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作品 - 20160701_295_8918p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年五月一日 「叛逆航路」


お昼から夕方まで、『The Wasteless Land.』の決定版の編集を大谷良太くんとしていて、そして、大谷くんと韓国料理店に行って、居酒屋に行って、そのあと、ひとりで、きみやに行って、日知庵に行って、いま、帰ってきた。帰りに、ぼくんちの近くのスナックのまえで八雲さんに会った。

きみやさんでは、元教え子の生徒さんにも遭って、ああ、京都に長く住んでいると、こういうこともあるのだなと思った。そいえば、王将で、元教え子から、「田中先生でしょう?」と言われて、ラーメン吹き出したこともあったよなあ。悪いこと、できひん。しいひんけど。いやいや、してる。している。

アン・レッキーの『叛逆航路』あと80ページほど。進み方がゆるやかだ。むかしのSFのおもしろさとは異なるおもしろさがあるが、むかしのSFを知っている者の目から見ると、物語の進行が遅すぎる。きょうじゅうに読めたら、あしたから続篇の『亡霊星域』を読むことにしよう。

あしたは、学校の授業が終わったら、大谷良太くんと、ふたたび、『The Wasteless Land.』決定版の編集をいっしょにする。きょうは、夜になったら、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。

アン・レッキーの『叛逆航路』おもしろかった。展開が遅かったけれど、終わりのほうがスコットカードを思い起こさせるような展開で楽しめた。この作品のテーマは、「人間には感情があり、恩情を受けた者はそれを忘れることができない。」一言でいえば、こう言い表し得るだろうか。さっそく続篇に目を通す。

きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり」ができた。これから、アン・レッキーの『亡霊星域』を読もう。冒頭だけ読んだ。翻訳者が赤尾秀子さんで、前作『叛逆航路』と同じなので、安心。前作は誤字・脱字が一か所もなかったように思う。さいきんの翻訳では、めずらしい。


二〇一六年五月二日 「さつま司」


いつもは
白波っていう芋焼酎を飲むんやけど
これ飲んでみ
と言われて出された
アサヒビールからだしてる
さつま司っていうヤツ
ちょっとすすったらオーデコロンの味が
オーデコロンなんか、じっさいにすすったことないけど
そんな味がした。
匂いはぜんぜんなくって
こんなん注文するひといるのって訊いたら
いるよって
ああ、ぜったい、変態やわ。
味のへんなヤツ好きなのっているんだよね。
ってなこと言ってると
美男美女のカップルが入ってきて
へしこ
頼んだのね
ひゃ〜
臭いもの好きなひともいるんやなあって話をしたら
そのカップルと
臭い食べ物の話になって
ぼくが、フィリピン料理で
ブタの耳のハムがいちばん臭かったって話をしたら
女性のほうが
カラスミのお茶漬けとか
いろいろ出してきて
うわ〜、考えられへんわ
って言った。

きのう、帰りの電車の窓から眺めた空がめっちゃきれいやった。
あんまりきれいやから笑ってしもうた。
きれいなもの見て笑ったんは
たぶん、生まれてはじめて。
いや、もしかすると
ちっちゃいガキんちょのころには
そうやったんかもしれへんなあ。
そんな気もする。
いや、きっと、そうやな。
いっつも笑っとったもんなあ。

そや。
オーデコロンの話のあとで
頭につけるものって話が出て
いまはジェルやけど
むかしはチックとかいうのがあってな
父親が頭に塗ってたなあ
チックからポマードに
ポマードからジェルに
だんだん液体化しとるんや。
やわらかなっとるんや。


二〇一六年五月三日 「キプリングみたい。」


大谷良太くんちから。帰ってきて、自分の詩集の売れ行きを amazon で見て、またきょうも売れてたので、うれしい。思潮社オンデマンドの詩集がいま40パーセント引きなので、そのおかげもあるかな。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と、『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻が売れてた。

アン・レッキーの『亡霊星域』おもしろい。イギリスっぽい。キプリングみたい。とか思ってたから、前作『叛逆航路』の解説を読んで、アメリカ人の作家というので、びっくり。書き込みが、イギリス人の作家のように、意地が悪いと思うのだけれど、たんに作家のサーヴィス精神が豊かなだけかもしれない。


二〇一六年五月四日 「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」


ええっ。きょうも amazon での売り上げ順位が上がってた。思潮社オンデマンドから出た詩集『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と『全行引用詩・五部作・上巻』と『全行引用詩・五部作・下巻』。ぼくの作品集のなかでも傑作たちだからよかった。そうでなかったら、買ってくださった方に申し訳ないものね。ありゃ、2014年に出した『ツイット・コラージュ詩』も売れてた。『ゲイ・ポエムズ』や『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』も売れてほしいなあ。

きょうも、これから大谷良太くんとミスドに。

ぼくにとって、詩は単なる趣味である。生きていくことは趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、生きていくことは苦しいことである。しかし、その苦しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である詩が人生というものに相応しい理由なのだ。

ぼくにとって、人生は単なる趣味である。詩は趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、詩を読み書きすることは楽しいことでもある。そして、その楽しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である人生が、詩というものに相応しい理由なのだ。

アン・レッキーの『亡霊星域』あと20ページほど。柴田元幸訳の『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読もう。

