一夜
若いつぐみの屍が 勝手口に上がる踏み石の上に 抜け落ちた蒼い
梅の実と一緒に 載っていて、発育不良な蟻が つぐみの脚につま
ずきながら 五、六匹忙しげに働いている。台風4号が去って行っ
たあと 庭の雑草の葉先は 一様に北北東に傾き、一瞬 見てはな
らない方角に 顔を手向けてしまった胸騒ぎが 過って、無色無臭
の大気が 大人しく大人しく 揺らいでいる。
二夜
夕暮れの色に春が染まり 二ヵ月前に植えたアマリリスの球根が
花茎を伸ばしていて、やぶけた蕾から 横向きに礼をした 花たち
が出だした。刈り過ぎて 他所よりも二週間ほど遅れて 狂い咲き
した梅の木の 枝という枝に 実が数個かたまって纏わりつき、転
がる雪の玉が大人になる速度で 成長して行くものだから、尻すも
うに負けた果実が 糸を張った蜘蛛もろとも 落下し出した。
三夜
枇杷色に化粧した下弦の月が 東方の空壁に 仕掛けられていて、
地上の大抵の静物よりも遠くにあるはずなのに 今日はよく透き通
る夜半の下り坂を ゆっくりと歩いて来るのだった。使い回されず
に済んだ白いバニラアイスクリームと 使い回されようとしている
胡瓜と小茄子とラディシュの粕漬けが、船場吉兆の冷凍庫とチルド
室の中で起きだして、虚実皮膜論を語り合っているのだった。
四夜
ぼんやりと色付き始めた 初雪蔓の影が 昨夜から降り続く雨の溜
まりに 浮いていて、伸びすぎた松の新芽を 見上げながら 震え
ていた。クロネコヤマトの兄さんが U字溝埋め立て工事の まだ
終わっていない市道を 走り去った午後、ネットで買った5L綿た
っぷりブラキャミソールを いつまでもうれしそうに手に取ってい
る 妻の姿があって、父の死を知らせる電話が ずっと鳴っていた。
五夜
須雲川の水かさが急激に増したのは ビルマにナルギスが上陸した
二週間後のことで、西湘バイパスに 高波が押し寄せ 多くのサー
ファー達が波に浚われたのだった。露天岩風呂に流れ込む湯はぬる
く 肩にタオルを当てて半身浴していると、イキノコッタダケデモ
シアワセダトオモイナサイ、テンガロンハットを被った 全裸のマ
ダムが お洒落なメガネを陰毛で拭きながら 入って来たのだった。
六夜
ママの広場で買った寿司茶を飲み 豊島屋の鳩サブレーを頂き メ
ビウスの輪に中央線を書き込んでいたら、面なしメビウスが現われ
て心情告白した。面にたよって ばかりもいられないので 矢は線
の軌跡を足場にして やっぱり 急には方向転換できないから、ま
してや 中央線をふみこえるなんぞ とっても とてもかなわんわ、
そうなんだって そうかひと筆書きだもね うん納得した。
七夜
白米と塩だけで 飯を握る あと一晩寝ると夏が来るとは とうて
い思えないのだが、額紫陽花のつぼみが 白味を増して すでに衣
替えを 終えている。義援金箱の傍に一円玉が なんの自己主張す
ることもなく こぼれていて、自分の一生分の重みよりも重要であ
るかのように 小銭にもならぬ 重さ1g足らずの塵芥を 汗ばん
だ指でぎこちなく掴み、初老の男が ポケットに仕舞い込んでいる。
選出作品
作品 - 20080602_480_2804p
- [佳] 八十八夜語り ー晩春ー - 吉井 (2008-06)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
八十八夜語り ー晩春ー
吉井