二〇一七年七月一日 「双生児」
いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパである。寝るまえの読書は、ここ数日間、読みつづけている、クリストファー・プリーストの『双生児』である。いま、ちょうど半分を切った267ページ目に入るところである。作者に騙された感じのあるところである。緻密なトリックを見破れるだろうか。
二〇一七年七月二日 「すごい眠気」
いま日知庵から帰ってきた。きょうはずっと寝てたけど、これから横になって寝るつもり。おやすみ。眠気のすごい時節だ。
二〇一七年七月三日 「双生児」
クリストファー・プリーストの『双生児』を読み終わった。歴史改変SFというか、幻想文学というか、その中間という感じのものだった。プリーストのものも、けっきょく、全作、日本語になったものは読んでしまったことになるのだが、記述が緻密なだけに読みにくく、おもしろさもあまりない。では、なぜ、そんなプリーストのものを読みつづけてきたのかといえば、イギリス作家特有の情景描写の巧みさから、学べるものがあるだろうと思っているからだ。
二〇一七年七月四日 「左まわりのねじ」
いま日知庵から帰ってきた。あしたは台風なんやね。ぼくは夕方からだけ仕事なので、どかな。影響あるかな。きのう、寝るまえに、A・バートラム・チャンドラーの『左まわりのねじ』を、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』で読み直した。記憶していたものより複雑なストーリーだった。寝るまえに、スカッとさわやかなものを読もうと思ったのだけれど、けっこう凝ったストーリーだった。記憶していたものは、とても短くて、あっさりした、それでいて、びっくりさせてくれるものだったので、けっこう複雑なストーリーで驚いた。記憶って、頼りにならないものなんだね。びっくり。
きょうも、この『ベストSF 1』のなかから、ひとつ選んで読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年七月五日 「荒木時彦くん」
荒木時彦くんが『NOTE 001』を送ってくれた。自殺の話のはじまりから死について、それから人生について書かれてあった。さいしょのページを除くと、うなずくところが多くあった。ぼくは自殺を否定しない派の人間だから、さいしょにつまずいた。荒木くんも作品で否定しているだけだろうけれど。完璧な構成だった。唐突なキャラの出現と行動もおもしろい。さいごの場面の建物と歴史のところは、はかない命をもつ人間に対する皮肉というか、その対比も、ひじょうにうまいなと思った。荒木時彦という詩人の書くものが、どこまで進化するのか、見届けてみたいと思う。齢とってるぼくが先に死ぬだろうけど。
きょうから読書は、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』。レムは、おもしろいものと、そうでないものとの差が激しいので、心配なのだが、これは、どうだろう。部屋にある未読の本が少なくなってきた。あと、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』と、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』と、マイリンクの『ゴーレム』と、ルーセルの『ロクス・ソルス』と、サリンジャーの短篇集の『倒錯の森』のつづきだけになった。これらを、たぶん、ことしじゅうに読み終えられるだろうけれど、そのあとは、再読していいと思っている作品群に手をつける。それが楽しみだ。寝るまえにSFの短篇を読み直しているのだけれど、そういった読書の楽しみと、それと、海外詩の翻訳の読み直しを大いに楽しみたいと思っている。とくに、ディラン・トマスの書簡集の読み直しの期待が大きい。英詩の翻訳も再開したい。ロバート・フロストの単語調べが終わってる英詩が4作ある。なかなか気力がつづかないぼくであった。