きのうは一食だけのご飯だった。きょうも、そうしよう。読書とゲラチェックに専念。そいえば、来週に投稿する『詩の日めくり』もつくらなければならない。文学、文学、文学の日々だけれど、ひとから見れば、ただ趣味に時間を使っているだけ。そっ。じっさい、趣味に時間を費やしているだけなのである。

セブイレで、サラダとサンドイッチ2袋買ってきた。BGMは、リトル・リバー・バンドのベスト。アン・レッキーの『亡霊星域』誤字・脱字ゼロだった。純文学の出版社より、創元やハヤカワのほうが優秀な校正家を抱えているようだ。高い本で、誤字・脱字に気がついたときの気落ちほどひどいものはない。

これから、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読む。きょう、あすじゅうに読み切りたい。

スウィフトの『アイルランド貧民の‥‥‥』を読んだ。ひとを食べちゃう話は、ぼくもいくつか書いているけれど、スウィフトみたいに実用的な用途で子どもを食べるという案は、じつに興味深い。というか、この1篇が読みたくて、この単行本を買ったようなものである。コーヒーを淹れて、つぎのシェリーのを読もう。

シェリーの『死すべき不死の者』は、なんだかなあという感じ。傑作ちゃうやんという思いがする。つぎにディケンズの『信号手』を読むのだけれど、まえにも読んだとき、どこがいいのかぜんぜんわからなかった。きょうは、どだろ。BGMはジェネシス。ディケンズを読み終わったら、コーヒーを淹れよう。

9時半に日知庵に、竹上 泉さんと行くことに。

ディケンズの『信号手』を読み終わった。どこがいいのか、まったくわからない。以前にアンソロジーで読んだときにも、まったくおもしろくなかった。つぎは、ワイルドの『しあわせな王子』だけど、そろそろお風呂に入って、日知庵に行く準備をしないと。


二〇一六年五月五日 「超大盛ぺヤングの罪悪感」


超大盛のペヤングを食べて、罪悪感にまみれている。

しあわせな気分で眠るには、どうしたらいいだろう。とりあえず、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。たしか、ワイルドの「しあわせな王子」からだった。ワイルドといえば、フランスでの彼の悲惨な最期を思い出す。その場面の一部を作品化したことがあるけれど。

ワイルドの「しあわせな王子」を読んで、ちょびっと涙がにじんだ。ぼくはクリスチャンじゃないけど、やっぱり神さまはいらっしゃるような気がする。おやすみ、グッジョブ! ジェイコブズの「猿の手」を読んで明かりを消そう。ほかのひとの訳で読んだことがあるけど、これは傑作中の傑作だった。

ようやく起きた。これからプリンスを追悼して、プリンス聴きながら、新しい『詩の日めくり』をつくる。そのあと、詩集の校正をもう一度する。


二〇一六年五月六日 「グースカ・ポー!」


木にとまるたわし

気にとまるたわし

木にとまる姿を想像する
やっぱりナマケモノみたいにぶら下がってるって感じかな。

職場のひとたちや
居酒屋の大将や
近所のスーパー大国屋のレジ係りのバイトの男の子や女の子や
買い物してるオバサンや子どもも
みんな、とりあえず、木にぶら下がってもらう。
で、顔をこちらに向けて。
やっぱ、きょとんとした感じで。

歩いてるひとは
そうね
突然飛び上がって
丸くなってもらって
空中に浮いて
そのまま、やってきてもらおうかな。

車を運転してるひとは
とりあえず、ハンドルから手を離してもらって
両手を広げて
車から透けて足をのばして
空中に舞い上がってもらって
そのままずっと上っていってもらおうかな。

ぼくは
仏さまのように
半眼で
横向きになって
居眠りしようかな。

グースカ・ポーって。
行きますよ。


二〇一六年五月七日 「思い出せない男の子」


詩は、ぼくにとって、記憶装置の一つなのだけれど、こんど投稿する新しい『詩の日めくり』に、名前(したの名前だけ)も、身長も、体重も、年齢も、そのときの状況も、そのときの会話も書いてあるのに、まったく顔が思い出せない男の子がいて、ノブユキ似って書いてるんだけど、まったく思い出せない。

これから大谷良太くんちに。

大谷良太くんちから帰ってきた。見直さなきゃならない個所があって、見直したら、ぼくが直したところが間違ってた。とんまだわ。

これからお風呂に、それから日知庵に。

いま日知庵から帰った。帰り道で、柴田さんと会って、あいさつした。


二〇一六年五月八日 「ミニチュアの妻」


ようやく身体が起きた。なんか食べてこよう。帰ったら、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。

あと、4、50ページで、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終える。傑作は、さいしょのスウィフトのもののみ。あとはワイルドのくらいか。「猿の手」は、ほかの方の訳のほうが怖かった。これからオーウェルの「象を撃つ」を読む。有名な短篇だけれど、はじめて読む短篇だ。

ジョイスの抒情は甘すぎる。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上下巻のほうがはるかに優れた作品を収録していた。きょう、さいごに飲むコーヒーを淹れて、オーウェルを読もう。

『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終わった。スウィフトとオーウェルのだけが傑作であった。ジェイコブズの『猿の手』もよかったかな。さいごのディラン・トマスのクリスマスの話はよくわからなかった。詩人の書いた散文って感じなだけで、感動のかけらもなかった。

