選出作品

作品 - 20170403_842_9532p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一七年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年三月一日 「ツイット・コラージュ詩」


ブックオフで、ぼくの持っている状態よりよい状態のカヴァーで、フランク・ハーバートの『神皇帝』第一巻から第三巻までが、1冊108円で売っていたので、買い直して、部屋に帰ってから、持っているもののカヴァーと取り換えた。本体は、持っているもののほうがよかったので、カヴァーだけを換えたのだった。持っていたものは、本体だけ残してカヴァーは捨てた。持っていたもののほうの本体は、お風呂場ででも読もうかと思う。

きょうは、ユーミンを聴いてた。「海を見ていた午後」は、何回繰り返し聴いてもよいなと思える曲だ。歌詞が、ぼくの20代のときのことを思い起こさせる。アポリネールの「ミラボー橋」の「恋もまた死んでいく」のリフレインがそれに重なる。もしも、もしも、もしも。人間は、百億の嘘と千億のもしもからできている。

いま日知庵から帰った。行くまえに、amazon で自分の詩集の売れゆきをチェックしていたら、日知庵のえいちゃんといっしょに詩集の表紙になった『ツイット・コラージュ詩』(思潮社2014年刊)が売れてたことがわかって、へえ、いまでも買ってくださる方がいらっしゃるんだってこと、えいちゃんに話してた。


二〇一七年三月二日 「発狂した宇宙」


きょう見た夢のなかの言葉、枕もとのメモパッドに書きつけたもの。「あっちゃんが空を見上げると、太陽が2つずつのぼってくるんやで」 意味はわからず。しかし、これは、メモしなきゃと思って夢からさめてすぐにメモした言葉だった。もうどんな情景での言葉だったのかも忘れてしまった。

けさから、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を読んでいる。


二〇一七年三月三日 「退院祝い」


これから日知庵に。友だちの退院祝いで。先月、思潮社オンデマンドから出た、ぼくの詩集『図書館の掟。』の表紙になってくれた友だちだ。2月の14日に、脳腫瘍の手術をしたのだった。もちろん、手術は成功だった。10万人に3人の割合でかかる部類の脳腫瘍だったらしい。

いま日知庵から帰った。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を半分くらい読んだけれど、筒井康隆が絶賛した気持ちがわからない。まあ、発表された当時としては、おもしろかったのかもしれない。ぼくが傑作というのは、時代を超えたシェイクスピアとかゲーテの作品とかだからかもしれない。

amazon で、フレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』を買った。旧版のカヴァーだからだけど、むかし読んで捨てたやつだけど、カヴァーがかわいらしくて、再購入した。いい状態のカヴァーだったらうれしいな。中身は読んだから、本体の状態はどうでもよい。

寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづき。はてさて、さいごまで読めるだろうか。このあいだ、イーガンの『白熱光』を152ページでやめてしまった。これは、どうかな。あと半分。読みやすいけれど、ドキドキ感はなし。


二〇一七年三月四日 「いつもと変わらない宇宙」


いま、きみやから帰ってきた。5軒めぐり。きょうもヨッパである。つぎの日曜日にはカニ食べまくりの予定である。まじめに生きて行こうと思う。つぎの日曜日までは。今週は、何冊読めるかな。きょうは、寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづきを読む。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月五日 「フトシくん」


いま日知庵から帰ってきた。かなりヨッパ〜。でもまあ、寝るまえに、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻のつづきを読んで寝るつもり。詩人も作家も、死ぬまでに傑作を1つ書いたら、役目は終わってると思うのである。ぼくのは、どれかな。「Pastiche」かな。どだろ。

ユーミンのベスト聴いていて、「守ってあげたい」を歌ってくれたフトシくんのことが思い出された。ぼくが22、3才で、フトシくんが20才か21才だったと思う。どれだけむかしのことだろう。そのときのことがいまでも生き生きとして、ぼくのなかで生きているって、ほんとに人間の記憶って不思議だ。きのうのことでも、はっきり覚えていなかったりするのにね。


二〇一七年三月六日 「ぼく以外、みんな中国人だった。」


日知庵から帰って、セブイレでシュークリーム2個買って食べて、ミルク1リットル飲んで、これから寝る。きょうもヨッパであった。さいご、ぼく以外、お客さんがみな中国人だった。10人以上いたな。たしか、15人はいたと思う。日知庵も国際化しているのだった。


二〇一七年三月七日 「火星人ゴーホーム」


いま日知庵から帰って、帰りにセブレで買ったペヤング焼きそば大盛りを食べた。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』あと10ページほど。このあと、なにを読もうかな。きょう amazon から到着したフレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』はいい状態だった。これを再読しようかな。


二〇一七年三月八日 「きょうは日知庵で一杯だけ」


きょうは一杯だけ飲んで帰ってきた。調子が悪い。こんどの土曜日には大谷良太くんがくる。

きのうは、文学極道で、ぼくの詩を読んでくださってた方が、ぼくのベスト詩集『ゲイ・ポエムズ』(思潮社2014年刊)を買ってくださってたし、なんだか、いい感じ。詩を書きはじめたとき、生きているあいだに、ひとに認められることはないと思っていたぼくとしては、ひじょうにうれしい。

きょうは、ハインラインの『宇宙の戦士』をブックオフで買った。もう3回以上、買ってる気がする。読んでは捨ててる部類の小説だ。まあ、カヴァーの絵が好きなだけのような気もするが、仕方ありませんな。ほんと好みですからね。

いま、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻を数十年ぶりに読み直してるんだけど、フランク・ハーバートのような、わかりやすいSFは、もう二度と書かれないような気がする。古いもののよさもある。というか、ぼくは、もう古いものにしか目が向けられないような気がする。

本棚にある書物を処分しているのも、その兆候のひとつだろう。SFとしては、50年代から60年代に書かれたものが、ぼくにはいちばん合っているような気がする。文学全体で眺め渡すと、シェイクスピア、ゲーテ、19世紀初頭から20世紀末までの詩人たちかなあ。おもに欧米の詩人たちだけど。

『神皇帝』の第3巻のつづきを読みながら寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月九日 「ほんとに酒に弱い」


いま日知庵から帰ってきた。きょうヨッパだけど、いつもの2倍くらいかも。もう寝る。おやすみ、グッジョブ!

