選出作品

作品 - 20200203_970_11698p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一七年十一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年十一月一日 「年間アンケート」

現代詩手帖の編集部に、年間アンケートの回答をいまメールに添付して送った。2016年の11月から2017年の10月までに読んだ詩集で感銘を受けた詩集を5冊にしぼるのは、けっこうたいへんな作業だった。なぜその5冊にしぼったかの理由を述べる文章は数十分でつくれた。

二〇一七年十一月二日 「ヒロくん」

きょうは、一日中ねてた。ねて夢を見ていたのだけれど、夢の途中で、トイレに行かなければならなくなって、起きたのだけれど、ねると、またその夢のつづきが見れるようになった。で、けさ、見た夢は、むかし、ぼくが30才くらいで、付き合っていた男の子が21才だったころの夢だった。ただすこし、現実とは異なっていた箇所があって、彼の名前はヒロくんと言って、ぼくの詩集にも収録している「年平均 6本。」に出てくるヒロくんなんだけど、下着姿でぼくの目のまえにいたのだった。しかも、いっしょにいたアパートメントが、なにかの宗教施設のようで、ほかにいた青年たちもみな下着姿なのであった。もちろん、ぼくの好みはヒロくんだけなのであって、目移りはしなかったのだけれど、いったい、なんの宗教なのかはわからなかった。まあ、宗教施設のアパートメントじゃない可能性もあるのだけれど。しかし、20年以上むかしに付き合ってた男の子が夢に出てくるなんて、いまのぼくの現実生活にいかに愛情がないか、などということを表されているような気がして、さびしくなったけれど、夢でなら、このあいださいしょに付き合ったノブちんが夢に出てきてくれたように、いくらでも会えるってことかなと思えて、ねるのが楽しみになった。夢のなかだけで会える元彼たちだけれど、めっちゃうれしい。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年十一月三日 「出眠時幻覚。」

きのうも同じものを見た記憶がよみがえった。
ぼくは白人の少年だった。
肉屋で、ソーセージを食べたのだ。
肉屋といっても、なんだかサーカスの小屋みたいなテントのなかで。
売ってるおじさんたちも白人だった。
そのソーセージは
ウサギのような生き物が
自分の肉を火に炙って、それをぼくに渡すのだけれど
最後に苦痛にはじけるように、背中をのばして、顔を苦痛にゆがめて
自分の口に脊髄みたいなものを突っ込むのだ。
ぼくは、そいつが生き物だとは知らないで
肉の人形だから、面白い趣向だなって思ってたんだけど
ぼくの飼ってたウサギが死んで、そいつが売られていたのだった。
そいつが、「ぼくを食べて。」と言って、ぼくに迫ってきたので
「できないよ!」と叫んでいたら
肉屋のおじさんとおばさんが出てきて
白人だったよ
ブッチャーみたいな太ったおじさんと
背の高い痩せた、化粧のケバい白人女性だった。
ぼくのウサギの皮を剥いで、火で真っ赤に焼けた窯のなかに
入れたの、そしたら、ぼくのウサギが苦痛に顔をゆがめて
でも、叫び声をあげなかったけれど
焼けたら、そいつを縛りつけてた鎖がほどけて
そいつが自分の脊髄を自分の口にポンっと放り込んだの。
「ぼくを食べて。」って感じで。
ぼくは逆上して、そこから逃げ出そうとしたら
肉屋のおじさんとおばさんが、ぼくを捕まえようとして迫ってきたの。
逃げようとしたら、何人かの少年たちが皮を剥がれて倒れていたの。
しかも肉が焼かれた色してた。
飴炊きの鴨みたいな皮膚でね。
でもね。
その少年たちが立ちあがって
そのおじさんとおばさんに迫ったの。
ぼくも、そのひとりでね。
ぼくは、脊髄みたいなものを口にポンっと入れて
歩きだしたの。
で、ここで、完全に覚醒したので
覚えているうちに書きこもうと思って
パソコンのスイッチを入れた。
1時間ほどの睡眠だった。
脳が覚醒しだしたのかもしれない。
きのうの朝にも同じものを見た記憶がある。
きのうの朝には
また父親とふたりの弟が出てくる別のものも見た。
とりつかれているのだと思う。
父親と弟に。

