もちろんそれがいつもキリンやクジラである必要なんてないし、肩口から入ってくる緩いカーブを打ち返す技術を君が身に付けていようといまいとそんなことは関係ない。君がアナコンダを首に巻き付けることによって誰も君のことを「イシュメイル」と呼んだりしないし、誰の鼻もとれたりしない。そもそも暴力やタルタルソースによって僕らを律する事など不可能なのだ。
戦車を買ったら家を失った、なんて良くある話。世の中には食べられないちくわもあるってことだ。それに土曜日の次の日が毎回決まって日曜日だからってそんなに悲しむことはない。今じゃそれが当たり前のようにトマトがキャベツとして売られる世の中なのだ。偽りのキリンの法則で作り上げた男女共同参画社会が全力で液化するアザラシを食い止めることができたとしても、僕らの不揃いな関係にやたらとチーズを挟みたがるおじいちゃんの治療費を払ってくれるなんてあり得ないし、それにバカだってカバにならない訳じゃない。君の見る鮮明な夢の中で繰り返し出されるチョキみたいにいつまでも同じチョキじゃいられない。もはや僕らに新鮮なチョキの感動なんて存在しないのだ。
たとえば憲法の保障する全てのバスケットボールに意味やメッセージがある、だなんて飛んだダンゴムシも良いところ。のらりくらりとジャブをかわしながら市長が向かって行くその先で困ったパンダが笹を食べ過ぎるからといって、無実のマヨネーズを青く染めあげるなんて事は不可能なのだ。たった一片のイマジネーションもなしに作られる途方もないショッピングセンターのために夜ごと悲しみを樽に注ぎ、優しい手つきでミドリガメをラップに包む、あのゴリラの母親に一体どんな生物的自覚を期待できるだろう? 君や君たちが、黄色いベッドの上で恋人や牛の心配をしている頃、夜空の全ての星座が流産したとしても僕らには僕らの愛があり、愛、そのものはアルカリ性の美しい肝臓のごとき輝きを決して失ったりはしないのだ。
もちろん難聴の目覚まし時計を克服することは難しい。夕暮れ、貯金箱の佇まいで不可能な帽子の可能性を感じながら双子と双子の間にあるべきゴルフクラブの不在を嘆く事ほど愚かなことはない。たとえそれが消費者の購買意欲を掻き立てたとしてもそのシロクマの入れ墨はけっして消えることはないし、限られたシステムキッチンで最大級の冒険をするには痙攣性の発作が不可欠なのだ。
巧みな金歯に惑わされてはいけない。仮に眼鏡をかけずに、その恐竜を倒せたとしてもそれは一時的な右折に過ぎず、本物の混迷状態から抜け出し、誰よりも正確なパスタをゆであげるのは未来を担う君たちなのだ。ありったけの想像力とユーモアで立ち向かえ。世界はおむつを取り替える時期に来ているし、僕らにはまだ語るべき言葉があるはずなのだ。
さあ、もう一度僕らの切り取られた切り取り線をつなぎ合わせて注意深く観察しよう。なんなら僕を強姦してくれても構わない。目下三連勝中の中国人によくありがちな、社交や、筋肉注射について、それが人生で得られた最大の教訓だったとしても、大通りを行くいくつもの傘の下では今も不誠実な舌が乱交目的でニーチェと同じ事を言っているとすれば、それを僕らは演劇的な方法を用いる代わりに、朝食のバターナイフで鮮やかにくりぬくやり方を学んだのだ。できる、できないではなく、やるか、やらないか、だ。君たちが君たちの訳の分からない動物園の訳の分からない殉教者となりはてる前に、もう一度よく考えて欲しい。もはや永遠に機能しない医者の介護に疲れはてた君たちの貴重な棒を棒に振るな。
選出作品
作品 - 20091214_210_4023p
- [佳] 暴力とタルタルソース - ヒダ・リテ (2009-12)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
暴力とタルタルソース
ヒダ・リテ