選出作品

作品 - 20090404_850_3439p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


「ミドリさんがやってくるわよ!」

  ミドリ

風見鶏が緑色のカラーベストの屋根の上で、くるくると回っている。なだらかな勾配の屋根の上で、三毛猫が一匹寝そべっていて、陽はとっくに空の一番高い場所で、燦々と中庭の緑の芝生を照らしつけている。ぼくらはこの街で一番の名士であるクジラ氏と会食をしていた。話題はおそろしく多岐にわたり、ここでそのすべてを紹介することは難しいかもしれない。ぼくらはカベルネ・ソーヴィニヨンを酌み交わし、ワインについての話題は特に興が乗ったものになった。いうまでもなくカベルネ・ソーヴィニヨンはボルドー地方を代表する高級種であり、そのスパイシーな香りとバランスの取れた酸味と渋味が味わい深いワインを生み出す。とりわけクジラ氏はワインの歴史に造詣が深く、世界中に12のワイナリーを所有し、その品質管理にも尽力してきた人物だ。彼はその大きなお腹を揺すりながら、ワインは非常にデリケートな酒であり、高温や温度差の激しい場所に置くと風味が低下するなどと語り、これを彼一流のウィットでこう結んだ。「ワインの様なデリケートな人間に政治はできやしない。それは恋愛だとて同じことだよ」例によって彼は大きなお腹を膨らまし、馬鹿でかい声を張り上げて笑った。それはまるでこの見上げる様な青い空を、丸ごと包んでしまう錯覚さえおぼえる様なブルブルとした振動を響かせ、ぼくらの鼓膜を劈いた。またクジラ氏が愛犬家であることが話題になった時、彼は人間にとって一番大事なことは忠誠心であり、犬は完璧なまでにその美徳を備えていると言い切った。ぼくらの中で一番年若い青年が、不満気にその意見に異議を唱えると、彼は咥えていた葉巻の火をボウと膨らまし、その青年に逆にこう問いかけたのだ。「では君にとって君に反対するものは敵ではないのかね?」青年は戸惑いを見せた後、少し間をおいてからクジラ氏に向き直りこう切り返した。「昨日の淵は今日の瀬という歌があります。ぼくは反対するものの意見にこそ学ぶべき教訓がある考えますよ」そういい終えると彼はグラスの中のワインを一気に飲み干した。ぼくらの中には若輩者の甘い考えだと笑うものや、「今日の情は明日の仇って言葉もあるぜ」などと「ヒュー」という甲高い手笛とともに失笑するものさえいたが、クジラ氏は満足そうにフォークをローストビーフに直角に突き立てると、豪快に口の中に押し込んだ。そして彼は、誰彼に問うこともなしに、「危険なやつだ!」そう言ってまた豪快に笑うのだ。ところでぼくらの街ではある問題が市民の暮らしを脅かしていた。ちょうど今から5年前の6月21日の話だ。ぼくは勤め先である第九区街の目抜き通りをオフィスに向かって車を走らせていた。その日は大きな商談があった。ぼくは朝からソワソワし、鏡の前で3度もネクタイを結び損ねるほどナーバスになっていた。それもその筈で、約3年がかりで進めていた交渉が、成約するかしないかが決まる日にあたっていたわけだから、その日のことはよく覚えている。出社したのは7時半のことで、ビルの管理会社の男が駐車場の車止め脇にある、ささやかな花壇に緑色のホースを使って放水していた。「おはようございます」ぼくはいつも通りの挨拶をした。だが、男が不思議そうな顔をしてぼくの顔をマジマジと見るので、思わず立ち止まり。「今日は晴れるそうですね。いや、最近の天気予報はあんまり当てになりませんけど・・」などと当たり障りの無い会話を向けると、彼はこのぼくに向かって、驚くべきことを口にしたのだ。

       ∞                      


そしてこの日以来、ぼくらの街は全てが変ってしまったのだ。この「全て」。という言葉を、この言葉をこれを読む我が最愛の読者諸君は、文字通りの意味として受け止めて欲しい。なにしろ。何一つ昔の姿を残すものものなく、あらゆるものが、一気に全てを飲みつくしてしまうあの恐ろしい天変地異の様に姿を変えてしまったのだ。この街の事件は、あまり世界では知られてはいないらしい。数年前。とある外国のジャーナリストと名乗る女性が(仮にここではモニカ氏としておく)がこの街に一度取材に来たことがある。その時、彼女に最初に対応したのが、前述したクジラ氏であった。その内容はこのようなものである。

       ∞

クジラ氏「あなたは信じないかもしれないが、これは事実である」
モニカ氏「”事実”の同定は私たち仕事であり、あなたたちの主張ではない」
クジラ氏「我々は”主張”するものではない。事実はあなたの目で見て欲しい」
モニカ氏「あなたたちは”隠して”いる!」
クジラ氏「何一つ隠し立てはしていない。あなたに真実を直視する勇気がないというだけの話だ!」  


注記:上記の会話はクジラ氏の(※当時)秘書の議事録から一部を抜粋したものである。尚、転載についてはクジラ氏の  
   同意を得たのもであり、この場を借り、改めてクジラ氏に謝意と感謝の意を捧げる。
   
                
   
     ミドリ(著)「ミドリさんがやってくるわよ!」(株)文学極道
                   2012年6月21日第一刷発行