そだ。シェイクスピアやゲーテの読み直しもしたいし、長篇SFの再読もしたい。未読の本もまだあった。オールディスの『寄港地のない船』と、グレアム=スミスの『高慢と偏見とゾンビ』と、レムの『ロボット物語』と『宇宙創世記ロボットの旅』(これら2冊は読んだ可能性がある。わからないけれど)。ミステリーは、アンソロジー以外、P・D・ジェイムズの『高慢と偏見と殺人』しか本棚に残していない。詩を除くと、純文学は、岩波文庫以外、ラテンアメリカ文学しか残していない。SFが数多く残っている。これらの再読が楽しみだ。読んで、10年、20年、30年といった本がほとんどだ。読むぼくが変わっているはずだから、傑作として、本棚に残した数多くの本が、また新しい刺激を与えてくれると思う。56歳。若いときとは異なる目で作品を見ることになる。作品もまた、異なる目でぼくを見ることになるということだ。楽しみだ。
二〇一七年七月六日 「ヤング夫妻」
いま日知庵から帰ってきた。学校が終わって、塾が終わって、さあ、きょうはこれから飲むぞと思って日知庵に行ったら、あした、会う約束をしていた香港人ご夫婦のヤング夫妻と出くわしたのだった。きょう、日本に来て京都入りしたそうだ。ご夫妻の話はメモからあした詳しく書く。ご夫妻よりも、帰りの電車で出会った青年のことをいま書く。20代前半から半ばだろうか。ぼくがさいしょに付き合ったノブチンのような感じのおデブちゃんで、河原町駅からぼくは乗ってたのだけど、その子は烏丸から乗ってきて、めっちゃかわいいと思ったら、ぼくの横に坐ってきて、溜息をつきながらぼくを見たのだった。ええっ、ぼくのこと、いけるのって思ったけれど、ぼくもわかいときじゃないし、声をかけてもダメだろうと思って声をかけなかったのだけれど、西院駅で彼も降りたのだった。ぼくは真後ろからついていったのだけれど、駅の改札口から出てちょっと歩いたら、行く方向が違ってて、声をかけなかった。これが、ぼくが20代だったら、声をかけてたと思う。「きみ、かわいいね。ぼくといっしょに、どこか行く?」みたいなこと言ってたと思う。20代で、声をかけて、断られたの2回だけだったから。しかし、いまや、ぼくも50代。考えるよね。声をかけることなく、違う道を歩くふたりなのであった。しかし、息をつきながら、ぼくの目をじっと見つめてた彼の時間のなかで、ほんとうに、ぼくを見た記憶はあるのだろうかってことを考える。ただのオジンじゃんって思って見てただけなのかもしれない。だけど、ぼくはあの溜息に何らかの意味があると思いたい。思って眠る権利は、ぼくにだってあるはずだ。ああ、人生ってなんなんだろう。電車のなかで目が合った瞬間の記憶を、ぼくはいつまで保っていられるのだろう。そういえば、何年かむかし、阪急電車のなかで、仕事帰りに、かわいいなと思った男の子が、ぼくの顔を見てニコッとしてくれたのだけれど、ぼくは塾があったので、知らない顔をしてしまった。いまでも、その男の子の笑い顔が忘れられない。いや、顔自体は忘れてしまったけれど、笑って見つめてくれたことが忘れられない。そうか。ぼくはまだ笑って見つめ返してくれることがあったのだと思うと、人生って、何って思う。ぼくには不可解だ。ぼくはもうだれにも恋をしないと思うのだから、よけい。
あしたは神経科医院に朝に行って、夜は7時に日知庵で、香港人のヤング夫妻とお話をする。いまから睡眠薬のんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 寝るまえの読書はなんだろう。わからん。SFの短篇集を棚から引き出そう。二度目のおやすみ、グッジョブ! ああ、ヤング夫妻にお土産にお茶をいただいた。
PC付け直した。メモしていないこと書いとかなくちゃ忘れる。ヤング夫妻に、どうして、こんな暑い時期に日本に来たの? って尋ねると、香港はもっとウエッティーでホッターだと言ってた。そうか、ぼくは京都だけが、こんなに蒸し暑くてって思ってたから、目から鱗だった。これ、メモしてなかったー。
三度目のおやすみ、グッジョブ! ロバート・シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』ちょこっと読んだ。もうPC消して、ノブチンに似た、きょう阪急電車のなかで出会った男の子のこと考えながら電気決して横になる。あ〜、人生は、あっという間にすぎていく。すぎていく。それでいいのだけれど、涙。
二〇一七年七月七日 「ヤング夫妻」
いま日知庵から帰ってきた。香港人のご夫婦、ヤング夫妻と飲んでた。お金持ちのヤング夫妻にぜんぶおごっていただいて、なんだかなあと言ったら、「友だちだからね。」と言われて、ふうん、そうなのだ、ありがとうねと言った。次は、2020年に京都に来られるらしい。お金持ちの友だちだ。あ〜あ。
