選出作品

作品 - 20191104_730_11541p

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詩の日めくり 二〇一七年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年五月一日 「もろもろのこと。」

 だいぶ本を処分したんだけど、またぼちぼち本を買い出したので、本棚にかざる本をクリアファイルで四角く囲んでカヴァーにして立ててかざれるようにしてるんだけど、そのクリアファイルがなくなったので、西院のダイソーにまず寄って、108円ジャストを払ってA5版の透明のクリアファイルを買った。
 それからブレッズ・プラスに行って、ホットサンドイッチ・セットを注文して(税込628円だったけど、200円の割引券を使ったので、426円)飲み物はダージリンティーのアイスで、喫茶部の席が1席しか空いてなかったので、さきにバックパックとさっき買ったばかりのクリアファイルを置いておいて料金を払った。ここでも、ぴったし426円を払った。坐ってクリアファイルを袋から出して状態を調べていると(曲がりがあったりしていないかどうかとかね)隣の席にいたおばあさん二人組の会話が聞こえてきた。月曜日の3時過ぎって、気がつけば、おばさんと、おばあさんたちばかりだった。おじさんやおにいさんの姿はひとつもなかった。で、隣に坐っていたおばあさんのひとりが、相手のおばあさんに、こんなことしゃべっているのが耳に聞こえてきたのであった。「隣の娘さんとは、小さいときには口をきいたけど、もう学生やろ。そんなんぜんぜん口なんかきいてへんねんけど、いま美容院の学校に行ってはんねんて。将来、美容院にならはるらしいわ。」って。それ、美容院の店員の間違いちゃうのんってツッコミ入れたくなったけど、なんか髪形がダダみたいな感じで、化粧の濃い迫力のあるおばあさんだったから黙ってた。黙ってたけど、これ、メモしとかなければならないなと思って、その場でメモしてた。
 ホットサンドだけではおなかがいっぱいにならなかったので、帰りに松屋に寄って、牛丼のミニを食べた。240円やった。このときは、250円を自販機に入れて10円玉一個のお釣りを受け取った。このとき小銭入れにジャスト240円あればよかったのになあって、ふと思った。まあ、どってことないことやけど。
 そや、クリアファイルで、立てられるブックカヴァーつくろうっと。いま、サンリオSF文庫のをつくってる。すでにつくってあるのは、ミシェル・ジュリの『熱い太陽、深海魚』、フィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』と『ヴァリス』、ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の4冊。これからつくるのは、ミシェル・ジュリの『不安定な時間』、ロバート・シルヴァーバーグの『内側の世界』と『大地への下降』、アントニイ・バージェスの『アバ、アバ』、ボブ・ショウの『眩暈』、ゴア・ヴィダルの『マイロン』、シオドア・スタージョンの『コスミック・レイプ』、ピエール・クリスタンの『着飾った捕食家たち』、トマス・M・ディッシュの『歌の翼に』、フリッツ・ライバーの『バケツ一杯の空気』、マーガレット・セント・クレアの『どこからなりとも月にひとつの卵』、ボブ・ショウの『去りにし日々、今ひとたびの幻』、シオドア・スタージョンの『スタージョンは健在なり』、トム・リーミイの『サンジィエゴ・ライトフット・スー』。いまからつくる。ぜんぶつくれるかどうか、わからないけど、がんばる。つくり終わった。これから、フィニイの短篇集のつづきを読む。

二〇一七年五月二日 「永遠」

 いま、ジャック・フィニイの短篇集『ゲイルズバーグの春を愛す』のさいごに収録されている「愛の手紙」を読み終わったところ。さいごの二行を読んで、涙が滲んでしまった。齢をとると涙腺がほんとに弱くなってしまうのだな。永遠の思い出のためにって、まだ永遠なんて言葉に感動するぼくがいたんやね。

二〇一七年五月三日 「ゆ党」

 いま日知庵から帰った。国立大学出身・一級公務員の女子(30数歳)から聞いた話。「与党、野党があるんだったら、ゆ党もあればいいと思いません?」と言われて、「えっ、なんのこと?」と尋ねたぼくに、「やゆよですよ。よ党、や党でしょ? ゆ党ってあってもいいと思いません?」笑うしかなかった。

二〇一七年五月四日 「時間」

 なぜ時間というものがあるのだろう? 時間がなければ、見ることも聞くことも感じることもできないからだろう。見ることができるために、聞くことができるために、感じることができるために、時間が存在するのである。

