昼間は壁に染みて休息しています。壁ならなんでも良いというわけではありません。古い壁ほど染み込み易いし居心地が良いのです。たとえば築四・五十年以上経ったモルタルの壁とかコンクリートの擁壁とか・・・、近頃ではめったにお目にかかれませんが、旧家の土塀などは染み込み具合が最高ですね。それで、日が落ちてすっかり暗くなったのを見計らい、そろりと壁から染み出し、夜毎の夜歩きに出かけるのです。
もちろん明るいのは苦手ですから街の賑わいは迂回します。闇を求めて路地から路地へ、有刺線をくぐって空地を横切ったり、機械油のような硫黄のような臭いがのぼってくる掘割に沿うたり、工場裏の万年塀に沿うたり、人通りの少ない場所を択んで歩きます。橋の上ではよく一服します。窓明かりなんかが黒い水面でとろりとろり揺れているのを欄干にもたれていつまでも眺めます。私にもあるんですよ、そんな所でぼんやり想ってみたい来し方が。
塔の類、送電塔だの給水塔だの鐘楼だのは好きです。夜空に聳える黒い影を巡りながらときどき立ち止まっては見上げるのですが、考えてみれば私が夜空というものを見上げる機会はこんな時くらいしかないような気がします。つまりこれは私がいつも俯いていて、星とか月とか天体というものにまったく関心がないということの証左です。
角を曲がったところで歩を休め、行く手を見やると、暗い道の一隅が古ぼけた外灯にそこだけ丸くぼうと照らされていたりします。遠くから眺めながら、私はうっとりしますね。なんといいますか、そのささやかな蜜柑色の光の輪の中に不在の幸福というものを見るのです。いやおうもなく私はその場所へ向かいます。灯の周りを羽虫や蛾がひっきりなしに舞っているのを、何が面白いのかいつまでも見上げています。ただ、ただ、何ごともなく・・・、わかっていることですが。
闇を求めて歩くといっても、油断していると車のヘッドライトに顔を掃かれることが、ごく稀にあります。そんなときは、とっさに人の顔をします。世間の顔ということです。光が過ぎ去ればすぐ夜顔に戻りますが、その時のふたたび闇に深く吸われていく感じはうれしいものです。この夜、私だけが生きて動いている、そんな感じです、住宅の明るいあの窓この窓、窓の中の家族という泥人形、無花果の形した土気色のがん首たち、実に私だけが肉に血を奔らせ生きて動いている、そんな感じです。
私は木立のあいだの闇の奥の奥が無性に懐かしいのです。 夜の大気の水の匂いを嗅ぎわけられるのです。だとしたら私は獣になれるでしょうか。夜行のゆく手にたち現れる黒い物象どもを名付けたりしない、まして自分の名など呼んだりしない獣に。
夜が深まるにつれ、夜は捻られ、いびつになり、繁殖していきます。坂を上れば下る裏側を歩かされ、十字路を右に曲がれば、左に曲がっていく背がある、線路沿いを歩けば頭上の跨線橋を渡り、見知らぬ街を行けば向こうから見知った街をやってくる、私は複数を生きています。もはや異性という同伴者の存在は忘れました。どんな形だったか、匂いだったか、声だったか、忘れました。自分の陰茎を腫らすいとしい血も忘れました。しかし、そんなことがどうだというのでしょう。この巨大な都会で私は単独を択びながら、しかも夥しい数を生きているのですから。
やがて私は闇よりも濃い影になりおおせ、憑かれたようにさまよいます。このころになれば、このあてない一夜の旅を、何の意志か何の慰めかも問わず、被服と皮膚の狭間に燐のようなものを奔らせ、自分を歩き潰すまで歩きつづけるほかありません。昔、私が眠った酸っぱい寝床は夜空の見えない高みに吊られ、凍っているのでしょう。もうそんなところには還るわけにはいきますまい。さて、そろそろ空が白みはじめるようです。またどこか古壁を探すとしますか。
選出作品
作品 - 20090929_161_3821p
- [優] 夜歩き - 鈴屋 (2009-09)
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