朝、6時すぎにゲロった。いま二度目だったけど、からえずきだけだった。お酒に弱い。


二〇一七年三月十日 「けっきょく、エビフィレオ」


きょう、夜は八雲さんとこで、森澤くんとカニを食べる。そのまえに、今日のお昼は、マクドナルドにしよう。フィレオフィッシュのセットにしよう。

エビフィレオにした。

八雲さんとこから帰った。カニ、そんなに感動しなかった。まあまあのおいしさだったけれど、もう旬ではないものね。やっぱ旬のものがいいね。


二〇一七年三月十一日 「なぜかこわい」


お風呂場から、水の滴る音がする。こわいから、とめてこよう。


二〇一七年三月十二日 「ぼくのは難しい?」


チューブで70年代ポップスを聴いている。ここちよい。わかりやすい。きょう、ぼくの詩集を2ページ読んで、わからないから読むのをやめたと、ひとりの青年に言われて、それは作者の責任だねと答えた。『THe Pooh on the Hill。』だったのだけれど、ぼくのは難しいのかな。

ぼく自身は、笑っちゃうくらい、おもしろい作品だったのだけれど。すると、もうひとりの青年からも、「あっちゃんの詩は難しいよね。」と言われて、ちょっと、しゅんとなった。ぼくくらい、わかりやすい作品を書く詩人はいないと思っていたので。そういえば、むかし、大岡 信さんに、「あなたの使う言葉は易しいけれど、詩自体は難しい。」と言われたことや、ヤリタミサコさんに、「田中宏輔の詩は難解であると思われているが……」と書かれたことが思い出された。ぼくの作品ほど単純な作品はないと思うのだけれどね。どこが難しいのか、ぼくには、ぜんぜんわからない。

しかし、こんど思潮社オンデマンドから出した『図書館の掟。』のタイトルポエムにも書いた詩句にもあるけれど、無理解や無視というものが、当の芸術家にとっては、いちばんよい状態であるとも思えるので、まあ、いいかなと思える。無名性というものが大事なこともしじゅう書いているが、まあ、その無名性が、自分にとっては大切な要素なのかもしれないとも思うしね。また死ぬまで詩集を出しつづけると思うけれど、どの1冊も同じフォルムのものはないので、採り上げる人も面倒くさいし、採り上げづらいだろうしね。しょうがないね。

本来、詩は少数の読者でいいものかもしれないしね。ぼくの詩集も、どなたか知らないけれど、amazon で見たら、全部、買ってくださってらっしゃる方がいらっしゃって、もちろん、その方とは面識もないし、お名前も存じ上げないのだけれど、どういった方なのかなってのは思う。


二〇一七年三月十三日 「原曲を超えること」


ジョン&オーツの『シーズ・ゴーン』をいま聴いてる。原曲よりいい。原曲を超えるのって、むずかしいと思うけれど、ときどき、ハッとするアレンジに出くわすよね。リンゴの『オンリー・ユー』にも、むかし、びっくりした。最近では、デ・アンジェロの『フィール・ライク・メイキング・ラブ』かな。


二〇一七年三月十四日 「大量処分」


日本語の未読の本を大量に処分した。これで、日本語の未読の本は10冊くらいになった。これからの人生は、シェイクスピアの戯曲とか、ゲーテの作品とか、イエイツやT・S・エリオットやディラン・トマスやD・H・ロレンスやジェイムズ・メリルやエミリー・ディキンスンやウォルト・ホイットマンやウォレス・スティヴンズやW・C・ウィリアムズやエズラ・パウンドといった大好きな詩人たちの詩の再読に大いに時間を費やそうと思う。

再読したいと思っている小説もたくさん残しているので、ぼくの目は、もう傑作しか見ないことになる。それは、たいへんここちよいものであると思われる。どう考えても、ぼくの脳みそはもう、ここちよい傑作しか受け付けなくなってしまっているのであった。サンリオSF文庫も8冊しか残していない。

時間があれば、それらの詩などを手にするであろう。そうして、それらの再読が、ぼくにインスピレーションを与えることになるであろう。いままで大量の本を読むことに時間を費やしてきたが、大事なことは、大量の本を読むことではなく、読むことでインスピレーションを与えられることであったのだった。

本棚の本を大きく入れ替えて整理し、目のまえの棚はすべてCDで埋め尽くした。本はその両横とその横、向かい側の本棚に収めた。2重になっているのは、聖書関連の資料だけだ。聖書を題材にした作品はたくさん書いてきたが、散文で1冊、聖書を題材にしたものを書きたくて、それらは残したのであった。

中央公論社の『日本の詩歌』も、好きな詩人たちのものがそろっているので、きっと再読するだろう。ぼくがはじめて詩を書いた『高野川』のころのぼくには、もう戻れないと思うけれど、ぼくの作品は、これからますます単純化していくような気がしている。おそらく、それは、『詩の日めくり』に反映されるだろう。

齢をとって、この詩人はろくなものしか書けなくなったと言われるだろうと思うけれど、ひとの言葉に耳を傾けることをしたことがなかった詩人なので、そんなことはどうでもよい。いまは単純化に向かって歩んでいきたいと思っている。まあ、もともと、ぼくは、難しい言葉を使う書き手ではなかったけれど。

いったん脳みそをまっさらにしたいと思ったのだった。ひさしく英詩の翻訳もしていなかったが、それも再開したいと思っている。英詩の翻訳は、日本語で詩を書く場合よりも、言葉と格闘している感じがして、脳みそをたくさん動かしてる気がするからである。とにかく脳みそをまっさらな状態で動かしたい。

以前に amazon で買った イエイツの全詩集は、ペーパーバックで1500円ほどだったが、いま amazon で買った T・S・エリオットのは、全詩集+全詩劇のペーパーバックで、2562円だった。外国では、古い詩人ほど安いのだろう。ジェイムズ・メリルのはずいぶん高かったものね。

