選出作品

作品 - 20170703_531_9724p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一七年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年四月一日 「ある注」


ディラン・トマスの268ページの全詩集のページ数に驚いている。こんなけしか書いてないんやと。散文はのぞいてね。こんなけなんや。ぼくはたくさん書いてるし、これからもたくさん書くだろうけれど。あした、新しい『詩の日めくり』を書いて、文学極道の詩投稿欄に投稿しよう。

左手の指、関節が痛いのだけれど、これって、アルコール中毒の初期症状だったっけ? まあ、いいや。齢をとれば、関節が痛くなったって、あたりまえだものね。いまから日知庵に行ってきませり。


二〇一七年四月二日 「担担麺」


日知庵から帰ってきて、セブイレで買ったカップラーメンの担担麺を食べた。帰りは、えいちゃんと西院駅までいっしょ。日知庵では、きょうも、Fくんと楽しくおしゃべり。さて、いまから、あしたの夜中に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』の準備をして眠ろう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月三日 「孤独」


チャールズ・シェフィールドのSF短篇連作集『マッカンドルー航宙記』を読んでいたら、眠れなくなった。どうしよう。とりあえず、自販機のところまで行って、ヨーグリーナを買ってこよう。3月になって、毎晩のようにお酒を飲んでいると、夜中に、もう明け方近くだけれど、これが飲みたくなるのだ。

孤独ともあまりにも長いあいだいっしょにいると、さも孤独がいないかのような気分になってしまうもので、孤独の存在を忘れてしまい、自分が孤独といっしょにいたことさえ忘れ去ってしまっていることに、ふと気づかされたりすることがある。音楽と詩と小説というものが、この世界に存在するからだろう。


二〇一七年四月四日 「メモ」


わけのわからないメモが出てきた。日付けはない。夢の記述だろうと思う。走り書きだからだ。「足に段がなくても/階段はのぼれ」と書いてあった。「のぼれる」ではなくて「のぼれ」でとまっているのは、書いてまたすぐに睡眠状態に入った可能性がある。まあ、ここまで書いて、また眠ったということかな。


二〇一七年四月五日 「ミステリー・ゾーン」


いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ。寝るまえの読書は、なににしようかな。きのう、『ミステリー・ゾーン』をぱらぱらめくってた。2つめの話「歩いて行ける距離」が大好き。きょうは、『ミステリー・ゾーン』の2や3や4をぱらぱらめくって楽しもうかな。もう古いものにしか感じなくなっちゃったのだけれど、しばらくしたら、英米の詩人たちやゲーテについて書くために、海外の詩集を読み直そうと思う。すでに書き込みきれないくらいのメモがあるのだけれど、それらは読み直しせずに、新たな目でもって海外の詩人の作品を読み直したいと思う。ぼくはやっぱり海外の詩人が好きなのだな。


二〇一七年四月六日 「大岡 信先生」


いま日知庵から帰った。大岡 信先生が、きのうの4月5日に亡くなっていたということを文学極道の詩投稿欄のコメントで知ったばかりだ。きのうと言っても、いま、6日になったばかりの夜中で、きょうもヨッパであるが、大岡 信先生は、1991年度のユリイカの新人に、ぼくを選んでいただいた選者であり、大恩人である。じっさいに何度かお会いして、お話もさせていただいた方である。これ以上、言葉もない。


二〇一七年四月七日 「ブライトンの怪物」


SF短篇を思い出してネットで検索している。どの短篇集に入っているかわからないのだ。タイムスリップした広島の原爆被害者(入れ墨者)が、化け物扱いされてむかしのイギリスに漂着した話だ。悲惨なSFなのだが、持ってる短篇集にあるのだろうが、あまりに数が多すぎて何を読んだかわからないのだ。

あった。偶然手に取ったジェラルド・カーシュの短篇集『壜の中の手記』に入っていた。「ブライトンの怪物」というタイトルだった。そうそう。気持ち悪いのだ。それでいて、かわいそう。これ読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月八日 「遅れている連中」


シェフィールドの『マッカンドルー宙航記』を読み終わった。たいしておもしろくなかった。

文学極道のコメント欄で、ぼくの『詩の日めくり』が日記だから、詩にならないと主張する者が現われた。まあ、しじゅう現われるのだが、詩に多様性を認めるぼくの目から見たら、何十年、いや百年は遅れている連中だなと思う。紙媒体で、そんな批判されたことなどないけれど、ネットのほうが遅れているのかなという印象をもつ。ぼくの『全行引用詩』も、しじゅう、文学極道で、詩ではないと言われる。いったい詩とは何か。ぼくは拡張主義者であるのだが、せまい領域に現代詩の枠をはめておきたい連中がいるのである。遅れているだけでなくて、ぼくのようなものの足を引っ張るのはぜひやめてくれと言いたい。


二〇一七年四月九日 「桜の花びら」


これから朝マックに。きのうは、コンビニの弁当とカップラーメン。弁当、はじめて買ったやつで超まずかった。ロクなもの、食べてないな。

いま大谷良太くんちから帰った。昼はベーコンエッグ、夜はカレーをご馳走になった。ありがとうね。5階のベランダでタバコを吸っていると、桜の花びらが隅に落ちていたので見下ろすと、桜の木のてっぺんが10メートルほど下にあって、ああ、風がこんな上の方にまで運んだのだなと思った。彼が住んでいる棟は、たしか10階まであったと思うんだけど、いったい何階まで風によって桜の花びらがベランダに運ばれているのかなと思った。「きょうは、きのうまでと違って、寒いね。」と言うと、大谷くんが、「花冷えと言うんですよ。」ぼくはうなずきながら、ああ、花冷えねと返事をした。花冷えか。考えると、不思議な言葉だ。花が気温を低くするわけでもないのにね。そういえば、きょう、桜の花が満開だったけれど、明日は雨だそうだから、きっと、たくさんの桜の花びらが散るだろうね。むかし、と言っても15年ほどむかしのことだけど、高瀬川で桜の花びらが、つぎつぎと流れてくるのを目にして、ああ、きれいだなって思ったことがあるんだけど、そのことをミクシィの日記に書いたら、ある方が、「それを花筏と言うんですよ。」と書いて教えてくださった。その経緯については、2014年に思潮社オンデマンドから出したぼくの詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録したさいごの詩に書いている。花筏。はないかだ。波打つ川面。つぎつぎと流れ来ては流れ去ってゆく桜の花びら。ぼくが20代のときに真夜中に見た、道路の上を風に巻かれて、大量の桜の花びらがかたまって流れてくるのを見たときほどに、美しい眺めだった。花など、ふだんの生活のなかで見ることはないだけに、ことさら目をひいた。そいえば、おしべとか、めしべとかって、動物にたとえると、生殖器のようなもので、花びらって、そのそとにあるものだから、さしづめ、花のパンツというか、パンティーみたいなものなのだろうか。風に舞う数千枚のパンツやパンティー。川面を流れるカラフルなパンツやパンティーを、ぼくの目は想像した。

きょう、Amazon で販売しているぼくの詩集『詩の日めくり』(2016年・書肆ブン)に、商品説明文がついた。「田中宏輔、晩年のライフワーク。21世紀の京都・四条河原町に出現したイエス・キリスト。『変身』の主人公、グレゴール・ザムザの変身前夜の物語。日本が戦争になっている状況。etc...詩や詩論、翻訳や創作メモを織り混ぜた複数のパラレルワールドからなる、「日記文学」のパロディー。」っていうもの。いまでも、『詩の日めくり』では、いろいろな実験を行っているが、書肆ブンから出された、第一巻から第三巻までのころほど奇想天外なものはなかったと思っている。

きょう、大谷良太くんに見せてもらった小説の冒頭を繰り返し読んでいて、ああ、ぼくもさぼっていないで、書かなくては、という気にさせられた。というわけで、これから5月に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをする。これって、とても疲れるのね。自由連想で詩を書くほうが百倍も楽ちんだ。打ち込み間違いなく打ち込もうとすると、目が疲れるし、目が疲れると、頭が疲れるし。いいところは、かつてこのようなものをぼくは栄養にしていたのだったと確認できることと、文章の意想外の結びつきに連想される情景がときには尋常ではない美しさを持つこととかかな。


二〇一七年四月十日 「完壁」


奥主 榮さんから、詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』(モノクローム・プロジェクト発行)を送っていただいた。ぼくははじめ、目次のタイトルをざっと見て、あとがきをはじめに読むタイプなので、いつもどおりに、そうしてみた。目次には、ぼくならつけないようなタイトルが並んでいた。 それはべつに読むときにマイナスなわけではなく、逆に、どんな詩をかいてらっしゃるのだろうかという興味をそそるものだった。詩集全体は、たとえば、「路面」というタイトルの詩にある「誰もが小さな一日を重ねる」だとか、「長く辛い時代を歩かなければならないから」というタイトルの詩にある「誰とも何ものかを分かち合うことなく/群れることなく 毎日の重さに/耐えていくしかなく」といった詩句に見られるような、社会と個人とのあいだの葛藤を描出したものが多く、しかも使われる用語が抽象的なものが多くて、具体的な事柄がほとんど出てこないものだった。いまのぼくは、ことさらに具体的な事柄に傾斜して書くことが多いので、その対照的な点で関心を持った。「風はまだ変わらないのに」といったタイトルの詩のようにレトリカルなものもあるが、「おいわい」というタイトルの詩にあるように、奥主 榮さんの主根はアイロニーにあると思う。とはいっても、「いきもののおはなし」という詩にある「生きるということは/その一つの身体の中で/完結してしまうものではなく/世界とかかわりつづけることなので」という詩句にあるように、向日性のアイロニーといったものをお持ちなのだろう。冒頭に置かれた「昔、僕らは」というタイトルの詩に、「咲き乱れる さくら」という詩句があって、きょうのぼくの目が見た桜の花を思い起こさせたのだった。ついでに、も一つ。3番目に収められた「ぬくぬくぬくとこたつむり」という詩の第一行目に、「紫陽花」という言葉があったのだが、27、8歳まで詩とは無縁だったぼくは、「紫陽花」のことを「しようばな」と音読していたのであった。「紫陽花」が「あじさい」であることを知るには、自分がじっさいに、「あじさい」という言葉を、自分の詩のなかで使わなければならなかったのである。30代半ばであろうか。たしか、シリーズものの「陽の埋葬」のなかの1つに使ったときのことであった。そいえば、ぼくは28歳になるまで、「完璧」の「璧」を、ずっと「壁」だと思っていたのだけれど、という話を、日知庵かどこかでしたことがあって、「ぼくもですよ。それ知ったの社会に出てからですよ。」みたいな言葉を耳にした記憶があって、なんだか、ほっとした思いがしたことがあったのであった。自分の作業(『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み)に戻るまえに、さいごに、も1つ。詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』の著者、奥主 榮さんのご年齢が奥付を見てもまったくわからないのだが、語彙の選択から見て、ぼくとそう変わらないような気がしたのだけれど、どうなのだろう?若いときには、ぼくは、作者の年齢などどうでもよいものだと思っていたのだが、56歳にもなると、なぜだか、作者の年齢がむしょうに気になるのであった。理由はあまり深く考えたことはないのだけれど、さいきん、ぼくと同じ齢くらいの方の詩に共感することが多くて、っていうのがあるのかもしれない。

