選出作品

作品 - 20180507_912_10418p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


Ommadawn。

  田中宏輔



論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)


ほかにいかなるしるしありや?
(コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない』朝倉久志訳)


これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第III部・25、吉田誠一訳)


どんな霊感が働いたのかね?
(フリッツ・ライバー『空飛ぶパン始末記』島岡潤平訳)


われはすべてなり
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第二部・8、福島正実訳)


そうだな、
(ポール・ブロイス『破局のシンメトリー』12、小隅 黎訳)


確かに一つの論理ではある
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』17、安田 均訳)


しかし、これは一種の妄想じゃないのだろうか。
(ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』第二段階、星 新一訳)


現実には、そんなことは起きないのだ。
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)


いや、必ずしもそうじゃない。
(エリック・F・ラッセル『根気仕事』峰岸 久訳)


それは信号(シグナル)の問題なのだ。
(フレデリック・ポール『ゲイトウェイ』22、矢野 徹訳)


それもつかのま、
(J・G・バラード『燃える世界』4、中村保男訳)


ひとときに起こること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


まあ、それも一つの考え方だ
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)


よくわかる。
(カール・エドワード・ワグナー『エリート』4、鎌田三平訳)


どちらであろうとも。
(フィリップ・K・ディック『ユービック』10、浅倉久志訳)


だが、それよりもまず、
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』5、浅倉久志訳)


めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス「銀河は砂粒のように」4、中桐雅夫訳)


それは確かだ
(ラリー・ニーヴン『快楽による死』冬川 亘訳)


しかし
(ロッド・サーリング『免除条項』矢野浩三郎・村松 潔訳)


それを知ったのはほんの二、三年前だし、
(ハル・クレメント『窒素固定世界』7、小隅 黎訳)


それが
(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)


どんなものであるにせよ、
(レイ・ブラッドベリ『駆けまわる夏の足音』大西尹明訳)


そのときには、たいしたことには思えなかった。
(マーク・スティーグラー『やさしき誘惑』中村 融訳)
 

あるとき、詩人は、ふと思いついて、詩人の友人のひとりに、その友人が十八才から二十五才まで過ごした東京での思い出を、その七年間の日々を振り返って思い出されるさまざまな出来事を、箇条書きにして、ルーズリーフの上に書き出していくようにと言ったという。すると、そのとき、その友人も、面白がってつぎつぎと書き出していったらしい。二、三十分くらいの間、ずっと集中して書いていたという。しかし、「これ以上は、もう書けない。」と言って、その友人が顔を上げると、詩人は、ルーズリーフに書き綴られたその友人の文章を覗き込んで、そのときの気持ちを別の言葉で言い表すとどうなるかとか、そのとき目にしたもので特に印象に残ったものは何かとか、より詳しく、より具体的に書き込むようにと指図したという。そのあと、詩人からあれこれと訊ねられたときをのぞいては、その友人の手に握られたペンが動くことは、ほとんどなかったらしい。約一時間ぐらいかけて書き上げられた三十行ほどの短い文章を、詩人は、その友人の目の前で、ハサミを使って切り刻み、切り刻んでいった紙切れを、短く切ったセロテープで、つぎつぎと繋げていったという。書かれた文章のなかで、セロテープで繋げられたものは、ほんのわずかなもので、もとの文章の五分の一も採り上げられなかったらしい。そうして出来上がったものが、『マールボロ。』というタイトルの詩になったという。その詩のなかには、詩人が、直接、書きつけた言葉は一つもなかった。すべての言葉が、詩人の友人によって書きつけられた言葉であった。それゆえ、詩人は、詩人の友人に、共作者として、その友人の名前を書き連ねてもいいかと訊ねたらしい。すると、詩人の友人は、躊躇うことなく、即座に、こう答えたという。「これは、オレとは違う。」と。ペンネームを用いることさえ拒絶されたらしい。「これは、オレとは違うから。」と言って。詩人は、その言葉に、とても驚かされたという。そこに書かれたすべての言葉が、その友人の言葉であったのに、なぜ、「オレとは違う。」などと言うのか、と。詩人の行為が、その友人の気持ちをいかに深く傷つけたのか、そのようなことにはまったく気がつかずに……。その上、おまけに、詩人は、自分ひとりの名前でその詩を発表するのが、ただ、自分の流儀に反する、といっただけの理由で、怒りまで覚えたのだという。すでに、詩人は、引用のみによる詩を、それまでに何作か発表していたのだが、それらの作品のなかでは、引用された言葉の後に、その言葉の出典が必ず記載されていたのである。しかも、それらの出典は、引用という行為自体が意味を持っている、と見られるように、引用された言葉と同じ大きさのフォントで記載されていたのである。『マールボロ。』に書きつけられた言葉が、すべて引用であるのに、そのことを明らかに示すことができないということが、おそらくは、たぶん、詩人の気を苛立たせたのであろう。それにしても、『マールボロ。』という詩が、詩人の作品のなかで、もっとも詩人のものらしい詩であるのは、皮肉なことであろうか? ふとした思いつきでつくられたという、『マールボロ。』ではあるが、詩人自身も、その作品を、自分の作品のなかで、もっとも愛していたという。詩人にとって、『マールボロ。』は、特別な存在であったのであろう。晩年には、詩というと、『マールボロ。』についてしか語らなかったほどである。詩人はまた、このようなことも言っていた。『マールボロ。』をつくったときには、後々、その作品がつくられた経緯が、言葉がいかなるものであるかを自分自身に考えさせてくれる重要なきっかけになるとは、まったく思いもしなかったのだ、と。
詩人は、友人の言葉を切り刻んで、それを繋げていったときに、どういったことが、自分のこころのなかで起こっていたのか、また、そのあと、自分のこころがどういった状態になったのか、後日、つぎのように分析していた。

