選出作品

作品 - 20180402_163_10355p

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対岸、あるいは彼岸

  霜田明

   I

 生前評価されないことの悲惨さ、などとのたまう表現を見るたびに、インターネット上で小説、曲、詩、絵、天才的なクオリティのものを上げているのに、コメント0、いいね0、そんな人を大勢見てきたことを思う。歴史は、天才たちが「無化」される流れの象徴だとさえ思う。彼らの何が悪かったのか?それは、媚を売らなかったという一点だ。作品は評価された時点で死ぬ。
 せっかく媚を売らずに育ててきたのに、評価されてしまった時点で、媚を売ったのと同じになってしまう。彼らは突然アカウントを消したり、ツイッターで悪口スプリンクラーと化して大暴れしたり、掲示板に自分のアカウントを貼り付けてフォローしろと言ってみたり。そんなことをして、もし評価されてしまったらどうするつもりなのだろう、せっかく媚を売らずにやってきたんじゃないのか。
 信じなければ裏切られることはないのに、なぜ人は信じるのだろう。

   II

 君と出会ったのは自意識の芽生え始めた高校入学の春、4月9日火曜日の文芸部室だった。僕はもう挨拶を済ませて座っていた。君が物理的には軽すぎる木製の扉をはじめて開けてから、僕らはすぐに友人になった。共通の話題、そんなもの媚を売ることの十分にできない僕らには存在しえなかった。ただ波長が合ったのだ。自分が人との関係の中で、自分の外側で「こういう人物だ」と決められてしまう度合いの想定、言い換えればどの程度媚を売るかについての考え方が近かった。
 創作を試みる人間のほとんどが精神的に不安定なのは、経済的生活を媚を売ることの体系とするならば、創作の本質は媚を売ることと売らないこととの葛藤だからだ。世界に正当化されない闘争ほど疎まれるものはない。そして、疎まれることほど、人間の安定性をおびやかすことはない。
 だから文芸部室は部室棟四階の一番隅へ追いやられていたし、部室の扉を開けると、誰が入ってきたのかと顔をではなく僕の襟元を覗き見るように確認し、そしてかならず一人はいつでも歯に苦笑に似た不可解な照れを被せて「お前か」などと言う。
 わざわざそれまでの会話の流れを打ち切り、単独の声を発することで、部室の閉鎖性の内側へ受け入れてくれる彼の努力によって、他の部員たちの億劫な受け入れ作業は君のを含めて不必要のものと化し、僕は自分の場所へ無事に収まる。
 もちろん僕がいるときにも、扉から入ってくる異邦人を一回一回仲間として受け入れ直すこの方法は変わらずに、僕もたいてい「挨拶」の役を免れる。文芸部では話が絶えなかったし、これほど平穏な人間関係の構造がありえるのかといつでも思っていた。波長が合ったんだろう、挨拶をするだけのことが同じように苦手だったように。
 何を会話しているのか、普段暮らしていることの大部分がそうであるように、ほとんど分からないし、翌日には覚えてもいないが、僕も文芸部の会話に平均的に参加し、こんな風にエッセイとも回顧録とも付かないものを書いては4000字で切り上げ、書いては4000字で切り上げることを繰り返していた。志賀直哉は彼の中の葛藤を媚を売る方へ押しやり力づくで長編小説「暗夜行路」を書き上げたが僕は高校生活の間ずっと、書くことと書かないことの中間を取っていた。

   III

 作品を人に見せることはいい。その作品を絞め殺すことができるから。文芸部に入るまでは、誰にも知られないところで誰にも読まれない独白を、何度も書き直すことの繰り返しだった。果たしてさっきより良くなったのか、悪くなったのかもわからないまま、来る日も来る日もひとつの作品を、それも4000字に満たない作品を、書き直すということを繰り返していた僕は、誰かに読ませることさえできれば、その作品を読んだ者を見下し、見棄てるような心持ちで、その作品を、見下し、見棄てることができる、そして改稿地獄から抜け出すことのできることを知った。
 帰り道、ときどき君と、寄り道したり、しなかったりしたが、いつでもその日書いた4000字を読ませて、その度に君を軽蔑した。かわりに僕は君の書いた小説を読みながら帰る。同じくらいの文量でも、いつでも君はきちんと読み終わり、僕は家についても読み終っていないことがあったが、それは君の用いる三人称での文章が、僕の書く一人称での文章よりも読みにくいからに違いない。読み終えると君は何も言わず丁寧に二つ折りにして自分のカバンの中へしまったあと、恥ずかしそうに笑って僕の表情を伺う。自分が軽蔑されていることを知っているからだ。僕は君の仕草を模して、だから部屋にはきれいに二つ折りにされた君の小説が積み上がっていった。
 君との出会いは「誰が読むのか」という根源的な疑問との別れでもあった。読ませる人もなくただ書き続けた中学時代にあった深淵に覗かれているような感覚は霧消した。それがどのような影響を総体的にもたらしたのか未だに無自覚だが、救いと呼べるような安易に肯定的なものでないことは感覚的には明らかだった。
 もし君が、善行と見なされているような、作者への感謝のフィードバックなどを敢行していたならば、君は途端に深淵と化し僕を覗く具体物へと転化していただろう。だが、君は感想や意見を述べることはあったが、善行は一度もしなかった。もし、あの照れ笑いを善行の滲出と見なすならば、君は既に少しだけ僕にとっての深淵であったのかもしれない。

