選出作品

作品 - 20100130_231_4123p

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骨の王

  右肩

 少年が黒いTシャツの上から羽織っているレモン色のパーカー。陽差し除けに母が着せたのだった。信号待ちをするタクシーの後部座席に並んで坐っている。
「お母さん。」と彼は呟くように言った。
「あそこ。犬かな。轢かれて内臓が飛び出している。」
本当は、それは毛布だった。
表がベージュ、裏の赤い毛布が路上に落ちて、捻れたまま通りすぎる車に轢かれているのだった。暗く汚れていた。

タクシーは動き出す。

彼にはもうその実体を検証する方法はない、永遠に。
そして現実に世界の何処かで、今も多くの犬が路上に骸をさらしている。
少年の殺意はレモン色のパーカーに包まれ、まったく見えないままだ。

 母親は彼の肩に手を回すようにして身体を引き寄せた。細く柔らかい髪の毛と頭皮をとおして、その子の頭蓋骨の形、それを掌の中に抱え込んでしまう。
シャンプーの甘い匂いがする。匂いが網の目のように母の意識を覆っていく。
好き。性の愉楽が身体を舐めに、記憶の底から舌を伸ばしてくる。あの夜のこと。この子を受胎した夜、列車のコンパーメントでの情事。

(もしこの子が病気から生き延びることができたら。
 生き延びて成長したら、父を殺し、わたしと交わるのかもしれない。
 いい。それでもいい。わたしも他の人もみんな苦しんで死んでいく。)

「犬のことは考えなくていいわ。犬は犬の天国に行った。今ごろはボールとじゃれてるの。」
だが、轢き潰され埃にまみれているあれは、犬ではなく毛布だ。

母も子もそのことを知らない。

 この子の父親は三年前に失踪した。
 二年前、元気ですと手紙が着いた。
 二年前は元気であった。
 三カ月前に死んだ。

母も子もそのことを知らない。

将来も知ることがない。知る方法がない。
子が知らないまま、父殺しは既に成就していた。
十歳のこの子が母を娶るのはいつか。
心臓が破れ、そうなる前に死ぬのか。

 ガラスの向こうに、初夏の危険な光が氾濫している。遠くの山上でショッピングセンターの廃墟が歪む。そこへ続く雑木の暗い緑。見えるところ、見えないところ、あちこちに絡んだ山藤の蔓から、枯れた花房が下がっている。いくつも。人生は隅々までくまなく恐ろしい。

 ルームミラーから後部座席を見ると、少年が黒目がちで大きな目を開き、こちらを見ていた。母親は目を閉じ、頭を傾けている。
あどけない。眠ってしまったのかも知れない。子どもを置いて親が眠ってはいけないのに。
運転手は自分が誰で何処へ行こうとしているのか、既に忘れようとしていた。
母親は眠り、子どものギザギザの縁の想像力は、浸食領域を広げつつある。

(死んでしまったものすべての上に、生きて君臨したい。ぼくは骨の王になる。骨の王は、大腿骨にチェーンを通し、いつも首から吊している人だ。)

 夢の坂を下り、夢の坂を上る。
 夢の交差点を右折し、夢の架橋をくぐる。
 夢の車輪は四つとも燃えている。
 夢の匂いが焦げ、夢の電話線が走り、夢の木造建築が三棟、地上から浮き上がり夢の炎を纏っている。
 夢の窓に覗く夢のひと影を確かめる間もなく、夢のタクシーは夢のような速度で首をもたげ、夢の天頂でああと鳴く。
 夢の鴉になる。

 母は目を開けながら、傾いていた頭を持ち上げる。子は背筋を伸ばして坐り、真っ直ぐ前を向いていた。運転手の目がミラーに映り、こちらを覗いていた。その目はこの子の父親に似ている。
だが、父親ではない。母の官能は冷め、斜めに揃える両脚の奥、性器は清潔に乾いていた。
「次の信号を左へ曲がって下さい。曲がったらすぐ次の信号のない交差点を左です。そこから五十メートルくらい行った先です。」
運転手は頷いた。終わりが近づいていることがわかった。

 終わりの先のことまではわからない。