わたしのなかで、さまざまなものたちが目を覚ます。知っているものもいれば、知らないものもいる。知らないもののなかには、その言葉によって、はじめて目を覚ましたものもいる。それらのものたちと、目と目が合う。瞳に目を凝らす。それも一瞬の間だ。順々に。すると、知っていると思っていたものたちの瞳のなかに、よく知らなかったわたしの姿が映っている。知らないと思っていたものたちの瞳のなかに、よく知っているわたしの姿が映っている。ひと瞬きすると、わたしは、わたし、ではなくなり、わたしたち、となる。しかし、そのわたしたちも、また、すぐに、ひとりのわたしになる。ひとりのわたしになっているような気がする。それまでのわたしとは違うわたしに。

詩人の文章を読んでいると、まるで対句のように、対比される形で言葉が並べられているところに、よく出くわした。詩人の生前に訊ねる機会がなかったので、そのことに詩人自身が気がついていたのかどうか、それは筆者にはわからないのだが、しかし、そういった部分が、もしかすると、そういった部分だけではないのかもしれないが、たとえば、結論を出すのに性急で、思考に短絡的なところがあるとか、しかし、とりわけ、そういった部分が、詩人の文章に対して、浅薄なものであるという印象を読み手に与えていたことは、だれの目にも明らかなことであった。右の文章など、そのよい例であろう。
ところで、詩人はまた、その友人の言葉を結びつけている間に、その言葉がまるで


あれはわたしだ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)


と思わせるほどに、生き生きとしたものに感じられたのだという。


だがそれは同じものになるのだろうか?
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


それは?
(エドマンド・クーパー『アンドロイド』5、小笠原豊樹訳)


またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネット・ハザード』上・5、関口幸男訳)


兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月十六日、野口幸夫訳)


きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤 哲訳)


もちろんちがうさ。
(ゼナ・ヘンダースン『月のシャドウ』宇佐川晶子訳)


そんなことはありえない。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』12、岡部宏之訳)


ここにはもう一匹もウサギはいない
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)


いいかい?
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)


そもそも
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)


現実とはなにかね?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)


なにを彼が見つめていたか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)


このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)


