二〇一六年十三月一日 「廃語霊。」
な〜んてね。
二〇一六年十三月二日 「こんな科目がある。」
幸福の幾何学
倫理代数学
匿名歴史学
抒情保健体育
愛憎化学
錯覚地理
電気国語
苦悩美術
翻訳家庭科
冥福物理
最善地学
誰に外国語
摩擦哲学
無為技術
戦死美術
被爆音楽
擬似工作
微塵哲学
足の指天文学
二〇一六年十三月三日 「後日談」
大失敗、かな、笑。
ネットで検索していて
『ブヴァールとペキュシェ』が品切れだったと思って
何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど
きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって
本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。
ううううん。
560円、500円、460円だから
新品の方が安かったわけね。
日知庵によって、バカしたよ〜
と言いまくり。
ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。
ひさびさのフロベール体験。
どきどき。
きょうは、これからお風呂。
あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。
で
このあいだ、ヤフオクで買ったの
届いてた。
ヤケあるじゃん!
ショック。
で
いまネットの古書店で見たら
4200円とかになってるしな〜
思い違いするよな〜
もうな〜
足を使って調べるということも
必要なのかな。
ネット万能ではないのですね。
しみじみ。
古書は、しかし、むかしと違って
ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。
古書好きにとっては、よい時代です。
こんなスカタンなことも
ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。
キリッと
前向き。
二〇一六年十三月四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」
横にあった
ボディー・ソープの容器の
後ろに書いてあった解説書を読んでいて
ふと、ううううん
これはなんやろ
なんちゅう欲求やろかと思った。
読書せずにはいられない。
いや
人間は
知っていることでも
一度読んだ解説でもいいから
読んでいたい
より親しくなりたいと思う動物なんやろか。
それとも、文字が読めるぞということの
自己鼓舞なのか。
自己主張なのか。
いや
無意識層のものの
欲求なのか。
そうだなあ。
無意識に手にとってしまったものね。
二〇一六年十三月五日 「エリオットの詩集」
2010年11月19日のメモ
岩波文庫のエリオットの詩「風の夜の狂想曲」を読んでいて
42ページにある最後の一行「ナイフの最後のひとひねり。」(岩崎宗治訳)の解釈が
翻訳者が解説に書いてあるものと
ぼくのものとで、ぜんぜん違っていることに驚かされた。
ぼくの解釈は直解主義的なものだった。
訳者のものは、隠喩としてとったものだった。
まあ、そのほうが高尚なのだろうけれど
おもしろくない。
エリオットの詩は
直解的にとらえたほうが、ずっとおもしろいのに。
ぼくなんか、にたにた笑いながら読んでるのに。
むずかしく考えるのが好きなひともいるのはわかるけど
ぼくの性には合わない。
批評がやたらとりっぱなものを散見するけど
なんだかなあ。
バカみたい。
二〇一六年十三月六日 「ぼくたち人間ってさ。」
もう、生きてるってだけでも、荷物を背負っちゃってるよね。
知性とか感情っていうものね。
(知性は反省し、感情は自分を傷つけることが多いから)
それ以外にも生きていくうえで耐えなきゃならないものもあるし
だいたい、ひとと合わせて生きるってことが耐えなきゃいけないことをつくるしね。
お互いに荷物を背負ってるんだから
ちょっとでも、ひとの荷物を減らしてあげようとか思わなきゃダメよ。
減らなくても、ちょっとでも楽になる背負い方を教えてあげなきゃね。
自分でも、それは学ぶんだけど。
ひとの荷物、増やすひといるでしょ?
ひとの背負ってる荷物増やして、なに考えてるの?
って感じ。
そだ。
いま『源氏物語』中盤に入って
めっちゃおもしろいの。
「そうなんですか。」
そうなの。
もうね。
矛盾しまくりなの。
人物描写がね、性格描写か。
しかし、『源氏物語』
こんなにおもしろくなるとは思ってもいなかったわ。
物語って、型があるでしょ。
あの長い長い長さが、型を崩してるのね。
で、その型を崩させているところが
作者の制御できてないところでね。
その制御できてないところに、無意識の紡ぎ出すきらめきがあってね。
芸術って、無意識の紡ぎ出すきらめきって
いちばん大事じゃない?