これから、寝るまで、マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』を読む。翻訳者のお名前がはじめて拝見するものだったので、翻訳の文体が心配だけど。それはそうと、ケリー・リンクの訳はよかったけど、マスターピースの柴田元幸さんの訳文、ぼくはあまり好きじゃなかった。

ゴンザレスの短篇2篇を読んだ。完成度の低さにびっくりするけれど、読めなくもない。きょうは、ゴンザレスの短篇を読みながら床に就く。


二〇一六年五月九日 「歯痛を忘れるためのオード」


学校から帰ってきた。夜に塾に行くまで、ゴンザレスの短篇集を読む。きのう寝るまえの印象では、あまりつくりこみがよくないように思えたのだけれど、きょう通勤で読んだ短篇でわかったのだけれど、基本、奇想系のものは、つくりこむのがむずかしいのだと。発想の段階でもうほとんどすべてなのだと。

悪くない。十分に楽しめる作品たちである。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』 再読するかどうかはわからないけれど、本棚に置こう。

わ〜。きょう塾がなかったの、忘れてた〜。時間がある。ゴンザレスの短篇集のつづきを読みつづけよう。それとも、6月に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくる準備をしようか。両方しよう。塾の授業がないだけで、気分がぜ〜んぜん違う。

きょうは塾がなかったのだった。

こんどの土曜日に、河村塔王さんと、日知庵で、ごいっしょすることになった。

きのう文学極道に投稿した自分の『詩の日めくり』を読んでて、ふと思いついた。『歯痛を忘れるためのオード』とかいったタイトルで作品を書こうかな、と。まあ、オードという形式について知識がゼロだし、無知丸出しだけど、ちょっと勉強しようかな。頭痛を忘れるためのオードとか、腹痛を忘れるためのオードとか、腰痛を忘れるためのオードとかも書けるかも。あ、五十肩を忘れるためのオードちゅうのもいいかもしれへん。首を吊ったばかりのひとも耳を傾けたくなるオードとか、飛び込み自殺しようとして飛び込んで電車にぶつかる直前にでも耳を傾けたくなるオードとかも考えられる。死んだばかりのフレッシュな死体さんにも、死を直前にしたひとにも、朗読されて気持ちがいいなって思ってもらえるような詩を書いてみたい。


二〇一六年五月十日 「塾の給料日」


いま帰ってきた。詩集3冊の見本刷りを郵便局に6時に着くように取りに行く。それから塾だ。これからカレーパンと胡桃パンの晩ご飯を食べる。とりあえず、コーヒー入れよう。きょうも、前半戦でくたくた。塾、きょう給料日だ。うれしい。

マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』に、一か所だけ誤字・脱字があった。216ページさいごの1行「なだめすかしたりしなくてもを小屋から出すことができたので」 「を」が間違って入ったのか、「そいつを」の「そいつ」が抜けているのか、どちらかだと思うのだが、しっかり校正しろよ。

きょうは、塾の給料日だったので、帰りに、スーパー「マツモト」で半額になった握り寿司340円を買った。きょうから寝るまえの読書は、『ジーン・ウルフの記念日の本』何度か読もうかなと思っていたが、手にとっては本棚に戻し手にとっては本棚に戻した本だった。さすがに、きょうからは読もうかな。


二〇一六年五月十一日 「ジーン・ウルフの記念日の本」


ジーン・ウルフの短篇集、きのう寝るまえに2篇読んだのだけど、2篇目の作品がまったく意味がわからなくて、2回読んだけど、もう1度読んでみる。

『ジーン・ウルフの記念日の本』に2番目に収録されている「継電器と薔薇」、3度読んで、ようやく内容がわかった。ジーン・ウルフはわりと、ぼくにはわかりやすいと思っていたのだが、そうでもない作品があるのだなと思った。理解を妨げた原因には、書かれた時代を現代がとっくに超えてることもある。

これから王将に。それから塾へ。

塾から帰った。ジーン・ウルフの短篇集のつづきを読む。


二〇一六年五月十二日 「Love Has Gone。」


それ、どこで買ってきたの?
高島屋。
えっ、高島屋にフンドシなんておいてあるの?
エイジくんが笑った。

たなやん、雪合戦しよう。
はあ? バカじゃないの?
俺がバカやっちゅうことは、俺が知ってる。
なにがおもしろいん?
ええから、雪合戦しようや。

それからふたりは、真夜中に
雪つぶての応酬。

俺が住んでるとこは教えへん。
こられたら、こまるんや。
たなやん、くるやろ。
行かないよ。
くるから、教えたらへんねん。
バカじゃないの?
行かないって。

木歩って俳人に似てるね。
たなやんの目から見たら、似てるんや。
まあ、彼は貧しい俳人で、
きみみたいに建設会社の社長のどら息子やないけどね。
似てるんや。
ぼくから見てね。

姉ちゃんがひとりいる。
似てたら、こわいけど。
似てへんわ。
やっぱり唇、分厚いの?
分厚ないわ。
ふううん。
俺の小学校のときのあだ名、クチビルお化けやったんや。
クチビルおバカじゃないの。
にらみつけられた。

つかみ合いのケンカは何度もしていて
顔をけってしまったことがあった。
ふたりとも柔道してたので
技の掛け合いみたいにね、笑。
でも、本気でとっくみ合いをしてたから
あんまり痛くなかったのかな
それとも、本気に近いことがよかったのか
エイジくんが笑った。
けられて笑うって変なヤツだとそのときには思ったけれど
いまだったら、わかるかな。