   IV

 この作者の小説の特徴は終わり方の唐突なことだ、といった評を三島由紀夫が川端康成の小説のあとがきに贈っていたが、僕は川端康成の作品の終わり方を唐突だと思ったことはない。というよりも、どこで終わっても様になると感じていた。川端康成の小説の場合、そこで小説が終わりになること自体が、そこで小説が終わるべきことの根拠になるとすら思っていた。
 でもそれは作品を書き続けることが根源的に無効だったということを意味するのではないだろうか。終わるべき幾度の断層を経ることでしか、続いていくことができないのならば。
 君の小説の特徴は終わり方の唐突なことだった。僕は君にささいな感想を贈ることさえ恐ろしくてできなかった。人生における完成の不可能性を、作品における完成の不可能性として、重ね合わせる方法で扱うことができるのなら、きっと君の小説のように唐突に終わるしかないだろう。完成の信じられていない場所において、いったい評価とは何だろう?
 高校一年の秋、名作と呼ばれる映画を見て、こんな作品で取れるようならもし自分がアカデミー賞をもらっても嬉しくないだろうと心の中で発語してから、それまで持っていた評価への固執、つまりそれにまつわる恐れや恥じらいの危うさを感じた。それは自分の作品を君にどう思われるか、どう見なされるかという不安や期待の延長線上の、それも重要さの減退する方向にしかあらゆる賞や評価は考えられないことを発見したからだ。
 君は主観で判断する個人に過ぎないが、同時に賞や評価の決定性も、集団が擦り合わせの結果として決定する「価値」を重要なものと見なす作者個人の主観によるものに過ぎないことは、それ以前に、もう理解していたことだった。
 高校を卒業してから君に一度も会わなかった。ただ、部誌にも載せなかったまさに塵紙の束が、きれいに二つ折りされてお互いの部屋に眠っていたはずだ。
 僕も君も、二ヶ月に一度発行される部誌に作品を載せたが、井戸に原稿を投げ捨てたのと同じだった。もし僕か君のどちらかが、あの二人きりの鑑賞会のなかで善行を行っていたならば、相手の見る自分という姿に同化して、生まれ落ちたものとしての自分自身をこの場所へ置き去りにしていたのだろうか、それとも開いた深淵が、偶然が、つまり必然がする方法で、ただ、二人を「さりげなく」分かつことになったのだろうか。
 君の創作における葛藤は、読者である僕においてあまりに容易に解消される。それは同時に、もし君が僕の中へ旅立つことを決めない限り、僕は君の葛藤の持続とは関係が持てないことを意味している。僕の葛藤も、君の中であまりに容易に解消されていただろう。だがそれは本当に、無意味なことだと良く分かっていた。
 あるいは関係できることの方が異質なのだ。会話が成立することさえ奇跡と考えていられれば少しは媚を売る気にでもなれたんじゃないだろうか。世界にとって関係が可能性、あるいは存在性であっても、切実なところで、僕にとって関係は、不可能性でしかありえないと感じていた。僕が君に出会ったことも、君が小説を書いていたことも、それから君と一度も会わなかったことも、世界にとって必然であることが、僕にとっては偶然だった。

