選出作品

作品 - 20191026_601_11524p

  • [佳]  (無題) - 黒羽 黎斗  (2019-10)

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(無題)

  黒羽 黎斗

 目を覚ますとそこは液体の中だった。温度は熱くもなく冷たくもなく、水の中にいるときのような温さも感じない。呼吸もできるし目を開けていても視界には全く違和感がない。なぜ俺が液体の中にいると気付いたのかというと、身をよじった時の体にかかる負荷が空気のそれとは違い、俺の特徴である少し長めのまつげが俺の動きに対応することはなく何かに引っ張られるような感覚があったからだ。
 目に見える光景はなんとも言えない。おそらく上だと思われる方向には一般的な家庭によくある丸い蛍光灯らしきもの。最近はあれもLEDになっていっているらしい。おそらく下だと思われる方向には目を向けることができなかった。自分の体の上下を反転させようとしたら何か壁に阻まれた。俺は思っているよりも狭いところに閉じ込められているようだ。ちなみに、腕を広げようとしても胴体と腕の間の角が脇側から見て30°ほどしか開かなかった。
 さて、いわゆる一般的な人間はここでパニックを起こすのだろうが、俺はそうはならなかった。いや、俺は今まで一般的ではない生き方をしてきたというつもりはない。というより、一般的に生きることを努力によって続けてきた人間であると胸を張って言いたい。しかし、今はなぜか俺はひどく落ち着いていて、自分でもうすら寒さを覚えるほど心は水面のように穏やかにしか動かなかった。
 まぁわざわざ「穏やかにしか動かなかった」といった時点で、心が動いていることに気付いた人は多いと思うが、正直微々たる差でしか動かされることなくいたというのが現状である。意識が覚醒のうちに入ってからの俺の感情を述べるなら「起きたらなぜか液体の中に入れられていた。それに気づいた俺は眠たくなった。」というのが妥当だろう。
そう、俺は今猛烈に眠たい。これを心の動きと言っていいのかどうかははなはだ疑問ではあるが、今俺の思考のほとんどを埋めているのは一度覚醒した意識を再度深く堕とそうとする生理現象である。そして、ほとんどと言ったからには少し別の動きがあるのも事実であって真であるわけである。俺は眠りにつきたくないと思っている。こちらのほうは心の動きと称してもおそらく問題がないだろう。この段落の冒頭で述べた「心が動いた」というのは俺の眠い思考が生み出した語弊の多い言葉だったのかもしれない。
 こんな状況にそぐわないような自分を客観視した思考をしていくうちに、俺は自分の意思というものに分類される「眠りにつきたくない」といういかにも矛盾した存在の占める割合をガリガリと削り取っていった。睡眠という結果がその先にあったことは、これまでのような長々とした説明を入れずとも皆さんはお分かりのことだろうと思う。
 さて、俺はいったい誰にしゃべっているのだろう。
 そんなことを最後に考えたような気がする。

 次の覚醒は空気の中だった。そう思ったのは直感であって、決して一つ前の覚醒の時にお話ししたような論理的にお話しできるような考察ではない。しかし空気の中であると断言できるほど情報が、俺の中に覚醒の瞬間流れ込んできた。余談ではあるが理学において、あることを「正しい」つまり「真」であると証明することは「誤り」つまり「偽」であると証明することより難しい場合が多い。難しい「真」であることの証明をするにあたって、多くの簡単な「偽」を使って証明することも多い。それだけ高度なことを俺に「偽」を使わず確信させるほど、流れ込んできた情報は正確で多彩であったとだけ分かっていただければ幸いだ。
 目は開いていないが目が覚めている。そんな状態になったことはないだろうか。
俺はよくある。「よくある」というと「ない場合も多い」の裏返しに聞こえてしまうかもしれないので訂正しておこう。俺が覚醒するときは大抵この状態だ。これは朝起きるのが面倒な心境とか、その日の学校や仕事を休みたいが故の意識的な反応ではなく、ただただ目が開いていないというだけの状態のことである。そしてこの状態の時の俺はどのようなことをしているかというと、覚醒したばかりで動きの鈍い頭を使って眠る前の覚醒した期間に何をしていたかを反芻して、目を開いた後にしなければならないことを大雑把に考える。
さて、俺は今「目は開いていないが目が覚めている」状態にある。そして、普段の癖で前述した日常の歯を磨くかのような行為を何のためらいもなく行う。
『寝る前は体が自由に動かなくて、液体で満たされた不自由なところに入れられていた』
『これからしないといけないことは…』
そこまで考えて頭の中で唐突に何かが燃え上がった。何が燃え上がったか、何のせいで燃え上がったのか、そんなことを知覚する前に、俺は目を開いてものすごい勢いで起き上がった。
まず知覚した情報は、視覚から送られてきた「真っ白」という情報だった。起き上がり、目を開いた先にあったのは真っ白な壁。その色がいくらか俺を混乱させたことを今俺は知覚することができていないが、そうだったのだろう。次に知覚した情報は、おそらく触覚に分類されるものから送られてきたもので、肺の中に空気の流れがあることだった。これによって俺は今、空気中にあることを証明できたのだが、そんなことを考えている余裕はなかった。そしてここからは連鎖的に多くの情報を認識して、順番など分からなくなっていくのだが、一つだけ強烈な情報があった。これもまたおそらく触覚に分類されるものが送ってきた情報だったのだが、俺の向いている向きから見ておおよそ9時ぐらいの方向、少し離れたところに人の気配があった。
 鏡写しの人が一人だけ居た。