いまのぼくの作風もそうで
もう、計画的につくられた詩や小説なんて
ぜんぜんおもしろくないもの。
よほどの名作はべつだけど。
で
『源氏物語』のあの長さが、登場人物の性格を
一面的に描きつづけることを不可能にさせてるのかもしれない。
で
それが、ぼくには、おもしろいの。
それに、多面的でしょ、じっさいの人間なんて。
ふつうは、一貫性がなければ、文学作品に矛盾があるって考えちゃうけど
じっさいの人間なんて、一貫性がないでしょ。
一貫性がもとめられるのは、政治家だけね。
政治の場面では、一貫性が信用をつくるから。
たとえば、政党のスローガンね。
でも、もともと、人間って、政治的でしょ?
職場なんて、もろそうだからね。
それは、どんな職場でも、そうだと思うの。
ほら、むかし、3週間ぐらい、警備員してたでしょ?
「ええ、そのときは、ほんとにげっそり痩せてられましたよね。」
でしょ?
まあ、どんなところでも、人間って政治的なのよ。
あ、話を戻すけど
芸術のお仕事って、ひとの背負ってる荷物をちょっとでも減らすか
減らせなけりゃ、すこしでも楽に思える担い方を教えてあげることだ思うんだけど
だから、ぼくは、お笑い芸人って、すごいと思うの。
ぼくがお笑いを、芸術のトップに置く理由なの。
(だいぶ、メモから逸脱してます、でもまた、ここからメモに)
芸人がしていることをくだらないっていうひとがいるけど
見せてくれてることね
そのくだらない芸で、こころが救われるひとがいるんだからね。
フロベールの『紋切型辞典』に
文学の項に、「閑人(ひまじん)のすること。」って書いてあったけど
その閑人がいなけりゃ
人生は、いまとは、ぜんぜん違ったものになってるだろうしね。
世界もね。
きのう、あらちゃんと
自費出版についてディープに話したけど
この日記の記述、だいぶ長くなったので、あとでね。
つぎには、きのうメモした長篇を。
エリオットに影響されたもの。
(ほんとかな。)
二〇一六年十三月七日 「あなたがここに見えないでほしい。」
とんでもない。
けさのうんこはパープルカラーの
やわらかいうんこだった。
やわらかいうんこ。
やわらかい
軟らかい
うんこ
便
軟らかい
うんこ
軟便(なんべん)
なすびにそっくりな形の
形が
なすびの
やわらかい
うんこ
軟便
なすびにそっくりのパープルカラーが
ぽちゃん
と
便器に
元気に
落ちたのであった。
わしがケツもふかずに
ひょいと腰を浮かして覗き込むと
水にひろがりつつある軟便も
わしを見上げよったのじゃ。
そいつは水にひろがり
形をくずして
便器がパープルカラーに染まったのじゃった。
ひゃ〜
いかなる病気にわしはあいなりおったのじゃろうかと
不安で不安で
いっぱいになりおったのじゃったが
しっかと
大量の水をもって
パープルカラーの軟便を流し去ってやったのじゃった。
これで不安のもとは立ち去り
「言わせてやれ!」
わしはていねいにケツをふいて
「いてっ、いててててて、いてっ。」
手も洗わず
顔も洗わず
歯も磨かず
目ヤニもとらず
耳アカもとらず
鼻クソもとらず
靴だけを履いて
ステテコのまま
出かける用意をしたのじゃった。
公園に。
「いましかないんじゃない?」
クック、クック
と幸せそうに笑いながら
陽気に地面を突っついておる。
なにがおかしいんじゃろう。
不思議なヤカラじゃ。
不快じゃ。
不愉快じゃ。
ワッ
ワッ
ワッ
あわてて飛び去る鳩ども
じゃが、頭が悪いのじゃろう。
すぐに舞い戻ってきよる。
ワッ
ワッ
ワッ
軟便
違う
なんべんやっても
またすぐに舞い戻ってきよる。
頭が悪いのじゃろう。
わしは疲れた。
ベンチにすわって休んでおったら
マジメそうな女子高校生たちが近寄ってきよったんじゃ。
なんじゃ、なんじゃと思とうったら
女の子たちが
わしを囲んでけりよったんじゃ。
ひゃ〜
「いてっ、いててててて、いてっ。」
「いましかないんじゃない?」
こりゃ、かなわん
と言って逃げようとしても
なかなかゆるしてもらえんかったのじゃが
わしの息子と娘がきて
わしをたすけてくれよったんじゃ。
「お父さん
机のうえで
卵たちがうるさく笑っているので
帰って
卵たちを黙らせてくれませんか。」
たしかに
机のうえでは
卵たちが
クツクツ笑っておった。
そこで、わしは
原稿用紙から飛び出た卵たちに
「文字にかえれ。
文字にかえれ。
文字にかえれ。」
と呪文をかけて
卵たちが笑うのをとめたんじゃ。
わしが書く言葉は
すぐに物質化しよるから
もう、クツクツ笑う卵についての話は書かないことにした。
しかし、クツクツ笑うのは
卵じゃなくって
靴じゃなかったっけ?