二〇一七年五月五日 「真珠」

 日知庵に行くと、ほぼ満席で、空いてるところは一か所だけだったのだけれど、奥のカウンター席だったのだけれど、そこに坐ってからお店のなかを見回すと、入り口近くのカウンター席に、植木職人24歳の藤原くんが腰かけていて挨拶したら、その隣に坐ってらっしゃる方も存じ上げていた方だったのでご挨拶したのだけれど、そうそう、その方、大石さんて、えいちゃんに呼ばれてらっしゃったのだけれど、御年76歳で、剣道6段の方で、ご自分で道場もお持ちらしくって、その二人の隣の席が空いたときに、ぼくは移動して3人でしゃべっていたのだけれど、前のマスターの亡くなられたことが話題になったのかな、前のマスターは78歳で亡くなったと思うのだけれど、死の話が出て、いったいいくつくらいで人間は死ぬのでしょうねとか話してたら、大石さんが、「このあいだ、うちの道場にきてた73歳の方が、道場を掃除し終わった瞬間にぽっくり亡くなられましたよ。」っておっしゃったので、「その掃除が心臓に負担になって亡くなったんじゃないですか?」と言うと、大石さんは笑ってらっしゃったけれど、藤原くんが、「田中さん、エグイっすね。」と言うので、「ほら、日本人って背中を曲げてお辞儀をするじゃない? あれもそうとう心臓に悪いらしいよ。外国人は背中は曲げないしね。」とかとか話してた。大石さん、あとで店に来た女性客のことが気に入られたのか、名刺を渡されたのだけれど、ぼくの目のまえを名刺が手渡されたので、ちらっと見たのだけれど、真珠のデザイン会社をなさっておられるらしく、曲がった真珠の指輪をなさっておられて、その女性客がしきりと感心していた。ハート型の真珠だったのだ。ぼくは、「ああ、バロックだな。」と言ったのだけれど、ぼくの意見は無視されてしまって、大石さんと女性客(このあいだ話題にした某国立大学出の公務員だ)のあいだで、その真珠のとれた外国の話で盛り上がっていた。どこの国だったか、腹が立っていたので記憶していない。

二〇一七年五月六日 「原 民喜」

 原 民喜は、青土社から出ていた全集で(二冊本だったかな)読んでいて、ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』に収録している詩に、数多くの文章を引用しているが、日本語のもっとも美しい使い手だと、いまでも思っている。民喜のもの以上に美しい日本語の文章は見たことがない。

二〇一七年五月七日 「パロディー」

 日知庵で飲んでいると、知り合いが増えていって、話がはずんでいたのだけれど、女性客3人組が入ってきて、カウンター席に坐ってマシンガントークをはじめたのだけれど、こんなん言ってたから、メモした。「あたし、とつぜん夜中の12時に唐揚げが揚げたくなって、それからしばらく唐揚げ揚げっぱなしやってん。」「このあいだドアに首が挟まっててん。寝てて目が覚めたら、上を見たら、ドアの上のところやってん。寝ているうちに、ドアに首が挟まっててんな。」いったん、ぼくは、日知庵を出て、きみやに行ったら休みだったので、も一度、日知庵に行ったら、ぼくがいないあいだに、ぼくの噂をしていたみたいで、ぼくがカウンター席の端に腰を下ろしたら、女性客3人組のうちのひとり、あのドアに首を挟まれてた彼女が、ぼくの隣に腰かけてきて、それから彼女が指を見せてきて、「あたし、指紋がないのよ。着物を扱ってるから。」と言うので、「印刷所に勤めているひとにも、指紋のないひとがいるって本で読んだことがありますよ。」と返事したりしていた。彼女はいまは着物を扱う仕事をしているみたいだけど、以前は塾で国語を教えていたらしくて、漢文の話になったのだけれど、ぼくは漢文がぜんぜんできないので、話を『源氏物語』の方向にもっていった。源氏物語なら、2年ほどかけて読んだことがあったので。与謝野晶子訳でだけれども。まあ、よくしゃべる、陽気な、しかも、大酒飲みの女性だった。ぼくは、彼女たちよりも先に勘定をすまして日知庵を出たのだけれど、11時30分に送り迎えの車がくるという話だった。送り迎えするのは、彼女たちが属している楽団の一員で、ぼくも知ってる人物だけれど。いや〜、やはり、日知庵ですごす一日は濃いわ。けっきょく、ぼくも、5時から11時くらいまでいたのだけれど、阪急電車に乗ったのが、11時5分出発の電車だったから、出たのは、11時ちょっとまえか。でもまあ、長居したな。焼酎のロックを2杯と、生ビールを4杯か5杯くらい飲んでる。

 ところで、日知庵で、原 民喜の詩を思い出していたのだけれど、まだ、買ったばかりの岩波文庫の『原民喜全詩集』のページもまったく開いていなかったときのことだけれど、5時過ぎのことね、民喜の詩のパロディを考えたのであった。こんなの。


コレガろぼっとナノデス

コレガろぼっとナノデス
原発事故デメチャクチャニナッタ原子炉ヲゴラン下サイ
ワタシハココデ作業ヲシテイマス
男デモナイ女デモナイ
オオ コノ金属製ノ躰ヲ見テ下サイ
壊レヤスク造ラレテハイナイケレドイツカ壊レル
コレガろぼっとナノデス
ろぼっとノ躰ナノデス


メモには、こう書いてた。さっき書いたのは、じつは、民喜の詩を参考にしたものであったのだ。ぼくは嘘つきだね。


僕ハ人間デハナイノデス

僕ハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業シテイルノデス
血管ガナイノデ血ハ出マセンシ
故障シテモゼンゼン痛クモアリマセン
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業シテイルノデス
僕ハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス


これは、こうしたほうがいいな。


コレハ人間デハナイノデス

コレハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業ヲシテイルノデス
血管ガナイノデ血ハ出マセンシ
故障シテモゼンゼン痛クモアリマセン
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業ヲシテイルノデス
コレハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス

二〇一七年五月八日 「肉吸い」

 イオンに行ったら、イタリアンレストランがつぶれてて、しゃぶしゃぶ屋さんになってた。そこで、しゃぶしゃぶ食べたことあるのに、すっかり忘れてた。レストランのところからフードコートのコーナーに行って食べることにした。はじめて行った店だった。肉問屋・肉商店という店で、そこで、なにがおいしそうかなって思って看板見てたら、カルビ丼と肉吸いセットっていうのがあって、肉吸いって、大宮の立ち飲み屋で食べたことがあって、おいしかったから、ここでもおいしいかなって思って注文した。980円だったけれど、税金を入れると1058円だった。おいしかったけど、ちと高いかな。
 さて、部屋に戻ってきて、コーヒーも淹れたので、これから読書に戻る。河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』あと2篇。きょうじゅうに読めるな。時間があまったら、岩波文庫の『大手拓次詩集』のつづきを読む。というか、時間、完全にあまるわな。詩集の編集は、きょうはしない。河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』読み終わった。これには、2カ所、クラークの短篇集『天の向こう側』には、4カ所、ルーズリーフに書き写したい文章があるが、いまはせずに、つづけて、岩波文庫の『大手拓次詩集』のつづきを読むことにする。ルーズリーフ作業は、べつに、きょうでなくてもよい。『ドラキュラ ドラキュラ』のBGMはずっとプリンスだった。『大手拓次詩集』では、EW&Fにしようかな。いや、やっぱり暗めのほうがいいかな。いやいや、EW&Fのファンキーな音楽で「大手拓次」を読んでみるのも、おもしろいかもしれない。「大手拓次」と「EW&F」の組み合わせもいいかも。ぼくの悪い癖が出てる。エリオットでも笑っちゃったんだけど、大手拓次のものでも、まじめに書いてあるところで笑ってしまうんだよね。ぼくの性格というか、気質の問題かもしれないけれど。エリオットの『荒地』なんて、笑うしかない、おもしろい詩集だと思うのだけれど、だれも笑うなんて書かないね。

二〇一七年五月九日 「言葉」

ぼくが言葉をつなぎ合わせるのではない。
言葉がぼくをつなぎ合わせるのだ。

二〇一七年五月十日 「ウルフェン」

 きのう寝るまえに、サリンジャーの『マディソン街のはずれの小さな反抗』(渥美昭夫訳)を読んだ。なんの才能も、とりえもない平凡な青年と、これまた平凡な女性との、ちょっとした恋愛話だった。平凡さを強調する表現があざとかったけれど、さすがサリンジャー、さいごまで読ませて、笑かせてくれた。学校の授業の空き時間と通勤時間には、ホイットリー・ストリーバーの『ウルフェン』(山田順子訳)を読んでいたのだが、これが初の長編作品かと思われるくらい、おもしろくって、描写に無駄がなくて、会話もウィットに富んでいるし、きょうだけで、153ページまで読んだ。半分近くである。

二〇一七年五月十一日 「闇」

このぼくの胸のなかに灯る闇を見よ。
ぼくの思いは、輝く闇できらめいているのだ。
彼のことを、ぼくの夜で、すっぽりと包み込んでしまいたい。
ぼくのこころからやさしい闇でできた夜で。

二〇一七年五月十二日 「うみのはなし」

 いま、郵便受けを見たら、橘上さんから、詩集『うみのはなし』を送っていただいていた。さっそく読んでみた。とてもよい詩集だと思った。

二〇一七年五月十三日 「薔薇の渇き」

 いま学校から帰った。ストリーバーの『薔薇の渇き』たしかに、『ウルフェン』ほど興奮して読まないけれど、表現が的確で、かつ簡潔なので、ひじょうに勉強になる。もちろん、おもしろい筋書きだ。名作である。『ラスト・ヴァンパイア』を読んで捨てたけど、もう一度、Amazon で買い直そうかな。

