選出作品

作品 - 20180929_940_10772p

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hyouka-ga-hara

  田中修子

彼の小指が氷の花びらになってわたしの頬を白い鳩が飛ぶように鋭くかすめていった。頬にスッと切り傷ができてあたたかな血が垂れた。

『ね、きょう青いロシアへいこう』
ときたまおしゃれなカフェでお茶をするだけの、気持ちの良い友だちから着信があっていきなり誘われた。わたしは人との付き合い方がすごくへたで、いきなりうんと親しくなってはうんと近づきあって傷つけあい、けがするのに飽いたようにスウッと疎遠になる繰り返しだ。きっとそういうひとを無自覚に選んでる。
彼だけはちがう。サバサバとした彼の一歩を踏み込めない雰囲気が、唯一長い付き合いをさせてもらっている。……どこで知り合ったのだろう。うんと昔から、ものごころついたころからずうっとこんな関係が続いているような……。

彼には肌の下、いちまいすごく冷たく、薄くて強度の高い、だれも彼を傷つけられない鎧が入っている。その鎧があるから、彼もだれも傷つけることができないし、だれも彼を傷つけない。薄くて淡いきれいな硝子を間に挟んだような、つるつるした付き合いを続けられて。
彼は、恋愛をすることのないセクシャリティだ。会うたびに転職をしているのもなんだか不思議だ。どこにもなじめないのにつねにどこかになじんでいる。新しい仕事場でおきた変な話、たとえば会社設立以来からあるという開かずの冷蔵庫のうめくモーター音や、趣味がカビの研究という同僚のはなし、夏の終わりにひとりでお風呂場で花火をしてみた、みたいなことを教えてくれる。わたしは「ひとりでおふろばで花火? 呼んでくれたらよかったのに、いっしょにどこか外でやろうよ」というが、彼はあいまいにわらってやり過ごす。
そのたびに私は、彼のつるつるのこころの鎧に触れてうっとりする。
わたしは恋愛の話しとそれから、今日してきたお化粧の話しばっかりしている。金色が少し入ってるファンデーション、チークは青みを帯びたピンクでね、口紅は銀赤だよ。わたしの表層を覆い隠してくれるものの、ことこまやかな、はなし。

『青いロシアへ? どういけばいいの?』
『きみがむかし通っていた中高一貫校への行き方をすこし変えたものだ。きみの家の最寄り駅の桜散里駅から、城防壁駅で乗り換えて、最果て公園駅でまた乗り換え。乗り換え二回で青いロシアに行けるなら近いだろう。青いロシア行きへの飛行機に乗ってつかないときだってあるのだから、これはとくだ。時間の流れによって、三十分から三時間というところかな。最果て公園駅へ、夕方四時にどう?』
わたしの最寄り駅が桜散里駅だと、彼は知らないはずだ。長く親しくいたい相手だから、あまり深い付き合いをしないように、用心をしていたのだけど。
そもそもわたしは、思い出すのもいやな中高時代の話をしたこともないはずだ。……でも、彼はたしかにあのころのわたしを知っていて。
うわべのことばかりで、お互い知らないことばかりだったはずなのが、いつのまにか知られている。ふかい、ふかい底の方までさわってくるような声。
記憶が、かくはんされた誕生日ケーキみたい。ふっと、足元のゆれるような気持ちになった。ああ、きもちいい、やっと、発掘されて割れるのをまってる化石みたいな、ふたりのなかをさわれる。関係性は毀れる。

家の時計は十時をさしている。時計のかかっている側の壁の窓から見える外は、満開の桜が、淡いピンク色にはらはらと落ちて桜餅の匂いがする。花散里駅のメイン・ストリート。母が亡くなり実家を売って、いつも満開の桜の坂沿いのマンションに住んで、もう十年になる。-満開の桜は思考を異常に増殖させ、わたしは危なっかしい人形を作って父の扶養の範囲内でくらしている。ときたま買い主のもとで息をして動きだす生き人形の作り方を教えてくれた師匠は、このあいだ、夜の町に住むお母さんに会いに行くといって消えてしまった。

なまぬるい風がふるり。ベランダに数年間出しっぱなしの、母の遺した喪服が揺れた。父が、「わざわざ蚕を取り寄せて孵化させるところから、あの、家事のきらいなお母さんが作ったのだから、機会があるならどうしても着なさい」と押し付けてきたのだが、肩パッドがはいっていてもう古いのだ。
しみついた香水がどうしてもいやで、洗濯したままベランダに干しっぱなしで、とりこむ気力がなくそれだけ数年たっているが、時間がたっていくそれだけ、月の光を含んだ髪をパチパチ流す少女のようにつややかに真っ黒くなっていくよう。
風をふくむと人型にふくらんで、母のかたちになる。
「お父さん、今日すこし、青いロシアに行ってくるよ。友だちがね、誘ってくれたの」
三食ポテトチップスを与えているうちに、まるまるとした可愛いピンク色のブタになって父の足元をいつもくるくるとまわっている兄には友だちがひとりもいなくて父は気にしている。父がかわいそうで、「友だち」と強調する。
母のいちばんきれいな頃、大輪の赤いダリアの咲き乱れるようなスナップショットから引き延ばした遺影が一つの壁を埋めているリビングに、その壁の遺影に向けた小さなソファにがくりと座っている父に挨拶する。
そういえば、ここ数か月、父が動いているところを見たことがない。かつて巨大な建築物を各地に設計し、製図用の銀色のペンのタコが大きくあたたかった手は、茶色くしなびて梅干しのように、ひじ掛けに力なくおかれている。なんだか泣きたくなる。
「行っておいで」
歯のない口からやわやわとと漏れる羊歯の葉擦れのように、やさしいささやきごえがしたが、わたしはこのあいだこのからだから内臓をとって、かわりにお茶にすると甘酸っぱくなる小さなばらをうんとつめて、想い出家族オルゴールを仕込んだ気がする。
じぶんの手をみる。人の肌に酷似した布地でできている五本の指を動かす。さわさわとラベンダーのかおりがたちのぼる。