二〇一七年十一月四日 「また、やっちゃった。買わずに帰って、やっぱり欲しくなる。」

いまから当時のブックオフに。

東寺ね、笑。
でも、「当時のブックオフ」って言い方、すてきかも、笑。
フランス人のある詩人の書いた小説。
なんで買わなかったんやろうか。
行ってきま〜す。
あるかな。

ありました。
いまから塾に。

『欲望のあいまいな対象』でした。

ついでに買ったもの。

V・E・フランケルの『夜と霧』  
むかし読んだけど、新版って書いてあったので。
105円。
読むと、たしかに以前より文体がやわらかい。

スーザン・ヘイワードの『聖なる知恵の言葉』
おほほほほ、という内容で
あまりに常識的な言葉ばかり並んでるので
へ〜、っと思って。
これも105円。

しかし、ピエール・ルイスの『欲望のあいまいな対象』
あまりにへたくそな訳で、びっくりぎょうてん。
ご、ごむたいな、みたいな。
もちろん、105円でなかったら
買ってないかな。

これからストーンズ聴きながら
『聖なる知恵の言葉』で
おほほほほ。

おやすみなさい。
ドボンッ。

二〇一七年十一月五日 「正しい現実は、どこにあるのか。記憶を正すのも記憶なのか。」

文学極道に投稿していた詩を何度も読み直していた。
もう、何十回も読み直していたものなのだが
一か所の記述に、ふと目がとまった。
記憶がより克明によみがえって
あるひとりの青年の言葉が
●詩を書いていたときの言葉と違っていたことに
気がついたのである。わずか二文字なのだが。
つぎのところである。

●「こんどゆっくり男同士で話しましょう」と言われて   誤
●「こんどゆっくり男同士の話をしましょう」と言われて  正  

誤ったのも記憶ならば
その過ちを正したのも記憶だと思うのだが
文脈的な齟齬がそれをうながした。
音調的には、正すまえのほうがよい。
ぼくは、音調的に記憶を引き出していたのだった。
正せてよかったのだけれど
このことは、ぼくに、ぼくの記憶が
より音調的な要素をもっていることを教えてくれた。
事実よりも、ということである。
映像でも記憶しているのだが
音が記憶に深く関与していることに驚いた。
自分の記憶をすべて正す必要はないが
とにかく、驚かされる出来事だった。

追記
剛くん、ごめんね。
この場所
文学極道の投稿掲示板のもの
訂正しておきました。
もと原稿はこれから直しに。

いや
より詳細に検討しなければならない。
ぼくが●詩を書く段階で
いや
●詩のまえに書いたミクシィの日記での記述の段階で
脳が
音調なうつくしさを優先して言葉を書かしめた可能性があるのだから。
記憶を出す段階で
記憶を言葉にする段階で
音調が深く関わっているということなのだ。
記憶は正しい。
正しいから正せたのだから。
記憶を抽出する段階で
事実をゆがめたのだ。
音調。
これは、ぼくにとって呼吸のようなもので
ふだんから、音楽のようにしゃべり
音楽のように書く癖があるので
思考も音楽に支配されている部分が大いにある。
まあそれが、ぼくに詩を書かせる駆動力になっているのだろうけれど。
大部分かもしれない。
音調。
恩寵でもあるのだけれど。
おんちょう。

二〇一七年十一月六日 「友だちの役に立てるって、ええやん。友だちの役に立ったら、うれしいやん。」

むかし付き合った男の子で
友だちから相談をうけてねって
ちょっとうっとうしいニュアンスで話したときに
「友だちの役に立てるって、ええやん。」
「友だちの役に立ったら、うれしいやん。」
と言ってたことを思い出した。
ああ
この子は
打算だとか見返りを求めない子なのね
自分が損するばかりでイヤだなあ
とかといった思いをしないタイプの人間なんだなって思った。
ちょっとヤンキーぽくって
バカっぽかったのだけれど、笑。
ぼくは見かけが、賢そうな子がダメで
バカっぽくなければ魅力を感じないんやけど
ほんとのバカはだめで
その子もけっしてバカじゃなかった。
顔はおバカって感じだったけど。