ひとと関わることによって、はじめて見る、聞く、知ることがあるのである。

PCを前にして過ごすことが多くなった。毎晩のように飲みに行ってたけど、あしたからは、そうはいかない。きょうは、これで作業を終えて、PCを切って寝る。おやすみ、グッジョブ! きょう、ワードにさいごに入力したのは、タビサ・キングの『スモール・ワールド』の言葉だった。笑ける作品だった。


二〇一七年四月十一日 「Rurikarakusa」


4時30分くらいに目がさめた。学校が始まる日は、たいてい4時30分起き。緊張してるのかな。部屋を出るまで時間があるので、新しい『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしていよう。それで疲れないように適当に。

5月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿するさいしょの『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わった。さて、これから着替えて、仕事にいく準備だ。めっちゃ緊張する。

仕事から帰ってくると、郵便受けに、あの江戸川乱歩の小説みたいな詩を書いてらっしゃる草野理恵子さんから、同人誌『Rurikarakusa』の4号を送っていただいていた。お便りと、同人誌に掲載されている2つの詩を読ませていただいた。「飲み込んだ緑の馬を吐き出してみたが/半分溶けていたので仕方なくまた飲み込んだ」といった詩句や、「のっぺらぼうに与える/今日の模様は切ったスイカだった」といった詩句で、ぼくを楽しませてくださった。「緑色の馬/スープ」という作品の冒頭3行は、大いに、ぼくも笑った。「緑色の馬が妻と子をのせて部屋の中を回っている/曲芸のつもりなのだろうか/僕を笑わせようとしているのだろうか」こんな光景は現実的ではないが、ぼくの創造の目は、たしかに妻と子をのせた緑色の馬が部屋の中を回っているのだった。草野理恵子さんのは奇譚の部類になるのかな。あるいは、怪奇ものと言ってもいいと思う。そのグロテスクな光景に、なにゆえにかそそられる。
ご同人に、青木由弥子さんという方がいらっしゃって、その方の「現況」という詩のなかの第3連目に大いに考えさせられるところがあった。「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」というところだけれど、短歌や俳句で、ときおり「空の底」という表現に出くわす。「空に沈む」とかもだけれど、「空の底にたどりついたら」という発想は、ぼくにはなかった。これは、ぼくがうかつだという意味でである。考えを徹底させるという訓練が、56歳にしてもまだまだ足りないような気がしたのであった。訓練不足だぞという声掛けをしていただいたようなものだ。貴重な経験だった。すばらしいことだと思う。知識を与えられたということだけではなく、考え方を改めさせられたということに、ぼうは目を見開かされたような気がしたのだった。これから、なにを読んだり、なにかをしたり、見聞きしたときにも、この経験を活かせるように、自己鍛錬したいものだと思った。できるかどうかは、これからの自分の心がけ次第だけれどもね。草野理恵子さんのお便りと同人誌の後書きにも書いてあったのだけれど、草野理恵子さんの息子さんがSF作家らしくて、ご活躍なさっておられるご様子。親子で文学をしているって、まあ、なんという因果なのでしょうね。ぼくも父親の影響をもろにかぶっているけれども。でも、ぼくの父親は書くひとではなくて、読むひとであったのだけれど。ぼくの小学校時代や中学校時代の読み物って、父親の本棚にあるものを読んでいたので、翻訳もののミステリーとかSFでいっぱいだった。ぼくよりずっと先にフィリップ・K・ディックを読んでいるようなひとだった。亡くなって何年になるのだろう。親不孝者のぼくは知らない。たしか亡くなったのは、平成19年だったような気がするのだけれど、『詩の日めくり』のどこかに書いたことがあるような気がするのだけれど、正確に思い出せない。そだ。いくよいく・ごおいちさん。平静19年4月19日の朝5時13分だったような気がする。そだそだ。朝5時15分だったら、「いくよいく・ごお・いこう」になるのに、あと2分長く生きていてくれたらよかったのになって思ったことを思い出した。父親が亡くなったときの印象は、遺体はたいへん臭いというものが第一番目の印象だった。強烈に、すっぱい臭さだった。びっくりしたこと憶えてる。父親の死は何度も詩に書いているけれど、実景にいちばん近いのは、ブラジル大使館の文化部の方からの依頼で書いた、「Then。」だろう。のちに、「魂」と改題して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収めた。その批評を、藤 一紀さんに書いていただいたことがあった。のちに、澤あづささんがもろもろの経緯を含めて、みんなまとめてくださったページがあって、この機会に読み直してみた。よかったら、みなさんも、どうぞ見てくだされ。こちら→http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/43650543.html

ありゃ、『Then。』は、『偶然』というタイトルに変更して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収録していたものだった。『魂』は、べっこの作品だった。塾からいま帰ったのだけれど、塾の行きしなに、あれ、間違えたぞってなって、部屋に戻ってたしかめた。藤 一紀さん、澤 あづささん、ごめんなさい。

きょう、学校で、昼間、20冊の問題集と解答をダンボール箱に入れて、2回運んだんだけど、ここ数十年、重いものを持ったことがほとんどなかったので、腰をやられたみたい。痛い。お風呂に入って、クスリを塗ったけれど、まだ痛い。齢だなあ。体重が去年より8キロも増えていることも原因だと思うけれど。

きょう、塾からの帰り道、「ぼくを苦しめるのは、ぼくなんだ。」といった言葉がふいに浮かんだ。「だったら、ぼくを喜ばせるのも、ぼくじゃないか。なんだ。簡単なことかもしれないぞ。やり方によっては。」などと考えながら帰ってきたのだが、どうだろう。やり方など簡単に見つからないだろうな。

腰が痛いので、もう一度、お風呂に入って、あったまって寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月十二日 「現況」


きょう、機会があって、金子光春の詩を読んで、いったい、ぼくは、なんでこんなすごい詩人をもっと読まなかったんだろうなって思った。「ぼくはあなたのうんこになりました」みたいな詩句に出合っていたのに、なぜ見逃していたんだろう。ってなことを考えていた。部屋の本棚にある光春の詩集にはない詩句だ。

きのう、青木由弥子さんという方の「現況」というタイトルの詩の「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」という詩句について書いたが、きょう仕事の行きしなに、その詩句から室生犀星の詩句が(と、このときは思っていた)思い出された。「こぼれた笑みなら、拾えばいいだろう」だったか、「こぼれた笑みなら、拾えるのだ」だったかなと思って、仕事場の図書館で室生犀星の詩集を借りて読んだのだが見つからなかった。仕事から帰り、部屋に戻って、本棚にある室生犀星の詩集を読んだのだが見つからなかった。青木由弥子さんの発想が似ていたような気がして、気になって気になって、部屋の本棚にある日本人の詩集を読み返しているのだが、いまだ見つからず、である。もし、どなたか、だれの詩にあった言葉だったのかご存知でしたら、お教えください。もう、気になって気になって仕方ないのです。部屋にある詩集で目にした記憶はあるのですが見つからないのです。シュンとなってます。

ついでに授業の空き時間に、金子光春の詩集を図書館で読んでいたのだけれど、「わたしはあなたのうんこになりました」だったかな、そんな詩句に出合って、びっくりして、金子光春の詩を、部屋の本棚にある『日本の詩歌』シリーズで読んだのだが、その詩句のある詩は収録されていなかった。とても残念。

きょう、寝るまえの読書は、『日本の詩歌』シリーズ。どこかにあるはずなのだ。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月十三日 「空に底があったらたどりつくはず」


いま起きた。PCでも検索したが出てこない。またふたたび偶然出合う僥倖に期待して、きょうは、5月に文学極道に投稿する2番目の『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みに専念しよう。金子光春の「うんこ」の詩を持ってなかったこともショックだったが、図書館でルーズリーフに書き写せばいいかな。

朝に松家で、みそ豚定食を食べたあと、部屋に戻って横になってたら、きゅうに眠気におそわれて、いままで眠ってしまっていた。悪夢の連続で、父親と弟が出てきた。ぼくの夢にはよく家族が出てくるのだが、ぼくは家族がみな嫌いだった。不思議なものだ。嫌いなものがずっと夢に出てくるのだ。

青木由弥子さんの詩句の発想と、ぼくが室生犀星の詩句の(と、思っていた)発想と似ていたと思っていたというのは、言葉が足りていなかった。発想の型が似ていたと思うのである。つまり、言葉を突き詰めて考えるということなのであるが、「空に底があったらたどりつくはず」という発想と、「笑みがこぼれるものなら、こぼれた笑みは、拾うことができるはず」という発想に、ぼくは、詩人の言葉の突き詰め方を見たのだと思う。ぼくの使うレトリックなんて、とても単純なものばかりで、このような突き詰め方をしたことがなかったので、強烈な印象を与えられたのだと思う。できたら、ぼくもしてみたい。

ふと思ったんだけど、人間が写真のように実景とそっくりな絵を描いたら芸術になるのに、機械が写真のように実景とそっくりな絵を描いても芸術と呼ばれるのだろうか。人工知能が発達しているので、現代でも可能だと思うのだけれど。ぼくには機械がすると、芸術ではなくなるような気がするのだけれど。


二〇一七年四月十四日 「うんこの詩、その他」


いま起きた。昼間ずっと寝ていたのに、夜も寝ていたということは、よほど疲れていたのだろう。これが齢か。セブイレでコーヒーを買ってきたので、コーヒーを淹れて飲む。頭の毛を刈って、お風呂に入って仕事に行こう。

きょう、図書館で、思潮社から出てた「現代詩読本」の『金子光晴』を借りて、代表詩50選に入ってた、詩集『人間の悲劇』収録の「もう一篇の詩」というタイトルの詩を手書きで全行写した。あまりにもすばらしいので、全行紹介するね。


恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。

あなたにのこりなく消化され
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ばたんと出ていってしまった。


