選出作品

作品 - 20110701_155_5316p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


THE SANDWITCHES’S GARDEN。

  田中宏輔




MELBA TOAST & TURTLE SOUP。
  カリカリ・トーストと海亀のスープの物語。



二年くらい前、ある詩人に、萩原朔太郎は好きですか、と尋ねられた。嫌な質問だった。というのも、
この手の質問では、たいていの場合、好きか、嫌いか、といった二者択一的な返答が期待されており、
それが、詩人の好悪の念と同じものであるか、ないかで、その後の会話がスムーズなものになったり、
ならなかったりするからである。しかも、彼は用心深く警戒し、先に自分の好き嫌いは言わないので
ある。好きではないですけど、別に嫌いでもありません。ぼくの返事を聞くと、詩人は顔をしかめた。


しきりに電話が鳴っていた。
                        (コルターサル『石蹴り遊び』28、土岐恒二訳)
まだうとうととしながらも
                 (プルースト『失われた時を求めて』囚われの女、鈴木道彦訳)
わたしは受話器をとりあげた。
                (ボルヘス『伝奇集』第I部・八岐の園・八岐の園、篠田一士訳)

自分の気持ちを正直に口にしただけなのに、詩人は不機嫌そうな顔をして黙ってしまった。唐突にさ
れた質問だったので、つい、正直に答えてしまったのだ。そこで、気まずい雰囲気を振り払うため、
ぼくの方から、でも、亀の詩は好きですよ、と言った。すると、彼は、人を疑うような目つきをして、
そんな詩がありましたか、と訊いてきた。ぼくは、ほら、あのひっくり返った姿で、四肢を突き出し、
ずぶずぶと水底に沈んでゆく、あの亀の詩ですよ、と言った。詩人はさらに眉根を寄せて首を傾げた。


ん?  
                  (タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳)
電話の声は  
          (ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』フェイディング、三好郁朗訳)
聞き覚えのある声だった。  
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)

あとで調べてみると、朔太郎の「亀」という詩には、「この光る、/寂しき自然のいたみにたへ、/
ひとの心霊にまさぐりしづむ、/亀は蒼天のふかみにしづむ。」とあるだけで、逆さまになってずぶ
ずぶと水底に沈んでいく亀のヴィジョンは、ぼくが勝手に拵えたイマージュであることがわかった。
そういえば、大映の「ガメラ」シリーズで、バイラスという、イカの化け物のような怪獣に腹をえぐ
られたガメラが、仰向けになって空中を落下していくシーンがあった。その映画の影響かもしれない。


もしもし?  
                       (プイグ『赤い唇』第二部・第十回、野谷文昭訳)
空耳だったのかしら、  
                 (サリンジャー『フラニーとゾーイー』ゾーイー、野崎 孝訳)
ぼくはあたりを見まわした。   
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)

ひと月ほど前のことだ。俳句を勉強するために、小学館の昭和文学全集35のページを繰っていると、
石川桂郎の「裏がへる亀思ふべし鳴けるなり」という句に目がとまった。裏返しになった亀が、悲鳴
を上げながら、突き出した四肢をばたばたさせてもがいている姿に、強烈な印象を受けた。そして、
海にまで辿り着くことができなかった海亀の子が、ひっくり返った姿のまま、干からびて死んでいく
という、より「陽の埋葬」的なイメージを連想した。熱砂の上で目を見開きながら死んでいくのだ。


壁に   
                     (トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)
絵が一枚かけてあった。  
                         (ヘッセ『デーミアン』第七章、吉田正巳訳)
死んだ父の肖像だった。   
                                   (原 民喜『夢の器』)

ここひと月ばかり、様々な俳人たちの句に目を通していったが、読むうちに、俳句の面白さに魅せら
れ、勉強という感じがしなくなっていった。とりわけ、村上鬼城、西東三鬼、三橋鷹女、渡辺白泉な
どの作品に大いに刺激された。鬼城の「何も彼も聞知つてゐる海鼠かな」という句ひとつにしても、
それを知ることで、ぼくの感性はかなり変化したはずである。穏やかな海の底にいる、一匹の海鼠が、
海の上を吹き荒れる嵐に耳を澄ましているというのだ。この静と動のコントラストは、実に凄まじい。


亡霊は生き返らない。  
                                   (イザヤ書二六・一四)
パパは死んじゃったんだ。ぼくのお父さんは死んでしまったんだ。
                   (ジョイス『ユリシーズ』10・さまよえる岩、高松雄一訳)
どこか別の世界にいるのだった。
                     (ル・クレジオ『リュラビー』豊崎光一・佐藤領時訳)

河出書房新社の現代俳句集成・第四巻で、鬼城を読んでいると、「亀鳴くと嘘をつきたる俳人よ」と
「だまされて泥亀きゝに泊りけり」の二句を偶然、目にした。次の日に、新潮社の日本詩人全集30を
めくっていると、これまた富田木歩の「亀なくとたばかりならぬ月夜かな」という、亀が鳴かないこ
とを前提として詠まれたものを見かけた。桂郎の句では、亀は鳴くものとして扱われていたが、別に、
亀が鳴くことには疑問を持たなかった。これまで、亀の鳴き声など耳にしたことはなかったけれど。


絵の
                       (ウィーダ『フランダースの犬』3、村岡花子訳)
唇が動く。
                          (サルトル『嘔吐』白井浩司訳、句点加筆)
父はわたしにたずねた。
                  (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』4、父の死、清水三郎治訳)