こんどの詩集にでてくるエイジくんのエピソード。
日記をつけてたんだけれど
捨ててしまった。


二〇一六年五月十三日 「31」


いま日知庵から帰った。奥のテーブル席に坐っていた男の子がかわいいなと思って(向かいの席には女の子がいたけど)帰りに声をかけた。「いまいくつ?」「31です。」「素数じゃん!」「えっ?」「みそひと文字で短歌だよ。三十一は短歌で使う音数だよ。」と言ったら、そうなんすかと笑って返事した。

男からも女からも好かれるような、かわいい顔をしてた。ぼくがあんな顔をして生まれていたら、きっと人生ちがってただろうな。ぼくはブサイクだから、勉強したっていうところがあるもの。まあ、ブサイクだから詩を選んだっていうことは、かくべつないんだけどね、笑。

あした、大谷良太くんちに行く。『詩の日めくり』の第一巻から第三巻の最終・校正をするために。そろそろ寝よう。日知庵にいた、めっちゃ、かわいい男の子が、きっと夢に出てきてくれると思う。ハーフパンツで、白のポロシャツ。女の子にも受けるけど、ゲイ受けもすごいと思うくらいかわいかった。ベリ・グッド!

あの男の子が夢に出てきてくれますように、祈りつつ……


二〇一六年五月十四日 「きみの名前は?」


きみの名前は? 
(ジーン・ウルフ『養父』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』170ページ後ろから4行目)

きみの名前は? 
(ジーン・ウルフ『フォーレセン』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』181ページ5行目)

ひさしぶりにウルトラQを見よう。「宇宙指令M774」「変身」「南海の怒り」「ゴーガの像」

『ジーン・ウルフの記念日の本』を読み終わった。まあ、車が妊娠して車を生む短篇以外は、凡作かな。あの「新しい太陽の書」シリーズの作者とは思えないほどの凡作が並んでいた。『ナイト』と『ウィザード』のI、IIを買ってあるけれど、読む気が失せた。代わりに、きょうから寝るまえの読書は、ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』にしよう。ヴァンスは、コンプリートに集めた作家の一人だが、これまたコンプリートに集めた作家にありがちなのだけど、持っている本の半分も読んでいない。さすがに、「魔王子」シリーズは読んだけど。

いま日知庵から帰った。河村塔王さんと5時からずっとごいっしょしてた。現代美術のエッジにおられる方とごいっしょできてよかった。ぼく自身は、無名の詩人なんだけど、といつも思っている。謙虚なぼくである。


二〇一六年五月十五日 「ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥」


いま、まえに付き合ってた子が、ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥をもってきてくれた。朝から飲むことに。

きょうやらなければならないと決めていた数学の問題づくりが終わった。休憩しよう。きのう、河村塔王さんからいただいたお茶を飲もう。見て楽しめる、香りも楽しめるお茶らしい。

自分でも解いてみたが。OKだった。夜は、あしたやるつもりだった数学の問題をつくろうかな。そしたら、あしたは、ワードに打ち込むだけで終わっちゃうし。河村塔王さんからいただいたお茶、めっちゃおいしい。花が咲いてて、見た目もきれい。きのうは、作品も2点いただいた。聖書の文章がタバコの形に巻いてあるものと、詩作品がタバコの形に巻いてあるもので、どちらも、じっさいに火をつけて吸うことができるようになっているのだが、おしゃれな試験管に入っていて、コルクの栓で封印されている。もったいなくて火はつけませんでした。

ジャック・ヴァンスの短篇集のつづきを読もう。きのう4ページくらい読んだけど、さっぱり物語が頭に入らず、びっくりした。

あしたしようと思っていた分の数学の問題つくりとワード打ち込みも終えられたので、五条堀川のブックオフまで散歩ついでに出かけよう。持っている未読の本を読めばいいのだけれど、本に対して異常な執着心があるためにブックオフ通いはやめられない。読みたいと思える未読の古いものもよくあるからである。

文春文庫の『厭な物語』『もっと厭な物語』なんてのは、ブックオフで見かけなかったら、知らなかったであろう本だし、創元文庫エラリー・クイーン編集の『犯罪文学傑作選』も知ることはなかったと思う。クイーン編集の『犯罪は詩人の楽しみ』を後でアマゾンで買った。

ちなみに、『厭な物語』も『もっと厭な物語』もまだ読んでいない。『厭な物語』は目次を見て、半分くらいの作品を知っていたがために読まず。『もっと厭な物語』は『厭な物語』を読んでからと思っているため読まずにいるのだが、近々にでも、読む日はくるのだろうか。

バラードの短篇集『時の声』が108円なので買っておいた。このあいだ、竹上 泉さんに、持ってるバラードをぜんぶ差し上げたので、手もとになかったのだ。よかった。やっぱり、タイトル作と「音響清掃」は再読するかもしれないからね。再読する価値のある短篇は、これら2作と「溺れた巨人」くらいかな。