まあ、ページ数が違うのだけれども。ジェイムズ・メリルは書いた詩の量が多かったから仕方ないのだろうけれど。ぼくも書く量が多いので、死んでから全詩集をだれかが出してくれるとしても、たいへんな作業になると思う。ヴァリアントがいくつもあって、「反射光」だけでも、4つのヴァリアントがある。ぼくが20数冊出した詩集のうち、4冊の詩集に収録しているのだった。

げっ。以前に原著のシェイクスピア全集があったところを見たらなくなっていた。と思ったら、背中のほうの棚にあった。よかった。いくら古典でも、これは安くなかったからね。あと4冊、日本語の本の本棚から出さなくてはバランスが悪い。古典と傑作しか残していないので、その4冊を選ぶのがたいへん。

迷ってたんだけど、いま amazon で、Collected Poems of William Carlos Williams の第一巻と第二巻を買った。合計5700円ちょっと。そいえば、John Berryman の THE DREAM SONGS を買ってたけど 読んでない。読みやすいやと思って、ほっぽってた。いま見たら、385個の詩が載ってるんだけど、すべての詩が1ページに収まる長さで、しかも、すべての詩篇が、6行で一つの連をつくっていて、それが3連つづくのだけれど、そういうスタイルの定型詩なのかな。ジョン・ベリマン、彼もまた自殺した詩人のひとり。

ふう、いままで amazon で本を買ってた。でも、20000円は超えなかったと思う。もしかしたら超えたかもしれない。T・S・エリオット、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ホイットマン、ディラン・トマス、エミリー・ディキンスン、ウォレス・スティヴンズ。もう寝よう。ぜんぶ全詩集。そいえば、OXFORD UNIVERSITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS の読みも中断していた。まだ、ロバート・フロストだ。

いま、amazon のアカウントサービスで注文履歴を見て、電卓で合計したら、14584円だった。計算ミスがなければ、安くてすんだな。ディラン・トマスのものが入荷未定なので、もしかしたら、購入したものが手に入らないかもしれないけれど。もう一度、アカウントサービスで注文履歴を見よう。

もう一度、計算しても、同じ金額だったので、ひと安心。クスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

そいえば、このあいだ、森澤くんとふたりでカニを食べたときに支払った金額が15000円ジャストだったので、それよりも、きょうの買い物のほうが安かったってことだな。なんちゅうこっちゃろか。まあ、本代と食事やお酒代をいっしょにしたら、あかんのだけれどもね。クスリのんだしPCのスイッチ切ろうっと。


二〇一七年三月十五日 「夢」


ぼくが高校一年生で、高校を転校する夢を見た。一時間目の授業は、体育の時間であったにも関わらず、教室で授業だった。先生の名前は中村私(わたしと読む)という名前で、困ったことがあったら、私のところに相談しにきなさいと言っていた。二時間目は理科の授業で、女の先生で、「きょうは授業はしません。おしゃべりします。」と言われたので、教室中が大喜びであった。と、そこで目が覚めた。これからマクドナルドに行く。帰ってきたら、きのうメモしたものを書き込んでいく。体育の先生は、ぼく好みで、ガチムチの若い先生(30歳いってない)であった。かわいらしいお顔をしてらっしゃった。


二〇一七年三月十六日 「驚くべきことに」


恋人の瞳に映った自分の顔ほどおぞましいものはない。
目は2つもあるし
鼻は1つしかない。
耳にいたっては
頭の両端に1つずつもあるのだった。


二〇一七年三月十七日 「いくつかのメモ」

2017年3月21日メモ

鳥には重さがない
もしも重さがあったとしたら
飛べないからである
翼を動かしているのは
あれはただたんに
空気をかき混ぜているのである
鳥が鳴くとピーッという音になる
音が鳴りやむと
鳥の姿に戻る
鳥は物質であり音でもある
鳥は音が物質化した一例である


2017年3月21日メモ

空間は時間が存在するところでは曲がるが
時間の存在しないところでは直進するか静止している。

時間は空間が存在しないところでは曲がるが
空間が存在するところでは直進するか静止している。


2017年3月2日のメモ

白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。しかし、ぼくはまだ白いひとも、黒いひとも見たことがない。白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。


日付けのないメモ

砂でできた葉っぱ
夕日でできた蟻


日付けのないメモ

本の本
秘密の秘密
毒の毒
先の先
洗濯機の洗濯機
言葉の言葉
自我の自我
穴の穴
空白の空白


二〇一七年三月十八日 「STILL FALL THE RAIN。」


きょうは、お昼の2時に大谷良太くんが部屋にきてくれるので、それまで、来年、思潮社オンデマンドから出す予定の詩集『STILL FALL THE RAIN。』の編集でもしてようかな。収録作品は、「STILL FALL THE RAIN。」前篇と後篇の2作品のみ。もちろん、どちらも長篇詩。そいえば、ぼくの大恩人であるヤリタミサコさんに捧げる、『STILL FALL THE RAIN。』 ぼくは、前篇はすこし憶えているのだが、後篇にいたってはまったく何を書いていたのか記憶しておらず、ふたたびワードを開くのが楽しみだけれど、怖くもある。


二〇一七年三月十九日 「洋書の全詩集は安い。」


いまロバート・フロストの全詩集も、amazon で買った。洋書は安い。1620円だった。まあ、これで、ここ何日かのあいだに買った洋書の全詩集は、日曜日のふたりのカニ代より多くなったわけだが、まあ、よい。フロストの詩は読んでても訳してても、ここちよい。たいへんみずみずしいのだ。


二〇一七年三月二十日 「接触汚染」


いま日知庵から帰ってきて、帰りにセブイレで買ったインスタントラーメンを食べたばかり。本棚を整理したので、どこになにがあるか、だいたいわかった。日本語の小説を読む機会はあまりなくなったけれど、翻訳された英詩は読む機会が多くなったと思われる。日本語で本棚に残っているのは、表紙の絵がお気に入りのもので、かつ傑作であるものか、古典か、シリーズものだけである。デューンのシリーズは手放せなかった。リバーワールドものも手放せなかった。ヴァレンタイン卿ものも手放せなかった。ワイルドカードものも手放せなかった。その他、お気に入りのシリーズ物は手放せなかったし、傑作短篇集の類のものも手放せなかった。また単独のもので、表紙の絵が良くなくても、内容のよいもの、たとえば、スローリバーなども手放せなかった。本棚に残った日本語の小説は、どれも再読に耐えるものである。一方、詩に関しては、研究書も含めて、1冊も手放していない。

