僕は窓から一匹ずつ振り落とされていく虫ケラを見ていた
まるで人間のように叫びながら
石畳の上に落ちて
潰れていく
何万匹といるだろう虫を
僕はマッチを擦りながら
もたれる壁に
映し出した
長すぎる影が
まるで海岸線のようにどこまでも続いていく
明け方に僕は
クマの背中を見ていた
そいつの名前は
ヘンドリック
12年前から
一緒に暮しているクマだ
人間で云えば
もう初老の歳
片目は緑内障で視力を失い
左ひざの関節を痛め
びっこを引く
ヘンドリック!
耳も遠くなり
食事もあんまり摂らなくなった
布団から出てこない日も
随分と多くなった
死
というものを
生命は運んでいる
ヘンドリックと差し向かい
エスプレッソの珈琲を飲んでいる時だ
彼は喘息のような苦しそうな声で
こう云った
もしもこの夢から覚めることができるのなら
俺はもう一度
クマの姿で
人間の社会で生まれたい
俺はこういう姿のせいで
随分
傷ついてきたりしたものだが
得たものも多い
なァ
君という友達や
この深い傷のせいで
感じられるものも
とても多いんだ
彼はまるで哲学者のような面持ちで
人生について語りだした
俺が生まれたとき
母親は俺を殺そうとしたらしい
生まれた瞬間
望まれなかったんだよ
生きるって
辛いよな
特に俺のような見た目じゃ
傷つかずにはいられない
2階の窓から
青い空が見えた
死ぬって悪くないね
俺のことは
もう思い出さなくてもいい
俺たちの思い出には
痛みしかないからな
そういうと
ヘンドリックは
随分と皺の増えた指先で
珈琲カップの縁をたたいた
境界線を爪弾く指先
青い空
ヘンドリックとの思い出
それは確かに
痛みを伴った記憶には違いない
でも
いったい何に
何について語り
触れてきたことなのかを
語りつくすことはできない
何故なら
ぼくらの世界は
不完全なまま
そこに存在し続け
どうやらこの遥かなる球体は
誰の願いも
届かない場所へと飛んでいくものらしい
それを理解したとき
人は泣いたのだ
まるで頭の先から血を抜かれるような強さで
狂おしい青空が
今日も真昼間から広がっていて
クマのヘンドリックと
珈琲カップと
エスプレッソと
指と世界と
それらを巡る僕らの世界を
回し続けているのだ
選出作品
作品 - 20170426_297_9573p
- [佳] ヘンドリックと青い空 - 尾田和彦 (2017-04)
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ヘンドリックと青い空
尾田和彦