二〇一六年五月十六日 「きょうは雨らしい」


起きた。きょうは雨らしい。通勤で読む本は文庫にしよう。『モーム語録』がまだ途中だった。これにしよう。

『モーム語録』読み終わった。マリー・ローランサンとチャップリンの逸話がとても印象的だった。この2つの逸話は忘れないだろう。ローランサンは、女性のかわいらしさを、チャップリンは人間の悲哀を感じさせらる話だった。とても魅力的な人間だった。ぼくもほかの読み物や自伝や映画で知ってるけど。モームは直接会っての、逸話だからね。そら違うわ。ぼくの『詩の日めくり』にもたくさんの人たちが登場するけれど、ローランサンとかチャップリンとかいった一般のひとびとも知ってるような有名なひとはいないなあ。ほとんどのひとが、無名のふつうの友だちか知り合い。

雨の日は、通勤に単行本を持って行くのは危険なので、文庫本を持って行ってるんだけど、これから雨の日がぼちぼちくるだろうから、用心のために、単行本は部屋で読むことにしよう。あしたから通勤には、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を持って行こう。トールサイズで読みやすいかな。

きょうは塾がないので、読書三昧。ジャック・ヴァンスの短篇集を読もう。読みにくくてしょうがないんだけど、ヴァンスって、こんな読みにくい作家だったかな? アン・レッキーとか、めちゃくちゃ読みやすかったのだけれど。さっき amazon で、自分の詩集の売り上げ順位を見たら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』が売れてた。いったい何冊売れてるのかは、思潮社さんからは教えてもらっていないのだけれど、売り上げ順位が変わっているから、きのうか、きょうくらいにまた売れたと思うのだけれど、自分の詩集が売れると、うれしい。

『愛はさだめ、さだめは死』は再読。ふつうサイズの文庫本を持っていて、本棚のどこかにあったかなって思って、このあいだ探してなかったので、amazon で新たに購入したもの。収録されている物語は一つも記憶がない。まあ、そのほうがお得な気はするかな、笑。

メールボックスを開けると、海東セラさんから、個人誌『ピエ』16号が入っていた。拙詩集をごらんくださったとのお便りもうれしく、お人柄がしのばれる手書きの文字に魅入っていた。詩は、海東セラさんの散文詩、これは、イタリアに旅行したディラン・トマスをぼくは思い起こしたのだけれど、ほかには岩城誠一郎さんの詩と、支倉隆子さんの詩と、笠井嗣夫さんが翻訳されたディラン・トマスの散文が掲載されていて、個性のまったく異なる方たちの作品が、本田征爾さんという画家の方が描かれた表紙や挿絵に挟まれて、よい呼吸をしているように思えた。きれいな詩誌を送っていただけて、こころがなごんだ。海東セラさん、北海道にお住みなんだね。遠い。ぼくは、いちばん北で行ったことがあるのは、山梨県だったかな。大学院生のときに学会があって、行ったのだけれど、夜に葡萄酒をしこたま飲んだ記憶しかないかな。海東セラさんの「仮寓」という詩に書かれた「道が違えば」という言葉に目がとまる。目だけがとまるわけじゃない。ぼくのなかのいろいろなものがとまって、動き出すのだ。詩を読んでいると、目がとまって、いろいろなものが動き出すのだ。けっきょく、詩を読むというのは、自分を読むということなんだろうな。いや、いろいろなことが、ぼくの目をとまらせるけれど、その都度、ぼくのなかのいくつものものがとまって、動き出すんだな。そのいろいろなことが、ひとであったり、状況であったり、詩であったり、映画であったりしてね。

ジャック・ヴァンスの短篇、ようやく冒頭のもの読めた。なんだかなあ。古いわ。まあ、古い順に収録されている短篇集らしいのだけれど。書き込み具合は、ヴァンスらしく、実景のごとく異星の風景を見事に描き出してはいたものの、古いわ〜。まあ、レトロものを楽しむ感覚で読みすすめていけばいいかな。

すごい雨音。神さまの、おしっこ散らかしぶりが半端やない。

ジャック・ヴァンス短篇集『奇跡なす者たち』誤訳 「ときには顔を地べたすれすれに顔を近づけ」(『無因果世界』浅倉久志訳、131ページ3行目) 「顔を」は、1回でいいはず。浅倉さん、好きな翻訳家だったのだけれど、2010年に亡くなってて、このミスは、出版社おかかえの校正家のミスだな。


二〇一六年五月十七日 「半額になった焼きジャケ弁当216円」


ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』 悪くはなかったが、古い。バチガルピの『ねじまき少女』や、ミエヴィルの『クラーケン』とか、R・C・ウィルスンの『時間封鎖』三部作や、レッキーのラドチ戦史シリーズなどを読んだ目から見ると、決定的に古い。まあ、雰囲気は悪くなかったのだけど。

あしたから、通勤で読むのは、R・A・ラファティの『第四の館』にしようかな。 これは長篇なのかな。おもしろいだろうか。

これから塾に。そのまえに、王将で、みそラーメン食べよう。

塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった焼きジャケ弁当216円を買って、部屋で食べる。塾の生徒さんの修学旅行のおみやげのむらさきいもスイーツを2個食べる。満腹である。寝るまえの読書は、ひさびさのラファティの『第四の館』。ラファティの本は1冊も捨ててないと思うけど、どだろ。