詩に関しては、自負があるのだろう。あしたからは、英詩に集中しよう。日本語の詩や小説は、通勤時間や、授業の空き時間や、寝るまえの時間に読むことにしようと思う。いま気になっているのは、SFの短篇で、同じ顔の美男しかいない惑星に到着した宇宙船の話で、手放していないかどうかだけである。のちに女性も同じ顔になる伝染病的な話で、宇宙船の乗組員の女性がそのことに気づいて怖気づくというところで終わっていた話である。手放した短篇集もあるので、それだけが気がかりで、これから、その作品が本棚に残っているかどうか、調べてから寝る。手放していなければよいのだけれど、どかな。探し出せれば、ツイートする。その作品は、だれが書いたのかも憶えていないし、どの短篇集に載っていたのかも忘れたのだけれど、「冷たい方程式」と同様に、その作品ひとつで、SF史に残ってもいいくらいに、よくできた作品だったと思う。いや〜、これから本棚をあさるのが怖い。でも、どこか楽しい。

やった〜。見つけた。残しているSF短篇集のなかにあった。キャサリン・マクレインの「接触汚染」だった。SFマガジン・ベスト1の『冷たい方程式』の冒頭に収められていた。よかった〜。ようやく探し出せた。なんだ、こんなところにあったのか。いっぱい本を引っ張り出してきてはページをめくっていたのだが、ファーストコンタクトものだったということに気がついて、さいしょ、「最初の接触」かなんかというタイトルだと思って、メリルの傑作選やギャラクシーの傑作選や年代別の傑作選などをあさっていたのだが、ああ、接触して汚染される話だったから、「接触汚染」というタイトルかなと思ってネット検索したら、SF短篇集『冷たい方程式』に入っているというので、本棚を探したら、あったので、本文を読んで、ああこれやと思った次第。手放してなくってよかった。これで安心して眠れる。きょう寝るまえの読書は、なににしようかな。せっかくだから、SF短篇集『冷たい方程式』にしよう。いま調べたら、2011年に再版された新しいSF傑作選『冷たい方程式』には「接触汚染」が入っていないんやね。旧版からのものは、トム・ゴドウィンのタイトル作品とアシモフの「信念」の2篇のみしか入っておらず、残り7篇がほかのものに替わっている模様。新しい『冷たい方程式』も手に入れたい。しかし、日本語の本の本棚には、もう本を入れる余地がなかったので、購入はやめておこう。さっき、「接触汚染」を探しているときに、数多くのSF傑作選をパラパラめくっていたら、ぜんぜん記憶にないものが多かったので、それを読んでもいっしょかなって思ったことにもよる。また、新たに収められた7つの短篇のうち、1作が、ウォルター・テヴィスの「ふるさと遠く」で、それ持ってるからというのにもよる。うううん。早川書房、あこぎな商売をしよる。ディックの傑作短篇集みたいなことしよる。なんべん同じ短篇を入れるんやと思う。しかも、傑作の「接触汚染」をはずして。


二〇一七年三月二十一日 「人間の手がまだ触れない」


いま日知庵から帰った。きょうは、例のオックスフォード大学出版から出た英詩のアンソロジーで、ロバート・フロストの詩を5つ読んだ。どれも、ぼくには新鮮な感覚。既訳があるなしに関わらずに、訳していこうかな。既訳は無視することにする。といっても、記憶に残っている訳もあるのだけれど。

きょうの寝るまえの読書は、ロバート・シェクリイの短篇集『人間の手がまだ触れない』にしよう。旧版のカヴァーなので、かわいらしい。創元SF文庫も、ハヤカワSF文庫も、なぜ初版のままのカヴァーを使わないのか不思議だ。版を替えると、カヴァーの質が確実に落ちる。ぼくには理由がわからないな。


二〇一七年三月二十二日 「ロバート・フロストの短編詩、2つ」


ようやく目がさめた。きょうは、ロバート・フロストの英詩を翻訳しようと思う。できたら、楽天ブログに貼り付けよう。

ロバート・フロストの「Fire and Ice」である。これには、ぼくの知ってるかぎりで、2つの既訳がある。そのつぎに訳すものは、既訳があるのかないのか調べていない。


Fire and Ice

Robert Frost

Some say the world will end in fire,
Some say in ice.
From what I’ve tasted of desire
I hold with those who favor fire.
But if it had to perish twice,
I think I know enough of hate
To say that for destruction ice
Is also great
And would suffice.


火と氷

ロバート・フロスト

世界は火に包まれて終わるだろうという者もいる。
また氷に覆われて終わるだろうという者もいる。
わたしが欲望というものを味わったところから言えば
火を支持するひとびとに賛成する。
しかし、世界が二度滅びなければいけないとしたら
わたしは憎悪については十分に知っていると思っているので
それを言えば、破滅というものについては
氷もまたおもしろいものであり
そして十分なものであるだろう。


ロバート・フロストの「Stopping by Woods on a Snowy Evening」を訳した。

Stopping by Woods on a Snowy Evening

Robert Frost

Whose woods these are I think I know.
His house is in the village though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.

My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake
The darkest evening of the year.

He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound’s the sweep
Of easy wind and downy flake.

The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.