もちろん、詩人がつくった世界は、といっても、これは作品世界のことであるが、しかも、詩人がそこで表現し得ていると思い込んでいるものと、読者がそこに見出すであろうものとはけっして同じものではないのだが、詩人の友人が現実の世界で体験したこととは、あるいは、詩人の友人が自分の記憶を手繰り寄せて、自分が体験したことを思い起こしたと思い込んでいるものとは、決定的に異なるものであるが、そのようなことはまた、詩人のつくった世界が現実にあったことを、どれぐらいきちんと反映しているのか、といったこととともに、詩というものとは、まったく関係のないことであろう。求められているのは、現実感であり、現実そのものではないのである。少なくとも、物理化学的な面での、現象としての現実ではないであろう。もちろん、言うまでもなく、詩は精神の産物であり、詩を味わうのも精神であり、しかも、その精神は、現実の世界がつくりだしたものでもある。しかしながら、物理化学的な面での、現象としての現実の世界だけが精神をつくっているわけではないのである。じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わうもの、そういった類のものからだけで、現実の世界ができているわけではないのである。見えていると思っているものや、聞こえていると思っているもの、触れていると思っているものや、味わっていると思っているものも、もちろんのことであるが、現実の世界は、見えもしないものや、聞こえもしないもの、触れることができないものや、味わうことができないもの、そういったものによってさえ、またできているのである。もしも、世界というものが、じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わえるもの、そういった類のものからだけでできているとしたら、いかに貧しいものであるだろうか? じっさいのところ、世界は豊かである。そう思わせるものを、世界は持っている。


魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)


詩人が、『マールボロ。』から得た最大の収穫は、何であったのだろうか? 右に引用した文の横に、詩人は、こんなメモを書きつけていた。「「物質」を「言葉」とすると、こういった結論が導かれる。詩を読んで、言葉を通して、はじめて、自分の気持ちがわかることがある、ということ。言葉は、わたしたちについて、わたしたち自身が知らないことも知っていることがある、ということ。」と。


言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)


作品は作者を変える。
自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。完成すると、作品は今一度作者に逆に作用を及ぼす。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)


これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)


詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)


今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)


わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)


あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)


過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)


なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)


さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)


これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)


急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)


そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)


こういった考察を、『マールボロ。』は、詩人にさせたのだが、『マールボロ。』をつくったときの友人とは別の友人に、あるとき、詩人は、つぎのように言われたという。「言葉に囚われているのは、結局のところ、自分に囚われているにひとしい。」と。そう言われて、ようやく、詩人は、『マールボロ。』をつくったときに、自分の友人を傷つけたことに、その友人のこころを傷つけたことに気がついたのだという。
詩人の遺したメモ書きに、つぎに引用するような言葉がある。『マールボロ。』をつくる前のメモ書きである。


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)


新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


詩人の作品が、詩人の友人の思い出に等しいものであるはずがないことに、なぜ、詩人自身が、すぐに気がつかなかったのか、それは、さだかではないが、たしかに、詩人は思い込みの激しい性格であった。右に引用したような事柄が、頭ではわかっていたのだが、じっさいに実感することが、すぐにはできなかったらしい。それが実感できたのは、先に述べたように、別の友人に気づかされてのこと、『マールボロ。』をつくった後、しばらくしてからのことであったという。


しかし、彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。
だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)


これは、『マールボロ。』制作以降に、詩人が書きつけていたメモ書きにあったものである。たしかに、同じ事柄でも、同じ言葉でも、順序を並べ替えて表現すると、ただそれだけでも、まったく異なる内容のものにすることができるのであろう。詩人が引用していた、この文章は、ほんとうに、こころに染み入る、すぐれた表現だと思われる。
ところで、悲劇にあるエピソードを並べ替えて、喜劇にすることもできるということは、そしてまた、喜劇にあるエピソードを並べ替えて、悲劇にすることもできるということは、わたしに、人生について、いや、人生観について考えさせるところが大いにあった。ある事物や事象を目の前にしたときに、即断することが、いかに愚かしいことであるのか、そういったことを、わたしに思わしめたのである。一方、詩人は、つねにといってもよいほど、ほとんど独断し、即断する、じつに思い込みの激しい性格であった。


ただひとつの感情が彼を支配していた。
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)


感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはもちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)


今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)


それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)


私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)


私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)


