選出作品

作品 - 20180409_376_10364p

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Sat In Your Lap。

  田中宏輔



 私の周囲にあったものは、すべて私と同一の素材、惨めな一種の苦しみによってできていた。私の外の世界も、非常に醜かった。テーブルの上のあのきたないコップも、鏡の褐色の汚点も、マドレーヌのエプロンも、マダムの太った恋人の人の好さそうな様子も、すべてみな醜かった。世界の存在そのものが非常に醜くて、そのためにかえって私は、家族に囲まれているような、くつろいだ気分になれた。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


 詩人の遺稿のなかに、つぎの二つの原稿が見つかった。それらの原稿は、クリップで一つにまとめられていたのだが、上の文章のメモ書きが、一つ目の原稿の上に、セロテープで貼り付けられていた。上の文章が、原稿のどこに差し挟まれるのかは、指示してなかったので、本稿の冒頭に冠することにした。二つの原稿の内容とは微妙にずれるものとも思われたが、詩人の遺稿を取り扱う際に、後から付加されたメモ書きも、できるかぎり取り入れていくという姿勢で原稿を整理しているので、このように処することにした。上のメモ書きの文章が、どこに引用されるべきものだったのか、二つの原稿を何度も読み返してみたが、わからなかった。もしかすると、ただ原稿を書き直すための参考資料にでもしようとしていたのかもしれない。詩人の意向を察することも、読者にとっては、一興かもしれない。試みられても面白かろうと思われる。
 ところで、この二つの原稿は、内容から察すると、どこかの雑誌か、同人誌にでも発表されたものであるらしいのだが、調べてもわからなかった。これらの原稿が掲載された雑誌や同人誌の類は、詩人の遺品のなかにはなかった。もしかすると、出すつもりではあったが、何らかの理由で出さなかったものかもしれない。しかし、もしそうであっても、ここに、あえて収録するのは、この二つの原稿が、詩人の詩論として集大成的なものであり、詩人の詩を理解するためには、けっして見落とせないものだと思われたからである。
 二つの原稿をつづけて紹介し、その後で、詩人が使っている独特な言い回しについて、若干、解説していくことにする。




Sat In Your Lap。I


『イル ポスティーノ』という映画を見ていたら、パブロ・ネルーダの詩の一節が引用されていた。


俺は人間であることにうんざりしている
俺が洋服屋に寄ったり映画館にはいるのは
始原と灰の海に漂うフェルトの白鳥のように
やつれはて かたくなになっているからだ

俺は床屋の臭いに大声をあげて泣く
俺が望むのはただ 石か羊毛のやすらぎ
俺が望むのはただ 建物も 庭も 商品も
眼鏡も エレベーターも 見ないこと

俺は自分の足や爪にも
髪や影にもうんざりしている
俺は人間であることにうんざりしている
(『歩きまわる』桑名一博訳)


 映画のなかで使われていたのは、たしか、第一連から第二連までだったかと思われるのだが、もしかすると、第三連までだったかもしれない。それにしても、この「俺は人間であることにうんざりしている」というフレーズは印象的だった。俳優がこの言葉を口にしていたときの表情とともに。映画には、ほかにも記憶に残る場面がいくつもあったのだが、もっとも印象に残ったのは、このフレーズと、このフレーズについて考えながらしゃべっているような様子をしていた俳優の表情であった。
 ネルーダの名前には記憶があったので、本棚を探してみた。集英社から出ている『世界の文学』シリーズの『現代詩集』の巻に載っていた。持っている詩集は、すべて目を通していたはずなのに、この詩のこのフレーズに目をとめることができなかったことに恥ずかしい思いがした。自分の感受性が劣っているのではないかと思われたのである。もちろん、年齢や経験の違いが、あるいは、読むときの状況とかの違いが、その詩や、そのフレーズに目をとめさせたり、とめさせなかったりするのだから、劣等感を持つ必要などことさらなく、むしろ、いま、ネルーダの詩のこのフレーズに目をとめることができたということに、自分の感受性の変化を感じ取り、それを成長と受けとめ、祝福するべきであるのだろうけれども。