このように、亀が鳴くことを否定する句をつづけて目にすると、逆に、亀が鳴くことを前提とした句
が、数多く詠まれているのではないか、と思われてきた。そこで、歳時記にあたって調べることにし
た。角川の図説・俳句大歳時記・春の巻を見ると、「亀鳴く」が季語として掲げられていた。そこに
は、亀が鳴くものとして詠まれた句が、十あまりも載っていたが、前掲の木歩のものとともに、亀が
鳴かないものとして詠まれた、「亀鳴くと華人信じてうたがはず」という、青木麦斗の句もあった。


またかい。
                              (堀 辰雄『ルウベンスの偽画』)
同じ文句の繰り返しだ。
                          (セリーヌ『なしくずしの死』滝田文彦訳)
そこにはオウムがいるのかしら。
                (ヘッセ『クリングゾル最後の夏』カレーノの一日、登張正実訳)

講談社の作句歳時記を見ると、「カメには声帯、鳴管、声嚢もないので、鳴くわけはなく、俗説に基
づくものであるとされているが、かすかにピーピーと声を出すことはあるらしい」とあり、前掲の角
川の歳時記にも、「いじめるとシューシューという声を出すという」とあるが、「しかし、これらが
鳴き声といえるほどのものかどうかは疑わしい」ともあって、亀が鳴くとは断定していない。また、
教養文庫の写真・俳句歳時記には、「実際に鳴くわけではないが、春の季題として空想する」とある。


しかし、
        (ドストエーフスキー『カラマーゾフの兄弟』第一巻・第三篇・第三、米川正夫訳)
あのハンカチは一体どこでなくしたのかしら、
                  (シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第四場、菅 泰男訳)
色は海の青色で
                           (梶井基次郎『城のある町にて』昼と夜)

動物の生態を歳時記で知ろうとするのは、間違ったことかもしれない。そう思って、平凡社の動物大
百科12を見ると、「一部のゾウガメの求愛と後尾にはゾウもねたむかと思われるほどのほえ声がとも
なうことがある」とあった。亀は鳴くのだ。しかし、前掲の句に詠まれたものは、大方のものが、沼
や池などに棲息する水生の亀であって、ゾウガメのような大型のリクガメではなかったはずである。
知りたいのは、昔から日本にいる、イシガメやクサガメといった亀が、鳴くかどうか、なのである。


これがまた
              (カミロ・ホセ・セラ『パスクアル・ドゥアルテの家族』有本紀明訳)
地雷を埋めた浜辺だった。
                    (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)
どこの浜辺もすべて地雷が埋めてある。
               (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』7、菅野昭正訳、句点加筆)

文献に頼るのはやめ、京都市動物園に電話をかけて、直接、訊くことにした。以下は、飼育係長の小
島一介氏の話である。亀は鳴かない。たしかに、リクガメは、交尾のときや、痛みを受けたときに、
呼吸にともなって音を出したり、カゼをひいて、鼻水のたまった鼻から音を出したりすることはある。
しかし、それはみな、偶然に出る音である。おそらく、春の日にあたるため、水から上がってきた亀
たちが、人の気配に驚いて、トポトポトポと、水に飛び込む音を、「亀鳴く」としたのだろう、と。


そういえば、
                   (メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木 豊訳)
芥川龍之介が
                         (室生犀星『杏っ子』第二章・誕生・迎えに)
海の方へ散歩しに行った。
                       (ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)

トポトポトポが、亀の鳴く声とは、ぼくには思いもよらない、ユニークな見方だった。その光景は、
カゼをひいた亀が、ピュルピュルと鼻を鳴らす姿とともに、ほんとに可愛らしかった。電話を切って、
図書館に行くと、教育社の古今和歌歳時記の背表紙が目に入った。「実は呼吸器官である」とあった。
小学館の日本語大辞典・第三巻を繙くと、「これは鳴くのではなく、水をふくんで呼吸する音である
という」。で、また、何気なく歳時記を見ていると、ふと、「蚯蚓鳴く」という季語に目がとまった。


どうしてこんなにたくさん?
                  (ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第I部、水野忠夫訳)
ほら、さわってごらん。
                  (ヒメネス『プラテーロとぼく』9・いちじく、長南 実訳)
何時かはみんな吹きとばされてしまふのだ。
                          (ポール・フォール『見かけ』堀口大學訳)


*



LAUGHING CHICKENS IN THE TAXI CAB。



学校の帰りに、駅のホームで電車が来るのを待っていると、女子学生が二人、しゃべりながら階段を
下りてきた。ぼくが腰かけてたベンチに、一つ空けて並んで坐った。「こんど、太宰治が立命に講演
しに来るねんて」「そやねんてなあ。あたし、むかしの人やと思てたわ」「どんな感じやろ」「写真
どおりやろか」。ぼくは、太宰のことを訊こうとしたが、思い直してやめた。声をかけるのもためら
われるぐらい、二人とも美人だったのだ。間もなく電車が来た。ぼくは、違う入り口から乗り込んだ。


彼女はどこに埋められたの?
                      (ナボコフ『ロリータ』第二部・32、大久保康雄訳)
ぼくのハンカチの中だ。
                  (エーリッヒ=ケストナー『飛ぶ教室』第四章、山口四郎訳)
迷わないように
                       (ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』8、鼓 直訳)

去年の夏休みは、アキちゃんと、賀茂川の河川敷で、毎日のように日光浴してた。ぼくたち、二人と
も、短髪ヒゲの、どこから見ても立派なゲイなのだけど、アキちゃんは、さらにオイル塗りまくりの
フンドシ姿で、川原の視線を一身に集めてた。ぼくだって、カバのように太ったデブで、トランクス
一つだったから、かなり目立ってたと思うけど、アキちゃんには、完全に負けてた。自転車に乗った
子供たちが、アキちゃんのプルルンと丸出しになったお尻を指差して、笑いながら通り過ぎて行った。