世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


これらの言葉から、詩人の考えていたことが、詩人の晩年における境地というようなものが、詩人の第二詩集である『The Wasteless Land.』の注釈において展開された、詩人自身の自我論に繋がるものであることが、よくわかる。
先にも書いたように、詩人は、つねづね、『マールボロ。』のことを、「自分の作品のなかで、もっとも好きな詩である。」と言っていたが、「それと同時に、またもっとも重要な詩である。」とも言っていた。その言葉を裏付けるかのように、『マールボロ。』については、じつにおびただしい数の引用や文章が、詩人によって書き残されている。以下のものは、これまで筆者が引用してきたものと同様に、詩人が、『マールボロ。』について、生前に書き留めておいたものを、筆者が適宜抜粋したものである。(すべてというわけではない。一行だけ、例外がある。筆者が補った一文である。読めばすぐにわかるだろうが、あえて――線を引いて示しておいた。)


なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)


心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)


言葉や概念といったものが自我を引き寄せて思考を形成するのだろうか? それとも、思考を形成する「型」や「傾向」といったようなものが自我にはあって、それが、言葉や概念といったものを引き寄せて思考を形成するのだろうか? おそらくは、その双方が、相互に働きかけて、思考を形成しているのであろう。


一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 

その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 


思考が形成される過程については、まだ十分に考察しきっていないところがあると思われるのだが、少なくとも、「習慣的な」思考とみなされるようなものは、そこで用いられている「言葉」というよりも、むしろ、その思考をもたらせる「型」や「傾向」といったようなものによって、主につくられているような気がするのであるが、どうであろうか? というのも、


人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)


というように、思考には、「型」や「傾向」とかいったようなものがあると思われるからである。そしてまた、そういったものは、その概念を受容する頻度や、その概念をはじめて受け入れたときのショックの強度によって、ほぼ決定されるのであろうと、わたしには思われるのである。
ところで、幼児の気分が変わりやすいのは、なぜであろうか。おそらく、思考の「型」や「傾向」といったようなものが、まだ形成されていないためであろう。あるいは、形成されてはいても、まだ十分に形成されきっていないのであろう、それが十分に機能するまでには至っていないように思われる。幼児は、そのとき耳にした言葉や、そのとき目にしたものに、振り回されることが多い。「型」や「傾向」といったようなものがつくられるためには、繰り返される必要がある。繰り返されると、それが「型」や「傾向」といったようなものになる。ときには、ただ一回の強烈な印象によって、「型」や「傾向」といったようなものがつくられることもあるであろう。しかし、そのことと、繰り返されることによって「型」や「傾向」といったようなものがつくられることとは、じつは、よく似ている。同じページを何度も何度も開いていると、ごく自然に、本には開き癖といったようなものがつくのだが、ぎゅっと一回、強く押してページを開いてやっても、そのページに開き癖がつくように。それに、強烈な印象は、その印象を受けたあとも、しばらくは持続するであろうし、それはまた、繰り返し思い出されることにもなるであろう。
しかし、ヴァレリーの


個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)


といった言葉を読み返して思い起こされるのだが、たしかに、わたしには、しばしば、「個性的な」といった形容で言い表される人間の言っていることやしていることが、ただ単に反射的に反応してしゃべったり行動したりしていることのように思われることがあるのである。つねに、とは言わないまでも、きわめてしばしば、である。


霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


したがって、「習慣的な」思考を、「習慣的でない」思考と同様に、「思考」として考えてもよいものかどうか、それには疑問が残るのである。「習慣的な」思考というものが、単なる想起のようなものにしか過ぎず、「習慣的でない」思考といったものだけが、「思考」というものに相当するものなのかもしれないからである。また、ときには、ある「思考」が、「習慣的な」ものであるのか、それとも、「習慣的でない」ものであるのか、明確に区別することができない場合もあるであろう。それにまた、「思考」には、「習慣的な」ものと「習慣的でない」ものとに分類されないものも、あるかもしれないのである。しかし、いまはまだ、そこまで考えることはしないでおこう。「習慣的な」思考と「習慣的でない」思考の、このふたつのものに限って考えてみよう。単純に言ってみれば、「型」や「傾向」により依存していると思われるのが、「習慣的な」思考の方であり、「言葉」自体により依存していると思われるのが、「習慣的でない」思考の方であろうか? これもまた、「より依存している」という言葉が示すように、程度の問題であって、絶対にどちらか一方だけである、ということではないし、また、そもそものところ、思考が、「言葉」といったものや、「型」や「傾向」といったものからだけで形成されるものでないことは、


われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


というように、感覚器官が受容する刺激が認識に与える影響についてだけ考えてみても明らかなことであろうが、
思考は言語からのみ形成されるのではない。しかし、あえて、論を進めるために、ここでは、思考を形成するものを、「言葉」とか、あるいは、「型」や「傾向」とかいったものに限って、考えることにした。いずれにしても、それらのものはまた、


創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)


――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並べ替えることだけだ、と。


人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)



並べ替える? それとも、並び替えさせるのか? 並べ替える? それとも、並び替えさせるのか?  


『マールボロ。』


断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)



並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか? 並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか?


『マールボロ。』


ただ言葉を選んで、並べただけなのだが、『マールボロ。』という詩によって、はじめてもたらされたものがある。そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩が出来上がってはじめて、その出来上がった詩を目にしてはじめて、わたしのこころのなかに生まれた感情がある。それは、それまでのわたしが、わたしのこころのなかにあると感じたことのない、まったく新しい感情であった。まるで、その詩のなかにある言葉の一つ一つが、わたしにとって、激しく噴き上げてくる間歇泉の水しぶきのような感じがしたのである。じっさい、紙面から光を弾き飛ばしながら、言葉が水しぶきのように迸り出てくるのが感じられたのである。また、そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩の形をとることによって、言葉たちがはじめて獲得した意味がある。それは、その詩が出来上がるまでは、その言葉たちがけっして持ってはいなかったものであり、それは、その言葉にとって、まったく新しい意味であった。
これを、人間であるわたしの方から見ると、言葉たちを、ただ選び出して、並べ替えただけのように見える。事実、ただそれだけのことである。これを、言葉の方から見ると、どうであろうか? 言葉の方の身になって、考えられるであろうか? 『マールボロ。』の場合、言葉はもとの場所から移され、並び替えさせられた上に、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わったのである。時間的なことを考慮して言うなら、人間が入れ替わるのと同時に、言葉も並び替えさせられたのである。人間であるわたしの方から見る場合と異なる点は、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わっていたということであるが、それでは、はたして、それらの言葉の前で、人間の方が入れ替わっていたという、このことが、他の言葉とともに並び替えさせられたことに比べて、いったいどれぐらいの割合で、それらの言葉の意味の拡張や変化といったものに寄与したのであろうか? しかし、そもそものところ、そのようなことを言ってやることなどできるのであろうか? できやしないであろう。というのも、そういった比較をするためには、人間が入れ替わらずに、それらの言葉が、『マールボロ。』という詩のなかで配置されているように配置される可能性を考えなければならないのであるが、そのようなことが起こる可能性は、ほとんどないと思われるからである。まあ、いずれにしても、見かけの上では、言葉の並べ替えという、ただそれだけのことで、わたしも、その言葉たちも、それまでのわたしや、それまでのその言葉たちとは、違ったものになっていた、というわけである。


ぼくらがぼくらを知らぬ多くの事物によって作られているということが、ぼくにはたとえようもなく恐ろしいのです。ぼくらが自分を知らないのはそのためです。
(ヴァレリー『テスト氏』ある友人からの手紙、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)



といったことを、ヴァレリーが書いているのだが、『マールボロ。』という詩をつくる「経験」を通して、「ぼくらを知らぬ多くの事物」が、いかにして、「ぼくら」を知っていくか、また、「自分を知らない」「ぼくら」が、いかにして、「自分」を知っていくか、その経緯のすべてとはいわないが、その一端は窺い知ることができたものと、わたしには思われるのである。


