湖西道路を京都から湖北に向って車を走らせた。近江舞子には海水浴場がある。ぼくらはザ・グラン・リゾート近江舞子という会員制リゾートクラブのホテルに来ていた。ヘンドリックとぼくはロビーにどっかり座り、8時に朝食を食べて出てきたばかりで、まだ朝の10時過ぎだというのに、もう腹が減ったなどといって中華丼を頼んで食べていたのだ。麻衣子は呆れてぼくらを見ていたが、彼女はホットコーヒーを頼んだ。
ロビーから海水浴場が見え、平日だが夏休みの子供たちを連れた家族が散見できた。8月に入ったばかりなのに、もう秋を思わせる鱗雲が快晴の真っ青な空を覆っていた。ヘンドリックがオークラという会員制リゾートクラブを経営する会社と会員契約を結んだのは去年のことだ、麻衣子とぼくはヤケに羽振りのよくなったヘンドリックを少し怪しみもしたが、女の子にちょっかいを出して痛い目に合うことがあっても、会社の金に手をつけるなど、お巡りさんのやっかいになるようなことはだけはしないと信じていたのだ。
明日はぼくらも仕事だし、今日はホテルももう満席だ。宿泊はしないが、ヘンドリックは部屋を見たいとレセプションの従業員の女の子に声を掛けた。3階に特別な部屋があり、MJのアルファベットで始まる会員番号の客だけが泊まれる特別な部屋がある。ホテルの女の子は最初はやや訝しげな様子でぼくたちを見ていたが、ヘンドリックの陽気なキャラクターに開放されたのか、訊いてもいない場所まで案内してくれた。ぼくと麻衣子とヘンドリックが一緒に暮らし始めて3年目になる。時間が合えばぼくらはあちこち出掛けた。
草津市立水生植物公園みずの森、近江舞子から161号線を南へ下って近江大橋を渡る。ヘンドリックは車を運転できないのでぼくか麻衣子が運転する。カーナビは一応ついているが古いタイプなので地図上に表記されない場所がある。そんな時。最近スマホを買って操作を憶えたヘンドリックが助手席から、覚束ない指先でスマホを弄りながらなが、烏丸半島前の信号を右、右だよ!何してんだよ!おまえ!だいたい、運転できないくせに、偉そうに言うな!歩いて帰るよ降ろしてくれ!お前の運転なんか危なくて命がいくつあっても足りないんだよ、ボケェ
ヘンドリックは我儘だ。
だが麻衣子とぼくが世間から彼を匿いながら暮らすことにはとても大きな意味があった。ヘンドリックには2つ違いの妹がおり、O病院に入院している。O病院とはN市のサナトリウムに隣接する国指定の難病患者ばかり集めた病院だ。ぼくらは週に1度彼女の見舞いに行くが、他の患者に見舞いの客人が訪れることはまずない。彼らは皆、国からも、家族からも見放された人々だ。そしてヘンドリックも本来ならばO病院に入院し、あるいは隔離されるべき難病患者のひとりであるのだ。
釣りがしたいというヘンドリック。その日ぼくらは湖岸緑地へ車を滑り込ませ、ベイトリールを藻ばかりが深い琵琶湖に遠投するヘンドリックを日が暮れるまで飽かずに見守ったのだ。
選出作品
作品 - 20140806_566_7589p
- [佳] 近江舞子 草津 N市のO病院とヘンドリック - 織田和彦 (2014-08)
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近江舞子 草津 N市のO病院とヘンドリック
織田和彦