二〇一六年五月十八日 「昭夫ちゃんか。」


ラファティ、ちょこっとだけ読んだ。わけわからずだった。

これから晩ご飯。ご飯たべたら、頭の毛を刈って、お風呂に入る。

これから塾へ。帰りは日知庵に。

いま日知庵から帰った。寝る。

昭夫ちゃんか。


二〇一六年五月十九日 「人間がいるところには、愛がある。」


満場はふたたび拍手に包まれた。人びとがこのように拍手を惜しまなかったのは、モーリスが卓越していたからではなく、ごく平均的生徒だったからである。彼を讃えることは、すなわち自分たちを讃えることにほかならなかった。
  (E・M・フォースター『モーリス』第一部・4、片岡しのぶ訳)

 ひとをあっといわせるような効果はどれも敵をつくるものだ。人気者になるには凡庸の徒でなくてはならない。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十七章、西村孝次訳)

ことさらに、だからってことはないのだけれど
ぼくの作品を否定するひとがいても、
それはいいことだと、ぼくは思っているのね。
それに、案外と、感情的な表現をするひとほど
根がやさしかったりするものだからね。

ぼくはクリスチャンじゃないけれど、
すべてを見ている存在があって、ぼくのいまも過去も
そして未来も見られていると思うのね。

ぼくは、ジョン・レノンのことが大好きだけど
ジョンが、愛について、つぎのように、堂々と言っていたからだ。

愛こそがすべてだと。

たしかに、そうだと、ぼくも思う。
そうして、愛のあるところには、人間がおり
人間がいるところには、愛がある、と。


二〇一六年五月二十日 「とても気もちがよかったのだけれど。」


けさ、5時くらいにおきて
また二度寝していたのだけれど
そしたら
ぼくの部屋じゃないところにぼくが寝ていて
布団は同じみたいなんだけど
部屋の大きさも同じなんだけど
そしたら
ぼくの身体の下から
ゆっくりと這い上がってくる人間のようなものがいて
重さも細い人の重さがあって
ああ、これはやばいなあって思っていると
その人間のようなものが
ぼくの耳に息を吹きかけて
それを、ぼくは気もちいいと思ってしまって
これは夢だから、どこまでこの実感がつづくかみてみようと思っていると
ぼくの右の耳たぶを舌のようなぬれたあたたかいもので舐め出したので
ええっ
っと思っていたんだけど
ものすごくじょうずに舐めてくるから
どこまで〜
と思って目を開けたら
人影がなかったのね
でも、ぼくの上にはまだ重たい感じがつづいているから
立ち上がろうとしてみたら
立ち上がれなくって
明かりをつけようとしたら
手のなかでリモコンが
その電池のふたがあいて、電池が飛び出して、ばらけてしまって
でも、めっちゃ怖くなってたから
重たい身体を跳ね上げて
立ち上がって
明かりをつけられなかったので
カーテンを開けようとしたら
カーテンが、針金で縫い付けてあったの。

わ〜
って声をだして
カーテンをその縫い目から引き千切って
左右に開けたの。
手には、布の感触と、針金の結びつづけようとする強い力の抵抗もあった。

ようやく開けたら
部屋のなかで、なにものかが動く気配がして振り返ったら
玄関が開いていたの。
見たこともない玄関だった。
えっ
と思うと
その瞬間
ぼくは自分の部屋の布団のなかにいたのね。
ひと月くらい前にも、こんなことあったかな。
日記に書いたかもしれない。
でも、きょうのは
15年くらい前に見たドッペルゲンガーぐらいしっかりした実体だったので
また少し頭がおかしくなっているのかもしれない。
15年前は
自分の年齢もわからず
自分の魂が、自分の身体から離れていることもしばしばあったので
今回も、そうなる予兆の可能性はある。


二〇一六年五月二十一日 「第四の館」


ラファティの『第四の館』半分くらい読めた。会話がほとんどキチガイ系なので、なんの話かよくわからないが、随所にメモすべき言葉があって、そのメモは貴重かな。物語はめちゃくちゃ。このあいだ出たラファティの文庫『昔には帰れない』の表紙はよかったなあ。飾ろうかな。

シャワーを浴びた。これから河原町に。日知庵に行く。夜の街の景色が好きだ。

いま帰った。きょうは「日知庵→きみや→日知庵」の梯子。帰りに、セブイレでカップヌードル買った。食べて、寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年五月二十二日 「茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について」


きのう、日知庵からの帰り、阪急電車に乗ってたら、ヒロくんに似てる男の子がいて、うわ〜、ヒロくんといまでも付き合ってたら、どんなおっちゃんになってるんやろうと思った。その男の子は二十歳くらいで、ぼくがヒロくんと合ってたとき、たぶん、ヒロくんは21歳くらいやったと思う。みんな、思い出の話だ。

アレアのファーストをかけながら、ラファティの『第四の館』を読んでいる。あと60ページほどだが、さっぱり内容がわからない。

FBフレンドの方のアップされたホットケーキのうえにのっかった茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について、だれかと話し合いたい。


