これから行くところは戦場です、と老いた女
が言う。住み慣れたはずの白い家。いつから
だろう、混濁の淵がゆっくりと近付いたのは。
深夜の台所に滴る水の一滴一滴は、少しずつ、
しかし確実に女の足下を濡らし、小高い丘陵
の中腹、小さな家を飲み込んでいったのだ。
ここから先は車は入れんとですよ、と女が言
う。怖か、怖かと震える女の脇を若い看護師
が慣れた様子で支え、不揃いな階段を上る。
玄関で立ちすくむ女を時々振り返りながら、
衣類の散乱した部屋の中から、当面の着替え
や身の回りの物を看護師が鞄に入れる。六十
五歳の誕生日を過ぎたら、女は新しい住み処
へ行く。穏やかな内海に面した静かな住まい。
帰りましょうね、と仕度を終えた看護師の声。
帰るーどこへ?車に乗るよう促された女の、
焦点の合わない瞳がただ震えている。新しい
住み処へ行くまでの数ヶ月を過ごす、四人部
屋。週に一度交換される白いシーツの傍ら、
看護師が置いていった写真。温厚そうな紳士、
父に似て背が高い青年、と女。窓から差し込
む光に、やがて色褪せてしまうのだろうか。
女はただ、清潔な白い天井を見上げている。
看護師のカルテには「自宅より帰院、自室に
て穏やかに過ごされる」とのみ記されていた。
選出作品
作品 - 20180524_697_10467p
- [優] 誰も知らない - 西村卯月 (2018-05)
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誰も知らない
西村卯月