犬は何処へ行くのか?
(ボードレール『善良なる犬』三好達治訳)


 ここで、ふと、こんなことを思いついた。犬が犬であることにうんざりするということはないのだろうかと。それは、自分が犬にならないとわからないことなのかもしれないけれど、もしも、犬に魂があるのなら、魂を持っているものは感じることができるのだし、また考えることもできるのであろうから、犬もまた、自分が犬であることにうんざりするということもあるのかもしれないと思ったのである。ところで、自分が人間であることにうんざりするというのは、人間にとってもかなり複雑な気分であると思われるので、もしかすると、犬には、自分が犬であることにうんざりするというような能力が欠けているのかもしれないけれど、犬を見ている人間が、自分の気持ちをその犬に仮託して、犬が犬であることにうんざりしているように見えることならば、あると思われる。というより、よくあることのように思われる。しかし、そう見えるためには、少なくとも、人間の方が、犬の魂というか、心情とかいったものを、ある程度は理解していなければならないと思うのだが、仮に魂を領土のようなものにたとえれば、理解するためには、まず、その犬の魂に自分の魂の一部分を与えることが必要で、そうして、そのことによって、その犬の魂の領土のなかに踏み込んで行き、その犬の魂の領土のなかに、その犬の魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、その犬の魂の一部分を自分の魂のなかに取り込み、自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂の一部分が共存する領域を設けなければならないと思われるのだが、そういうふうに思われないだろうか。

 ここで、また、このようなことを思いついた。犬といった、多少は知恵のありそうな動物だけではなく、海といったものや、言葉といったものも、自分が自分であることにうんざりするというようなこともあるのではないかと。「海が海であることにうんざりしている。」とか、「言葉が言葉であることにうんざりしている。」とか書くと、なんとなく、海や言葉が人間のように考えたり感じたりしているような気がしてくるから不思議だ。これは、もちろん、わたしが、海や言葉といったものに、わたしの気持ちを仮託して感じ取っているのだろうけれど。「快楽が快楽であることにうんざりしている。」というふうに書くと、いささか反語的な響きを帯びた、陳腐な表現になってしまうが、「悲しみが悲しみであることにうんざりしている。」と書くと、状況によっては、象徴的な、まことに的確な表現にもなるであろう。

 ここで、動物だけではなく、あらゆる事物や事象にも魂というものがあるとすれば、言葉といった実体のない概念のようなものにさえ、魂といったものがあるとすれば、ある人間が他の人間や動物を理解するような場合だけではなく、人間が事物や事象を理解したり言葉を理解したりする場合にも、また、ある事物や事象が他の事物や事象を理解したり人間や言葉を理解したりする場合にも、さらにまた、ある言葉が他の言葉を理解したり人間や事物や事象を理解したりする場合にも、互いに魂のやり取りをし合って、他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設けていると考えればよいと思われる。

 魂を領土といったものにたとえた場合には、「他のものの魂のなかに、他のものの魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、自分の魂と他のものの魂の一部分が共存する領域を設ける」ことと、「他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設ける」こととは、同じ内容のものであって、ただ表現が異なるだけのものであるのだが、しかし、このような考え方に違和感を持つ人がいるかもしれない。いや、そもそものところ、魂といったものを領土のようなものにたとえること自体に異議を唱える人がいるかもしれない。魂を領土にたとえたのは、理解するということを、モデルとして目に浮かべやすい形で表現したつもりなのであるが、数学でいうところの集合論において、ベン図という図形を目にしたことがないだろうか。二つの集合の間に交わりがあるとき、その交わった部分を、その二つの集合の交わり、あるいは、共通部分というのだが、それから容易に連想されないであろうか。理解するとは、異なる魂が共存する領域を設けること、あるいは、異なる魂との間に共有する領域を設けることである。こういった考え方が、わたしにはぴったりとくるものなのだが、そうではない人もいるかもしれない。そのような人には、いったい、どのように説明すればよいだろう。
そうだ。リルケが、『ほとんどすべてのものが……』のなかに、