本当の親切とは
親切にするなどとは
考えもせずに
行われるものだ。
           (老子)

二〇一七年十一月七日 「The Things We Do For Love」

つぎの詩集に収録する詩を読み直してたら、西寺郷太ちゃんの名前を間違えてた。

『The Things We Do For Love。』を読み直してたら
郷太ちゃんの「ゴー」を「豪」にしてた。
気がついてよかった。
ツイッターでフォローしてくれてるんだけど
ノーナ・リーブズのリーダーで
いまの日本で、ぼくの知るかぎりでは、唯一の天才作曲家で
声もすばらしい。
ところで数ヶ月前
某所である青年に出会い
「もしかして、きみ、西寺郷太くん?」
ってたずねたことがあって
メイクラブしたあと
そのあとお好み焼き屋でお酒も飲んだのだけれど
ああ
これは、ヒロくんパターンね
彼も作曲家だった。
西寺郷太そっくりで
彼と出会ってすぐに
郷太ちゃんのほうから
ツイッターをフォローしてくれたので
いまだに、それを疑ってるんだけど
「違います。」
って、言われて、でも
そっくりだった。
違うんだろうけれどね。
話を聞くと
福岡に行ってたらしいから。
ちょっと前まで。
福岡の話は面白かった。
フンドシ・バーで
「フンドシになって。」
って店のマスターに言われて
なったら、まわりじゅうからお酒がふるまわれて
それで、ベロンベロンになって酔ったら
さわりまくられて、裸にされたって。
手足を振り回して暴れまくったって。
たしかにはげしい気性をしてそうだった。
ぼくに
「芸術家だったら、売れなきゃいけません。」
「田中さんをけなす人がいたら、
 そのひとは田中さんを宣伝してくれてるんですよ。
 そうでしょ? そう考えられませんか?」
ぼくよりずっと若いのに、賢いことを言うなあって思った。
ひとつ目の言葉には納得できないけど。
26歳か。
CMの曲を書いたり
バンド活動もしてるって言ってたなあ。
CMはコンペだって。
コンペって聞くと、うへ〜って思っちゃう。
芸術のわからないクズのような連中が
うるさく言う感じ。
そうそう
作曲家っていえば
むかし付き合ってたタンタンも有名なアーティストの曲を書いていた。
聞いてびっくりした。
シンガーソングライターってことになってる連中の
多くがゴーストライターを持ってるなんてね。
ひどい話だ。
ぼくの耳には、タンタンの曲は、どれも同じように聞こえたけど。
そういえば
CMで流れていた
伊藤ハムかな
あの太い声は印象的だった。
そのR&Bを歌っていた歌手とも付き合ってたけれど
後輩から言い寄られて困ったって言ってたけど
カミングアウトしたらいいのに。
「きみはタイプじゃないよ。」って。
もっとラフに生きればいのに。
タンタンどうしてるだろ。


太郎ちゃんのコメント

懐かしい!! タンタン。
感じいいひとだったよね。
どーしてるかな!?


ぼくのお返事

宇多田ヒカルといっしょにニューヨークに行ったけど
すぐ帰ってきちゃったみたい。
そのあと
ぼく以前に付き合ってた俳優とよりを戻したとか。

そのあと
なんか、静岡だったかな
そこらへんのひとと付き合ってたってとこまでは聞いてるけど
いまは消息わからず。
タンタンをぼくに紹介した
30年来のオカマの友だちのタクちゃんと

いままでいっしょだったんだけど
タクちゃんと仲が悪くなって
連絡しても無視するわ
そんなこと言ってたかな。
ぼくんちに俳優のひと
いまはあまり見かけないけど
付き合ってた当時は売れてたわ
そのひとつれてきたこともあるんだけど
趣味悪いわ〜。
ぼくは玄関から出て行かなかったけど。