妹と
                      (ロビン・ヘムリー『ホイップに乗る』小川高義訳)
いっしょに
                              (ノサック『弟』1、中野孝次訳)
古い歌を
                    (ナディン・ゴーディマ『釈放』ヤンソン柳沢由実子訳)

タクちゃんの部屋に遊びに行くと、テーブルの上に道具をひろげて、お習字の練習をしていた。つい
最近、はじめたらしい。タクちゃんは、ぼくのことをうっちゃっておいて、熱心に字を書きつづけた。
ぼくはベッドの端に腰かけて、「飛」という字を、メモ用紙にボールペンで書いてみた。一番苦手な
字だった。そう言って、ぼくが、ふたたび書いて見せると、書道の本を手渡された。見ると、ぼくの
書き順が間違っていたことがわかった。正しい書き順で書くと、見違えるほどに、きれいに書けた。


織り
          (スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』手紙の出来事、田中西二郎訳)
込んで
                        (モーパッサン『女の一生』十三、宮原 信訳)
おいたのだ。
                       (ポオ『盗まれた手紙』富士川義之訳、句点加筆)

夜中の一時過ぎに電話が鳴った。ノブユキからだった。一週間ほど前に帰国したという。親知らずを
抜くのに、アメリカでは千ドルかかると言われ、八百ドルで日本に帰れるのにバカらしいやと思って、
日本に帰って抜くことにしたのだという。保険に入ってなかったからだろう。それにしても、驚いた。
ぼくの方も、二日後に親知らずを抜くことになってたから。ぼくの場合は、虫歯じゃなくて、いずれ
隣の歯を悪くするだろうからってのが理由だったけれど。ノブユキの声を聞くのは、二年ぶりだった。


だが、それはもう
                           (サルトル『壁』伊吹武彦訳、読点加筆)
ここには
                       (マリー・ノエル『哀れな女のうた』田口啓子訳)
ないのだ。
                   (T・S・エリオット「寺院の殺人」第一部、福田恆存訳)

本って、やっぱり出合いなんだよね。先に、「ライ麦畑でつかまえて」を読まなくってよかったと思
う。サリンジャーの中で、一番つまらなかった。たぶん二度と読まないだろう。まあ、文学作品の主
人公というと、たいてい自意識過剰なものだけど、「ライ麦」の主人公に鼻持ちならにものを感じた
のは、その自意識の過剰さもさることながら、自分だけが無垢な魂の持ち主だという、とんでもない
錯覚を、主人公がしてたからだ。かつてのぼくも、そうだった。だからこそ、いっそう不愉快なのだ。


ずっと以前のことだ。
                     (ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳)
ある晩、
                  (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』4・父の死、清水三郎治訳)
海がそれを運び去った。
                            (『ギルガメシュ叙事詩』矢島文夫訳)

エイジくんは、ぼくの横にうつぶせになって、背中に字を書いて欲しいと言った。Tシャツの上から
だ。直に触れられるより気持ちがいいらしい。書くたびに、エイジくんは、何て書かれたか、あてて
いった。ぼくが易しい字ばかり書くものだから、途中から、エイジくんが言う字を、ぼくが書くこと
になった。「薔薇」という字が書けなかった。一年ほど前のことだ。西脇順三郎の「旅人かへらず」
にある、「ばらといふ字はどうしても/覚えられない書くたびに/字引をひく」を読んで思い出した。


そうなんだ。
                 (シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第四場、大山俊一訳)
ああ、海が見たい。
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)
バスに乗ろうかな。
                     (セリーヌ『なしくずしの死』滝田文彦訳、句点加筆)

lead apes in hell:女が一生独身で暮らすという句がある。猿を引き回すことが老嬢の来世での仕事
であるという古い言い伝えに由来し、エリザベス朝時代の劇作家がしばしば用いた、と英米故事伝説
辞典にある。イメージ・シンボル事典によると、老嬢は地獄で猿を引く、という諺が知れ渡っていた
らしい。シェイクスピアの『空騒ぎ』第二幕・第一場に、「地獄へ猿をひいて行かなくてはならない
のだ」(福田恆存訳)とある。「陽の埋葬」で、ぼくは、それを逆にした。猿が、ぼくを引くのだ。


そうすれば、
                          (ジュネ『ブレストの乱暴者』澁澤龍彦訳)
ぼくのハンカチが
                 (ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第III部、高木研一訳)
出て来るかと思って。
                (シュペルヴィエル『ロートレアモンに』堀口大學訳、句点加筆)

タカヒロがポインセチアを買ってきてくれた。昨年のクリスマスの晩のことだ。別れてから、八年に
なる。タカヒロが大学一年のときに、ふた月ほど付き合っただけだが、ここ一年くらい、電話で話す
ようになった。いま付き合ってる相手が、京都だというのだ。卒業すると、タカヒロは東京の会社に
就職した。ぼくのところに寄ったのは、ついでだった。コーヒーを淹れたあと、養分になると思って、
その豆の滓を鉢の中に捨てた。二日もすると、白い黴が生えた。何度捨てても、同じ白い黴が生えた。


このバスでいいのだろうか?
                   (ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵 博訳)
あゝ、いゝとも。
                    (モリエール『人間嫌い』第一幕・第一場、内藤 濯訳)
お前も来るかい?
                              (ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)

毎日のように葵書房という本屋に行く。すぐ近所なので、日に三回行くこともめずらしくない。この
間、ジミーと行った。彼はオーストラリアから来た留学生で、大学院で日本文学を専攻している。二
階の文芸書コーナーで、彼が新潮日本文学辞典を開いて見せた。コノ人、田中サンノ先生デショウ?
そう言って、彼は指先をページの右上にすべらせた。そこには見出し語の最初の五文字が、平仮名で
書いてあった。田中サンノ先生だから、おおおかまナノデスカ? それを聞いて、ぼくは絶句した。


