選出作品

作品 - 20090610_922_3581p

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手の鳴るほうへ

  ひろかわ文緒


泡のない麦酒をのこして、父はもう戻らなかった。柱にぶらさがった縄も吐き出されたものも、知らないだれかに片付けられて私には西日の眩しい部屋と、ぬるい麦酒だけがのこされた。滑りのわるい桟をキリルルル、といわせながら窓をあけると、涼やかな風がはいり、震える、暦は既に七月を数えはじめる。

 ∞

窓辺のテーブルに砂のうすく積もる。中指でなぞると、跡にはまっすぐの線ができ、めくって視た指のはらには細かくひかる粒。海にちかい家の必然、溜め息をついて雑巾で拭う。線は消え、ひかる粒はただ、雑巾をよごした。
繰り返しなんだと、思う。
デジャヴを感じた瞬間に今日は昨日になり、昨日のなかでまた、思う「視たことが、あるここは、生きたことが、ある」、昨日はたちまち一昨日になる、そして、また一昨日は。
ひだりの薬指に指輪がはまっていて、ぬけない。けれど幾ら待っても夫らしき人どころか誰一人、家のドアをあけなかった。郵便受けには
エアメールが一日置きに届く。送り主は分からない、私に宛てたものなのかも、分からない。蟻のような文字列はもぞもぞ動き、すぐ別のアルファベットに変わるので、とても解読できそうになかったけれど、私にはそれが唯一の救いに思えた。手紙だけは、
きちんと机に積もっていったのだから。

 ∞

 おかあさん、きょうはおつきさまがおっきいねー
 今日はね、満月、なのよ
 まんげつ?
 そう、まんまるでしょう
 うん、まんまる、

交差点の赤信号の点滅、ゆっくり車は停止し、上目をつかいながら動きだす。と、トラックがスリップしてみぎから突っ込んでくる、「おかあさん」は咄嗟にハンドルをきるブレーキを、踏む間に合わない、摩擦が交錯する、タイヤ痕とタイヤ痕の、ぶつかる、

 かあさん、
 おかあさん、
 きょうはしんげつ、だよ
 もうずっとおつきさまは、みちないよ

 ∞

干からびていく水溜まり。
アメンボはくうる、くうると周遊する。これが
公転だ、と云う。
自転というのはもっと内で、心臓で、自動に行われているものだから、わたしの行うこれが公転なのだ、と、云う。軸だっていらない、わたしの誇らしい公転。周遊を繰り返しながら、
あなたには公転があるか、と訊ねてくる。)(公転は、
私の公転は、視えないんです、と答える、透明に、透明なほら、風が、吹く、でしょう? それが私の公転であって、風の吹かない日にはたとえば陽が、雨が、公転をしてわたしは軸として、かろうじて立っているんです。
何てすばらしい、アメンボはほほ笑んで、跳躍し、さらさらと夜に溶けていった。
水溜まりはなまぬるい風に、波立つ。
あ、あ
違う。待って、私に公転なんて、ない、嘘なのだ、公転の一部でさえも、ない、(軸なんかでは、とてもない、)私はただの石っころ、だった

 ∞

いい天気ですよいい天気になりますいい天気が続きますよずっといい天気ですずっと、ずううううっと、いい、天気です。
キャスターのお姉さんが爽やか、の後ろ、渇ききった湖の底を裸足で駆けていく、子どもたちの映像。
空は深く、雲ひとつない、なるほど、いい天気の。
映像のない木の陰でひどく背の曲がった長老はくねりくねり、と、雨を降らすには生け贄が必要だ、と杖を砂に突き立てた。
若者は叫ぶ、
生け贄を用意しろー
誰でもいい、誰でもいいやつを、連れてくるんだ、早く
雨を降らせよ、
降れ
「降れ」

 ∞

庭へ、出る。
蛙は空に帰るように鳴き、
稲は葉をすりあわせながら育ち、
そうして時間が過ぎるのに耳を澄ます。
澄まされている暗闇のなかで白い
(白昼の下ではきっと薄紅色の、)
アジサイにそうっと、鼻を近づける。

雨の、匂いが。

ぱち ぱち と、まばらに手の鳴る音、
この陸はもうじき海に
まばゆい海に、あふれていく。