ぼくとよりを戻すために
その俳優つれてきたのね。
なんとか豊って名前だったわ。
精神的なゲイなんだって。
タンタンと付き合ってるときにも
セックスなかったって。
ただいっしょにいてるだけだって。
そんなひともいるんだね〜。

二〇一七年十一月八日 「ふるさと遠く」

日知庵から帰ってきた。ケンコバに似た青年がいた。ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』をまだ読んでいるのだが、さいごに収録されているタイトル作品を、きょうは読みながら寝ることにする。丹念に読んでいると思うが、テヴィスはあまり高く評価されていないようだが、すばらしい作家である。

二〇一七年十一月九日 「荒木時彦くん」

荒木時彦くんから詩集『NOTE 002』を送ってもらった。これまで、この詩人の構築する世界感は、現実的でもあるが、一部、非現実的なところがあるのが特徴であったが、この詩集では徹底的に現実的である。哲学的な断章ともとれる一面もある。知的な詩人の知的な詩集だ。

二〇一七年十一月十日 「秋亜綺羅さん」

秋亜綺羅さんから、ご本『言葉で世界を裏返せ!』を送っていただいた。ご本と書いて詩集と書かなかったのは、内容が詩集ではなくエッセー集であったためである。社会的な出来事を扱ったものが多いのも特徴で、とりわけ、ぼくにはその視点が抜けているので興味深く読んだ。

二〇一七年十一月十一日 「藤本哲明さん」

藤本哲明さんから、詩集『ディオニソスの居場所』を送っていただいた。軽快な口調で重たい内容がつづってあって、その点にまず目がひかれた。個人的な体験も盛り込んであって、そこのところの現実性に確信を持たせないところが、ぼくには逆に魅力的で不思議な読書体験だった。

二〇一七年十一月十二日 「ライス」

日知庵から帰ってきて、チューブで、お笑いを見てた。ライスというコンビのものがおもしろい。ゲイ・ネタもいくつかあって、不快感もないものだった。ストレートのつくるゲイ・ネタには、ときどき不快感を催させるものがある。ライスのは違った。

二〇一七年十一月十三日 「ふるさと遠く」

きのう、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』のさいごに収録されているタイトル作品を読んで寝るつもりだったのだが、きょう、送っていただいた詩集の読み直しをしていたので、読めなかったのだった。きょうこそ、タイトル作品「ふるさと遠く」を読んで寝よう。おやすみ。ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』の表紙絵。いまこんなすてきな表紙の文庫本てないよね。

二〇一七年十一月十四日 「出眠時幻覚すさまじく。」

ぼくの生家は田舎じゃなかったのに 田舎になっていて
でも、ぼくは近所に
先輩らしきひとといっしょに同居していて
その先輩が、なにかと、裸になりたがって
ぼくに迫ってくるっていうもの。
チンポコ丸出しで
パンツ脱いで
ぼくの顔におしつけてきて
「困ったもんですなあ」
を連発しているときに目が覚めた。
チンポコがほっぺたにあたる感触があって
びっくりした。
精神状態がちょっと乱れてるのかも。
その前に
その田舎の生家で
継母と暮らしていて
夜中に雨のなか
裸足になって
蛙を獲りに出かけるってシーンもあった。

二〇一七年十一月十五日 「アメリカ。」

ノブユキ
「しょうもない人生してる。」
何年ぶりやろか。
「すぐにわかった?」
「わかった。」
「そしたら、なんで避けたん?」
「相方といっしょにきてるから。」
アメリカ。
ぼくが28歳で
ノブユキは20歳やったやろうか。
はじめて会ったとき
ぼくが手をにぎったら
その手を振り払って
もう一度、手をにぎったら、にぎり返してきた。
「5年ぶり?」
「それぐらいかな。」
シアトルの大学にいたノブユキと
付き合ってた3年くらいのことが
きょう、日知庵から帰る途中
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「ごめんね。」
「いいよ。ノブユキが幸せやったらええんよ。」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
ノブちん。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
西大路松原から見た
月の光が思い出させてくれた。
アメリカ。
「どこの窓から見ても
 すっごいきれいな夕焼けやねんけど
 毎日見てたら、感動せえへんようになるよ。」
ノブユキ。
歯磨き。
紙飛行機。
「しょうもない人生してる。」
「どこがしょうもないねん?」
「ごめんね。」
「いいよ、ノブユキが幸せやったらええんよ。」
アメリカ。
シアトル。
「ごめんね。」
「ごめんね。」

