選出作品

作品 - 20160730_602_8990p

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メキシコ

  天才詩人


涙がこぼれた。午前7時まえだった。レフォルマ通りを過ぎたところにある、緑の木々に囲まれた小さな公園を出て、教会前の、溝に空のペットボトルや食べ物のかすが投棄された下水管の匂いのする路地を、歩いていた。前方にはガラス張りの高層ビル群が林立するのが見え、老婆やOLが眩しそうにかわいた朝日を浴びながら、地下鉄のエントランスへ早足で向かっている、そんな風景のなかだった。俺は美術館のアシスタントとしてこの国に来て、自分の収入に不相応な、ブティックホテルに泊まっていた。毎日市内の各所にある美術家のスタジオを訪問し、朝から晩まで、スペイン語のできないアメリカ人の上司の通訳をした。ほとんど休む間もない時間が続くなか、ある朝、ホテルを抜け出した。涙がこぼれたのは、そんな朝だった。この国にはじめて来たのは、15年ほど前、22歳のときだった。ロスアンゼルスからの深夜便で、早朝の空港に降り立ち、英語がまったく通じないことに困惑し、仕方がなく、うろ覚えのスペイン語の数字を使って、タクシーの運転手と値段交渉をした。曇り空にすっぽりおおわれた、首都圏の高層ビル群を遠くにのぞむ広いハイウェイを飛ばして、歴史中心地区にある、安宿に向かう。古い診療所を改装した、冷たいコンクリートの廊下に、高い天井の部屋がならぶ宿。部屋まで案内してくれた 褐色の肌の少女は、スペイン語のわからない俺に、朝食があることを伝えようと思ったのか、俺の目を見て一言、”pan?”と言った。俺は、そのpan = パン(西語)という、少女が発した言葉の、鮮明な響きを、いまでも忘れることができない。ロスアンゼルスでは、通りを行く人々の話す言葉がほとんどわからなかった。(そもそもリトルトーキョーのさびれた倉庫街では、道を歩いているのは、打ち捨てられたスーパーのカートに家財道具を積んだ、ホームレスくらいのものだった。)スペイン語は日本語と同じく母音が五つしかない言葉で、発音がよく似ていることくらいの知識はあった。だが、初めての国で右も左もわからない状態でいたとき、その少女の発した「パン」という単語があまりにストレートに自分の耳に届いたことに、驚いた。そうだ、「パン」が食べたい、いや、食べることができるのだ。暗く長い廊下の、突きあたりの開け放たれた窓から、くもり空の日がこぼれるのが見える。この国では、もう何年ものあいだ、小さな家屋で扉に板を打ちつけてきた俺の身体は、やっと人々や町の動きと相似形をなし、手に触れることのできる「かたち」を持つだろう。そのことを直感したのは、この日の朝の、少女とのたった一言のやりとりを通してだった。たぶん人は、このような体験を「原点」と呼ぶのだと思う。それから15年目の、はじめてこの町に着いた日と同じ時刻、かわいた高地のスモッグにおおわれた首都中心部の歩道を、俺は、鬱々とした20代の青年だった過去の自分に「パン」を食べるかどうかを聞いてくれた、あの少女と似た容姿の人々にかこまれて歩いていた。そのなかの誰を知っているわけではなく、言葉を交わすこともない。たが、俺はそのとき、 自分の「原点」のすぐ間近におり、それまで決して出ることができなかった小さな家屋と、それを囲む電熱線の走る高い壁が、誰もいない午前の湿ったコンクリートのように、静けさにつつまれるのを感じていた。そして、その家屋の向こうには、このさき、テーブルをはさんで対面し、一緒に「パン」を食べるであろうたくさんの人々や、俺が彼らに向けて発音するであろう単語の数々。そして俺の身体が相似形をなす、曇り空におおわれた路地や街角が、ガラス瓶の底の風景のように見えている気がしていた。