   V

 君を僕のすべてを見通している存在と想定するならば、今になってこんなことを書くことの意味を弁解しなければならなかっただろう。あるいは、それは僕のひとりよがりだろうか、という僕のこの自嘲の不当性を君なら看破することができただろう。つまり僕のひとりよがりだ、という言葉は前提的に無効だ、なぜなら君も、誰も、何も見ていないのだから。
 見られる、聞かれる、読まれる、ということは無いのだ、 誰も、何も、見ていないということが在る。神が見ている、お天道様が見ている、読者が、観客が、見ているから、書く、作る、行う、という誤魔化しの無効性。あるのは僕が見ているということだけだ。それが遠く旅立ってしまう「可能性」を含めても。僕は読んだ。自分の書いた文章を、君の書いた小説を。僕は見た。君を、僕の書いた文章を読んだ君を、僕の書いた作品の載っていた部誌を。でもその向こう側はない。君を理解するということはもし僕が君を理解することでありえても、世界が君を理解することではありえなかった。
 本当は僕は落ち込んでいたんだ、もう丸二週間、考えることと書くことのすべてを諦めていた。この落胆も反復性のうちに捉えなければならないことの屈辱が僕の不能を持続させていた。ほとんど喪に臥せるということだった。罪悪感にも似ていた。僕が僕の行為を何度も何度も0と掛け合わせ無効性と捉えなおしても寂しさは1として残り続けていることの意味が理解できなかった。不在が在るという人間的矛盾への対処法が見つからなかった。
 僕はそれこそ生を死んでいるかのごとく、あるいは死を生きているかのごとく、頭の中で生じては消えていく絶え間ない自問自答の中で、欲望はそれまで考えていたように、後に行為を引き起こすものとして本質なのではなく、いまここに在ること、存在を、ここに起こしていることの前提だということを発見した。
 生はそれまで前提として、つまり無意識の中でそうと決定し考えていたような、無意味性や無根拠性に触れているものではなかった。なぜなら存在が起こるということが既に「欲望」によって方向づけられたものなのだから。
 「実存は本質に先立つ」という高名な言葉の「実存」という単語に僕は欲望を前提的に方向づけられた存在を見る。部屋へ放り出された無力の赤ん坊ではなく、泣き叫ぶ赤ん坊こそがより根源的なのだ。まるですることを失った僕が一日中街を彷徨っては、頭の中で自問自答を反復していたように。
 欲望は存在に先立っている。不安は人の心がわからないことを根源に持っている。例え一人でいることが不安であると感じているときにも。それが欲望の先立の根拠だ。
 君が読んでくれたということや、君が見ていると感じるということは、視線の方向性によるものではなく、存在に先立つ「欲望という方向性」によるものだった。

   VI

 自らの行為の無効性を言い聞かせることは部屋に帰りつくと、あるいは休日になると、何もすることがないという地点へ不幸を押しやることにすぎなかった。君が僕をもしニヒリストだと見做しても、それを否定する方法はなかっただろう、ただそう見做してくれる人はどこにもいなかった。
 親愛なる退屈から目をそむけ、「自らの行為の無効性を認める」などという言葉遊びの陰で自ら無効と呼ぶ反復行為を結局は繰り返すことが僕の精神的生活の全てだった。自らの存在しない身体を探し求めるように政治行為に参入する人のように僕は自らの行為の無効性へ一致しようとしていた。あるいは誠実な唯物論者が物理法則にそぐわない領域を否認するように無効性の内部性を否認していた。あるいはどの思想家も宗教者ももはや僕を前進させる言葉をもたないことの無効性を非難し、要求し続けていたことの隠蔽に言葉を利用していたにすぎなかったのかもしれなかった。
 「なぜ人は厳密に語ろうとしないのだろうか」
 教養とは、欲望を誤解しない度合いだ。自らの人間性を、裏切られる形式でしか夢見ることができないところへ想定してみればわかるように。
 欲望は有効性の柔らかい内部だ。例えば一日中砂をいじくっていても、それとも大作の執筆に勤しんでいても、みんな同じように有効なのだ。欲望の領域の内部において、つまり全部が同じように無効だと見なすことの、同形異音語のように、薄い皮膚の裏と表で。虚しいと感じることに熱くなったり、熱心に暮らすことに虚しさの匂いを嗅ぐことは。

   VII

 固執とは、誤差を重要視することだ、というより、誤差を重たく感じることだ。誤差とは、君が君であることと、僕が僕であることの違い、あるいは、恋人であることと、友人であることの違い。僕が眺めている、対岸、あるいは彼岸、

   VIII

 他人の不幸が大切だ。たとえば、愛する人の失恋が
 自分の不幸はないのだから




(補遺)