郵便受けに2冊の詩集が送られていたけれど、きょうは読むのは無理。あした、開けよう。楽しみだ。ぼくは、わかい人の詩集も読んで楽しいし、ぼくと同じくらいの齢の人の詩集も読んで楽しい。個人的な事柄が記載されてあるとき、とくに、うれしく感じるようだ。日記を盗み見る感じなのかな。どだろう。
曜日を間違えて学校に行くつもりで部屋を出た。駅に着く直前に、きょうは月曜日ではなかったのではと思い、携帯を見たら日曜日だったので帰ったのであった。ボケがきているのかな。短期的なただのボケだったらいいのだけど。
身体がだるくて、日知庵に行くまで、きょうはずっとゴロゴロ横になってただけだった。きょうはなにもする気がなくて、ただただゴロゴロ横になっていただけだった。どうして、やる気が出ないのだろう。もう齢なのかもしれない。2、3週間前に風邪を引いてからずっと気分が低調だ。歯を磨いて、クスリをのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年七月八日 「数式」
数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられているのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人間の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。
二〇一七年七月九日 「ノイローゼ」
嗅覚障害で
自分では臭いがしないのだけれど
まわりのひとが臭がっているのではないかと思い
きょうは、ファブリーズみたいなの買ってきました。
靴から服へとかけまくりました。
日光3時間照射より強い殺菌力だそうです。
自分で臭いがわかればいいのだけれど。
日知庵で料理を食べても
味だけで
匂いわからず。
まだ味覚があるだけ
幸せか。
嗅覚障害って
治らないみたい。
まだ味覚障害だったら
食べ物で改善できるみたいだけど。
しかし、齢をとると
けっこう多くなるみたい。
こわいねえ。
機械だって
古くなると傷んでくるよね。
ぼくも、膝とか足とか、つねに痛いし。
いもくんは腰だったよね。
ぼくも100キロあったときは
腰がしじゅう痛かった。
いまは朝起きて
背中が痛い。
なんちゅうことでしょ。
若さって、貴重だね。
その貴重な時間を
有効に使ったかなあ。
ばっかな恋ばっかしてたような気がする。
まあ、それで、いま詩が書けてるからいいかな、笑。
その思い出でね。
二〇一七年七月十日 「You are so beatiful」
いま、きみやから帰ってきた。きょうは、ビール何杯のんだか、わからない。まあ、5時過ぎからこの時間まで飲んでたのだ。飲みながら、考えることもあったのだが、あまり詩にはならないようなことばかり。いや、ぜんぶが詩かな。わからない。人生、ぐっちょぐっちょだわ。いまはもうクスリの時間かな。
ジョー・コッカーの『You are so beatiful』を聴いている。世界は美しい音楽と、すてきな詩と、すばらしい小説でいっぱいだ。それなのに、ぼくは全的に幸せだとは思えない。なぜなのだろう。欲が深いのかな。あしたから文学三昧の予定なのに、それほど期待していない自分がいる。
二〇一七年七月十一日 「鈴虫」
月影は同じ雲井に見えながら
わが宿からの秋ぞ変れる
このお歌は文学的の価値はともかくも、冷泉院のご在位当時と今日とをお
思いくらべになって、さびしくお思いになる六条院のご実感と見えた。
(紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)
同じように見えるものを前にして、自分のなかのなにかが変わっているように感じられる、というふうにもとれる。同じもののように見えるものを目のあたりにすることで、ことさらに、自分のこころのどこかが、以前のものとは違ったもののように思える、ということであろうか。あるいは、もっとぶっ飛ばしてとらえて考えてもよいのかもしれない。同じものを見ているように思っているのだが、じつは、それがまったく異なるものであることにふと気がついた、とでも。というのも、それを眺めている自分が変っているはずなので、同じに見えるということは、それが違ったものであるからである、というふうに。
二〇一七年七月十二日 「ずっと寝てた」