二〇一七年五月十四日 「河村塔王さん」

 来々週の土曜日、5月27日に、河村塔王さんと日知庵でお会いする。ひさびさだったかしらん。1年か、2年かぶりのような気がする。本に関する、というか、言葉に対する、現在もっとも先鋭的な芸術活動を行ってらっしゃるアーティストの方だ。言葉について関心のある人で知らない人などいないだろう。そういう最先端の方が、ぼくの作品に興味をもってくださっているということが、ぼくにはなによりもうれしいし、誇りに思っている。がんばらなくては、という気力が奮起させられる。いや、ほんと、がんばろうっと。きょうは、ルーズリーフ作業をする日にしていた。作業をしよう。目のまえに付箋した本が5冊あって、いま読んでいるストリーバーの『薔薇の渇き』も付箋だらけである。ああ、ほんとうに、ぼくが知らない、すばらしい表現って、まだまだたくさんあるのだな。ぼくの付箋━ルーズリーフ作業も一生、つづくのだな。もうこの齢になるとライフワークばかりになってしまった。みんなライフワーク。
 そいえば、きのうは、大谷良太くんと日知庵で、ひさしぶりに飲んだのであった。ぼくは、きみやと日知庵と合わせて10杯以上、生ビールを飲んでいて、べろんべろんだったけれど、大好きなFくんもいて、かなちゃんのかわいい彼氏や優くんもいて、めっちゃゴキゲンさんで、しゅうし笑いっぱなしだった。かなちゃんから、「きょうの田中さん、テンション高すぎ。」と言われるくらい、きのうははじけていたのだ。「かなちゃんの彼氏、とっちゃおうかな。」と言うと、「どうぞ、どうぞ。」と笑って答えてくれたけど、肝心のかなちゃんの彼氏が、「かなちゃんのこと好きだし、いまはだめです。」と言って。56歳のジジイのぼくはやっぱり、24歳の女子の魅力には劣るのだなと思った。笑。まあ、なんやかやと、人生は絡み合うのがおもしろい。というか、絡み合いしか、ないでしょうといった気持ちで生きている。仕事も、酒も、文学も。でも、なぜ、この順番に書いたんだろう、ぼく。笑。重要な順番?

二〇一七年五月十五日 「人間の規格」

 クラークの短篇集『天の向こう側』、河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』、ストリーバーの『ウルフェン』のルーズリーフ作業が終わった。岩波文庫の『大手拓次詩集』のルーズリーフ作業はあしたにまわして、さきにまだ読んでるストリーバーの『薔薇の渇き』を読んでしまおう。きょうの文学だ。
 それはそうと、日知庵に行くまえに、ユニクロで、夏用のズボンを買わないといけないと思って買いに行ったのだけれど、ぼくのサイズ、胴周りが100センチで、股下が73センチなんだけど、置いてなかった。このあいだまであったのに、いまは91センチが胴周りの最高値みたいで、店員に、「デブは人間の規格じゃないってことなのね。」と言ったら、「ネットで、そのサイズのものを買ってください。」という返事だった。いまからネットで、ユニクロのHP見るけれど、胴周り100センチのものがなかったら、ユニクロでは、デブは人間の規格ではないってことを表明してることになると思う。どだろ。いまユニクロのHPで、会員登録をして、胴周り100センチのものを股下補正して76センチから73センチにしてもらって買った。2本。8615円やった。消費税なしやったら、1本3990円なのにね。まあ、どんな感じのパンツかは、ユニクロの店で見たから、あとはサイズがぴったしかどうかね。
 さて、きょうは、もう寝床について、ストリーバーの『薔薇の渇き』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ! あしたは、岩波文庫の『大手拓次詩集』の付箋したところをルーズリーフに書き写す作業をする。76か所くらいあったかな。一か所1行から10行くらいまで、さまざまな行数の詩行だけれど。

二〇一七年五月十六日 「異星人の郷」

 いま起きた。ストリーバーの『薔薇の渇き』のルーズリーフ作業がまだなんだけど、これ、学校に行くまでしようかな。これも付箋が大量にしてあるから、ぜんぶ終わらないだろうけれど。ストリーバーの表現、すごくレトリカルなの。びっくりした。エンターテインメントの吸血鬼ものなのにね。驚いたわ。あ、まずコーヒーを淹れて飲まないと、完全に目が覚めない。体内にまだ睡眠導入剤や精神安定剤の痕跡があるからね。8時間以上たたないと対外に排出されないと聞いている。クスリによっては、もっと体内に残存しているともいう。まあ、とにかく、まず、コーヒーだな。淹れて飲もうっと。
 ストリーバーの『薔薇の渇き』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、学校がお昼前からだから、ゆっくりしている。あと、もう一杯、コーヒーを淹れて飲んだら、お風呂に入って、仕事に行く準備をしよう。そだ、きのう寝るまえに、マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻を少し読んだのだけれど、字が小さくて読みにくかった。ハヤカワSF文庫はかくじつに字が大きくなって読みやすくなった。代わりに、文庫のくせに価格が1000円軽く超えるようになったけれど、創元も字を大きくしてほしいなと、きのう思った。やっぱり、字が小さいと読みにくい。ハヤカワ文庫は、その点、改善されてるな。
 いま学校から帰ってきた。マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻を、授業の空き時間に、そして通勤時間に読んでた。めちゃくちゃおもしろい。作者がいかに膨大な知識の持ち主かわかる。エリス・ピーターズのカドフェル修道士ものをすべて読んだくらいのぼくだけれど、カドフェル修道士を思い起こさせる主人公の修道士の文学的にレトリカルな言葉のやりとりと、哲学者けん神学者の怜悧な頭脳と、その心情の人間らしさに驚かされている。ふつう、頭のよい人間は冷たいものなのだ。しかし、この『異星人の郷』の14世紀側の主人公の人間性は、ピカいちである。傑作だ。まだ半分も読んでない138ページ目だけれど、ほかのものより優先させて読むことにしてよかった。人間いつ死ぬかわからないものね。ぼくは、おいしいものから食べる派なのだ。本も、よいものから読んでいく派である。したがって、聖書、ギリシア・ローマ神話、シェイクスピア、ゲーテから文学に入ったのは当然のことなのである。
 いまから、マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻のつづきを読む。ほんとうにおもしろい。きのう、おとつい読んでたストリーバーの『ウルフェン』や『薔薇の渇き』以上かもしれない。いや、きっとそうだろう。この本に書き込まれている量は、ぼくの知識欲をも十分に満足させられる膨大な知識量である。

二〇一七年五月十七日 「人身売買」

 AKBとかの握手会って、お金をCDに出させて握手させるって仕組みだけど、人身売買と同じじゃないのって、このあいだ、日知庵で話したのだけれど、人身売買ってなに? って言われたくらいなのだけれど、人身売買って、そんなに古い言葉なのかしら?