すべての存在をつらぬいてただひとつの(ヽヽヽヽ)空間がひろがっている。
世界内面空間。鳥たちはわたしたちのなかを横ぎって
しずかに飛ぶ。成長を念じてわたしがふと外を見る、
するとわたしの内部に樹が伸び育っている。
(高安国世訳)


と書いているのだが、このなかにある、「世界内面空間」といった言葉を、ベン図において長方形全体で示される全体集合の図形と合わせて思い起こしてもらえれば、「魂の領土」や「魂の領域」といった言葉を、すんなりと受け入れてもらえるかもしれない。
 ところで、ベン図は平面上に描かれる図形なのだが、ここで、いま、ベン図の描かれた平面が数え切れないほどあって、その数え切れないほどある平面が積み重なって空間を構成していると想定してもらえれば、より合理的な説明ができると思われる。というのも、さまざまなものとの間に同時に「魂の領域」を共有させるためには、その「世界内面空間」になぞらえた「魂の領土」が多層的なものであり、そうして、重なり合った層は固定されたものではなく、瞬時に移動できるものであって、どれほど遠く離れた層であっても、一瞬のうちに上下に重なり合うことがある、と考えればよく、そう考えると、自分の頭のなかで、唐突に二つの事柄が結びつくことにも容易に説明がつくからである。
「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」といった言葉が、どうしても受け入れられない人には、本稿に書かれてある「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉を、ただ単に「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思うのだが、しかし、そもそも、「魂」といったもの自体の存在を否定する人もいるかもしれない。自分には、魂などはないと考えている人もいるかもしれない。だが、たとえ、そういった人であっても、自分には「自我」というものなどはないと考えるような人はほとんどいないであろう。したがって、本稿のなかで、「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉が不適切であると思われる人には、それを「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいだろうし、「魂」といった言葉でさえも適当ではないと思われる人には、それを「自我」といった言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思う。
 最後に、詩人や作家たちのつぎのような詩句を引用して、本稿を終えることにしよう。


古びてゆく屋根の縁さえ
空の明るみを映して、──
感じるものとなり、国となり、
答えとなり、世界となる。
(リルケ『かつて人間がけさほど……』高安国世訳)


自然の事実はすべて何かの精神的事実の象徴だ。
(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)


言葉は現実を表わしているのではない。言葉こそ現実なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


私はうたはない
短かかつた燿かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(伊藤静雄『寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ』)


素材が備わりさえすれば
言葉はこちらが招かずとも
自然に出てくるものなのです。
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


自然界の万象は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)


あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)


たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)


res ipsa loquitur.
物そのものが語る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


そしてこの語りたいという言語衝動こそが、言葉に霊感がある徴(しるし)、わたしの身内で言葉が働いている徴だとしたら?
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)


万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語りしこと』入沢康夫訳)


魂は万物をとおして生き、活動しようとひたむきに努力する。たったひとつの事実になろうとする。あらゆるものが魂の属性にならねばならぬ、──権力も、快楽も、知識も、美もだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しないことが分かっている。
(ホイットマン『草の葉』ポーマノクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)




Sat In Your Lap。II


あの原稿を送った後のことだ。ジュネの『葬儀』を読んでいたら、こんなことが書いてあって、驚かされた。


とつぜん私は孤独におそわれる、なぜなら空は青く、樹々は緑で、街路は静まりかえり、そして一匹の犬が、同じように孤独に、私の前を歩いて行くからだ。
(生田耕作訳)