ハンカチを
                         (モーパッサン『テリエ館』2、青柳瑞穂訳)
浮べて、
                       (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳、読点加筆)
海はまた別の物語を語る。
                   (J・シンガー『男女両性具有』I・第七章、藤瀬恭子訳)

温泉の番組で、レポーターが、卵が腐ったような臭いがするって言ってた。彼女は、卵が腐った臭い
を嗅いだことがあるのだろうか。この間も、ニュース番組で、アナウンサーが、あるものが雨後の筍
のように生えてきましたって言ってたけど、彼が実際に雨後の筍を観察したことがあって言ったとは
思えない。卵が腐ったような臭いも同じで、現実に嗅いだことがあって言ったとは思えない。ゆで卵
の殻を剥くと、すごく臭いことがある。卵が腐ったような臭いと聞くと、ぼくは、これを思い出す。


海はもう
                       (トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳)
ハンカチを
                    (サングィネーティ『イタリア綺想曲』99、河島英昭訳)
少しずつほどきはじめていた。
                (トランボ『ジョニーは戦場へ行った』第一章・3、信太英男訳)


*



STRAWBERRY HANDKERCHIEFS FOREVER。



『英米故事伝説辞典』で、「handkerchief」の項目を読んでいると、こんな話が載っていた。「ハン
カチの形はいろいろあったが、四角になったのは、気まぐれ者の Marie Antoinette 王妃がハンカチ
は「四角のがよい」といったので、 Louis XVI が1785年「朕が王国の全土を通じハンカチの長さは
その幅と同一たるべきものとす」という珍しい法令を布告した」というのである。「四角」といえば、
前川佐美雄の「なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす」が思い起こされた。


置き忘れられた
               (ボルヘス『伝奇集』第I部・八岐の園・円環の廃墟、篠田一士訳)
写真をとりあげると、
                    (ヴァン・ダイン『カナリヤ殺人事件』16、井上 勇訳)
海だった。
                        (パヴェーゼ『月とかがり火』3、米川良夫訳)

この項目には、もうひとつ、面白い話が載っていた。ハンカチが、フランスの宮廷内で流行したのは、
Napoleon I の妃 Josephine (1763-1814)が「前歯が欠けていたので、微笑するときなど、これを
隠すためにハンカチを用いた」からである、というのだ。ノブユキは、笑うとき、女の子がよくする
ように、手で口元を隠して笑った。歯茎がぐにっと見えるからだった。たしかに、見事な歯茎だった。
with handkerchief in one hand sword in the other:片手にハンカチ、片手に剣という成句がある。


一度も、その海を見たことがなかったけれど、
                      (ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳、読点加筆)
長いあいだ、眺めていた。
            (ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』6・妻と恋人、清水三郎治訳、読点加筆)
なぜ、海の眺めは、かくも無限に、また、かくも永遠にこころよいのか。
                   (ボードレール『赤裸の心』三〇、阿部良雄訳、読点加筆)

不幸に際して悲しみを表わす一方、それに付け込んで儲けを企む、といった意味である。ハンカチが(1)
悲しみの象徴として用いられている例に、芥川龍之介の「手巾」がある。ある婦人が、自分の息子が
死んだことを告げに、主人公宅を訪れたときのことだ。件の話に触れる婦人の様子に悲しげなところ
が少しもないことを不審に思っていた主人公が、偶々、婦人が膝の上で手巾を両手で裂かんばかりに
して握っているのを目にして、その婦人が実は全身で泣いていたということに気づくという話である。


忘れていたことを想い出そうとして、
                  (シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳)
ほどけかかった
                       (トーマス・マン『ヴェニスに死す』高橋義孝訳)
ハンカチの隅をつまみ上げてみた。
                      (ディクスン・カー『絞首台の謎』10、井上一夫訳)

ハンカチが悲しみの象徴となることは、涙をふくときに使われることから容易に連想される。「突然
わたしは、自分の目に涙が溢れ出るのではないかと恐れた。わたしは人前を取り繕うために叫んだ。
/「目にレモンのしぶきがはねたんです」/わたしはハンカチで目をふいた。」「あのときハンカチ
のかげで感じたあの憂鬱さをわたしはけっして忘れることができない。それはわたしの涙をかくした
ばかりでなく、一瞬の狂気をもかくしたのだ。」「わたしはハンカチを顔から放して、涙ぐんだ目を


あの海が思い出される。
                (プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章、金子幸彦訳)
すさみはてた心は
                      (レールモントフ『悪魔』第一篇・九、北垣信行訳)
あらゆることを、つぎつぎと忘れ去るのに、
                      (ナボコフ『ロリータ』第二部・18、大久保康雄訳)

他人の面前でさらけ出した。わたしはむりにつくり笑いをしてみんなを笑わせようと努力した。」こ(2)
の滑稽かつ悲惨な場面は、ズヴェーヴォの「ゼーノの苦悶」の中で、もっとも印象的な箇所だった。
コントなどで、男の子が女の子を呼びとめて、その娘が落としてもいないハンカチを(つまり、男の
子自身の持ち物を)手渡そうとする場面を目にすることがあるが、その起源は、「愛の印として、男
性が女性に贈ったり」、「女性が男性にさりげなく落として拾わせたりした」という、一六世紀頃の(3)(1)


ハンカチをプレゼントしたの
                   (トルーマン・カポーティ『誕生日の子供たち』楢崎 寛訳)
おぼえてるかい?
                       (コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)
そう言って
               (シェイクスピア『リチャード三世』第四幕・第四場、福田恆存訳)