二〇一七年五月十八日 「規格外」

 いま日知庵から帰った。きょう、月曜日に注文したユニクロのパンツが届いた。ぴったしのサイズ。すごい。日知庵では、めっちゃかわいい男の子(26才)がいて、「ぼくがきみくらいかわいかったころ、めちゃくちゃしてたわ。」と言ったら、「ぼく、いまめちゃくちゃしてます。」という返事で納得した。

そのとおり。時間とは、ここ、場所とは、いま。

二〇一七年五月十九日 「微糖」

 いまセブイレでは、700円以上、買ったら、くじ引きができて、コーヒーとサンドイッチ2袋買ったら、876円だったので、くじを引いたら、缶コーヒーがあたっちゃった。WANDA「極」ってやつで、微糖なんだって。わりと大きめの缶コーヒー。ラッキーしちゃった。これからサンドイッチの晩ご飯。

二〇一七年五月二十日 「異星人の郷」

 マイクル・フリンの『異星人の郷』下巻を読み終わった。無駄な行は一行もなかった。すべての言葉が適切な場所に配置され、効果を上げていた。しゅうし感動されっぱなしだったが、さいごの場面は、ホーガンの『星を継ぐ者』を髣髴した。傑作であった。部屋の本棚に飾るため、クリアファイルでカヴァーをこれからつくる。つぎに読むのは、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』にしよう。手に入れるために、高額のお金を払ったような気がするのだが、いま、Amazon ではいくらくらいするのだろう。ちょっと調べてみよう。Kindle版しかなかった。ぼくの持ってるような書籍の形では売っていなかった。やはり貴重な本だったのだ。いったい、いくらお金を払ったかは記憶にはないが、安くはなかったはずだ。ジャック・ヴァンスも、ぼくがコンプリートに収集した作家の一人であった。『終末期の赤い地球』を読んでいこう。あした、あさっての休みは、マイクル・フリンの『異星人の郷』上下巻のルーズリーフ作業をする。付箋をした所、書き写すのに、まるまる2日はかかる量である。いや、それ以上かもしれない。おびただしい量である。しかし、書き写すと、確実にぼくの潜在自我が吸収するので、しんどいが喜んで書き写す。

二〇一七年五月二十一日 「血ヘド」

 いま日知庵から帰ってきた。行きしなに、南原魚人くんとあって、いっしょに日知庵で飲んでた。+女の子ふたり。ぼくは、きょうも飲み過ぎで、「また血を吐くかも。」と言うと、えいちゃんに、「血ぃ吐け!」と言われた、笑。

二〇一七年五月二十二日 「無名」

 いま数学の問題の解答が2分の1できた。ちょっと休憩して、あと2分の1を済まして、マイクル・フリンの『異星人の郷』上下巻のルーズリーフ作業をはやくはじめたい。とてもすばらしい、レトリカルな言葉がいっぱい。ぼくには学びきれないほどの量であった。しかし、がんばって書き写して吸収するぞ。

 いまでも緊張すると、喉の筋肉が動かなくなって、言葉が出てこないことがある。まあ、この齢、56歳にもなると、さいごに吃音になったのは、数年まえに、えいちゃんに問いかけられて、すぐに答えられなかったときくらいかな。そのときは、緊張ではなく、極度の疲労から、どもりになったのであった。

 文学極道の詩投稿掲示板で、「田中さん貴方も世間からは何一つ認められていない 貴方もクズみたいな作品でしょ 大岡に認められたユリイカに認められたって誰もあんたのことなど知らないし知りたくもないんだよ」なんて書いてる者がいて、それは、ぼくにとってよい状態だと思っているのだがね、笑。以前は、「イカイカ」というHNで書いてた者だけれども、いまは、「生活」というHNで、相変わらず、才能のひとかけらもないものを書いているしょうもないヤツだけど、才能もないのに、ごちゃごちゃ抜かすのは、逆に考えると、才能がないから、ごちゃごちゃ抜かすということかもしれないなと思った。あ、芸術家は、無名のときが、いちばん幸福な状態であると、ぼくは思っているので、ぼくの場合も、もちろん、死ぬまで、無名の状態でよいのである。何といっても、すばらしい音楽を、すばらしい詩を、すばらしい小説を、だれにすすめられることもなく、自分の好きになったものを追いかけられるのだ。しかし、この「生活」という人物、もと「イカイカ」というHNの者、世間に認められることに意味があると、ほんとうに思っているのだろうか。芸術家にとって、無名であること以上に大切なことはないと、ぼくなどは思うのだがね。まあ、ほんとに、ひとによって感じ方、考え方はさまざまだろうけれどね。そいえば、同僚の先生で、小説を書いてる方がいらっしゃって、ぼくに、「有名にならなければ意味がありませんよ。」なんて言ってたけれど、どういうことなんだろうね。有名になるってこと。なんか意味でもあるのかな。重要な意味が。ぼくには、なにも見当たらない。

 マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻のルーズリーフ作業が終わった。下巻突入は無理。というか、とても疲れた。あした以降に、『異星人の郷』下巻のルーズリーフ作業をすることにした。きょうは、もうお風呂に入って、ジーン・ウルフの原著を声を出しながら読んで、寝るまえにはジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』のつづきを読む。魔術が支配している未来の地球の話だけど、マイクル・フリンに比べたら、数段に劣る描写力。しかし、ヴァンスは、シェイクスピアの『オセロウ』に匹敵する名作、魔王子シリーズの1冊、『愛の宮殿』(か、『闇に待つ顔』か)を書いた作家だからなあ。はずせない。

二〇一七年五月二十三日 「誤植」

 きょうはかなり神経がピリピリしている。眠れるかどうかもわからない。とりあえず、お風呂に入って横になって、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!

 ジャック・ヴァンス『終末期の赤い地球』日夏 響訳 誤植 157ページ上段3行目「革は痛みきってひびが入っている。」この「痛み」は「傷み」の誤植だろう。まあ、古い本だけど、Kindle版が出てるそうだから、そこでは直ってる可能性があるけど、そこでも誤植のままの可能性もある。どだろ。

二〇一七年五月二十四日 「誤植」

 週に3.5日働いているが、きょうはその3.5日のうちの1日。朝から晩まで数学である。とはいっても、通勤時間や授業の空き時間に読書しているが。ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』は有名な作品だからていねいに読んだが、あまり価値はなかった。ジャック・ヴァンスのつぎに読みはじめたのは、ヴァンスの『終末期の赤い地球』と同じく久保書店からQ‐TブックスSFのシリーズの1冊、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』。シルヴァーバーグもヴァンスと同様に、ぼくがその作品をコンプリートに集めている作家や詩人のうちのひとりだ。すばらしい作家だが、この『10万光年の迷路』は、いわゆる、ニュー・シルヴァーバーグになるまえの習作のような感じのものだ。アイデアはあるが、文章というか、文体に、深みがない。暗喩も明楡も、めざましい才能を見せる場面はまだない。まだ50ページほどしか読んでいないのだが、それくらいは、この分量を読んだだけでもわかる。で、さっそく、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』中上 守訳の誤植 29ページ下段、うしろから1行目 「 が余分についている。35ページ下段、1、2行目「あなたは学問の世界ののわたした名声と地位を叩きこわそうとされた」 これは「世界でのわたしの名声と地位を」だろう。

二〇一七年五月二十五日 「継母」

 朝からいままで二度寝をしていた。継母が亡くなった夢を見た。とっくに亡くなっているのだけれど、よくできたひとで、とても気のいい継母だった。美術にも造詣が深くて、壁紙は黒で陶器製の白い天使の像を砕いて、翼だとか腕だとか足を影から突き出させるように壁に埋め込んだりしていたおしゃれなひとだった。ぼくの美観を父と共に培ってくれたのだった。その継母が亡くなる夢をみたのだった。とても悲しかった。ぼくに遺言があったみたいだけど、それが書かれた紙を読もうとしたら目が覚めた。じっさいに遺言はなくて、継母は癌で急死したのだった。手術後四日目に。手術しない方がぜったい長く生きていたと思う。まあ、気のいい、うつくしい継母だった。

 きょうは休みなので、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』を読もう。この久保書店のQ‐TブックスSFシリーズ、ぼくはあと1冊持っていて、A・E・ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』だけど、このシリーズに入ってるSF作品のタイトルを見ると、びっくり仰天するよ。たとえば、こんなの、O・A・クラインの『火星の無法者』、デイヴィド・V・リードの『宇宙殺人』、ジョージ・ウエストンの『生殖能力測定器』、L・F・ジョーンズの『超人集団』、ジョージ・O・スミスの『太陽移動計画』、J・L・ミッチェルの『3万年のタイムスリップ』、C・E・メインの『同位元素人間』、L・M・ウィリアムズの『宇宙連邦捜査官』、W・タッカーの『アメリカ滅亡』、J・ウィリアムスンの『超人間製造者』、ジョージ・O・スミスの『地球発狂計画』、M・ジェイムスンの『西暦3000年』、アルジス・バドリスの『第3次大戦後のアメリカ大陸』、バット・ノランクの『戦略空軍破壊計画』、D・グリンネルの『時間の果て』、E・イオン・フリントの『死の王と生命の女王』、A・B・チャンドラーの『宇宙の海賊島』、アンドレ・ノートンの『崩壊した銀河文明』、E・ハミルトンの『最後の惑星船の謎』などである。この2級の品物くさいところがいいね。

