例の男が置いていった一億円のトランクを
開けっ放しにしたまま、ぼくは連絡橋にじっ
と立っていた。足のすぐ下を車が過ぎていく。
男のおかげで、ぼくは確かに一億円を手に入
れはした。だがその日を境に、ぼくは奇妙な
病を発症した。ぼくは自分のうちにとある不
自由を抱えるようになった。それは数に関す
るもので、一介の数学者としては全く恥ずか
しいので、誰にも知られないように、ここで
その病ごと、さっさと始末するつもりでいた。
だが、その場所に連絡橋を選んだのは、明ら
かに間違いだった。車がいくつも通り過ぎて
いくのを見ると、それを数えずにはいられな
くなってしまったのだ。
一つ目を数えるのは上手くいく。でも、も
う一つ目の、その次の数を思い出すことがで
きない。その次の次の数は分かる。十一を超
えたら、またあの十の次の数がやってくると
思うと、もうそれだけで頭がいっぱいになっ
てしまう。それで、結局いくつなのか分から
ないまま一に戻り、またもう一度数え直して
は一に戻る、その繰り返し。一の次にある、
あの一と一を組み合わせた、あの数、一の隣
にある、一の次にあるやつ、ああなんて言え
ばいいんだ、とにかくあれだ、あの数! そ
れが出てこないのだ。
気がつくと、もう何時間も経ってしまって
いた。だが時計を見た訳ではない。時計はも
う何も教えてはくれない。日が暮れ掛けてい
るので、そのことが分かるというだけだ。も
う、ぼくの頭には何もない。このトランクみ
たいに、数に関する知識はぎっしり詰まって
いるが、いざ何かを数えようとしてしまうと、
全く言いようのない違和感が起こってくるの
だ。じゃあ、この話はここで終わりだ。ぼく
はここから飛び降りて、この絶望感を解決し
てやらねば。ぼくは欄干を乗り越える。ぼく
は世界を乗り越える。ぼくの足が、一瞬、宙
に浮いた、と思う間もなく、真っ逆さまにな
る。加速する。その途端、身体の感覚がなく
なる。重さが、すっと消えて、かわりにぼく
のいた場所には、何かの手品みたいに、紙幣
がひらひらと舞っている。ぼくはこの世界か
ら、消え去った。
今、ぼくは紙幣の一つ一つに描かれた、夏
目漱石の瞳の奥にいる。不思議なことに、こ
うした論理的に不可能な表現のほうが、この
状況を言い表すのに適している。というのも、
それは、閉ざされたまま、もうどこにも行け
ないということを意味しているからだ。漱石
の瞳が放つ鄙びた光の中に、自分がいる。こ
の世界から出せ、出せ! と叫ぶが、それを
見ているのもまた、自分のようだ。ぼくが紙
幣になったのか、あるいは漱石の瞳の中に住
んでいるのか。ぼくは瞳の中にいる自分を見、
その自分の瞳の中にいる自分、さらにその自
分の瞳の中に、……と永遠に続いているから、
何時まで経っても、「ぼく」を辿ることしか
できない。全くうんざりする。……ああ、ま
ただ。また「ぼく」がここに何人いるのかを、
数えたくなってしまった。
ふと、誰かがぼくの身体に触れて、我に返
った。ぼくは自分の背丈ほどの高さしかない
小さな直方体の中にいた。四方の壁が、全く
紙幣そのものの絵をしている。そして夏目漱
石の顔が描かれるべき場所に、ぼくの顔があ
る。壁のその部分が鏡になっているのだ。い
わばぼくは無限に続く紙幣の狭い部屋の中に
いた。ぼくの姿が映った後ろにもぼくの姿を
映す鏡がある。夏目漱石の顔が、ぼくの向こ
うにずっと続いているように、見えなくもな
い。そういえば、ぼくは夏目漱石そっくりの
顔をしていると、友人たちによく言われたも
のだった。いったいここには何人の夏目漱石
がいるのだろう。ぼくはたまらず数え始める
が、またあれだ。あれが出てこない。数の悪
魔に取り憑かれているとしか言いようがない。
一の次の数が出てこないのに、その次の数を
思い出そうと脳が勝手に働き出して、もう頭
が割れそうだ。そこで意識が途切れる。
今、ぼくの意識は、もとの世界にぼんやり
と漂っている。ぼくの身体は紙幣になり、世
界に散らばった。散らばった身体の部分が、
それぞれの紙幣が、誰かに拾われている。麗
しい指先の女性の手、ニスの匂いのするゴム
手袋、古めかしい革手袋もあれば、あるいは
浮浪者らしい湿った掌もある。拾った人々は
みな一様に、透かしの向こう側に黄金がある
と信じているらしい。ぼくには奴らの考えて
いることが、受け取られたものの手を通して
伝わってくるのだ。黄金を得るための暗号は、
この旧い千円札の漱石の瞳の部分に穴を開け、
穴を通してその向こうにある夕焼けを望むこ
と。
ついに、紙幣を手にした人たちのあらゆる
手によって、それが執行される。コンパスや
画鋲で穴を開けるものもいれば、あるいは単
なる指先、爪の先で引っ掻くようなものも、
みなすべて、紙幣の漱石の瞳を貫く。そのと
きぼくは、眼球に焼けつくような痛みを感じ
る。ぼくは叫ぶが、声にならない。叫びを上
げるための喉がないのだ。目を押さえようと
するが、眼球も目蓋もない。押さえるための
手もない。ぼくは透明でどこにも姿をもって
いない。痛みだけが空中を漂っている。ぼく
は血を流す。だが血しずくは見えない。その
血は透明で、陽の目に混ざり合い金色に輝く。
晩照に染まる西の海が、ぼくの全ての血潮だ。
そしてぼくの瞳は太陽なのだ。
人々に光を分け与えよう。肉体のすべてと
引換に、差し上げよう、ぼくを犠牲にした黄
金の錬金術。ぼくの身体から数字が溢れ出し、
世界の経済を破壊するのだ。彼らは黄金を手
に入れる。彼らは地上のありとあらゆる富を
享受する。自分を大富豪と信じている人々の
嬉々とした顔。翌日、ハイパーインフレーシ
ョンの号外と共に、その顔は土気色に変わる
ことだろう。あの夕潮はぼくの流した血の大
河、その流れは水平線の彼方で途切れている。
そのぎらぎらした照射の下、穴の開いた無数
の紙幣が水面に浮かんでいる。
選出作品
作品 - 20130226_111_6725p
- [佳] 数の病 - はかいし (2013-02)
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