しかし、もっと驚かされたのは、このつづきにある、つぎの箇所である。


 私はゆっくり、しかし力づよい足どりで進んでいく。夜になったみたいだ。私の前に展ける風景、その間をぬって私が君主然と通りぬけていく、看板や、広告や、ショーウィンドウをつけた家々は、この本の作中人物たちと同じ素材でできているのだ、また幼時の名残りがそこにみとめられるように思える、青銅(けつ)の眼(あな)の毛のなかに口と下で没頭しているときに、私が見出す幻影とも、それは同じ素材でできている。
(生田耕作訳)


ここのところと、つぎに引用する、デュラスの『北の愛人』のなかにある、


 少女は男をじっと見つめる、そしてはじめて彼女は発見するのである、──これまでいつも自分とこの男とのあいだには孤独が介在していた、この孤独、中国風の孤独こそが、この自分を捉えていた、その孤独はあの中国人のまわりにひろがる、あのひとの領土のようなものだったのだ、と。そして、また同様に、その孤独こそが、自分たちふたりの身体、ふたりの愛の場であったのだ、と。
(清水 徹訳)


といった言葉を合わせると、孤独というものが、心象や概念を形成する原動力である、というだけではなく、まるで場所のようなものでもあって、そこで心象や概念といったものが形成されるのだとも考えられたからである。

バシュラールの『夢みる権利』の第二部に、


深さの原理とは孤独のこと。われわれの存在の深化の原理とは、自然とのますます深い合体のことなのだ。
(渋沢孝輔訳)


とあるが、孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。


ああ、これがあらゆることのもとだったんだ。
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)


そうして、そういった能力がますます高くなっていくと、しまいには、


認識する主体と客体は一体となる。
(プロティノス『自然、観照、一者について』8、田之頭安彦訳)


といった境地にまで至ることがあるかもしれない。しかし、それは、あくまでも、そういった境地に至ることがあるというものであって、じっさいに、認識する主体と客体が一体化するということではないのである。


 さもなければ、知性が認識の対象を変えることはできないはずで(……)知性が認識の対象を変えるとは、或る可知的形象によって自己が形成されることをやめて別の可知的形象を受けることであり、このようなことができるためには、可知的形象を受ける主体としての知性の実体と、この実体に受け取られる可知的形象とは、別のものでなければならないからである。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第十四問・第二項・訳註、山田 晶訳)


 やはり、このあいだ、わたしが書いたように、「犬が犬であることにうんざりしているように見える」のは、その犬を見ている人が、「その犬に自分の魂の一部分を与える」からであり、その人が、「自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂とが共有する領域を設ける」からであろう。

ヤリタ・ミサコの


痛い とわかること は つらい こと
(『態』)


という詩句には、思わずうなずかされてしまった。プルーストの『失われたときを求めて』のなかに、


それのような悲しみは事件ののち長く経ってからしか理解されないものなのである、つまりそれを感じるためには、それを「理解する」ことが必要だったのだ、
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


そのような実在は、それがわれわれの思考によって再想像されなければわれわれに存在するものではない
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


理知がそれを照らしたときに、理知がそれを知性化したときに、はじめて人は、自分が感じたものの形象を見わけるのだが、それはどんなに苦労を伴うことであろう。
(第七篇・見出された時、井上究一郎訳)


悲しいという感じはするが、それがどのような悲しみなのかわからないときがある。漠然としていることがある。しかし、そこに言葉が与えられてはじめて、それがどういう悲しみか、どう悲しいか、つぶさにわかることがある。


ヴァレリーの『ユーパリノス あるいは建築家』に、



観念は視線を向けられたとたんに感覚となる。
(佐藤昭夫訳)


とある。観念といったものも、いったん感覚といったものを通さなければ、それをほんとうに感じとることができないものなのであり、そうしたのちに、ようやく、魂のなかに、精神のなかに、わたしたちは、了解されうる意味を形成してやることができるのであろう。

 ところで、ヴァレリーの『海辺の墓地』に、


さわやかさが、海から湧きおこり、
私に私の魂を返す……おお、塩の香に満ちた力よ!
(粟津則雄訳)