そいえば、10年ほどまえに書肆山田から『The Wasteless Land.IV』を出したのだけれど、そのなかに、「存在の下痢」というタイトルの詩を収めたのだけれど、そのとき、大谷良太くんに、「金子光晴の詩に、うんこの詩がありますよ。」と聞かされたことがあることを思い出した。そのとき、「恋人よ。/たうとう僕は/あなたのうんこになりました。」という詩句を教えてもらったような気もする。すっかり忘れていた。何日かまえに、「こぼれた笑みなら拾えばよい」だったか、「笑みがこぼれたら拾えばよい」だったか、そんな詩句を以前に目にしたことを書いたが、ちゃんとメモしておけばよかったと後悔している。ぼくが生きているうちに、ふたたびその詩句と邂逅できるのかどうかわからないけれど、できればふたたび巡り合いたいと思っている。そのときには、ちゃんとメモっておこう。それにしても、うかつだな、ぼくは。せめて、きょう出合った、すてきな詩句でもメモっておこう。


岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」

花が美しくて
泥が汚いのは
泥のなかに生き
花のなかに死ぬからだ


岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」

酒に酔(よ)うものは酒に溺(おぼ)れ
花に酔(よ)うものは花に亡(ほろ)びる
酒にも花にも酔わないものは
生きていても
しょんがいな しょんがいな


吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5

「一度書かれた言葉は消すな!」


吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5

風景に期待してはならない
距離は狂っている


吉岡 実 「楽園」

私はそれを引用する
他人の言葉でも引用されたものは
すでに黄金化す


吉岡 実 「草上の晩餐」

多くの夜は
小さいものから大きくなる
大きいものから小さくなる


西脇順三郎 「あざみの衣(ころも)」

あざみの花の色を
どこかの国の夕(ゆう)陽(ひ)の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であった
この本の中へは夏はもどらない


武村志保 「白い魚」

凍(こお)った夜の空がゆっくり位置をかえる


笹沢美明 「愛」

「愛の方向が判(わか)るだけでも幸福だな」と。


三好達治 「鷗(かもめ)」

彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳(ふん)墓(ぼ)


鮎川信夫 「なぜぼくの手が」

さりげないぼくの微(び)笑(しよう)も
どうしてきみの涙を
とめることができよう
ぼくのものでもきみのものでもない
さらに多くの涙があるのに


平木二六 「雨季(うき)」

仕事、仕事、仕事、仕事が汝の存在をたしかめる。


田中冬二 「美しき夕暮(ゆうぐれ)」

女はナプキンに美しい夕暮をたたんでいる。


秋谷 豊 「秋の遠方へ」

陽が一日を閉(と)じるように
一つの昼のなかでぼくは静かに
登攀(とうはん)を夢みるのだ


ここまで引用したのは、金子光晴と吉岡 実のもの以外、すべて、土橋重治さんが編んだ詩のアンソロジー、『日本の愛の詩集』 青春のためのアンソロジー 大和書房 1967(銀河選書)に収録されていたもの。ぼくがまったく知らなかった詩人の名前がたくさんあった。田中冬二の詩句は知ってたけど。授業の空き時間が2時間あって、昼休みもあったから、図書館で3冊借りて、それで書き写したってわけだけど、吉岡 実さんのは、たしか、「現代詩人叢書 1」って書いてあったかな。どっから出てるのかメモし忘れたけれど、思潮社からかな。どだろ。帰りに、図書館に返却したので、いまはわからない。

年々、記憶力が落ちてきている気がするので、なるべくメモしなくてはならない。こまかく書かなければ、いったいそのメモのもとがなんであったのかもわからなくなるので、できるかぎり詳しく書いておかなければならない。あ〜あ、20代や30代のころのような記憶力が戻ってこないかな。厚かましいね。ぼくがときどき使っているレトリックは、ヤコービ流の逆にするというもの。たとえば、『陽の埋葬』シリーズの1作に、「錘のなかに落ちる海。」とかあるし、このあいだ思潮社オンデマンドから出た『図書館の掟。』に収録している「Lark's Tongues in Aspic°」には、「蛇をつつけば藪が出るのよ。」といった詩句があるのだが、さっき、ふと思いついた直喩があって、それは、「蠅にたかる、うんこのように」といったものだったのだけれど、いまのところ、どういった詩に使ったらよいのか、自分でも、ぜんぜん思いつかないシロモノなのであった。おそまつ。

もう日本語の本は買わないつもりだったけど、ブックオフに行ったら、108円のコーナーに、まだ読んだことのないものがあったので買ってしまった。きょうから読もう。グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上下巻である。これで日本語になったベンフォードはコンプリートに読んだことになる。でも、なんか、うんこにたたられてしまったのか、ブックオフからの帰り道、あと10分くらいのところで便意を催したのであった。サークルKだったかな、コンビニのまえを通ったので、そこでトイレを借りればよいものを、ぼくはがまんできる、と思い込んで、急ぎ足で歩いて部屋に無事辿り着き、うんこをしたのであった。あと十秒遅かったら、もらしていたと思う。いや、あと数秒かな。それくらいスリルがあった。3月の終わりに、トイレのドアノブを握った瞬間に、うんこを垂れたくらいに(と言っても、およそ1年ブリだよ)おなかのゆるいぼくなのであった。ほんと、おなか弱いわ。食べ過ぎなのかな。

そだ。きょう通勤電車のなかで、人喰い人種の食べる人肉について考えていたのだけれど、きょうはもう遅いし、あした書き込むことにする。


二〇一七年四月十五日 「西脇順三郎」


50肩になって、片腕・方肩、ほぼ半年ずつ、動かすのも激痛で、痛みどめをのんでも効かず、その痛みで夜中に何度も起きなければならなかったぼくだけれど、これって、腕や肩の筋肉が齢とって硬くなっているってことでしょ? 羊の肉って、子羊だとやわらかくておいしくって、肉の名前まで変わるよね。これって、人喰い人種の方たちの人肉選らびでも同じことが言われるのかしらって、きのう、通勤電車のなかで思ってたんだけど、どうなんだろう。ジジババの肉より若者の肉のほうが、おいしいのかしら? そいえば、ピグミー族のいちばん困っていることって、いちばん食べられるってことらしい。ちいさいことって、食欲をそそるってことだよね。外国のむかし話にもよく子どもを食べる話がでてくるけど、『ヘンゼルとグレーテル』みたいなのね。それって、そういうことなのね。ロシアの殺人鬼で、子どもばっかり100人ほど食べてた方がつかまってらっしゃったけれども、いちおう美食家なのね。ああ、なにを最終的に考えてたかって、ぼくの50肩になった肉って、もうおいしくないんだろうなってこと。50肩って、もう人喰い人種の方たちにとっては、とっくに旬の過ぎてしまった素材なんだろうなって思ったってこと。齢とった鶏の肉もまずいって話を聞いたこともある。牛や羊もなんだろうね。豚はちょっと聞いたことがないなあ。齢とった豚を食べたって話は、戦争ものの話を読んでも出てこなかったな。豚って、齢とったら食べられないくらいまずいってことなのかな。ああ、そうだ。イカって、巨大なイカは、タイヤのように硬くて、しかもアンモニア臭くて食べられないらしい。ホタルイカを八雲さんのお店で、お正月に食べたのだけれど、とっても小さくておいしかった。ひと鉢に20匹くらい入っていて、1400円だけど、2回、頼んだ。ホタルイカも小さい方がおいしい。そいえば、タケノコも若タケノコのほうがおいしいよね。食べ物って、若くて小さいもののほうがおいしいってことかな。

さて、5時30分ちょっとまえだ。5月に文学極道に2週目に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしようかな。きのう寝るまえに、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ」上巻をすこし読んだけど、やっぱり読みやすい。ベンフォードも物理学者なんだけど、ラテンアメリカ文学のサバトといい、ロシア文学のソルジェニーツィンといい、みんな物理学者だ。共通しているのは、観察力がすごくて、それを情景描写で的確に書き表していることだ。とにかく頭に情景がすっと入ってくるのだ。すっと情景を思い起こされるというわけだ。そんなことを考えて、きのうは眠った。

とにかくコーヒーのもうっと。まだちょっと、頭がぼうっとしてるからね。

きょうは、仕事場に2時間早く着いてしまったので、図書館で、思潮社から出てた現代詩読本『西脇順三郎』、『三好達治』を読んでた。気に入った個所を引用する。


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠だけが存在するのだ
その他の存在は存在ではない


西脇順三郎 「近代の寓話」

人間の存在は死後にあるのだ


西脇順三郎 「海の微風」

自然の法則はかなしいね


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠は永遠自身の存在であつて
人間の存在にはふれていない


西脇順三郎 「菜園の妖術」

存在という観念をはなれて
永遠という存在が
いる


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠を求める必要はない
すでに永遠の中にいるのだ


三好達治 「わが手をとりし友ありき」

ものの音は一つ一つに沈黙す


いま三好達治の本を読んでるんだけど、三好達治の詩集って、5000部とか10000部とか売れていたって書いてあってびっくりした。ぼくの詩集なんて、20数冊出してるけれど、合わせても、せいぜい100部とか200部しか売れていないような気がする。出版社も教えてくれないしわからないけど。


ぼくは帽子が似合わないので帽子はかぶらないことにしている。


去年はじめて、サンマの腹を食べた。日知庵で、炭火で焼いてくれていたからだろう。それまでは、箸でよけてて、食べなかった内臓を、酒の肴にして食べてみたのだ。苦い味だが、けっしてまずくはなかった。自分がジジイになったせいだろう。ふと、サンマの腹が食べたくなったのだった。あの苦味は、なんの味に似ているだろう。いや、何の味にも似ていない。炭火で焼かれたサンマのはらわたの味だ。そいえば、さざえのあの黒いところはまだ食べたことがないけれど、もしかしたら、いまなら食べられるかもしれない。さざえを食べる機会があったら挑戦してみよう。酒の肴にいいかもしれない。わからないけど。しかし、サンマのはらわたの苦みは酒の肴に、ほんとによく合う。ぼくは、酒って、麦焼酎のロックしか飲まないけれど。それも3杯が限度である。それ以上、お酒を飲むときはビールにしている。ビール以外のものを飲むと、(さいしょの麦焼酎のロックはのぞいてね)ほとんどといっていいほどゲロるのだ。

中央公論社の『日本の詩歌』を読んでいるのだが、思潮社から出てた現代詩読本に収録されている詩があまり載っていないことに気がついた。ぼく好みのものが『日本の詩歌』から、はずされているのだった。まあ、西脇順三郎のは、ほるぷ出版から出てるのを持ってるから、これから調べてみる。

よかった。読み直したかった「旅人かへらず」全篇と、「菜園の妖術」が、ちゃんと入ってた。西脇順三郎を読むと、なんだか身体が楽になってくるような気がする。ぼくの体質に合ってるのかもしれない。リズムがいい。ときどき驚かされるような可憐なレトリックも魅力的だ。出てくる固有名詞もユニークだし。