二〇一七年十一月十六日 「キス・キス」

きょうから、早川書房の異色作家短篇集の再読をしながら寝る。きょうの晩は、第一巻の、ロアルド・ダールの『キス・キス』を再読する。2005年に再刊されたもので、ぼくは、それが出たときに読んだはずだから、10数年ぶりに読むことになる。ひとつも物語を憶えていない。おもしろいかな。どだろ。

二〇一七年十一月十七日 「The Wasteless Land.V」

さいきん、『The Wasteless Land.V』を買ってくださった方がいたようだ。Amazon での売り上げランキングが変わっていた。これは、100ページに至る長篇詩と30ページほどの長篇詩の2つの長篇詩が収められているもので、さいしょのものは、いつも行く日知庵が舞台である。

二〇一七年十一月十八日 「タワー・オブ・パワー」

ここ1週間ばかりのうちでは、めずらしくCDを聴いている。いま聴いているのは、タワー・オブ・パワーだ。やっぱりファンクもいい。つぎは80年代ポップスを聴こう。ぼくが20代だったころの音楽だ。ガチャガチャとうるさくて、チープな曲が多かった。ぼくもガチャガチャとうるさくて、チープだった。


二〇一七年十一月十九日 「キス・キス」

まだ、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』を読んでる途中。ほんとに、文字を読む速度が落ちている。きょうは、英語の字幕で韓国映画を半日みてた。韓国語ができればいいんだろうけれど、うううん。日本語の字幕があればもっとよいのだが、英語の字幕でもあるだけましか。

二〇一七年十一月二十日 「キス・キス」

日知庵からの帰り道、T・REXの曲を何曲か思い出しながら歩いてた。きょうも、寝るまえの読書は、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』のつづきを。きのう、『豚』の4まで読んだ。きょうは5から。

二〇一七年十一月二十一日 「さあ、気ちがいになりなさい」

さっき、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス』を読み終わった。きょうから、フレドリック・ブラウンの短篇集『さあ、気ちがいになりなさい』を読み直す。これまた、話を憶えていないものばかり。おもしろいかな。どだろ。

二〇一七年十一月二十二日 「暗闇のスキャナー」

いま日知庵から帰った。きのうは、ブラウンの短篇を3作、読んで寝た。きょうは、どだろ。それにしても、ことし読み直してる短篇集、読んだ記憶のあるものが少ないなあ。10作もないんじゃないかな。ディックでも読み直そうか。短篇じゃなく長篇を。『暗闇のスキャナー』を読んで、むかし、涙したな。

二〇一七年十一月二十三日 「現代詩」

河津聖恵さんがFBで、「現代詩とは?」といった問いかけをされてたので、ぼくは、こうコメントした。

ぼくの持っている CONTEMPORARY AMERICAN POETRY には、さいしょに Wiliam Stafford (b.1914) が入っていて、さいごに Ron Padgett(b.1942) が入っています。あいだに、ロバート・ローウェルやロバート・フライやアレン・ギンズバーグやジョン・アッシュベリーやゲイリー・シュナイダーやシルヴィア・プラスなどが入っています。これらは、ペンギン・ブックスですが、オックスフォード出版では 20th-Century Poetry & Poetics では、さいしょに、イエーツ (1865-1939) が入っていて、さいごは Tim Liburn(b.1950) で終わっています。ところで、「日本での戦後詩」という枠で、ある時代の詩を捉えることは、ぼくは以前からおかしいなと思っていました。しかし、語的には、戦後、発表された詩がすべて戦後詩かなあとは思います。語の厳密な意味からすれば、ということですが。一方、現代詩とは、いま現在、書かれている詩。おそらくは、過去、数年から十数年から現在まで、というスパーンあたりじゃないでしょうか。ぼくから見ると、橘上さんあたりが、現代詩の先鋒じゃないかなと思っています。いま思い出したのですが、イギリスで、第一次世界大戦のときに書かれた詩のアンソロジーがあったように記憶しています。ぼくは持ってないですけど。現代詩ねえ。ぼくは、過去、数年から十数年までが限界かなって思います。20年以上もまえに書かれたものを現代詩とは、ぼくは呼べないなあと思います。