とあるが、


与えよ、さらば与えられん
(ロレンス『ぼくらは伝達者だ』松田幸雄訳)


というように、「それに自分の魂の一部分を与える」からこそ返されるのであろう、もとのものとは同じものではないが、なにものかに触れて変質した「自分の魂の一部分」が……。


私は自然をもっと高い見地から考察したい気持ちにさそわれる。人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。
(『花崗岩について』小栗 浩訳)


と、ゲーテが述べているが、同じような内容の事柄が違う言葉で言い表わされているように思われないだろうか。人間の精神が万物に生命を与えるのと同時に、また、万物の方も人間の精神に生命を与えているのである、と。そういう意味に、ゲーテの言葉を受けとると、わたしが前の論考に書いた、「人間だけではなく、人間以外の事物や、言葉といった実体のない概念のようなものであっても(……)互いに魂のやり取りをして、それぞれの魂のなかに、互いに魂を共有する領域を設けていると考えればよい」といったところも、よりわかってもらえるものとなると思うのだが、いかがなものであろうか。


エミリ・ブロンテの『わが魂はひるむことを知らない』に、


地球や月が消滅し、
太陽や宇宙が無に帰し、
なんじただひとりあとに残るとも、
ありとあらゆる存在は、なんじにありて存続する。
(松村達雄訳)


とあるが、これなども、まさしく、人が、いったん、「自分の魂のなかに、自分の魂とその事物や事象の魂とが共有する領域を設ける」からこそ、いえることだと思われるのである。かつて自分の魂のなかで、共有する領域を設けたことのある事物や事象を、それがあったときと同じ状態で想起させることができれば、たとえ、それがじっさいには、自分の魂のそとで消滅していたとしても、自分の魂のなかでは、それが、ずっと存続しているといえるのではないだろうか。


ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


無意識に存在する物のみが真の存在を保つ、
(トーマス・マン『ファウスト博士』一四、関 泰祐・関 楠生訳)


永遠の存在とはなにかやっと分かってきそうだ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第八章、青山隆夫訳)


かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するのだ。
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)


人間は永遠に生きられる。
(ドナルド・モフィット『創世伝説』下・第二部・12、小野田和子訳)


人間こそがすべてなのだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


しかし、それも、孤独、孤独、孤独、みな、そもそものところ、人間というもの自体が、孤独な存在であるからこそ、である。


窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)


孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)


おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


    *


 これら、二つの遺稿に共通するものとして、詩人が、他の原稿のなかで「二層ベン図」なるものについて解説していたことが思い出される。
 
その前に、懐かしいものをお目にかけよう。これは、詩人がもっともよく引用していた言葉である。


全きものと全からざるものとはいっしょにつながっている。行くところの同じものも違うものも、調子の合うものも合わないものもひとつづきだ。万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。
(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)


詩人は、ヘラクレイトスのこの言葉を頻繁に繰り返し引用していたが、ノヴァーリスの


可視のものはみな不可視のものと境を接し──聞き取れるものは聞き取れないものと──触知しうるものは触知しえないものと──ぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに──。
(『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


といった言葉もまた、何度も引用していた。この引用のなかにある、ノヴァーリスのいう「触知しうるもの」を「顕在意識」、あるいは、単に「意識」や「言葉」といった言葉に、「触知しえないもの」を「潜在意識」あるいは「まだ言葉にならないもの、言葉になる以前のもの」といった言葉に置き換えると、この二つの対応する概念が、他の原稿にある、二層ベン図に照らし合わせてみれば、詩人の考えていた、「思考する」ということが、いったいどういうことなのか、といったことを、窺い知ることができるのではないだろうか。

 ところで、二層ベン図とは、ふつうのベン図の下に、空集合の層があるという図であって、第二の層の空集合が浮き出て、第一の層の実集合になる、というのが詩人の考えであったが、その空集合を、「孤独」という言葉に変換すると、二つ目の原稿のなかでいっていることになるのだろう。ジュネの「同じ素材」というのが、詩人のいうところの「空集合」であろうか。
詩人は、「自我」を、どのような実集合にもなり得る空集合に見立てていた。
 