とんでもない。
「いましかないんじゃない?」
「問答無用!」
そんなこと言うんだったら
にゃ〜にゃ〜鳴くから
猫のことを
にゃ〜にゃ〜って呼ばなきゃならない。 電話は
リンリンじゃなくって
あ
もうリンリンじゃないか
でんわ、でんわ
って
鳴きゃなきゃならない。
なきゃなきゃならない。
なきゃなきゃ鳴かない。
「くそー!」
原稿用紙に見つめられて
わしの独り言もやみ
「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい。」
吉野の桜も見ごろじゃろうて。
「なんと酔狂な、お客さん」
あなたがここに見えないでほしい。
「いか。」
「いいかな?」
二〇一六年十三月八日 「このバケモノが!」
いまナウシカ、3回目。
「このバケモノが!」
「うふふふ。」
「不快がうまれたワケか。
きみは不思議なことを考えるんだな。」
「あした、みんなに会えばわかるよ。」
引用もと、『風の谷のナウシカ』
「以上ありません。」
二〇一六年十三月九日 「切断された指の記憶。」
ずいぶんむかし、TVで
ルーマニアだったか、チェコだったか
ヨーロッパの国の話なんだけど
第二次世界大戦が終わって
でも、まだその国では
捕虜が指を切断されるっていう拷問を受けてる
映像が出てて
白黒の映像なんだけど
机の上が血まみれで
たくさんの切断された指が
机の上にボロンボロン
ってこと
思い出した。
十年以上前かな。
葵公園で出会った青年が
右手の親指を見せてくれたんだけど
第一関節から先がなくなっていたのね。
「気持ち悪いでしょ?」
って言うから
「べつに。」
って返事した。
工場勤務で、事故ったらしい。
これまた十年ほども、むかし、竹田駅で
両方とも足のない男の子がいて
松葉杖を両手に持っていて
風にズボンのすそがひらひらしていて
なんだかとてもかわいらしくて
セクシーだった。
後ろ姿なんだけどね。
顔は見ていないんだけどね。
ぎゅって、したいなって思った。
だからってわけじゃないけど
指がないのも
美しいと思った。
じっと傷口を眺めていると
彼は指を隠した。
自分から見せたくせにね。
胃や腸がない子っているのかな。
内臓がそっくりない子。
そんな子は内面から美しくて
きっと、全身が金色に光り輝いてるんだろね。
脳味噌がない子もすてきだけど
目や耳や口のない子もかわいらしい。
でも、やっぱり
手足のない子が、いちばんかわいらしいと思う。
江戸川乱歩の『芋虫』とか
ドルトン・トランボの『ジョニーは戦場に行った』とか
山上たつひこの『光る風』とか
手足のない青年が出てきて
とってもキッチュ・キッチュだった。
あ、日活ロマンポルノに、ジョニジョニ・ネタがあってね。
第二次世界大戦で負傷したダンナが帰ってくると
そのうち布団のなかで芋虫になっちゃうのね。
違ったかな、笑。
でも、映像のレベルは高かったと思うよ。
二〇一六年十三月十日 「切断された指の記憶。」
指。
指。
指。
指。
指。
二〇一六年十三月十一日 「切断された指の記憶。」
切断された指っていうと
ヒロくんの話。
ヒロくんのお父さんの
年平均5、6本という話を思い出した。
それと
ウィリアム・バロウズも。
バロウズは自分で指を切断しちゃったんだよね。
恋人への面当てに。
そういえば
弟の同級生が
度胸試しに、自分の指を切断したって言ってた。
なんて子かしらね。
そうだ、カフカのことも思い出される。
労働省だったか保健省だったか
労務省だったかな。
そんなとこに勤めていたカフカのことも思い出される。
労働災害ね。
きょう、これから見る予定の『薬指の標本』
労災の話ね。
嘘、笑。
でも、タイトルがいいね。
楽しみ。
あとの2枚のDVDは
ちと違う傾向かもしれないけれど
怖そうだから
チラ見のチェックをしてみようっと。
ニコラス・ケイジは好きな俳優。
スネーク・アイだったかな。
いい映画だった。
8ミリも。