きょうは、体調のためにも、これから寝るまで西脇順三郎を読もうと思う。中央公論社の『日本の詩歌』9冊あるんだけれど、まあ、1冊108円で買ったものだからいいけど、金子光晴の入っている第21巻、あの「うんこ」の詩、入れててほしかったなあ。西脇順三郎が載ってるのも長篇ははしょってるし。室生犀星には、1冊すべて使ってるのに、なんて思っちゃうけれど、出版されたときの状況が、いまとは違うんだろうね。きょうは飲みに行けなかったさみしさがあるけれど、詩を読むさみしさがあるので、差し引きゼロだ。(−1から−1を引くと0になるでしょ?)そんな一日があってもいい。


二〇一七年四月十六日 「西脇順三郎」


金子光晴のあの「うんこ」の詩、「もう一篇の詩」が収められている金子光晴の詩集を手に入れたいと思って調べたら、Amazon で、1円から入手できるんだね。びっくり。朝8時からやってる本屋が西院にあるから、さらっぴんのを買ってもいい。ちくま日本文学全集「金子光晴」に入っているらしい。西院の書店にはなかったので、今日、昼に四条に行って、ジュンク堂で見てこよう。それでなかったら、ネットで買おう。ちくま文庫の棚に行ったら、スティーヴ・エリクソンの『ルビコン・ビーチ』が置いてあって、読みたいなあと思ったけれど買うのはやめた。もう、ほんと、買ってたらきりがないものね。8時に書店が開くので、それまで時間があるからと思って、ひさしぶりに、もう半年ぶりくらいになるだろうか、朝に行くのは、7時30分から開いているブレッズ・プラスでモーニングでも食べようと思って店のまえで舞ってたら、30分になってもローリングのカーテンが下がったままだったから、あれ、どうしちゃったんだろうと思っていたら、自転車で乗り付けたご夫婦の方も、「もう30分ちがうの?」と奥さんのほうが旦那さんに言われたのだけれど、32分になって、ようやくカーテンがくるくると巻かれてつぎつぎと窓ガラスや入口の窓ガラスが透明になっていったので、ほっと安心した。ぼくは、モーニングセットを頼んだんだけど、そのご夫婦(だと思う、ぼくよりご高齢らしい感じ)も、モーニングセットだった。モーニングセットでは飲み物が選べるんだけど、ぼくは、アイスモカにした。パンは食べ放題なのだ。レタスのサラダと、ゆで卵半分と、ウィンナーソーセージ2個がついていた。32分に店内に入ったけれど30分経っても、ぼくのほかにお客さんといえば、その日本人夫婦の方と、10分くらいあとで入ってこられた外国人女性の2人組のカップルだけだった。外国人女性の方たちはモーニングセットじゃなくて、置いてあるパンをチョイスして飲み物を頼んでいらっしゃった。8時くらいまで、ぼくを含めて、その3組の客しかいなかったので、めずらしいなあと思った。日曜日なので、仕事前に来られるお客さんがいらっしゃらなかったというのもあるのだけれど、以前によくお見かけした、60代から80代くらいまでのご高齢の常連の方たちがいらっしゃらなくて、どうしてなのかなと思った。まさか、みなさん、お亡くなりになったわけじゃないだろうし、きっと、きょうが日曜日だからだろうなって思うことにした。以前によく朝に行ってたころ、ときどき、お見かけしなくなる方がぽつりぽつりといらっしゃってて、病院にご入院でもされたのか、お亡くなりになったのかと、いろいろ想像していたことがあったのだけれど、きょうは、そのご常連さんたちがひとりもいらっしゃらなかったので、びっくりしたのであった。なんにでもびっくりするのは愚か者だけであるとヘラクレイトスは書き残していたけれど、ぼくはたいていなんにでも驚くたちなので、きっと愚か者なのだろう。いいけど。

お昼に、ジュンク堂に寄って、それからプレゼント用に付箋を買いに(バレンタイン・チョコのお返しをまだしていない方がいらっしゃって)行って、それから日知庵に行こうっと。それまで、きのう付箋した箇所(西脇順三郎の詩でね)をルーズリーフに書き写そう。それって、1時間くらいで終わっちゃうだろうから、終わったら、それをツイートに書き込んで、それでも時間があまるだろうから、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。とりあえず、まず、コーヒーを淹れて飲もう。それからだ。西脇順三郎の詩、ほんとおもしろかった。読んでて楽しかった。


西脇順三郎 「道路」

二人は行く
永遠に離れて
永遠に近づいて行くのだ。


西脇順三郎 「第三の神話」

よく見ると帆船の近くに
イカルスの足が見える
いまイカルスが落ちたばかりだ


西脇順三郎 「第三の神話」

美しいものほど悲しいものはない


西脇順三郎 「天国の夏」

もう人間はあまり笑わなくなつた
脳髄しか笑わなくなつた


西脇順三郎 菜園の妖術」

一かけるゼロはゼロだ
だがゼロは唯一の存在だ
無は唯一の存在だ
無は永遠の存在だ


西脇順三郎 豊穣の女神」

幸福もなく不幸もないことは
絶対の幸福である
地獄もなく極楽もないところに
本当の極楽がある


西脇順三郎 「野原の夢」

すべては亡びるために
できているということは
永遠の悲しみの悲しみだ


西脇順三郎 「野原の夢」

これは確かに
すべての音だ
私は私でないものに
私を発見する音だ


西脇順三郎 「大和路」

なぜ人間も繁殖しなければならない


田中冬二 「暮春・ネルの着物」

私はアスパラガスをたべよう


ひゃ〜、2時間まえに、「店のまえで舞ってたら」って書いてた。まあ、「舞ってたら」ハタから見て、おもしろかったんだろうけどね。56歳のハゲのジジイが舞ってたらね。これはもちろん、「店のまえで待ってたら」の打ち込み間違いです。いまさらぜんぶ入れ直すのも面倒なので付け足して書きますね。


愛してもいないのに憎むことはできない。
憎んでもいないのに愛することはできない。


これから四条に。まずジュンク堂に寄って、金子光晴の詩集があるかどうか見て、それからロフトに寄ってプレゼント用の栞を買って、そのあと日知庵に行く。

日知庵から帰ってきた。本好きのご夫婦の方とおしゃべりさせていただいてた。アーサー王の話がでてきて、なつかしかった。ぼくの持ってるのは、リチャード・キャヴェンディッシュの『アーサー王伝説』高市順一郎訳、晶文社刊だった。魚夫王とか出てきて、これって、エリオットの『荒地』につながるね。

きょうは、ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読みながら床に就こう。きのうも、ちょこっと読んだのだけれど、ベンフォードの文章には教えられることが多い。物理学者が本業なのに、ハードSF作家なのに、なぜにこんなによく人間が描けているのか不思議だ。いや逆に物理学者だからかな。まあ、そんなことはどうでもいいや。よい本が読めるということだけでも、ぼくが幸せなことは確実なのだから。おやすみ、グッジョブ! いつ寝落ちしてもいいようにクスリのんで横になる。


二〇一七年四月十七日 「SFカーニバル」


起きた。きょうは神経科医院に行くので、それまで、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。

医院の帰りに、大谷良太くんちに行った。コーヒー飲みながら詩の話や小説の話をしていた。「きょう、医院の待合室で、雑誌の『女性自身』を読んでたら、共謀罪の話が載っていてね。」と言ったら、ちょこっと政治の話になった。と、こういうことを書いても警察に捕まる時代になっていくのかなあ。怖い。

そだ。きょう、医院で待つのも長いからということで、ロフトに行って、プレゼント用の付箋を2つ買い、ついでに丸善に寄って、岩波文庫の『金子光晴詩集』を買った。きのう買わなかったのだ。背の緑色がちょっと退色しているのだけれど、ジュンク堂に置いてあったものも退色していたから、まあ、これでいいやと思って買った。奥付を見ると、2015年5月15日 第8刷発行って、なってたんだけど。ということは、背の緑色が退色しているのではなくて、この時期に発行された『金子光晴詩集』すべての本の背の緑色が、ちょっとへんな緑色になっちゃってたって可能性が大なのだなって思った。

部屋に戻ったら、郵便受けに、このあいだ Amazon で買った、フレドリック・ブラウン編のSFアンソロジー『SFカーニバル』が届いていた。旧カヴァーである。表紙の裏にブックオフの値札を剥がした跡があるが、まあ、いいや。150円ほどで買ったものだから。(送料は257円だったかな。)もう本は買わないと思っていたのだけれど、買っちゃうんだな。終活して、蔵書を減らしている最中なのだけど。なんか複雑な気持ち。そだ。「こぼれた笑いなら拾えばいい」だったかな、そんな詩句があってねという話を大谷くんにしたら、大谷くんがネットで調べてくれたんだけど、出てこなかった。生きているうちに、その詩句とふたたび巡り合える日がくるかなあ。どだろ。「詩句のことなら、なんでも知ってるってひとっていないの?」って、大谷くんに訊いたけど、「いないんじゃないですか。」って返事がきて、ありゃりゃと思った。篠田一士みたいなひとって、もういまの時代にはいないのかなあ。

さて、56歳独身男は、これから2回目の洗濯をするぞ。雨だから、部屋干しするけど。

雨の音がすごくって、怖い。どうして、雨の音が怖いのか、わからないけれど。息が詰まってくる怖さだ。


二〇一七年四月十八日 「明滅」


ちょっと早く起きたので、5月の第2週目に文学極道に投稿する、『全行引用に寄る自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。

5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』あとルーズリーフ2枚分で終わり。2枚ともページいっぱいの長文だから、ワード入力するの、しんどいけど、がんばった分だけ満足感が増すので、詩作はやめられそうにない。きっと一生、無名の詩書きだろうけど。まあ、いいや。

海東セラさんから、個人誌『ピエ』18号と19号を送っていただいた。同時に出されたらしい。セラさんの作品を読んだ。18号に収録されている「混合栓」では、ずばり作品のタイトルの意味をはじめて教えていただいた。お風呂で毎日使っているものなのに、その生を知らずに使っていたのだった。19号に収められている「明滅」では、つぎのようなすてきな詩句に出合った。「わたしは冷たい━━。半ズボンの裾がそうつぶやくので初めて濡れていることに気がつく。」すてきな詩句だ。とてもすてきな詩句だ。きょうもいろいろあったけど、すてきな詩句に出合ったら、みんなチャラだ。吹っ飛んじゃうんだ。海東セラさん、いつもうつくしい詩誌をお送りくださり、ありがとうございます。引用させていただいた詩句、ぼくのなかで繰り返し繰り返し木霊しています。


二〇一七年四月十九日 「クライブ・ジャクスン」


フレドリック・ブラウンが編んだ短篇SFアンソロジー『SFカーニバル』読了。ブラウン自身のがいちばんおもしろかった。また、クライブ・ジャクスンというはじめて読む作家のわずか4ページのスペオペでは、さいごの3行に笑った。それはないやろ的な落ち。ぼくには大好きなタイプの作品だったけど。

で、ここ数日のあいだ、断続的に読んでいるグレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上巻、ひじょうによい。とてもよい。表現がうまい。描写がすごくいい。なんちゅう物理学者なんだろう。っていうか、ぼくは、これで、ベンフォードを読むのコンプリートになっちゃうんだよね。残念!