二〇一七年十一月二十四日 「ごはん食べて、ずっと寝てた。これから塾。」

ふだんのストレスって
そうとうなものだったんだろうね。
学校がないと
寝まくり。
こんなに寝たのは、もう何年ぶりか
思い出せないくらい。
食べすぎで
眠たくなったんだろうけれど
ストレスがなくなったことがいちばんの原因だと思う。

二〇一七年十一月二十五日 「「タイタンの妖女」、「ガラパゴスの箱舟」、「ホーカス・ポーカス」。」

シンちゃんのひとこと。
夕方にシンちゃんから電話。
電話の終わりのほうで
さいきんのぼくの「●詩」は、どう? って訊いた。
「気持ち悪い。」
そうなんや。
「気持ち悪いって、はじめて言われた。」
「言わんやろうなあ。」
笑ってしまった。
さいきん、ヴォネガットを3冊ばかり読んでて
とてもむなしい気持ちになった。
なぜかしら、そのむなしさに、詩集をまとめろと促された気がする。
きょう、通勤の途中
徒歩で坂を上り下りしているときに
「マールボロ。」について考えてた。
あれはすべてシンちゃんの言葉でつくったものだったけれど
シンちゃんは「これは、オレとちがう。」
と言った。
このことは、ここにも何度か書いたことがあるけれど
ぼくが「マールボロ。」で見た光や、感じたものは
みんな、ぼくが見た光や、感じたものやったんやね。
見る光や、感じるもの、と現在形で言い表してもいいけれど。
他人の作品でも、そうなんやね。
自分を読んでるんやろうね。
ヴォネガット、むかしは好きじゃない作家だった。
20代で読んだときには、こころ動かされなかった。
http://jp.youtube.com/watch?v=MlPQDFjFOmA&feature=related
名曲ではないだろうけれど
韓国語も、ぼくにはわからないのだけれど
この曲が、きょう耳にしたたくさんの音楽のなかで
いちばん、こころにしみた。

ぼくがこれまで読んだことのある詩や小説の傑作中の傑作のなかの
どんなにすごい描写でも、この曲のなかにある
わずか数秒のシャウトの声に勝るものがないのは、なんでやろうか。

生の真実がどこにあるのか、わからないまま死んでしまうような気がするけれど
それに、そもそも、生に真実があるのかどうかもわからないのだけれど
ファウスト博士のように、「瞬間よ、おまえは美しい。」と言って
死ねればいいね。
そのときには、上の Rain の曲のように心地よい音楽が流れていてほしい。

土曜日に会った24歳の青年が、ぼくに訊いた。
「痛くない自殺の仕方ってありますか。」
即座に、「ない。」と、ぼくは答えた。
人好きのする好青年なのに。
なぜかしら、だれもがみんな死にたがる。
「おれ、エロいことばっかり考えてて
 女とやることしか楽しみがないんですよ。」
いたって、ふつうだと思うのだけれど
それが死にたいっていう気持ちにさせるわけではないやろうに。

きのう話をした青年には、ぼくのほうからこんなことを尋ねた。
「なにがいちばん怖いと思う?」
即座に、「人間。」という返事。
彼もまた、人好きのする好青年なのだけれど。
「ぼくも生きている人間がいちばん怖い。」
でも、なんで?
「嘘をつくでしょう。」

たしかに、自分自身をだますことも平気だものね。
でも、ぼくだって、嘘をつくことよりもひどいことを
平気ですることもあるんだよ。

なにかが間違っているのか
どこかが間違っているのか
いや、間違っているのじゃなくて
パズルのピースが合わないというのか
そんな感じがする。
ぴったり収まるパズルがあると思っているわけじゃないけど。