二〇一六年五月二十三日 「ヴァニラ・セックス」


ヴァニラ・セックス
裸で抱き合うこと
甘いこと

ヴァニラ・セっクスに、張形は使わんな、笑。
「張形」
ダンの詩に出てきた言葉だけれど
まあ、ゲイ用語で言うと、ディルドっていうのかな
チンポコの形したやつね
いまのはシリコン製なのかな
シリコン製だと硬くて痛いと思うんだけど
そうでもないのかな
ゴムみたいにやわらかいのもあるけれど
それはシリコン製じゃなかったかも。
ぼくは、こんどの詩集で、ピンクローターって出したけど
ダンの詩句も、そうとうエッチで、面白かった。
このあいだ、シェイクスピアを読みなおしたら
チンポコを穴ぼこに突き入れるみたいなことが書いてあって
17世紀の偉大な詩人たちの作品ってけっこう、いってたのねって思った。
すごい性描写も、偉大な詩人が書くと、おおらかで
とっても淫らで気持ちいいくらい大胆な感じ。
きのう書いた
弧を描いて飛ぶ猿の千切れた手足のことを思い浮かべていたら
公園のベンチに座ってね
そしたら、梅田の地下の
噴水で
水の柱が
ジュポッ ジュポッ
って、斜めに射出される
まるで
海面を跳ね飛ぶイルカのように
あれって
さかってるのかしら

その
海面を斜めに跳ね飛ぶイルカのように
水の柱が
ジュポッ ジュポッ
って射出されるんだけど
これって
またタカヒロのことを
ぼくに思い出せたんだよね
これは、自転車に乗って公園から帰る途中
コンビニの前を通ったときに
向かい側にはスタバがあって
何組ものカップルたちが
道路の席に座っていた
斜めに射出される水の柱が
弧を描いて跳ね飛ぶイルカの姿が
タカヒロの射精のことを
ぼくに思い出させた
タカヒロのめちゃくちゃ飛ぶ精液のことを思い出しちゃった。
彼の精液って、彼の頭を飛び越えちゃうんだよね。
もちろん、仰向きでイクときだけど。
このタカヒロって、「高野川」のときのタカヒロじゃなくって
彼女がいて
34歳で
むかし野球やってて
いまでも休みの日には
野球やってて
彼女とは付き合って5年で
結婚してもいいかなって思っていて
でも、男のぼくでもいいって言ってたタカヒロなんだけど
彼の出す量ってハンパじゃなくて
はじめてオーラル・セックスしたとき
口のなかで出されちゃったんだけど
飲むつもりなんてなかったんだけど
そのものすっごい量にむせちゃって
しかも、鼻の奥っていうか
なかにまであふれちゃって
涙が出ちゃった。

ぼくが付き合った子って
おなじ名前の子が何組かいて
詩を書くとき
異なる人物の現実を
ひとつにして描写することがよくあって
ぼくにしか、それってわからないから
読み手には
きっと
ふたりじゃなくて
ひとりの人間になってるんやろうね
ひとりの人間として現われてるんやろうね
まあ
自分でも
まじっちゃうことがあって
記憶のミックスがあって
ふと思い出して
違う違う
なんて思うことあるけど、笑。
五条堀川のブックオフにも立ち寄って

公園を出てすぐにね
帰るとき
村上春樹訳の
キャッチャー・イン・ザ・ライ
があって
105円だったから買おうかなって思ったんだけど
むかし読んだのは野崎さんの訳やったかな

パッとページを開くと
「まだ時刻がこなかった。」
みたいな表現があって
「時刻」やなくて
「時間」やろうって思った。
あらい訳や。
センスないわ。
やっつけ仕事かいな。
たんなる金儲けやね。

買わんと
出た。


二〇一六年五月二十四日 「すべての種類のイエス」


寝るまえの読書は、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』 冒頭の作品「すべての種類のイエス」を断続的に昼から読んでいるのだが、初期のティプトリーはあまり深刻ではなかったのかもしれないと、ふと思った。違ってたりして。


二〇一六年五月二十五日 「It's raining.  雨が降っている。」


東寺のブックオフに置いてあったのだけれど
ナン、俺は
が入ってるかどうか、帰ってきてからお酒を飲みながら
パソコンで調べてたら
ナン、俺は
が入っていることがわかり
またまた東寺のブックオフまで
自転車でサラサラっと行ってきました
ナン、俺は
が、やっぱりいい
帰りに聴きながら
京大のエイジくんのことを思い出してた
雪つぶて
雪の夜の
夜中に
アパートの下で
雪を丸めて
たったふたりきりの雪合戦
「俺のこと
 たなやんには、そんなふうに見えてるんや」
俳人の木歩の写真を見せて
エイジくんに似てるなあ
って言ったときのこと
関東大震災の
火の
なかを
獅子が吠え
いっせいに丘が傾いたとき
預言者のダニエルは
まっすぐに
ぼくの顔を見据えながら歩いてきた
燃える火のなかで
木歩を背負ったエイジくんは
すすけた顔から汗をしたたらせながら
ぼくの前から姿を消す
預言者のダニエルは
燃える絵のなかで
四つの獣の首をつけた
回転する車の絵とともに姿を消す
雪つぶて
ディス・アグリー・ファイス
酔っぱらった
ぼくには
音楽しか聞こえない
「俺のこと
 たなやんには、そんなふうに見えてるんや」
雪つぶて
ふたりきりの雪合戦
燃える火のなかを
預言者ダニエルが
ぼくの顔を見据えながら歩いてきた
エイジくんの姿も
木歩の写真も
消え
明かりを消した部屋で
音楽だけが鳴っている


二〇一六年五月二十六日 「ミスドで、コーヒーを飲んでいた。」


さいきん、体重が減って
腰の痛いのがなくなってきた。
もう一個ぐらいドーナッツ食べても大乗仏教かな。
カウンター席の隅に坐っていた女の子の姿がすうっと消える。
ぼくの読んでいた本もなくなっていた。
テーブルの下にも
どこにも落ちていなかった。
ぼくはコーヒーの乾いた跡を見つめた。
口のかたちのコーヒーの跡も、ぼくのことを見つめていた。
ひび割れ。
血まみれの鳩の死骸。