   I/II

 なぜ書くのか?という問には一つの答えが対応する。それは、「自分が空っぽだ」ということだ。書くことは空っぽな自分に自分を積み上げるということにほかならない。それは純粋な自分自身のための行為だ。
 なぜ書いたものを見せるのか?という問には別の答えが対応する。それは、自分を見てもらうためではない。自分を見つけてもらうためだ。
 僕は人に書いたものを見せるが、有象無象に見せているつもりはない。ここがだめだとか、微妙だと言ってくる人の反応などは本質的にどうでもいいものだ。僕はその時時の一番切実なところで書いているから、アドバイスを貰ってどうこうできる次元ではもはや書いていない。精一杯やったから良いものが出来ているなどと言うつもりはさらさらない。それでも自分が生み出しうるものとしては最高のものを作っている以上、それでだめなら巡り合わせなかったというただひとつのことだ。それが商業的な関係でない限り、相互的にどのような要求もまったく無効だ。だから僕は要求するものは無視し、要求のような感想を言ってしまったときにはその無効性を自覚し、無視してもらってどうぞと思っている。創作が純粋に創作者自身のためのものであることを考えれば当然の態度だろう。鑑賞者を主に置く場合に創作者が試されるものであるのに対し、創作者を主に置く限りでは、鑑賞者こそ試されるものである。それは対話は根源的に不可能で刺激を受け合うに過ぎないという発想にも通じるだろう。
 批評家気取りは今直ぐにでも鏡を覗いて商人あるいは普遍的価値と名付けられた仮想の親へ依存する幼児の顔が映っていないか確認するべきだ。
 あるいは自分より下らないものを書いている者が受け入れられているという屈辱的な経験を下敷きに考えるならば、どの水準にも巡り合わせはありうるという言い方になるだろう。二者関係の絶対性に割り込むことができないというのが第三者性の本質である以上、下らない水準で分かり合ってやがるなどと言ってみることは自分自身の空虚さを響かせることに他ならない。
 創作は空洞と感じられる自分自身の探求であり、深淵と感じられる他者の探求であるところで二重性を持っている。

   III/IV

 腹が減って泣き叫ぶことが、猫や乳児自身にとっては偶然、母親へ呼びかけることに繋がったのならば、泣き叫ぶということだけでなく、きっと辛さや苦しみ自体が、呼びかけであると感じられる領域を持つことだろう。
 辛くもないのに泣き叫んでみたときには、(不幸にも成功するかもしれないが、)鬱陶しがられたり、叱られたり、母親の優しさを十分に受け取ることができないという経験は、幼稚園を卒業するころにはもう学習されているはずだから、もし自然な母子関係がそこにあったならば。
 言語に内面性がありうることの根拠はそこで生じているのではないか、また、もしかするとマゾヒズムの根拠をそこに見出すことができるかもしれない。
 恋人関係は、未来へ目を向けないという条件ならば、「触れることの許可」を伴う友人関係なのだと思う。友人関係は「触れることの禁止」を伴う恋人関係だろう。その定義において、どちらがより「深い関係」かは、僕には決めることができない。
 ただ恋人関係の重心は「触れること」よりも「その許可」にあるように思われる。相手の許可を認知することが、恋を認知することであるように。

   V/VI

 猫は腹が減ると僕を呼ぶ。しかし僕が餌をやらないでいると居ない人を呼びはじめる。飼い猫は家の中で自分では餌を取れないから、他にできる行為がない。僕など悪人で「うるさいなあ」と心の中で思うことが多いが、泣き叫ぶのは当然の行為だ。なぜなら他にすることがない。
 人間の「退屈」も、「終わっていくこと」に対しての当然な行為として、無意味な行為あるいは空想的な行為、それでも可能な行為、可能であるということが優しさである行為へ向かう。
 同時に、猫は人を呼んでいて、それはただ鳴き叫んでいることとは違う。呼びかける対象は空想の人とでも呼ばねばならないが、呼びかける行為は本物である、という、そこにギャップが生じている。
 もし見えないところに誰か人がいたら、その人が来るかもしれないという、僅かかもしれないが、可能性を残し続けている。それはほとんど夢みたいな話だが、頭で理解しているとかしていないとかでなく、わずかでも可能性があるということが、例えば当たらないのに宝くじを買うように、その行為を選択する根拠になっているということがある。「僅かな可能性」というものが、可能性と不可能性の間を架け橋している。

   VI/VII

 厳密に語ろうとすることは、否定を畏れること以上のものではない。正しいと見做されることへの構造的依存。それが厳密に語るということの本性だ。
 ひとりで考えつづけていると、自分にしか伝わらない言葉を創出したり、使っている言葉が通用しないところへ根付く、菌糸が日陰で繁殖するように。だれしも、人は自分の頭の中で考え、感じ、覚え、忘れることをしているから、通用しない領域を保持している。
 想定される一般的価値観として、お互いの甘受というところに想定される愛を考えれば、それは分かりあいの不可能性を承認した先にある、つまり二人の誤差の許容として、更に言えば「要求の無効性」への同意として、その意味で愛は深いわけだ。
 でも僕は少し違った形の愛を別に思い浮かべている。それは「ずれ」で一致するということだ。女子高生の会話を聞いていればときどき無造作に出現する、「わかる」という言葉がある。
 「わたし、これ苦手なんだよね、」
 「わかる」、僕はこの言葉を信じていない。
 お互いがお互いに不明瞭な領域を少しでも残していれば、それは構造全体へ浸透する誤解性であり、そのうえ現実の関係は、お互いのほとんどの領域を不可知のものとして保持しているからだ。わかるということはありえない。でも僕はこの「わかる」という言葉が好きだ。相手のことがわかることはありえない、というのと別に、わかった、と真剣に思うことが、「二人」という関係性では起こる。