だから、ニコちゃんの映画、ちゃんと見るかも。
あ、
晩ご飯、買ってこなきゃ。
ご飯食べながら
血みどろゲロゲロ。
って
あ、
だから、寝られないのかな、笑。
ブリブリ。
さっきブックオフに行ったら
サンプルで見た映画があって
2980円していたので
なぜか、気分がよかった。
あのキョンシーもののタイムスリップものね。
田中玲奈のめっちゃヘタクソな演技がすごい映画でした。
最後まで見ることができなかった映画でした、笑。
二〇一六年十三月十二日 「ノイローゼ占い。」
ノイローゼにかかっている人だけで
ノイローゼの原因になっていることがらを
お互いに言い当て合うゲームのこと。
気合いが入ったノイローゼの持ち主が言い当てることが多い。
なぜかしら?
で、言い当てた人から抜けていくというもの。
じっさい、最初に言い当てた人は
次の回から参加できないことが多い。
兵隊さんと団栗さん。
二〇一六年十三月十三日 「2010年11月12日のメモ」
読む人間が違えば、本の意味も異なったものになる。
二〇一六年十三月十四日 「これまた、2010年11月12日のメモ」
首尾一貫した意見を持つというのは、一見、りっぱなことのように見えるが
個々の状況に即して考えていないということの証左でもある。
二〇一六年十三月十五日 「これまたまた、2010年11月12日のメモ」
書くという行為は、ひじょうに女々しい。
いや、これは現代においては、雄々しいと書く方がいいかもしれない。
意味の逆転が起こっている。
男のほうが潔くないのだ。
美輪明宏の言葉が思い出される。
「わたしはいまだかつて
強い男と弱い女に出会ったことがありません。」
しかり、しかり、しかり。
ぼくも、そう思う。
あ、フロベールの『紋切型辞典』って
おもしろいよ。
用語の下に
「よくわからない。」
って、たくさんあるの。
読者を楽しませてくれるよね。
ぼくも
100ページの長篇詩のなかで
「ここのところ、忘れちゃった〜、ごめんなさい。」
って、何度も書いたけど、笑。
二〇一六年十三月十六日 「愛は、あなたを必要としている」
愛は、あなたを必要としている
あなたがいなければ、愛は存続できない
あなたが目を向けるところに愛はあり
あなたが息をするところに愛はあり
あなたが耳を傾けるところに愛はある
あなたがいないと、愛は死ぬ
愛は、あなたに生き
あなたとともに生きているのだ
あなたがいないところに愛はない
愛は、あなたがいるところにある
あなたそのものが愛だからだ
二〇一六年十三月十七日 「愛は滅ぼす」
愛は滅ぼす
ぼくのなかの蔑みを
愛は滅ぼす
ぼくのなかの憎しみを
愛は滅ぼす
ぼくのなかの躊躇いを
そうして、最後に
愛は滅ぼす
きみとぼくとのあいだの隔たりを
二〇一六年十三月十八日 「きょうのブックオフでの買い物、「イマジン」と「ドクトル・ジバゴ II」」
きょうのブックオフでの買い物、「イマジン」と「ドクトル・ジバゴ II」
イマジン 1050円
ドクトル・ジバゴ II 105円
イマジンは、買いなおし。
リマスターやから、いいかな。
でも、これ、オマケの曲がないんやね。
ふううん。
パステルナークのほうは
I 持ってないんやけど
II のおわりのほうをめくったら
詩がのってて、その詩にひきつけられたから
ああ、これは縁があるって思って買った。
105円だし、笑。
さいきん、105円で、いい本がいっぱい見つかって
なんなんやろ、魂のチンピラこと
貧乏詩人あつすけとしては、よろこばしいかぎり。
あ
その詩を引用しておきますね。
つぎの4行が目に、飛び込んできたんだわ。
ぼくといっしょなのは名のない人たち、
樹木たち、子供たち、家ごもりの人たち。
ぼくは彼らすべてに征服された。
ただそのことにのみ ぼくの勝利がある。
(「夜明け」最終連、江川卓訳)
本文では、誤植で「だた」になっていた。
たぶん、文庫だと直ってると思うけれど。
どこかで文庫で、Iを見たような記憶がある。
