(誰も自分を理解できないのだから
誰かに理解されようと思うことは
究極的には間違っている)
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バリエーションに過ぎない
差異の中を歩いていた
バリエーションに過ぎない
差異はしかし
無限のバリエーションである
僕はモーツァルト自身のように
モーツァルトに憑かれていた
みたいに
交響曲第38番を正確に
頭のなかで奏でていた
ベートーヴェンに憑かれるよりは
マシだと思いながら
回想だけが美でありうることを
仮説として知った
一番初めの回想は
いったいどこからやってきたのか
/
ビルを仰ぎ見ながら思った
人間の創りだす高さは
高さではなく
高さへの要求だ
要求することはもう止せ、と思った
例え自らの手では
辿り着けないからこその要求であっても
寂しさに直接由来しないあらゆる要求は
ついに虚しいものだから
時間が持て余されている
空洞と空虚との差異が問題になっている
虚しさは寂しさの偽装である
虚しさは自らの手で解消されるはずの課題として幻想される
本来的なものである寂しさは自らの手で解消されえないものだから
存在しないものとして
代償として生まれる恥じらいの感情の中に隠蔽されている
要求とは 自らの力で克服できるはずだという「虚しさの信仰」の上で
更に他者の力に頼ろうとする一番恥ずかしい能動性の形態だ
要求することはもう止せ
それは恥ずかしい行為だから
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時間が持て余されている
僕は雨が降っていない多くの時間
こうして街の中を歩いている
雨が降っている時間には
可能性としてだけあらわれて
ついには訪れなかったものを
回想している
ドキュメンタリー映画で見た動物の
繰り返される生死の光景を思い出しながら
死という意味の不自然な重さを考えている
なぜ「どうして自殺してはならないのか」
という問が生まれるのか
自殺していいに決まっている
生き死にはいつだって
自然な現象であることを保証されている
それは人間の関係を訪れる
様々な禁止と許可の水準とは
遠く隔たった高さに存在しているものだ
しかし現実における可能性としての死は
禁止と許可の繰り広げられる水準で訪れる
だから「どうして自殺してはならないのか」
などという問が生まれてくる
死が禁止されているものとして幻想されるからだ
現実の関係がどれだけの要求を孕んでいるか
空白と想像される領域にどれだけの力場が展開されているか
「どうして自殺してはならないのか」
問いかけることには逆方向の要求が含まれている
「どうして自殺してはならないのか」
向こう側から、その意味が与えられることを望んでいる
それは比較的正当な要求である
なぜなら関係はそれまでの間、彼に
「自殺してはいけない」という要求を突きつけてきたからだ
傍から見れば無効な要求が現実の関係を決め
関係が意味を決めている
そこには両方向の要求が含まれている
ひとつは関係が彼を決定する方向性における要求
もうひとつは彼が関係に決定されることを望んでいることの要求
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突然雷が鳴り始め
雷自体の潜在性のように
遅れて雨が降りだした
僕は「朝は詩人」という歌のなかの
「雨は遅れてやってきて
村の祭りを中断させた」[1]
という詞を思い出していた
フォークシンガーの友部正人が青年期に歌った
「何かをはじめても本当のことじゃない」[2]
という言葉と
彼が壮年期に歌った
「夢はすでに叶えられた」[3]
という言葉の距離について考えていた
僕はこれまで生きてきて
「本当のこと」と呼びうるような行為が
存在しないことを思っていた
友部正人が「夢はすでに叶えられた」と歌うためには
何らかの形で「本当の行為」という幻想を免れえたのだと
考えるほかに方法がない
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僕は熱いコーヒーを飲みながら
現在という短さに保証された
ひとつの感覚的な確信を抱いていた
身体の中に広がる空洞は
空洞としての充溢を知っているはずだと
それでも
なお時間が持て余されている
豊かな空洞とはなにか、
空洞および関係というものの空虚さが
「○○ではない」という否定法によってでなく
確かめられるために必要なものはなにか
僕の母親は彼女自身の母親を思いながら、
私はボケたくないとぼやいていた
七十後半で痴呆の症状が現れた
世界が 差異が バリエーションならば
他人とマグカップとを区別できなくなるような段階を考えられるはずだ
健常者はなぜその無分別を免れているのか
それはおそらく意味によってである
自分が自分であるという意味によって
私へ向かって飛んで来るボールと
他者へ向かって飛んで行くボールとが
区別されるというような方向性の違いによってである
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僕は他人の死に向かいながら、
他人の死と自分の死とは明確に区別されるものだと考えた
なぜなら方向性が 意味が 違うからだ
他人の死は僕にとって
対象喪失だ
自分の死は
他者の死のような喪失の形では訪れないだろう
認知者の喪失を認知するものは存在できないから
自分における死とは
僕の生を訪れる
認知上の「逆転」の現象に違いない
たとえば
親しい人の死を何度も 何度も経験しているうちに
死という意味が
方向性を逆転させて
自分を訪れるものとしての死が
まるで他人を訪れるもののように
いまここに生と感じられてきたものが
死と感じられるものと重なるときがくるんじゃないか
あるいは生と感じられてきたものも逆転して
生と感じられてきたものの位置へ死が
死と感じられてきたものの位置へ生が
訪れるときが来るんじゃないか
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僕はコーヒーを飲み終えて
一層勢いを強める雨を眺めていた
どうしてこんなに退屈なんだろうと思った
虚しさが寂しさの偽装工作である以上
退屈も本当は寂しさなのだ
きっと この寂しさというものが
何らかの形で逆転するときまで
僕は寂しいままなのだと感じる
寂しいままである以上
虚しいままなのだと思う
いつも退屈で
何をすれば良いのかわからず
時間を持て余しているに違いない
街を歩き回ったり
家であらぬ回想に耽ったりしながら
どうすれば その逆転が
僕を訪れるのだろうか
人がバカをやっているのを見ると
温かい気持ちになる
自分はああは振る舞わないだろうと
襟を正してみたり
あるとき
ふと自分が人のように
バカをやっていることに
気がついたりする
もし誰もバカをやらなくなれば
自分がバカをやることになる
「自分」とは
そんな役回りのことを言う
※以下出典
[1]「朝は詩人」友部正人 「奇跡の果実」(1994)より
[2]「熱くならない魂を持つ人はかわいそうだ」友部正人 「ぼくの展覧会」(1994)より
[3]「夢がかなう10月」友部正人 「夢がかなう10月」(1996)より
選出作品
作品 - 20180901_484_10705p
- [優] 空洞 - 霜田明 (2018-09)
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空洞
霜田明