ふたりとも、悩み事などないような顔をしていた。
ふたりとも童顔なので、笑うと子どもみたいだった。
子どもみたいな無邪気な笑顔を見せるふたりの言葉は
ぼく自身の言葉でもあった。
もうどんな言葉を耳にしても、目にしても
ぼくは、ぼく以外のものの言葉を、耳や目にしないような気がする。
ヴォネガットを読むことは、ぼくを読むことで
いまさらながら、人生がむなしいことを再確認することに等しい。
でも、やめられないのだ。

二〇一七年十一月二十六日 「死んだ女の気配で目が覚めた。」

祇園の家の裏を夜に中学生くらいの子供たちが自分たちの親といっしょに
車に乗り付けてくる。
いま祇園の実家は、もうないのだけれど
それから日が変わるのかどうかわからないが
雨の夜、その子供たちが黒装束で家の裏をうろうろする。
ぼくは気持ち悪くなって
下の弟と黄色い太いビニールの縄を家の裏に
太い鉄のパイプのようなピケのようなものの間に張り渡す。
これで、子供たちが入ってこられないやと思って雨のなか
子供たちのいた方向に目をやると
黒いコートを着た死んだ女が立っていた。
彼女がなぜ死んだ女なのかはわからないけれど
死んでいることはわかった。
弟とすぐに家に戻った。
するとぼくはもう、ふとんのなかに横になってまどろんでいて
それにもう弟も子供ではなくて
当然ながら祇園の家での映像体験は
ぼくも若かったし弟も中学生ぐらいだったし
でも、もう、いまのぼくの部屋だから
ああ、もうそろそろ目がさめかけてきたなあと
なぜ弟はぼくの夢のなかで、いつも子供時代なのだろうかわからないけれど
と思っていたら
死んだ女の気配が横にして
ひゃ〜と思ったら
弟の子供時代の声の笑い声がして
それで、ぼくはなんや驚かしやがって、と思って
「なんや」と声を出したんだけど
出したと思ったんやけど
するとやっぱり、死んだ女が横にいる気配が生々しくして
怖くなって叫ぼうとしたら
声が出なくて
で、ぼくの身体も上向きから
その女に背中を向ける格好にぐいぐいとゆっくり押されていって
でも手は触れられていなくて
背中が何かの力で均等に押されて横になっていって
これから先は、どんな目に遭うのかと思ったら
手の先だけは動かせて
手元にあった電灯のリモコンを握って
スウィッチを押して明かりをつると
死んだ女の気配がなくなった。
死んだ女は、ぼくの母親でもなく
若い女だった。
知らない女で
顔もわからず、ただ若いことだけがわかった。
実体がある感じが生々しくて気持ち悪かった。
12時にクスリをのんで1時に寝た。
3時50分にいったん目がさめて
うつらうつらしていたのだが
また半覚醒状態で眠っていたみたいで
きのうもサスペンス映画のような夢を見たけれど
学校のなかで、ひとりの子供が人質になっていて
その子供を捜して学校中を探すのだけれど
探しているときに、ぼくの実母からのモーニング・コールで
目が覚めたのだ。
きょうの夢はひさびさに実体感のある肉体が横にいて気持ち悪かった。
クスリが効かなくなってきたのかもしれない。
クスリの効果が低くなると悪夢を見る。
クスリがないころには
つまり神経科医院に通院する前には
ずっと毎日、死者が出てくる怖い夢や、ぼくが人に殺されたりする
血まみれの悪夢の連続だった。
今年のはじまり、こんな夢で、とても心配だけれど
病気が進行している兆候だったとしたら
怖い。
きのう書かなかったけれど
おとつい
若い詩人を見送ったあとの記憶がなくって
目が覚めたら、ふとんのなかにいた。
ぼくはガレージのところで詩人を見送ったところまでは覚えているのだけれど
ふとんをひいた記憶などまったくなくって
これで、ことし、気を失ったり
記憶をなくしたりするのは、2度。
禍転じて福となればいいんだけれど。