雪の降る夜に森のそばに立って

ロバート・フロスト

これがだれの森かはわかっているつもりだ。
そいつの家は村のなかにあるのだけれど。
彼はここに立ちどまって、ぼくの姿を見かけることはないだろう。
雪でうずくまった自分の森を目にはしても。

ぼくの小馬は奇妙な思いにとらわれるだろう、
近くに一軒も農家のないところに立ちどまったりすることには。
森と凍りついた湖のあいだで
一年でいちばん暗いこんな夜に。

小馬は馬具の鈴をひと振りする
なにかおかしなことがありはしないかと尋ねて。
ただひとなぎの音がするだけ
ゆるい風とやわらかい降る雪の。

森は美しくて、暗くて、深い。
でもぼくは誓って約束するよ。
眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。
眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。


ロバート・フロストの詩、あと2つか、3つくらい訳したいのだが、さすがに下訳の必要な感じのものなので、西院のブレッズ・プラスに行って、ランチを食べて、そこで下訳をつくってこよう。さっきの2つは、ぶっつけ本番で訳したものだった。

お昼に訳してた箇所で、明らかな誤訳があったので手直しした。ああ、恥ずかしい。しかし、こういった恥ずかしい思いが進歩を促すのだと、前向きに考えることにする。

ロバート・フロストのひとつの詩に頭を悩ませている。おおかたの意味はつかめるのだが、1か所でつまずいているのだった。その1か所も情景は浮かぶのだが、日本語にスムースに移せないのだった。原文の写しをもって、これからお風呂に入る。きょうは訳せないかも。眠ってるうちに、無意識領域の自我が、ぼくになんとか訳せるようなヒントを与えてくれるかもしれない。そんな厚かましい思いをもって、お風呂に入って、原文を繰り返し眺めてみよう。お風呂から上がったら、きょうは早めに寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月二十三日 「手を入れ過ぎかな。」


いままた昼に楽天ブログに貼り付けたロバート・フロストの英詩の翻訳に手を入れていた。潜在意識が、あそこの訳はダメだと言ってくれているのか、ふと思いついて、読み直したら、やはりおかしなところがあって、手直しした。やはり潜在意識は顕在意識よりもえらいらしい。ちょこちょこ直す癖もあるが。

いままた、またまた読み直してたら、一か所、おかしなことになっていたので(「ひと振り」と書いてたつもりのところが「ふと振り」になってたのだ)、手直しした。思い込みが気づかせなかったのだろう。20数冊はあるこれまでの詩集の編集をしていても、思い込みで書き間違っていた箇所が数か所ある。「あったりはしないかと」を「ありはしないかと」に直した。手を入れるごとに、訳詩全体の音楽性が高まっていくような気がした。また気がついたら、手を入れよう。寝るまえに、風呂で読んでたロバート・フロストの英詩を読もう。自然な日本語にするのが難しい感じの詩だが、それだけにやりがいがある。


二〇一七年三月二十四日 「Acquainted with the Night」

潜在意識のお告げもなく目が覚めた。コーヒー飲んで、もっと目を覚まそう。そして、ロバート・フロストの英詩と格闘するのだ。そのまえに、コーヒー飲んだら、朝食に、セブイレでおでんとおにぎりでも買って食べよう。それとも西院に行って、吉野家か松家に寄ろうかな。まあ、ひとまずコーヒーが先だ。

いま、ロバート・フロストの「Acquainted with the Night」の訳を楽天ブログに貼り付けた。

https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703250000/

これまた、きょうじゅうに何度も手を入れそうな感じだけれど、次に訳そうと思うフロストの詩にかかりたい。かなり長い詩なのだ。


Acquainted with the Night

Robert Frost

I have been one acquainted with the night.
I have walked out in rain—and back in rain.
I have outwalked the furthest city light.

I have looked down the saddest city lane.
I have passed by the watchman on his beat
And dropped my eyes, unwilling to explain.

I have stood still and stopped the sound of feet
When far away an interrupted cry
Came over houses from another street,

But not to call me back or say good-bye;
And further still at an unearthly height,
One luminary clock against the sky

Proclaimed the time was neither wrong nor right.
I have been one acquainted with the night.


わたしは夜に精通しているのさ

ロバート・フロスト

わたしは夜に精通している者なのだった。
わたしは雨のなかを突然歩き去る──もちろん、その背中も雨のなかだ。
わたしは都市の最果ての街明かりのあるところをもっと速く歩いていたのだ。

わたしはもっとも悲しい都市の路地に目を落としたのだった。
わたしは巡回中の夜警のそばを通り過ぎたのだった
そいつはわたしの目を見下ろしたのだった、その目はしぶしぶと事情を語ってはいたろうが。

わたしは静かに立って、足音をとめたのだった。
なぜなら、遠くで出し抜けに叫び声がしたからだった
別の通りにある家々のまえを横切って聞こえてきたのさ、

でもだれも、わたしのことを呼びとめもしなかったし、別れを告げもしなかったのだ。
そしてさらにいっそう静かなところ、超自然的なくらいに高いところに
空を背景にして、ひとつの時計が光っていたのさ。

そいつが時間を教えてくれることは悪いことでも善いことでもないのさ。
なぜなら、わたしは夜に精通している者なのだったからさ。


二〇一七年三月二十五日 「チンドン屋さんたち」


天下一品で、焼き飯定食のお昼ご飯を食べてから歩いて西大路四条を横切ったら、チンドン屋さんたち(先頭・男子、あとふたり着物姿の女子の合計三人組)に出くわした。何年振りのことだろう。昭和でも、ぼくの子どものころには目にしていたけれど、近年はまったく目にしなかった。まだいてはるんやね。


二〇一七年三月二十六日 「しょうもない話」


きのう、日知庵で、えいちゃんに、昼間、チンドン屋さんたちを見かけたと話してたのだけれど、そういえば、ぼくが子どものころ、いまから50年ほどむかしには、クズ屋さんというのもあったんやでと話してたら、1週間ほどまえに阪急の西院駅の券売機のところで目にした情景が思い出されたのであった。クズ屋さんというのは、背中にかごを背負って、そこに、長いトングで道端で拾ったものを入れていくおじさんだったのだけれど、なにを拾っていたのかは憶えていない。木の棒の先に突き出た釘の先のようなものでシケモクというものを刺して集めていたおじさんもいたような気がするのだが、西院駅の券売機のところで、身なりのふつうのおじさんが、ちょっと長髪だったけれど、さっと身をこごめてシケモクを拾ってズボンのポケットに入れる様子を、ぼくの目は捉えたのであった。シケモクというのは、吸いさしのタバコのことで、いまはあまり道端に落ちていないけれど、むかしはたくさん落ちていた。そんな話をしていると、えいちゃんが、しょうもない話やなと言うのだった。ぼくの書く詩は、そんなしょうもない、くだらない話でいっぱいにしたい。そして、ぼくのしょうもない、くだらない話以上にしょうもない、くだらないぼくは、翻訳もせずに、これからまた日知庵に飲みに行くのであった。飲みに行って帰ったら寝て、目が覚めたらまた飲みに行くというしょうもない、くだらない自堕落な生活が、ぼくの生活であり、さもいとしい生活なのであった。