いま日知庵から帰った。きょうは、焼酎のロック2杯。で、ちょっとヨッパ。きょうも、寝るまえは、SF小説を読む予定だけど、シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』か、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』か、どっちかだと思うけれど、このレムのものは退屈だ。
いま日知庵から帰ってきた。きょうは、昼間、ずっと寝てた。暑くて、なにもする気が起きない。
二〇一七年七月十三日 「27度設定」
いま起きた。クーラーをかけないので、部屋がめっちゃ暑い。きょうは休みなので、はやい時間から日知庵に飲みに行こうかな。
いま日知庵から帰った。えいちゃんが、クーラーかけてみたらと言うので、かけてみる。咽喉がすぐにやられるのだが、どだろ。
27度設定にしてみた。かなりすずしい。これならふとんかけて眠れそう。これからは電気代をケチるのをやめて快適に過ごそう。ただし、咽喉がやられないように、咽喉にきたら、すぐにクスリをのもう。
27度は快適なのだが、咳が出てきた。風邪をぶりかえすといけないので、寝るまえにクーラーを消そう。考えものだな。
二〇一七年七月十四日 「芭蕉」
ときどき詐欺の疑いのある雑誌掲載の電話がかかってくる。ぼくがいままで書いた雑誌では、電話での原稿依頼は、一度としてなかった。内容は「芭蕉」の特集だというので、そこまで聞いて断った。芭蕉についてはほとんど知らないからだ。ぼくのことを知っていたら、「芭蕉」で原稿依頼はしないだろう。
二〇一七年七月十五日 「カサのなか/アハッ」
いま日知庵から帰った。8月に文学極道の詩投稿欄に投稿する作品をきめた。両方とも、ぼくが中学卒業のときの文集に書いたものだ。両方とも、その十数年後に、ユリイカの投稿欄に投稿したら、そのまま、他の1作とともに、同時に3作品掲載されたものだ。1990年5月号、オスカー・ワイルド特集号。
カサのなか
カサのなかでは
きみの声がはっきりと聞こえる
雨はフィルターのように
いらないものを取り除いてくれる
ぼくの耳に入ってくるのは
ただきみの声だけ
アハッ
雨のなか、走ってきたよ
出された水をぐっと飲み込んで
プロポーズした
でもきみは
窓の外は目まぐるしく動いているから
せめてわたしたちはこのままでいましょうねって
アハッ
バカだな、オレって
スタニスワフ・レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』あまりにたいくつな読み物なので、流し読みしている。ぼくの本棚には残さないつもりだ。
いま日知庵から帰った。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年七月十六日 「葛西佑也さんと橋場仁奈さん」
葛西佑也さんから、詩集『みをつくし』を送っていただいた。まず、散文詩と改行詩がまざったもの、改行詩だけのものと、形式に目がとまった。つぎに、実景の部分がどれくらいあるかと思って読んでみた。意外に多くあるのかもしれないと思った。自分の第一詩集と比較して、より複雑な詩だなと思った。
橋場仁奈さんから、詩集『空と鉄骨』を送っていただいた。すべて改行詩。平均すると、一行が、ぼくが書くものより長い。たぶん、ブレスで切らないで、意味で切っているからだろう。読んでいて意味がいっこうに入ってこなかったが、そういう詩があってもよいと思う。詩は意味だけではないからね。
「Down Beat」 と、「洪水」という詩誌を送っていただいた。ぼくと同じくらいの齢のひとの書くものに共感するし、年上の方の書かれるものにも共感する。若い書き手は、なにを書いてもよい時期なのだろう。意味はよくわからないが、自由でよいと思う。書く気力が、どの作品からも伝わってくる。
二〇一七年七月十七日 「高知から来られたご夫婦」
いま日知庵から帰った。高知から来られたご夫婦の方と、2回目の出合い。オクさんもかわいいのだけれど、ダンナさんがかわいらしくて、そのダンナさんに気に入ってもらって、ツーショットで写真を撮ってもらったりしたのだけれど、こんどひとりで来ますねと意味深な一言が、笑。かわいらしい人だった。
そいえば、ぼくは自分のほうから名前を聞いたりするタイプじゃなかったので、きょうも、かわいいなと思いながらしゃべっていた青年の名前を聞き損ねてしまっていた。まあ、いいか。つぎに会ったときに、聞けばいいから。それにしても、彼も、ぼくのことを気に入ってくれてたので、うれしい。
