「二重振り子」という名前のお店の階段でわたしたちは出会いました。出会ったというよりすれ違ったというほうが正しいのでしょう。当時なおゆきさんはドラアグクイーンと呼ばれる服装をしていてけばけばしく、南国というより天国からやってきた鳥のように輝いていました。当時わたしはボリス・ヴィアンにかぶれてジュリエット・グレコみたいなブカブカの男物の黒いスーツを着ていました。お店の中は非常に混んでおり、お酒や煙草、体臭と香水、いろんな国の言葉や楽器の音が混ざりあって、まるでごった煮のスープ鍋。朦朧とした視線の先に泳ぐもの、風船のようなあたまで、ここがどこでもどうなってもいいような、そんな心地がしていました。
「いいかげんということについて」わたしはおそらく長いこと考えていた。
突然、頭の高いなおゆきさんがツカツカと彗星の様に接近してきて「かわいいコ」と言ってわたしのほっぺたにキスをしました。それはほんとうに突然の出来事でした。その途端、パンッと弾けた音がしました。「アッ!惑星の衝突!」と思う間もなく、わたしはそのままハリウッド映画の死体のように手すりから地下のダンスフロアまでまっ逆さまに滑り落ちてゆきました。罵声、叫び声、泣き声、ぶらさがったミラーボール、覗き込む、あるいはよける人波。
重たい鈍痛とともに耳の奥で高くくぐもった音がキーンと鳴り続け、わたしの視界は白く白く眩しくなり、そうしてだんだん黒く黒く真っ黒になってゆきました。
目が覚めると、頭が割れそうに痛く、なおゆきさんの白い部屋の大きな窓のわき、天蓋つきの大きなベッドにいて、誰か(とてもおしりのきれいな誰か)が裸でキッチンに立っているのが見えました。アイスノンが20個くらい枕元にちらばっていた。オカマの修羅場に巻き込まれたわたしはスケスケのネグリジェーを脱ぎ散らかして着替えると、首筋を触った。首の骨が「グキ」と鳴ったのだけは鮮明に記憶されていた。
わたしを殴ったのはモントリオールからやってきた体躯の大きな男で、スキーの選手だったという。おしりのきれいな誰かは、ほんとうに甲斐甲斐しく、立ち働いていた。お父さんの転勤でイギリスでの生活が長かったというその、おしりのきれいな誰かは、曇り空の似合う憂鬱な顔でとてもおいしいミルクティーをいれてくれた。そしてわたしたちのせいであなたには申し訳ないことをしたという旨のことを小さな音楽みたいな声で言った。
部屋の中にはおかしな機械みたいなものが一見乱雑に、しかしなにか一定の秩序をもっておかれていました。アンティークの香水壜が窓辺にたくさん飾られていて、やけに晴れた冬の日差しが香水をあたため、揮発のスピードと継続をゆるやかに促していました。
甘く甘く甘ったるく気怠い空気に満ちた部屋の中で、彫刻のようにしずかなうつくしい流線型を描くおしりだけが、何より優雅な存在として許されているおだやかな午後でした。
おしりのきれいな誰かに「あなたは誰か」と尋ねることはしませんでした。ただこんなひともいるし、あんなこともあるのだ。とだけ思うことにした。そして「二重振り子」では英国式のミルクティーが飲めることも。
選出作品
作品 - 20091222_362_4032p
- [佳] 英国式紅茶 - はなび (2009-12)
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英国式紅茶
はなび