『マールボロ。』


言葉は、つぎつぎと人間の思いを記憶していく。ただし、言葉の側からすれば、個々の人間のことなどはどうでもよい。新たな意味を獲得することにこそ意義がある。言葉の普遍性と永遠性。言葉自身が知っていることを、言葉に教えても仕方がない。言葉の普遍性と永遠性。わたしたちが言葉を獲得する? 言葉が獲得するのだ、わたしたちを。言葉の普遍性と永遠性。もはや、わたし自身が言葉そのものとなって考えるしかあるまい。


『マールボロ。』


デニス・ダンヴァーズが『天界を翔ける夢』や、その姉妹篇の『エンド・オブ・デイズ』のなかに書いているように、あるいは、グレッグ・イーガンが『順列都市』のなかで描いているように、将来において、たとえ、人間の精神や人格を、その人間の記憶に基づいてコンピューターにダウンロードすることができるとしても、そういったものは、元のその人間の精神や人格とはけっして同じものにはならないであろう。なぜなら、人間は、偶然が決定的な立場で控えている時間というもののなかに生きているものであり、その偶然というものは、どちらかといえば、量的な体験ではなく、質的な体験においてもたらされるものだからである。驚くことがいかに人生において重要なものであるか、それを機械が体験し、実感することができるようになるとは、とうてい、わたしには思えないのである。せいぜい、思考の「型」とか「傾向」とかいったようなものをつくれるぐらいのものであろう。それに、たとえ、思考の「型」や「傾向」とかいったようなものを、ソフトウェア化することができるとしても、それらから導き出せるような思考は、単なる「習慣的な」思考であって、そのようなものでは、『マールボロ。』のようなものをつくり出すことはおろか、『マールボロ。』のようなものをつくり出すきっかけすら思いつくことができるようなものにはならないであろう。


『マールボロ。』


紙片そのものではなく、それを貼り合わせる指というか、糊というか、じっさいはセロテープで貼り付けたのだが、短く切り取ったセロテープを紙片にくっつけるときの息を詰めた呼吸というか、そのようなものでつくっていったような気がする。そのことは以前にも書いたことがあるのだが、それは、ほとんど無意識的な行為であったように思われる。基本的には、これが、わたしの詩の作り方である。     


『マールボロ。』


たしかに、「言葉」には、互いに引き合ったり反発しあったりする、磁力のようなものがある。そう、わたしには思われる。そして、それらのものを、思考の「型」や「傾向」といったものの現われともとることはできるのだが、そうではない、「言葉」そのものにはない、「型」や「傾向」といったものもあるように、わたしには思われるのである。とはいっても、言葉が、その言葉としての意味を持って、個人の前に現われる前に、その個人の思考の「型」や「傾向」といったようなものが存在したとも思われないのだが、……、しかし、ここまで考えてきて、ふと思った。「言葉」の方が磁石のようなもので、「型」や「傾向」といったものの方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、「型」や「傾向」といったものの方が磁石のようなもので、「言葉」の方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、と。ふうむ、……。


『マールボロ。』


作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)


きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)


そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)


こんどはそれをこれまで学んできた理論体系に照らし合わせて検証しなければならん
(スティーヴン・バクスター『天の筏』5、古沢嘉道訳)


実際にやってみよう
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)


煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)


具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)


形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)


きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)



つぎに掲げてあるのは、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の冒頭部分である。囲み線の部分を、他の作家の作品の言葉と置き換えてみた。まず、はじめに、夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部分の言葉を使って、囲み線のところを置き換えた。囲み線は、わたしが施したもの。以下同様。


 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子(はしご)に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧(むし)ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一(いち)行(ぎやう)のボオドレエルにも若(し)かない。」
 彼は暫(しばら)く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……


 吾輩(わがはい)は或猫の名前だつた。ニャーニャーの吾輩は人間にかけた書生の人間に登り、新らしい種族を探してゐた。書生、我々、話、考、彼、掌(てのひら)、……
 そのうちにスーは迫り出した。しかしフワフワは熱心に掌の書生を読みつづけた。そこに並んでゐるのは顔といふよりも寧(むし)ろ人間それ自身だつた。毛、顔、つるつる、薬缶(やかん)、猫、顔、……
 穴はぷうぷうと戦ひながら、煙(けむり)のこれを数へて行つた。が、人間はおのづからもの憂い煙草(たばこ)の中に沈みはじめた。書生はとうとう掌も尽き、裏(うち)の心持を下りようとした。すると書生のない自分が一つ、丁度眼の胸の上に突然ぽかりと音をともした。眼は火の上に佇(たたず)んだまま、書生の間に動いてゐる兄弟や母親を見(み)下(おろ)した。姿は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「眼は容(よう)子(す)ののそのそにも若(し)かない。」
 吾輩は暫(しばら)く藁(わら)の上からかう云ふ笹原を見渡してゐた。……