二〇一七年七月十八日 「J・G・バラード自伝『人生の奇跡』を買ってメモしまくり。」
といっても
バラードの自伝を読んで、ではなく。
朝、西院にあるキャップ書店で、バラードの自伝が
新刊本のところにあったので買った。
財布には1000円札1枚と
ポケットに1500円ほどの硬貨が入っていた。
きのう、小銭を持って出るのを忘れて
近くのスーパー「お多福」で食パンとお菓子を買ったせいで
きょうのポケットは
小銭がいつもより多かったのだった。
バラードの本の値段を見ると
2200円と書いてあったので
ああ、これを買うと昼ごはんは抜きかも
と思いながらも、昼ごはん抜いてもはやく手に入れたい
という気持ちが働いて
レジに持っていくと
「2310円です。」
という店員の女の子の明るい声に
ありゃ〜、税金のこと考えてなかったわ
と思いつつ
1000円札1枚とポケットの小銭を合わせて
ちょうど2310円を支払って
カードは持ち歩かないので、銀行には行かず
本を買って、そのまま阪急西院駅に向かったのだった。
で
電車がくるまで2、3分あったので
本のあいだにはさまれてあった
新刊本の案内のチラシを眺めることにしたのだけれど
そしたら、このあいだ朝に見た
バカボン・パパに似たサラリーマン風のひとが読んでいた
小林泰三の本が載っていた。
タイトルは、『完全・犯罪』だった。
「完全」と「犯罪」のあいだに
「なかてん」があったのであった。
このこと、このチラシを見なかったら
いつまでも気がつかなかったと思う。
日本人の書いた小説を読むことはほとんどないし
日本人の作家のコーナーにも行ったことがなかったし。
古典から近代までのものはべつにしてね。
偶然だなあって思った。
そういえば、このあいだ、小林泰三さんの本について書いたら
ミクシィをなさってらっしゃるみたいで
ご本人が、そのときのぼくの日記をごらんになってて
足跡があったし
で
ぼくがメッセージしたら
お返事くださいました。
おもしろいね。
偶然ってね。
あのバカボン・パパは
その後、見かけないのだけれど
偶然ってあるしね。
いつか、どこか違うところで出会ったりして。
出会いたい
出会いたいなあ
あ
いつも見かけるおばさまには
いまでもいつも出会うのだけれど、笑。
で
たくさんのメモというのは
フローベールの『紋切型辞典』を読んでて取ったメモなんだけど
きょうは、これからテスト問題を考えなきゃならないので
あしたか、あさってか、しあさってにでも大量に書きこみます。
バカボン・パパかあ。
かわいかったなあ、笑。
そうだ。
バラード自伝
解説の巻末に
未訳の長篇2作が
近日発売予定だと書いてあって
小躍りした。
めっちゃ楽しみ。
二〇一七年七月十九日 「倒錯の森」
いま日知庵から帰った。きのう、寝るまえに読んだサリンジャーの短篇集『倒錯の森』の「ブルー・メロディー」が、黒人差別を扱っていて意外な気がした。サリンジャーの小説でこんなにまっすぐに黒人差別に向かった作品を読んだことがなかったので。ジャズを題材の作品でさいごの描写も繊細でよかった。
きょうの寝るまえの読書は、タイトル作品の「倒錯の森」 おもしろいかな。どだろ。
二〇一七年七月二十日 「ベストSF 1」
いま、日知庵から帰った。きょうは、大人の会話がさいごに行き渡った。ちんこ臭と、まんこ臭についてだが、これは、ツイッターに書けないので、と思ったけれど、書く。それが詩人だ。まんこ臭については、ぼくはわからないが、成人男子お二人のご意見によると、すごいらしくて、スカートを履いてても臭うらしい。えげつない臭いらしいが、ぼくは嗅いだことがない。チンコ臭のほうだが、これは成人男子お一人のご意見だが、権威的なお方なので、貴重なご意見だと思って拝聴した。汗の臭いと違って、ちんこの臭いがするらしい。ズボン履いててもね。ぼくには信じられないけれど、権威のご意見だからね。ええ、そうなんだって言ったら、えいちゃんが「そんなこと、ツイッターに書いたら、あかんで。」と言うので、書くことにした。「腋臭の男の子と付き合ったけれど、慣れるよ。」と言ったのだけれど、反対意見の方が多かった。ぼくは腋臭の男の子と10年付き合ってたからね。顔がかわいければいいのだ。