きょうは、寝るまえの読書は、『タイムスケープ』上巻のつづきから。まだ138ページ目だけど、傑作の予感がする。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十日 「 」


風邪を引いたみたい。咽喉が痛くて、熱がある。薬局が開く時間になったら、クスリを買いに行こう。きょうは休みなので、部屋でずっと休んでいよう。

午前中はずっと横になっていた。何もせず。お昼になって、近くのイオンに行って薬局で、クラシアンの漢方薬の風邪薬を買って、ついでに3階のフードコートでまず薬を水でのんで、それから長崎ちゃんぽんのお店でチゲラーメンの並盛を注文して食べた。おいしかった。いま部屋に戻って、ツイートしてる。

ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もうか、『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをやるか思案中。そか。両方やっちゃおうか。ワード打ち込みも、ルーズリーフで、あと2枚分だものね。

『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業が終わった。校正は後日、ゴールデン・ウィークにでもしよう。きょうは、これからベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もう。1年10カ月ぶりに依頼していただいた、現代詩手帖の原稿書きがあるのだが、もう頭のなかに原稿の元型ができているので、あさってからの連休3日間で(ぼくは月曜日も休みなのだ)いっきょに書き上げてしまおうと思っている。それでも数日の余裕があるので、しかも、そのうちの一日は学校が休みなので、十分に見直すことができるものと思う。とにかく、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わってよかった。引用文が間違いなく打ち込めているのか、たしかめはするのだが、ときに漢字の変換ミスや、言葉が足りなかったりすることがあるので(「している」を「してる」にしたりする。きっと、自分のふだんの口調が反映されているのだと思う)注意しながら打ち込んでいると、じつに神経に負担がかかるのである。しかし、それが終わって、ほっとしている。きょうは、もうあと読書するだけ。56歳。独身ジジイ。まるで学生のような生活をいまだに送っているのだなと、ふと思った。夕方に風邪薬をのむのを忘れないように、目覚ましでもセットしようかな。でもなんのためにセットしたのか忘れてしまってたりしてね。

BGMは韓国ポップス。韓国語がわからないから、言葉の美しさ、リズムを、音楽とともに耳が楽しんでいるって感じかな。2bicからはじまって、チューブがかけるものをとめないで聴いている。はじめてお見かけするアーティストが出てきたり、というか、そういうのも楽しみなんだよね。

そいえば、まえに付き合ってた子、しょっちゅう携帯をセットしてたなあ。仕事の合間に、ぼくんちに来てたりしてたからな。音楽がそんなことを思い出させたんやろうか。もう2、3年、いや、3、4年まえのことになるのかなあ。いまは神戸に行っちゃって、遊びに来てくれることもなくなっちゃったけど。

ピリョヘー。

いま思い出した。まえに付き合ってた子が携帯に時間をセットしていたの、あれ、「タイマーをセットする」という言い方だったんだね。簡単な言葉なのに、さっき書き込んだときは、思い出されなかった。齢をとると、すさまじい忘却力に驚かされるけれど、だからこそみな書き込まなくちゃならないんだね。

アンニョン。

いま王将で、焼きそば一皿と瓶ビール一本を注文して飲み食いしてきたのだけれど、バックパックの後ろについている袋のチャックを開けて、きょうイオンで買った風邪薬のパッケージを裏返して見たら、製造元の名前が、「クラシアン」じゃなくて、「クラシエ製薬株式会社」だった。クラシアンって、なんだか、住宅会社っぽい名称だね。調べてないけど。調べてみようかな。ぜんぜん、そんな名前の会社がなかったりして、笑。いまググるね。

ありゃ、まあ。水漏れとか、水まわりのトラブルを解消する会社の名前だった。「暮らし安心」からきてるんだって。「クラシアン」なるほどね。ちなみに、ここね。→http://www.qracian.co.jp/

ちなみに、ぼくがクラシエ製薬株式会社から買った風邪薬の名前って、「銀翹散(ぎんぎょうさん)」ってやつで、元彼と付き合ってたとき、ぼくがひどい風邪で苦しんでたときに、彼が買ってきてくれた風邪薬で、服用して5分もしないうちに喉の痛みが消えた風邪薬だった。いまも当時のように効いてるよ。

さて、ベンフォードの『タイムスケープ』の上巻のつづきに戻ろう。読書って、たぶん、人間にしかできないもので、とっても大切な行為だと思うけど、自分がその行為に参加できて、ほんと、幸せだなって思う。ぼくも糖尿病だけど、糖尿病で視力を失くした父のように視力は失くしたくないなって強く思う。

瓶ビール一本で酔っちゃったのかな。気分が、すこぶるよい。きょうは、休みだったのだけれど、朝はゴロ寝で、昼には、5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業を終えて、韓国ポップス聴きまくっていたし、夕方からは読書に専念だ。

日本のアーティストの曲で、「a flower of the mystery」だったか、「a mystery of the flower」だったか、そういったタイトルの曲を思い出したんだけど、チューブにはなかった。残念。ああ、もう何でもメモしなきゃ憶えていられない齢になったんだな。というのは、その曲のアーティストの名前が思い出せないからなんだけど、ここさいきん、思い出せないことが多くなっている。いや、ほんとに、なんでもかんでもメモしておかなければならなくなった。情けないことだ。それにしても、なんという名前のアーティストだったんだろう。憶えてなくて、残念。


「どんなに遠く離れていても」っていうのは距離だけのことを言うのじゃない。


hyukoh の新譜が4月下旬に出るというので、Amazon で予約購入した。


二〇一七年四月二十一日 「タイムスケープ」


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻に突入。上巻に付箋個所10カ所。レトリックと表現がすばらしいと思うところに付箋した。ルーズリーフ作業は、あした以降に。いま、4月28日締め切りの原稿のことで頭いっぱいだから。といっても、きのう、数十分で下書きを書いたのだけれど、完璧なものにするために週末の土日と休みの月曜日を推敲に費やすつもりなので、ルーズリーフ作業は、下巻も含めると、GW中になるかもしれない。といっても、きょうは、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻を読めるところまで読もうと思う。ヴァレリーが書いていたように、「同時にいくつもの仕事をするのは、互いによい影響を与え合うのである。」(だいたいこんな訳だったような記憶がある。)きょうは、一日を、読書にあてる。


二〇一七年四月二十二日 「いつでも、少しだけ。」


いま日知庵から帰った。ヨッパである。おやすみ、グッジョブ!


いつでも、少しだけ。


きょうか、きのう、『The Wasteless Land.』が売れてた。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/Wasteless-Land-%E6%96%B0%E7%B7%A8%E9%9B%86%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788656/ref=la_B004LA45K6_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1492792736&sr=1-4

グレゴリイ・ベンフォード『タイムスケープ』下巻 誤植 93ページ 1、2行目 「悪戯っぽいい口ぶりでいった。」 「い」が、ひとつ多い。


二〇一七年四月二十三日 「時間とはここ、場所とはいま。」


人間が言葉をつくったのではない。言葉が人間をつくったのだ。


時間とは、ここのことであり、場所とは、いまのことなのである。

時間とはここ、場所とはいま。


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻を読了した。思弁的なSFだったが、また同時に文学的な表現に見るべき個所がいくつもあって、これから自分が書くことになる文章が大いに影響を与えられることになるのではないだろうかと思えた。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』以来である。

これから2敗目のコーヒーを淹れる。コーヒーもアルコールや薬といっしょで、中毒症状を起こすことがある。学生時代に、学部生4回生と院生のときのことだが、1日に10杯以上も飲んでいたときがあった。いま10杯飲んだら、きっと夜は眠れないことだろう。いくら睡眠薬や精神安定剤をのんでいても。

コーヒーを飲んだら、グレゴリイ・ベンフォードのルーズリーフ作業をしようと思う。きのうまでは、GW中にやろうと思っていたのだが、文章のすばらしさをいますぐに吸収して、はやく自分の自我の一部に取り込んでしまいたいと考えたからである。それが終わったら、つぎに読むものを決めよう。

GWは6月の第1週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『詩の日めくり』をつくろうと思う。いつ死んでもよいように、つねに先々のことをしておかなければ気がすまないたちなのである。さいきん、あさの食事がコンビニのおにぎりだ。シャケと昆布のおにぎりだ。シャケを先に食べる。なぜだか、わかる? 昆布の方が味が強いから、昆布の方から先に食べると、シャケの味がはっきりしないからだろう。ぼくが食べ物を好きな方から食べるのも同じ理屈からだ。おいしいものの味をまず味わいたいのだ。あとのものは、味がまざってもかまいはしない。ぼくが古典的な作品を先に読んだのも、同じような理屈からだったような気がする。食べ物の食べ方と、読み物の読書の仕方がよく似ているというのもおもしろい。両方とも、ぼくの生活の大きな部分を占めているものだ。ぼくの一生は、食べることと、読むこととに支配されているものだったというわけだな。それはとってもハッピーなことである。

さっき日知庵から帰ってきた。きょうは体調が悪くて、焼酎ロック1杯と生ビール1杯で帰ってきた。これから床について、本でも読みながら寝ようと思う。ディックの短篇集『ペイチェック』にしよう。タイトル作品以外、ほかの短篇集にぜんぶ入っているというハヤカワSF文庫のあこぎな商売には驚くね。

自分の詩集のところを、Amazon チェックしていたら、書肆ブンから復刊された、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、1冊、売れてた。うれしい。これ→
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA-%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788664/ref=la_B004LA45K6_1_2/355-1828572-1889417?s=books&ie=UTF8&qid=1492950970&sr=1-2


二〇一七年四月二十四日 「floccinaucinihilipilification」


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻に載ってたんだけど、最長の英単語って、「floccinaucinihilipilification」というものらしい。山高 昭さんが翻訳なさっておられるんだけど、「無価値と判定すること」という意味らしい。

最長の日本語の単語って、なんだろう?