そのうち、Iも買おう。
しかし
なんで、イマジン
むかし売ったんやろ
そんなにお金に困ってたんかなあ
あんまり記憶にないなあ
二〇一六年十三月十九日 「こころ」
思えば、こころとは、なんと不思議なものであろうか
かつては、喜びの時であり、場所であり、出来事であった
いまは、悲しみの時であり、場所であり、出来事であった。
その逆のこともあろう。
さまざまな時であり、場所であり、出来事である
この、こころという不思議なもの。
二〇一六年十三月二十日 「ぼくはこころもとなかった」
ぼくはこころともなかった
二〇一六年十三月二十一日 「言葉」
ひとつの文章は
まるで一個の地球だ
言葉は
ひとつひとつ
読み手のこころを己れにひきよせる引力をもっている
しかし、それらがただひとつの重力となって
読み手のこころを引くことにもなるのだ
二〇一六年十三月二十二日 「句点。」
彼は O型
なにごとにも
さいごには句点を置かずにはいられなかった。
二〇一六年十三月二十三日 「やめる庭」
もう、や〜めたっ!
って言って
庭が
庭から駆け出しちゃった。
二〇一六年十三月二十四日 「木や石や概念は、孤独ではない。」
木や石や概念は、孤独ではない。
それ自らが、考えるということがないからである。
人間は、じつに孤独だ。
もちろん、しじゅう、考える生きものだからだ。
しかも、どんなに上手く考えるコツを習得していても孤独である。
むしろ、考えれば考えるほど
考えることに習熟すればするほど、孤独になるのである。
考えるとは、ひとりになること。
他人の足で、自分が歩くわけにはいくまい。
他人の足で、自らが歩いていると称する輩は多いけれども、笑。
二〇一六年十三月二十五日 「この人間という場所」
胸の奥でとうに死んだ虫たちの啼くこの人間という場所
傘をさしてもいつも濡れてしまうこの人間という場所
われとわれが争い勝ちも負けもみんな負けになってしまうこの人間という場所
高校生のときに、
高校は自転車で通っていたんだけど
雨の日にバスに乗ってたら、
視線を感じて振り向いたら
同じ町内にいた高校の先輩が、
ぼくの顔をじっと見てた
ぼくが見つめ返すと、
一瞬視線をそらして、
またすぐに
ぼくの顔を見た。
今度はぼくが視線を外した。
そのときの、そのひとの、せいいっぱい真剣な眼差しが
思い出となってよみがえる。
いくつかの目とかさなり。
「夏の思い出」という、
ぼくの詩に出てくる同級生は
高校2年で、
溺れて死んじゃったので、
ぼくのなかでは
永遠にうつくしい高校生。
あの日の触れ合った手の感触。
ぼくは、ぼくの思い出を、ぼくのために思い出す。
二〇一六年十三月二十六日 「2008年6月26日のメモより」
不眠症で、きのう寝てないんですよ、という話を授業中にした翌々日
一人の生徒に
「先生、きのう、寝れた?」
って、訊れて、その前夜は寝れたので(いつもの薬に、うつ病の薬を加えて)
「寝たよ。」というと
にっこり笑って
「よかった。」
って言ってくれた
とてもうれしかった
ごく自然にきづかってくれてるのが伝わった
ごく自然に伝わるやさしさの、なんと貴重なことか。
ぼく自身を振り返る
ぼくには、自然に振るまえるやさしさがない
ぼくには、自然にひとにやさしくする気持ちがない
ぼくにはできないことを、ごく自然にできる彼が
その子のようなひとたちのことを思い出す
いたね、たしかに、遠い記憶のなかにも
ごく最近の記憶のなかにも
この人間という時間のむごさとうつくしさ
この人間という場所のむごさとうつくしさ
この人間という出来事のむごさとうつくしさ
二〇一六年十三月二十七日 「奇想コレクション」
それはたとえば、そうね、灰色の猫だと思っていたものが
そうではなくて、コンクリートで作られたゴミ箱だったことに気がついて
そのまわりの景色までが一変するような、そのようなことが起こるわけ
一つの現実から、もう一つ別の現実への変化なのだけれど