きのう、寝るまえは、サリンジャーの「倒錯の森」ではなくて、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』の、ベン・ボーヴァの「十五マイル」と、フレッド・ホイルの「恐喝」を読んだ。SFの短篇の方がおもしろい確率が高いからなのだが、きょうも寝るまえは、やっぱ、SFの短篇にしようかな。と書いた時点で、もう、フレッド・ホイルの「恐喝」の内容を忘れている。ものすごい忘却力だ。
河野聡子さんから詩集『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』を送っていただいた。かわいらしい装丁で、なかのページもカラーリングしてあって、そのデザインと、さまざまな大きさのフォントで書かれている言葉の内容が絶妙にマッチしていると思った。貴重な1冊を、ありがとうございました。
8月に文学極道に投稿する2つの作品は、中学校の卒業文集に書いたものなので、14、5歳のときのぼくのことが批評されるのか、それを56歳になって投稿するぼくのことが批評されるのか興味深い。そう考えると、つくった時期と発表する時期が大幅に違うとき、批評家はどういう態度で挑んでいるのか。
二〇一七年七月二十一日 「ピーターさん」
いま日知庵から帰った。カナダ人の知り合いの話から、お金持ちと小金持ちの違いについて考えた。合気道や空手をなさっている巨漢のカナダ人のピーターさんは、日本に22歳のときにいらして、それから24年のあいだ、日本にいらして、日本文化を学ばれて、今では、日本文化を海外の方たちや日本の人たちに教える仕事をなさっておられるのだけれど、そのピーターさんが11、2歳のころのお話。カナダで、お金持ちの弁護士の家でクリスマスパーティーがあったとき、ムール貝が出てきたので、食べたら、そこの親父さんに叱られたのだそうだ。それは子どもの食べるものではないと言われて。ピーターさんちは小金持ちだったそうで、ムール貝などいくら食べてもよかったらしい。お金持ちほど、子どもに厳しいんだろうね。という話を、きのう日知庵でしたのであった。子どもに厳しいと言うか、大人の領分と、子どもの領分をきっちり分けているということなのだろうね。
いま日知庵から帰った。日知庵に電話があったのだけれど、ワンコールで切れた。「ひととの縁のように、簡単に切れるんやね。」と、ぼくが言うと、えいちゃんと、何人かの客から、「こわ〜。」と同時に返事があった。そだよ。こわいんだよ。とにかく、生きている人間がいちばん。
二〇一七年七月二十二日 「倒錯の森」
サリンジャーの「倒錯の森」の122ページ上段8、9行目に、「詩人は詩を創作するのではないのです━━詩人は見つけるのです」刈田元司訳)という詩人のセリフがあって、ぼくもそんなふうに感じていたので共感した。ぼくのつくり方っていうのも、ほとんどみな、そんな感じだったから。
二〇一七年七月二十三日 「倒錯の森」
いま日知庵から帰った。大きな料亭の店主の鈴木さんから、えいちゃんと、あっちゃんと、カラオケ行きたい。あっちゃんのビートルズが聞きたいと言われて、うれしかった。きょう、昼間、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のタイトル作を読み終わって、やっぱりサリンジャーはうまいなあと思った。ばつぐんに、頭がいいんだよね。
二〇一七年七月二十四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」
横にあった
ボディー・ソープの容器の
後ろに書いてあった解説書を読んでいて
ふと、ううううん
これはなんやろ
なんちゅう欲求やろかと思った。
読書せずにはいられない。
いや
人間は
知っていることでも
一度読んだ解説でもいいから
読んでいたい
より親しくなりたいと思う動物なんやろか。
それとも、文字が読めるぞということの
自己鼓舞なのか。
自己主張なのか。
いや
無意識層のものの
欲求なのか。
そうだなあ。
無意識に手にとってしまったものね。
二〇一七年七月二十五日 「銀竹」
いま、きみやから帰ってきた。さとしちゃんの友だちのポールが書道を習っていて、「銀竹」って、きょう書いてきたらしいのだけれど、そんな日本語、ぼくは知らないと言うと、さとっちゃんが目のまえで調べてくれて、俳句の季語にあった。夕立のことだって。ああ、でも、いつの季節か忘れちゃった〜。というか、そんな日本語、ぼくも知らないんだから、俳人って、よほど、日本語が好きなんだろうね。というか、漢字が好きなのか。なんだろ。わかんないや。ふつうに使う言葉じゃないことだけは確かだよね。まわりのひと、みんな知らなかったもの。