風習にまで遡る。この風習は、drop (throw) the handkerchief to:意中を仄めかす、気のあること(1)
を示す、という成句の中に引き継がれている。しかし、また、ハンカチを「恋人への贈り物にするの(4)
は、離別のもとになるとして避けられる」ともあり、「むやみに贈与してはいけない」ものともいう。(5)(1)
シェイクスピアの「オセロウ」の初演は一六〇四年である。その頃には、ハンカチは一般に普及して
いた。「愛の印」であったハンカチが、オセロウをして嫉妬に狂わせ、彼の最愛の妻デズデモウナを


指を離すと、
             (アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡1』第II部・7、厚木 淳訳)
ハンカチは床に落ちた。
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』下巻・82、木村 浩・松永緑彌訳)
彼女はハンカチを拾いあげようとはしなかった。
                       (ボリス・ヴィアン『日々の泡』52、曾根元吉訳)

死なしめたのである。それは、苺の刺繍が施された一枚のハンカチだった。苺にハンカチ、といえば、(6)
シュトルムの『みずうみ』にある「森にて」の場面が思い出される。苺は聖母マリアのエンブレムで(7)
あり、ハンカチを聖骸布(キリストの遺骸を包んだ亜麻布)、或はヴェロニカの聖顔布に見立てると、
ハンカチに包まれた苺の構図は、キリストに抱かれた聖母マリアの図像、すなわち、「逆ピエタ」と
なる。「包む」は、「みごもる」という語にも通じ、イヴを「みごもった」アダムの姿を髣髴させる。


どうしてあのときハンカチを床から拾わなかったのだろう?
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』下巻・84、木村 浩・松永緑彌訳)
まだ百年はたっていなかったが、
                  (ボルヘス『伝奇集』第II部・工匠集・刀の形、篠田一士訳)
まだそこにあるだろうか?
                    (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』1、菅野昭正訳)

tie a knot in a handkerchief:(何かを忘れないために)ハンカチに結び目をつくる、という成句(8)
がある。かつての呪術的な風習の名残であろうか。『フランス故事ことわざ辞典』を繙くと、Nouer
l'aiguillette.:飾り紐を結ぶ、といった成句もあった。解説に、「ある特定の文句をとなえながら、
飾り紐に三つの結び目をつくる。この詛いの作法は憎い相手の縁談をぶちこわすために、嫉妬になや
む男や捨てられた女が行なった」とある。「人の結婚をさまたげるために詛いをかけた」というのだ。


海の上に
                           (アンリ・ミショー『氷山』小海永二訳)
コーヒーを
                    (ヴァン・ダイン『カナリヤ殺人事件』18、井上 勇訳)
注いだ。
                   (ロジャー・ゼラズニイ『砂のなかの扉』6、黒丸 尚訳)

処刑の際などに、流れ出た血をハンカチに染み込ませて、記念のために取っておくという風習がある。
ルイ16世が処刑されたあと、断頭台の柳行李が首斬り人の馬車によって運ばれていたときのことであ
る。それが、偶然、馬車の上から転げ落ちると、たちまち人々が群がって、自分たちの下着やハンカ
チなどを擦りつけていったという。そのため、そこらじゅう、何もかもが血まみれになったという。(9)
シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』第二幕・第二場、第三幕・第二場に、このような風習が


合い言葉は?
                    (シュニッツラー『夢小説』IV、池内 紀・武村知子訳)
波だ。
      (ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第二部、唐沢則幸訳、句点加筆)
涙?
            (マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』8、田中倫郎訳)

あったことを示唆するセリフが出てくる。貴族の血をハンカチに浸して、記念にとっておいたらしい。
『ヘンリー六世』の第三部・第一幕・第四場には、一四六〇年十二月三〇日のウェイクフィールドの
戦いの際に、ヨーク公が敵方のマーガレット王妃に、自分の息子のラトランドの血に浸されたハンカ
チを突きつけられ、それで涙をふくように迫られる場面がある。血に染まったその布切れの経緯につ
いては、『リチャード三世』の第一幕・第三場や第四幕・第四場のセリフの中でも触れられている。


涙が頬を伝った。
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
去って行った者は、美しい思い出になる。
         (トム・レオポルド『君がそこにいるように』水曜日、岸本佐知子訳、読点加筆)
電話をかけようか、やめようか?
            (ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』上巻・1、木村 浩・松永緑彌訳)

シェイクスピアの『冬の夜語り』第五幕・第二場に、ハンカチが、形見の一つとして挙げられている。
形見の品というものが、呪術的な事物になり得ることは言うまでもない。それに持ち主の血がついて
いたりすると、なおいっそうのこと、呪術性が増すであろう。竹下節子の『ヨーロッパの死者の書』
第四章に、キリスト教初期殉教者たちの「殉教で流した血に浸した布」が聖遺物となって、「人々の
病の治癒などに効験」があるとされたり、「信仰の中心に据えられるようになった」という件がある。


留守番電話の声は
              (ダイアン・アッカーマン『「感覚」の博物誌』第四章、岩崎 徹訳)
祈りの言葉を繰り返した。
                (グエン・クワン・テュウ『チュア村の二人の老女』加藤 栄訳)
よく記憶しているのだ。
                 (ターハル・ベン=ジェルーン『砂の子ども』17、菊地有子訳)

この起源は、ハンカチではなく、血でもって、さらに遡ることができよう。フレイザーの『金枝篇』
第二十一章・四に、霊魂が宿るという血に対する畏怖の念から、血のついたものがタブー視されたり、
神聖視されたりしたとある。出エジプト記にある過越の祭りなど、聖書の様々な記述が思い出される。
東條英機が、逮捕直前にピストル自殺を図ったときにも、CIC(防諜部隊)の逮捕隊とともに部屋
に駆け込んだ外人記者のなかに、ハンカチをその血糊に浸して土産として持ち帰った者がいたという。(10)


