ホールの照明を消し、コック服をスーツに着がえ、厨房に戻る。ショットグラスにウイスキーを注ぎ、一息にあおる。調理台に椅子を引き寄せ座り、一度締めたネクタイをゆるめ、調理台に片肘をつき脚を組む。二杯目は唇を湿らすように啜る。胃が熱い。塩の効いた生ハムを噛む。こうして孤独を周到にととのえる。閉店後のこの男の習慣である。
手入れの行き届いた頭髪と靴。よく似た黒い艶。
白色タイルの壁に囲まれた密室に視線をめぐらしていく。首が遅れてついていく。
ダクトのファンが回っていないので空気が動かない。
冷凍冷蔵庫のモーターがクンッと止まって、いまさら、ノイズに気づく。
庫内の闇で動植物の細胞が静かに死につつある。
荒涼とした地平が望まれる。
調理台、二槽シンク、オーブンレンジ、ズンドウ、ボール、フライパン、レードル、バット、等々。
つねに摩擦を浴びている金属の柔和な輝き。
油の染み、水滴、一点もない。
日々、男は磨いた。
耳を澄ましてみる。沈黙は金属の本領だが、ひじょうに遠い闇の場所でかすかに軋む気配がある。
料理のようなもの、顔のようなもの、女のようなもの、ぶよぶよしたものがきゅうに厭になる。
壁、什器、備品の光りが増していく。それ自体発光し、瞬く。
用途が失せる。反乱を感じる。
首が動かない。
何も考えない。
ということは男によって疑われているが。
赤銅色に鈍く光っている男の顔。幾つかの穴と中央の突起。用途が失せる。
金属、道具、首の宴。あるいは男の喪。
首の内部の砂の飽和と消失。
時間は刻まれているか。
すべては疑われているか。
鳥葬が望まれる。
地平の果て。
ショットグラスが指をすり抜ける。
ランチタイムの白ワイシャツの群れがよぎる。プラットホームの雑踏とキオスクにならぶスポーツ新聞の赤い見出しとオーダーをとおすウエィトレスの思わせぶりな目つきがよぎる。今日一日のカケラが擦り切れた昔になる。男が立ち上がる。これから階段を昇り深夜の舗路に佇み、生臭い夜気を肺いっぱいに吸いこむだろう。人影絶えたビルとビルの狭間を足早に立ち去るだろう。普段のことだが。
選出作品
作品 - 20111130_033_5726p
- [優] 厨房 - 鈴屋 (2011-11)
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厨房
鈴屋