へきとらのチューブを見てる。へきほうという男の子が、むかし付き合ってた男の子に似ていて。こういうのは、なんていうのかなあ。ぼくももう56歳だし、その男の子も40超えてるし、なんというか、さいきん、ぼくが文学に対して持ってる支持力と近い感じがするかな。意地力というか。意地というか。
二〇一七年七月二十六日 「余生」
いま日知庵から帰ってきた。きょうは、うなぎの丑の日ということで、日知庵で、うな丼を食べた。おいしかった。赤出汁もおいしかった。
未読の本が残り少なくなってきた。また、未読のものを読んでも、おもしろくなくなってきた。たくさん読んできて、ほとんどいかなる言葉の組み合わせにも、これまたほとんどまったく驚かなくなってきた。詩人としては致命的な現象だけれど、人間としては、落ち着いてきた、ということなのかもしれない。まるでひとと競争でもしているように、作品を書いてきたのだけど、もうほかのだれかと競争しているような気分でもないし、余生は読んできたもののなかで、傑作と思った詩や詩集や小説を読んでいられれば、しあわせかなと、ふと思った。
詩をつくることは、なにかいやしいことでもしているかのように思える。
二〇一七年七月二十七日 「読書」
いま日知庵から帰った。おなか、いっぱい。なんか読むものさがして読もうっと。もう読みたいと思わせるものが未読のものでなくなってしまった。読んだもののなかから適当なものを選ぼう。と、こういうような齢になっちゃったんだな。というか、これまでに膨大な読書のし過ぎという感じもする。
その膨大な読書のために、最低の時間ですむ労働を選んだのだけれど、その最低の時間ですむ労働さえも、さいきんは、しんどい。きょうも、塾で、ある先生に、「そうとう疲れておられますね。」と言われた。そんなゾンビな顔をしていたのだろう。まあ、自分でも、そうとう疲れていると思っているものね。
二〇一七年七月二十八日 「犬を飼う」
いま日知庵から帰った。
犬を飼っちゃいけないマンションで犬を飼ってたら、透明になっちゃった。きっと見えないようにって思ってたからなんだろうね。
二〇一七年七月二十九日 「お茶をシバキに」
植木鉢に、四角柱や三角錐やなんかの立体図形を入れて育てている。でも、すぐに大きくなれって念じたら、それぞれの図形が念じた通りに大きくなってくれるから、とても育てがいのある立体図形たちだ。
腕くらいの太さの輪っかを六つ重ねてそれをまた輪っかで結びつける。それを詩の土台として飛び乗ると、膝から直接、床に落ちて、めっちゃ痛かった。
これから大谷良太くんとお茶をシバキに。
いま帰ってきた。これから飲みに行く。
二〇一七年七月三十日 「短時間睡眠」
いま、日知庵→きみやの梯子から帰ってきた。あしたは、一日、ぼけーっとしてるはず。おやすみ、グッジョブ!
いま目がさめた。何時間、寝てたんだろう。時刻をみてびっくりした。わずか2時間。
二〇一七年七月三十一日 「文法」
わたしは文法である。
言葉は、わたしの規則に従って配列しなければならない。
言葉はわたしの規則どおりに並んでいなければならない。
文法も法である。
したがって抜け道もたくさんあるし
そもそも法に従わない言葉もある。
また、時代と場所が変われば、法も違ったものになる。
また、その法に従うもの自体が異なるものであったりするのである。
すべてが変化する。
文法も法である。
したがって、時代や状況に合わなくなってくることもある。
そういう場合は改正されることになる。
しかし、法のなかの法である憲法にあたる
文法のなかの文法は、言葉を発する者の生のままの声である。
生のままの声のまえでは、いかなる文法も沈黙せねばならない。
超法規的な事例があるように
文法から逸脱した言葉の配列がゆるされることもあるが
それがゆるされるのはごくまれで
ことのほか、それがうつくしいものであるか
緊急事態に発せられるもの
あるいは無意識に発せられたと見做されたものに限る。
たとえば、詩、小説、戯曲、夢、死のまえのうわごとなどがそれにあたる。
選出作品
作品 - 20191209_240_11606p
- [優] 詩の日めくり 二〇一七年七月一日─三十一日 - 田中宏輔 (2019-12)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
詩の日めくり 二〇一七年七月一日─三十一日
田中宏輔