こんなことは日常茶飯事で
ただ、はっきりと認識していないだけでね
はっきりと認識する方法は、意識的であるようにつとめるしかないのだけれど
それって、生まれつき、そういう意識が発達しやすいようにできてる人は別だけれど
そうでない人は、そうとうに訓練しないとだめみたいね
ぼくなんかも、ボケボケだから、それを意識するっていうか
そうして、言葉にしないと意識できないっていうか
で
やっぱり認識なわけで
現実をつくっているのが
ということで
『舞姫』のテーマ、決まりね。
このあいだ読んだタニス・リーの短篇集には、何も得るものがなかったけれど
いまも読んでいるスタージョンの短篇集には、数ページごとに
こころに響く表現があって
これはなんだろうなって思った。
何だろう。
現実をより実感できるものにしてくれる表現。
これまでの現実を、ちょっと違った視点から眺めさせてくれることで
これまでの現実から、違った現実に、ぼくをいさせてくれる
そんな感じかな。
書かれていることは、とっぴょうしもないことではなくて
ごく日常的なことなのに
解釈なんだね
それを描写してくれているから
スタージョンの本はありがたい感じ。
タニス・リーのは、破り捨てたいくらいにクソの本だった。
奇想コレクション・シリーズの一巻で、カヴァーがかわいいので、捨てられないけれど、笑。
二〇一六年十三月二十八日 「意識と蒸し器」
意識と蒸し器
無意識とうつつもりで
蒸し器とうつ
でも、こうした偶然が
考えさせるきっかけになることもある。
常温から蒸し器をあっためていると
そのうち湯気が出てきて
沸点近くで沸騰しはじめると
やがて、真っ白い蒸気が細い穴からシューと出てくる。
二〇一六年十三月二十九日 「偶然」
うち間違い
という偶然が面白い。
これって、ワープロやワードが出現しなかったら
起こらなかった事柄かもしれない。
日常では
言い間違いというのがあるけれど
それってフロイト的な感じがあって
偶然から少し離れたところにあるものだけれど
このあいだ書いた
喫茶店なんかで
偶然耳にした
近くの席で交わされてる話し声のなかから単語をピックアップして
自分の会話に
自分の考えに取り入れるっていうほうが
近いかもしれない。
偶然
詩集にも引用したけれど
芥川が書いてたね
「偶然こそ神である」
って
ニーチェやヴァレリーも
「偶然がすべてである」
ってなこと書いてたような記憶があるけれど
偶然にも程度があって
フロイト的な言い間違いのものから
ぼくが冒頭に書いたキーボードのうち間違いなど
さまざまな段階があるって感じだね。
詩を書いていて
いや、大げさに言えば
生きていて
この偶然の力って、すごいと思う。
生きているかぎり
思索できるかぎり
偶然に振り回されつつ
その偶然の力を利用して
自分の能力の及ぶ限り
生きていきたいなって思う
恋もしたいし、
うふふ。、
ね。
二〇一六年十三月三十日 「あいまいに正しい」
「あいまいに正しい」などということはない
感覚的にはわかるが
「正確に間違う」ということはよくありそうで
よく目にもしてそうな
感じがする
二〇一六年十三月三十一日 「『象は世界最大の昆虫である』ガレッティ先生失言録(池内 紀訳)を買う。」
そこから面白いものを引用するね。
「もしこの世に馬として生まれたのなら、もはや、やむをえない。死ぬまで馬でいるしかない。」
「この個所はだれにも訳せない。では、いまから先生がお手本をおみせしましょう。」
「古代アテネの滅亡はつぎの命題と関係する。すなわち─「これ、静かにしなさい!」
「アレキサンダー大王軍には、四十歳から五十歳までの血気盛んな若者からなる一隊があった。」
「ペルシャ王ペルゼウスは語尾変化ができない。」
「女神は女であるとはいえないが、男であるともいえない。」
「いかに苦難な船旅をつづけてきたか、オデュッセウスは縷々として物語っている。むろん、羅針盤がなかったからである。」