きのう寝るまえに、ハヤカワSF文庫のディックの短篇集『ペイチェック』の悪口を書いたけれど、よい点もあった。活字のポイントが、むかしのものより大きくて、読みやすくなっている。なぜ、『ペイチェック』をあれほど分厚くしなければならなかったかの理由のひとつかな。でも、ほんと、分厚くて重たい。

FBを見ていると、きょうは天気がよくて、洗濯日よりだというので、洗濯をした。ついでに、1週間ほど、薄めた洗剤液の入ったバケツに浸けて置いた上履きを洗った。いまから、ディックの短篇集『ペイチェック』のつづきを読む。冒頭のタイトル作品の途中で眠り込んでしまっていたのであった。

いま解説を読んで気がついた。「ペイチェック」もほかの短篇集に入ってた。未訳のものがひとつもなかったんだね。なんだか悲しい短篇集だったんだね。『ペイチェック』分厚さだけは、ぼくの持っているディックの短篇集のなかで群を抜いて一番だけれど。

Lush の Nothing Natural を聴いている。この曲が大好きだった。だいぶ処分したけど、いま、ぼくの部屋も、大好きな本やCDやDVDでいっぱいだ。いつか、ぼくがこの部屋からいなくなるまで、それらはありつづけるだろうけれど。

Propaganda の Dr. Mabuse を聴いた。1984年の作品だというから、ぼくが院生のころに聴いてたわけだな。いまから30年以上もむかしの話で、まだ詩を読んだこともなかったころのことだ。理系の学生で、連日の実験と、考察&その記述に疲れ果てて家に帰ってたころのことだ。

いま、4月28日締め切りの原稿の手直しをしていたのだけれど、英語でいうところの複文構造をさせていたところをいくつかいじっていたのだけれど、ふだんのぼくの文章の構造は単純なものが多いので、ひさしぶりに複文を使って自分の文章をいじっていると、まるで英語の文章を書いてるような気がした。

ディックの短篇集『ペイチェック』で、「パーキー・パットの日々」を読み終わった。いま、同短篇集収録の「まだ人間じゃない」を読み直しているのだけれど、このあいだも読み直したのに、さいごのところが思い出せなかったので、もう一度、読み直すことにした。つい最近、読み直したはずなのだけれど。

あ、複文じゃなくて、挿入句だ。ぼくのは複文というよりも、挿入句の多い文章だった。複文っぽく感じたのはなぜだろう。自分でもわからない。読み直したら、いじくりまわす癖があるので、きょうは、もう見直さないけれど、あしたか、あさってか、しあさってかに見直して、手を入れるだけ入れまくろう。

とりあえず、8錠の精神安定剤と睡眠導入剤をのんで床に就こう。きょうの昼間は、なぜか神経がピリピリしていた。それが原稿に悪い影響を与えてなければよいのだけれど。いや、原稿をいじくってたので、神経がピリピリしていたのかもしれない。いまもピリピリしている。眠れるだろうか。いくら精神安定剤や睡眠導入剤を服用しても、昼間に神経がピリピリしていたら、まったくクスリが効かないことがある体質なので、きょうは、それが心配。ううん。この心配が、睡眠の邪魔をするのでもある。ぼくの精神というのは、どうしてこのようにもろいのだろうか。神経が太いひとが、うらやましい。

寝るまえの読書は、ディックにしよう。短篇集『ペイチェック』のなかから適当に選んで横になって読もう。あ、もしかすると、ディックの強迫神経症的な作品の影響かもしれないな。でも、ほかに読みたいものは、いまとくにないからな。とりあえず、クスリのんでPCを切ろう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十五日 「一生、ひとりでよいのだ。」


これから仕事に。あした、あさっては休みなので、4月28日締め切りの原稿を推敲することができる。もう推敲と言うより、彫琢の段階なのだけど。通勤では、このあいだ買った、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読むことにしよう。「もう一篇の詩」のあとに、「さらにもう一篇の詩」ってのがあったよ、笑。それは、うんこの詩でもなくて、ぼくにはおもしろくなかったけれどね。

きょうは、学校が午前で授業が終わりだったので、はやく帰ってこれた。二時間目の授業のまえに時間があったので、一時間はやく職員室についたのだ、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読んでいたら、すいすい読めたので、やはり詩集はいいなあと思ったのであった。いま204ページ目に突入するところ。

もう十年くらいむかしの思い出だけど、食べ物の名前が出てこないので書けなかったのだけれど、『金子光晴詩集』を読んでたら、195ページに、「朝は味噌汁にふきのたう。」(「寂しさの歌」二)というのがあって、思い出した。ふきのとうの天ぷら、たしか花だったと思うけれど、それをジミーちゃんのお母さまがてんぷらにしてくださって、そのふきのとうは、ジミーちゃんちの庭で採れたものなのだけど、食べさせてくださって、適度な苦みが、大人の味だなと思わせられる、ご馳走だった。そのジミーちゃんのお母さまも亡くなれて何年たつのだろう。ジミーちゃんが発狂して以来、ジミーちゃんと会っていなかったのだけれど、共通の友人から、ジミーちゃんのお母さまが亡くなったと何年かまえに聞かされたのであった。ジミーちゃんは、ぼくが詩を書くときに、「いま書いてる詩にタイトルつけてよ。さあ、言って!」と言うと、即座にタイトルを言ってくれたり、詩句自体のいくつかも、ジミーちゃんの言動が入っていて、ぼくはそれを逐一、作品のなかで述べていたけど、ジミーちゃんのお母さまも、ぼくの詩作品のなかに何度か登場していただいている。たしか、書肆山田から出した『The Wasteless Land.IV』に収録した詩に書いてたと思う。たしか、こんなセリフだったと思う。「さいしょの雨にあたる者は親不孝者なのよ/わたしがそうだったから/わたしも親から、そう言われたわ。」ぼくって、まだぜんぜんだれにも雨が降っていないのに、さいしょの雨粒が、よく顔にあたったりするんですよねえって言ったときのお返事だったと思うけれど、ふきのとうの天ぷらをつくってくださったときの記憶も目に鮮明に残っている。つぎつぎと揚げていってくださった、ふきのとうの天ぷらを、まだ、あつあつのものを、それに塩をちょこっと振りかけて、ジミーちゃんと、ジミーちゃんのお母さまと、ぼくの三人で食べたのであった。おいしかったなあ。なつかしい記憶だ。

これから夕方まで、『金子光晴詩集』を読む。どんな詩かは、アンソロジーで、だいたい知っているけど、まとめてドバーッと読むのもいい。詩自体に書かれたこともおもしろいところがあるし、そこには付箋をしていて、あとでルーズリーフに書き写すつもりだけれど、自分の記憶にも触れるところが、ふきのとうの天ぷらの記憶のようにね、あると思うので、それも楽しみ。ぼく自体が忘れている記憶が、他者の詩に書かれた言葉から、詩句から、そのイメージから、あるいは、音からさえも、呼び起こされる場合があると思うと、やっぱり、文学って記憶装置だよねって思っちゃう。言葉でできたみんなの記憶装置だ。

4月28日締め切りの原稿の彫琢は、夜にすることにした。いまはとにかく、すいすい読めてる『金子光晴詩集』に集中しようと思う。BGMは Propaganda。Felt。 Lush。Human League。などなど。ポップスにしようっと。

あちゃ〜。引用した金子光晴の詩句に打ち込みミスがあった。「朝は味噌汁にふきのたう。」ではなくて、「朝は味噌汁にふきのたう、」句点ではなくて、読点だった。ミスしてばっかり。まるで、ぼくの人生みたい。あ、そりゃ、そうか。打ち込みミスも人生の一部だものね。ワン、ツー、スリー、フォー!

ぼくはコーヒーをブラックで飲むんだけど、大谷良太くんはいつも牛乳を入れてる。さいきんは砂糖も入れている。『金子光晴詩集』を読んでたら、240−241ページに、「牛乳入珈琲に献ぐ」という詩があったので、ふと大谷良太くんのコーヒーのことを思い出した。ヘリコプターが上空で旋回している。

恋人たちの姿を見て、「あれは泣いているのか/笑っているのか」と詩に書いたのは、たしかリルケだったか。いや、あれは、泣きながら笑っているのだと、笑いながら泣いているのだと、ぼくの胸のなかで、ぼくの過去の恋を思い出しながら思った。

付箋しようかどうか迷った詩句があったのだが、やはり付箋しておこうと思って、『金子光晴詩集』を読んだところを読み直しているのだが、場所が見つからない。女性の肛門のにおいを嗅ぐ詩句なのだが。(「肛門」は金子光晴のほかの詩句でも出てくる。「肛門」は、彼の詩の特徴的な言葉のひとつだな。)

見つけた! 何を? 詩句を。85ページにあった。「彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ」(金子光晴『航海』第四連・第一行目)これで安心して、250ページに戻って行ける。読み直して、ますます理解したことのひとつ。金子光晴は「肛門」や「尿」という言葉が好きだったんだなってこと。

さっきリルケの詩句を(たぶん、リルケだったと思うんだけどね、記憶違いだったら、ごめんね。)思い出したのは、『金子光晴詩集』の249ページに、「泣いてゐるのか、それとも/しのび笑をこらへてゐるのか。」(『死』第二連・第三―四行)という詩句があったからである。(と、ぜったい思うよ。)同じページには(249ページだよ。)「痺肩のいたいたしいうしろつき」(『死』第一連・第四行)といった詩句があって、この一年、五十肩で痛みをこらえるのに必死だった(痛みどめが数時間で切れるくらいの痛みでね、その痛みで睡眠薬で寝てても数時間で目が覚めてたのね)自分の状況を思い出した。この『死』という詩の第三連・一行目に、「ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。」という詩句があるのだけれど、この言葉は、ほんとに深いね。恋人同士でも、こころが通っていないことってあるものね。それも、あとになってから、そのことがわかるっていう怖さ。深さだな。深い一行だなって思った。

『金子光晴詩集』を読む速度が落ちてきた。詩句の中味が違ってきているのかな。この詩集って、出た詩集の順番に詩を収録しているのかな。しだいに詩句にたちどまるようになってきた。『死』の最終連・第一ー二行である。「しつてくれ。いまの僕は/花も実も昔のことで、生きるのが重荷」こころに沁みる二行だ。なにか重たいものが胸のなかに吊り下がる。「花も実も昔のことで、」という詩句が、ことに胸に突き刺さるが、ぼくにも切実な問題で、56歳にもなって、独身で、恋人もいない状態で、ただ小説や詩にすがりつくことしかできない身のうえの自分に、ふと、自己憐憫の情を持ってしまいそうになる。でも、ぼくはとてもわがままで、どれほど愛していると思っている相手に対しても、すぐに癇癪を起こしてしまって、突然、いっさいの感情を失くしてしまうのである。こんな極端な性格をしている人間を、だれが愛するだろうか。ぼくでさえ、自分自身にぞっとしてしまうのだから。一生、ひとりでよいのだ。