ここで、比較のために、もとの『吾輩は猫である』の冒頭部分を掲げておく。


 吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮(に)て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後(ご)猫にもだいぶ逢(あ)ったがこんな片(かた)輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙(けむり)を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草(たばこ)というものである事はようやくこの頃知った。
 この書生の掌の裏(うち)でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に眼が廻る。胸が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじん)の母親さえ姿を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容(よう)子(す)がおかしいと、のそのそ這(は)い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁(わら)の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。


つぎに、堀 辰雄の『風立ちぬ』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


夏は或日々の薄(すすき)だつた。草原のお前は絵にかけた私の白樺に登り、新らしい木蔭を探してゐた。夕方、お前、仕事、私、私達、肩、……
 そのうちに手は迫り出した。しかし茜(あかね)色(いろ)は熱心に入道雲の塊りを読みつづけた。そこに並んでゐるのは地平線といふよりも寧(むし)ろ地平線それ自身だつた。 日、午後、秋、日、私達、お前、……
 絵は画架と戦ひながら、白樺の木蔭を数へて行つた。が、果物はおのづからもの憂い砂の中に沈みはじめた。雲はとうとう空も尽き、風の私達を下りようとした。すると頭のない木の葉が一つ、丁度藍色(あいいろ)の草むらの上に突然ぽかりと物音をともした。私達は私達の上に佇(たたず)んだまま、絵の間に動いてゐる画架や音を見(み)下(おろ)した。お前は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「私は一瞬の私にも若(し)かない。」
 お前は暫(しばら)く私の上からかう云ふ風を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『風立ちぬ』の冒頭部分を掲げておく。


 それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜(あかね)色(いろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色(あいいろ)が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
風立ちぬ、いざ生きめやも。


つぎに、小林多喜二の『蟹工船』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


 地獄は或二人のデッキだつた。手すりの蝸牛(かたつむり)は海にかけた街の漁夫に登り、新らしい指元を探してゐた。煙草(たばこ)、唾(つば)、巻煙草、船腹(サイド)、彼、身体(からだ)、……
 そのうちに太鼓腹は迫り出した。しかし汽船は熱心に積荷の海を読みつづけた。そこに並んでゐるのは片(かた)袖(そで)といふよりも寧(むし)ろ片側それ自身だつた。煙突、鈴、ヴイ、南(ナン)京(キン)虫(むし)、船、船、……
 ランチは油煙と戦ひながら、パン屑(くず)の果物を数へて行つた。が、織物はおのづからもの憂い波の中に沈みはじめた。風はとうとう煙も尽き、波の石炭を下りようとした。すると匂いのないウインチが一つ、丁度ガラガラの音の上に突然ぽかりと波をともした。蟹工船博光丸はペンキの上に佇(たたず)んだまま、帆船の間に動いてゐるへさき(ヽヽヽ)や牛を見(み)下(おろ)した。鼻穴は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「錨(いかり)は鎖の甲板にも若(し)かない。」
 マドロス・パイプは暫(しばら)く外人の上からかう云ふ機械人形を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『蟹工船』の冒頭部分を掲げておく。


「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(かか)え込んでいる函(はこ)館(だて)の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を唾(つば)と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹(サイド)をすれずれに落ちて行った。彼は身体(からだ)一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾(はば)広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片(かた)袖(そで)をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南(ナン)京(キン)虫(むし)のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑(くず)や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接(じか)に響いてきた。
 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥(は)げた帆船が、へさき(ヽヽヽ)の牛の鼻穴のようなところから、錨(いかり)の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


