選出作品

作品 - 20091226_495_4046p

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山岳地帯(マリーノ超特急)

  Canopus(角田寿星)

この地帯では稜線をつよくなぞるように吹きつける風がけして浅く
ない爪痕を至るところに残している。砂混じりのかわいた大気に。
あれた山肌に。つつましい色を放つ丈の低い植生群に。かるくひび
割れたぼくの頬に浅くない爪痕を。それは海から届いた風であると
ぼくはやがて悟るだろう。
かさついた照り返しの激しさに汗で濡れたシャツが背にうっすらと
張りついている。ぼくの或いは岩々のみじかい影。束の間のコント
ラストを一匹の蜥蜴がいそがしく這いまわり時を置かず真昼の陽に
溶けて消える。会話もなく足早に通りすぎるぼくのみじかい影。

尾根をつたう道の眼下にひろがるのは見渡すかぎりの深いみどり。
人の立ち入ることを許さない暴力的な森が生をどこまでも謳歌する
かのようにつよい風を受けてざわざわと波打つ。
いちめんのみどり。
わずかなうねりは驚くほどにその色合いを変えながら幾億もの兎が
みどりのうなばらを走り去っていく。


山岳地帯。ここはいちめんの森に浮かぶ孤島。
視界はこんなに広がっているというのに海はどこにも見えない。


断崖を背にしながらわずかに広がる荒れ地をたどる。ばらばらにな
った材木のかけらと不揃いに並べられた大小の四角い石。それらは
かつて人の住んだぼろ小屋の痕跡だとは当人でなければ判るすべも
ない。
ここにはかつて子どもたちが住んでいた。親に見捨てられた他の世
界を知りようもない兄弟かどうかさえわからない子どもたちが。干
した草の根をかじり雨水をすすり数少ないぼろ布を奪い合ってそし
て弱く幼いものから少しずつ死んでいった。生き残った子どもは死
んだ子どもたちを石の下に埋めその死骸から花は咲かず果実はみの
らなかった。

森のはるか向こう。見えない海を南に縦断する特急列車の噂を旅の
手すさびに幾度も聞いたことがある。或る者はそれは人類に最後に
残された技術の集大成だと語り また或る者はそれはサハリン製の
ラム酒に呑み込まれた愚か者がみたあわれな幻影だと語る。或る者
はそれはあまりに早く通り過ぎるがために肉眼では見ることができ
ないまぼろしの列車だと語り 或る者はそれは真夜中に音さえもた
てず秘められたままに走り去っていくのだと語る。
南へ。南へ。南へ。
ここではないどこかの駅からここではない彼方の駅へ。ぼくは海洋
特急を折にふれて思い ここではないどこかの駅を思う。ここでは
ないぼくのどこかの旅を。

ここは山岳地帯。麓に唯ひとつ横たわるぼくらの駅はみどりに浸蝕
されかけて列車は山を登ることも森を渡ることもかなわず何年も立
ち往生している。
ほそながい雲がつよい風に乗りすごいスピードで頭上を駆け抜けて
いく。雲は山頂近くで渦を巻いて出来損ないの有機物のように拡散
し短い生涯を終える。そしてそれは海から届いた風であるとぼくは
やがて悟るだろう。