次に生まれ変わるときには
                  (トム・レオポルド『誰かが歌っている』18、岸本佐知子訳)
波となって
                      (フォークナー『サンクチュアリ』25、加島祥造訳)
生まれでるのだよ。
                   (ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

(1)学習研究社『カラー・アンカー英語大事典』(2)第五章、清水三郎治訳(3)平凡社『大百科事典』(4)
角川書店『スコットフォーズマン英和辞典』(5)三省堂『カレッジクラウン英和辞典』、以上、ここまで、
辞書の類は、handkerchief、或はハンカチーフの項を参照(6)第三幕・第三場、菅 泰男訳(7)大修館書店
『イメージ・シンボル事典』(8)研究社『新英和大辞典』knotの項(9)ルノートル/カストロ『物語フラ
ンス革命二・血に渇く神々』二、山本有幸編訳(10)ロバート・ビュートー『東條英機(下)』木下秀夫訳。



*



TWIN TALES。



『ジイドの日記』を読んでいて、ぼくがもっとも驚かされたのは、友人であるフランシス・ジャムに
ついて、ジイドがかなり批判的に述べていることだった。ジャムがいかに不親切で思い上がった人間
か、ジイドは幾度にも渡って書き記している。詩人としての才能は認めていたが、公平な批評能力も
なく、他人に対する思いやりにも欠けていると考えていた。もしも、田中冬二が、『ジイドの日記』
を読んでいたら、ぼくたちが「フランシス・ジャム氏に」という詩を目にすることはなかっただろう。


何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
たしかに、
                            (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
僕のものだった。
                            (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

蜂の巣つきの蜂蜜を食べた。北山通りにある輸入雑貨屋で買ってきたものだ。四角いプラスチックの
箱の中にぴったりおさまって入っていた蜂の巣は、五センチくらいの高さの四角柱で、上から覗くと、
数多くある小さな六角形の、どの穴ぼこの中にも、黄金色に輝く透明な蜂蜜がたっぷりつまっていた。
ペティーナイフで切る蜂の巣はとてもやわらかかった。巣をつぶして食べるようにと書いてあったが、
ウェハースの形に切り取って食べた。食べかすを噛んでいると、ガムを噛んでいるような感じがした。


小波(さざなみ)の渦が
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
ハンカチを巻いて
                       (コクトー『怖るべき子供たち』1、東郷青児訳)
すうっと消える。
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

三年くらい前のことだ。テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』を読んで、びっくりした。
第五場に、スタンリーが山羊座で、ブランチが乙女座であると書いてあったのだ。当時、付き合って
いたノブユキが乙女座で、ぼくが山羊座だった。ノブユキの姓が、ぼくと同じ「田中」であるという
ことを知ったときよりも、びっくりさせられた。そういえば、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を
読むと、ぼくが好きなサッフォーを、サリンジャーも好きなことがわかる。彼もまた山羊座だった。


花のように
                                (ヘッセ『詩人』高橋健二訳)
ハンカチは
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
ほどけてゆく。
                          (サド『美徳の不運』前口上、渋澤龍彦訳)

高校二年の夏だ。以前から憧れてた先輩の安藤さんに、俺んちに泊りに来いよって言われた。試合を
見てるときなんか、だれにもわからないように、お尻をさわられたりしてたから、先輩も、ぜったい
に、ぼくのことが好きだと思ってた。寝る前に、先輩がトイレに立ったとき、ベッドの横にごろんと
なって、腕を伸ばした。すると、指の先に触れるものがあった。SM雑誌だった。グラビアだけ見て、
元の場所に置いて先輩を待った。先輩が戻ってきたとき、ぼくは目をつむって眠ったふりをしていた。


ひかりと波のしぶきのために、
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)
目をさました。
                 (モーリヤック『蝮のからみあい』第一部・一0、鈴木建郎訳)
眼がさめた時には、なんの記憶もなかった。
                            (モーパッサン『山小屋』杉 捷夫訳)


*



ぼくが住んでるワンルーム・マンションの隣に、「カフェ・ジーニョ」という名前の喫茶店がある。
喫茶店なんて言うと、マスターは怒って、うちはバールですよって言うんだけど、どう見ても、喫茶
店って感じだから、つい、喫茶店って言ってしまう。で、そこでバイトしてる高校生のミッちゃんに
訊いてみた。こんど知り合った男の子が、俺の欲しいのは身体じゃないんだって言うんだけど、どう
思うって。すると、こんな答えが返ってきた。メンドクサイのが好きなのねって。ぼくもそう思った。


ぼくは
                       (サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)
花びらが
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)
海に落ちてゆくのを見つめていた。
                       (ナボコフ『ベンドシニスター』4、加藤光也訳)

この前、タクちゃんちで食事をしてると、突然、彼が、「corpus」って、死体って意味があるんだけど、
キリストって意味もあるのよって言った。ぼくが、へえって言うと、クリスチャンの彼は、ぼくの目
の前に祈祷書を突き出して、ここに、真の御体をほめたたえよ、ってあるでしょ。これをラテン語で、
「ave verum Corpus」って言うのよ。ave はほめたたえる、verum は真に、Corpus はキリストって意
味ね。じゃ、仏といっしょだよねって、ぼくが言った。マホメットのことは、二人とも知らなかった。