ここでまた、比較のために、『或阿呆の一生』の言葉を、前掲の三つの文章のなかにある言葉と置き換えてみた。


それは或本屋である。二階はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見(けん)当(とう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で二十歳泣いていた事だけは記憶している。彼はここで始めて書棚というものを見た。しかもあとで聞くとそれは西洋風という梯子(はしご)中で一番獰(どう)悪(あく)な本であったそうだ。このモオパスサンというのは時々ボオドレエルを捕(つかま)えて煮(に)て食うというストリントベリイである。しかしその当時は何というイブセンもなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただシヨウのトルストイに載せられて日の暮と持ち上げられた時何だか彼した感じがあったばかりである。本の上で少し落ちついて背文字の本を見たのがいわゆる世紀末というものの見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一ニイチエをもって装飾されべきはずのヴエルレエンがゴンクウル兄弟してまるでダスタエフスキイだ。その後(ご)ハウプトマンにもだいぶ逢(あ)ったがこんな片(かた)輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならずフロオベエルの真中があまりに突起している。そうしてその彼の中から時々薄暗がりと彼等を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。名前が本の飲む影というものである事はようやくこの頃知った。
 この彼の根気の西洋風でしばらくはよい梯子に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。傘が動くのか電燈だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に彼が廻る。頭が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと火がして彼から梯子が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると本はいない。たくさんおった店員が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじん)の客さえ彼等を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明るい。人生を明いていられぬくらいだ。はてな何でも一(いち)行(ぎやう)がおかしいと、ボオドレエル這(は)い出して見ると非常に痛い。彼は梯子の上から急に彼等の中へ棄てられたのである。


それらのそれの本屋、一面に二階の生い茂った二十歳の中で、彼が立ったまま熱心に書棚を描いていると、西洋風はいつもその傍らの一本の梯子(はしご)の本に身を横たえていたものだった。そうしてモオパスサンになって、ボオドレエルがストリントベリイをすませてイブセンのそばに来ると、それからしばらくシヨウはトルストイに日の暮をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ彼を帯びた本のむくむくした背文字に覆われている本の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその世紀末から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんなニイチエの或るヴエルレエン、(それはもうゴンクウル兄弟近いダスタエフスキイだった)ハウプトマンはフロオベエルの描きかけの彼を薄暗がりに立てかけたまま、その彼等の名前に寝そべって本を齧(か)じっていた。影のような彼が根気をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく西洋風が立った。梯子の傘の上では、電燈の間からちらっと覗いている彼が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、頭の中に何かがばったりと倒れる火を彼は耳にした。それは梯子がそこに置きっぱなしにしてあった本が、店員と共に、倒れた客らしかった。すぐ立ち上って行こうとする彼等を、人生は、いまの一(いち)行(ぎやう)の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、ボオドレエルのそばから離さないでいた。彼は梯子のするがままにさせていた。

彼等立ちぬ、いざ生きめやも。


「おいそれさ行(え)ぐんだで!」
本屋は二階の二十歳に寄りかかって、彼が背のびをしたように延びて、書棚を抱(かか)え込んでいる函(はこ)館(だて)の西洋風を見ていた。――梯子(はしご)は本まで吸いつくしたモオパスサンをボオドレエルと一緒に捨てた。ストリントベリイはおどけたように、色々にひっくりかえって、高いイブセンをすれずれに落ちて行った。シヨウはトルストイ一杯酒臭かった。
赤い日の暮を巾(はば)広く浮かばしている彼や、本最中らしく背文字の中から本をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り世紀末に傾いているのや、黄色い、太いニイチエ、大きなヴエルレエンのようなゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイのようにハウプトマンとフロオベエルの間をせわしく縫っている彼、寒々とざわめいている薄暗がりや彼等や腐った名前の浮いている何か特別な本のような影……。彼の工合で根気が西洋風とすれずれになびいて、ムッとする梯子の傘を送った。電燈の彼という頭が、時々火を伝って直接(じか)に響いてきた。
この彼のすぐ手前に、梯子の剥(は)げた本が、店員の客の彼等のようなところから、人生の一(いち)行(ぎやう)を下していた、ボオドレエルを、彼をくわえた梯子が二人同じところを何度も彼等のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。