母が亡くなって人形を、家族がひつようとしていた。母の面影に似た、落ち着くかおりのする妹人形を、それで、生き人形師が呼ばれた。でもなにかの手違いで、わたしひとりじゃ作動しなくて、彼がつくられて。
いじめられた記憶を縫い付けられたおとなしい、忠実な、妹人形。

マンションから出る、ハート型に踏みしだかれているさくらの花弁。淡いピンク色の心臓が無限に散らばってる。
帰ったら、これ、かき集めて、かわいい赤ちゃん人形に詰めこもう。きっといい声でなくのがつくれる。
 
花散里駅から、城防壁駅までは三駅で五十分しか、かからなかった。いつも九十分かかる。だれもいない電車から見える青
ここはもともと飲食店ビルがひとつあるくらいだったのが、国民のなかで国意識が巨大化してはじけてしまったマインドバブルの時代があった、という。マインドバブルにあてられて、地下から屋上まで数百階建て、横となれば何百キロあるかもわからない巨大飲食ビル群になってしまった。毎年行方不明者が数十人出て、奥地では人肉鍋があるのではないかとか、あるいは最奥の飲食店女王の奴隷になって日日さらなる拡張を求めて工事を進めているいるとか、いろいろな噂がある。
豚足がずらりと壁に並べられている屋台、パクチーの山盛りに載った米麺に酢を入れて筋肉質の色黒の男らが荒い声でわめきながら食べて去っていく屋台、赤い下着をつけたすらりとした白い女性・ぴったりとした青いドレスを身に着けた青い肌の女性・全身ヴェールにつつまれてうんとうんと小さな纏足だけがそろりと見えている娼婦屋台は、奥の方に赤地に金のいろどりをされたベッドが見える。

欲の香りはいつも、ミルクの匂いがする。
舌なめずりしながら、最果て公園駅ゆきの電車に乗る。
瞬きするともうたどり着いていた、それは瞬きのうちの数時間にわたる深い眠りだったか、それともほんとうに瞬きなのか? 腕時計は風化して砂となり崩れ去った。

「やあ、時間通りだね」
「ほんとに?」 

晴れあがってほんとうに薄青くさむい雪原の中を、黒い汽車は農灰色の煙を立てながら、横長の恐竜が頭を低く下げて獲物を追うように走ってゆく。うなり声も恐竜のよう。ガタンゴトンゆれる汽車の下に、うすばかげろうの群れのような影がおちて、影も一緒に走ってく。
煙のかげまで一緒にどこまでも付き添って。
赤く燃える石炭の、目に染みて、鼻につんとくる匂い。
ぶあつい、まだすこし獣のなまぐさい匂いのする毛皮のコートが首筋を痒くする。ピキピキと皮ふが痛いような寒さ。
「もうすぐ、氷花野原だから、防氷マスクをつけて。氷花の種が肺に入って芽生えると、肺から発芽して、きみが氷花になってしまう」
いいタイミングでやってきた車内販売の子に、早口で彼はなにかを言う。
車内販売の女の子は、さすがに青いロシア人らしく、すらりとした体型で青白い顔をして銀髪をシニョンに結い、軍服をおしゃれに仕立て直したような制服を来ていた。すごく寒いのに、ブラウスの胸のところが広くあいて眩しいように白く、くるぶしまであるタイトスカートは太ももまでスリットが入っていて、黒いレースのガーターストッキングが見える。目は淡い緑。
青いロシア人は、にっこりと笑って金色の鎖で編まれているマスクをさしだした。きらきらひかっているのをそのまますっぽりとかぶった。視界が金色にそまる。
彼女も胸元から簡易型らしいマスクを引き出して耳にかけた。そっちは錆びた銀色。
「それにしても、なにもないような、あ、見えてきた」
「マスクをわざとつけないで発芽したひとびとが氷花帯だよ」
「きみは?」
友人……少しだけわたしのに男の輪郭をたした双子の横顔は優しかった。うすばかげろうみたいな、ぼんやりとしたのは、きっと死相だ。
「ぼくはきみに見送ってほしかったんだよ。昨夜職場でね、ちょっとカッとなってね。……まあたいしたことじゃない。僕は恋をしたことがないが、きみはいっつも恋の話ばっかりしていただろう。でもさ、双子人形だから近親相姦になってしまうね? 永遠にきみの恋の相手になりたくて、それでこういう方法をえらんでみた。それから、プレゼントがひとつ」
止める間もなく、飛び下りてしまった。
取りすがろうとしても遅かった、のだけど、ほんとはわたしはこの展開をしっていたんだ、楽にさせてあげたくて、取りすがるのを一瞬遅れたんだ。
わたしはいつだってひとごろしだなあ。
ちょうど、氷花帯に入ったところだった。ひとの背よりうんとたかい氷花の群れ群れ。
この花みんな、ひと、だったんだ。

彼はうしろにふっとんでいく。肉体がはじけた。けど、散らばるのは内臓じゃなくて青やうすむらさきの董だった。
董がパァッと、光った。かなしい星みたいに、そうして氷花のまわりにきらめいて消えてった。
ひとですらないきみはひとの氷になったのを飾って消えていく。

いっぽん、彼の小指が氷の花びらになってわたしの頬を白い鳩が飛ぶように鋭くかすめていった。頬にスッと切り傷ができて、乾いたラベンダーのかすがこぼれるんでなくあたたかな血が垂れた。あの日やっとひとになったというのにわたしは、泣くことをしらないでいる。