ページをめくると、
                      (ジイド『贋金つかい』第一部・十二、川口 篤訳)
海だったのだ。
                        (モーパッサン『女の一生』十三、宮原 信訳)
ふと本から眼を上げた。
                            (カフカ『審判』第一章、原田義人訳)

北大路橋を渡っていると、ぼくの肩の上に、鳩が糞を落とした。びっくりした。買ったばかりのジャ
ケットなのに、と思って見上げると、いつものように何十羽もの鳩たちが電線の上にとまっていた。
西岸の河川敷で、ひとりの老婆が、コンビニなどで手渡される白いビニール袋の中から、パンくずを
取り出して撒きはじめた。すると、頭の上の鳩の群れがいっせいに飛び立ち、撒かれた餌のところに
舞い降りていった。通勤の途中だったので、着替えに戻るわけにもいかず、そのまま駅に向かった。


テーブルの上に
                             (サルトル『部屋』二、白井浩司訳)
ハンカチが
                       (ジイド『贋金つかい』第三部・九、川口 篤訳)
たたまれて置かれてあった。
                    (リルケ『オーギュスト・ロダン』第一部、生野幸吉訳)

ブチブチ、ブチブチ、踏んづけてる、これ、何の音って訊くと、ショウヘイがカエルだよって教えて
くれた。大粒の雨が激しくフロントガラスに打ちつけている。ぼくが電話をかけたときには、十一時
を過ぎていた。恋人にふられたんだって言うと、彼は車を出して、ぼくのいたところまで迎えに来て
くれた。彼は黙ったまま、琵琶湖まで車を走らせた。真夜中のドライブ。ブチブチとつぶれるカエル
の音に耳を澄ましながら、昔付き合ってた恋人の横顔を眺めていると、ふと、映画のようだと思った。


さわってごらん、ずぶぬれだ──
                            (カフカ『審判』第六章、原田義人訳)
波に運ばれて
                       (ジイド『贋金つかい』第一部・二、川口 篤訳)
ふたたび生まれ変ったのだ。
                        (ジイド『地の糧』第一の書・二、岡部正孝訳)


*



SAY IT WITH FLOWERS。



何年か前に、詩を放棄したいと思ったことがある。「運命によって芸術の牢に投げこまれたものは、
もはやそこからのがれることはできない。」(川村二郎訳)と、『ウェルギリウスの死』の第II部に
ブロッホが書きつけている。恋人にふられそうになると、自分の方から先にその恋人をふってしまう
という、何とも浅ましい性格のぼくである。詩がぼくを放棄する前に、ぼくの方から詩を放棄しよう
かなと思ったのである。おまえなんか、はなっから見放されてんじゃないのって言われそうだけど。


一匹の猿が
                        (リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)
花に見惚れている。
                   (ゴーリキイ『レオニード・アンドレーエフ』湯浅芳子訳)
夢を見ているのだ。
                             (リルケ『愛と死の歌』石丸静雄訳)

ホラティウスだったよね。「詩が書けないときは、そのこと自体を書け」って言ってたのは。でも、
それって、とてつもなくむずかしいことだと思わない? もしかしたら、詩を書くことより、ずっと
むずかしいことかもしれないよ。だって、ただ書けない書けないって書いてくわけにもいかないだろ。
なんで書けないのかってことを書かないと、文学にならないし。まっ、文学でなくても、面白ければ
いいんだけどね。もちろん、面白いものかどうかってことは、読み手が判断することなんだけどね。


なにがそうさせるのだろう?
             (ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ『春とすべて』19、河野一郎訳)
その獣は
                     (ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳)
痩せた、慄(ふる)える手を差し伸べた。
                 (ロート『ラデツキー行進曲』第三部・第十八章、柏原兵三訳)

問題は形式ではない。統覚力である。ばらばらに散らばった情報を組織化し、秩序立てて、一篇の詩
に仕上げていく力が問題なのである。作品を構成しようとする意志の力と、その意志にしたがって構
築していく技術の力が、詩の緊密度を決定する。稚拙さや破綻が、芸術的効果を有することがあるが、
それもまた、すぐれた統覚力によってもたらされたものである。その場合には、逆説的だが、統覚力
が大いに発揮されてもなお払拭できなかった稚拙さや破綻が核となり、作品が結晶化するのである。


なんだって花をむしるんだい?
                              (ガルシン『赤い花』小沼文彦訳)
知らない。
                   (マリー・ノエル『お前の場所を探しに行け』田口啓子訳)
知っちゃいないさ。
                        (コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳)

ぼくを好きな子は、みんな猫が好きだ。猫を好きな気持ちと同じ気持ちで、ぼくのことも好きになる
のかもしれない。といっても、ぼくが猫に似てるわけじゃないだろうけど。愛することって、どんな
ことか、ぼくには、よくわからない。でも、よくわからないからこそ、考えられる。そんな気がする。
Tacoma にいるノブユキから手紙が届いた。引っ越し先の部屋の様子が書かれてあった。どの窓からも
空が見えるという。べつに不思議なことでもなんでもないのだけれど、ぼくのこころを穏やかにする。


そういえば、
                   (メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木 豊訳)
いったいどこへ行ってしまったのか?
                          (ベールイ『銀の鳩』第I部、小平 武訳)
哀れな小さなハンカチよ、
                      (ギー・シャルル・クロス『あの初恋』堀口大學訳)

小学生のころは、画家になることが夢だった。というのも、四年生のときに、動物園で描いた絵が、
市が主催する小学生対象の絵画コンクールで、金賞を受賞したからだ。朝礼の時間に名前を呼ばれて
壇上にのぼり、晴れがましく賞状を受け取ったときの、あの感激が忘れられなかったためだろう。他
の生徒たちから浴びた羨望の眼差しも、すこぶる気持ちよかった。ぼくの絵は、檻の中の水溜まりに
映った豹の姿を描いたものだった。鉄格子越しの水鏡に映った豹の貌は、ほんとにさびしそうだった。