二〇一七年五月二十六日 「トライラスとクレシダ」

 いま学校から帰ってきた。ああ、ビールが飲みたい! と思ったけれど、コーヒーを淹れてしまった。ビールは、あとでコンビニに買いに行こう。きょうは授業の空き時間と通勤時間に、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』のつづきを読んでいた。冒頭で、イエイツの詩の引用、いま読んでいるところでは、シェイクスピアのソネットの引用という、ぼく好みの小説だ。いや、ぼくの好みの詩が引用されている小説だ。イエイツの引用なんて、「ビザンチウムに船出して」だよ。高級中の高級の詩である。シェイクスピアのソネットの引用もよかった。これから原詩を読もうと思う。ソネットの18だった。小説のなかでの訳では、とりわけ、「すべての美はいつか、その美をそこなってゆく……」(中西信太郎訳)の部分が好きだ。「君を夏の日にたとえようか。」ではじまる有名なソネットだ。背中の本棚に、シェイクスピア詩集は見つかったのだが、ソネット集がない。別の本棚かな。よかった別の本棚にあった。岩波文庫から出たシェイクスピアの戯曲を集めた棚にあった。もちろん、岩波文庫から出たすべてのシェイクスピアの戯曲を集めているのだが、『トライラスとクレシダ』という岩波文庫ではまだ読んでいないものもある。シェイクスピアはすべて読んだが、なぜ、岩波文庫の『トライラスとクレシダ』がめちゃくちゃ分厚いのかは不明。小田島雄志の訳だと、ふつうの長さなんだけどね。岩波文庫の『トライラスとクレシダ』は、もう、ほんとに、ぼくの持ってる岩波文庫のなかで、いちばん分厚いんじゃないかと思う。あ、ナボコフの『青白い炎』も分厚いか。比べてみようかな。分厚さは同じくらい。物差しで測ってみよう。『トライラスとクレシダ』は22ミリ。ページ数は註を入れて345ページ。『青白い炎』は24ミリで、解説を入れて548ページである。ありゃ、『トライラスとクレシダ』の分厚さは、ページ数からきているというより、古さからきているのかもしれない。昭和二十四年八月二十五日印刷、同月三十日発行ってなってる。ハンコの圧してある小さな正方形の紙が奥付に貼ってある。もちろん、旧漢字の、旧仮名遣いの本である。めちゃくちゃ古書って感じのもの。初版のようである。ひさしぶりに、シェイクスピアの全戯曲の読み直しをしてもいいかもしれないな。この小さな正方形の紙、ハンコが押してあるもの、あ、ハンコは圧すか押すかどっちだったろう。ありゃ、捺すだった、笑。これって、なんていったかなあ。著者検印だったっけ? たしか検印って云ったと思うのだけれど、検印廃止になって、ひさしいのではなかったろうか。かわいいのにね。面倒なのかな。ネットで「検印紙」というので調べたら、「かつて書籍の奥付に著者が押印した貼ってあった。それぞれの出版専用のものがあり、この検印の数に基づいて印税が計算された。わが国独特の習慣。現在ではほとんど省略されている。」ってあった。さっきも書いたけれど、かわいらしいのにね。やればいいのに。

詩人は自分の声に耳を澄ます必要がある。

二〇一七年五月二十七日 「10万光年の迷路」

 起きた。コーヒー淹れて飲もう。きょうは0.5日の仕事の日だ。夕方から、先鋭的なアーティストの河村塔王さんと日知庵で飲むことになっている。楽しみ。

 いま学校から帰った。授業の空き時間と通勤時間で、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』を読み終わった。さすが、初期の、とはいっても、シルヴァーバーグである。ぼくにルーズリーフ作業をさせるところが6カ所あった。きょうは、疲れているので、このあと、ヴァン・ヴォークトのQ‐TブックスSFシリーズの1冊、『ロボット宇宙船』を読む。夕方から日知庵に。河村塔王さんと飲む。シルヴァーバーグのルーズリーフ作業は明日以降にすることに。

 いま帰ってきた。げろげろヨッパだす。おやすみ、グッジヨブ!

二〇一七年五月二十八日 「檸檬のお茶」

 もう、寝るね。ぼくのいまのPCのトップ画像、ある詩人が、ぼくのほっぺにチューしてくれてる画像だけど、まあ、なんて、いうか、ぜったい、そんなことしてくれそうにない詩人が、ぼくのほっぺにチューしてくれてる画像で、ぼくは、ここ数日間、毎日、いや、ここ一週間かな、見てニヤニヤしてるのだ。

 きのう河村塔王さんに、お茶をいただいたので、さっそく飲もう。このあいだは、花が咲くお茶だった。きょうのは、なんだろう。楽しみ。いただいたお茶、檸檬の良い香りが。味も、おいしい。

 ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』のルーズリーフ作業が終わった。これからお風呂に、それから河原町に、日知庵に飲みに行く。

 いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパだけど、読書でしめて寝る。寝るまえの読書は、ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』。ヴァン・ヴォークトは、『非Aの世界』、『非Aの傀儡』、『スラン』が傑作だけど、『非A』シリーズ、第3部が出ているらしいので、はやく翻訳してほしいと切に望む。