「カンガルーはひとっ跳び三十二フィート跳ぶことができる。後脚が二本でなくて四本なら、さらに遠く跳べるであろう。」
「ここのこのSは使い古しである。」
「イギリスでは女王はいつも女である。」
「アラビア風の香りなどとよくいわれるが、近よっても何も見えない。」
「湿地帯は熱されると蒸発する。」
「雨と水は、たぶん、人間より多い。」
「以上述べたところは、ローマ史におなじみとはいえ、まったく珍しいことである。」
「高山に登るとめまいがする。当然であろう。目がまわるからだ。」
「今日、だれもが気軽にアフリカにいき、おもしろ半分に殺される。」
「ナイル川は海さえも水びたしにする。」
「以上述べたのが植物界の名士である。」
「水は沸騰すると気体になる。凍ると立体になる。」
「一日三百六十五時間、一時間は二十四分、そのうち学校で勉強しているのはたった六時間にすぎない。」
「牛による種痘法が発見されるまでは、多くの痘瘡が子供にかかって死んだものだ。」
「何であれ、全体はいつも十二個に分けられる。」
「古代ローマでは、一日は三十日あった。」
「ハチドリは植物界最小の鳥である。」
「ホッテントット族の視力は並はずれている。はるか三時間かなたの蹄の音さえ聞きつける。」
「先生はいま混乱しているのです。だから邪魔をして、かき乱さないでください。」
「君たちが世界最大の望遠鏡で火星を眺めるとすると、そのとき火星は、十メートルはなれたところから先生の頭を見たときと同じ大きさに見えます。しかし、むろん君たちは、十メートルはなれたところからでは、先生の頭に何が生じているかわかるまい。だから、同様に、火星に生物がうごめいていたとしても、とても見えやしないのです。」
「この点について、もっとくわしく知りたい人は、あの本を開いてみることです。題名は忘れましたが、第四十二章に書かれています。」
「もう何度も注意したでしょうが。ペンはいつも綺麗に髪で磨いておきなさい。」
「教師はつねに正しい。たとえまちがっているときも。」
「どうも席替えの必要があるようだ。前列の人は、先生が後列組をよく見張れるように席につきなさい。」
「そう、三列目が六列目になる、そして十列目まで、全員二列ずつ前に移りなさい!」
「きみたちは先生の話となると、右の耳から出ていって、左の耳から入るようだな。」
「紙を丸めて投げつけて、どこが芸だというのです。芸のためには、もっと練習に励まなくてはなりますまい。」
「いま君に訳してもらったところだが、一、教室のだれ一人として聞いていなかった。二、構文がまるきりまちがっている。」
「雨が降ると、意味はどうなりますか?」
「君たちは、いったい、椅子を足の上において靴でインキ壺を磨きたいのかね?」
「筆箱はペン軸に、カバンは筆箱に入れておくものです。」
「最上級生には、下等な生徒はいないはずです。」
「カント同様、私は思考能力に二つのカテゴリーしか認めない。
すなわち、鞍と馬である。いや、つまり、丸と菱形だ。」
「私にとって不快なことが、どうして私に出会いたがるのか、さっぱりわけがわからない。」
「私の本の売れゆきをうながす障害があまりに大きい。」
「私はあまりに疲れている。私の右足は左足を見ようとしない。」
「立体化するには音が必要だ。」
「なかでも、これがとりわけ重要なところです。─価値は全然ないにせよ。」
「夜、ベッドのなかで本を読むのはよくない習慣である。明かりを消し忘れたばかりに、朝、起きてみると焼け死んでいたという例はいくらもある。」
ああ
面白かった。
ブックオフで見つけて買ったのだけれど
詩のように感じられた。
選出作品
作品 - 20170301_547_9463p
- [優] 詩の日めくり 二〇一六年十三月一日─三十一日 - 田中宏輔 (2017-03)
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詩の日めくり 二〇一六年十三月一日─三十一日
田中宏輔