二〇一六年五月二十七日 「巨大なサランラップ」


巨大なサランラップでビルをくるんでいく男。なかのひとびとが呼吸できなくなって苦しむ。ぼくはなかにいて、そのサランラップが破れないものであることをひとひとに言う。ぼくも苦しんでいるのだが、そのサランラップは、ぼくがつくったものだと説明する。へんな夢みた。

ここだけが神のゾーン。エレベーター。

隣の部屋のひと、コナンだとか、2時間ドラマばかり見てる音がする。バカなのかしら?

ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』をまだ読んでいるのだけれど、SFというよりは、散文詩の長いものって感じがする。SF的アイデアはたいしたことがなくて、叙述が評価されたのだろう。いま読むと、最新の作家たちの傑作と比べて申し訳ないが、古い感じは否めない。でも、まあ、これ読みながら寝ようっと。

二〇一六年五月二十八日 「いつもの通り」


ひとりぼっちの夜。



二〇一六年五月二十九日 「一日中」


ずっと寝てた。


二〇一六年五月三十日 「カレーライス」


ティプトリーの初期の作品は、SFというよりは、散文詩かな。「接続された女」もSFだけど、なんだかSFっぽくない感じがする。これは、「男たちの知らない女」を読んでいて、ふと思ったのだけれど、ヴォネガット的というか、SFは叙述のためのダシに使われてるだけなのかなって。どだろ。

まだ、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を読んでいるのだけれど、「男たちの知らない女」の途中のだけれど、叙述がすばらしい。いつか、ぼくの書いたものも、だれかに、「叙述がすばらしい」と思われたい。まあ、叙述など、どうでもいいのだけれど。

きょう、塾で小学校の6年生の国語のテキストを開いて読んでみた。冒頭に、重松清の『カレーライス』という作品が載っていて、読んだけど、中学生が作った作文程度の文章なのだった。びっくりした。たしか、なんかの賞を獲ってたような気がするのだけれど、ますます日本文学を読む気が失せたのであった。

ティプトリーの『愛はさだめ、さだめは死』誤植 318ページ3行目「昨夜の機械は」(『男たちの知らない女』伊藤典夫訳)


二〇一六年五月三十一日 「発語できない記号」


たいていの基本文献は持っているのだが、どの本棚にあるのかわからないし、文庫の表紙も新しくなっていて、きれいだったので買った。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(福田恒存訳)108円。「すべて芸術はまったく無用である。」 これ、ぼくのつぎのつぎの思潮社オンデマンド詩集に使おう。

ようやく、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』の再読が終わった。『全行引用詩・五部作・上巻』で引用していたところに出合って、なつかしい気がした。塾に行くまでに、ルーズリーフ作業をしよう。きょうの夜から、ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を再読するつもりだ。

お風呂から上がった。これから塾だ。ミンちゃんにもらった香水、つけていこう。匂いがさわやかだと、気分もさわやかだ。

存在しない数(定義されない数)として、ゼロのゼロ乗が勇舞だけれど、存在しない言葉というものを書き表すことができるのであろうか。数学は究極の言語学だと思うのだが、そういえば、ディラン・トマスの詩で、ネイティブの英語学者でも、その単語の品詞が、動詞か形容詞かわからないものがあるという話を読んだことがあるのだが、そんなものは動詞でもあり、形容詞でもあるとすればいいんじゃないのって思うけどね。詩人は文法なんて無視してよいのだし、というか、万人が文法など無視してよいのだし。

ガウス記号を用いた [-2.65] をどう発語したらよいのかわからず、困った。しかし、数学記号を用いた表記には発語できないものも少なくなく、数学教師として、少々難儀をしている。たとえば、集合で用いる { } のなかの、要素と要素の説明の間の棒ね。あれも発語できない記号なんだよね。

きょうはホイットマンの誕生日だったか。アメリカの詩人で好きな詩人の名前を5人あげろと言われたら、ぜったい入れる。いちばんは、ジェイムズ・メリルかな。にばんは、エズラ・パウンドかな。さんばんに、ホイットマンで、よんばん、W・C・ウィリアムズで、ごばんは、ウォレス・スティヴンズかな。ああ、でも、エミリー・ディキンスンもいいし、ロバート・フロストもいいし、エイミー・ローエルもいいし、ぼくが数年まえに訳したアメリカのLGBTIQの詩人たちの詩もいい。そいえば、きょう読んだティプトリーの本に、ロビンソン・ジェファーズの名前が出てた。

レコーダーは、ロビンスン・ジェファーズの詩を低く吟じている。「"人間の愛という穏健きわまりないものの中に身をおくこと……"」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『最後の午後に』浅倉久志訳、短篇集『愛はさだめ、さだめは死』415ぺージ、6─7行目)

めっちゃ好きで、英語でも全集を持ってるエドガー・アラン・ポオを忘れてた。というか、ぼくの携帯までもが、そのアドレスがポオの名前を入れたものだった。(なのに、なぜ忘れる? 笑) ぼくも山羊座で、むかしポオに似ているような気がずっとしていたのだけれど。

ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!