詩人が残したメモのなかに、『徒然草』からの抜粋があって、冒頭に紹介した一つ目の原稿に、セロテープで貼り付けられていた。それをここで引用することにしよう。二箇所から引かれていた。


 筆を執(と)れば物書(か)かれ、楽器を取(と)れば音(ね)をたてんと思ふ。盃を取れば鮭を思ひ、賽(さい)を取れば攤(だ)打(う)たんことを思ふ。心は必ず事に触(ふ)れて来(きた)る。
(第百五十七段)


筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。心はかならず何かをきっかけとして生ずる。
(上、現代語訳=三木紀人)


 ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入(い)り来る事なし。あるじなき所には、道行き人(びと)みだりに立ち入(い)り、狐(きつね)・ふくろふのやうな物も、人げに塞(せ)かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木(こ)霊(だま)などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。
また、鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづの影(かげ)来(きた)りて映(うつ)る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。
虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。我等が心に念々のほしきままに来(きた)り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入(い)り来(きた)らざらまし。
(第二百三十五段)


 主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。
また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。鏡に色や形があれば、物影は映るまい。
虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、心という実体がないからであろうか。心に主人というものがあれば、胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。
(上、現代語訳=三木紀人)


 最初のものは、『徒然草』の第百十七段からのもので、それにある「心は必ず事に触(ふ)れて来(きた)る。」という言葉は、詩人が引用していた、ゲーテの「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出し(……)」といった言葉を思い出させるものであった。あとのものは、『徒然草』の第二百三十五段からのもので、それにある「鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづの影(かげ)来(きた)りて映(うつ)る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。」とか「虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。我等が心に念々のほしきままに来(きた)り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入(い)り来(きた)らざらまし。」といった言葉は、「多層的に積み重なっている個々の二層ベン図、それぞれにある空集合部分が、じつは、ただ一つの空集合であって、そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」という、詩人の考え方を髣髴とさせるものであった。あまり説得力のある考え方であるとはいえないかもしれないが、たしかに、さまざまな概念のもとになっているものが、もとは同じ一つのものであるという考え方には魅力がある。詩人は、この空集合のことを、しばしば、「自我」にたとえていた。また、第二百三十五段にある「ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入(い)り来る事なし。あるじなき所には、道行き人(びと)みだりに立ち入(い)り、狐(きつね)・ふくろふのやうな物も、人げに塞(せ)かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木(こ)霊(だま)などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。」とか「虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。」とかいった言葉は、詩人の「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」という言葉を思い起こさせるものであった。

 ただ単に、詩人が書いていたことを追っていただけなのに、こうやって、詩人の原稿やメモを見ながら、言葉をキーボードで打っていると、詩人がどこかに書いていたように、そのうち、自分が言葉を書いているような気がしなくなってきた。しだいに、言葉自体が、ぼくに書かせているような気がしてきた。というよりも、さらに、言葉自体が書いているのではないかとさえ思えてきた──ぼくの目と頭と指を使って。


どちらが原因でどちらが結果なのか、
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年六月十日、浅倉久志訳)


原因と結果の同時生起
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七、菊盛英夫訳)


詩人が遺したノートにある言葉を使ってみたのだが、この「原因と結果の同時生起」という言葉はまた、詩人が別のノートに書き写していた、マルクス・アウレーリウスのつぎの言葉を思い出させた。


つねにヘーラクレイトスの言葉を覚えていること。
(『自省録』第四章・四六、神谷美恵子訳)


 宇宙の中のあらゆるもののつながりと相互関係についてしばしば考えて見るがよい。ある意味であらゆるものは互いに組み合わされており、したがってあらゆるものは互いに友好関係を持っている。なぜならこれらのものは、[膨張収縮の]運動や共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互いに原因となり結果となるのである。
(『自省録』第四章・三八、神谷美恵子訳)