって短篇集なのかな。

二〇一八年五月二十七日 「草野理恵子さん」

草野理恵子さんから、『Rurikarakusa』8号を送っていただいた。草野理恵子さんの作品、「蹉跌海岸」と「作品」の2篇に共通する自他の同化に着目した。「蹉跌海岸」では、作者と作品の登場人物との同化。「作品」では、作品の素材との同化。こういった同化は、書く人間には逃れられないものだろう。

二〇一八年五月二十八日 「フアン・ルルフォ」

フアン・ルルフォの短篇集『燃える平原』いまタイトル作品を読んでいるところ。本としては、5分の2くらいのところかな。120ページ。暴力的なシーンが出てくるが、いまはもう暴力的なシーンのない小説がめずらしいくらいかな。いや、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』とか、暴力的なシーンはないか。

二〇一八年五月二十九日 「好きな今日がいっぱい。」

好きな今日がいっぱい。

二〇一八年五月三十日 「同性愛」

同性愛は世界の70パーセントの国で犯罪とされているという記事をむかし読んだ記憶がある。現代では減っているだろうけれど、イスラム圏では、鞭打ちだけではなくて、石をぶつけて拷問死させる死刑もいまだに実施されているという話を読んだこともある。カトリックの法王の先日の報道には、ほっとする。

ルルフォの『燃える平原』を読み終わった。物語の大部分を忘れてしまったけど、おもしろかったことは憶えている。つぎは、タニス・リーの短篇集と詩集を同時に読もうと思って、詩集の棚のところで詩集の背を見てたら、まだ読んでなかった詩集があった。ガートルード・スタインの『地理と戯曲 抄』だ。

そういえば、ドナルド・バーセルミの『死父』も途中で読むのをやめたのだった。ドノソの『夜のみだれた鳥』や、ムヒカ=ライネスの『ボマルツォ公の回想』も、はじめの数ページで読むのをやめていた。ああ、どれから読もうか。『死父』が読みやすそうだ。まるで詩のような改行の仕方だものね。迷うなあ。

ぼくは気まぐれだ。きょうからは、未読のピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』を読むことにしよう。

二〇一八年五月三十一日 「ピエール・ブール」

いま、日知庵から帰った。きょうは、ひさしぶりにSFを読みながら寝る。『猿の惑星』を書いたピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』である。タイトルもいいけれど、単行本のカヴァーもめっちゃいい感じなのだ。楽しみ。ブールの文章は描写が的確でよかった記憶がある。銀背の短篇集もよかったし、ハードカヴァーの長篇『ジャングルの耳』もよかった。