二〇一七年十一月二十七日 「人間は人間からできている。」

吉田くんは、山本くんと佐藤さんと村上くんとからできている。
山本くんは脳なしだけど、佐藤さんはすこぶる腹黒い女で
村上くんは、インポテンツで、底なしの間抜けである。
吉田くんのモデルは、ぼくの高校時代のクラスメートである。
柔軟体操の途中で、首の骨がボキッってなったけれど
なんともなかったのは不思議だ。
人名を変えるぐらいの名言に出合う。
吉田くんのモデルには、予備校に勤めていたときの生徒の
吉田くんのイメージも付加されている。
人間の魅力は、どこにあるのだろう。
かしこさにあるのでもないし
ましてや、おろかさのなかにあるのでもないし
臆病さや、やさしさのなかにあるのでもないような気がする。
全体なんだけれど、あるとき、または、別のあるとき
あるとき、あるときの表情やしぐさや言葉が
ダブル・ヴィジョンのように
幾重にも重なって、ある雰囲気をつくるんだね。
でも、ときたま、その雰囲気をぶち壊されるときがあって
そんなときには、ほんとうにびっくりさせられる。
ことに、恋からさめた瞬間の恋人の表情とか言葉や行動に。
友人にも驚かされることがあるけれど
恋人ほどではないね。

二〇一七年十一月二十八日 「●ゴオガンの」

●ゴオガンの●菜の花つづく●あだし身に●きらめき光る●やは肌の●母●

●裂かれゐる●君が描く●うつくしき春●


剽窃先は

与謝野晶子ちゃんの

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

はてもなく菜の花つづく宵月夜母がうまれし国美くしき

斎藤茂吉ちゃんの

はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に

ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ

若山牧水ちゃんの

みづからのいのちともなきあだし身に夏の青き葉きらめき光る

正岡子規ちゃんの

うつくしき春の夕や人ちらほら

水原秋桜子ちゃんの

日輪のまばゆき鮫は裂かれゐる

君が描く冬青草の青冴ゆる

機械的につくったほうがいいかもね。
意味が生じるようにつくると
ありきたりな感じになっちゃうね。
もっと知識があれば、遊べるんやろうけれど
きょうは、ここまでで1時間くらいかかっちゃった。
疲れた。

二〇一七年十一月二十九日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」

はばたきやないのよ、まばたきなのよ〜!
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や
六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや
何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや
何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
円は演技し渦状する。
円は縁起し過剰する。
風のなかで回転し
水のなかで回転し
土のなかで回転する
もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる
なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる
冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる
真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。
笑。

二〇一七年十一月三十日 「犬が男便所で立ち小便しているところを想像して」

犬が男便所で立ち小便しているところを想像して
っていうやつ
まだタイトルだけなんやけど
って言ったら
ジミーちゃん
電話で二秒ほどの沈黙
ううううん
何か動きそうなんやけど
そうそう
自分のチンチンが持てないから
バランスがとれなくて
ひゃっひゃっ
って感じで
ふらふらしてる犬ってのは
どうよ!

二〇一七年十一月三十一日 「電車の向かい側に坐っていた老人が」

電車の向かい側に坐っていた老人が
タバコに火をつけて一服しはじめた
といっても
じっさいにはタバコを吸っているわけではなくって
タバコを吸っている様子をしだしたってことなんだけど
タバコを吸っている気になる錠剤を
さっき口にするのを目にしたんだけど
それがようやく効き目を現わしてきたんだろう
老人はさもおいしそうにタバコを味わっていた
指の間には何もなかったけれど
老人の指の形を見ていると
見えないタバコが見えてくるような気がした
老人は煙を吐き出す形に口をすぼめて息を吐いた
ふいに、左目を殴られた
いや、殴られた感触がしたのだ
わたしにも薬が効いてきたようだ
わたしはファイティングポーズをとった
隣の主婦らしき女性が幼い子どもの手を引っ張って
わたしから離れたところに坐りなおした
いまこそまことに平和で健康な時代なのだ
安心してタバコが吸える
ケガなくして拳闘できる
スリルと危険に満ちた文明時代なのだ