選出作品

作品 - 20180501_781_10403p

  • [佳]  malagma - 霜田明  (2018-05)

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malagma

  霜田明

 もしわたしがわたしと会話したいときはどうすればいいんだろう、それが暮らしに足りないもので、だから好きな場所はドアの前とか電柱のそばとか浴槽の中だった。今朝、壁に掛かっている絵を外そうとしたら重たくて驚いた。重たいってことをずっと忘れていた。わたしは先生が雨の日に散歩に誘ってくれることを身体の中に欠損としてもっている。そこが真空みたいになって、だからそれが保たれなくなったとき一斉に流れ込むだろうって予感がある。雨が好きなんですだなんてさすがに嘘のようなことを言ってしまったから、それが真実よりもしぶとくて、偶然見つけた喫茶店の座席が固定されていた、みたいに、必然、を信じさせてくれるところで、それは真実なんじゃないかって思う。わたしが十分に不十分でないことをどうすれば解けるんだろう、それが生命に足りないもので、だから人混みの中も友達のそばもちょっとした会話も、それがあまりに優しかった。好きな場所と好きな人との融和がありうるとすれば、それはきっと降り続くということのある雨の中だって気がする。

 寂しさだけが真実だっておもったり充実だけが真実だっておもったりするなかで好きな人と過ごす時間の暖かさだけが、愛だけが真実だって確信したことがあった。でもわたしから君を訪ねてもだめで、君からわたしを訪ねてもらわないとだめなんだってことが分かった。偶然出会うことがふたりにとって見つけあうことじゃなくて見つけられあうところでよりつよく響くみたいに。もしわたしたちが呼びかけ合うときがきたらふたりとも二人の間の距離を歩いていけない状態に陥っているだろうとおもう、だって歩いてきてもらわないと愛はみつからない、でも日常はそんなことさえもほんと些細なことのように扱って、君はときどきわたしの手を取って、わたしはときどき君に抱きついた。その距離が実際に振る舞われるときにはそこに充ちていたはずの液体の抵抗を受けないみたいに簡単に透過できた。

 わたしが真実をあまりに流動的に捉えるみたいに、でも君がそばにいてさえくれたら、それだけできっと全部解消されるんじゃないかって、そんなことがいま流動する真実の位置を占めていて、その重たさを受ける心の身体のようなたしかさが、それがあんまり切実だから、正直に言うとあまり笑えないんだ。愛はわたしの身体を離れたところへ飛んでいかないことが条件だから鈍くて重たい色をしているんだと思う。それでも捕まえることが恐ろしいから液体のように笑っているみたいに流れるものでしかありえないんだ。わたしは憂鬱なんかじゃない、それだけは言っておかないと、だって、こんなに澄んでいるから。

 でもほんとうには信じることのできないことが暮らしを満たしている、たとえばいまも君はどこかで何か別のことを考えたりしているってこと、どうやったら信じられるんだろう。わたしがこれから歳を取っていくことだって。結婚しないって言ってたのに当たり前のように結婚して嬉しそうにして出て行ったお姉ちゃんのこともそう、それでもわたしはたぶん結婚しないって本気で思う、でも歳を取ってしまうってことは頭ではきっとそうなるんだろうって思っている。わたしはみんな大好きでほんとうは誰か好きな人とお互いを選び合って朝から晩までべったり暮らしていたい。誰かじゃなくて好きな人と。誰でもいいってわけじゃないけどみんなそれぞれに好きだからその中でなら誰でもいいんだって言い方はおかしいけど。でも、だって、愛する人なんだから。でもわたしには愛がないんだよ。

 わたしは君が簡単に、普段学校でそうするみたいに簡単にわたしを見つけてくれたことが網膜の裏に残り続けていてそこには存在しなかったはずのわたしの姿があるんだよ。それは過去の方向にあるけど、でもそれがわたしの夢なんだと思う。でも辿り着けない夢ってどうやったら希望にできるのかな、わたしは友達同士だからってふりをして君に抱きつくときにその幸せの響きを味わってるって思うことがある。正直に話をするときにかならず身体の内側が清々しいみたいにいまのわたしも清々しい、でも正直に話をするときみたいな恥ずかしさがいまはなくてそれが少し不安かな。でも、それはきっとわたしのせいだとおもっていてだからわたしは、――いや、このことは言えないんだ、その言えないひとつのことのなかに恥ずかしさが入っているんだっていまわかった。でもわたしが言ってることが嘘だってことじゃないんだよ。

 柔らかいクッションを買ったみたいに暮らしていくことの優しさのなかに埋もれていられないことがもったいないのかなって気もする。そこにはきっと続いていくってことを信じることと信じられないことがあってもし終わってしまうっていうのならそこに優しさはあったことになるのかわからなくて。時間っていうものはきっと不安だから流れていってそして続いたり終わっていくことに変わるんだ、もし時間は安心していたら流れていくものじゃなくなって続いていくことも終わっていくこともほんとうはないんだって気がする。

 みんな休みの日って何をやっているんだろう。わたしには愛がないんじゃなくて休みがないのかもしれない。だって終わっていくことがあって、いや終わっていくことはないのに、それなのに追われていて、どうして休めばいいんだろうって。きっと安心できたなら追われることもなくなって、でももしそうなったら毎日はどうやって暮らしていけばいいんだろう。やるべきこともなくてやりたいこともなくて時間が流れることさえもなくなってしまったら。わたしの身体の中に残り続ける生きるってことは終わることでも終わらないことでもいけなくて、でもいまこんなふうに澄んでいるということがあって、でもこれはきっと明日は不安で明後日はずっと安心でそしてまたときどきこんなふうに澄んでいるということになる。

 わたしのちょっとした一日が誰か知らない人の目にずっと見られていること、それとも君にずっと見られていないところでわたしはほんとうのものを逸れているような気がしつづけた。誰かがわたしを見限ってくれればいいのに、それとも君がちゃんとわたしを見つづけてくれればいいのに。わたしはベッドに仰向けで寝転んでいる顔の少しの表情さえが見られること、あるいは見せたいことの意識を離れられないことに気がついてちゃんとただしい顔することができなかった。

 お風呂を出て自分の顔をじっとみた。鏡を通して見るということはただ視線の困惑で、わたしをみつめることじゃない、そう思った。君を見つめることは動揺にちかい気持ちを起こすけど、でもそれを含めてもわたし自身をみつめることにずっとちかい。というよりも君を見ているわたしのほうが見られているということに不思議にかわるんだよ。わたしはわたしのすきなひとを君に想ってもらいたい。でもその先は突然壁で存在しないんだ、想いと行為は別だから。わたしの中には行為はなくてだから行為というのはどこにもなくて、でも後から振り返るとそれがあったことになるから不思議で。むしろ行為ばっかりが後ろには積み上がっていくからまるで過去は存在しなかったものの流れみたいになっていく。

 ひとがわたしをどう思うかってことが気にならない日はなくって、それもわたしの愛していない人がわたしをどう思うかってことが窓の外を見るときみたいにいつでも気にかかって、それが、眩しい、ような気分になる。そのとき君はどこにもいない。わたしがわたしでないことを決められた誰かの方へ、たとえばお姉ちゃんがそうしたように歩いていくならそれはきっと眩しさにたえられなくて、それとも眩しさを身体の中に受けいれるために歩いていくんだって気がする。

 わたしはあの晩君にこだわらない寂しさのなかでそれでも君のことを考えていた。君がわたしを見つけるときわたしのいないところにいる君を振り落とすことでわたしに接触するんだってことがふとわかった。それがふたりの「歩いていけない距離」の歩いていけないことの本当の理由だってことがわかった。