彼女と出会ったのはほんの二日前のはなしだ。ひと気のない湖畔のキャンプ地で、たまたまソロ同士だったから、ぼくが張ったタープの面積がなんだか気合い入り過ぎだったから、あとは大量にもってきたお酒が切れなかったから、なりゆきのままお互いにお互いのことは何も聞かず、ただただ、というよりとにかくだらだらと一緒に過ごしていたのだけれど、今日たったひとつだけ、子供のころ傘泥棒と呼ばれていたんだ。と、笑って話してくれた。理由を聞くと本当にそのまんまで、それで少し恥ずかしそうにしながら、月のあかるい夜にはうちの浴槽にも小さな波ができるんだよ。そういって湖面越しの月を指さし、飛び込んだ。水から上がるとぼくの手をひいて、それからは肌で水を打つ快感を求めてなんどもなんども飛び込み、すこし飽きれば付近をひとしきり歩いた。彼女は濡れ髪のまま風を切り、ためらいもなく花々をけりとばしながら進む、それなのに花の歌なんかをくちずさむ。そのせいか、はだかになっても全身花粉だらけで、着水するたびに、月暈をとりどりに染めあげた。
たまに魚を見かけた。このちいさな湖には不釣り合いなくらい、わりと大きい魚が泳いでいるんだ。知らない魚だ。彼女にも伝えようとしたけれど、知らないもののことを上手く伝えるのは難しくて。彼女が知っている魚とはサンマのことだと思う。それは湖にはいなかった。その代わりに知っている星のなまえをいくつか挙げ、湖面に映るそれとほんものとで絵合わせをはじめた。しかし星はだいたいみな同じかたちをしていたのでしばらくすると彼女は眠ってしまった。魚は同じかたちをしていない。花もかろうじてそうだ。眠る彼女を眺めていると、そのかたちはすこしだけあやふやに見えた。ぼくはしずかに焚き火をまもりながら、いくつかのさかなの味を思い出していた。間違ったことを想い、彼女もそうしている。今日はなにも思い出せない。ぼくは味覚障害かもしれない。
いつのまにか自分も眠っていて、目が覚めると雨が降っていた。雨に理由をつけるのはとても簡単だ。強いのか弱いのかだけをみて、それに合わせたウェットな出来事を思い起こせばいい。そうすると雨は少しだけ特別なものになる。ぼくたちは傘を持ってきていなかったから、彼女と二人で、子供の時分の彼女に盗まれたいくつもの傘について考えた。そういえばそれって、家に着いたあとはどうしていたの? だいたい近所の河原に捨ててたかな。そっか。だって見つかったらたぶん怒られるしそもそも誰のかも知らないから持っててもどうしようもないし。そっか。ビニール傘なんて水中に沈んでしまったら溶けてなくなればいいのに。そうかも。ねえきみは自分の家に帰ったらどうするの? どうしよう。缶ハイボールをいくつか開けているうちに雨は弱まり、風で小刻みに葉が擦れる音が聞こえはじめた。月は見えないけれど、湖面には小さな波が立っている。
選出作品
作品 - 20181019_802_10826p
- [佳] 傘泥棒 - ゼンメツ (2018-10)
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