ハンカチをほどくと、
                       (ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)
そのたびに
                          (パヴェーゼ『ヌーディズム』河島英昭訳)
生まれかわる。
                  (ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第II部、高本研一訳)

べつに歯が悪かったわけじゃないけど、右奥歯のブリッジの具合がよくなかったので、近所の歯科医
院に行って診てもらった。ブリッジと歯の間に隙間ができて、そこに歯垢が溜まって虫歯になってい
たという。四十代半ばぐらいの温厚そうな歯科医は、麻酔を一本打つと、ドリルで歯をガリガリと削
りはじめた。すると、突然、イイイッと、激痛が走った。すぐに麻酔を何本か打ってもらったけど、
痛みは収まらなかった。あまり効かない体質らしい。一時間半の間、拷問されてたような感じだった。


ほどいてもらいたいかね?
     (クローデル『クリストファー・コロンブスの書物』第二部・三、鈴木力衛・山本 功訳)
また苦しむためにかい?
                         (ゴーリキイ『どん底』第四幕、中村白葉訳)
もちろん。
         (トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第一部・第八章、望月市恵訳)

渋澤龍彦の本は、パパが好きでたくさん集めてた。『血と薔薇』なんて本も、書斎の本棚に何冊か並
んでた。パパは、実行の伴わない、いわゆる思想ホモだった。『薔薇族』や『さぶ』といったゲイ雑
誌を毎月かかさず買ってた。ママは、それをパパの些細な趣味と見なして、何とも思っていなかった
みたいだ。まさか、ぼくが盗み読みしてるなんて考えもしなかっただろうけど。渋澤の文のなかで、
とくに、ぼくが好きなのは、「象はさびしいところで交尾する。」という、アリストテレスの言葉だ。


と、誰かの足音が聞えてきた。
                      (ホーフマンスタール『アンドレアス』大山定一訳)
半開きになっていた扉のほうへ振りかえった。
                       (アンリ・バルビュス『地獄』V、田辺貞之助訳)
父はそこにはいなかった。
                     (ウィリアム・ブレイク『迷った男の子』土居光知訳)

ノブユキとは、河原町にある丸善で出会った。一九九一年の夏、八月十日の土曜日、夕方五時ごろの
ことだった。これまで見てきたものの中で、いちばん美しいと思うものは、なあに? ゼラズニイの
『ドリームマスター』1の中にあるセリフだ。好きになった子には、かならず訊くことにしている。
わからない、というのが、ノブユキの返事だった。どれが、いちばんか、決められないからだという。
猫に話しかけながら、ノブユキは電話をする。多数決すると、いつも、二対一で、ぼくの負けだった。


そのさきは、またしても海だ。
                          (ソレルス『公園』岩崎 力訳、読点加筆)
かぎりなく、もつれたりほどけたりしている
                   (ボルヘス『伝奇集』第II部・工匠集・結末、篠田一士訳)
海だった。
                  (ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵 博訳)

占星術に詳しい友だちに、ぼくのホロスコープを作ってもらいました。ちなみに、実際のぼくの誕生
日は十日です。第一詩集の奥付の十二日は、戸籍上のものです。父が、届け出た日付を書いたのです。
夜の十時に生まれました。で、ホロスコープですが、山羊座に、太陽・水星・木星・土星の惑星群が
あり、三つの水の星座、蟹座・蠍座・魚座に、それぞれ、火星・海王星・金星があって、グランド・
トリンを形成している、とのことです。性格が冷たいのは、天秤座に月があるせいだと言われました。



*



HE HAS JUST BEEN UNDER THE DAISIES。



きみは海を見たことがある?
                        (パヴェーゼ『丘の上の悪魔』10、河島英昭訳)
ぼくは
                    (サルトル『アルトナの幽閉者』第一幕、水戸多喜雄訳)
バスで行くことに決めた。
                           (カミュ『異邦人』第一部、窪田啓作訳)

『イメージ・シンボル事典』で調べると、雛菊は春に咲く最初の花なので、天の庭を埋める花として
絵に描かれる、とある。『カラー・アンカー英語大事典』によると、雛菊が地面近くに咲くことから、
under the daisies が「葬られて」「死んで」という意味になったという。春のはじめに見た雛菊は、
踏んでおかないと、その人が愛する人の上に雛菊が生える、つまり、死ぬ、という言い伝えがある。
こころやさしい瀬沼さんのことだから、野に咲いた雛菊を踏みつけることなどできなかったのだろう。


ふと
                      (ホーフマンスタール『アンドレアス』大山定一訳)
目の前に
                  (ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』豊崎光一訳)
極上の麻の白いハンカチが現われた。
                       (ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』11、鼓 直訳)

亡くなる一週間くらい前でしょうか。瀬沼さんから電話がありました。いつもより長い時間しゃべり
ました。おもに、詩についてですが、たくさん話をしました。そのときに氏の新しい詩集の話もしま
した。ぼくは言いました。「まるで小説のような印象を持ちました。すぐれた小説のような。」と。
彼は、ぼくの言葉を素直に受けとめてくれました。ぼくの真意はちゃんと伝わったようです。さっき、
久し振りに電話をかけてこられました。天国の庭からです。新しい電話番号を教えてもらいました。


バスを待つ行列の
                                   (原 民喜『夏の花』)
あいだを
                              (ワイルド『サロメ』西村孝次訳)
白いハンカチが、ひらひらしながら遠ざかって行くのを眺めた。
                         (モーパッサン『テリエ館』2、青柳瑞穂訳)