追記:日知庵に行く途中、西院駅に向かって歩いているときに、この日本語が頭にこだましていたのであった。「さもいとしい」 こんな日本語はダメだねと思って、駅について、「さもしく、いとおしい」にしなければならないと思われたのであった。これは、ぼくの日本語の未熟さを語る一例なのであった。

いま文学極道の「月刊優良作品」のところを見たら、2月のところに、ぼくの投稿した2作品が入選していたのであった。2作とも実験的な作品なのであったが、とくに2週目に投稿した作品はさらに実験的な作品なので心配していたのであった。

追記の追記:西院駅まで道を歩いているさいしょのときには、「さも愛しげな」に直そうかなと思ったのだが、一人称ではおかしい気もしたので、「さもしく、いとおしい」にしたほうがいいかなと思われたのであった。もう一段階、ステップがあったのであった。


二〇一七年三月二十七日 「ごちそうさまでした。」


大谷良太くんちで、晩ご飯をごちそうになって帰ってきた。親子どんぶりと中華スープ。そのまえに朝につくったというじゃがいもと玉葱とニンジンのたき物をどんぶり鉢いっぱいにいただきました。ありがとうね。ごちそうさまでした。おいしかったよ。

きょうは、早川書房の『世界SF全集』の第32巻の「世界のSF(短篇)」をぺらぺらめくりながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月二十八日 「atwiddle」


日本語の本はもう買わないつもりだったけれど、本を整理してもっていないことがわかったので、ディックの傑作短篇集「まだ人間じゃない」「ゴールデン・マン」「時間飛行士へのささやかな贈り物」を買った。どれも送料なしだと1円だった。状態のいいのがくればいいな。もってたはずだったのにね。本棚の探し方が悪いわけじゃないと思うんだけどね。もう二重に重ねて置いていないし。

きょうは気力が充実しているので、ロバート・フロストの英詩を翻訳しよう。

ロバート・フロストの長篇の単語調べが終わった。1個、わからなかった。 atwiddle という単語だけど、ネットでも出てこない。twiddle の詩語なのかもしれない。きょう、塾に行ったら、英英辞典で調べてみよう。

ついでに、ロバート・フロストの短い詩を一つその単語調べもしておこう。それが終わったらちょっと休憩しよう。単語調べの段階で、下書きの下書きのようなものができあがっているから、頭がちょっと痛くなっているので、休憩が必要なのである。そだ、つぎの詩の単語調べのまえに、コーヒーを淹れよう。

atwiddle 英英辞典にも載ってなかった。ネットで調べても載ってなかった。

単語調べが終わったら、ディックが読みたくなって、『ペイチェック』の「ナニー」を読んでいたのだが、この作品以外のものは、ほかの手持ちのアンソロジーにみな入っていて、ひどいなあという感想しか持ちえない編集のアンソロジーで、あらためて早川書房のあこぎな商売の仕方に驚かされた次第である。その「ナニー」さえも、先日、手放したアンソロジーに入っていたものであった。読み直して、やはりディックはひどいクズのようなものも書いていたのだなと思ったのだが、情景描写はうまい。たとえ内容がクズのようなものでも、ちゃんとさいごまで読ませる力があるんやなって思った。ディックの作品はSFはすべて読んだけれど、長篇は1冊も本棚に残さなかった。2度と読むことがないからだろうからだ。あ、『ユービック』の初版は残してあった。カヴァーがよかったからだ。カヴァーのグロテスクさが心地よかったからである。内容は、超能力者と超能力を無効にする者の合戦みたいなものだったかなあ。
お風呂に入りながら、ロバート・フロストの departmental と Deaert Places を読んで、下訳を考えてみよう。お湯の力を借りて、頭をほぐしながら、情景を脳裡に思い起こすのだ。BGMは、70年代のポップス。シカゴとか、ホール&オーツとか、めっちゃ懐かしい。


二〇一七年三月二十九日 「幸」


いま日知庵から帰った。きょうも、いい夢を見たい。小学生のときにはじめて好きになったやつのこと、夢に見ないかなあ。脚がめっちゃ短くて、3頭身くらいだったの、笑。胴がめっちゃ長くて、かわいらしかった。名前も憶えていないけど。そいえば、名前を憶えていない好きな子が何人もいたなあ。

おやすみ、グッジョブ! きょう、寝るまえに何を読もうかな。まあ、部屋に残ってる日本語の短篇集を読もうっと。そいえば、フロストの英詩、だいたい情景が浮かんだ。あと少しのような気がする。翻訳は自分の詩を書くことよりも難しいし、ドキドキする。いい趣味を持ったような気がする。詩作と翻訳。

まえに付き合ってた子にメールしようかな。元気? 京都に来たら、いつでも連絡してよ。いまでも、きみの顔がいちばん、かわいいと思ってるからね。って、こんなメールを、いまから打つ。幸。おやすみ、二度目のグッジョブ!

メールした、笑。

返信がいまあった。京都に行くとき、連絡しますねって。「おやすみ、かわいい幸。」と返事した。ひゃあ〜、いい夢を見て寝たい。いや、寝て、いい夢を見たい、の方が正確な書き方かな。三度目のグッジョブ、おやすみ!