二〇一七年四月二十六日 「ぱんぱん」


いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。すこぶる気分がよい。これからクスリのんで寝る。寝るまえの読書は『金子光晴詩集』。付箋しようかどうか迷った箇所を見つけたい。やっぱ、ちょっとでも、脳裡にかすめた個所は付箋しなきゃだめだね。帰りの電車のなかで探したけど、見つからない。ふにゃ〜。

夢を見た。悪夢だった。気の狂った弟がたこ焼き屋さんで順番待ちしている女子高校生たちの順番を無視して割り込んでたこ焼きを注文して文句を言われて、その女子高校生のひとりを殴ったら女子高校生たちにぼこぼこに殴り返されている夢だった。とても現実感のある夢であったので、じつに情けなかった。

きょうも仕事がないので、夕方まで、『金子光晴詩集』を読むことにする。

付箋しようか迷って付箋しなかった箇所の詩句「深みから奈落が浮かび上がってくる」(だったの思う)が、3、4回繰り返し読み直しても見つからなかった。ぼくが勝手にイメージしてつくった言葉なのかな。「僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、」(『寂しさの歌』三)からの。

これから読むのは、岩波文庫の『金子光晴詩集』295ページ。『くらげの唄』から。これはアンソロジーで読んだような気がする。夕方までには最後まで読めるだろうね。夥しい付箋の数。西脇順三郎を読んだときより多いかもしれない。めっちゃ意外。おもしろさの種類がちょこっと違うような気もするけど。

363ページに、「なじみ深いおまんこさんに言ふ」(金子光晴『愛情』46)とあったので、すかさず付箋した。

465ページに、「イヴの末裔はお祖々をかくし」(金子光晴『多勢のイヴに』)という詩句を見つけた。「おそそ」というのは、「おまんこ」のことである。ぼくの父親の世代(いま80歳くらいのひとたち)で使われていた単語だ。めっちゃなつかしい。数十年ぶりに目にした言葉だった。「おそそ」

かといって、同じ詩のさいごの二行はこんなの。

核実験は夢のまたゆめ
どこまでつづくぬかるみぞ。
(金子光晴『多勢のイヴに』最終連・第三―四行)

ようやく、岩波文庫の『金子光晴詩集』が読めた。後半、付箋だらけ。これから、もう一度、読み直す。よいなと思った詩篇を。

先に、コーヒーをもう一杯、淹れよう。

鼻水が出てて、それがどこまで長く伸びるのかなって見てたら、その鼻水の先っちょが『金子光晴詩集』のページの耳のところに落ちてしまって、4、5ページにわたって鼻水が沁み込んでいた。すぐに気がつかなかったからなんだけど、すぐに拭いてても悲惨なことになっていたような気がする。しょんぼり。いったん詩集を閉じて、コーヒーを飲んでいたので沁み込んでいたのだね。いまそこのところを見直してたら、ぼくの表現がおかしいことに気がついた。4、5ページじゃなくて、4、5枚ね。表裏に沁み込んで、その部分波型になっているし。落ちた場所なんて、ひっぺがすときにちょこっと破れかけてたし。ああ、でも、ぼくは、こんなささいな、ちょっとしたことでも、人生においては、大事な成分だと思っているし、そのちょこっと破れかけたページや、波型になってしまったページの耳をみるたびに、自分の失敗を思い出すだろう。以前に、ページのうえにとまった羽虫を手ではらうと、羽虫の身体がつぶれて、ページの本文の詩句のうえを汚してしまったことを、いつまでも憶えているように。たしか、夏に公園で読んでいた岩波文庫の『ジョン・ダン詩集』だったと思う。これは、2度ほど詩に書いたことがある。河野聡子さんが編集なさったご本に、「100人のダリが曲がっている。」というタイトルで掲載していただいたはずなのだけど、ちょっと調べてくるね。(中座)二〇〇九年十二月六日に発行された、『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』という、とてもおしゃれな装丁とカラフルなページのご本でした。ぼくの「100人のダリが曲がっている。」は、26ページに掲載していただいている。

あつかったコーヒーが少しさめてぬるくなった。ちょうどいいぬるさだ。岩波文庫の『金子光晴詩集』の気に入った詩を再読しよう。音楽といっしょで、よいなと思うと、繰り返し読んでしまうタイプの読み手なのだ。小説でも、ジーン・ウルフとか、フランク・ハーバートとか、3回以上、読み直ししている。

そいえば、きのう、日知庵で、ぼくが読んでる『金子光晴詩集』に収録されている詩のなかに出てくる「ぱんぱん」という言葉について、えいちゃんに、「えいちゃん、ぱんぱんって言葉、知ってる?」って訊くと、「えっ、なにそれ。」という返事がすかさず返ってきたのだけれど、カウンターのなかで洗い物をしていた従業員のいさおさんが、「売春婦のことですよ。」と間髪入れずに答えてくれたのだった。すると、えいちゃんも、「思い出した。聞いたことがあるわ。」と言ってたのだけど、ぼくは、「そうか、ぼくが子どものときは、よく耳にする言葉だったけどね。あの女、ぱんぱんみたいって言うと、パン2つでも、おまんこさせるって感じの尻軽女のことを言ってたんだけどね。」と言うと、いさおさんが、「ぼくは違うと思いますよ。パン2つで、じゃなくて、これですよ、これ。」と言って、洗い物をやめて、くぼめた左手に開いた右手をあてて、「パンパン」って音をさせたのであった。「そう? 音なの?」って、ぼくは、自分が聞いた話と違っていた説明に、「なるほどね。セックスのときの音ね。気がつかなかったけれど、なんか納得するわ。」と言った。どちらがほんとうの「ぱんぱん」の説明かは知らないけれど、終戦直後にはよく街角に立っていたらしい。つい最近もツイートで、写真をみたことがある。ぱんぱんと思われる女性が街角に立って、ちょっと背をかがめて、紙巻たばこを口にくわえて、紫煙をくゆらせていたように記憶している。ぱんぱんか。ぼくの父親は昭和11年生まれだったから、じっさいに、ぱんぱんを目にしていたかもしれないな。いや、きっと目にしていただろう。文学は記憶装置だと、きのうか、おとついに書いたけれども、じっさいに自分が目にしていなかったことも、それは写真などで目にしたもの、書物のなかに出てきた言葉として記憶したものをも思い起こさせる記憶装置なのだなって思った。いさおさんが、日本の任侠映画にも出てきますよと言ってたけど、日本の任侠映画って、ぼく、あまり見た記憶がなくって、はっきり思い出せなかったのだけれど、そう聞かされると、数少ない目にした任侠映画に、ぱんぱんという言葉がでてきたかもしれないなあと思った。これって、なんだろう。はっきりした記憶じゃなくて、呼び起こされた記憶ってことかな。わからん。

いま王将に行って、遅い昼ご飯を食べてきたのだけれど、そだ。きのう、日知庵で、金子光晴の詩に「ぱんぱん」という言葉がでてきて、そのこと、きのうしゃべったぞと思い出して、帰ってきたら、ツイートしなきゃって思って、王将でペンとメモ帳を取り出して、記憶のかぎりカリカリ書き出したのだった。いや〜しかし、いさおさんの説明、説得力があったな。「ぱんぱん」という音がセックスのときの音って。音には断然たる説得力があるね。パン2つでという、ぼくの説明が、しゅんと消えちゃった。まあ、そういった音も、ぼくにかぎっては、ここさいきんないのだけれど。さびしい。なんてことも考えてた。まあ、また、いさおさんが、洗い物をした直後で、まだ水に濡れている手で、「ぱんぱん」という音をさせたので、おお、そうか、その音だったのだって思ったこともある。あのいさおさんの手が濡れていなかったら、あまり迫力のない「ぱんぱん」という音だったかもしれないので、状況って、おもしろいね。いま何日かまえに見たという、ぱんぱんの画像をツイッターで調べてみたんだけど、数日まえじゃなくて、10日まえの4月16日の画像だった。記憶ってあてにならないね。あ、あてにならない記憶って、ぼくの記憶のことだけどね。ぴったし正確に憶えていられる脳みその持ち主だって、きっとたくさんいらっしゃるのだろうしね。56歳にもなると、ぼくは、自分の記憶力に自信がすっかりなくなってしまったよ。付箋し損なったと思っていた金子光晴の詩句だと思っていた「海の底から奈落が浮かび上がってくる」も、金子光晴の『鮫』三にある「おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。」という詩句か、『寂しさの歌』三にある「僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。」という詩句から、ぼくが勝手につくりだしたものかもしれない。うううん。こんなことがあるあら、ちょっとでも意識にひっかかった個所は、かならず付箋しておかなけりゃいけないね。ほんと、うかつ。これからは、気をつけようっと。

ぼくが金子光晴の詩を、この岩波文庫の『金子光晴詩集』から一篇を選ぶとしたら、まえに引用した、あのうんこの詩「もう一篇の詩」か、つぎに引用する「死」という詩かな。


金子光晴 「死」

       ━━Sに。

 生きてるのが花よ。
さういつて別れたおまへ。
根さがりの銀杏返し
痺肩のいたいたしいうしろつき。

あれから二十年、三十年
女はあつちをむいたままだ。
泣いてゐるのか、それとも
しのび笑をこしらへてゐるのか

ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。
人の騒ぎと、時のうしほのなかで
うつかり手をはなせば互ひに
もう、生死をしる由がない。

しつてくれ。いまの僕は
花も実も昔のことで、生きるのが重荷
心にのこるおまへのほとぼりに
さむざむと手をかざしてゐるのが精一杯。


うんこの詩もすばらしいが、この実存的な詩もすばらしい。岩波文庫の『金子光晴詩集』は、清岡卓行さんの編集が入っているので、その目から逃れた詩篇についてはわからないけれど、「もう一篇の詩」か、「死」のどちらかが、ぼくの選ぶ「金子光晴ベスト」かな。

これからお風呂に入ろう。それからコーヒーを淹れて、ちょっとゆっくりしよう。

コーヒーを先に淹れた。

遅がけに、日知庵に飲みに行くことに。10時くらいに行くと思う。きょうは、自分の鼻水で遊んでいて、岩波文庫の『金子光晴詩集』のページを(耳のところだけどね)傷めてしまって、自分で自分を傷つけたことにショックを受けたけど、いい勉強になった。自分の鼻水では、もうけっして遊ばないこと。


二〇一七年四月二十七日 「金子光晴の詩」


きのう、岩波文庫の『金子光晴詩集』で、付箋した箇所をツイートしてみようかな。こんなの、ぼくは選んでるってことで、ぼくの嗜好がよく出ているんじゃないかな。まあ、いろいろな傾向のものが好きだけどね。きょうは休みだから、ひまなんだ。


金子光晴 「章句」F

落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる
落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる


金子光晴 「渦」

馬券をかふために金のほしいやつと
金がほしいために馬券を買ふやつとの
半分づつの住居なのだ。


金子光晴 「渦」

あゝ渦の渦たる都上海
強力にまきこめ、しぼり、投出す、
しかしその大小無数の渦もやうは
他でもない。世界から計上された
無数の質問とその答だ。


金子光晴 「路傍の愛人」

危い! あんまりそばへ寄ると
君は一枚の鱗(うろこ)を残して、姿を消してしまふかもしれない。


金子光晴 「路傍の愛人」

だが、彼女はしらない。彼女の輝やくうつくしさが、
俺のやうなゆきずりの、張(ちやう)三(さん)李(り)四(し)の、愛慕と讃嘆と、祝福とで、
妖しいまでに、ひときは照りはえたあの瞬間を。


金子光晴 「航海」

彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ
前(ぜん)檣(しやう)トップで、油汗にひたつてゐた。


金子光晴 「南の女におくる」

人は、どんな小さな記憶でも、摑んでゐるわけにゆかない。


金子光晴 「夜の酒場で」

ながれ汚水。だが、どこかへうごいてゐないものはない。私はひとり、頬杖をついて、


金子光晴 「おっとせい」二

(…)やつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。


金子光晴 「泡」三

(…)らんかんにのって辷りながら、おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。


金子光晴 「どぶ」一

━━女ぢゃねえ。いや人間でもねえ。あれは、糞壺なんだ。


金子光晴 「あけがたの歌」序詩 一

 どつかへ逃れてゆかうとさまよふ。
 僕も、僕のつれあるいてゐる影も、ゆくところがない。


金子光晴 「落下傘」一

おちこんでゆくこの速さは
なにごとだ。
なんのあやまちだ。


金子光晴 「寂しさの歌」三

僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。


金子光晴 「蛾」一

月はない。だが月のあかるさにみちてゐた。


金子光晴 「子供の徴兵検査の日に」

身辺がおし流されて、いつのまにか
おもひもかけないところにじぶんがゐる


金子光晴 「女たちのエレジー」

(…)釦穴にさした一輪。あの女たちの黒い皺。黒い肛門。


金子光晴 「女の顔の横っちょに書いてある詩」

三十年後のいまも猶僕は
顔をまっ赤にして途(と)惑(まど)ふ。
そのときの言訳のことばが
いまだにみつからないので。


金子光晴 「[戦争が終ったその日から]」

ぱんぱんはそばの誰彼を
食ってしまひさうな欠伸をする。
この欠伸ほどふかい穴を
日本では、みたことがない。


金子光晴 「くらげの唄」

僕? 僕とはね、
からっぽのことなのさ。
からっぽが波にゆられ、
また、波にゆりかへされ。


金子光晴 「ある序曲」

すでに、僕らは孤独でさへありえない。死ぬまで生きつづけなければならない。ごろごろいっしょに。
そして、真似なければならない。することも考へることも、誰かにそつくりゆずりわたすために。


金子光晴 「太陽」

濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる
……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。
暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の
居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。


金子光晴 「太陽」

濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる。
……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。
暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の
居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。


金子光晴 若葉よ来年は海へゆかう」

海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、
若葉も、貝になってあそぶ。


金子光晴 「愛情」8

 なにを申しても、もう
太真はゐない。

 あのお尻からもれる
疳高いおならを、

 一つ、二つ、三つ、四つと
そばで数取りしてゐた頃の

万歳爺々(くわうてい)のしあわせは
四百余州もかへがたかつた。


金子光晴 「愛情」29

 "唇と肛門とは親戚だ"と、
いくら話しても、その男には分らない。


金子光晴 「愛情」46

 みんな、ばらばらになるんだね。
もう、洋服もつくつて貰へなくなるね。
ジョーさんよ、いづれは皆さやうならだ。
太陽も、電燈も、コップの水も。

 みんな君が愛したものだ。酒も、詩も、
それから、大事なことを忘れてはいけない。
君だけをたよりに生きてきた奥さんの
なじみ深いおまんこさんに言ふ
       サンキュー・ベリマッチを。


金子光晴 「海をもう一度」

 あくと、あぶらと、小便で濁つた海は
海亀と、鮫と、しびれえひしか住めない。


金子光晴 「女の一生を詩(うた)ふ」

それは、男と女とは、人間であることでは平等だが、
おなじものを別の感性で受けとり、
おなじことばで、別のなかみを喋(しやべ)る。


金子光晴 「雨の唄」

君のからだのどのへんに
君がいるのだ?
君を見失ったというよりも
僕はまだ、君をみつけなかった。


金子光晴 「雨の唄」

僕の胸のなかに這ういたみ
それが、君ではないのか。
たとえ、君ではないにしても
君が投げかける影ではないか。


金子光晴 「雨の唄」

君は単数なのか。複数なのか。
きのうの君ははたして、きょうの君か。
いつともしらず、刻々に蒸発して
君の若さは、交代してしまう。


金子光晴 「短詩(三篇)」B

 人間がゐなくなつて、
第一に困るのは、神様と虱だ。
さて、僕がゐなくなるとして、
惜しいのは、この舌で、
なめられなくなることだ。

 あのビンもずゐぶん可愛がつて、
口から尻までなめてやつたが、
閉口したことは、ビン奴、
おしゃべりで、七十年間、
つまらぬことをしゃべり通しだ。


金子光晴 「短詩(三篇)」C

 そして、僕はしじんになった。
学問があひてにしてくれないので。
ビンに結んだ名札を僕は、
包茎の根元に結びつけた。


金子光晴 「そろそろ近いおれの死に」

詩だって? それこそ世迷ひごとさ。


金子光晴 「反対」

人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。


金子光晴 「反対」

ぼくは信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きてることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」A

枝と枝が支へる沈黙のほか
からんとして、なんにもない。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」E

 健全な白い歯並。こいつが第一だ。ぬれて光る唇。漆戸棚のやうな黒光りする頑丈な胃。鉄のやうなはらわた。よく締まつた肛門。
 さあ。もつてらつしやい。なんでもたべるわ。花でも、葉でも、虫でも、サラダでも、牛でも、らくだでも、男たちでも、あしたにならないうちに、みんな消化して、ふというんこにしておし出してしまふから。
 そんな女に僕は、ときどき路傍ですれちがふんだが。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」W

 冒頭もなく、終もなく、人生はどの頁をひらいてみても人生であるやうに
僕らはいつも、路の途中か、考の途中にゐる。

一人の友としんみり話すまもないうちに生涯は終りさうだ。
そののこり惜しさだけが霧や、こだまや、もやもやとさまよふものとなつてのこり、それを名づけて、人は"詩"とよぶ。


金子光晴 「そ ら」

生きてることは せうことない
肌でよごす肌 ふれればきずつく心


金子光晴 「多勢のイブに」

 イブの末裔はお祖々をかくし
棕(しゆ)櫚(ろ)の毛でぼやかしてアダムを釣り
沼辺の虫取りすみれを植ゑて
アダムの塔をHOTHOTさせる。


金子光晴 「わが生の限界の日々」

 四十、五十をすぎてからの日々の迅速さ。
メニューを逆さにして下から上へと、
一度抜(ぬ)けたら生え替(かは)らないこの歯ぐきで
人生を味ひ通す望みがあるか、ないか、
          炎天下で、垂氷(つらら)の下で。


4月28日締め切りの原稿も彫琢しまくって、ぴったし制限文字数で書いたのだが、  これから王将でお昼ご飯を食べに行って、帰ってきたら、もう一度、原稿に目を通して、思潮社の編集長の高木真史さんにワード原稿をメールに添付して送付しようっと。

もういま、完成した原稿を高木さんに送ったので、きょうはもう、することがない。金子光晴の詩句をルーズリーフに書き写そうかな。それとも、ちょっと休んで、横になって、本でも読むか。まず、とりあえず、コーヒーでも淹れよう。

送った原稿にアラビア数字が漢数字に混入していたので、訂正稿をいま送り直した。どんだけ間抜けなのだろうか。文章の内容ばかりにとらわれて、文字の統一を失念していた。まあ、その日のうちに、気がついてよかったけれど。送ってからでも原稿の見直しをしてよかった。というか、推敲を完璧にすべき!

晩ご飯を食べに出る。イオンで、チゲラーメンでも食べてこよう。

焼き飯も食べた。

ルーズリーフ作業終了。これから寝るまで読書。さて、なにを読もうか。ディックの短篇集『ペイチェック』に入っているものを読もう。さいきん知ったコメディアン二人組「アキナ」がおもしろい。直解主義的な言葉のやりとりが見事。

きょうも文学に捧げた一日であった。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十八日 「毎日のように日智庵」


これからお風呂。そして仕事に。

あしたも日知庵に行くと思うけど、きょうも、10時くらいに行く予定。飲んでばっかりや。ちゅうても、きょうも授業の空き時間は読書。ディックの短篇の再読。


二〇一七年四月二十九日 「きょうは、ひとりじゃないんだよ。えへへ。」


日智庵に行くまえに、ジュンク堂で、現代詩手帖の5月号の「詩集月評」を見た。ぼくの詩集『図書館の掟。』(思潮社オンデマンド・2017年2月刊行)の評を、時里二郎さんが書いてくださっていた。詩句の一行の引用もなく。というか、詩句のひと言の引用もなく。まあ、いいか。採り上げていただくだけでも。ね。これが無名の詩人のさだめかな。

いま日知庵から帰った。ひとりじゃないんだよ。えへへ。


二〇一七年四月三十日 「ゲイルズバーグの春を愛す」


ジャック・フィニイの短篇を読もうと思う。きのう、フィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』のトールサイズの文庫をブックオフで108円で買ったのだった。ほとんどさらの状態。

フィニイの短篇集、会話がほとんどなくって読みにくいけれど、このあいだ現代日本の作家の小説を開けたら会話ばっかりだったので、それも勘弁してほしいと思った。適当に、まぜまぜしたものが読みたいと思うのだが、極端な作家が多いのかな。

イオンでチゲラーメン食べてきた。これから読書に戻る。フィニイ。


二〇一七年四月三十一日 「ほんとうに文章って、怖い。」


いまも原稿に手を入れていた。いったん高木さんにお送りした原稿なのだけど、書き直しをしているのだ。さっき完璧だと思っていたのに、まださらによい原稿になっていく。怖いなあ、文章って。ちょっと休憩しよう。セブイレに行って、おにぎりでも買ってこようかな。

原稿、まだ手が入る。ほんとうに文章って、怖い。

ちょっと休憩しよう。言葉を切り詰めて切り詰めていると、頭がキリキリと傷む。とても単純なことを書こうとしているのだけれど、それがひじょうにむずかしいのだ。