選出作品

作品 - 20080929_702_3048p

  • [佳]  鉄輪 - 右肩良久  (2008-09)

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鉄輪

  右肩良久

 お前は邪悪な娘だからね。眼を細めて迷いなく腹を刺すんだよ。自分を女の子だなんて思わなくていい。結構な力が出るよ。そいつが悲鳴を上げたぶん、それだけお前は気持ちよくなるからね。嬉しくてにやにや笑うのさ。唇だけになった顔で。倒したら馬乗りになって踊るようにまた刺そう。どうせならそのままそいつの眼を抉っちゃおうか。瞼を切り落としてから眼球をくじるとうまく丸いのが出てくるけど、そんなことこだわるなよ。ちゃっちゃっとやっちまったほうが快感が脳まで登ってくるのが早いからな。それが終わったら、だ。血がべとべとするのを喜びながら、頭の皮を剥がせよ。「でっかいメロン」の歌を即興で作りながらかつ歌え。楽しく歌え。次には肺から空気を抜くことにする。肋骨と肋骨の間に、横向きに寝かせた刃をすっと入れるぞ。吹き出した鮮血と空気の奔流をだな、お前はお前の顔に浴びる。目も口も開いたまま浴びる。それからどうだ、そいつのポケットから携帯を抜き出して、メールとかさ、声に出して読んでやれよ。「今日、あんなこと言われてちょっとうるっときちゃったよ」とか「今夜は食べてから帰るよ。迎えヨロシク。駅からtelする」とかきっと書いてあるからね。甲高い声で笑ってやれよ。それから後は、もうどうでもいい。心臓とかはうっちゃって置こう。お前は全裸になって商店街へ飛び出せ。
 解放されるんだよ。恍惚として涙が出るんだよ。「ワタクシはカミである」とか叫んでみるか?いかにもいかにも馬鹿臭くて愉快だなあ。まったく君は大活躍だね。
 でもまだいい。まだいいから。今は静かにおやすみ……。

 私は十日前の月曜日に、JRの貨物基地の奧へ連れ込まれ、停まっている貨車の鉄輪に身体を押しつけられて、誰かにこんな暗示を掛けられたのだ。暗示を掛けた人の顔は思い出せない。夢で見る時にも恐ろしくて眼を上げられないから、たぶんもう二度と思い出せない。私のコートのポケットには、今も裏蓋に蛇の線刻がある銀側の懐中時計が入っている。あいつが入れたのだ。この時計が何日後かに、何時かを指したら暗示が発動してしまう。私はそれがいつかを知らされていないが、確実なことだ。その証拠に私は毎日、何回も時計を取り出して蓋を開け、時間を確かめる。秒針の音を聞く。
 御徒町の裏路地のショップで三日月型に反り返ったナイフを買ったときには、下半身から昇る性的な快感にうずうずと脊髄を震わされた。声が出そうになるほど、喜びに濡れて……。この興奮は店を出ると途端に冷めた。風音と生臭いカラスの叫びで二月の空は隙間なく満たされていた。温かいものを飲みたくても小銭の一枚も残っていない。道には誰もいなかったが暗い光の中、あいつの残像が薄赤い影になって私のすぐ横に立っていた。今もおそらく立っている。
 それからというもの私は顔を真っ直ぐに向けたままで暮らしている。右にも左にもどうしても動かせない。時々、肩の上でゴキブリがカサコソと音を立てる。それでも顔を横に向けられない。
 通勤の駅のホームに立って、正面のビルの電光掲示板を見る。このごろニュースのテロップの中に、人の轢死の記事が頻繁に混じるようになった。毎日、必ず一本はある。私は覚えていないが、子どもの頃一緒に轢死事故の現場を見たことがある、と亡くなった父から教えられた。だからかどうか、記事を目にすると、鼻の奥に生臭い酸化鉄のにおいが溜まる。急ブレーキで鉄輪のきしる音が聞こえる。心臓が高鳴り膝が震えてくる。それなのに私はニュースで読む轢死者の名前と年齢を一字一句間違えずに覚えてしまう。それが消えない記憶として堆積し続ける。あの暗示を受けた日からだ。
 ホームに立って列車を待つ大勢の人々はみんな、やがて私が恐ろしい殺人鬼と化すことを知っている。血まみれになって、抑えきれない興奮に高笑いすることを。全裸で飛び出すのなら、せめて裸を美しく見せようと、あれから私が値段の高いボディソープを使い、毎夜ダンベルを振っていることも。
 悲劇が起こる前に私を殺してしまおうとする人も出てくる。今日も香水の強い中年の女から、列車が入るホームの端で背中を押された。あの女に違いない。かろうじて踏みとどまると、後ろで舌打ちの音がした。当然誰もが知らぬ振りをしているのがわかる。私は振り向くどころか隣の人へ顔を向けてみることもできないけれど。

 どうしようもない。しかたがない。列車はどんなに急制動をかけても走り続ける、鉄輪とレールの間に火花を散らして。固く軋んで、巨大な力が働く。暗示は行くところまで行かないと絶対に解けない。悩ましい。私はスターバックスの片隅でコーヒーを飲みながら「でっかいメロン」の歌を呟くように歌う。
 めろめろメロン、虫の息
 すやすや子猫、お尻小さな子猫たち
 だけど、でっかいメロン、でっかいメロン
 ふたつに割られて、あおいきといき
 お汁こぼれてびしょびしょに
 猫さんまあるくねむんなさい
 首が取れてもねむんなさい
どうせ、私が殺人鬼になって歌うときには歌詞もメロディも違っているだろう。それはよくわかっているけれどやめられない。やめてやめてと心の中であらがってもみるけれど、やめられないで歌っている。私の歌声は小さくてか細くて、ひょっとしたらかなり美しいかも知れない。しかし。

 わたしはもうすぐわたしでなくなる。だからこのうた、にばんはあなたがつくりなさい。