二〇一七年三月三十日 「atwiddle」


日知庵で、大学で数学を教えていらっしゃるという田中先生といっしょに来ておられたカナダ人の方に、ぼくが詩人で、ロバート・フロストの英詩を訳しているさいちゅうなんですがと断って、2つ質問した。1つは、atwiddle の意味で、もう1つは、固有名詞の Janizary の発音だった。

atwiddle は old English だろうということで、ぼくの推測通り、詩語で、現代英語にはない言葉であろうということだった。Janizary という固有名詞だが、「ジャニザリー?」と発音されたのだが、こんな固有名詞は目にしたことがないとのこと。でもまあ、この発音も、ぼくの推測通りだったので、ひと安心した。きょう、夕方に、ロバート・フロストの詩を2つ、翻訳の下訳をつくっていた。あした、楽天ブログに、それらを貼り付けようと思う。ようやく、詩の情景が、バロウズの小説の一節のように、「カチリとはまった。」のだ。英詩の翻訳は難しい、でも、おもしろい。

そいえば、日知庵で、ぼくがさいごの客だったのだけれど、さいごから2番目の客の2人組がかわいらしかった。22歳と32歳の左官屋さんのふたりだけど、若い子が大阪の堺からきているというので、ぼくがさいしょに付き合ったノブちんのことを思い出したのであった。ストレートかゲイかはわからないけれど、年上の男の子のほうが、「こいつゲイなんすよ。」と言っていたらしい。ぼくは直接、耳にした記憶はないのだけれど、ちょっといかつい感じの年上の男の子と、かわいらしい感じの男の子2人組だったので、BLちゅうもんを、ふと頭に思い浮かべた。いや〜、うつくしいもんですな。若いことって。

ぼくは英語が苦手だった。たぶんふつうの中学のふつうの中学生くらいの英語力しかないんじゃないかな。でも、英詩の翻訳はおもしろい。間違ってても、ぜんぜん恥ずかしくはない。もともと専門じゃないし、詩人が英詩の翻訳くらいできなくちゃだめだと思っているから。詩人の役目の一つに、よい外国の詩を翻訳するというのがあると思うのだ。

きょう寝るまえの読書は、きょう郵便受けに入ってたディックの傑作短篇集『時間飛行士へのささやかな贈物』ぱらぱらめくって、寝ようっと。おやすみ、グッジョブ! 日知庵のさいごから2番目のお客の左官屋の2人が愛し合っている情景をちらと思い浮かべながら寝ることにする。セクシーな2人やった。年上の男の子は、大阪ではなくて、静岡出身だということだった。大坂でいえば、南が似合うなあと言ったのだけれど、北でもおかしくない感じもした。南って、ガラ悪いって、ぼくの偏見だけれど。北はおしゃれっつうか、ふつうの不良の街って感じかな。南は、肉体労働者風のジジむさい感じがするかな。

ロバート・フロストの「Departmental」を訳した。


Departmental

Robert Frost

An ant on the tablecloth
Ran into a dormant moth
Of many times his size.
He showed not the least surprise.
His business wasn't with such.
He gave it scarcely a touch,
And was off on his duty run.
Yet if he encountered one
Of the hive's enquiry squad
Whose work is to find out God
And the nature of time and space,
He would put him onto the case.
Ants are a curious race;
One crossing with hurried tread
The body of one of their dead
Isn't given a moment's arrest-
Seems not even impressed.
But he no doubt reports to any
With whom he crosses antennae,
And they no doubt report
To the higher-up at court.
Then word goes forth in Formic:
"Death's come to Jerry McCormic,
Our selfless forager Jerry.
Will the special Janizary
Whose office it is to bury
The dead of the commissary
Go bring him home to his people.
Lay him in state on a sepal.
Wrap him for shroud in a petal.
Embalm him with ichor of nettle.
This is the word of your Queen."
And presently on the scene
Appears a solemn mortician;
And taking formal position,
With feelers calmly atwiddle,
Seizes the dead by the middle,
And heaving him high in air,
Carries him out of there.
No one stands round to stare.
It is nobody else's affair
It couldn't be called ungentle
But how thoroughly departmental


種族

ロバート・フロスト

テーブルクロスのうえにいた一匹の蟻が
動いていない一匹の蛾に偶然出くわした、
自分の何倍もの大きさの蛾に。
蟻はちっとも驚きを見せなかった。
そいつの関心事はそんなことにはなかったのだ。
そいつは蛾のからだにちょこっと触れただけだった。
もしもそいつが別の一匹の虫に突然出くわしたとしても
その蟻っていうのは巣から出て来た先遣部隊の連中の一匹で
その連中の仕事っていうのは神のことを
時空の本質のことを調査することで、
それでも、そいつは箱のうえにその別の一匹の虫のからだを置くだけだろう。
蟻というのは好奇心の強い種族である。
自分たちの仲間の死骸のうえを
あわただしい足取りで横切る一匹の蟻がいるが
そいつはちっとも足をとめたりはしない。
なにも感じていないようにさえ見える。
でも、蟻は疑いもなくいくつかのことを仲間に知らせるのだ、
触角を交差させることによって。
そして、たしかに仲間に知らせるのだ、
庭のうえのほうにいる仲間に。
ところで、蟻という言葉は、ラテン語の Formic(蟻の)からきている。
「死がジェリー・マコーミックのところにきた。
 ぼくたちの無私無欲の馬糧徴発隊員のジェリー。
 特別な地位にいるジャニザリーは
 彼の事務所は、その将校の死体を
 埋葬することになっているのだが
 ジェリーを彼を待つ人々のところ、彼の家に彼の死体を運ぶだろう。
 一片のがくのうえに置くように彼の死体を横たえ
 彼の死衣を花びらでびっしりと包み
 イラクサのエッセンスの芳香で満たすだろう。
 これがあなたたちの女王蟻の言葉である。」
そしてまもなくその場面で
一人のまじめくさった顔をした葬儀屋が姿を現わすのだ。
そして形式的な態度をとりながら
彼の体をなでるようなしぐさでちょこっと触れ
彼の死体の真ん中のところをぐっとつかみ
彼の体を空中高く持ち上げると
そこから外に彼の死体を運び去るのである。
その様子をじっと見るためにそこらへんに立っている者などひとりもいない。
それは、ほかの誰の出来事でもないのだ。
高貴でないと呼ばれることはぜったいにない。
しかし、なんと徹底的な種族なのだ、わたしたち人間というものは。


ロバート・フロストの「Desert Places」を訳した。


Desert Places

Robert Frost

Snow falling and night falling fast, oh, fast
In a field I looked into going past,
And the ground almost covered smooth in snow,
But a few weeds and stubble showing last.