二〇一七年五月二十九日 「潜在自我」

 いま起きた。北山に住んでたときの夢を見た。いまより本があって、いまも本だらけだけど、さらに本だらけで、どうしようもない部屋だったときのことを夢見てた。本から逃れられない生活をしている。いたのだな。きょうも晴れ。洗濯しようっと。

 けさ見た夢のなかで書いてた言葉。あんまり下品で、書かなかったことにしようか、考えたけれど、ぼくの潜在自我が書いたものだからねえ。起きてすぐメモしたもの。

脳内トイレ。
脳内トイレ。
ジャージャーと、おしっこする。
ジャージャーと、おしっこする。
そして、ジャーと、水を流す。
そして、ジャーと、水を流す。

 いま王将から帰ってきた。きょうは読書の一日。ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』のつづきを読む。62ページまでに誤植が3カ所。ひどい校正だ。

 きょうは、一日中、読書してた。ちょっと休憩しよう。いま、ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』192ページ。誤植またひとつあった。久保書店のこのQ‐TブックスSFのシリーズ、ちょっと誤植が多すぎないだろうか。まあ、活版の時代だから校正家だけの責任じゃないんだろうけどね。

 ヴォークトの『ロボット宇宙船』を読み終わった。読まなければよかったと思われるくらいのレベルのひどい作品だった。きょうは、ひきつづき、ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』を読む。これも久保書店のものだ。ヴォクトは、やはり、ぼくのコンプリートに集めた作家のひとりだから読むのだが。タイトルからして、2級だってことがわかるものだけれど、ジャック・ヴァンスといい、やはり、ぼくがコンプリートに集めた作家だけのことはある。たとえ2級品の作品でも、なにか魅力は感じられる。さっきまで読んでた『ロボット宇宙船』なんて、いまの出版社なら、ぜったい出版しないだろう。ヴォクトの『銀河帝国の創造』(中上 守訳)5ページさいしょの文章、こんなのよ、笑。「「神々の子」は成長を遂げていた。紀元一万二千年ごろ、未開の血をまだとどめながら衰退期にさしかかったリン帝国の王家に歓迎されざるミュータントの子として生まれた彼は、(…)」 こんなの読むのね。

二〇一七年五月三十日 「銀河帝国の創造」

 ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』105ページまで読んだ。タイトル通り、カスのようなお話。進化したリスが人類より発達した科学力で人類と戦っているのだ。なんちゅう話だろう。ヴァン・ヴォクト以外の人間が描いてたら、即刻、捨て去っていただろう。95ページにこんな言葉がある。「あなたは慎重すぎるのよ。人生は短いんだってこと、わかってないのね。恐がらずに、思いきってものごとに突っこんでいくべきだわ。わたしが人生で恐れるのはたったひとつ、何かを見のがしてしまうことよ。経験すべき何かを。生きているっていうたいせつな実感を……」(ヴァン・ヴォクト『銀河帝国の創造』11、中上 守訳、95ページ・1‐4行目)この見解には、ひじょうにうなずくところがある。ぼく自身が慎重すぎて、経験できなかったことが、いっぱいあるからである。若いころにね。20代後半から、つまり、詩や小説を読んだり書いたりしはじめてから大胆になったけれど、それは文学上のことで、実生活は平凡そのもの。それはいまも変わらず。

 高柳 誠さんから、詩集『放浪彗星通信』(書肆山田・二〇一七年五月初版第一刷)を送っていただいた。改行詩と散文詩との綴れ織り。改行詩は透明感が半端なく、その繰り出される詩行には、言葉の錬金術を目にするような印象を受けた。散文詩の部分はカルヴィーノの『レ・コスミコミケ』が髣髴された。

 韓国人の、かわいらしいおデブさんから、FB承認依頼がきたので、即刻、承認した。コントをしてらっしゃるサンドイッチマンのメガネをかけているかたにそっくり、笑。そいえば、ぼくは、あのサンドイッチマンというコントのかたたち、ゲイのカップルだと思ってたんだけど違ってたのかな。結婚したね。

 あと一時間、ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』のつづきを読んだら、クスリのもう。進化したリスと人類との闘い。しかもリスの方が強いなんて、なんという設定だろうか。ふと、ドナルド・モフィットのかわいらしい表紙のSF小説が思い浮かんだ。未来の人類の敵はネズミが進化したものだった。

二〇一七年五月三十一日 「さらば ふるさとの惑星」

 ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』を読み終わった。これといい、このまえに読んだ『ロボット宇宙船』といい、げんなりとするくらいの駄作だったのだが、『非Aの世界』と『非Aの傀儡』は、高校生時代に読んでびっくりした記憶があるのだけれど、初版の表紙の絵もいいしね。でも怖くて読み返せない。つぎに読むのは、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』。ホールドマンは、安心して読める作家の一人だ。まさか、ジャック・ヴァンスや、ヴァン・ヴォークトほど劣化していないと思うのだけれど、どだろ。むかしのSFって、ほんと差が激しい。ひとりの作家でもね。いまのも差が激しいか。

きょうも日知庵に行く予定。雨かな。