The woods around it have it─it is theirs.
All animals are smothered in their lairs.
I am too absent-spirited to count;
The loneliness includes me unawares.

And lonely as it is that loneliness
Will be more lonely ere it will be less─
A blanker whiteness of benighted snow
With no expression, nothing to express.

They cannot scare me with their empty spaces
Between stars--on stars where no human race is.
I have it in me so much nearer home
To scare myself with my own desert places.


さびしい場所

ロバート・フロスト

雪が降っている、夜には速く降る、おお、よりいっそう速く降るのだ。
野っ原にいて、目の前の道をよく見ると
地面はほとんど真っ平らな雪に覆われているけれども
ただちょっとした草や刈り株が最期の姿を見せていた。

そのまわりの森はそれを持っている、それとは森のもののことだ。
すべての動物たちが巣のなかで、かろうじて息をしている状態だ。
わたしには霊的な能力がなくて、その数を数えられないのだが
突然、孤独な気分に陥った。

そして、孤独な気持ちになって、じっさいのところ、その孤独さとは
その孤独な時期のものなのだろう。でも、ちょっと孤独さが減った。
日の暮れ方の雪のからっぽな真っ白さのおかげである。
それを言葉にして言い表わすことはできない、言い表わすことは何もない。

そのからっぽな空間が、わたしを脅かすことはできない。
星々のあいだにあるそのからっぽな空間、その星というのも、人類などいはしないところなのだ。
わたしはわたしのなかにそれを持っているのだ、家に近い近いところにだ。
それというのは、わたし自身のなかにあるさびしい場所がわたしを脅かすことである。


英詩を訳しているときのゾクゾク感って、自分が詩を書いてるときのゾクゾク感とは違うのだ。翻訳してるときには、ぼくが思ったこともないことが書かれてて、それを日本語にするときに、脳みそがブルブルッと打ち震えてしまうのだ。まあ、そいえば、自分で詩を書いているときにも、ときどきあったっけ。

OXFORD UNIVERCITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS に入っているロバート・フロストの詩を訳しているのだが、つぎに訳したいと思っているいくつかのものは短いので、情景をつかみやすいだろうか。どだろ。逆に、難しいかな。しかし、この 20TH-CENTURY POETRY & POETICS のアンソロジストの Gary Geddes というひとの選択眼はすごい。いままで読んだ詩はどれも、ぼくの目にはすばらしいものばかりだ。詩のアンソロジーは、こうあるべきだと思う。ぼくはこのアンソロジーを、偶然、ただで手に入れたけれど、いま amazon では、けっこうな値段になっている。安ければ、もう1冊買っていただろうに。版が違うのが出ているのだ。ぼくのは旧いほう。新しい版は、イマジストたちにも大きくページを割いているらしい。H.D.とかだ。ありゃ、いま見たら安くなっている。増刷したのかな。4200円台だった。まえは10000円くらいしたと思うんだけど。

https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics

新しい版のものも買った。ぼくの持っている旧版のものよりも、60ページくらい長くなっている。H.D.とかのイマジストたちのものだと思うけど。

https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics

1116ページなのであった。旧版が954ページだから。ありゃ、引き算、間違ってた。160ページほど増えてるのだった。旧版に入れてたものを除外してなかったらいいのだけれど。

あした健康診断なので、10時以降は水しか飲めない。きょう、郵便受けにディックの短篇集が2冊とどいてた。1冊はまあまあ、いい状態。もう1冊は、背表紙にちょっとしたコスレハゲがあったのだけれど、本体はきれい。まあ、両方とも、1円の品物だから、いいかな。

これからお風呂に入ろう。きょうは早く寝るのだ。お風呂場での読書は、単語調べの終わったロバート・フロストの2つの短篇詩。お湯のなかで、身体も頭もほぐしながら、詩の情景を思い浮かべようと思う。「Neither Out Far Nor In Deep」と「Design」の2篇。

お風呂から出たら、目がさめてしまった。ロバート・フロストの英詩の単語調べでもしようかな。

1つの短詩の単語調べをしたあと、amazon で自分の詩集の売り上げチェックをした。『全行引用詩・五部作』が上下巻が売れてた。うれしい。よく知られていない無名の詩人だから喜べるのだな。1冊ずつ売れて。よく知られている有名な詩人だったら、こんな喜びはないであろう。という点でも、ぼくは、無名性というものが、ひじょうに大切なものだと思っている。


二〇一七年三月三十一日 「うんこたれ」


そろそろ家を出る用意をする。きょうは健康診断のあと、オリエンテーション。4時半くらいまでかなあ。帰ったら、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。きょうは、お酒を飲みに行けないかもしれないな。まあ、いいか。学校行く準備しよう。行ってきます。

オリエンテーションが終って、4時20分くらいに終わって、それから学校からの帰り道、河原町に出て、日知庵で飲んで、きみやに行って、また日知庵に戻って、飲みまくった。帰り道で、きゅうに、うんこがしたくなって、急ぎ足で歩いていたのだけれど、間に合わなかったのだ。部屋に戻って、トイレのドアに手をかけたところで、うんこをたれた。一年ぶりくらかな。ブリブリッとうんこをたれてしまったのであった。急いでズボンを脱いだので、うんこまみれになったのは、パンツだけであった。うんこのつづきをしながら、洗面所で、パンツについたうんこを洗い流していたのであった。すぐにお風呂に入って、きれいにしたけれど。ってな話を後日、4月1日に、これまた日知庵に行って、えいちゃんに話したら爆笑された。あとで、Fくんもきたので、Fくんにも、うんこをたれた話をして、「こんなん、ツイッターに書かれへんもんなあ。『詩の日めくり』にも、よう書かんわ。」と言うと、「そんなんこそ、『詩の日めくり』に書くべきですよ。」と言われたので、書くことにした。